北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ()

 

朝鮮労働党と北朝鮮系在日朝鮮人、日本共産党

 

(宮地作成・リンク編集)

 

 ()、このテーマは、インターネットで、かなり取り上げられるようになった。よって、このファイルは、下記〔目次〕項目ごとや、随所に、それぞれリンクをして、同時にHP検索もするスタイルのものである。ファイルが大きくなったので、2分割した。

 北朝鮮データの出典について、文中では、省略して載せる。()(『小辞典』)は、『岩波小辞典現代韓国・朝鮮』(2002年)からの引用個所である。()(『事典』)は、『朝鮮を知る事典』(平凡社、2000年)が出典である。()(『データブック』)および(『最新データブック』)は、重村智計著『北朝鮮データブック』(講談社現代新書、1997年)、および『最新・北朝鮮データブック(全面改訂版)(講談社現代新書、2002年11月)が出典である。

 

 〔目次〕

     はじめに (別ファイル1〜4)

   1、北朝鮮=朝鮮労働党・金正日が「私的所有」している軍事独裁国家

   2、朝鮮戦争と日本共産党の“侵略”戦争加担「武装闘争」 (表1、2)

   3、北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階

   4、祖国帰国事業の謀略、93000人の人質と身代金、拉致協力強制政策

 

   5「赤色テロル型社会主義」北朝鮮の国家犯罪事例

   6国家事業「日本人70〜80人拉致作戦」の目的と犯罪者たち

   7日本共産党と朝鮮労働党との関係史 友党・讃美→決裂・批判→友党・無批判

   8、「共産主義友党」日本共産党が『したこと』『しなかったこと』 (表3、4、5、6)

 

 (関連ファイル)         (別ファイル1〜4)に戻る  健一MENUに戻る

    『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』

      『不破議長に聞く』が逆証明した金正日擁護の参院選政策

    『拉致事件関係ファイル・リンク』健一MENU

    共産党『北朝鮮問題』2002年8月からの北朝鮮関連発言・記事

    加藤哲郎『拉致・核開発問題リンク集』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者救済のために

          『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    藤井一行『日本共産党と北朝鮮問題』萩原遼への措置、兵本達吉への批判・除名

    黒坂真  『日本人拉致問題と日本共産党』北朝鮮批判・共産党批判ファイル多数

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』

 

    朝日『拉致事件』 『核問題』 読売『北朝鮮』 毎日『北朝鮮』 日経『拉致問題』

    RENK『救え!北朝鮮の民衆』 RENK『東京』

    HP『朝鮮民主主義研究センター』 『北朝鮮問題リンク集』

    HP『北朝鮮難民救援基金』 『カルメギ』 『北朝鮮に情報公開を求める市民の会』

    Yahoo『朝鮮総連と拉致事件』 『朝鮮総連と帰国事業』 『朝鮮総連と朝鮮労働党』

    Google『朝鮮総連』 『朝鮮総連と朝銀問題』 『朝鮮総連と日本共産党』

 

 5、「赤色テロル型社会主義」北朝鮮の国家犯罪事例

 

 現在のブッシュが唱える、イラク・北朝鮮などへの『悪の枢軸』レッテルとその意図は、まさに“新しいアメリカ帝国”の誤りで、それにたいし徹底してたたかう必要がある。それとは、別個の問題として、金日成・金正日は、14の社会主義国が犯した権力犯罪の中でも、まれにみるような、常軌を逸した数々の犯罪を国家として遂行してきたことは、明白な事実である。ここでは、主な項目だけ指摘する。

 

 1、国内犯罪

 

 飢餓と餓死 自国民にたいして、飢餓とともに、200数十万人を餓死させた。この原因には、天災もあるが、社会主義経済・農業政策失敗による比率の方が高いといえる。もっとも、その誤りの根源は、レーニン・スターリン以来の『現存した社会主義体制』の人権軽視体質にある。

 

 レーニンは、1921〜22年、ソ連国民500万人を餓死させた。スターリンは、1933年の飢饉で、600万人を餓死させた。レーニンのときは、天災要因もあったが、基本的には、レーニンの根本的に誤った「食糧独裁令」による秘密政治警察チェーカー、赤軍を使った『穀物・家畜の軍事・割当徴発』が原因である。スターリンのときは、天災はなかった。彼の『コルホーズ・システムによる穀物強奪、穀物飢餓輸出による重工業優先開発資金獲得路線』という“未必の故意”による農民600万人殺害政策の結果だった。“未必の故意”とは、「社会主義一党独裁権力の維持・強化路線のために、農民の数百万人程度は餓死するかもしれないが、それもやむをえない」とするレーニン・スターリン・金正日らの思想・心理状態のことである。

 

 スターリン・ソ連共産党は、それだけでなく、日本人60万人シベリア拉致・抑留犯罪をし、その内、6万人を(1)飢え、()寒さ、(3)強制労働の3つを死因として、『“未必の故意”によるシベリア極寒(マローズ)殺人』をした。ソ連共産党が行なった日本人6万人殺害の詳細なデータは、私(宮地)のHP『「異国の丘」とソ連・日本共産党』に載せた。

 

    李英和『北朝鮮の90年代飢饉を考える』 誰が、なぜ犠牲になったか

    Google検索『北朝鮮の飢餓・餓死』

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』 日本国民60万人拉致・抑留、6万人極寒殺人

 

 一党独裁と強制収容所 権力奪取をしたマルクス主義前衛党は、このファイル冒頭にのべたような政党理念から必然的に、一党独裁型政治体制の確立を目指す。「一党独裁」は、国家犯罪体制になる。なぜなら、それまで並存してきた他政党・党員を暴力で排除し、銃殺・国外追放し、または、強制収容所送りにしなければ、一党独裁システムは完成しないからである。レーニンは、5年2カ月間の最高権力者期間中に、84カ所の強制収容所を世界で初めて創設し、ボリシェヴィキ以外の他党派を絶滅させた『偉大な革命英雄』である。

 

 一党独裁権力を維持するからには、その後も、共産党・労働党と異質の政治思想をはぐくもうとする者を、すべて弾圧しなければならない。国民から、言論・出版の自由権を完璧に剥奪し、情報統制を秘密政治警察の権限にゆだねるだけでは不充分である。全土を『収容所群島化』するのは、一党独裁型社会主義の必然的付随路線となった。その法則どおりに、北朝鮮も『収容所半島』になった。HPにその地図がある。『北朝鮮収容所半島』の実態については、多数の出版物が出ている。

 

    北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会『カルメギ』 ページ末に「強制収容所配置図」

    北朝鮮リポート『5カ所に政治犯収容所、20万人あまりを収容』

             『1987年、穏城収容所で5000人を大虐殺』

    Google検索『北朝鮮の強制収容所』

    Chosunjournal『ナチス、ソ連と北朝鮮収容所の比較』(英文)

 

 出入国権剥奪と脱北者 14の社会主義国では、自由な出国ができず、非合法の「亡命」になる。ロシア革命では、200万人がヨーロッパに亡命した。残存する一党独裁型社会主義国においても、北朝鮮の出入国権剥奪システムは、完璧である。そこから、中国「瀋陽」事件、その他のような「脱北者」問題が発生している。現在、中国には、脱北者が数万人から数十万人いるといわれている。中国共産党側も、朝鮮労働党の共産主義友党として、彼らの「中国からの自由出国」を認めようとしない。

 

 脱北者は、まず鴨緑江か豆満江を渡って、中国に逃れる。そこから“幸いにも”韓国に亡命できる人は、ごく一部である。韓国統一省は、2003年1月16日、韓国亡命人数を発表した。それによると、2000年312人、2001年583人、2002年1141人となった。

 

    李英和『何故いま「北朝鮮難民」なのか』 私が中国国境からみたもの

    RENK『北朝鮮難民問題関連』 難民駆け込みと取り締まり

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』

    Google検索『北朝鮮の脱北者』

 

 2、対韓国犯罪

 

 韓国の軍事クーデター、軍事独裁、民主化過程には、いろいろ問題がある。金大中拉致事件は、韓国による明白な国家犯罪だった。しかし、そのことによって、北朝鮮が、韓国にたいして、いかなる国家犯罪も許されるべきという論理は、成り立たない。

 

 韓国にたいする犯罪事例は、無数にある。大きな事件だけでも、北朝鮮武装工作隊による青瓦台事件、ラングーン・韓国閣僚爆殺テロ事件、大韓航空機爆破事件などがある。1987年11月29日の大韓航空機爆破事件は、ソウル五輪にソ連や社会主義国家が参加し、北朝鮮の権威が低下することを防ぐ狙いを持った国家テロだった(『最新データブック』P.56)。多数の対韓侵入事件は、HPデータにある。日本人拉致犯罪事件も、金日成・金正日の「赤化統一」作戦に基づく、対韓侵入工作の一環である。「赤化統一」目的のためには、いかなる犯罪手段も、日本人拉致犯罪も“正義の、英雄的行動である”というのが、この「赤色テロル型社会主義」の国家倫理なのである。北朝鮮「特殊機関員」は、レーニンの秘密政治警察チェーカー要員「チェキスト」と同じく、『国家英雄』である。

 

    北朝鮮ニュース『北朝鮮による韓国への主要な挑発事件』 1950年代〜90年代

 

 3、国際犯罪

 

 覚せい剤製造密輸・にせ札の国家製造、重武装工作船、ミサイル輸出、核開発などいろいろある。日本人拉致(殺害)犯罪も、その一つである。核開発状況については、「北朝鮮核開発研究者の手記」がHPにある。この全体像は、北朝鮮が崩壊しないことには、分からない。ソ連共産党の諸犯罪が判明してきたのは、1991年ソ連崩壊後だった。

 

    朴東明『ペクトラジ(白桔梗)―北朝鮮におけるアヘン栽培の実態』

    Google検索『北朝鮮と工作船』 『北朝鮮とにせ札』 『北朝鮮と核開発』

    Yahoo『北朝鮮の核開発』 LYCOS『北朝鮮と核開発』

 

 このファイルにおける私の立場は、朝鮮民主主義人民共和国が、崩壊した10カ国と同じ「一党独裁型犯罪国家」として、『必然的に崩壊する』というものである。ただ、()『崩壊すべき』、()『そのうち自然に崩壊するだろう』、()『ソフトランディング(軟着陸)で崩壊させる』、()『対タリバン、対イラク方式で強制崩壊させる』というのは、それぞれで大きな差異がある。もちろん、私が『20XX年までに崩壊する』とする政治体制は、他の残存する一党独裁体制の中国、ベトナム、キューバを含む。

 

 残存4カ国が、その経済システムの差異を別問題として、『政治体制の崩壊→民主主義国家への転換』をしたかどうかの評価基準は、2つある。()一党独裁という反民主主義的・(他党派絶滅)犯罪的政治体制の完全放棄である。()現在の独裁政党内部において、レーニンが確立した「民主主義的中央集権制と分派禁止規定の結合」という党内民主主義抑圧・破壊の組織原則を撤廃することである。崩壊した10カ国は、この(1)(2)の政治体制になった。ただ、現在の「ロシア共産党」が、民主主義的中央集権制を放棄しているかどうかは不明である。

 

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』 ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

 

 

 6国家事業「日本人70〜80人拉致作戦」の目的と犯罪者たち

 

 〔小目次〕

   1、『拉致被害者13人中、8人死亡』という北朝鮮文書のウソ

   2、拉致日本人の利用目的とその変質

   3、北朝鮮拉致(殺害)事件の犯罪者たち

 

 1、『拉致被害者13人中、8人死亡』という北朝鮮文書のウソ

 

 この『8人死亡』文書内容は、8人の死因、墓地流出、遺骨、各種年月日などを見る限り、そのほとんどがウソと断定できる。ウソとする根拠については、家族、マスコミが指摘しているので、ここでは書かない。それだけでなく、『拉致の疑い』被害者は、2002年11月17日の政府判断で、70人〜80人になった。

 

 シベリア拉致・抑留60万人中、約6万人の死亡について、ソ連共産党・政府は、さまざまなウソの数字を出した。さらに、私のHPに載せたように、ソ連崩壊後の機密資料によって、フルシチョフが『日本人墓地破壊指令』を出して、ブルドーザーで実際に破壊したことも、証明された。共産党・労働党が「私的所有」する一党独裁国家は、平気で「人道に反する犯罪」を犯すとともに、その被殺害者の墓・遺骨をも破壊して、証拠隠滅工作をする「社会主義倫理」を共有していると考えた方が自然であろう。

 

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』 フルシチョフの『日本人墓地破壊指令』

 

 2、拉致日本人の利用目的とその変質

 

 1977年から80年に集中した、日本本土からの当初の日本人拉致目的は、3つある。ただ、その期間について、『最新データブック』(P.42)は、『1975年から85年までのおよそ10年間が「日本人拉致工作の時代」とみられる』としている。

 

 (1)、拉致日本人を、「金日成総合大学」「金正日政治軍事大学」における対韓潜入工作員の日本語・日本の風俗習慣教育の教師にすることである。工作員が、他の在日朝鮮人になりすまして、韓国潜入をするためである。祖国帰国事業の帰国在日朝鮮人は、93000人いても、日本語・日本の風俗習慣などの点で、日本人と比べると微妙な違いもあり、その教育の役にたたない。

 

 (2)、対韓潜入工作員が、拉致した日本人本人になりすまして、そのパスポートをとり、生涯経歴を暗記し、その日本人として韓国潜入をするためである。韓国の北朝鮮工作員摘発体制が整ってきたので、韓国潜入が困難となった結果、日本人拉致・「拉致日本人へのすりかわり」方針を採用した。彼らは、この方針を『背乗り(はいのり)』と名付けている。

 

 この方針採用のきっかけについて、日経新聞は、2003年1月19日付で次の記事を載せた。(1/19)北朝鮮の日本人拉致、1974年文世光事件が契機か―公安当局分析。久米裕さん(当時52)拉致事件などを調べている警視庁公安部は、一連の日本人拉致事件の契機は、在日韓国人が韓国大統領を狙った1974年の「文世光事件」だったとの見方を強めている。同事件で韓国は北朝鮮の「対南工作」への警戒を一層強めたため、北朝鮮は工作員を韓国へ潜入させる際、拉致した人の戸籍などを利用し実在の日本人になりする「背(はい)乗り」のために、複数の工作機関に拉致を実行させたとみている

 

 (3)、対日工作・情報収集作戦として、日本本土非合法上陸方針もあった。その手段が、工作船、重武装工作船、そこに内蔵された小型船・ゴムホート・水中スクーターなどである。日本本土非合法上陸は、韓国非合法上陸の工作員訓練機能も持った。HPを見ても、摘発された韓国非合法上陸件数だけでも数十件ある。訓練目的・任務を『将軍様』から与えられた工作員は、日本本土非合法上陸任務を成功裡に成し遂げたという“物的証拠”を持ち帰って、特殊機関指令部にそれを提出する義務がある。13歳の少女では、(1)(2)にとても利用できない。1977年の横田めぐみさん拉致は、上陸任務遂行の“物的証拠(人間=物体)”として“持ち帰った”ケースとする説がある。

 

 (4)、よど号グループによる1983年前後におけるヨーロッパからの日本人拉致は、「チュチェ思想」型日本革命の戦士育成、特殊機関員養成など、他の目的も含みる。ただし、これについては、よど号グループの日本への強制送還・逮捕後でないと、ヨーロッパ舞台の工作目的、拉致人数は判明しない。

 

 その後、24年間、朝鮮労働党は、拉致問題を質した日本政府、社会党にたいして、『拉致はありえない。拉致はでっち上げ』と回答し、全面拒否の“真っ赤なウソ”をついてきた。日本共産党は、その24年間、朝鮮労働党にたいして、拉致問題について、直接質したことが一度もない。ところが、2002年9月17日、金正日は、一転して、拉致事実を認め、謝罪し、13人の生死情報を出した。ただし、そこにも、ウソ情報が多数含まれていることは、マスコミ報道のとおりである。その日本人拉致文書提出の目的は2つある。拉致日本人利用目的の変質である。

 

 ()金正日には、ブッシュの『悪の枢軸』規定と「タリバン・アルカイダ壊滅作戦」式の北朝鮮攻撃の可能性にたいする恐怖がまずある。その攻撃による金正日個人独裁体制崩壊を避ける手口としての拉致承認である。これは、民主主義国家路線への根本的な戦略転換ではなく、「ブッシュによる北朝鮮爆撃回避のための“戦術的後退”」であることは、その後の経過が証明している。政権崩壊の危機に直面したとき、いかなるウソ、犯罪をしようとも、権力維持を至上命題にするのが、一党独裁権力者の倫理観である。対外的な危機であろうと、国内的な危機であろうと、その社会主義革命倫理は同じである。

 

 一党独裁権力維持を至上命題として『レーニンがしたこと』と、『金正日が現在していること』とを対比する。

 レーニンは、権力奪取3年後の1920、21年、ボリシェヴィキ一党独裁政権の誤った路線・政策にたいする農民・労働者・水兵の総反乱に会い、文字通りの政権崩壊の危機に直面した。彼は、1921年3月、総反乱の基本原因となった「食糧独裁令」をやめ、「ネップ(新経済政策)」で“戦術的後退”をし、農民の要求を一面で受け入れた。「食糧独裁令」とは、マルクスの根本的に誤った“机上の空論”「市場経済廃絶、商品=貨幣経済システムも廃絶する」路線に基づく政策である。それは、レーニン・ボリシェヴィキが、マルクス理論を『絶対的真理』と“信仰”し、1918年5月から、ロシアの状況に機械的に導入したものである。レーニンは、赤軍・秘密政治警察チェーカーの暴力を使って、9000万・80%農民からの「穀物・家畜軍事・割当徴発」を強行した。「食糧独裁令」の内容については、下記『農民』ファイルに書いた。

 

 “戦術的後退”の一方で、レーニンは、反乱農民・「ストライキ」労働者・反乱水兵ら数十万人にたいして、秘密政治警察チェーカーと赤軍を使って、銃殺、裁判なし射殺、毒ガス使用指令、強制溺死、強制収容所送りの「自国民大量殺害」弾圧で応えた。レーニンの大量殺人犯罪指令とその開始執行は、『白衛軍との内戦』が1920年夏・秋までに基本的に終結した時点以降のことである。スターリンの4000万人粛清と比べれば、レーニンは“わずか数十万人を殺害”しただけの社会主義革命英雄である。レーニンが被殺害農民・労働者・兵士にたいして貼りつけた「反革命分子」レッテルは、レーニンの恣意的なでっち上げ内容であり、殺された数十万人は、白衛軍との関係はなく、「無実」だった。レーニンは、まさに、“無実の自国民大量殺害を良心の呵責も感じずに成し遂げた最初のマルクス主義者”だった。それは、ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」6000点、膨大なアルヒーフ(公文書)で証明されつつある。その詳細データは、私の下記5つのファイルに書いた。

 

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令とレーニン「労農同盟」論の虚実』

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 

 金日成・金正日が、1945年以来、批判・反対自国民、党内4派、在日朝鮮人帰国者の内、何万人を殺害し、『収容所半島』にいれているのかの人数データは、はっきり分からない。これも、ソ連崩壊後と同じく、「情報閉鎖国家」北朝鮮が崩壊しないと判明しないであろう。

 

 (6)、ウソを含む拉致承認・表面的な謝罪手法によって、拉致日本人を人質として利用し、政権維持・延命の唯一の“金づる”=日本からの米支援と100億ドル(1兆円)相当の経済援助をとろうとする作戦である。これは、まさに、日本国内における「身代金要求誘拐犯罪事件」と同じ性質の、“拉致(誘拐)日本人を人質とする身代金強奪犯罪”である。「100億ドル=1兆円」とは、対韓国の5億ドル経済援助の時価換算推定額である。ただし、『政府判断・拉致の疑い70〜80人』(2002年11月17日公表)に及ぶ拉致日本人事件、核開発問題が全面解決した時点には、戦前1945年までにおける日本国家の植民地支配・強制連行・慰安婦問題への心からの謝罪とともに、対韓国と同程度額の経済援助を支払うのは日本政府・日本人の当然の責務である。

 

 3、北朝鮮拉致(殺害)事件の犯罪者たち

 

 拉致被害者全員(政府判断70〜80人)、その子供の救出が、国内の「身代金要求誘拐犯罪事件」と同じく、日朝国交正常化の絶対的前提条件である。ただ、誘拐犯罪者たちが、『拉致の疑い70〜80人』の「人質」全員を未だ釈放していない時点では、「犯人との交渉=国交正常化交渉」を打ち切ることはできない。国内であれば、次の問題は誘拐犯人逮捕である。しかし、朝鮮民主主義人民共和国の金正日『将軍様』を逮捕することはできない。そこで、救出の次の問題は、少なくとも、拉致犯罪指令系統と拉致システムの解明をすることになる。それを、5つの体系として分析する。

 

 その解明には、日本世論だけでなく、国際世論の圧力が必要である。それには、2つの方法がある。()国連人権擁護委員会「強制的失踪作業部会」での再調査申請が重要である。(2)、もう一つとして、「国際刑事裁判所」に提訴するやり方である。これには、日本政府が、「ローマ条約」の署名国と批准国になる必要がある。この条約は、拉致問題の解決となる「強制失踪」犯罪の解決を含んでいる。「ローマ条約」は、2002年7月1日、署名138カ国、批准76カ国で発効した。しかし、日本政府は、アメリカ・中国政府にならって、署名・批准ともしていない。日本政府にたいして、この早期批准を迫る運動が、国際世論の圧力を高める上で大切になっている。詳しい内容は、「中野徹三論文・新聞論考」にある。

 

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』 拉致被害者の救済のために

    藤井一行『国際刑事裁判所関係サイト』

    Google検索『国際刑事裁判所』

 

 ()、拉致作戦と拉致実行指令の最終的決定権者

 

 判明13人、『拉致の疑い70〜80人』の日本人拉致作戦と拉致実行指令の最終的決定権者は、金日成と金正日の2人以外にはありえない。金正日が、『自分が知らないのに、特殊機関がやった』という言い分は、明白なウソで、科学的社会主義式詭弁である。一党独裁権力維持目的のためには、手段を選ばない、むしろ、社会主義体制維持目的は、拉致・殺害・ウソを含めてあらゆる犯罪手段をも正当化するというのが、14の「現存した(する)社会主義」権力における「目的と手段の関係」論理である。

 

 オーウェルは、『1984年』末尾において、『権力は手段ではない。目的なのだ』と思想警察党員オブライエンに言わせた。その本音は、14の一党独裁・他党派全員殺害型の反民主主義国家最高権力者が共有する思考スタイルである。

 

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』

 

 もっとも、それは、社会主義国だけとは限らない。比較としてはやや脱線するが、日本国家でもあった。日本敗戦が濃厚になった時点で、昭和天皇と側近権力者たちが、ひたすら追及したことは、『国体護持=天皇制の存続』の“保障をアメリカ・ソ連からひそかに取りつけること”だった。日本国民や兵士たちが、南方・中国・沖縄・本土で300万人死のうとも、そこに何の価値も置かなかったことと同じである。天皇の戦争責任は自明のことだった。昭和天皇が中国侵略戦争拡大・日米開戦およびポツダム宣言受諾の最終的決定権者であったことは、歴史の真実である。それと同様に、朝鮮労働党が「私的所有」する独裁国家において、金日成・金正日が北朝鮮拉致(殺害)事件の最終的決定権者・指令者であったことは、100%間違いない。

 

 レーニンの自国民数十万人殺害犯罪の指令系統、スターリンの4000万人粛清や1936〜38年の600万人粛清「大テロル」中、68万人から100万人処刑の指令系統とその殺害結果からも、一党独裁型反民主主義国家システムに共通する指令体系として証明できる。ソ連崩壊後に判明したレーニン・政治局による『「反乱」農民の大量殺害指令・極秘資料10件』が、それを証明している。

 

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令』 極秘資料10件

 

 (2)、北朝鮮工作員だけによる直接拉致

 

 工作母船→収納小型船→ゴムボート・水中スクーター→日本本土上陸地点→拉致対象者を「袋づめ」→工作母船→北朝鮮清津港、他港というルートによる拉致パターンは、ほぼ解明された。

 

 工作員は、「金日成総合大学」「金正日政治軍事大学」で教育を受け、北朝鮮エリート・朝鮮労働党員として、対韓国・対日本向け作戦の特殊機関に配属される。対韓・対日工作機関名は、朝鮮労働党の「作戦部」「対外情報調査部=35号室」、および1977年設立の「統一戦線部」(『最新データブック』P.61)などである。対韓国潜入工作手段としての日本人拉致方針は、最初の拉致実行をした1977年までに金日成・金正日が決定し、指令した。工作員数に関する一つの推測データがある。『日本の公安機関は、北朝鮮の暗号放送の送付番号から判断して、日本では少なくとも常時二百人前後の北朝鮮工作員が活動している、と推測している』(『最新データブック』P.60)。その担当部署が、全体で何人の工作員を抱えていたのかは、最高国家機密事項なので、分からない。

 

 というのも、レーニンの「赤色テロル」秘密政治警察機関チェーカー要員「チェキスト」人数とその自国民殺害数が判明したのも、1991年ソ連崩壊後のことだったからである。レーニンは、『ソヴィエト以上』『党以上』の権限を実質的に持たせたチェキスト人数を、1918年末に約4万人、1921年初めには28万人以上に増加させ、完全な秘密政治警察型社会主義システムを構築した。朝鮮労働党の秘密政治警察「国家安全保衛部」を中核とするさまざまな「特殊機関」設立・活動は、レーニン以来の一党独裁型社会主義国家の伝統である。他の秘密政治警察型国家とその機関名では、東ドイツの「シュタージ」、ルーマニアの「セクリターテ」が有名だった。

 

    ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』 第一回全ロシア・チェーカー会議

 

 (3)、「朝鮮総連」指導部内の朝鮮労働党党員グループ、または「学習組」の関与

 

 「朝鮮総連」は、北朝鮮系在日朝鮮人の大衆団体である。1955年5月25日、日本共産党指導下の「民戦」から、朝鮮労働党の指導を受ける「朝鮮総連」になった。そこには、朝鮮労働党“日本支部”としての「党員グループ」が結成された。「民戦」時期には、「日本共産党中央軍事委員会」志田→李恩哲という指導系統で、「民戦」内「在日朝鮮人日本共産党員グループ」が、すべての方針を決定し、「民戦」「祖防委」「祖防隊」参加の北朝鮮系在日朝鮮人を、火炎ビン闘争、警察署襲撃、火炎ビン・デモなどの「祖国解放武装かく乱朝鮮戦争=日本共産党の武装闘争」に決起させた。彼らは、日本人党員の「中核自衛隊」500組8000人、「独立遊撃隊」よりも、勇敢にたたかっただけに、検挙・解雇などの犠牲規模・程度は、日本人党員兵士以上に悲惨だった。

 

 「朝鮮総連」にたいする北朝鮮本国指導部署は、朝鮮労働党「社会文化部(対外連絡部)」であることは明確になっている。「朝鮮総連」内の非公然組織「学習組(がくしゅうそ)」こそが、本国の党の直接指導を受ける「在日朝鮮人朝鮮労働党員グループ」の役割を果す機関である。韓光熙・元「朝鮮総連」中央本部財政局副局長は、『わが朝鮮総連の罪と罰』(文芸春秋、2002年4月、P.67)で、次のように証言している。『(1961年4、5月、総連県本部委員長が)韓光熙同務、君を学習組員に推薦する』『ここは日本だから学習組という言葉を使うが、じつは栄光ある朝鮮労働党の在日非公然組織のことだ。つまり、我々は、君を朝鮮労働党員に推薦しようというわけだ』。

 

 70〜80人以上の日本人拉致実行には、拉致対象日本人のリストアップ、上陸地点数十カ所の設定、日本国内アジト、拉致被害者になりするパスポート取得、韓国潜入資金・ルート情報収集などの犯罪的非合法活動が必要になる。それには、「在日朝鮮人朝鮮労働党員グループ」=「学習組」の関与・支援が不可欠である。元朝鮮労働党員・韓光熙は、次の証言もしている。『北朝鮮の工作員が上陸する侵入ポイントは、現在、日本国内におそらく一〇〇カ所以上あるものと推測される。そのうち六〇年代の後半から三年か四年かけて私がつくった場所が、北海道から鹿児島まで全部で三八カ所ある』として、その地図も載せた(P.97)

 

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私(韓光熙)がつくった北朝鮮工作船着岸ポイント38カ所

 

 「朝鮮総連」の中央・都道府県指導部は、ほとんどが朝鮮労働党員である。それは、日本共産党指導下の「日本民主青年同盟」が、その中央・都道府県指導部のほぼ全員が日本共産党員であり、それぞれの被選出機関内に「日本共産党民青グループ」を作っていることと同じである。コミンテルン型共産党は、すべて、共産党中央委員会と共産党系大衆団体内党員グループとが、「民主主義的中央集権制」という上意下達の組織原則で対応している。それは、日本共産党でも、朝鮮労働党でも同一である。

 

 したがって、「朝鮮総連」指導部内の朝鮮労働党党員グループ、および非公然組織「学習組」グループが、朝鮮労働党「社会文化部(対外連絡部)」の指令に基づいて、この日本人拉致犯罪に、直接、深く関与していたのは当然であろう。「一時帰国」5人に同行してきた「朝鮮赤十字」2人は、拉致問題を統括している「社会文化部(対外連絡部)」所属の朝鮮労働党員である。しかし、現時点では、その犯罪証拠、元「朝鮮総連」幹部の拉致直接関与証言はない。

 

 『「学習組」の系統図』が公表された。「朝銀愛知」を相手取り、北朝鮮系商社が約17億円の損害賠償裁判を、2002年に起したとき、名古屋地裁に提出した「証拠資料」である。これは、中日新聞夕刊(2002年11月12日)のデータである。

 

 (1)朝鮮労働党「朝鮮総連」中央(専門局)「学習組」→(2)「朝鮮総連」地方本部「学習組」指導委員会→(3)総連地方本部「学習組」→()「朝鮮総連」支部「学習組」指導委員会→()総連支部・分会「学習組」である。これに並列する形で、「朝鮮総連」傘下団体・事業体「学習組」が、(1)から(6)まである。「学習組」指導委員会とは、マルクス主義前衛党の組織系統に共通するもので、日本共産党の場合の、日本共産党常任幹部会19人→47都道府県常任委員会→三百数十地区の常任委員会→26000支部LC(Leader Class=支部指導部)と同じである。「朝銀信用組合」破綻の裏側には、「朝銀」を食い物にした「学習組」による北朝鮮送金疑惑がある。

 

    Google検索『朝鮮総連内の「学習組」』 『朝銀破綻と公的資金投入』 3102億円投入

 

 金正日が拉致事実を正式に認め、謝罪したことにより、「朝鮮総連」も『拉致はでっち上げ』としてきたことについて、正式の謝罪声明を出した。しかし、自分たち「朝鮮総連」指導部内の朝鮮労働党党員グループ、または「学習組」グループの拉致関与事例を具体的に公表していない。それをしない限り、その『謝罪』は、うわべだけの、金正日が認めたレベルを『追認謝罪』したことにすぎない。

 

 (4)、北朝鮮系在日朝鮮人で分離家族にたいする拉致協力の強制・脅迫

 

 祖国帰国事業で帰った93000人の内、北朝鮮帰国者と日本残留者とに分離した家族・親戚の数字データは、「朝鮮総連」しか分からないが、50%前後がいると推定する。日本人妻1831人を含む日本人6800人のほとんどには、日本人家族・親戚が日本にいる。帰国者たちの生活は悲惨で、衣食に事欠き、日本残留者に『衣食、時計など換金可能物品、現金の送付依頼』の手紙を、何度も出した。在日朝鮮人が主人公の映画『月はどっちにでている』や『GO』の中にも、送付物のダンボール箱詰めシーンや会話がある。

 

 国家事業『日本人拉致作戦』の遂行において、金日成・金正日が決定・指令した方針の一つが、日本残留在日朝鮮人の家族・親戚にたいして、拉致協力を、“帰国者を人質にとって”、強制・脅迫することだった。その具体的データが、「日本直派工作員」辛光洙の死刑判決文の内容である。HPだけでなく、『アエラ』(2002年10月14日号)もその分析を載せた。

 

 辛光洙工作員は、“帰国者を人質にとって”、強制・脅迫する手段を用いつつ、13人の協力者を組織した。その分析をする。12人が北朝鮮系在日朝鮮人で、大阪4人、東京・横浜6人、長野2人である。2人は、朝鮮労働党員にさせられ、2人が北朝鮮であるパイ教育を受けた。「朝鮮総連」傘下の「商工会役員」2人は、辛光洙に工作金3000万円と4000万円を渡した。別の3人は、辛光洙の潜伏アジトの提供または紹介をした。その中で、「朝鮮総連」傘下の「商工会役員」1人が、自分の中華料理店の日本人コック・原さんを「拉致対象者」として報告した。

 

 1980年6月、辛光洙、朝鮮労働党員になった元朝鮮学校校長、中華料理店店主が、原さんを宮崎県海岸に連れ出し、別の工作員のゴムボートに乗せ、北朝鮮に拉致した。辛光洙は、そこで、原さんになりすまし、原さんのパスポートを取得し、韓国に潜入し、逮捕されたのである。同一日本人が2人生存しているわけにいかないので、北朝鮮文書では、『原敇晁は死亡した(殺害した?)』ことにしてある。

 

    RENK『辛光洙死刑判決文』

 

 ()、よど号グループが遂行したヨーロッパでの日本人拉致行動

 

 彼らは、ヨーロッパでの拉致関与を全面否定している。しかし、元グループの証言、ヨーロッパでの写真など、物的証拠は揃っている。彼らの北朝鮮拉致(殺害)事件への関与は、間違いのない事実である。ヨーロッパでの拉致方針の決定・指令は、彼らが独自にできるはずがなく、これも金日成・金正日が行なったものである。

 

 ヨーロッパでの日本人拉致件数は、数十件という説もある。このような任務の無条件遂行をする「よど号グループ」の心理、倫理観の堕落・腐敗ぶりには、言う言葉もない。HPにそのデータがある。

 

    AKIMASA『よど号ハイジャック事件』

    HP『よど号ハイジャック事件』 Yahoo『よど号グループ』 LYCOS『よど号・赤軍派』

 

 

 7日本共産党と朝鮮労働党との関係史

      友党・讃美→決裂・批判→事実上の友党・無批判

 

 〔小目次〕

   第1期、国際共産主義運動の友党、讃美・蜜月関係 1945年〜1968年9月

   第2期、金日成・「朝鮮総連」の日本共産党にたいする干渉と日朝両党決裂 1970年3月〜2000年

   第3期、日本共産党と「朝鮮総連」(=朝鮮労働党)との友党関係修復 2000年11月20日〜現在

 

 第1期、国際共産主義運動の友党、讃美・蜜月関係 1945年〜1968年9月

 

 〔第1期・小目次〕

   1、朝鮮戦争前「在日本朝鮮人連盟(朝連)」期 1945年10月〜1949年9月

   2、朝鮮戦争期間中の「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)」期 1951年1月〜1955年5月24日

   3、「民戦」から「朝鮮総連」への在日朝鮮人組織の路線転換 1955年5月25日〜現在

   4「祖国帰国事業」 1960・61年がピーク

   5、北朝鮮「武装小部隊」のソウル青瓦台襲撃事件と日本共産党の擁護 1968年1月21

   6金日成の「北朝鮮建国20周年記念祝賀会」への宮本顕治招待、宮本顕治

     の北朝鮮体制絶賛挨拶と16日間の接待供応 1968年8月19日〜9月3日

 

 1、朝鮮戦争前「在日本朝鮮人連盟(朝連)」期 1945年10月〜1949年9月

 

 1949年、朝鮮民主主義人民共和国が成立した。1945年以来の朝鮮分断で、在日朝鮮人は、北朝鮮系「朝連」と韓国系「(居留)民団」とに分かれた。日本敗戦の1945年に250~260万人いた在日朝鮮人は、日本の植民地から解放された祖国へ、続々と帰国し、2年後の1947年には約76万人になっていた。その内、組織構成員は、「朝連」40万人、「民団」20万人だった。

 

 日本敗戦によって、在日朝鮮人の権利意識、差別とのたたかいは一気に高揚し、日本各地で激しい政治・生活要求運動になった。それにたいするマッカーサーと日本警察の弾圧は過酷なものだった。マッカーサーは、1949年9月、「朝連」「朝連民主青年同盟」を強制解散させた。「朝鮮人学校」の大部分の閉鎖を命令した。

 

 「朝連」内の活動家は、朝鮮労働党でなく、日本共産党にぞくぞく入党した。この時期の「朝連」指導者は、日本共産党政治局員金天海だった。マッカーサーは、彼を、1950年6・6追放で、日本共産党政治局員の一人として、追放した。

 

 この時期の日本共産党と朝鮮労働党は、国際共産主義運動の一員として、「友党」「相互讃美」「共産主義の同志的連帯」で堅く結ばれていた。「共産主義友党」関係のレベルは、社会党にたいする「友好政党」扱いと、まるで違う。なぜなら、前衛党理論は、“真理を認識できない”「社会民主主義政党」を蔑視し、いずれは一党独裁のために殲滅する対象だからである。朝鮮労働党にとって、日本社会党は、日本の左翼勢力を取り込む上での「利用対象」にすぎなかった。

 

 ただ、1945年から1962年頃までは、日本共産党、朝鮮労働党とも、ソ連共産党、中国共産党にたいして完全従属状態にあった。しかも、1953年3月5日、スターリンの死去までは、朝鮮戦争の開戦許可・戦争指揮などからも分かるように、日本・朝鮮・中国の3党とも、スターリンへの隷属状況にあった。在日朝鮮人が日本共産党側に入党したのも、「一国一前衛党」理論に基づいて、ソ連・中国共産党とも、それを承認していたからである。

 

 2、朝鮮戦争期間中の「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)」期 1951年1月〜1955年5月24日

 

 日本共産党中央委員会は、スターリンの『宮本は分派』裁定にたいする宮本顕治“分派”の屈服・復党により、1951年11月初旬に、徳田・野坂を指導部として、“統一回復”をしていた。「朝鮮侵略戦争加担の武装闘争」をしたのは、「徳田・野坂分派」ではなく、宮本顕治らすべての反徳田5分派が解散・復党した、1951年11月17日「五全協」の“統一回復”日本共産党そのものである。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』 武装闘争責任論の盲点

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

 

 日本共産党内の在日朝鮮人「軍事」指導系統は、明白になっている。(1)志田党中央ビューロー・中央軍事委員会、党中央民族対策部(民対)→(2)李恩哲日本共産党中央委員・中央軍事委員・「民戦」内日本共産党グループトップ・「民戦」指導者→(3)「民戦」内の日本共産党中央在日朝鮮人党員グループ10数人→(4)「民戦」→()武装闘争組織「祖国防衛委員会(祖防委)」→()在日朝鮮人武装闘争実行部隊「祖防隊」という軍事指揮系統だった。「祖防隊」は、日本人共産党員の武力かく乱戦争部隊「中核自衛隊」500組8000人や「独立遊撃隊」と連携した武装闘争をしたり、独自に武力かく乱戦争行動をした。

 

 朝鮮戦争という“祖国解放戦争=武力南進統一”が始まっていただけに、在日朝鮮人日本共産党員と活動家たちは、“統一回復”日本共産党が出した「軍事方針」「日本における武力かく乱戦争作戦」指令に基づいて、火炎ビン・警察署襲撃・火炎ビンデモ闘争に、日本人共産党員兵士以上に、勇躍して突入して行ったのは当然だった。

 

 この期間、日本共産党と朝鮮労働党は、「朝鮮本土における侵略戦争」政党と「後方兵站補給基地における武力かく乱戦争」政党として、“赤い血で結ばれた戦友”政党だった。もちろん、朝鮮労働党・金日成は、スターリンの戦争指揮下にあり、日本共産党の「北京機関」は、スターリン・毛沢東の「後方基地武力かく乱戦争」指揮に忠実だった。

 

 3、「民戦」から「朝鮮総連」への在日朝鮮人組織の路線転換 1955年5月25日〜現在

 

 1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定後、金日成は、北朝鮮復旧の「人・金・技術」を緊急に必要とした。ソ連・中国への援助要請だけでは足らない。そこで、目をつけたのが、76万人の在日朝鮮人だった。金日成は、それまでの日本共産党系「民戦」と在日朝鮮人日本共産党員を、北朝鮮側に取り戻す路線を打ち出した。この路線転換には、中国共産党の実質的な指令があった。その複雑な経過・背景については、萩原遼が『北朝鮮に消えた友と私の物語』「第4部」(文藝春秋、1998年、P.308〜366)で分析している。

 

 その結果として、金日成路線が勝利し、(1)「民戦」解散、(2)在日朝鮮人日本共産党員全員の日本共産党離党、(3)翌日「朝鮮総連」結成、(4)在日朝鮮人の朝鮮労働党員グループ結成、非公然組織「学習組」結成へと進んだ。この路線転換が、次の「祖国帰国事業」の布石になった。ただ、この転換には、中国共産党の指令があったので、日朝両党の対立は表面化しなかった。2党は、「共産主義友党」関係を維持した。

 

 4「祖国帰国事業」 1960・61年がピーク

 

 「祖国帰国事業」は、1959年から1989年まで続き、93346人、内日本人妻1831人を含む日本人6800人が北朝鮮に帰国した。ピークは、1960・61年で、その2年間に71837人が帰り、在日朝鮮人は、約67万人になった。この帰国運動が、金日成、朝鮮労働党、「朝鮮総連」による『地上の楽園』『冷蔵庫は牛肉や豚肉でいっぱい』という真っ赤なウソによる謀略であったことは、上記に書いた。

 

 日本共産党は、この運動を全面支援した。「赤旗」でのキャンペーンだけでなく、日本共産党員映画撮影監督宮島義勇に指令し、記録映画『千里馬(チョンリマ)』を撮らせ、日本全国で上映運動を展開し、93346人の帰国に大きな役割を果した。日本共産党は、金日成の『千里馬』運動を、英雄的な社会主義建設事業と絶賛した。

 

    Google検索『北朝鮮帰国事業』 「朝鮮総連」の責任を問う裁判

    大日本史『番外編・朝鮮の巻』北朝鮮帰国事業の罪』

 

 5、北朝鮮「武装小部隊」のソウル青瓦台襲撃事件と日本共産党の擁護 1968年1月21・22日

 

 これは、朝鮮人民軍特殊部隊31人が、ソウル青瓦台に突入した「北朝鮮武装ゲリラ事件」である。朝鮮人民軍ゲリラは、27人が射殺され、韓国側は68人が死亡した(『小辞典』No.0587)

 

 事件発生について、韓国だけでなく、世界・日本のマスコミも、北朝鮮「武装小部隊」のソウル青瓦台襲撃と報道した。それが真実だった。ところが、驚くべきことに、日本共産党だけは、北朝鮮側侵略行為であることを否定した。北朝鮮の侵略戦争挑発行為を、日本共産党は国際共産主義運動友党として、弁護した。

 

 その詳細なデータを「お笑い共産党」さんが、論証している。現在も、日本共産党は、その「弁護論」の誤りを認めたり、自己批判することなく、“都合の悪いこと”を隠蔽している。しかも、7カ月後の下記「金日成の宮本顕治招待」で、『「南進」のくわだての危険性と有害性を率直に指摘した』と、朝鮮労働党との関係決裂後から、弁明し始めた。

 

 もっとも、かなり経って、「北朝鮮武装工作員の裁判」判決を見てから初めて、日本共産党は『北朝鮮がやった行為』であると認めた。しかし、事件直後の『北朝鮮擁護の発表』が誤りだったとは、一度も認めていない。

 

    お笑い日本共産党『青瓦台事件に対する日本共産党の無責任な総括』

    Google検索『青瓦台襲撃事件』

 

 6金日成の「北朝鮮建国20周年記念祝賀会」への宮本顕治招待、宮本顕治

   の北朝鮮体制絶賛挨拶と16日間の接待供応 1968年8月19日〜9月3日

 

 共産主義友党としての日朝両党会談は、この3年間で3回も、すべて平譲で持たれている。それは、『日本共産党の七十年・年表』(P.178〜200)にある。

 (1)、1966年3月21日、宮本顕治書記長・団長と金日成委員長・団長とが会談し、共同声明に調印した。

 ()、1968年2月28日、西沢富夫幹部会員・幹部会員と金日成書記長・団長とが会談した。これは、青瓦台襲撃事件の1カ月後である。

 (3)、1968年8月19日〜9月3日、宮本顕治は、「北朝鮮建国20周年記念祝賀会」への金日成からの招待に応じ、平譲・北朝鮮で16日間もの接待を受けた。宮本顕治は、「祝賀会」で、北朝鮮体制絶賛挨拶をした。訪問中の8月20日、ソ連など5カ国軍の戦車が、チェコスロバキアに侵入し、「プラハの春」を鎮圧した。ソ連従属のチェコ共産党新体制は、チェコ共産党員50万人を除名し、職場解雇をした。宮本顕治書記長・団長と金日成書記長・団長との会談は、8月24日の一日だけだった。宮本顕治は、他の15日間も、どんな“接待”を受けていたのであろうか。

 

 『日本共産党の七十年』『年表』は、8月24日の会談で、日本共産党が『北朝鮮の冒険主義的な「南進」問題を批判した』としている。志位和夫委員長も、金正日が拉致事件を認めて以降、しきりに、当時から、日本共産党は北朝鮮を批判したと弁明している。しかし、当時の日朝両党関係実態から見て、チェコ侵入事件について意見の相違があったとしても、宮本顕治が、金日成の『冒険主義的な「南進」』を批判するはずがない。まず、(1)、当時の「赤旗」には、そのような記事がひとつも載っていない。(2)、私は、当時、日本共産党愛知県委員会の専従だった。「赤旗」に公表しない党中央の「非公表方針」でも、県委員会専従会議に報告されるが、北朝鮮批判の方針はまったくなかった。

 

    Google検索『宮本顕治と朝鮮労働党』

 

 これは、掲示板で討論されているように、日本共産党宮本・不破・志位らが“後から捏造した党史”である。党史の捏造・歪曲・隠蔽は、スターリン時代に、その極致に達した。スターリンが、レーニン・スターリン・トロツキー・ブハーリンなどが映っている歴史的写真から、暗殺したトロツキーや、銃殺したブハーリン、ジノヴィエフらを削除した「偽造写真」を公表していたことは、その象徴である。ソ連共産党、朝鮮労働党、日本共産党とも、ありとあらゆるウソ、歴史の偽造・歪曲・隠蔽をするマルクス主義政党と見るのが、騙されないコツともいえる。

 

 

 第2期、金日成・「朝鮮総連」の日本共産党にたいする干渉と日朝両党関係決裂 1970年3月〜2000年

 

 〔第2期・小目次〕

   1、よど号ハイジャック事件と北朝鮮の「赤軍派」犯人受け入れ、日本共産党の朝鮮労働党批判 1970年3月31日

   2金日成・「朝鮮総連」の日本共産党にたいする干渉と日朝両党関係決裂の発端 1971年〜1972年

   3、「新日和見主義分派」600人査問・100人処分の党史上最大規模の冤罪・粛清事件 1972年

   4、日朝両党関係の決定的断絶 1983年〜2000年

 

 1、よど号ハイジャック事件と北朝鮮の「赤軍派」犯人受け入れ、日本共産党の朝鮮労働党批判 1970年3月31日

 

 朝鮮労働党が、「赤軍派」ハイジャック犯人を受け入れたことは、日本・世界の世論も考慮に入れつつ、マイナス要因があろうとも、総体として、彼らの利用価値の方がはるかに高いと判断したからである。また、この事件によって、日本共産党と対立・決裂しようとも、彼ら犯人だけでなく、日本にいる「赤軍派」や「新左翼」勢力、社会党を利用することに路線転換することの方が、朝鮮労働党の対日本・対韓国政策にとって有利になると決断したからである。よど号ハイジャック事件の詳細、彼らの現状については、HPにある。

 日朝両党関係は、この段階において、批判というレベルで、まだ決裂にいたっていない。

 

    AKIMASA『よど号ハイジャック事件』

    検索『Yahooよど号グループ』  『LYCOSよど号・赤軍派』

 

 2金日成・「朝鮮総連」の日本共産党にたいする干渉と日朝両党関係決裂の発端 1971年〜1972年

 

 決裂経過を確認する。ただし、『日本共産党の七十年・党史』(P.211〜218)の記述は、簡単な項目しか書いていない。

 )、1971年1月1日、金日成は、「朝鮮総連」宛の新年メッセージにおいて、『「チュチェ思想」を輝かせよ』とのべた。これは、“偉大な真理・思想体系”である「金日成・主体(チュチェ)思想」を、北朝鮮国内だけでなく、日本国内や日本共産党にたいしても、広げ、その崇拝者を獲得せよという「朝鮮総連」にたいする指令だった。「朝鮮総連」、「朝鮮総連」内朝鮮労働党員たちは、その思想の大々的な普及運動を日本国内で展開した。「チュチェ思想」研究会を各大学、各地に作った。

 

    google検索『チュチェ思想』

 

 )、1972年4月15日、本国朝鮮労働党「社会文化部(対外連絡部)」の指令を受けて、「朝鮮総連」、在日朝鮮人朝鮮労働党員らは、『金日成の誕生日にむけた日本国内での「祝賀運動・祝賀会開催」と「金日成国家主席への贈り物」提供』キャンペーンを大展開した。これは、「金日成個人崇拝」の日本の各団体・政党への押付け運動だった。対象は、「チュチェ思想」研究会、新左翼グループ、社会党、各政党国会議員、地方自治体首長のみならず、日本共産党系「日朝協会」にも強制した。それだけでなく、日本共産党本部にも、日本共産党全都道府県委員会・地区委員会にも、「朝鮮総連」幹部が訪れて、『「祝賀運動・会開催」と「金日成への贈り物」提供』を要求した。

 

 「朝鮮総連」側のあまりにも露骨な、脅迫じみた強制ぶりに、日本共産党は、その要求を全面拒否した。そして、全都道府県委員会・地区委員会に『「朝鮮総連」が来ても、その要求を拒絶せよ』との指令を出した。気の毒なのは、日本共産党系「日朝協会」で、両者の板ばさみになったが、「日朝協会」事務局は、全員が日本共産党員であるので、党中央の指示に従った。ただ、それは、毛沢東「文化大革命」時期の日中両党関係決裂における日本共産党系「日中友好協会」事務局の悩みと同じである。

 

 ここにいたって、国際共産主義運動における連帯は基本的に崩壊し、日本共産党は、ソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党、ソ連衛星国の東欧各国共産党と絶縁した。日本共産党の「一党独裁」友党は、わずかルーマニア共産党とチャウシェスクだけになった。それだけに、宮本顕治は、2回も、ルーマニアを訪問するマニア社会主義体制とチャウシェスクに熱烈な称賛を送り続けた。ところが、宮本顕治の絶賛時点に、チャウシェスク体制は、ソ連にたいして「自主独立」姿勢を保持していても、国内では、秘密政治警察「セクリターテ」を中核とした秘密政治警察型社会主義国家、個人独裁・同族支配国家になっていた。

 

 宮本顕治は、チャウシェスクの対ソ・対国内政策の二面性を、当時のルーマニア「赤旗」特派員巌名記者からの報告で、100%知っていた。しかし、1989年「ルーマニア革命」でチャウシェスクが銃殺されると、宮本顕治は、『訪問時、まったく知らなかった』と“真っ赤なウソ”をついた。彼のウソにたいして、当時、共産党支持者・党内外からごうごうたる非難が起きた。彼は、最後まで、そのウソをつき通した“思想堅固なマルクス主義者”だった。彼は、『宮本顕治は100%知っていた』との「内部告発」をした「赤旗」特派員巌名記者にたいして、『党内問題を党外にもちだした=「真相」をばらした』規律違反とでっち上げ、報復の批判キャンペーンをした。

 

    いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本顕治批判』

 

 社会党は、日本における「金日成個人崇拝」キャンペーンに盲従し、「金日成への贈り物」を提供した。それと引き換えに、『朝鮮労働党との「友好政党」』の扱いを得た。それ以後、社会党は、“利用されているだけということ”にも気付かず、北朝鮮式招待外交で、何度も接待を受けてきた。今回の北朝鮮拉致(殺害)事件が明白になるまで、金日成・金正日の『拉致はでっち上げ』回答にたいして、一度も突っ込んだ追求をしなかった。

 

 3)、1972年7月4日、朝鮮労働党は、北朝鮮と韓国の「朝鮮統一共同声明」にたいする無条件支持押付け運動を開始した。朝鮮労働党と「朝鮮総連」は、これも、『金日成の誕生日にむけた日本国内での「祝賀運動・会開催」と「金日成への贈り物」提供』キャンペーンと同じ対象・規模で、日本国中に展開した。社会党は、これに追随し、日本共産党は、各級機関を含めて、拒否した。

 

 金日成は、日本共産党の拒絶に出会って、『日本共産党との関係の清算』『日本社会党との連携』への転換方針を出した。なぜなら、金日成にとって、社会党は、日朝両党決裂段階における日本の政党・左翼知識人との「パイプ」として、“高い使用・利用価値”を持っていたからである。

 

 3、「新日和見主義分派」600人査問・100人処分の党史上最大規模の冤罪・粛清事件 1972年

 

 外国共産党の日本共産党にたいする内政干渉は、ソ連共産党、中国共産党についで、朝鮮労働党で、3件目になった。中国共産党は、ソ連共産党からの度重なる内政干渉、スターリン個人崇拝の押付け策動を受け続け、それらにたいする反発もあって、毛沢東個人崇拝運動と合わせて、中ソ論争に突入した。朝鮮労働党は、1960年前後、ソ連共産党による干渉と毛沢東個人崇拝の両者の圧力・内政干渉を受け、それをはねのける理論として、「金日成の自力更正・主体(チュチェ)思想」を確立した。中ソ両党からの内政干渉を受け続けた朝鮮労働党が、「金日成個人崇拝運動」に発展し、今度は、金日成自らが、『世界革命の首領』と自己規定し、アジア・アフリカの発展途上国共産主義政党だけでなく、日本共産党をも、その隷属下に置こうと策謀した。

 

 そこには、国際共産主義運動が、本質的に保有するマイナス法則が働いている。それらが発生するのは、“自党だけが、その最高権力者(スターリン、毛沢東、金日成)だけが、マルクス主義真理の認識者・体現者・無謬者とうぬぼれる”レーニンの前衛党理論の誤りに根源があるといえる。

 

 日本共産党にたいして、ソ連共産党・中国共産党は、「ソ連共産党分派」「中国共産党分派」を作り、資金援助をし、日本共産党指導部そのものを転覆させ、自己の隷属共産党にしようとした。ソ連共産党は、豊富な資金援助・工作員養成手段を用いて、東欧社会主義国家だけでなく、資本主義国共産党のソ連共産党衛星党化・隷属化に成功してきた。

 

 宮本顕治が、第3番目になる、上記のような金日成・朝鮮労働党・「朝鮮総連」の内政干渉に直面して、「日本共産党内の朝鮮労働党分派」結成にたいして、強烈な疑念と警戒心を抱いたのは、当然だった。ところが、この頃には、宮本顕治自身が、権力奪取を未だしていない資本主義国共産党議長として、「宮本私的分派・宮本秘書団側近グループ」を意図的に形成し、事実上の“宮本個人独裁体制”を構築していた。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕 「宮本私的分派・宮本秘書団側近グループ」リスト

 

 その頃、日本民主青年同盟は、1970年安保闘争、1972年沖縄返還闘争、東大安田講堂封鎖にたいする1万人の「ゲバ棒、ヘルメットで武装したゲバ民(ゲバルト民青)」などの大衆闘争を経験し、民青史上最大の20万同盟員を擁する巨大組織に成長していた。その体験から、日本共産党中央委員会の上意下達型指導にたいする自立・自主性も生まれてきた。宮本顕治が、スターリンと同じく、個人独裁者の本性としての“猜疑心が強く、党内批判者を見分ける嗅覚”が異様なまでに発達していることは有名である。それについては、日本共産党本部の800人の専従・「赤旗」記者、国会議員秘書団内では、よく知られた事実である。

 

 彼の「秘書団」側近グループが、「茶坊主」「ごますり」と言われていることも、800人は誰もが知っていた。彼は、民青中央委員会内日本共産党民青グループの自立・自主的傾向、共産党中央委員会が“民青へ事前になんの相談もせず”に決定した「民青年齢制限の変更」問題にたいする民青側の批判・反発の中に、『分派の萌芽』を見つけたと考えた。

 

 同時期に、彼は、評論家川端治・ジャーナリスト高野孟ら2人が、「日本共産党内の朝鮮労働党分派」結成に動いているとの“妄想による錯覚”に陥った。彼の猜疑心は、2人と結びつきのある民青中央常任委員・全学連委員長川上徹と、「民青年齢制限の変更」問題にたいする党中央への批判・不満グループにも向けられ、党中央委員広谷俊二を交えた、一大「反党・朝鮮労働党分派」に発展していると確信した。

 

 川端治・高野孟・川上徹ら3人、その他にたいする「監禁査問」において、冒頭から、執拗に、「朝鮮労働党との関係」を詰問し続けたという事実が、宮本錯覚の存在を証明している。「監禁査問」した川端治・高野孟2人を、なんの規律違反処分にもしなかったことは、「反党・朝鮮労働党分派」の結成疑惑そのものが、宮本顕治の異常な猜疑心と妄想の産物であったことを証明している。「最高権力者の私的分派・側近グループ」を自ら強化し、党中央機関内における個人独裁度が高まれば高まるほど、自己の「私的分派・側近」以外にたいする猜疑心が異様なレベルに達するという点では、スターリンと宮本顕治は、“同類”である。

 

 しかし、“頭のいい”宮本顕治は、「朝鮮労働党分派」がなかったと分かるや、民青・学生600人査問を中止するのではなく、査問項目を「民青年齢制限の変更」問題にたいする批判・反発分子摘発に、すばやく切り替えた。彼は、100人処分を通じて、「党中央批判・不満の民青グループ」全員を「党員権1年間停止処分」にするとともに、民青中央委員会・各都道府県委員会から排除し、「党中央忠誠派民青グループ」に総入れ替えをする“対民青クーデター”を成し遂げた。宮本顕治は、日本共産党史上“もっとも偉大な大量粛清者”となった。世界の資本主義国共産党史においても、党分裂時を別として、「600人査問・100人処分」規模の冤罪・大粛清事件を“成功裡に”遂行しえた共産党指導者は、宮本顕治以外にないであろう。

 

 この「一大党内犯罪」において、上田耕一郎は、()川端治・高野孟2人を、細胞会議場所から代々木まで拉致・連行し、(2)彼らを「6日間の監禁査問」にし、(3)川上徹を「13日間の監禁査問」状態に置いたままで、自分が書いた『「新日和見主義分派」批判の沖縄返還問題』論文で、彼に“Private Lesson(特別個人授業)”をした。上田耕一郎の行為は、「新日和見主義分派」600人査問犯罪における「主任思想検事」の役割だった。

 

    『日本共産党との裁判第5部2・上田耕一郎副委員長の多重人格性』

 

 日本民主青年同盟は、1972年の20万人をピーク・転換点として、それ以後、減り続け、2008年現在、1/10の20000同盟員に激減している。地区委員会も廃止し、都道府県委員会に直結する“地区なし”民青班だけの青年団体になった。宮本顕治の“対民青クーデター”は、このような“画期的成果”を収めた。私は、共産党専従13年間に移る前、1962年頃、名古屋市の民青地区委員長を1年半やったので、宮本顕治の「党内犯罪」の性格をよく理解できる。この「新日和見主義分派」事件の詳細については、HPに書いた。

 

    『新日和見主義「分派」事件』 その性格と「赤旗」記事 高野孟HPの「高野査問」リンク

    川上徹   「同時代社通信」 著書『査問』全文掲載

    加藤哲郎 『査問の背景』 川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」

    高橋彦博 『川上徹著「査問」の合評会』

    れんだいこ『新日和見主義事件解析』

 

 4、日朝両党関係の決定的断絶 1983年〜2000年

 

 (1)、1983年10月9日、金日成は、ラングーン爆弾テロ事件で、韓国閣僚4人をふくむ21人を殺害した。日本共産党は『テロ反対』の見解、論文を発表した。

 (2)、1984年7月、北朝鮮警備艇の日本漁船銃撃事件で、北朝鮮は船長を死亡させ、船を拿捕した。日本共産党は、これへの抗議と要求をした。

 

 (3)、1987年11月29日、金日成・金正日は、ビルマ上空で大韓航空機爆破テロ事件で、乗客・乗員115人全員を殺害した。宮本顕治は、『事件が北朝鮮の犯行なのは明らか』と発言し、北朝鮮批判をした。

 (4)、1988年3月、日本共産党橋本敦参議院議員が、予算委員会で、「78年夏の福井、新潟、鹿児島などにおける行方不明事件について、政府の捜査状況」をただした。梶山静六国家公安委員長は『恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚』と国会の場で認めた。この橋本質問内容もHPにある。ただし、これは、日朝両党関係の断絶期間中だった。

 

    北朝鮮ニュース『北朝鮮による韓国への主要な挑発事件』1950年代〜90年代

 

 金日成・金正日とも、今日にいたるまで、それらの『テロ国家犯罪の北朝鮮遂行事実』を認めていない。今回の北朝鮮拉致事実を認めただけで、上記のテロ犯罪実行にたいしてウソをつき続けている。これらを見る限り、北朝鮮を『テロ国家』と規定し、金日成・金日成を『国家テロリスト』と断定することは、正当である。もちろん、ブッシュの『悪の枢軸』レッテル貼りとその意図には、断固反対する。

 

 日本共産党が、日朝両党関係決裂期間中、これらの北朝鮮国家犯罪を批判し、公表してきたことは、その批判内容も含めて、正しい対応だった。ただ、国際共産主義運動の共産主義政党間の「相互批判」「敵対的批判」「内政干渉」という用語の意味を明確にしておく。2党が「共産主義友党」関係にあるとき、「内政干渉」は許されない。その共産主義的「内政不干渉」は、次の内容を持つ。

 

 (1)、相手の友党内に、自党支持の分派を作らないことである。ソ連共産党、中国共産党は、日本共産党内部に、自党支持の分派を作り、資金援助をもする「政党間犯罪行為」をした。朝鮮労働党は、「朝鮮総連」を使って、自党支持の分派を作ろうと策動したことは事実である。その動向を、宮本顕治が錯覚したことが、上記「新日和見主義分派」600人査問・100人処分という党史上最大規模の党内犯罪の基本原因である。

 

 (2)、相手友党内の「“純”国内問題」を批判しないことである。または、「意見の違いがあった場合でも、敵対的な論争をしない」という共産主義友党間関係を守って、批判の公表をしないことである。

 

 (3)、共産主義友党が、外国国民・自国民にたいして、犯罪・侵略行為をした場合は、“同志的”批判をし、問題解決の具体的要求を突き付けることは、当然で、共産主義的「内政干渉」に当たらない。しかし、日本共産党が、ソ連共産党完全従属下政党として、ソ連共産党の犯罪を擁護してきた事例が多数ある。

 

 1)、日本人60万人シベリア抑留・拉致、6万人の「シベリア極寒(マローズ)殺人」犯罪にたいして、批判するどころか、全面擁護した。この詳細はHPに乗せた。2)、スターリンによるユーゴスラビア共産党排除・攻撃のとき、スターリンに同調した。3)、ハンガリー事件におけるソ連共産党の弾圧・大量殺害事件にたいして、『事件は「反革命」』として、ソ連共産党の犯罪を擁護した。4)、ソ連・中国の核実験にたいして『世界平和のための核兵器』『きれいな核実験』と屁理屈の擁護をし、原水爆禁止運動分裂の決定的な一因を作った。

 日本共産党が、他党をきちんと批判したのは、1968年のチェコ「プラハの春」にたいする五カ国軍戦車による蹂躙・弾圧事件のときである。

 

 

 第3期、日本共産党と「朝鮮総連」(=朝鮮労働党)との共産主義友党関係修復 2000年11月20日〜現在

 

 〔第3期小目次〕

   1日本共産党第22回大会における「朝鮮総連」来賓参加・メッセージ 2000年11月20日

   2、北朝鮮拉致(殺害)事件にたいする日本共産党の姿勢と対応 1988年〜現在

 

 1日本共産党第22回大会における「朝鮮総連」来賓参加・メッセージ 2000年11月20日

 

 日本共産党は、日朝両党関係決裂後、初めて「朝鮮総連」を、2000年11月20日の第22回党大会に「来賓」として招待し、「メッセージ」を受けた。そのことは、どのような政治的意味を持つのかを検討する。

 

 「朝鮮総連」は、北朝鮮系在日朝鮮人の大衆団体であるが、朝鮮労働党の直接指導下にある。朝鮮労働党は、本国に「在外同胞」担当部署として、「統一戦線部(対外連絡部)」を持ち、それが「朝鮮総連」内朝鮮労働党党員グループ、または、非公然組織「学習組」に、民主主義的中央集権制という上意下達組織原則で、方針・実行指令を出している。北朝鮮系「在外同胞」人数は、日本に一番多くいることは、自明なことであるから、この上下パイプは、太くて、強力である。もちろん、北朝鮮拉致(殺害)事件には、「統一戦線部(対外連絡部)」と連携した、朝鮮労働党「作戦部」「35号室」から、「朝鮮総連」朝鮮労働党員グループへの指令・関与もある。

 

 その前衛党的上下・国内国外関係は、朝鮮戦争時期に、海外からの“戦争作戦指令リモートコントロール機能”を果した「北京機関」徳田・野坂→日本共産党中央軍事委員会・志田→「民族対策部(民対)」李恩哲・日本共産党中央委員→「民戦」内の在日朝鮮人日本共産党員グループ→「民戦」「祖防委」「祖防隊」にたいする「朝鮮戦争後方基地武力かく乱武装闘争」指令・実行という『上級機関の決定に無条件で従う』軍事的上下関係と同一である。

 

 日朝両党とも、コミンテルン・レーニン型共産党として組織系統は、同一であるから、北朝鮮系在日朝鮮人大衆団体としては、日本共産党の「民戦」から、朝鮮労働党の「朝鮮総連」に、指導政党が入れ替わっただけである。朝鮮労働党は、現在も「戦時・臨戦体制」を取っているから、「朝鮮総連」・「学習組」にたいする指令系統は、軍事的上下関係である。

 

 「朝鮮総連」の行動については、本国朝鮮労働党の指令・許可を受けた「朝鮮総連」内朝鮮労働党党員グループがすべてを決定する。よって、第22回党大会「来賓」参加・「メッセージ」は、(1)日本共産党による正式招待と、(2)朝鮮労働党の「朝鮮総連」参加応諾という日朝両党の“歴史的な2党関係の修復合意”に基づく行為である。

 

 日本共産党は、その2年前、1998年7月21日、中国共産党と『普通の党と党との関係』を修復した。不破哲三は、日中両党関係修復後、中国共産党の支援・助言も得て、“朝鮮労働党との関係修復の水面下工作”に入った。その「水面下ナゴシエーター(秘密交渉人)」は、緒方靖夫国際委員会副責任者、西口光国際局長であろう。日本政府側の「日朝正常化交渉再開」の「水面下ナゴシエーター(秘密交渉人)」が、外務省田中局長だったのと同じ行為である。

 

 金正日は、(1)日本共産党側の「秘密交渉人」ルートと、(2)日本政府側の「秘密交渉人」ルートという“2本の糸”を、鵜匠が2羽の鵜を操るようにして、成果をあげた“天才的な策略型マルクス主義独裁者”である。ただし、朝鮮労働党との関係修復をするには、慎重に、第1段階「朝鮮総連」招待→第2段階中国共産党なみに、直接、朝鮮労働党との関係修復を図ったと言える。日本共産党は、党大会に「韓国民団」も同時に招待しているが、これは、上記の本質を覆い隠すための“いちじくの葉”である。

 

    2000年11月21日「しんぶん赤旗」『不破委員長、朝鮮総連代表と懇談』

    3月4日「同」『朝鮮総連議長の告別式に志位委員長が参列、献花』

 

説明: 【写真】朝鮮総連代表と懇談

 

 2000年11月21日「しんぶん赤旗」記事の抜粋と写真

 『日本共産党の不破哲三委員長は二十日、第二十二回党大会の開会に先立ち、在日本朝鮮人総連合会の南昇祐(ナム・スンウ)副議長、金明守(キム・ミョンス)国際局部長と懇談した。日本共産党の志位和夫書記局長、緒方靖夫国際委員会副責任者、西口光国際局長が同席』。

 

 

 

 

 

 

 したがって、この「朝鮮総連」来賓参加は、事実上の日朝両党の“共産主義友党”関係の復活と規定できる。韓徳銖議長が、朝鮮労働党幹部であることは、公然の事実である。党大会来賓招待だけでなく、彼の死去にたいし、日本共産党として、『(1)不破議長が弔電・(2)緒方国際局長が弔問』『(3)志位委員長が告別式参列・献花』をしたという行為は、日朝両党の“共産主義友党”関係復活事実を象徴している。

 

    Google検索『朝鮮総連と韓徳銖』

 

 不破哲三の『北京の5日間』を読めば分かるように、『普通の党と党との関係』という説明は、表向きの詭弁である。国際共産主義運動が世界的に完全崩壊した現在、不破哲三が工作していることの実態・本質は、当面、完全孤立状態からの脱出作戦として、1998年7月21日以来の、日本共産党・中国共産党・朝鮮労働党という3党による“東アジア版のミニ国際共産主義運動”を再構築するという“壮大な、かつ、時代錯誤的な構想”である。これには、中国共産党側からも、不破哲三にたいする「なんらかの示唆・提案、もしくは、同意」があったと思われる。

 

    Google検索『朝鮮総連と日本共産党』

    日中共産党和解加藤哲郎『世代かわって柔軟路線』 朝日『脱「孤立」柔軟路線』

    Google検索『不破哲三と中国共産党』

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』

 

 「来賓」招待・参加を、逆のケースで考えれば、この本質が理解できる。朝鮮労働党が、党大会を開催するとする。金正日が、そこに「日本民主青年同盟」を来賓に招待する。「民青」は、日本共産党の指導を受ける大衆団体で、その民青中央委員、各都道府県委員会常任委員は、ほぼ100%が日本共産党員である。民青代表の朝鮮労働党党大会参加は、日本共産党と朝鮮労働党との共産主義的友党関係の復活そのものになる。もっとも、朝鮮労働党は、1980年以来、22年間にわたって、一度も党大会を開かないという“異様な政党運営”をしている。

 

 2、北朝鮮拉致(殺害)事件にたいする日本共産党の姿勢と対応 1988年〜現在

 

 この対応を、3つの時期に分類する。

 第1、日朝両党の共産主義友党関係決裂期

 1988年3月、橋本敦参議院議員の予算委員会での質問である。決裂中の社会主義国家・前衛党が相手であるから、その質問内容も正しく、高く評価できる。決裂中であれば、「内政不干渉」の原則にとらわれずに、朝鮮労働党の拉致犯罪を追求することができる。

 

 しかし、国会質問以外に何もしていない。「赤旗」論文発表、『拉致疑惑』キャンペーン、被害者家族にたいする直接調査もせず、「拉致問題議連」にも参加していない。

 

    Google検索『橋本敦議員の拉致問題質問』

 

 1998年7月21日、日本共産党と中国共産党が、『普通の党と党との関係』という詭弁の裏側で、実質的な『国際共産主義運動の共産主義友党関係』を回復した。これ以後、日中両党が、朝鮮労働党との『日中朝3党の共産主義友党関係回復』のために、「水面下ナゴシエーター(秘密交渉人)」による“3党秘密交渉”を続けてきたのは当然であろう。不破哲三の国際共産主義運動上の“時代錯誤的な野望”が、その6カ月後の「衆院本会議質問」内容のレベルに現れている。

 

 1999年1月、不破哲三議員の衆院本会議質問がある。現在、日本共産党は、この行為と質問内容を、日本共産党HP、全戸配布ビラ、数百台の宣伝カーなどで、大宣伝をしている。私の評価は、次である。不破質問の概要は、『日朝国交正常化交渉をすぐ再開せよ。その場合、拉致疑惑の解明を交渉再開の前提条件にするな。無条件で再開してから、その中で、拉致・核疑惑を交渉せよ』というレベルである。それは、日本共産党が宣伝しているような『不破哲三委員長は、1999年1月に、拉致疑惑を提起し、解決策を示した』と“誇りうる”レベルの内容ではない。

 

 むしろ、質問内容レベルの真意は、『日朝国交正常化を直ちに、無条件で行なえ。1兆円・100億ドルの経済援助をせよ。(現在、“3党秘密交渉”中の)共産主義友党朝鮮労働党と社会主義国家北朝鮮を救え』ということである。そして、日本共産党と不破哲三委員長は、この質問後、拉致事件解明に関して、なんの具体的行動を起していない。拉致被害者家族に一度も面会せず、署名運動にも協力せず、社会党・社民党と並んで、日本共産党は、拉致被害者家族にたいして、他政党と比べて、冷たい姿勢を取り続けた。

 

    Google検索『不破哲三の拉致問題質問』

 

 第2、第22回大会「朝鮮総連」招待から、2002年9月17日日朝会談までにおける日朝両党の共産主義的友党関係の復活期

 

 2000年11月20日後、志位和夫委員長は、朝日新聞インタビューにおいて、『「朝鮮総連」とは、「今後、意見の違いがあった場合でも、敵対的論争をしない」という条件で、関係を回復した』と発言した。いわゆる共産主義友党関係において、「敵対的論争をしない」と約束することは、事実上、『「朝鮮総連」、および、朝鮮労働党にたいして、いかなる批判も“公表”しない』ことを意味する。

 

 2002年9月12日、志位和夫委員長は、『拉致は疑惑の段階』と規定する発言をした。この発言の本音は、『拉致は事実ではない。警察に拉致の証拠を見せろと要求したのに、日本共産党に見せなかった。わが党に証拠を見せない以上、事実と認めるわけにいかない。実質的な共産主義友党関係を回復した朝鮮労働党が、そんな国家犯罪をするはずがない。わが党は、日本国中が騒いでいるような「反北朝鮮キャンペーン」に反対する。それよりも、日本による植民地支配・強制連行・慰安婦犯罪を追求し、日朝交渉で、北朝鮮に100億ドルの資金援助を早急にすべきではないのか』であると、私は推測する。

 

    Google検索『志位和夫と拉致問題』

 

 第3、日朝会談で北朝鮮拉致(殺害)事件内容が判明した9月17日後から現在までの期間

 

 日本共産党は、『拉致疑惑の解明を、国会で質問してきた』と宣伝するだけで、他の具体的行動を起していない。

 日本共産党が、党中央委員会、および、40万党員、共産党系大衆団体など、全組織をあげて、北朝鮮拉致(殺害)事件の糾弾と、拉致事件の完全解決に向けて、行動することは、いくらでもある。

 

 (1)日本共産党中央委員会としての「朝鮮労働党の拉致犯罪批判の大論文」公表、(2)拉致被害者家族への面接調査と、家族会が行なっている「署名運動」への全面協力、(3)「朝鮮総連」経由での朝鮮労働党への具体的要求つきつけと「公開質問状」発表、(4)「朝鮮総連」の拉致事件への関与疑惑の独自調査団結成と調査開始、()よど号グループの即時日本強制送還要求を、「朝鮮総連」=朝鮮労働党に突き付ける、(6)これらを「しんぶん赤旗」「日曜版」「宣伝カー」「日本共産党HP」「全戸配布ビラ」で、得意の大宣伝をする、(7)帰国者5人の生活保障要求の政府への具体的提案などである。

 

 日本共産党は、1968年「プラハの春弾圧」時点には、ソ連共産党批判の大々的キャンペーンをした。ソ連共産党による日本共産党への「内政干渉」行為には、一貫して、干渉停止要求と具体的批判をした。1960年前後の毛沢東「文化大革命」期の日本共産党にたいする攻撃時期にも、大反撃の中国共産党批判活動を展開した。その点から見れば、「朝鮮労働党の拉致犯罪批判」の(1)から(7)という具体的行動を展開することは、「共産主義友党関係における内政不干渉」原則に違反しない。

 

 2002年9月17日以降、朝鮮労働党による日本の国家主権侵害事実が明らかになっても、日本共産党は、共産主義友党・朝鮮労働党にたいして、その被指導大衆団体「朝鮮総連」にたいしても、抗議行動・要求提案もしていない。これらの“不可思議な態度”は、共産主義友党となった「朝鮮労働党擁護」姿勢といわれてもやむをえないほどの“腰が引けた”対応である。

 

 日本共産党の「第22回大会改定前の規約・前文四」には、『全党の利益を個人の利益の上におき、だれでも党の上に個人をおいてはならない』という条項があった。その規約精神は、規約改定後も変わっていない。日本共産党議長不破哲三・委員長志位和夫は、(1)コミンテルン期・(2)コミンフォルム期・(3)国際共産主義運動高揚期に日本共産党が度々犯した誤りと同じく、『共産主義友党関係の利益の上に、自国民の利益をおいてはならない』とでも考えているのであろうか。それとも、『敵対的な論争をしない』という「朝鮮総連」=朝鮮労働党との友党関係回復条件に“金縛り”にされているのであろうか。これが、日本共産党という「科学的社会主義政党」「国際共産主義運動参加政党」の本質なのであろう。

 

    Google検索『日本共産党と拉致問題』

 

 

 8、「共産主義友党」日本共産党が『したこと』『しなかったこと』

 

 〔小目次〕

   1、「シベリア60万人拉致・抑留、6万人殺人」にたいする対応 (表3、4、5)

   2、「北朝鮮拉致(殺害)事件」にたいする対応 (表6)

 

 1、「シベリア60万人拉致・抑留、6万人殺人」にたいする対応

 

 社会主義国家とそのマルクス主義前衛党による日本人大量拉致・殺害犯罪事件は、2件ある。それらにたいして、「共産主義友党」日本共産党が『したこと』『しなかったこと』を、最後に()で検証する。現在は、朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮労働党による「日本人13人拉致事実・70〜80人拉致の疑い事件」だけが問題になっている。

 

 ところが、もう一つ、ソ連共産党・スターリンによる「日本人60万人シベリア拉致・抑留犯罪、内6万人の“未必の故意”によるシベリア極寒(マローズ)殺人犯罪事件」があった。その期間は、1945年8月15日日本敗戦から1956年までの11年間である。この時期、日本共産党は、ソ連共産党と「共産主義友党」関係にあった。ただし、当時の国際共産主義運動内力関係で、日本共産党は、スターリン・ソ連共産党の完全従属下にあった。

 

 その詳細は、私のHP『「異国の丘」とソ連・日本共産党』で書いた。それへの対応において、そのファイル末尾に書いたように、『日本共産党は、シベリア60万人拉致・抑留犯罪によって、具体的恩恵を受けた「唯一の革新政党」』となった。

 

(表3) ソ連共産党の日本人拉致・抑留とシベリア極寒殺人犯罪

 

抑留者

死亡者

帰還者

出典

1、厚生省

575000

55000

472952

厚生省援護局

2、ソ連内務省

609448

61855

546752

軍事捕虜・抑留者担当総局

3、ソ連機密資料

1102145

92053

1010092

内務省・各軍管区収容所計

 

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やせ衰えて死んだ仲間に手を合わせる   目を光らせて食糧の分配を見守る抑留者

日本人抑留者                 (絵は、2枚とも吉田勇さん)

 

(表4) ソ連検察官、チェキスト機関による日本人拷問の種類と人数

 

種類

人数

種類

人数

種類

人数

種類

人数

絶食

124

寒冷攻め

61

暴力

158

拷問なし

182

減食

317

睡眠与えず

99

その他

63

水攻め

38

脅迫

157

1017

調査総計

1199

 ()1人で2つ以上の拷問を受けた場合は、主たる方が記載されている。

 

 ソ連検察官、チェキスト機関要員は、全員が、ソ連共産党員である。ソ連共産党が日本人に行なった拷問内容は、ソルジェニーツィンが『収容所群島』で分類した『32種類の拷問』と同じである。

 

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』 シベリア抑留に関する「逆説の戦後日本共産党史」

    ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」 共産党が行なう32種類の拷問

 

(表5) 日本共産党が『したこと』『しなかったこと』

 

シベリア60万拉致・6万殺人

『したこと』

『しなかったこと』

1、抑留期間中194556

 

 

1)、ソ連共産党の「民主運動」により、6520人の入党者と21億7千万円のカンパを受け取った

2)、徳田球一『要請』問題を全面否定した

3)、宮本顕治は『抑留記』にたいし、『偉大な政治家スターリンをけがすもの』『こんどだけは見のがしてやるが』と批判・脅迫をした

4)、野坂参三NKVD工作員の「シベリア抑留」事後承認疑惑。宮本顕治はソ連スパイと2人で、27年間、指導部トップを続けた

5)、抑留期間中に、ソ連共産党から、4回108億円以上の資金援助を「党中央本部」が受け取った

1)、ソ連共産党への抗議―まったくしない

2)、抑留・死亡者数データ要求―まったくしなかった

2、「六全協」1955〜現在

 

 

1)、『日本共産党の七十年』(1994)で、『シベリア・中央アジアなどへの抑留と強制労働にたいして明確な批判的立場をとらなかった誤りもあった』という“誤り”を認めた

1)、ソ連共産党への抗議―まったくしない

2)、抑留・死亡者数データ要求―まったくしなかった

3)、シベリア60万人拉致・6万人殺人にたいする具体的総括・論文―発表したことがない

 

 

 2、「北朝鮮拉致(殺害)事件」にたいする対応

 

 現在の日本共産党は、表向きが「朝鮮総連」経由としても、朝鮮労働党と「共産主義友党」関係を事実上回復し、間接・直接的に意見・要求ができる『日本における唯一の政党』である。水面下では、日朝両党の「直通ホットライン」が完成している。金正日は、2000年11月の日本共産党第22回大会時点で、「友好政党」社民党の“使用・利用価値”に見切りをつけ、日本左翼勢力との「パイプ役」を、「共産主義友党」日本共産党に、再び“乗り換え”た。

 

 金正日のそれによる“日本世論分断作戦”は、現時点で、きわめて大きな成果を収めている。「共産主義友党関係」を回復した日本共産党を筆頭として、“北朝鮮への「社会主義幻想」を持ち続ける”左翼系月刊誌・週刊誌・一部マスコミ、一部左翼ジャーナリスト・学者などは、下記()にあるように、日本共産党と肩を並べて、“拉致犯罪事件解決のための具体的行動”を何一つ起そうとしていない。それどころか、彼らは、マスコミ名・個人名を挙げないが、“社会主義国家・朝鮮民主主義人民共和国にたいして、強制連行などの保障として、早く100億ドルを払うべき。現在の報道傾向は「反北朝鮮キャンペーン」であり、誤っている。社会主義国家北朝鮮を救え”という、もう一方の左翼世論動向を形成しようとしてきている。

 

    週刊金曜日『週刊金曜日』 『曽我さん家族インタビュー』 『編集長記者会見』

 

(表6) 日本共産党が『したこと』『しなかったこと』

北朝鮮拉致事件

やったこと

やろうとしないこと

1、日朝両党共産主義友党期

  19451970.3.31よど号事件

(この期間、拉致作戦は開始されていない)

2、日朝両党関係決裂期

  1970.3.311996

  1977・78「拉致作戦」開始〜

1988.1、宮本顕治が、大韓航空機爆破事件は、北朝鮮が起したと指摘

198788、橋本敦参議院議員の国会議員秘書兵本達吉が、党と橋本議員の了解の下に、拉致被害者調査、家族会結成に動く

1988.3、橋本議員が、兵本調査データに基づいて、まとまった拉致問題の国会質問を初めてした

橋本議員の国会質問以外、何一つ具体的行動を起していない

3、事実上の共産主義友党回復期

  19962002.9.17

1998.7.21、不破哲三は、中国共産党と共産主義友党関係を回復した

1999.112、不破哲三衆議院議員が、2回、国会で、無条件で日朝国交正常化をせよとの質問をした

2000.11.20、日本共産党は、党大会に朝鮮総連来賓招待・参加をさせたことにより、朝鮮労働党と事実上の共産主義友党関係を回復した

警察庁を呼んで、「拉致の証拠を見せよ」と要求した

2002.9.12、志位委員長は「拉致は疑惑の段階」と発言した

不破国会質問は、橋本議員の拉致問題追及質問と決定的に異なっている。拉致問題棚上げ要求であり、その追及をしていない

警察庁を呼んだ以外、何一つ具体的行動を起していない

4、金正日の拉致13人承認後

  2002.9.17〜現在

橋本・不破2人の国会質問行動と内容の大宣伝キャンペーンを展開した。「しんぶん赤旗」「共産党HP」「全戸配布ビラ」数千万枚、「宣伝カー」千数百台以上で、共産党こそが拉致問題解明に取り組んできた政党と主張している

2人が国会質問をした」との大宣伝キャンペーン以外、何一つ具体的行動を起していない

1)、日本共産党の「朝鮮労働党の拉致犯罪批判の大論文」公表 ―していない

2)、朝鮮総連経由での朝鮮労働党への具体的要求つきつけと「公開質問状」発表 ―していない

3)、朝鮮総連の拉致事件への関与疑惑の独自調査団結成と調査開始 ―していない

4)、よど号グループの即時日本強制送還要求を、朝鮮総連=朝鮮労働党に突き付ける ―していない

5)、拉致被害者家族への面接調査と、家族会が行なっている署名運動への全面協力 ―していない

6)、帰国者5人の生活保障要求の政府への具体的提案 ―していない

)、拉致議連 ―最初から参加していない

 

 それらの動向にたいして、鋭い批判が、インターネットHP上で発表されている。それらのHPを紹介する。

 ()、加藤哲郎教授は、HPの2002年11月15日付コメントで、次のように書いている。

 『横田めぐみさんは、最も多感で充実した青春時代を味わうはずであったのであるが、拉致という暴力で、自らの意思に反して、人間の尊厳を奪われてしまいた。残念ながら、ほとんどの研究者の著作・論文からは、そうした人々の声は聞こえてきません。苦悩の肉声が聞こえてくるのは、この間集中的に再読した『凍土の共和国』(亜紀書房、1984年)に始まる多くの「脱北者」「訪問者」の手記と、少数のすぐれたジャーナリストの著作からである。私はその多くは、学問的にも信憑性があると判断する。

 

 そして、よりによってこの日に、帰国滞在中の曽我ひとみさんの内面に立ち入り、その心を土足で踏みにじった『週刊金曜日』報道記者会見に、心から怒り、失望し、かつて定期購読者であり執筆者であったことを恥ずかしく思いる。編集委員の本多勝一、佐高信、筑紫哲也、落合恵子、椎名誠さんは、あの記者会見の編集主幹氏と同じように、「ジャーナリズム」を捉えているのであろうか?』

 

 ()、藤井一行名誉教授は、北朝鮮拉致事件に関して、和田春樹批判と、その論文掲載の岩波書店『世界』批判をHPで発表した。なお、()藤井論文は、「pdf」ファイル(電子書籍版)なので、事前に、次の操作が必要である。上の「ツール」→「インターネット・オプション」→「セキュリティ」を「下」にしておく→それから「藤井リンクをクリック」。(2)「pdf」ファイル(電子書籍版)の見方については、私のHP『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』(電子書籍版)に説明してある。また、藤井教授は、『国際刑事裁判所関係サイト』の紹介もしている。

 

 ()、有田芳生は、毎日更新の『酔醒漫録』において、Back Numberの「毎月前半・後半」別に、その時期ごとの「北朝鮮拉致事件」のコメントを多数載せている。「9月後半」からの内容は、多面的になっている。

 

 (4)、さざ波通信は、現役日本共産党員が運営するHPとして、日本共産党中央委員会批判の論文を発表した。

 

 ()、中野徹三名誉教授は、国際世論の圧力を高める上で、拉致問題の解決となる「強制失踪」犯罪の解決を含んでいる「ローマ条約」の早期批准を提起している。北朝鮮拉致(殺害)事件を「国際刑事裁判所」に提訴するやり方である。これには、日本政府が、「ローマ条約」の署名国と批准国になる必要がある。この条約は、は、2002年7月1日、署名138カ国、批准76カ国で発効した。しかし、日本政府は、アメリカ・中国政府にならって、署名・批准ともしていない。日本政府にたいして、この批准を迫る運動が、大切になっている。詳しい内容は、「中野徹三論文・新聞論考」にある。

 

    加藤哲郎HP『2002年11月15日付コメント』

    Google検索『週刊「金曜日」の拉致問題報道』

    藤井一行HP『和田春樹氏の「拉致疑惑検証」を検証する』(電子書籍版)

             『国際刑事裁判所関係サイト』

             『日本共産党と北朝鮮問題』 萩原・兵本問題、橋本反論全文

    有田芳生HP『酔醒漫録』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』 拉致被害者の救済のために

 

 ただ、北朝鮮拉致(殺害)事件にたいする日本世論分裂傾向表面化を軽視することはできない。なぜなら、その根底には、日本の多くの市民感覚と、一部左翼が“保持し続ける社会主義幻想”との間における根深い意識分裂が存在しているからである。その内容は、「(1)レーニンが創設者である一党独裁・赤色テロル型社会主義14カ国とそのマルクス主義前衛党の本質、(2)残存4カ国の共産党・労働党の反民主主義的実態、および、(3)「日中朝3党間の共産主義友党」関係を事実上回復した日本共産党の狙い・価値観を、2002年現在、どう認識したらよいのか」という点に関する亀裂である。

 

 日本世論分裂傾向のいま一つの原因として、1945年以前の35年間にわたる日本国家の朝鮮植民地支配期間中の国家権力犯罪実態にたいする認識と、それらにたいする謝罪・補償責任意識の違いがある。私たち夫婦の意識は、幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』や、その『映画の連想』章において、他に書いている韓国映画『シュリ』『JSA』、在日朝鮮人を扱った映画『GO』、韓国人特攻隊員が主人公の一人である映画『ホタル』の感想にある。

 

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』 他の4つの映画

 

 それを一致させた上で、1977年から開始された朝鮮労働党・金正日の『日本人70〜80人拉致作戦犯罪』の解明・解決、および「国際刑事裁判」提訴の追求をすることが、重要である。そのため、このファイル冒頭に書いた犯罪期間・朝鮮全土の規模データを再確認する。

 

 3・1独立運動弾圧人数、強制連行人数、慰安婦人数は、いろいろあるが、『朝鮮を知る事典』(平凡社、2000年)にあるデータにする。(1)植民地支配期間は、1910年8月22日の日韓併合から1945年8月15日日本敗戦までの35年間である(『事典』P.292)(2)3・1独立運動は、1919年3月1日を期して始められた、植民地支配期間中における最大の反日独立運動である。朝鮮独立宣言書と「独立万歳」のデモが朝鮮全土で広がりた。朝鮮総督府は、これに徹底した弾圧を加えた。数字は『韓国独立運動之血史』のデータである。参加者2023098人、死亡者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人だった(『事典』P.167)

 

 (3)強制連行者は、1945年日本敗戦時点における在日朝鮮人250〜260万人中、150万人だった(『事典』P.159)。残りの100万人・40%は、日本への自主的移住者である。(4)日本軍は、若くて未婚の5〜7万人を従軍慰安婦に強要し、戦場で「朝鮮ピー」と呼ばれるなど言語に絶する恥辱を受けさせ、敗戦とともに戦場に捨てた(『事典』P.189)(5)創氏改名は、1939年11月の「朝鮮民事令」公布によるもので、日本国家・朝鮮総督府は、1940年8月10日の期限までに、約322万戸・80%を強要し、日本人名に改名させた(『事典』P.248)

 

以上  (別ファイル1〜4)に戻る  健一MENUに戻る

 

 (関連ファイル)

    『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』

      『不破議長に聞く』が逆証明した金正日擁護の参院選政策

    『拉致事件関係ファイル・リンク』健一MENU

    共産党『北朝鮮問題』2002年8月からの北朝鮮関連発言・記事

    加藤哲郎『拉致・核開発問題リンク集』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者救済のために

          『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    藤井一行『日本共産党と北朝鮮問題』萩原遼への措置、兵本達吉への批判・除名

    黒坂真  『日本人拉致問題と日本共産党』北朝鮮批判・共産党批判ファイル多数

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

    幸子HP『総領事館逃げ込み事件と映画「イーストウェスト」』

 

    朝日『拉致事件』 『核問題』 読売『北朝鮮』 毎日『北朝鮮』 日経『拉致問題』

    RENK『救え!北朝鮮の民衆』 RENK『東京』

    HP『朝鮮民主主義研究センター』 『北朝鮮問題リンク集』

    HP『北朝鮮難民救援基金』 『カルメギ』 『北朝鮮に情報公開を求める市民の会』

    Yahoo『朝鮮総連と拉致事件』 『朝鮮総連と帰国事業』 『朝鮮総連と朝鮮労働党』

    Google『朝鮮総連』 『朝鮮総連と朝銀問題』 『朝鮮総連と日本共産党』