北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ()

 

朝鮮労働党と北朝鮮系在日朝鮮人、日本共産党

 

(宮地作成・リンク編集)

 

 ()、このテーマは、インターネットで、かなり取り上げられるようになった。よって、このファイルは、下記〔目次〕項目ごとや、随所に、それぞれリンクをして、同時にHP検索もするスタイルのものである。ファイルが大きくなったので、2分割した。

 北朝鮮データの出典について、文中では、省略して載せた。()(『小辞典』)は、『岩波小辞典現代韓国・朝鮮』(2002年)からの引用個所である。()(『事典』)は、『朝鮮を知る事典』(平凡社、2000年)が出典である。()(『データブック』)および(『最新データブック』)は、重村智計著『北朝鮮データブック』(講談社現代新書、1997年)、および『最新・北朝鮮データブック(全面改訂版)(講談社現代新書、2002年11月)が出典である。

 

 〔目次〕

     はじめに

   1北朝鮮=朝鮮労働党・金正日が「私的所有」している軍事独裁国家

   2朝鮮戦争と日本共産党の“侵略”戦争加担「武装闘争」 (表1、2)

   3北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階

   4祖国帰国事業の謀略、93000人の人質と身代金、拉致協力強制政策

 

   5、「赤色テロル型社会主義」北朝鮮の国家犯罪事例 (別ファイル5、6、7、8)

   6、国家事業「日本人70〜80人拉致作戦」の目的と犯罪者たち

   7、日本共産党と朝鮮労働党との関係史 友党・讃美→決裂・批判→友党・無批判

   8、「共産主義友党」日本共産党が『したこと』『しなかったこと』 (表3、4、5、6)

 

 (関連ファイル)       (別ファイル5、6、7、8)に行く   健一MENUに戻る

    北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』

      『不破議長に聞く』が逆証明した金正日擁護の参院選政策

    『拉致事件関係ファイル・リンク』健一MENU

    共産党『北朝鮮問題』2002年8月からの北朝鮮関連発言・記事

    加藤哲郎『拉致・核開発問題リンク集』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者救済のために

          『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    藤井一行『日本共産党と北朝鮮問題』萩原遼への措置、兵本達吉への批判・除名

    黒坂真  『日本人拉致問題と日本共産党』北朝鮮批判・共産党批判ファイル多数

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』

 

    朝日『拉致事件』 『核問題』 読売『北朝鮮』 毎日『北朝鮮』 日経『拉致問題』

    RENK『救え!北朝鮮の民衆』 RENK『東京』

    HP『朝鮮民主主義研究センター』 『北朝鮮問題リンク集』

    HP『北朝鮮難民救援基金』 『カルメギ』 『北朝鮮に情報公開を求める市民の会』

    Yahoo『朝鮮総連と拉致事件』 『朝鮮総連と帰国事業』 『朝鮮総連と朝鮮労働党』

    Google『朝鮮総連』 『朝鮮総連と朝銀問題』 『朝鮮総連と日本共産党』

 

 はじめに

 

 これは、「北朝鮮拉致事件」を、()それだけで孤立して見るのではなく、()日本に隣接する社会主義国の性質・動向、その権力犯罪全体像、および、()北朝鮮系在日朝鮮人運動、()日本共産党との関係史の中で、位置づける目的のファイルである。題名を『拉致(殺害)事件』としたことの意味は、北朝鮮発表『8人死亡』は、死因・墓地流出・遺骨・各種年月日も含めて明白なウソであるとともに、政府判断『拉致の疑い70〜80人』(2002年11月17日公表)の拉致被害者の一部を『殺害』したことも事実であるとする、私の立場に基づく。

 

 ウソの新証拠の一つとして、1997年橋本政権当時の中枢関係者証言が、2002年11月16日に出た。それは、『97年当時、金総書記側近で、朝鮮労働党の対日関係直接窓口だった金容淳書記から伝えられた。「少なくとも横田さんは(北朝鮮国内で)生きている」との内容だった』(2002.11.17、中日新聞)。記事では、『政府が97年5月に「7件10人」を拉致認定した際に、警察庁が拉致の可能性が高い失踪事案として50数人を挙げていたことも、(その関係者が)明らかにした』と書いている。そして、2002年11月17日公表の政府判断は、『拉致の疑い70〜80人』となった。

 

 ただ、日本が、朝鮮にたいして行なった日韓併合、強制連行、慰安婦、創氏改名などの植民地支配期間中の問題は、明らかな日本国家の権力犯罪である。それらにたいして、日朝両国正常化時点において、日本国家・国民が「心からの謝罪・補償」をすることは当然である。その犯罪期間・朝鮮全土の規模を確認しておく。3・1独立運動弾圧人数、強制連行人数、慰安婦人数は、いろいろあるが、『朝鮮を知る事典』(平凡社、2000年)にあるデータにする。

 

 (1)植民地支配期間は、1910年8月22日の日韓併合から1945年8月15日日本敗戦までの35年間である(『事典』P.292)(2)3・1独立運動は、1919年3月1日を期して始められた、植民地支配期間中における最大の反日独立運動である。朝鮮独立宣言書と「独立万歳」のデモが朝鮮全土で広がった。朝鮮総督府は、これに徹底した弾圧を加えた。数字は『韓国独立運動之血史』のデータである。参加者2023098人、死亡者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人だった(『事典』P.167)

 

 (3)強制連行者は、1945年日本敗戦時点における在日朝鮮人250〜260万人中、150万人だった(『事典』P.159)。残りの100万人・40%は、日本への自主的移住者である。(4)日本軍は、若くて未婚の5〜7万人を従軍慰安婦に強要し、戦場で「朝鮮ピー」と呼ばれるなど言語に絶する恥辱を受けさせ、敗戦とともに戦場に捨てた(『事典』P.189)(5)創氏改名は、1939年11月の「朝鮮民事令」公布によるもので、日本国家・朝鮮総督府は、1940年8月10日の期限までに、約322万戸・80%を強要し、日本人名に改名させた(『事典』P.248)

 

 2国、および在日朝鮮人との関係については、全体を歴史的背景において、総合的にとらえることが必要である。しかし、「総合的にとらえる」ということは、それらを「相殺する」「拉致犯罪を言えば、すぐ強制連行を持ち出す」ことではない。なぜなら、日本国家の犯罪は、植民地支配時代・戦争時代の1945年までのことであり、北朝鮮国家の拉致(殺害)犯罪は、その後の時期、とくに1977年から83年に発生した。この2つは、時期、次元ともが異なり、別個に追求・解決すべきことで、相殺できる性質のテーマではないからである。「拉致犯罪事件」の解明・解決を主張すると、「強制連行」問題で斬り返すという態度には、反対する。ただし、このファイルでは、北朝鮮側の問題という一面だけを分析する。

 

 

 1北朝鮮=朝鮮労働党・金正日が「私的所有」している軍事独裁国家

 

 まず、朝鮮民主主義人民共和国とは、どういう性格の国家なのかを分析しておく。というのも、北朝鮮は、たんに社会主義国家というだけでなく、かなり特異な性格を持っているからである。

 

 〔小目次〕

 1、レーニン・ボリシェヴィキが創設した「赤色テロル型・一党独裁型」社会主義

 2、社会主義と民族主義とを結合させて生き残っている「ナショナリズム型」社会主義

 3、「市場経済廃絶・国家計画経済システム」堅持の社会主義

 4、「金正日体制維持・延命」を唯一・最高の国家目的とし、手段を選ばない社会主義

 5、ウソと誇張の「公認・国家成立史」で全国民教育をする“世襲型・個人独裁”社会主義

 6、党=国家とともに、軍隊=国家という極端な軍事独裁型社会主義

 7、朝鮮労働党員の異常な人口比率と不正常な党運営の社会主義

 

 1、レーニン・ボリシェヴィキが創設した「赤色テロル型・一党独裁型」社会主義

 

 北朝鮮は、14のレーニン型社会主義一党独裁国家の一つである。それらの国家は、理念として、マルクス・レーニン主義を唯一絶対の真理・基本教義とする。そこから、それ以外の政治思想をもつ政党の存在・設立を認めない。それだけでなく、その運動をする者を非科学的な思想団体・個人と断定し、「反革命分子」「人民の敵」という恣意的レッテルを貼りつけ、銃殺、強制収容所送り、国外追放などの粛清をすることを、本質的側面とする「暴力依存型」国家である。

 

 これらの14カ国は、権力奪取以降、一度も、ヨーロッパや資本主義型の「普通選挙」をしたことがない。14カ国において、それをした唯一のケースは、1917年12月、レーニンの単独武装蜂起・権力奪取1カ月後の憲法制定議会選挙である。しかし、ボリシェヴィキ政権の得票率・議席獲得率が25%しかなく、普通選挙に惨敗したので、レーニンは、憲法制定議会を武力解散させた。「暴力依存型」とは、共産党・労働者党直属の秘密政治警察・軍隊の国民抑圧機構がなければ、ただちに崩壊してしまう「秘密政治警察型国家」という意味である。

 

 1991年ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や、膨大な公文書(アルヒーフ)が発掘・公表された。それらにより、判明した新事実は、レーニンが直接指令し、執行した「赤色テロル=自国民大量殺害」に関する、以下の驚がく的な内容だった。14の一党独裁国は、レーニンの“半個人独裁”を含めて、ほとんどが最高権力者個人独裁になっていた。それは、レーニンが、1921年、ソ連共産党(ボリシェヴィキ)第10回大会において、民主主義的中央集権制と分派禁止規定とを結合させ、党内民主主義を破壊したことから、必然的に発生するようになった。

 

 ただ、このレーニンの反民主主義的暴挙は、当時のソ連国民の利益・要求よりも、ボリシェヴィキ一党独裁権力の維持・延命を至上目的としたことによるものだった。1920、21年当時、レーニンとボリシェヴィキ政権は、レーニンの根本的に誤った「市場経済廃絶」路線、「食糧独裁令」に反対する労働者・農民・兵士の総反乱に直面し、一党独裁政権崩壊の危機に直面していた。彼は、誤ったレーニン路線に批判・抵抗する労働者・農民・兵士・聖職者・知識人を数十万人殺害し、強制収容所送りにし、国外追放にした。党内民主主義破壊の分派禁止規定により、当時の党員の4分の1を除名した。「赤色テロル」型社会主義は、レーニンこそが最初から構築したのである。

 

 金日成・金正日の異様なまでの個人独裁レベルに匹敵するのは、スターリンの個人独裁と、チャウシェスクの個人・同族独裁であろう。それらは、レーニンの「赤色テロル」路線と党内民主主義破壊システムからの必然的結果だった。

 

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令とレーニン「労農同盟」論の虚実』

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 

 2、社会主義と民族主義とを結合させて生き残っている「ナショナリズム型」社会主義

 

 1989年から91年の東欧革命・ソ連崩壊で、その内、10の社会主義国とその前衛党がいっせい崩壊した。「残存する社会主義国」は、中国、ベトナム、北朝鮮のアジア3カ国とキューバである。それらが、生き残っている原因は、いろいろある。政治体制の面で見ると、従来どおり、普通選挙もしない反民主主義的な一党独裁をとりつつも、理念的には、社会主義と民族主義を結合させたナショナリズム型社会主義に変質している。

 

 北朝鮮型ナショナリズムは、その中でも特異な様相を呈している。金日成の「主体(チュチェ)思想」の本質は、朝鮮における伝統的な儒教思想と家族共同体原理を社会主義国家思想に融合させた原理である。その原理から、14カ国の中で、唯一の“最高権力者世襲型”社会主義を作った。金日成から長男・金正日への権力移譲を謀り、封建時代のような「王位継承」作戦に成功した社会主義国家となった。重村智計は、『データブック』第2章(P.61〜92)において、北朝鮮を『儒教型社会主義』と規定し、「主体(チュチェ)思想」内容やその国家体制を分析している。

 

    Google検索『金日成』  『金正日』

 

 3、「市場経済廃絶・国家計画経済システム」堅持の社会主義

 

 経済体制での面において、残存4カ国の変化の様相は、まちまちである。北朝鮮は、まだ、「市場経済廃絶・国家計画経済システム」を堅持している。中国、ベトナムは、経済システムにおいて、マルクス、レーニンの根本的に誤った「市場経済廃絶」理論・路線を放棄して、実質的な「資本主義市場経済」を導入した。それは、発展途上国に共通する「開発(一党)独裁型資本主義」になっている。2国は、この側面で見ると、もはや「マルクス・レーニン主義の国家」ではなくなっている。()反民主主義的な他政党排除・完全抹殺型政治体制と、(2)自由商業を基本とする資本主義経済システムという絶対矛盾が、どのような結末を迎えるのかは、21世紀の注目点の一つである。

 

 北朝鮮は、生き残りを図って、「市場経済導入」を模索している。しかし、「自由経済=資本主義経済システム」を導入したら、瞬時に「外部情報遮断・閉鎖」体制は、内部崩壊するであろうことを、金正日が一番よく知っている。北朝鮮が崩壊するケースは、この経済破綻と、それによる餓死・脱北者数の激増が引き金になる。2001年度の韓国受け入れ脱北者数は、過去最高の538人になった(『小辞典』No.1160)

 

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』

    RENK『北朝鮮難民問題関連』 難民駆け込みと取り締まり

 

 

 4、「金正日体制維持・延命」を唯一・最高の国家目的とし、手段を選ばない社会主義

 

 北朝鮮は、中国、ベトナム、キューバの残存3カ国と比べると、その政治・経済体制が一番不安定である。よって、現在、この国家は、「金正日体制を維持し、延命工作する」ことが、唯一・最高の国家理念となり、国家目的となっている。その目的達成のためには、いかなる犯罪手段、平気でウソをつく外交手法を、さらには“国家が行なう人質・身代金要求”外交をも駆使する。核開発も、体制“生き残り”取引き外交手段の一つとする社会主義である。それは独裁者・金正日の個人判断で、昨日まで『拉致などありえない、でっち上げである』と言ってきたことを、翌日『事実だった』と認めたり、その逆の手口も採ることができる。

 

 日本に関する問題の1例が、『日本人配偶者故郷訪問』合意とその約束履行状況である。「祖国帰国事業」の帰国者中、日本人妻が1831人いた。1997年8月の日朝交渉予備会談で、『故郷訪問』が合意された。しかし、1997年、98年、2000年の3回で、合計43人が『訪問』できただけで、北朝鮮は、その後、合意事項を履行していない(『小辞典』No.0979)。残り1788人÷1831人×100=約98%は、帰国ピークの1960・61年以後、40年間にわたって、日本訪問を事実上“禁止=出国不可能”状態に置かれている。

 

 北朝鮮型社会主義体制において、帰国在日朝鮮人93000人・内日本人6600〜6800人・内日本人妻1831人の大部分は、“韓国・日本に関係を持つ”『動揺層、敵対層』に分類される。それらの『危険・監視対象分子』に、日本との「自由往来」を許そうもののなら、腐敗・堕落した資本主義の害悪を北朝鮮に持ち込むことになり、「金正日体制崩壊の一因」となることを怖れているからである。帰国当初は、日本からの送金もあった。40年経った現在でも送金がある帰国者人数は、激減し、ごく一部になっている。送金の途絶えた帰国者たちの生活は悲惨である。93000人中、すでに約30000人が、餓死、または、『動揺層、敵対層』とのレッテルで強制収容所送りとなり、死亡したとの情報もある。

 

    「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」『カルメギ』 ページ末に強制収容所配置図

    李英和『北朝鮮の90年代飢饉を考える』 誰が、なぜ犠牲になったか

    Google検索『北朝鮮の飢餓・餓死』

 

 5、ウソと誇張の「公認・国家成立史」で全国民教育をする“世襲型・個人独裁”社会主義

 

 朝鮮民主主義人民共和国の「公認・国家成立史」は、ウソと自己讃美誇張の歴史である。1945年、日本敗戦により、朝鮮半島は、アメリカ占領の南朝鮮とソ連占領の北朝鮮に分断させられた。この国土・民族分断悲劇の遠因は、日本による35年間の植民地支配にある。ソ連は、満州でパルチザン闘争をし、日本軍に追われて、ソ連沿海州に逃れていた33才の「金成柱」ソ連軍中尉に、パルチザン伝説の英雄「キムイルソン」の名前を騙(かた)らせて、ソ連軍戦車とともに北朝鮮に送り込んた。

 

 ただ、「金成柱」は、17歳のとき、「金日成」に名前を変えたという説もある。彼が、抗日パルチザン闘争をもっとも勇敢にたたかった指導者であったことは事実である。金正日が、「白頭山」で生まれたとする伝説はウソで、金正日はソ連で生まれた。1949年、ソ連は、彼「金成柱(金日成)中尉」を、朝鮮民主主義人民共和国の指導者に据えた。このソ連衛星国政権設立の経過は、東欧諸国と北朝鮮とでほとんど同じである。「白頭山伝説」は、その“ソ連衛星国”成立経過を覆い隠すための真っ赤なウソと誇張とを織り交ぜた国家史である。

 

 社会主義権力の樹立過程が、自力でなく、ソ連軍戦車とソ連・モスクワ帰り共産党員でなされた国家とマルクス主義前衛党は、国民の中に、長期の祖国解放戦争の先頭になってたたかってきた信頼と権威を勝ち取っていない。それだけに、政権基盤がもろく、不安定である。その面で、ナチスとのパルチザン闘争で自力解放をしたユーゴや、中国、ベトナム、キューバと決定的に異なる。そこから、どうしても“人為的権威ねつ造”工作としての「ウソと誇張の公認・国家成立史」を絶対必要条件とした。拉致被害者の子どもたちも、全員が、生まれたときから、この刷り込み歴史教育操作を施されている。

 

 「金日成個人独裁成立史」の裏側実態は、党内他派粛清で、血塗られている。東欧型のソ連衛星国政権成立当時、各派の統一・吸収でできた朝鮮労働党内には、4つの派があった。南朝鮮労働党(共産党)派、中国延安派、モスクワ派、満州(パルチザン)派である。金日成は、満州(パルチザン)派の権力者だった。彼は、ソ連共産党・ソ連軍の支援を受けて、他の3派を朝鮮戦争前後を通じて、すべて粛清し、“金日成・1分派独裁”を築いた。さらに、パルチザン派内の粛清も行ない、「金日成個人独裁体制」を構築した。北朝鮮社会主義の成立史、粛清史については、除大粛ハワイ大学研究所所長が、『金日成、思想と政治体制』(お茶の水書房、1992年、499ページ)の大著において、綿密な研究をしている。

 

 「金正日が所有する国家」は、「主体思想(=チュチェ思想)式世襲国家」である。社会主義国家や共産党・労働者党が、内外の危機に直面すればするほど、レーニン型一党独裁システムは、そのレベルにとどまらず、社会主義権力の個人独裁となる。さらには、究極の「国家を私的所有する独裁」にたどりつく。それは、国家のあらゆる最終的政策決定権を、トップ一人だけが握る国家運営システムのことである。スターリンは、レーニン死後、「レーニン記念入党運動」やレーニン崇拝キャンペーンを大々的に展開し、ライバル全員を暗殺・追放・銃殺しつくし、ソ連の最終的政策決定権を独り占めにした。

 

 「国家世襲・長男」金正日は、独裁者スターリンの偉大な手法を学んで、「父親・金日成」の巨大銅像建設、“階層別分類識別名札”式「金日成忠誠バッジ」着用義務など、スターリンよりもさらにエスカレートさせた、金日成・金正日個人崇拝を全国民・軍隊に強制した。これらを通じて、彼は、見事に、「世襲型社会主義国の個人独裁者」となった。20世紀世界の国家最高権力者継承史において、父親から長男に、国家権力がこれほど成功裡に移譲されたケースは、アラブの一部産油国を除いてないであろう。

 

    菊地久彦『朝鮮労働党に関するメモランダム』 歴史的検討と体制批判

    大日本史『番外編・朝鮮の巻』金日成と金正日の別名

 

 6、党=国家とともに、軍隊=国家という極端な軍事独裁型社会主義

 

 社会主義14カ国は、マルクス主義前衛党が国家を「私的所有」していた(いる)。北朝鮮では、金正日が「総書記」という朝鮮労働党のトップとして、国家を「所有」している。それでは、北朝鮮の「国家システム」はどうなっているのか。通常は、「国家主席」がいる。

 

 金日成は、「国家主席」だった。その尊称は『偉大な首領、領袖』である。金日成は、1994年7月8日死去した。すると、金正日は、1998年9月5日、憲法を改正し、「国家主席」を廃止にしてしまった。そして、朝鮮民主主義人民共和国の最高権力機関を「国防委員会」という一種の軍事臨戦システムに変更し、自ら“お手盛り”で「国防委員会委員長」、かつ、「朝鮮人民軍最高司令官」に就任した(『最新データブック』P.65〜82)。よって、現在、金正日の尊称は、『将軍様』になっている。北朝鮮国民は、国内だけでなく、海外試合などでも、全員が『将軍様のおかげ、将軍様のためにたたかう』と言うのは、この国家システムによるものである。

 

 いまや、金正日は、党トップ「総書記」であるとともに、国家機構トップ「国防委員会委員長」「朝鮮人民軍最高司令官」となり、自国民全員から自分を『将軍様』と呼ばせている。そして、胸には、『偉大な首領』父親・金日成の“階層別分類表示名札バッジ(何種類もある金日成バッジ)”をつけさせている。かくして、金正日は、朝鮮労働党=朝鮮民主主義人民共和国=朝鮮人民軍を一体化し、その全権力を握った。

 

 1998年の改正憲法は、儒教社会主義国家を儒教軍事国家に転換させた。それだけでなく、改正憲法は、明記された「朝鮮労働党」を、金正日総書記自体を意味する“個人独裁”国家運営実態に変質させた(『最新データブック』P.119〜150)。1998年の転換の意味をどう把握するのかによって、現在の金正日型社会主”に関する認識に根本的な差異が生まれる。

 

 さらに、金正日は、1999年6月16日、『わが党の先軍政治は必勝不敗だ』との論説を発表させた。『先軍政治』とは、金正日を「朝鮮人民軍最高司令官」とし、「国家主席」制度を事実上廃止した上で、1997年に宣言した『軍隊はすなわち人民であり、国家であり、党である』という「軍重視思想」に基づく金正日の政治体制のことである(『小辞典』No.0607)。その結果が、国防予算比率30%である。30%とは、1967年度予算比率である。1990年代は「公表11%」であるが、隠れた軍事費を入れると、30%になると推測される(『最新データブック』P.162)。

 

 『2002年度版・日本の防衛』は、総兵力110万人で、人口2450万人と推定している(『最新データブック』P.77)。それは、人口比率約4.5%の軍隊である。このような人口比率の正規軍と軍事予算を保有する国家は、2002年現在、世界のどこにもない。これほど露骨に剥き出した「軍事独裁型社会主義」宣言・システムは、他の13の「赤色テロル」型社会主義国家でもなかった。

 

 しかも、朝鮮戦争後、金日成・金正日とも、『南進解放』『赤化統一』を繰り返し強調、演説している。現在も、北朝鮮は、『赤化統一』の臨戦体制を維持している国家である。ただし、それは、党=国家=軍隊という“異様な”戦時体制を続けなければ、北朝鮮が崩壊してしまうという危機感の裏返しとも言える。

 

 7、朝鮮労働党員の異常な人口比率と不正常な党運営の社会主義

 

 朝鮮労働党員の人口比率は、異常に高いことで有名である。(1)北朝鮮の人口は、最新の当局発表値で1993年時点しかなく、2121万人である。それ以降は、人口が、餓死・脱北者などで、250万人減ったというデータもあり、2002年現在は、2000万人以下になっている可能性がある。(2)朝鮮労働党員は、1980年第6回大会時点で、306万人だった(『事典』P.299)。現在は、約400万人と推算されている(『小辞典』No.0815)。その400万人の中核は、金正日『将軍様』の「先軍政治」体制に絶対忠誠を誓う「朝鮮人民軍」内党員である。党員の人口比率を、比較時期にずれがあるが、計算する。

 

 400万党員÷2121万人口×100=18.9%になる。それは、約5人に1人が党員という国家である。『100人の村』の発想を当てはめる。『100人中、19人が、「最高ランクの金日成バッジ」をつけた一党独裁政党党員である』という社会をイメージできるか。しかも、1995年以降の餓死・脱北者数を差し引けば、その比率はもっと高まる。

 

    北朝鮮リポート『95年から6年間、不明者が250万人に』 餓死・脱北者数

 

 ちなみに、中国は、人口12億人以上で、中国共産党員は、2002年6月現在、6635.5万人いる。共産党員の人口比率は、6635.5万党員÷12億人×100=5.3%である。残存する一党独裁型社会主義国のベトナム・キューバは、党員数を公表しない国家なので、そこの人口比率は分からない。崩壊した10カ国と前衛党でも、北朝鮮ほどの異常な党員人口比率の国はなかった。

 

 レーニンは、最高権力者の5年2カ月間中に、「プロレタリア独裁国家」という“虚構”看板の裏側にある「ボリシェヴィキ党独裁国家」を、数十万人の自国民殺害手段によって、完成させた。『レーニン型階級廃絶国家』の実態は、14カ国すべてにおいて、『権力を握ったマルクス主義前衛党党員を指導階層とする多段階階層分類国家』に変質した。北朝鮮の実態も同じである。

 

 北朝鮮は、国民の『出身成分』を、(1)核心層、()動揺層、(3)敵対層に3分類する(『データブック』P.66)。朝鮮労働党は、自国民2121万人を、それぞれの家系を3世代までさかのぼり調査し、さらに、3階層51類に細分化した。分類基準は、3世代家系「成分」とともに、金日成「首領様」・金正日「将軍様」にたいする忠誠度である。(1)核心層は、30%・6〜700万人で、朝鮮労働党党員とその家族である。()動揺層は、50%・1000万人で、金日成・金正日体制を命を賭けても守るという信念に欠けるとみられる、一般の労働者・農民・事務員とその家族である。(3)敵対層は、20%・400万人で、旧地主・資本家や、韓国・日本との関係を持つ層である。

 

 党運営の不正常さも際立っている。(1)、「党大会」は、規約で『5年ごと召集』と定められているのに、金日成・金正日は、1980年10月の第6回大会以後、22年間、党大会を一度も開いていない。(2)、「全員会議」も、規約で『大会と大会との間に開く』となっているのに、1993年以降、9年間開いていない。(3)、「朝鮮労働党政治局委員・候補」について、第6回大会は、委員・候補計35人を選出した。しかし、その後22年間、党大会を開いていないので、2001年時点に、政治局委員・候補で残っているのは、金正日を含め7人だけである。政治局は、まったくの機能停止状態である(『小辞典』No.0815)

 

 (4)、「朝鮮労働党書記局」がある。「党大会」「全員会議」「政治局」が機能停止している中で、実質的には、「書記局」だけが、党運営執行機関となるはずだった。その「書記局」会議もほとんど開かれず、有名無実になっている。()、「書記局」の下部機関「組織指導部」が、人事・組織問題・日常懸案問題の指示を出す。22人の「組織部副部長」が各機関と問題を担当している。これが、金正日「総書記」直属の参謀部になっている。()、金正日がそのトップ「総書記」に座って、個人独裁権限を、スターリンよりもはるかに強力に発揮している政党になっている(『データブック』P.72〜75)

 参謀部22部門の中に、北朝鮮拉致(殺害)事件の関与部署とされる「作戦部」「35号室」「統一戦線部→対外連絡部」などがある。

 

 

 以上の7つの特徴から、『北朝鮮=朝鮮労働党・金正日が「私的所有」する軍事独裁国家』と規定できる。ただ、この文言は、下斗米伸夫法政大学教授著『ソ連=党が所有した国家』(講談社、2002年9月)の題名を拝借したものである。

 現在、日朝国交正常化交渉の相手国は、これらの特徴を合わせ持つ「北朝鮮」型社会主義である。私は、今の国交正常化交渉を継続すべきという立場である。ただし、今回の(1)拉致(殺害)国家犯罪事件、(2)核開発、(3)保障・経済援助などをテーマとする交渉を、日本政府・日本国民が追求する上で、朝鮮民主主義人民共和国という国家・党・最高権力者の特徴・性格を、具体的に見据えて取り組まないと誤りが生じる。

 

 

 2朝鮮戦争と日本共産党の“侵略”戦争加担「武装闘争」

 

 1950年6月25日勃発の朝鮮戦争とは、北朝鮮、ソ連、中国という3カ国とその前衛党最高権力者金日成、スターリン、毛沢東が、南朝鮮に仕掛けた“社会主義国家が行なう侵略戦争”だった。もちろん、これには、萩原遼が『朝鮮戦争、金日成とマッカーサーの陰謀』(文藝春秋、1993年)において、アメリカ所蔵公文書160万ページから分析したマッカーサー側の陰謀の側面がある。しかし、それによって、“社会主義国家の侵略戦争”の側面を相殺することはできない。

 

 1991年ソ連崩壊後、ソ連機密資料に基づく研究が、スターリンの朝鮮戦争参加・指令経過を明らかにした。A・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実―金日成、スターリン、毛沢東の機密電報』(草思社、2001年)、ヴォイチェフ・るトニー『冷戦とは何だったのか、戦後政治史とスターリン』(柏書房、2000年)の2冊の研究である。また、中国側の戦争参加データとして、朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争、中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波書店、1991年)が公表された。これら3冊は、具体的機密データによって、社会主義国家群とは、「侵略戦争=革命の輸出戦争を行なう本質を持つ世界体制である」ことを証明した。

 

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スターリンは、『フィリポフ』『フィン・シ』の偽名を用い、

モスクワから金日成、毛沢東らに直接、暗号電報で

秘密指令を出して戦争を操り、休戦を阻止した。

 

 その当時の日本は、2つの国際・国内問題に直面していた。(1)朝鮮戦争の後方兵站補給基地の役割である。日本経済は、1950年から53年休戦協定までの3年間、朝鮮戦争特需もあって、息を吹き返した。(2)サンフランシスコ講和条約が、1952年4月28日に発効し、日本は、アメリカの被占領国から、主権国家になった。

 

 マッカーサーと吉田内閣は、そこでの日本国内の治安対策として、左翼勢力、革命団体に先制攻撃を仕掛けた。まず、在日朝鮮人組織と運動に徹底的な弾圧を加えた。朝鮮人学校の閉鎖、「朝鮮人連盟(朝連)、朝連民主青年同盟」の解散指令である。そして、日本共産党にたいする公職追放、大規模なレッドパージである。

 

 一方、スターリン、毛沢東は、当時2党の完全従属下にあった日本共産党にたいして、後方基地武力かく乱の朝鮮“侵略”戦争加担=「武装闘争」を指令した。このコミンフォルム指令や、実態としてのスターリン、毛沢東の思惑・命令こそが、(1)日本共産党の「四全協」50年分裂、(2)スターリンの『宮本顕治は分派』とした裁定、(3)1951年10月初旬宮本顕治のスターリンへの屈服と日本共産党の“組織統一回復”、()1951年10月16日「五全協」以降の“統一回復”日本共産党の「軍事方針」「武装闘争」を引き起こした基本原因である。

 

 日本共産党の「武装闘争」とは、単なる日本国内における「日本の暴力革命」行動ではない。それは、第二次大戦後、資本主義国共産党が、「社会主義3カ国が行なう侵略戦争」に加担した唯一の戦争参加ケースだった。その「火炎ビン闘争、警察署襲撃などの武力かく乱」実行期間が、宮本分派の組織解散・宮本「自己批判書」提出による“統一回復”「五全協」から始まり、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定日までで“ぴたり”と終了したという、1年9カ月だったことが、「武装闘争」の本質を証明している。

 

(表1) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表

 

事件項目 ()

「四全協」〜

「五全協」前

「五全協」〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)

2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)

3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)

4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃

5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む)

6、暴行、傷害

7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)

8、在日朝鮮人事件、「祖防隊」「民戦」と「民団」との紛争

9、山村・農村事件

10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの)

 

 

 

 

 

 

 

2

1

1

95

2

48

11

20

8

15

19

9

23

1

 

 

 

 

5

 

2

 

3

96

2

48

11

29

13

11

23

10

27

総件数

4

250

11

265

 

(表2) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表

 

武器使用項目 ()

「四全協」〜

「五全協」前

「五全協」〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21)

2、警官拳銃強奪

3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む)

4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき

5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む)

6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む)

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

総件数

0

71

0

71

 

 ()の説明をする。本来は、“統一回復”「五全協」が行なった武力かく乱戦争実態を、「六全協」日本共産党が、これらのデータを公表すべきだった。しかし、NKVDスパイ野坂参三と指導部復帰者宮本顕治ら2人は、ソ連共産党スースロフと中国共産党の『具体的総括・公表を禁止する』との指令に屈服して、“上っ面”の「極左冒険主義」というイデオロギー総括だけにとどめ、「武装闘争」の具体的内容・指令系統を、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙を続けている。

 

 このデータは、『戦後主要左翼事件・回想』(警察庁警備局発行、1968年)に載っている数字である。そこには、『昭和27年、28年の左翼関係事件府県別一覧、その1〜4』が265件ある。総件数を、(表1)の10項目、(表2)の6項目に、私の判断で分類した。(表2)件数は、すべて(表1)に含まれており、そこから「武器使用指令(Z活動)」だけをピックアップした内容である。この『回想』は、283ページあり、これだけの件数を載せた文献は他に出版されていない。もちろん、「警察庁警備局」側データである以上、警察側の主観・意図を持った内容であり、そのまま「客観的資料」と受け取ることはできない。しかし、「五全協」日本共産党による「武装闘争」指令とその実行内容を反映していることも否定できない。この(表)に関する見解の詳細は、別ファイル予定の『「武装闘争」責任論の盲点』で書いた。

 

 朝鮮戦争とは、“国家を「所有」している”ソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党と、“国家「未所有」”の日本共産党という国際共産主義運動傘下4つのマルクス主義前衛党が、一体となり、第二次世界大戦終了前後から始まった「米ソ冷戦」時期において、初めて行なった“南朝鮮解放名目の侵略戦争=熱い戦争”だった。ドイツ・ベトナム・中国・朝鮮という分断4国家において、マルクス主義前衛党側から仕掛けた「熱い侵略戦争」は、朝鮮戦争だけである。ベルリン封鎖事件の性格は、「熱い戦争」ではなく、「米ソ冷戦」の範疇に入る。ベトナム戦争は、「ドミノ理論」の恐怖におののくアメリカが仕掛けた「熱い侵略戦争」だった。

 

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

 

 日本共産党、宮本顕治・不破哲三・志位和夫らは、『(現在の)わが党は、武装闘争になんの関係もないし、責任もない。なぜなら、それは、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことであるから』として、完全な責任回避をしている。この宮本・不破・志位らの「科学的社会主義式言い分」は、明白なウソであり、詭弁である。これは、戦後日本共産党史上の最大のウソの一つである。

 「武装闘争」の方針と実態については、別ファイルに載せた。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、“スターリンへの屈服”』 「武装闘争」責任論の盲点

    『シベリア抑留めぐる日本共産党問題』 「逆説の戦後日本共産党史」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」「血のメーデー」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介

       (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

 

 

 3北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階

 

 在日朝鮮人は、日本敗戦の1945年時点、約250〜260万人いた。それは、(1)日本の強制連行によるものと、(2)自主的移住によるものとの総計である。2つの比率については、リンクHPファイルのような、自主的移住の方が多かったというデータもある。強制連行人数については、さまざまなデータがある。()強制連行総数150万人(『事典』P.159)()「大蔵省」調査724727人(『同』P.72)() 強制連行朝鮮人の自主調査・判明名簿23万人(朝日新聞、2002年10月28日)などである。

 

    大日本史『番外編・朝鮮の巻』在日コリアンの来歴、なぜ日本に住むようになったか

 

 戦後、自主的帰国、日本政府の帰国援助により、2年間で170万人が帰り、1947年の在日朝鮮人は約76万人になった。北朝鮮「祖国帰国事業」により、93346人(内、日本人妻1831人を含む日本人約6600〜6800人)(『小辞典』No.0979)が帰り、1985年の在日朝鮮人は67万人になった(『事典』P.163)。その組織は、祖国分断に伴い、北朝鮮系と韓国系に分かれた。韓国系組織は、単一ではないが、「在日本大韓民国居留民団」→「在日本大韓民国民団(略称・民団)」が中心である。作家李恢成は、『可能性としての「在日」』(講談社文芸文庫)において、『1999年現在、日本には、63.65万人のコリアンがいる。うち韓国籍46万人、朝鮮籍17万人』としている。北朝鮮系は、3つの時期で、その性格が異なった。

 

 〔小目次〕

   1在日朝鮮人連盟(朝連) 1945年10月〜1949年8月29日

   2在日朝鮮民主戦線(民戦) 1950年1月9日〜1955年5月24日

   3、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連) 1955年5月25日〜現在

 

 1在日朝鮮人連盟(朝連) 1945年10月〜1949年8月29日

 

 日本敗戦と祖国解放により、「朝連」が結成された。それまでの在日朝鮮人に対する差別との闘争や生活・政治要求が激発した。1946、47年だけで、11021件もの闘争件数(検挙件数)が起きた。マッカーサーは、()朝鮮戦争勃発予測と、()講和条約による占領終結・日本の主権国家移行後における日本国内治安対策の一つとして、これを弾圧し、1949年9月、「朝連」とその青年組織を強制解散させた。1949年時点、在日朝鮮人の組織構成員は、「朝連」傘下45万人、韓国系「民団」傘下15万人という比率だった(『事典』P.159)

 この不当な弾圧は、過酷なものだった。これと関連して、マッカーサーは、在日朝鮮人幹部36人の公職追放、財産の没収、朝鮮人学校の閉鎖処置をした。

 

 2在日朝鮮民主戦線(民戦) 1950年1月9日〜1955年5月24日

 

 北朝鮮系在日朝鮮人は、不当な「朝連」強制解散に抵抗して、1950年1月9日、「在日朝鮮民主戦線(民戦)」を非公然に結成した。5カ月後の1950年6月25日、北朝鮮・金日成は、スターリン・毛沢東の承認・指令の下に、社会主義国家が行なう朝鮮“侵略戦争”を開始した。そこから、この組織は、朝鮮戦争時期の北朝鮮系・左翼系在日朝鮮人のすべての運動を担った。

 

 「民戦」は、戦争勃発の1年後、“日本における祖国解放戦争”に決起した。その朝鮮戦争軍事組織として、1951年6月、「祖国防衛委員会(祖防委)」を作り、その下に、日本における武装闘争実行部隊として、「祖防隊」を組織した。

 

 ただし、この組織と「武装闘争」実行は、すべて日本共産党の朝鮮戦争加担「軍事方針」「武装闘争」指令によるものだった。そして、日本共産党は、当時、ソ連共産党・中国共産党の完全従属状態にあったので、日本共産党の「武装闘争」も、「民戦」の「武装闘争」も、スターリン・毛沢東の指令のままに行なった戦争行動だった。

 

 なぜ在日朝鮮人が、日本共産党の指導下に入ったのか。それは、当時、コミンフォルムは、レーニン・コミンテルンの方針どおりに、「一国一前衛党」主義であり、在日朝鮮人で、前衛党に入党する者は、その入党先は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党とされたからである。

 

 この説明のため、やや脱線をする。この思想は、レーニン・スターリンが唱え、コミンテルンを通じて、世界に広めた原則である。その内容は、『一つの国に、複数の前衛党が存在することはありえない』『なぜなら、前衛党とは、マルクス主義に基づき、世界の真理を認識・体現し、実行できる唯一の“世界観”政党である。ゆえに、一国には、マルクス主義の絶対的真理を体現できる政党は、一つしか存在しえないからである』『他のいかなる政党も真理を認識できないし、非科学的理論しか持ちえない。彼らは、必然的に「人民の敵」に転落する』『よって、権力を握った前衛党は、誤った政治思想を撒き散らすすべての政党を「反革命組織」として絶滅させ、その党員らを銃殺・強制収容所送りにして、一党独裁国家を作ることこそが正義の社会主義革命である』という理論である。この驚くべき、うぬぼれた犯罪的大量殺害是認理論を、全世界の共産党が共有し、14の社会主義国家と“権力を握ったマルクス主義者たち”は、それを「赤色テロル」で執行した。

 

 1917年11月7日レーニンの単独権力奪取日から、1922年12月レーニンの第2回発作による最高権力者活動停止までのの5年2カ月間で、レーニンは、「人民の敵」レッテル・「敵は殺せ」指令を多発して、無実の自国民数十万人を殺害し、他政党絶滅型の一党独裁国家を完成させた。これは、レーニンの“偉大な革命功績”である。スターリンだけでなく、金日成・金正日も、まさに、「赤色テロル」型社会主義者レーニンの忠実な弟子である。

 

 スターリン・毛沢東・金日成は、朝鮮戦争作戦の一環として、後方基地日本において、日本共産党と北朝鮮系在日朝鮮人に侵略戦争加担「武装闘争」をさせようと謀った。それが、後方基地武力かく乱指令である。

 

 ()1949年末、スターリンは、金日成から何度も要請されて、すでに朝鮮戦争開始を密かに決断していた。スターリンは、1950年1月6日、「占領下でも平和革命ができるという」野坂理論にたいして、スターリン直筆のコミンフォルム批判を、突然提起した。日本共産党は、偉大なスターリンによる批判で大混乱に陥った。

 

 ()スターリン・毛沢東は、その上で、日本共産党にたいして、「武装闘争」のための非公然体制をとるよう、指令を押しつけた。さらに、日本共産党の朝鮮侵略戦争“軍事参謀本部”を国内でなく、安全な中国に置くことを指示し、徳田球一の北京亡命、「北京機関」設立を指令した。ソ連共産党・中国共産党は、朝鮮侵略戦争の後方基地武力かく乱のリモートコントロール司令部「北京機関」を、朝鮮戦争勃発のはやくも2カ月後、1950年8月末に設立させた。それらによって、日本共産党は「50年分裂」した。

 

 ()スターリンは、朝鮮侵略戦争開始10カ月後の1951年4、5月、モスクワでソ連・中国・日本の3共産党会談を招集し、『宮本らは分派』との裁定を下した。日本共産党が分裂したままでは、後方基地武力かく乱の作戦効果を挙げられないという思惑による干渉である。

 

 ()1951年10月初旬、宮本顕治は、わずか4カ月間でスターリンに屈服し、「宮本分派」の組織解散、志田宛「自己批判書」を提出した。それによって、日本共産党の“組織統一回復”がなった。それ以後の「北京機関」とは、宮本・不破・志位が言う『徳田・野坂分派の「北京機関」』ではなく、スターリン自らが認知・強要した『徳田・野坂をトップとし、宮本顕治も屈服・復党させた、正規の日本共産党中央委員会』そのものとなった。

 

 ()1951年11月17日、“統一回復”日本共産党「五全協」による具体的「軍事方針」と火炎ビン闘争・警察署襲撃などの「武装闘争」が、日本全国で勃発した。なかでも、北朝鮮系在日朝鮮人は、朝鮮戦争を「祖国解放戦争」ととらえ、日本における武力かく乱戦争行動の先頭に立った。その戦闘部隊は、「祖防委」「祖防隊」で、その中核兵士は、在日朝鮮人日本共産党員たちだった。日本における朝鮮戦争加担戦争行為は、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定日で“ぴたり”とやんだ。その日本共産党と「民戦」による戦争行為期間は、1年9カ月間だった。

 

 これら一連の動向は、スターリン・毛沢東による、日本共産党および在日朝鮮人「民戦」への戦争加担指令の文脈の中で位置づけないと、その本質を見誤る。

 

 この時期、宮本顕治も復党した統一回復日本共産党と、在日朝鮮人「民戦」「祖防委」「祖防隊」との組織・指令関係は、どうなっていたのか。日本共産党の武力かく乱戦闘指令部は、非公然の国内地下指導部組織「党中央ビューロー」「軍事委員会Y」である。下部組織は、「地方、府県、地区ビューロー」「地方、府県、地区軍事委員会Y」がある。「武装闘争」実行部隊として、「中核自衛隊」を全国で500隊、8000人から1万人組織し、その中で戦闘的な共産党員を選抜して「独立遊撃隊」を組織した。その内のかなりは、レッドパージになった労働者党員だった。

 

 学生党員を参加させて「山村工作隊」も組織され、「人民艦隊」が日本―中国・北朝鮮間の密航を担当した。現在の日本共産党も認めているように、「北京機関」に千数百人から2千人もの日本共産党員いた。それは、「人民艦隊」が、総計数千人を密航・往復させたことになる。もっとも、敗戦後、中国各地に残っていた日本軍兵士で、「北京機関」党学校に参加した者も含む。ただ、「人民艦隊」密航者と日本軍兵士との比率は分かっていない。

 

 その密航ルートは、北朝鮮経由コースと、直接の中国コースとがあった。その規模・密航回数・密航航路は、2002年現在問題になっている「北朝鮮工作船」のどころではない。統一回復日本共産党の2000人中国・北朝鮮密航乗船・帰国上陸地点と、1977年から1983年の北朝鮮による日本人拉致・誘拐数十人の工作員上陸地点とは、ほぼ同一のはずである。

 

 在日朝鮮人「民戦」は、日本共産党中央委員会の「民族対策部(民対)」の指導・指令をうける大衆団体だった。共産党と共産党系大衆団体とのフラクション方針により、「民戦」内に、「民戦」日本共産党グループがあり、それは、「民戦」「祖防委」「祖防隊」の武力かく乱戦闘行為をすべて決定し、指令した。「祖防委」「祖防隊」の具体的武力かく乱行動は、「党中央ビューロー」志田→「民戦」日本共産党グループ指導者・李恩哲→「府県・地区の在日朝鮮人共産党員」という、軍事的無条件実行命令により行なわれた。

 

 「中核自衛隊」「独立遊撃隊」は、日本人共産党員側戦闘組織である。「祖防委」「祖防隊」は、在日朝鮮人日本共産党員側の武装闘争組織である。戦闘指令トップは、非公然の地下指導部「党中央ビューロー」「軍事委員会Y」で、同じである。「武装闘争」遂行においては、別行動だけでなく、両組織の統一行動もあった。

 

 侵略戦争加担戦闘期間は、1年9カ月間だった。その中で、火炎ビン・警察署襲撃の先頭に立った在日朝鮮人活動家が、多数検挙され、多大な犠牲をこうむった。いわゆる「3大騒擾事件」における被検挙者中の在日朝鮮人人数が判明している。()1952年5月1日「メーデー事件」の在日朝鮮人130人/1232人、()1952年6月24日「吹田事件」の在日朝鮮人92人/250人、有罪の在日朝鮮人26人/46人、()1952年7月7日「大須事件」の在日朝鮮人150人/269人、実刑判決在日朝鮮人2人/5人だった。このデータは、いずれも『小辞典』の各項目からの引用である。

 

 日本共産党は、ソ連共産党・スースロフの指令を受け、1955年7月27日、「六全協」を開いた。スースロフと中国共産党の指令内容は、以下だった。ただし、指令の証拠文書・口頭内容を、日本共産党は、隠蔽しているので、以下は、共産党文献・関係文献、および、「六全協」結果に基づく、私の“ほぼ正確な”推論である。

 

 ()「武装闘争」は誤りだったと認める。その内容は、日本共産党だけが犯した「極左冒険主義」というイデオロギー規定にとどめ、「武装闘争」の具体的方針・実態の総括・公表を禁ずる。スターリン・毛沢東・金日成が発した日本共産党、「民戦」にたいする指令・秘密電報の存在をいっさい発表してはならない。

 

 (2)、武装闘争路線を提起した『51年綱領』は、スターリンが直接書いたものである。よって、1953年3月5日、スターリンは死去しているが、『その路線・方針は正しかった』と決定せよ。

 

 (3)、徳田球一が北京で死亡したので、時期トップ人事は、(ソ連秘密政治警察NKVD工作員になっている)野坂参三を第一書記とし、宮本顕治を指導部に復活させて、常任幹部会責任者とせよ。党中央役員人事は、「武装闘争」遂行派と旧反徳田派をほぼ同じ比率で入れる。ただし、その際、旧徳田派による「武装闘争」指令・遂行の個人責任をとらせない。「極左冒険主義」というイデオロギー規定だけで十分である。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、“スターリンへの屈服”』 「武装闘争」責任論の盲点

 

 「六全協」において、ソ連スパイ野坂参三と「武装闘争」遂行派中央委員らは、スースロフ・毛沢東指令どおり、イデオロギー面の誤りについてだけ自己批判した。宮本顕治は、その期間、指導部から排除されていたとして、いっさい自己批判しなかった。新しい野坂・宮本指導部は、伊藤律に「スパイ」の汚名をかぶせ、「六全協」で除名発表をし、中国共産党に依頼して、27年間もの幽閉をさせた。野坂・宮本は、伊藤律政治局員一人に誤りの責任を転嫁し、自己の党内権力を打ち立てた。

 

 その手口は、金日成が、朝鮮侵略戦争惨敗の責任を、南朝鮮労働党派朴憲永に転嫁し、1955年12月25日、死刑判決・銃殺したことと同じ性質である。

 

 「六全協」後の各府県、地区会議で、その「六全協」の“上っ面”総括レベルと、「極左冒険主義」の誤りを犯した党中央役員のほぼ全員が、なんの個人責任もとらずに、中央委員に再選されたことにたいして、「武装闘争」の直接行動に参加し、検挙・有罪、職場解雇になった党員たちは、強烈な批判を浴びせた。宮本顕治は、新指導部トップとして、その党中央批判を『打撃主義的批判』『後ろ向き姿勢』ときめつけ、下部組織・党員からの批判を抑圧する側の先頭に立った。

 

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宮本顕治は、NKVDスパイ野坂参三と、“まる27年間”「野坂・宮本指導部体制」を

続けた。それは、1955年7月27日「六全協」から1982年7月31日「第16回大会」

で、野坂参三を「名誉議長」にするまでである。その間、宮本顕治は、トップの相手

がNKVD工作員であることに、まったく気付かなかった()マルクス主義者だった。

 

 かくして、野坂・宮本の“2派折衷・なれあい型、ソ連工作員のトップ混入型”中央委員会は、自分たち2派・中央委員個々人の地位安全を謀った。その一方で、野坂・宮本らは、(1)「中核自衛隊」「独立遊撃隊」「山村工作隊」「人民艦隊」参加の日本人共産党員兵士たちだけでなく、()「祖防委」「祖防隊」の在日朝鮮人日本共産党員兵士たちを、すべて切り捨て、見殺しにした。スパイ野坂・「指導部復帰者」宮本は、党員兵士だけでなく、はるかに多くのシンパをも、新体制出発のための踏み台にした。宮本顕治は、あくまで批判を続けようとする日本人党員、在日朝鮮人党員には、「極左冒険主義」者のレッテルを貼り付けて、排斥した。

 

 3、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連) 1955年5月25日〜現在

 

 1955年5月25日、北朝鮮系在日朝鮮人組織は、日本共産党指導下の「民戦」から、朝鮮労働党指導下の「朝鮮総連」に路線転換した。その歴史的背景を見ておく。

 

 朝鮮侵略戦争を仕掛けた金日成・スターリン・毛沢東の「武力統一」目論見は完全に崩れた。中国義勇軍の参戦によって、38度線で、かろうじて休戦協定を結んだものの、北朝鮮の人員・財政・産業の荒廃は目を覆うばかりだった。ソ連・中国からの支援だけでは足りない。そこで、金日成が目をつけた対象は、在日朝鮮人76万人の「人・金・技術」だった。

 

 金日成は、『在日朝鮮人は、朝鮮民主主義人民共和国の公民である』と宣言した。中国共産党も、『在日朝鮮人が日本共産党籍にあるのはおかしい』と援護射撃の内政干渉をした。金日成は、朝鮮労働党ルートを持つ「民戦」内幹部をあおり、「民戦」内に、日本共産党グループの在日朝鮮人中央委員と、朝鮮労働党肩入れ幹部との対立を激化させた。その結果、「民戦」は、1955年5月24日に解散し、在日朝鮮人日本共産党員は、全員が離党した。

 

 路線転換の別の背景として、「民戦」の「武装闘争」時期にたいする在日朝鮮人と在日朝鮮人日本共産党員たちの、日本共産党への批判・不満がある。その内容は、日本共産党中央委員会が、在日朝鮮人を「武装闘争」の先頭に立たせ、多大の犠牲を負わせながら、その兵士たちを見殺しにして、野坂・宮本ら自分たち日本人幹部だけは、「極左冒険主義」という“上っ面のイデオロギー的誤り”を認めただけで、一人も個人責任を取らなかったことにたいする怒りである。それよりも、『公民』と宣言してくれた金日成・朝鮮労働党の方が、はるかに信頼できるという感情である。これらの経過は、関係幹部名も含めて、複雑であるが、ここではこれ以上書かない。

 

 翌5月25日、「朝鮮総連」が結成された。この在日朝鮮人組織は、当然ながら、朝鮮労働党の指導を受け、その指導部、幹部は、朝鮮労働党に入党した。彼らは、朝鮮労働党グループを「朝鮮総連」内に作った。そのグループは、いわゆる「学習組」という非公然組織と同一である。

 

 日本共産党中央委員会は、「民族対策部(民対)」→「民戦」内党グループ→「民戦」→「祖防委」「祖防隊」という軍事的中央集権制で、指導をし、「武装闘争」指令を貫徹した。それと同じく、朝鮮労働党「組織指導部」は、北朝鮮国内「社会文化部(対外連絡部)」「作戦部」「対外情報調査部=35号室」他→「朝鮮総連」内党グループ(学習組)→「朝鮮総連」→「朝鮮総連」傘下の商工会・「朝銀」、北朝鮮協力者という「赤化統一」戦時体制指令ルートを日本国内に構築した。

 

 

 4祖国帰国事業の謀略、93000人の人質と身代金、拉致協力強制政策

 

 〔小目次〕

   1、在日朝鮮人の「人・金・技術」利用の布石

   2、祖国帰国事業という謀略

   3、人質93000人と身代金(北朝鮮送金)・拉致強制政策の3段階

 

 社会主義3カ国とその共産党・労働党が仕掛けた侵略戦争は、朝鮮人136万人を戦死させ産業施設を破壊し、朝鮮半島国土を荒廃させる犯罪行為だった。アメリカ軍・国連軍側の犯罪行為も当然ある。戦争経緯の地図にあるように、その攻防戦において、朝鮮半島全土が、韓国・釜山から北朝鮮・鴨緑江まで、殺人・破壊ローラーを南北にくまなくかけるように、二度も激戦地になったからである。

 

■赤い範囲は北朝鮮占領地域
■青い範囲は韓国(国連軍)占領地域

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 朝鮮戦争による戦死を含めた死者総数は、(1)北朝鮮250万人、(2)中国志願軍100万人、(3)韓国150万人、(4)米軍5万人にのぼった(『小事典』No.791)。戦争により南北に引き裂かれた「離散家族」は、1000万人以上、当時の朝鮮半島人口の1/4になった。その内訳は、韓国676万人、北朝鮮300万人である。

 

 金日成は、自分の「極左冒険主義」的誤りの個人責任をとらず、南朝鮮労働党派の朴憲永を「アメリカのスパイ」とでっち上げて、朝鮮戦争後、1955年に死刑にし、事実上の惨敗の責任転嫁をした。

 

 1、在日朝鮮人の「人・金・技術」利用の布石

 

 金日成は、戦後復旧のため、ソ連・中国に支援要請をする。しかし、それだけでは「人・金・技術」が絶対的に不足している。その供給資源となりうるのは、在日朝鮮人76万人だった。その内、北朝鮮系在日朝鮮人は、45万人いた。1955年における、日本共産党系「民戦」から、朝鮮労働党系「朝鮮総連」への路線転換が、45万人「利用作戦」の第一次布石である。

 

 第二次布石は、1958年8月、「朝鮮総連」議長・韓徳銖(ハンドクス)が、一会員に書かせた手紙である。それは、『日本での貧困と差別の生活をうちきって発展する祖国に帰ってしあわせな生活をおくりたい』という内容だった。9月8日、それと連携して、金日成は、北朝鮮建国十周年記念大会で、『共和国政府は、在日同朋が祖国に帰り、新しい生活をいとなめるようすべての条件を保障するでしょう』との声明を発表した。

 

 第三次布石は、1958年9月以降、1960年にかけての、大々的な「祖国帰国事業」キャンペーンの展開である。「朝鮮総連」が先頭になり、日本の左翼系マスコミも全面支援した。当時の社会党は、「友好政党」として、また、日本共産党は、国際共産主義運動の「共産主義友党」として、積極的に応援した。

 

 2、祖国帰国事業という謀略

 

 祖国帰国事業は、1959年から1989年まであり、総計で93346人、内、日本人妻1831人を含む日本人約6600〜6800人が帰国した。ただ、そのピークは、1960・61年の2年間である。その間だけで、71837人・77%が帰った。この運動・事業には、立場の違いによるさまざまな思惑が、交錯している。

 

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1959年12月14日、新潟港から、北朝鮮の清津に向けて出航した

帰還第1船。日本訪問帰国できた日本人妻は、3回43人・2%のみ

 

 (1)、自民党は、「表向きの人道的政策表明と裏腹に、面倒を起す北朝鮮系在日朝鮮人が帰国することを歓迎する」という下心だった。(2)、社会党と日本共産党は、社会主義国家・北朝鮮讃美の立場から、金日成側の謀略意図の虚偽宣伝・ウソを見抜けなかった。それどころか、日本共産党は、1959年3月以来、始まっていた「千里馬作業班運動」を絶賛し、日本共産党員映画撮影監督宮島義勇に記録映画『千里馬』を撮らせ、それにより、日本国内で、「千里馬」運動と朝鮮民主主義人民共和国の虚偽宣伝キャンペーンの一翼を担った。この映画を観て、帰国を決断した人もかなりいる。

 

 (3)、このころ韓国政府は、事実上、在日朝鮮人76万人を「棄民視」していた。(4)、北朝鮮系在日朝鮮人45万人は、日本における差別と貧困に苦しんでいた。また、「民戦」時期における「武装闘争」で検挙・職場解雇された在日朝鮮人日本共産党員兵士たちは、野坂・宮本ら「六全協」新体制による見殺し、日本人幹部だけの卑劣な自己保身にたいする怒りと、「日本革命」にたいする絶望感を抱いていた。

 

 ()金日成・朝鮮労働党の祖国帰国事業意図は、最初から、北朝鮮系在日朝鮮人45万人の「人・金・技術を利用する」という謀略だった。その根拠は、当初からの「虚偽宣伝」内容である。『地上の楽園』『冷蔵庫は牛肉や豚肉でいっぱい』『教育費はタダ』『金日成総合大学に入れる』などで、これらを北朝鮮、「朝鮮総連」が宣伝しただけでなく、社会党、日本共産党、日本の左翼勢力も宣伝に加担した。1960、61年当時の北朝鮮国内事情の実態が判明した現在、これらは、完全なウソであったことが明確になっている。

 

 93346人の帰国者を待ち受けていた悲惨な生活実態、在日帰国者へのスパイ視・監視、および強制収容所送りの粛清事実は、多くのデータが証明している。HPにもある。金日成・金正日は、彼らの日本一時帰国も認めなかった。音信不通者もどんどん増えている。帰国者の内、約30000人が餓死、または強制収容所送りで死亡したとの情報もあるが、生存者・死亡者の数字は分からない。

 

    金国雄 『考察1〜28』 帰国事業資料、その訴訟関係資料

    Google検索『北朝鮮帰国事業』 「朝鮮総連」の責任を問う裁判

    大日本史『番外編・朝鮮の巻』北朝鮮帰国事業の罪

 

 3、人質93346人と身代金(北朝鮮送金)拉致強制政策の3段階

 

 第1段階、金日成・朝鮮労働党は、93000人が北朝鮮に持ち帰った「労働力・金・技術」を利用しつくした。その中で、批判・不満を持ち続ける「思想改造不可能者」を、すでに“収容所半島化”していた各地の強制収容所送りにし、または、「反革命分子」として殺害した。日本を含め『外国帰り』は、全員がスパイ疑惑対象者だったからである。それは、レーニン・スターリン以来の完全な外国情報遮断型・「赤色テロル」型社会主義の体質である。チェーカーによる秘密政治警察型社会主義システムを、世界で初めて完成させたのは、1917年から1922年のレーニンであり、スターリンからではない。

 

 第2段階、金日成は、ごく一部の「金日成に絶対忠誠を誓う在日朝鮮人帰国者」を、朝鮮労働党員に抜擢した。93000人の大部分は、北朝鮮国民からスパイ疑惑を持たれつつ、社会主義型強制労働と“貧困の平等”生活を強いられた。帰国者には、)家族・親戚ぐるみで、全財産を処分して船に乗った者と、)日本残留者と帰国者とが別れた一部帰国の家族・親戚という2種類がある。その比率データは、「朝鮮総連」内の朝鮮労働党グループだけが持っている。

 

 )グループは、日本から持ってきた「金、換金物品」を使い切った後の生活が、悲惨だった。)グループは、生き延びるために、日本に残った家族・親戚にたいして、「救援の手紙」を出し、『食糧、衣類、日本円、時計などの換金物品の送付』を求めた。朝鮮労働党は、「朝鮮総連」に指令をだして、)グループを人質として、北朝鮮送金寄付・カンパ提出を強制した。それだけでなく、朝鮮労働党は、「朝銀」を経由した北朝鮮送金強奪ルートも構築した。

 

 ここから言えることは、「祖国帰国事業」の第2性格は、)グループを人質とした「身代金(北朝鮮送金)継続強制」事業となったことである。北朝鮮送金額は、『年間600億円にあがり、「朝銀」のずさん融資の一部が北朝鮮送金に当てられた』という「現代コリア研究所」「アエラ」による指摘がある(『小辞典』No.0670)

 

 第3段階、金日成・金正日・朝鮮労働党は、朝鮮戦争が惨敗した後も、朝鮮半島の「武力統一」「赤化統一」路線を堅持し、軍事的中央集権国家を強化してきた。現在も、金正日体制は、朝鮮人民軍と秘密政治警察「保衛部」「各特殊機関」を中核とする軍事独裁国家である。金正日の個人独裁レベルは、スターリン、チャウシェスクのそれに匹敵する国家犯罪遂行システムになっている。韓国にたいするさまざまな工作は、HPにあるように、完全な犯罪行為だった。その中で、韓国側は、北朝鮮工作員の韓国入国の阻止対策を強化した。そこで、金日成・金正日が発想し、指令したことは、「日本人拉致」犯罪だったのである。その犯罪目的は、2つある。

 

 第1、拉致日本人を、「金正日政治軍事大学」における北朝鮮工作員(対韓潜入工作員)の「日本人化教育」の教師として使うことである。第1メンバーは、“生かして使う”ことが必要なので、北朝鮮エリート待遇をし、結婚させる。

 第2、拉致日本人になりすまして、そのパスポートをとり、学歴、家族関係を暗記し、韓国に潜入し、対韓工作をすることである。そのケースがHPの死刑判決文である。第2メンバーは、「2人の同一日本人」が生きていては、まずいので、社会主義型革命倫理に基づいて、被拉致日本人を殺害する。

 

 この「北朝鮮国家の拉致犯罪事業」を成功させるためには、「工作船」で日本潜入する北朝鮮工作員だけでは不可能である。どうしても、日本における上陸地点数百カ所の情報、拉致対象者リスト、拉致ルートなどの点で、(1)「朝鮮総連」および非公然組織「学習組」、(2)北朝鮮・日本の分離家族という2)グループの協力が絶対的に必要となった。ここから、「祖国帰国事業」は、上記2)グループを人質とした「日本人拉致協力の強制」事業に変質した。その実態は、下記で分析する。

 

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 (関連ファイル)

    『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』

      『不破議長に聞く』が逆証明した金正日擁護の参院選政策

    『拉致事件関係ファイル・リンク』健一MENU

    共産党『北朝鮮問題』2002年8月からの北朝鮮関連発言・記事

    加藤哲郎『拉致・核開発問題リンク集』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者救済のために

          『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    藤井一行『日本共産党と北朝鮮問題』萩原遼への措置、兵本達吉への批判・除名

    黒坂真  『日本人拉致問題と日本共産党』北朝鮮批判・共産党批判ファイル多数

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』

 

    朝日『拉致事件』 『核問題』 読売『北朝鮮』 毎日『北朝鮮』 日経『拉致問題』

    RENK『救え!北朝鮮の民衆』 RENK『東京』

    HP『朝鮮民主主義研究センター』 『北朝鮮問題リンク集』

    HP『北朝鮮難民救援基金』 『カルメギ』 『北朝鮮に情報公開を求める市民の会』

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