川上徹著『査問』の合評会

 

1998... 高橋彦博

 

 ()これは、川上徹著『査問』の「合評会」の内容について、高橋彦博法政大学教授から私(宮地)がいただいた手紙です。このホームページに全文を載せることについて、高橋氏のご了解を頂いてあります。

 

 〔目次〕

1、「対談」から「合評会」へ

2、人権擁護委員会の対置

3、「新日和見主義」とは何であったのか

4、20年後の「ネオ・マル粛清」  

5、共産党裁判の意義

 

 〔関連ファイル〕           健一MENUに戻る

    『新日和見主義「分派」事件』 その性格と「赤旗」記事

    川上徹   『同時代社』

    加藤哲郎 『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」

    れんだいこ『新日和見主義事件解析』

    『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件と「ネオ・マル粛清」

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件と「ネオ・マル粛清」

 

    (高橋彦博論文の掲載ファイル6編リンク)

    『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題

    『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

    『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

    『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識

    『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果

    『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

 

    「対談」から「合評会」へ

 

 先日、「フォーラム '21」の特別企画として開かれた川上徹さんの著作『査問』の「合評会」は、なかなか内容のある会合でした。席上、加藤哲郎さんほかの参加者の中から宮地さんの共産党裁判の意義を改めて評価する発言がなされていましたのでお伝えします。「対談」企画が実質上の「合評会」になった会合での発言でした。その文脈をお伝えするため、会合全体の特徴的な議論を、私が理解した限りでまとめてみました。

 

 2月28日、土曜日、午後、東京池袋の豊島公会堂の前にある生活産業プラザで開かれた「フォーラム '21」の第40回例会の案内は、インターネットのどこかのページにのっていたそうで、宮地さんも、あるいはご覧になったのではないかと思われますが、念のために紹介します。会合の呼び掛けは、次のような一文となっていました。

 

【特別企画】 川上徹著『査問』(筑摩書房)出版をうけて

【対談】川上徹氏(同時代社代表)加藤哲郎氏(一橋大学)

「新日和見主義」と称せられる《事件》がおきてから25年になろうとしています。当時、事件の首謀者とされた川上徹氏が、「私の中でようやく歴史となった」事件として、冷静に書き綴った『査問』が筑摩書房から出版されました。著者川上氏を招きフォーラムでお馴染みの加藤氏と対談していただけることとなりました。加藤氏には、旧ソ連の粛正の記録などの最新の調査をもとに、これまでの社会主義運動が抱えていた「人間」の問題を解明していただけるものと期待しています。「組織と個人」、「政治と人間」、「左翼の偏狭」か「偏狭の左翼」なのか、いろいろと考えあってみたいとおもいます。

 

 『査問』はすでに4刷りに達しているそうで、川上さんは「自分の出版社の本が売れないで苦労しているのに、他社から出した自分の本が売れるとは…」と苦笑していました。確かに、東京の大きな書店の売り場を見ると『査問』が平積みになっています。名古屋方面での評判はどうですか。

 

 今回の「フォーラム '21」の例会は、いつになく参加者が多く、用意された会議室は詰めかけた人たちで一杯でした。川上さんと加藤さんが、二人の対談部分の時間を少なくし参加者の意見を聞くという配慮をされたので、かなり活発なフロアーからの発言がなされるシンポジウムの場となり、期待に応える充実した3時間でした。当日、テープ録音が失敗したとのことで、記録が記憶だけになったのは残念でした。おそらくは二次会も活発であったことでしょうが、私は残念ながら参加できませんでした。

 

 川上・加藤両氏の対談は、川上さんが加藤さんに問いを発し、加藤さんがそれに答える形をとっていたので、明確な論点をめぐる密度の濃い、しかし、川上さんらしいユーモアに富んだ楽しい会話になっていました。呼び掛け文にあったとおり、加藤さんが、「そもそも査問とは何か」という論点について解説をされ、川上さんの著書の内容に奥行と拡がりを与えていました。加藤さんならではの該博な歴史の知識と明晰な理論に裏付けられた「査問」論であり、私など、大いに勉強させられました。加藤発言の内容は、多分、加藤さんのホームページに掲載されるのではないでしょうか。

 

    人権擁護委員会の対置

 

 著者自身は、それほど意識することなしに、たんたんと事実経過の一部分として記述した箇所のようでしたが、参加者の皆さんが一致して「あの部分には感動した」と評価する箇所が『査問』の中にありました。その箇所とは、川上さんの父上と母上が、川上さんがすでに10日以上も監禁状態で査問を受けているだけでなく、川上夫人までが党本部に呼び出されたという時点で、あまりにも「世間の常識」に反し「横柄」であると怒り、父上が日本共産党の本部へ電話し、息子の留置を止めなければ人権擁護委員会に提訴すると通告し、直ちに川上さんの監禁状態を解かせたというシーンです(p.107)。会場のどなたかの発言に「警察ではなく人権擁護委員会へ持ち込むとしたそのセンスに打たれた」とありましたが、多くの皆さんが、そのように感じたようでした。私もまた、川上さんの父上が示された、日本共産党に人権擁護委員会をぶつけるという絶妙の組合わせ感覚に感服した一人でした。

 

 川上さんの父上のことは、『査問』で、小学校の元教員であり戦前の治安維持法体制下に逮捕・投獄の体験を持ち「根っからの『共産党シンパ』を自称していた父」と紹介されています(同上)。しかし、主義者タイプではなく、川上さんに言わせると「ふだんは、おとなしい親父」とのことでした。そのような、左翼的立場に理解のある温和な方が、おそらくは咄差の判断で人権擁護委員会を選択し日本共産党への対置を決断したという、その市民感覚の発露に、私など、感嘆させられたのです。川上さんは、藤田省三氏から「お前さんの本に出てくる人物にろくなやつはいないが親父さんだけは別だ」とする評言を頂戴したそうですが、そのような藤田さんの指摘の意味がよくわかるような気がします。

 

    「新日和見主義」とは何であったのか

 

 日本共産党の歴史も75年になりますが、第二次大戦後の、いわゆる戦後の党史が70パーセントを占めるようになりました。ところが、戦前の20余年の非合法共産党史についての研究は厚い層を形成するほどの成果を蓄積していますが、戦後の50余年についての日本共産党史研究は、目下のところほとんど手つかずの状態にあります。日本共産党本部が編んだ「正史」が50年史、60年史、65年史、と何種類もありますが、編纂した時点で党の理論的立場や歴史経過の評価を変え、しかも、変えた部分や変えざるをえなくなった経過を明示しないという方法をとっているのがその特徴になっています。

 

 フェイド・アウト手法によって構成される日本共産党の歴史の虚構を崩すことに社会運動史研究の課題があると自覚している私にとっては、今回の川上さんの著作『査問』の公刊は、戦後日本共産党史におけるブラック・ボックスの一点となっていた1972年の「新日和見主義」問題について、ようやく、その核心に触れ全貌を窺わせる証言がなされることであり、諸手を挙げて歓迎できる快挙でした。

 

 『査問』を読んで、さらに川上さんの感懐を伺って、私には1972年の事態がよくわかりました。「新日和見主義」問題とは、党内に自然発生した新左翼的傾向を萌芽のうちに摘み取ることを目的とした日本共産党の大粛清でした。それは、宮本顕治氏の指示で強行され、党機関のだれ一人としてインセンティブやイニシアティブを発揮して動くことの無かった上からの党内カンパニアでした。この大粛清で処分された党員の数については、全国で、「六〇〇名とも一〇〇〇名に及ぶとの説もある」(p.147.)とされています。

 

 当時、学生反乱の時期であり、日本共産党の青年行動隊にほかならない「民青」は、真正面から「全共闘」や「セクト」勢力に対決し果敢な闘争を展開していました。いわゆる「ゲバ民」の時代です。そこで、こういう事態が出現します。「全共闘」や「セクト」勢力と闘う「民青」も、数十万の大衆組織として、社会状況への自動対応装置を内部に組み込んでいました。そこで、「民青」が、青年学生の大衆組織として、「新左翼」と闘えば闘うほど、自らもベ平連的な「新しい型の社会運動」としての特徴を自分のものすることになって行ったのです。代表制民主主義の破壊に狂奔する「戦後民主主義の鬼子」にほかならない「新左翼」に決然として対決する「民青」であったのですが、有効な対決のためには、「民青」の側も代表制民主主義の形骸化を認め、戦後民主主義の修正を求める姿勢を明らかにせざるをえなかったのではないでしょうか。

 

 この日の「合評会」で、川上さんが「私たちは本来、官僚主義反対で、命令されることがいやで民青に入った。あのころの民青の組織は《不良精神の輝き》に満ちていた。日本共産党に対して分派的行動をとったのではなく、民青の組織がまるごと官僚主義的指導に反発していた」との趣旨の発言をしていたのが印象的でした。戦後民主主義の欠陥を指摘する「新左翼」には、それなりに状況を反映する感性がありました。問題なのは、「新左翼」の側には感性しかなかったということでしょう。そして、「新左翼」と正面から闘う「民青」であったのですが、前衛党の末端機関としての在り方に満足するのでなく、社会状況に主体的に対応する大衆的組織としての道を選ぶ限り、組織形態としては、理念において対決する「新左翼」と同じ多元構造を内部に取り込む課題が不可避なのでした。「新日和見主義」とは、日本共産党の内部に浸潤してきた「新左翼」的発想にほかならかったのですが、宮本顕治氏は、前衛組織防衛の本能を発揮し、「民青」に現れたその動向を「双葉のうちに摘み取った」(p.226)のです。しかし、この摘み取り作業の結果、日本共産党は、「新左翼」的感性を取り込むことがないまま旧型左翼として旧世代の支持にのみ依拠する党となり、若者世代から見放される存在となっていったと私は見ています。

 

    20年後の「ネオ・マル粛清」

 

 当日、私が確認したいことがありました。1972年の「新日和見主義」はフェイド・アウトされた日本共産党戦後史の一ページでしたが、もう一ページ、私が気になるフェイド・アウトされたページがありました。それは、1992年における「ネオ・マル粛清」です。私は、「新日和見主義」の大粛清と「ネオ・マル粛清」を並べて、そこに、日本共産党宮本顕治体制の '70年代以降におけるかつての分派闘争と異なる新段階の粛清工作の動向を見出すという把握を、川上さんや加藤さんに検討してもらいたかったのです。

 

 1992年における一橋大学の某教授の追放を皮切りに、1993年における法政大学の某教授(実は私)、続けて名古屋大学の某助教授、さらに立命館大学の某教授と、ネオ・マルクス主義の理論的立場で発言を続けてきた研究者たちが、何人か、除籍、離党、など、処分以外のなんらかの形で日本共産党から追放されました。かつての分派闘争との違いは、だれがどのような問題で日本共産党から排除されたのか、いっさい、明らかにされることなく、党内論争の浮上が徹底して抑止されたことです。「ベルリンの壁」の崩壊後、党内に急速に浮上した前衛党の構造改革を求める意見が党内に波及することを防ぐ目標で、いっさいのその種の党内論議に厳封を施したまま消去する処置がなされたのが「ネオ・マル粛清」の内容でした。それは、「新日和見主義」の大粛清と同じ性格の粛正工作でした。

 

 私は、この「ネオ・マル粛清」の全貌を把握しているわけではありません。そのような策動を自分の周辺の動きとして感知したにすぎません。それでも、東海道を東から西へ下る方向で「各個撃破」戦術よろしく「辣腕」を得意気にふるって歩いたWという「スターリン時代のベリヤ」のような男の存在を私なりに確認しています。彼の名は、最近では日本共産党中央委員会の名簿の末尾に載るようになっています。Wは、川上さんや加藤さんの二世代くらい後になる学生運動出身の活動家でしょうか。Wを見ると、知的誠実さを欠落させた権力志向のパースナリティが再生産される集権的党構造が現存している実態をあらためて確認させられます。

 

 「ベルリンの壁」の崩壊とソ連共産党の解体を受けて、日本共産党も崩壊と解体の危機に直面しました。そこで、宮本顕治体制特有の組織防衛の先制攻撃が開始されました。それが1992年の「ネオ・マル粛清」でした。「新日和見主義」の大粛清で辛うじて生き残った川上さんも、「ネオ・マル粛清」の前夜、隠微な処置方法で消去されたのでした。

 

 ここで加藤さんの理解と私の理解との間で少し食い違いが出てきたのですが、それは、こういうことでした。かつての分派闘争はイデオロギー闘争であり政策論争であったのですが、社会の多元化が進行し、前衛党神話が崩壊しはじめた1970年代以降、日本共産党の内部論争は、集権的組織構造をめぐる前衛党の核心に触れる論議を浮上させることになりました。前衛党守旧派は、組織防衛の立場でフェイド・アウト手法による粛清を重ねることになります。・・以上の理解は加藤さんと私との間で共通していると思えるのですが、ここで、加藤さんは、前衛党の解体を迫られる日本共産党が「追い詰め」られた結果、フェイド・アウト手法を採用するに至ったとする把握を示されるのでした。私の場合は、加藤さんの把握に同意した上で、そもそも、かつての宮本顕治氏の「スパイ査問事件」なるものがインテリ派と労働者派の分派闘争の実態のフェイド・アウトとして構成されていたのではなかったかという「党史の原点」にこだわります。私の場合は、日本共産党のフェイド・アウト手法の駆使が、同党の「原罪の露呈」を意味することを強調したいのです。この点については、もう少し細かい議論が必要でしょう。後日の機会にゆずります。

 

    共産党裁判の意義

 

 「フォーラム'21」の「合評会」で私が確認したとろによれば、「新日和見主義」の大粛清の場合も、「ネオ・マル粛清」の場合も、粛清された側に、党の側からの呼び出し状であるとか、処分決定の言い渡し状であるとかが一枚も残されていませんでした。そこでは、消去作業のほとんどを電話とか口頭の「処置」ですませて事態の表出を困難にするという周到な注意が払われていました。

 

 ここで、宮地さんの共産党裁判の意義があらためて振り返られることになったのです。日本共産党に情報公開という市民社会のルールを守らせるためには、裁判という市民社会秩序の場で日本共産党に日の光を当てる方法がきわめて有効であるという議論になりました。たとえ敗訴という結果であったとはいえ、個人の権利を擁護する立場から、日本共産党に市民社会の秩序の適応を求める法的手段を講じようとした宮地さんの共産党裁判が、「合評会」出席の皆さんによって改めて評価されたのです。

 

 かつて、宮地さんが共産党裁判に取り組まれた段階では、前衛党の旧態然たる組織枠の異常さが「結社の自由」の権利枠において容認されていたのですが、今日になれば、議会政治と融合した公党の在り方が選挙法や政党法や政党助成金制度によって求められるようになり、「結社の自由」の意味は、政治党派の徒党としての存在を容認するものではなくなってきています。宮地さんの共産党裁判が求めた日本共産党に対する市民社会的常識の適応は、議会政治の熟成とともに、ようやく具体性を帯びるるものとなってきたという声が複数の参加者から挙げられていました。

*     *     *

 

 以上のような私の記憶による簡略なメモで、はたして今回の「合評会」の内容をどれだけ的確に把握し紹介したことになるのか、そこは自信のないところなのですが、宮地さんの共産党裁判について改めて評価する発言がなされた雰囲気だけはお伝えできるのではないかと、ご一報させていただきました。

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(1998..20.) おっしゃるとおり、「ネオ・マル粛清」の実態については、ぜひ、いろいろと情報を集めたいものです。戦後日本共産党史の総体についても、分析的批判をすすめたいものです。異常な党派と関わり合う意味を見出せず、時間と労力のロスを避けたいとする気持ちから、ともすると日本共産党の分析と批判について消極的になる雰囲気があると思われます。しかし、そのような常識人の感性と寛容さが結果として容認することになる市民社会の〈スキ間〉があって、そこが、異常な党派の策動が許される余地になっているのではないでしょうか。

 

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 〔関連ファイル〕

    『新日和見主義「分派」事件』 その性格と「赤旗」記事

    川上徹   『同時代社』

    加藤哲郎 『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」

    れんだいこ『新日和見主義事件解析』

    『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件と「ネオ・マル粛清」

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件と「ネオ・マル粛清」

 

    (高橋彦博論文の掲載ファイル6編リンク)

    『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題

    『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

    『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

    『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識

    『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果

    『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に