コミンテルン型共産主義運動の現状
ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
(宮地作成)
〔目次〕
1、ヨーロッパの発達した資本主義国における転換、終焉の3つの段階
2、ヨーロッパ各国、各党の終焉の経過と現状 (表1)
プロレタリア独裁放棄、民主主義的中央集権制放棄、M・L主義放棄だが
ポルトガル共産党の経緯と現在−民主主義的中央集権制堅持
スペイン共産党・統一左翼−2008年総選挙で5議席→2議席に大敗
3、アジアでの4党の生き残りとその現状 (表2)
1)、主体的要因
2)、客観的、地政学的要因
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『イタリア左翼民主党の規約を読む』左翼民主党規約の全文添付
アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』
福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『党史上初めて対案提出』2003年
柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回
『綱領全面改定における不破哲三の4面相』綱領改定案と討論・代議員選出
(1)1989年6月の天安門事件、(2)同年12月からの東欧革命、(3)その後1991年ソ連崩壊という激動が続いた。その前後で、発達した資本主義国でのコミンテルン型共産主義運動を含めると、運動全体の地政学的な分布図が浮かび上がってくる。そのヨーロッパでの終焉に対して、なぜアジアの4党が生き残っているのか。その原因を中心に考えてみたい。
1、ヨーロッパの発達した資本主義国における転換、終焉の3段階
各共産党で、その段階も、崩壊形態も様々であるが、レーニン主義の放棄には一定の、共通した段階がある。
第1段階、レーニンの革命戦略・戦術論、および国家論を最初に放棄
まず暴力革命、武装蜂起を完全に放棄し、平和移行路線に転換した。これは、マルクス、レーニンが例外的なケースとしてその可能性を言及していた。それにしても、革命基本路線上の戦略・戦術転換である。「敵の出方論」は、暴力革命路線の一つだが、それも完全放棄した。
その放棄は、同時に議会を通じての革命として、ブルジョア議会主義=ブルジョア民主主義を認めるものだった。レーニンのプロレタリア民主主義優位性論を全面否定し、プロレタリアート独裁理論、レーニンの国家論の放棄に連なるものとなった。
この革命路線上でのレーニン主義の放棄は、1970年代にほとんどのヨーロッパの党で行われた。プロレタリアート独裁理論は、ポルトガル共産党が最初に放棄した。フランス共産党は1976年第22回大会で放棄した。21世紀現在において、一定の政治勢力をもつ資本主義国共産党の中で、「敵の出方論」を隠蔽・堅持し、かつ、プロレタリアート独裁理論を「プロレタリアート執権」訳語→「労働者階級の権力」→削除・隠蔽に変更して公然と堅持しているのは、日本共産党だけになった。
第2段階、前衛党組織論の放棄へ必然的に進展
レーニンの前衛党組織論、なかでも暴力革命、武装蜂起による権力奪取路線に不可分な組織原則としての民主主義的中央集権制=事実上の軍事的集権制については、暴力革命路線を放棄する以上、その組織原則も大転換させるのは当然の成り行きだった。
そこで時期は様々ながら、民主主義的中央集権制=Democratic Centralismの放棄が、各党でなされた。1989年イタリア共産党、1991年スペイン共産党、1995年フランス共産党が、「その組織原則は、党内民主主義を抑圧した。根本的な誤りだった」と明確な事実認定をし、それを次々と放棄した。最初の第1段階が、東欧革命の前の1970年代に行われたのに対し、この段階は東欧革命の影響を直接的に受けた時期のものである。
21世紀現在、一定の政治勢力をもつ資本主義国共産党の中で、民主主義的中央集権制を堅持しているのは、日本共産党とポルトガル共産党の2党だけになっている。
第3段階、コミンテルン型共産主義そのものの放棄としての解党、転換、党分裂
ただし、民主主義的中央集権制の放棄を経ずに、解党になった党もある。かくして現時点では、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリアでは、いわゆるレーニン主義型共産党はない。スペイン、フランスに共産党があり、イタリアに共産主義再建党はある。しかし、いずれも民主主義的中央集権制を放棄している。それは、レーニンが断定した「共産党であるかどうかの試金石」を廃棄したことを意味する。よって、これら3党も、もはやレーニン主義型共産党ではない。ポルトガル、アイルランド2国にDemocratic Centralism型共産党が残っているだけである。
ヨーロッパでの運動といっても、ソ連型社会主義、ユーゴ型社会主義、発達した資本主義国での運動があり、それぞれの中にも様々な相違があるが、3つのいずれもが、終焉を迎えた、または迎えつつあるといえよう。
1)、ソ連型社会主義…ソ連、モンゴル、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、チェコ、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの9カ国
すべて崩壊した。旧共産党系政党は残っているが、ロシア以外では社会民主主義的政党に変化している。ロシア共産党は、スターリン主義的・民族主義的色彩が強い。東ドイツの政権党・社会主義統一党は、民主主義的社会主義党に名称変更したが、改革派グループとスターリン主義者のグループを含んでいる。
統一後のドイツでは、2005年の総選挙において、旧社会主義統一党が転換した左翼党と西ドイツ側政党の離党した一部が、統一名簿を作って、2議席→54議席に躍進した。転換の経過、スターリン主義体質の自己批判、その後の問題について、初めての研究論文が発表された。
柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』2005年の総選挙
2)、ユーゴ型社会主義…ユーゴスラビア、自主管理型という意味での区分だが、ソ連型との共通性は多い。
崩壊後の民族対立激化の中で、旧共産主義者同盟のかげも見えてこない。
3)、発達した資本主義国での運動…ユーロコミュニズムといわれた諸党
(1)、解党
イギリス 1991年の解党のときに、「民主左翼(Democratic
Left)」への移行も決められたが、この組織も1999年に解散した。正確には、イングランドとウェールズの民主左翼が解散した。スコットランドは、「スコットランド民主左翼」が現存している。
イギリス共産党(CPGB)は1991年に解党したが、その前の1989年には、解党の動きに反対する勢力がイギリス共産党(CPB)を結成し、現存している。党員数約1000人で、協同組合が発行している日刊の「モーニングスター」紙(約6000部)は、事実上、「党機関紙」に近い。
反戦運動などでは、組織勢力とは不釣り合いなくらい影響力はもっている。イラク反戦運動をリードしてきている「戦争ストップ連合」(STWC)の議長のアンドルー・マーレイ氏は労組の専従役員だが、このCPBの党員である。
別の一部はイギリス労働党に参加し、そのブレーンとなっている。
オランダ 解党して、緑の党・エコロジストと合同し、「緑の左翼・グリーンレフトパーティ」になった。部分的に都市単位で、オランダ共産党を名乗っている所もある。
ベルギー 実質的な解党状態にある。1980年代半ばに国会議員なくなる。総選挙でも立候補せず、党機関紙も廃刊になった。
(2)、転換
イタリア
1976年、大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄した。
1986年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。
1989年、第18回大会、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。
1991年、第21回大会、左翼民主党に転換した。同年12月、少数派が共産主義再建党を結成した。
1996年、総選挙で中道左派連合政権が誕生した。左翼民主党21%、共産主義再建党8.6%の得票率で、「オリーブの木」全体では、319議席を獲得した。
1997年、第2回党大会における党員数は68万人で、このうち女性党員が28.5%を占める。
『イタリア左翼民主党の規約を読む』左翼民主党規約の全文添付
スウェーデン、フィンランド ソ連・東欧共産党の失敗は、共産主義運動自体の失敗であるとして、非共産党的左翼に転換した。
スペイン
1983年、親ソ派、カリリョ派、ユーロコミュニズムを党内民主主義の徹底化にまで深化させることを主張する新世代派に3分裂した。
1989年、その後の再建活動の中で選挙ブロックとしての統一左翼を結成する。その年の総選挙で統一左翼は9.13%を獲得した。
1993年、総選挙では9.57%獲得した。
1991年、民主主義的中央集権制を放棄した。
2000年3月、総選挙で、統一左翼は1996年の21議席から8議席に後退、大敗した。
2008年3月、総選挙で、統一左翼は1996年21議席→2000年8議席に、その後5議席になり、2008年は下院350議席中3議席を減らし、2議席に後退、大敗した。上院208議席中、前回に続き議席0だった。
(4)、「プロレタリア独裁」理論放棄、民主主義的中央集権制放棄、マルクス・レーニン主義放棄−まだ、共産党名維持
フランス
1976年、第22回大会で「プロレタリア独裁」理論を放棄した。
1985年、第25回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなる。
1994年、第28回大会で、民主主義的中央集権制・分派禁止規定を放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、「民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」と自己批判した。
ソ連崩壊の数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。
1996年、第29回大会で、「ミュタシオン」(変化)を提唱し、党改革を図る。
2000年3月、第30回大会で、一層の改革を進めるため、7つテキストを決定し、それへの党員の意見表明は3万人以上に上った。
2003年4月、第32回大会で、党史上初めて対案が提出され、45%の支持を得た。党改革派が主流だが、反対は2派で、党改革への異議提出派である。
選挙では、2002年6月、総選挙第1回得票率は、4.91%だった。それは、1981年総選挙得票率16.13%の3分の1以下であり、1997年総選挙得票率9.88%の半分に激減した。フランス下院議席は、35議席から、21議席に減った。これらの結果は、「ルペン問題」の影響があったとはいえ、フランス共産党史上最大の敗北だった。07年6月、下院議席は21→18議席へとさらに減った。
2007年春、大統領選挙でビュフェ議長は、70万7268票、得票率1.93%で党史上最低だった。それは、1981年大統領選挙得票率16.13%の8分の1以下への激減だった。
党員数は、1979年76万864人、96年27万4000人、98年21万人、99年18万3878人、2001年13万8756人、03年13万3200人、04年12万5000人へと、一貫した党員減退を続けている。06年は13万4000人へと微増した。党費納入党員数=党員証交付数でほぼ毎年公表するので、1979年と比べ、党員62万6864人・81.6%がフランス共産党から離党した。18.4%党員しか残っていない。
党員数−『ル・モンド』記事の間違いか? (81年公表71万人→現在公表10万人なら、61万人・86%が離党?)
フランス共産党の公表党員数は、1979年76万864人、81年71万人、96年27万4000人、98年21万人、99年18万3878人、2001年13万8756人、03年13万3200人、04年12万5000人へと、一貫した党員減退を続けている。06年は13万4000人へと微増した。党費納入党員数=党員証交付数でほぼ毎年公表するので、1979年と比べ、06年までに党員62万6864人・81.6%がフランス共産党から離党した。18.4%党員しか残っていない。
ル・モンド記事のように、2010年12月現在、フランス共産党公表で党員数10万人に激減している。その記事によれば、30年間で4分の3が離党したとなっている。それなら、数字が明確でないが、1981年には40万人がいたことになる。81年の公表党員数は、71万人である。ル・モンド記事の30年間で4分の3が離党というデータは間違っているのかもしれない。
〔『ル・モンド』の間違い1?〕、30年間でなく→20年間の間違い
30年前の1981年の公表党員数は、71万人である。2010年の公表党員数は、10万人である。いずれも、公表数なので、正確である。30年間とすれば、1981年から2010年までに、71万人−10万人≒約61万人が大量離党したのが真相ではなかろうか。その数値なら、4分の3が離党というデータにならない。もし、4分の3が離党というデータが正しいのなら、40万人→現在10万人で、30万人が離党したという数値になる。40万人時点は、公表党員数がないが、20年前の1991年だったのではなかろうか。
〔『ル・モンド』の間違い2?〕、4分の3が離党でなく→7分の6が離党・85.9%離党の間違い
30年間の離党数となると、離党61万人÷1881年71万人≒85.9%が離党になる。7分の6が離党というデータになる。フランス共産党は、離党届・党費納入拒否党員すべてを、自動的に離党処理=党籍抹消をしてきた。20年前の1991年党員数については、フランス共産党HPにアクセスし、直接問い合わせするしかないが。
フランス共産党は、2013年2月第36回大会を開いた。党員数13万人と報告された。全国書記にピエール・ローランを再選した。
Wikipedia『フランス共産党』 HP『フランス共産党』
日本共産党のように幽霊党員15万人を含めた在籍党員数公表ではない。フランス共産党のような公表スタイルにすれば、日本共産党の党員数は、07年5中総志位の党費納入率約63%報告からの計算では、25万人になる。15万人・37%は、党費納入拒否・行方不明と、党機関により離党申請の拒否・握り潰しをされた架空党員数である。志位・市田・不破らは、党大会ごとに、よくぞ、幽霊党員15万人込みの水増し決算報告をするものだと、その厚かましさに感心し、かつ、その臆病な真相隠蔽ぶりに哀れさを抱く。
機関紙「ユマニテ」は、第二次大戦直後は40万部あった。しかし、60年代から80年代まで、15万部、1997年では、6万部、2001年は4万5千部に減少している。05年は5万1639部に増えたが、増収になっていない。週末版(日曜版)8万部がある。
財政危機・破綻も深刻になっている。ル・モンド記事などによると、2001年ユマニテの累積赤字は5000万フラン・約8億円になった。04年赤字が270万ユーロ・約4億2660万円で、05年が赤字300万ユーロ・約4億7400万円だった。2001年5月18日のユマニテ再建計画は、民間企業3社の出資を受けることを決定した。(1)出版社アシェット社、(2)放送局TF1、(3)ケス=デパルニュ銀行の3社から、資本金の20%を出してもらって、発行を存続する。それらは、左翼系の会社ではない。さらに、ユマニテ記者・社員190人中、50人をリストラで解雇する。
これら、選挙、党員数、機関紙、財政危機・破綻のデータ全体は何を示しているのか。それは、レーニン型前衛党5原則の3つを放棄しても、共産党名=うぬぼれた前衛党体質を維持し続ける限り、フランス共産党のじり貧的瓦解を食い止めることが、もはや出来ないことを証明している。
アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』
福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『党史上初めて対案提出』2003年
(5)、民主主義的中央集権制維持。ソ連崩壊後、追随の反省なし
ポルトガル
1974年12月、党大会で、ヨーロッパの共産党他党に先駆け、もっとも早く「プロレタリア独裁理論」を削除・放棄した。
1980年、総選挙で共産党41議席。
1987年、総選挙で共産党議席3分の2に減らす。
1991年、総選挙で8.8%得票したが、十数年で半減している。議席も前回選挙からほぼ半減した。
1992年、第14回大会では、1989年の党大会より党員が数万人減って、16万人になった。ソ連崩壊を「世界の労働者と人民の巨大な損失」とし、マルクス・レーニン主義を堅持している。
2005年、総選挙で、共産党・緑の党による「統一民主同盟」ブロックの14議席。得票率前回8.75%→7.57%に下落。
2006年、大統領選挙で共産党の得票率1991年13%→8.6%に下落。
2008年1月、共産党1980年41議席→12議席に激減。
Wikipedia『ポルトガル共産党』
21世紀、資本主義国の共産党で、日本共産党とポルトガル共産党の2党だけが、Democratic Centralismという党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則を堅持している。日本共産党は、1980年赤旗355万部をピークとし、2007年147万部に激減し、208万人、58.6%読者が、共産党から大量離脱・逃散した。日本共産党も、1979年総選挙41議席→2005年9議席へと激減した。
党勢力・総選挙議席数激減推移と犯罪的組織原則堅持などで、2党にはかなりの類似性がある。それは、党内民主主義抑圧政党が歯止めのないじり貧的瓦解をすることを、もはや食い止められない共通傾向と規定できよう。
『日本共産党の党勢力、その見方考え方』じり貧的瓦解データ
アイルランド ほとんど影響力をもっていない。党が分裂して、現在は国会の議席がゼロになっている。
ヨーロッパと日本とで、レーニン認識・「十月革命」認識内容は、1960年代まで同じだった。レーニンは偉大なマルクス主義革命家であり、大十月社会主義革命を成功させた世界的な英雄だった。「レーニンによるクーデター」説など見向きもされなかった。しかし、1980年代以降、その認識格差が決定的に異なってきた。レーニン型前衛党の基準・原理はいくつかある。その内、なぜ、5項目に絞って、世界のコミンテルン型共産党における放棄・堅持の度合の違いを調べる必要があるのか。
なぜなら、それらの基準・原理を全面的に放棄した共産党は、「レーニンが10月24・25日(新暦11月7日)にしたことは、革命でなく、一党独裁ねらいのクーデター」だったこと、および、「レーニンのその後の路線・政策も誤りだった」として、レーニン・ボリシェヴィキの路線・政策を全面的に否定・廃棄する政党に大転換したことを意味するからである。調査対象の共産党は、国会議員など一定の政治勢力を持つ政党とする。インド共産党とソ連崩壊後の現ロシア共産党は、実態がつかめないので除いた。
資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。よって、5つの基準・原理のすべてを、「訳語変更、略語方式、隠蔽方式」にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。
(表1) レーニン型前衛党の崩壊過程と度合
プロレタリア独裁理論 |
民主主義的中央集権制 |
前衛党概念 |
マルクス・レーニン主義 |
政党形態 |
|
イタリア |
´76放棄 |
´89放棄 |
放棄 |
放棄 |
´91左翼民主党 |
イギリス |
解党 |
解党 |
解党 |
解党 |
´91解党 |
スペイン |
´70前半放棄 |
´91放棄 |
放棄 |
放棄 |
´83に3分裂 |
フランス |
´76放棄 |
´94放棄 |
? |
´94放棄 |
共産党名 |
旧東欧9カ国 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
´89崩壊 |
旧ソ連 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
´91崩壊 |
ポルトガル |
‘74放棄 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
日本 |
訳語変更堅持 |
略語で堅持 |
隠蔽・堅持 |
訳語変更堅持 |
共産党名 |
中国 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
ベトナム |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
北朝鮮 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
朝鮮労働党 |
キューバ |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
この(表1)において、レーニン型前衛党が大転換・解党・分裂・崩壊したソ連・東欧・資本主義国を含むヨーロッパ全域では、20世紀末以降で、一般国民や左翼勢力のほとんどが、次のレベルの認識を持つに至ったと言えよう。それは、「1917年10月、レーニンがしたことは、革命ではなく、一党独裁狙いの権力奪取クーデターだった」、「4000万人粛清犯罪者のスターリンだけでなく、レーニン自身がクーデター政権を維持するために、ロシア革命勢力数十万人を赤色テロルで殺害した大量殺人犯罪者だった」とする「十月革命」認識内容がほぼ常識になった。そのような国民・左翼の劇的な認識転換・強烈な圧力を受けなければ、レーニン型前衛党がかくも脆く、いっせいに崩壊しなかったであろう。
アジアでは、3カ国の社会主義国共産党、労働党と、日本共産党が崩壊せずに、残っている。マルクス主義発生の地ヨーロッパで終焉を迎えているのに、はるか東方の地域で生き残るというのは、地政学上でも、思想史上でも、興味深い現象である。
1)、アジア型社会主義(アジアで生き残っているという意味での仮称。キューバは除く)
中国 一党独裁を強化し、社会主義市場経済、開放経済政策を採用している。香港返還が、その体制にどのような影響を与えるのかが注目される。「法輪功」弾圧は、一党独裁システムの限界と矛盾を示している。2004年7月3日付「中日新聞」によると中国各紙が3日、中国共産党組織部の最新統計として同党の党員数は6800万人を超えたと発表した。女性は1235万人(全体の18%)で、少数民族は432万人(同6.3%)。大学生の入党など、党や政府への就職を望む高学歴者の入党が増加しているという。
ベトナム 一党独裁を堅持し、ドイモイ(刷新)で開放経済政策を行っている。
北朝鮮 社会主義国初の世襲制で、一党独裁、情報・思想統制を異常なまでに強化しつつ、ソ連、中国との国境地帯の経済開放を模索している。指導者層の亡命続出、食糧危機をふくめ、体制自体が崩壊寸前の危機的状況にある。
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮型社会主義の7つの特殊性
2)、発達した資本主義国での運動
日本 民主主義的中央集権制を堅持している。自主独立型であるが、ソ連、中国、北朝鮮、ユーロコミュニズムとも決裂した。現在「友党」といえる党は一つもない。
ユーロコミュニズムとは、1970年代の急接近を経て、1989年のイタリア共産党の民主主義的中央集権制放棄への公然批判以降決裂した。
東欧革命前では、ルーマニア共産党と「自主独立」という面で友党関係を持ち、宮本議長も2回訪問して、チャウシェスク賛美、ルーマニア社会主義賛美の声明や談話を発表した。崩壊後は、その誤りや自己の個人責任を強弁で回避した。
1997年以降、中国共産党側との関係改善をした。 2000年第22回大会には、中国共産党、ベトナム共産党、キューバ共産党、朝鮮労働党「代理人」の朝鮮総連が参加し、メッセージを寄せた。朝鮮総連の党大会招待・参加は、朝鮮労働党との実質的な関係改善である。そこで、42年ぶりの規約全面改定をしたが、民主集中制を堅持し、前衛党概念を隠蔽堅持した。
(表2) 日本共産党の欺瞞的な4項目隠蔽・堅持方式
4つの原理 |
欺瞞的な隠蔽・堅持方式 |
他国共産党との比較 |
プロレタリア独裁理論 |
綱領において、訳語変更の連続による隠蔽・堅持。(1)プロレタリア独裁→(2)プロレタリアのディクタトゥーラ→(3)プロレタリアートの執権→(4)労働者階級の権力→(5)放棄宣言をしないままで、綱領から権力用語を抹殺し、隠蔽・堅持している |
ヨーロッパでは、1970年代、ポルトガル共産党を筆頭として、100%の共産党が、これは犯罪的な大量殺人をもたらし、誤った理論と認定した。そして、明白に放棄宣言をした。資本主義世界で、放棄宣言をしていないのは、日本共産党だけである |
民主主義的中央集権制 |
規約において、訳語変更による隠蔽・堅持。(1)民主主義的中央集権制(Democratic
Centralism)→(2)「民主集中制」という略語に変更→(3)「民主と集中の統一」と解釈変更で堅持→(4) 「民主と集中の統一」は、あらゆる政党が採用している普遍的な組織原則と強弁している |
ヨーロッパの共産党は、「Democratic Centralism」の「民主主義的・Democratic」は形式・形容詞にすぎず、「官僚主義的・絶対的な中央集権制・Centralism」に陥ると断定した。それは、「党の統一を守るのには役立ったが、一方で党内民主主義を抑圧した」組織原則だと認定した。この反民主主義的組織原則を堅持しているのは、残存する犯罪的な一党独裁国前衛党4党とポルトガル共産党・日本共産党だけである |
前衛党概念 |
規約において、(1)前衛党→(2)規約前文から綱領部分削除に伴い、その中の「前衛党」用語も事務的に削除→(3)不破哲三の前文削除説明で、「前衛党」概念を支持・擁護 |
イタリア共産党は、「前衛党」思想を、「政党思想の中で、もっともうぬぼれた、傲慢で、排他的な政党思想だった」と総括し、全面否定した。日本のマスコミは、左(2)を「前衛党」概念の放棄と錯覚し、誤った解説をした |
マルクス・レーニン主義 |
(1)マルクス・レーニン主義→(2)個人名は駄目として、「科学的社会主義」に名称変更し、堅持。不破哲三の『レーニンと資本論』全7巻を見れば、マルクス・レーニン主義そのものの堅持ぶりが分かる。ただ、彼は、さすがにレーニンの暴力革命理論だけを否定した |
「マルクス・レーニン主義」の命名者はスターリンである。ポルトガル共産党を除くヨーロッパの共産党すべてが、マルクス・レーニン主義と断絶した。フランス共産党も、ソ連崩壊数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。 |
日本共産党は、4項目に関して、訳語・名称変更しただけで、ヨーロッパの共産党がしたような明白な放棄宣言を一つもしていない。その実態も、隠蔽・堅持方式を採っている。世界的にも、こういう欺瞞的スタイルを採る共産党は皆無であり、いかにも不可思議な政党ではある。
その点で、加藤哲郎一橋大学教授は、日本共産党を「現段階のコミンテルン研究の貴重な、生きた博物館的素材」と指摘した(『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、P.3)。その視点から観れば、日本共産党を21世紀における「貴重な絶滅危惧種」として、このまま生態保存しておく必要があるのかもしれない。ただし、選挙政策面では、天皇制・君が代日の丸・自衛隊テーマなどで、無党派層への支持拡大を狙って、どんどん現実化している。それは、不破・志位・市田らが、(1)レーニン型前衛党の5基準・原理の隠蔽堅持路線と、(2)選挙政策の現実化路線という矛盾した2面作戦を採用していると規定できる。
21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5つの基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。もっとも、残存する一党独裁型前衛党の中国・ベトナム・北朝鮮を合わせれば、アジアでは、4つの前衛党が崩壊しないでいる。
『規約全面改定における放棄と堅持』2000年第22回大会、欺瞞的な隠蔽・堅持の詳細
『「削除・隠蔽」による「堅持」作戦』欺瞞的な隠蔽・堅持方式の4段階の詳細
『日本共産党の党勢力、その見方考え方』党勢力PHNと選挙結果
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回
『綱領全面改定における不破哲三の4面相』綱領改定案と討論・代議員選出
アジアの4カ国といっても、それぞれの特殊性が強く、共通性の面が少ないと言える。ただヨーロッパでのコミンテルン型共産主義運動のドミノ的崩壊が、なぜアジアに波及しなかったかということを、ヨーロッパとの比較論として検討してみたい。
1970年代、80年代は、コミンテルン型共産主義運動が、社会主義国と発達した資本主義国との両地域で、その思想、体制、運動のすべての面において破綻をきたした。従来のレーニン主義のままでは全面後退、崩壊してしまうという危機を迎えた時期であった。その危機意識に基づいて、各国、各党で様々な改革、路線転換の模索がなされた。
一つは、社会主義国での経済政策の転換、いわゆる社会主義市場経済という名目での資本主義市場経済の導入である。そして発達した資本主義国での革命路線の転換、即ち暴力革命、武装蜂起、プロレタリアート独裁を放棄して、平和移行、ブルジョア議会主義、ブルジョア民主主義評価への大転換である。この導入、転換の内容には、様々な相違があるが、ほとんどの国家、党で行われた。
二つは、その経済路線、革命路線を転換する以上、その組織としての前衛党の組織論、組織原則、党運営等を、それに対応して転換させるのか、それともそれを全く切り離し、党組織は民主主義的中央集権制を堅持、強化しつつ、経済、革命路線だけを転換していくのかということである。党改革の根幹は、Democratic Centralismを放棄するのか、堅持するのかの問題に収斂する。
ヨーロッパでは、この2つの転換は、同時か、もしくは時期的に十数年のずれがあるが両方が行われた。ソ連のペレストロイカでの同時的転換、東欧およびヨーロッパの資本主義国共産党での時差的転換がある。この2つ目の党改革を始めようとした段階で崩壊した国家、解党した党もある。
それに対して、アジアでは、中国、ベトナムで開放経済政策が大胆に取り入れられた。日本では、ユーロコミュニズムとの急接近の中で、暴力革命、武装蜂起路線を放棄した。しかし、「敵の出方論」については、放棄の明言をしていない。ただし、プロレタリアート独裁理論は、それを「執権」に訳語変更するという姑息な形での隠蔽・堅持である。そして「民主連合政府綱領案」、複数政党制を認めるなどの「自由と民主主義の宣言」が提起された。
しかし、アジアの4党のいずれもが、意識的に、党内民主主義の強化をはかる党民主化路線を拒否し、むしろ党中央の統制を強化する路線を選択した。これら2つ目の党改革路線選択の違いが、ヨーロッパでのドミノ的崩壊と、アジアでの生き残りという分岐をもたらしたと考えられる。ユーロコミュニズムと日本の党との共通性が目立ち、ユーロ・ジャポネコミュニズムとも言われる一時期もあったほどだが、以上の2点を総合的に見たとき、両者は党民主化の姿勢、方向において、当初から根本的に異なっていたのである。もちろん、日本の党の中でも、党改革、党民主化を主張する勢力は一部存在し、それへの一定の動きも見られたが、それらはすべて抑圧され、排除された。
次の問題として、それでは、アジアの4党が、レーニン主義の危機を迎えながら、なぜ党民主化を全面拒否する路線を選択したのかということである。これは各党それぞれの特殊性、条件で選択し、結果的に偶然同じ選択になったとみるのが妥当であろう。ただし、その中にも共通の要因がいくつか考えられる。次の2つの側面でそれを検討してみる。
中国、北朝鮮、日本では、ケ小平(死亡)、金日成(死亡)、宮本顕治というカリスマ的独裁者がいた。彼ら個人独裁者は、文化大革命、他派の粛清、50年分裂等の党内派閥どうしの激烈、陰惨な党内闘争の豊富な経験を持ち、また党の民主化が何をもたらすのかを肌で知っていた。ベトナムでも、すでにホーチミンはいないが、ベトナム戦争まで戦いぬいた他の革命第一世代の指導者たちがいて、その指導力や影響力は強く残っている。その党の最高指導者個人を、党の路線選択の決定的要因とすることは、現代の民主政治、政党ではありえない。しかし、Democratic Centralismという個人独裁に必然的に行き着く組織原則の政党においては、その個人の資質、経験、独裁期間は、まさにその選択を左右する。
彼ら革命第一世代コミュニストたちは、最終的政策決定権者として君臨し、死ぬまで引退しない。彼らが権力保持に抱く異様なまでの執着心を念頭に入れれば、党改革への彼らの警戒心、拒絶反応は、十分想像できるところであろう。
なぜなら、彼らは熾烈な党内闘争において競争相手、批判者をあらゆる手段で排除しつくしてきた経験から、党規約でなく、人治主義、人脈こそ党支配の根幹であることを知っている。そしてそのためには水平交流禁止、分派禁止のタテ割り型中央集権制の官僚主義的Centralismほど利用価値が高い武器はないことを熟知しているからである。
組織の専制的支配を可能にしてくれているレーニンの党組織論、組織原則を、自ら手放すはずがない。レーニンはまさに崇拝に値する精緻な組織原則をこの4党指導者に、今もなお与えてくれている。
経済路線、革命路線を転換する以上、それに対応して党民主化を行うべきことは彼らも道理としては理解しているであろう。しかし経済改革は、必然的に社会での自由の大幅な容認をもたらす。革命路線の改革は、党内民主主義において資本主義社会レベルの言論、批判の自由の容認をもたらす。それらは官僚主義的中央集権制、軍事的集権制を本質とする民主主義的中央集権制の党運営と絶対的に対立せざるをえない。そしてそれは党民主化という耳ざわりのよいスローガンとともに、彼らの専制的支配を崩壊させてしまうことを彼らは本能的に予知している。したがって、Democratic Centralismを強化しこそすれ、その放棄につながる党民主化など絶対に選択しない。
アジア4党の指導者がそういう選択をしたのには、個人的体験、資質のみでなく、地政学的要因も考慮に入れる必要がある。一方で経済路線、革命路線の転換をしながら、それと連動している国家運営、党運営の方では、一党独裁、指導者専制を許容する客観条件=国民性、党派性が存在するのかということである。
第1、アジア4カ国における市民社会の形成史と成熟度と、ヨーロッパにおける文化や議会制度、個の自立を含めた市民社会の形成の歴史との相違
それらの未熟度から、一党独裁、指導者専制を容認する国民性、党派性が、強く残っている。党内で、批判者を異端として排除するのはDemocratic Centralismの本質的特徴である。同時にアジアでは、会社組織、社会内で、批判、個人的意見発表者を排除する社会的風土が根強い。そのアジア的社会と民主主義的中央集権制型国家・党組織とによって、異質排除体質が複合的に形成されている。その体質と一党独裁、指導者専制とは、精神科用語の「共依存の関係」にあると診断できる。
第2、経済発展の開発独裁地域での国民性
経済的貧困度とそこからの向上、脱出意欲がヨーロッパとは、大きく異なる。中国、ベトナムでの革命による、および開放経済による革命前との歴史的比較(タテの比較)において、生活向上の満足度がある。また、そこでの共産党の功績への信頼度が、東欧と比較して相対的に高い。 それに加えて、東南アジア全体での開発独裁型による経済急成長の影響と、その共通基盤として、開発独裁を受け入れる国民の経済要求も考慮する必要があろう。
北朝鮮が開放経済に乗り出さない理由は、中国、ベトナムとちがって権力基盤がきわめて脆弱なことにある。資本主義的自由市場=経済的自由を導入しただけで、不満が爆発し体制そのものが崩壊してしまう状態にあることを指導者がもっともよく自覚している。中国、ベトナムは、党指導者が体制崩壊の危機意識を強く持ち、経済での資本主義的自由市場と政治での一党独裁、民主主義的中央集権制強化という、絶対矛盾の路線を選択するというカケにでた。しかし、北朝鮮はそのカケにも出られない。
第3、ナショナリズムが強く、その象徴として共産党の権威の高さ
この3つの社会主義および1つの共産党は三重の、もしくは二重の民族抑圧を受け、それと徹底してたたかって、民族的自立を守ってきた。
(1)、帝国主義的支配、植民地、占領との闘争と民族自立
中国、ベトナム、北朝鮮は、その被支配の悲惨さにおいて、およびそれとの闘争の苛烈さにおいては、ヨーロッパとは比較にならない。植民地、半植民地における共産党弾圧の残虐さ、その共産党支援の広がりと深さは、ヨ ーロッパ帝国主義国家内のそれらとは、質的に異なる。ヨーロッパでも、ナチスによる占領、弾圧と、それへのレジスタンスは、質的に同じと思われるが、その期間は短い。
(2)、大国の共産党政権による露骨な内政干渉、党分裂工作、妨害の体験
中ソ対立での経過、中越戦争、北朝鮮へのソ連・中国からの干渉の実情は、社会主義国家間の関係としては考えられないほど横暴、抑圧的なものであった。東欧政権も、スターリンによる一連の粛清裁判、ブレジネフの制限主権論による弾圧を受けてきた。ソ連軍の進駐下での政権樹立という経過もあって、その大部分が民族的尊厳も放棄させられて、ソ連の衛星国家の地位にとどまった。それに対し、アジア3カ国は、ユーゴ、アルバニア、ルーマニアと並んで、様々な抵抗、闘争を通じて、国際共産主義運動の中で相対的自立をかちとってきた。
日本共産党へのソ連、中国、北朝鮮の国家権力・前衛党による暴力的党破壊、分裂策動は、ヨーロッパの資本主義国共産党への干渉の程度をはるかに上回る。しかもヨーロッパでも一様に、ソ連からの干渉は受けているが、日本のように3カ国もの社会主義国家権力、党からの直接的干渉を受けた党は一つもない。
アジア4カ国においては、これらの露骨な干渉に対し、自主独立を守っているという面だけを見れば、党指導部への党内外の信頼感が存在している。もっとも、これら党指導者の頭脳内では、対外的な自主独立=自由の主張と、国内、党内での独裁制や指導者専制=自由剥奪、党内民主主義抑圧とは、なんら矛盾せず、両立するようである。アジア4党は、その「自由」を、外と内でたくみに使い分けている。それだけでなく、中国、北朝鮮は、自分より小国や日本の党に分裂策動、干渉をするというように、「自由」の三重の使い分けをしている。ベトナムのカンボジア侵攻も、同じ性質をもっている。
(3)、戦後の米ソ冷戦戦略に組み込まれ、日本を含め、4つとも、国土分裂(北朝鮮、ベトナム)、一部分割(中国と台湾)、一部占領継続(1972年返還までの沖縄、およびその後の沖縄基地問題)の国民的体験と、国土統一への国民的願望の存在
そこで共産党が、その願望の先頭に立ってたたかった、またたたかっているという実績がある。ヨーロッパでは東西ドイツ分裂以外には、この面での国民的経験はない。
以上見たように、コミンテルン型共産主義のヨーロッパでの終焉に対して、アジアでは3カ国と1党が現時点で生き残っている。しかし、それぞれの革命第一世代指導者たちが死去、引退したあとで、どのような変化が起きるのかは、予測がつかない。ただはっきりしていることは、一党独裁の放棄、民主主義的中央集権制の放棄をしないかぎり、内部矛盾が激化するか、じり貧の党勢にならざるをえない。しかし仮に、それらを放棄したとしても、別の明るい展望が開けるわけでもない。
アジアにおいて、はたして2000何年まで、共産党というヨーロッパ生まれの妖怪が徘徊するのであろうか。
資本主義から社会主義、共産主義への必然的発展という史的唯物論に基づく革命論は、人類が生みだした中でもっとも理論的、かつ魅力的なユートピア構想であった。「2001年宇宙の旅」、「2010年」という有名なSF映画がある。その時期やそれ以後においても、この壮大なSFユートピア構想は、太陽系第三惑星上でなお影響力を持ち続けているだろうか。
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(関連ファイル)
『イタリア左翼民主党の規約を読む』左翼民主党規約の全文添付
アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』
福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『党史上初めて対案提出』2003年
柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』
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