論争無用の「科学的社会主義」
萎縮する日本共産党分析のための一資料
高橋彦博法政大学教授
(注)、これは、「窓22号」(窓社、1994.12)に掲載された、高橋氏上記題名論文のうち、『二、異端派における異論提起者の排除』、『三、「共産党神話」の護持』全文と、〔資料1、2、3〕全文です。日本共産党による学者党員除籍における“論争無用”の排除経緯を示す典型的ケースであり、貴重な資料です。これをこのHPに転載することについて高橋氏の了解をいただいています。
なお、高橋氏除籍は、丸山真男批判キャンペーンと直接的な関係があります。共産党の丸山批判経過資料にあるように、共産党の丸山批判大キャンペーンは13回にわたり『赤旗』『前衛』、第20回大会で行われました。丸山氏の「戦争責任論」批判は1993年5月から始まりました。そのキャンペーン渦中の1993年7月に高橋彦博著『左翼知識人の理論責任』が出版されました。下記【資料1】【資料2】の党中央による、支部を経由しない学者党員除籍は1994年5月で、大キャンペーンの(8)(9)(10)段階と同じ時期です。丸山批判の裏側で、「左翼知識人の理論責任」「戦争責任」を公刊著書で鋭く提起した高橋彦博法政大学教授を“同罪”とし、第20回大会での『誹謗・中傷』新規定を恣意的に先取り適用し、規約に違反して支部討議にもかけず、ひそかに“問答無用”の党外排除をしたのです。関連ファイルをお読み頂ければ幸いです。
〔目次〕
〔資料1〕 公刊の書物への一方的弾劾
〔資料2〕 文書化しない追放理由
〔資料3〕 無視された反論の掲載要請
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丸山真男『戦争責任論の盲点』
(高橋彦博論文の掲載ファイル6編リンク)
『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生
『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識
『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に
二、異端派における異論提起者の排除
四八万人いた党員が一二万人減り三六万人になったと、日本共産党はその第二〇回大会で発表した.この間の離党者一二万人の内に、単なる離党ではない、「総括」によって排除された一定数の党員が含まれている。同じく第二〇回大会の発表によれば、「訴願委員会」へは年平均三三三人、ほぼ一日一人の割合で提訴がなされてきたとのことである。この多数の訴願者の中に、異端派としての日本共産党から排除された一定数の異端内異端が含まれていた。以下に紹介する資料三点は、最近の日本共産党において、かなりの党歴の持ち主である一人の研究者党員、実は、私、が「除籍」された経過である。私も、上記、訴願者の一人としてカウントされているはずである。私は、私と同じように何人かの研究者党員が「ネオ・マル派」として日本共産党から追放されたことを知っている。
以下に紹介する資料三点によって、「あえて、土俵の外」に場を設定する永遠の異議申し立て人の組織において、自己の組織内における異議申し立て人に対しては呵責ない排除の論理が採用されている構造をお目にかけることができるであろう。「あえて、土俵の外」を支持される老先生をはじめ、多くの親愛なる皆さん方に私が考えていただいきたいことは、日本社会党の変節に批判の目を向けるだけでなく、日本共産党が党内の異端派を排除することになる、そのような異端派の党構造についても批判とまでいかなくとも、少なくとも検討を加えるくらいの余裕を示していただきたいということである。
今日においても、「政治結社の壁の中に憲法は入れない」状況があると言えよう。特定の政治目的による政治結社としての政治的党派は、憲法的規定になじまない存在であり、党規約による規律は、必らずしも憲法の条文による直接的な規制を受けることのない私的結社の内部規律であるとされている。
しかし、政党の法制化は徐々に進行している。政治党派が、資金調達や組織運営において、秘密結社の構造を保持することは、もはや許されなくなっている。二大政党制の土俵に上がることを拒否する「唯一の革新政党」であっても、選挙と議会運営における公開制と透明性の原則を無視することは、法的に困難となっている。日本共産党がその党員を処分する方式について、裁判所が介入を避ける立場をとっていることは確かであるが、その場合にも、市民社会秩序との整合性が求められることが、司法の判断として明らかにされている。
市民社会状況における異端派は、ここで萎縮せざるえなくなる。永遠の異議申し立て人の場の選択は、異端派としての在り方の自己目的化を意味する。自己目的化された異端派の場の選択によって、日本共産党は、市民社会秩序との整合性の承認ではなく、逆に、市民社会秩序感覚の組織内侵入の排除を基本姿勢とせざるをえない。以下でお目にかける【資料1】と【資料2】が、その具体例となっているのであるが、日本共産党は、規律違反で党員を除名する旧来の組織保存策に留まることができなくなっている。異論を提起する党員の党員資格について、党官僚が裁量し、断定を下し、異論の提起者を排除する措置を新たに採用せざるをえなくなっている。市民社会秩序への正面からの挑戦であり、異端派としての凝縮であり、新たな状況への対応を拒否する萎縮である.
党内の異論提起者を、党を誹謗・中傷する者として、機関の判断で排除する新しい党規約は、日本共産党の第二〇回党大会において決定されたのであるが、以下の【資料1】と【資料2】は、党規約改正の先取り実施の例を示している。
三、「共産党神話」の護持
「あの苛酷な弾圧体制のなかにあって、日本共産党は、天皇制に反対し続けた。帝国主義戦争に反対し続けた。植民地主義に反対の立場を鮮明にしていた」とする自己主張が、今日の日本共産党の存在意義を支えるアルファとなりオメガとなっている。最近の私の歴史分析は、このような「共産党神話」の歴史的根拠のなさを実証することに集中している。
天皇制の打倒、などというスローガンを口にして獄に繋がれた者たちだけが、戦前の国家主義体制に抵抗していたのではなかった。コミンテルンの文書を国内に持ち込むとか、非合法の印刷物を配付するとかというような街頭活動より、はるかに根強い巧みで効果的な体制批判の活動が、国家のなかの社会の知的部分で取り組まれていた。特に、学問の領域で影響力をもって展開されていた。「共産党神話」は、生きた歴史の前に崩れていく。
一九八九年の「ベルリンの壁」の崩壊は、世界各国共産党の崩壊因となったが、日本共産党にとっては致命的な打撃になっていない。それは、日本共産党に特有の「神話」が、日本共産党の「国体論」として護持されていたからであった。しかし、日本における「共産党神話」は、国家社会主義の崩壊によって崩されることはなかったといえ、日本社会における市民意識の成熟によって崩されつつあることを指摘したい。一九八〇年代の初頭、教科書問題として、日本帝国主義のアジア侵略の事実の承認が求められることになった。侵略戦争の承認は、戦争責任問題を、被害者意識で捉えるそれまでの常識を覆すことになった。戦争責任とは、戦争指導者の責任であるだけでなく、民衆の側の加害責任であることが明らかとなった。一九八〇年代の終わりには、長崎の本島市長の発言などを通じ、戦争被害者としての民衆の姿だけでなく、戦争加害者としての民衆の姿が自覚の形をとって浮上することになった。そこで、責任を追求される体制側指導者と責任を自覚する民衆の側との中間に位置する「前衛」の責任問題が、自ずと浮上することになった。「前衛」は天皇の戦争責任を追及する先頭に立つことで、自らの主体的責任を不問に付すことが困難になった。
非合法共産党時代の結果責任としての戦争責任が問われる主体的戦争責任論の湧出は、日本共産党の存在意義の根底からの洗い直しと受け取られた。日本共産党にとって「神話」の護持が喫緊、最重要の政治課題と意識された。天皇の戦争責任追及の声が大きくされただけでなく、民衆の側の戦争責任を問う視点が頑なに拒否され、戦争被害者としての民衆と護民官としての日本共産党という関係図が必死に守られることになった。ここで、丸山真男氏に対する執拗な、異常な、批判キャンペーンが展開されたのであった。
丸山真男氏が、四〇年ほど昔、日本共産党にも戦争責任があると指摘したことへの、ベルリンの壁の崩壊後の時点における批判キャンペーンは、まさしく「イデオロギー闘争」として取り組まれた。私の『左翼知識人の理論責任』(窓社)などへの批判も、そのような「イデオロギー闘争」の一貫として展開されたようであった。私は、私の著書を批判した日本共産党の『前衛』誌に反論を掲載するように求めた。しかし、それは容れられなかった。【資料3】が、私の無視された反論である。
〔資料1〕 公刊の書物への一方的弾劾
日本共産党中央委員会御中
過日、一九九四年五月一九日、私は東京都委員会から、五月一二日付けの決定として、党規約第一二条により除籍すると言い渡されました。理由は、昨年、窓社から刊行した私の著書『左翼知識人の理論責任』が日本共産党を誹謗し中傷し攻撃していることにある、とのことでした。
この除籍言い渡しの経過と内容が、公党としての資格を欠く組織運営になっていると思われますので、私は、異議を申し立て、日本共産党の責任ある機関で調査されるよう要望します。
(一)、私の著書『左翼知識人の理論責任』の内容について問題があるとの提起が、機関の責任者から私の所属する支部組織に正式に提起されたことは一度もありませんでした。また、この問題について私の所属する支部組織で正式に検討されたことは一度もありませんでした。私の所属する基本組織に一度も事情聴取がなされず、一度も意見打診がなされないまま、突然、上級機関における除籍決定がなされています。
(二)、『前衛』一九九四年四月号に、私の著書『左翼知識人の理論責任』に対する批判論文が党中央委員会文化知識人委員会事務局員の名によって発表されました。この批判論文は、私に対し、「もはや革新陣営とは無縁の立場」にあるとする追放宣言を行っています。党の機関において私の問題に対する態度決定がなされる前に、党の機関誌上で事実上の処分発表がなされています。
(三)、東京都委員会が私に言い渡した除籍理由は、五点ほどありました。いずれも私の著書『左翼知識人の理論責任』の内容に関するものでありました。私は、五点の総てが日本共産党に対する学問的な分析でありその結果としての批判ではあっても、日本共産党に対して敵対する意図による誹謗、中傷ではないと反論しました。特に、私が小選挙区制度に賛成していると決め付けている点については、それが事実誤認であることを指摘しました。私の事実誤認の指摘に対し、東京都委員会からの反論はありませんでした。事実誤認にもとづく除籍処分が行われています。
(四)、私は『前衛』四月号の批判論文執筆者へ、幾つかの論点について私と内部公開の討論をするよう要請、「社研」などを利用した党内における公開討論を提案しましたが、批判論文執筆者からの回答はありませんでした。代わって、東京都委員会から、除籍の言い渡しのついでに、「除籍通知によって批判論文執筆者からの回答は必要でなくなったと考える」との意向が伝えられました。党内の批判者に対して、党内における討論の機会を提供する代わりに組織的な排除処分が課せられています。
(五)、私は『前衛』四月号の批判論文に対する短い反論を『前衛』編集部宛に送りましたが、今日までのところ受領通知すら受け取っていません。私の反論についても、「除籍の言い渡しによって掲載の必要はなくなった」とする処理がなされているようです。公刊された書物の著者に対して、「堕落」「変質」「転落」などの悪罵を浴びせたまま、反論掲載の要望を無視し、党籍剥奪処分で対応するという姿勢が、日本共産党中央委員会の名で発行される「理論政治誌」によって示されています。
一九九四年五月三一日
法政大学教職員支部 高橋彦博
〔資料2〕 文書化しない追放理由
最終通告を受けたお知らせ
不愉快なことであり個人的なことであるので、このまま自分の胸にしまっておけばよいと、一度は自分に言い聞かせたのですが、考えて見ると、後日のために記録しておく必要があるように思えました。また、ご報告申し上げておきたい方も何人かおられます。それで、あえて、一報させていただく次第なのですが、本日、私は、日本共産党中央委員会による除籍措置の最終決定を電話で通告されました。
私が今回、日本共産党から除籍されたのは、昨年(一九九三年)七月に私が窓社から刊行した『左翼知識人の理論責任』が「日本共産党に対する誹謗・中傷に満ちている」「党外からする党への攻撃である」と判断されたことによるものでした。今回の除籍措置にあたって、私には、呼び出しと口頭による言いわたしの形式がとられました。除籍理由の文書による明示は、私の強い要請にも関わらず、遂になされませんでした。以下の五点の除籍理由は、私のメモによるものです。
(1) 長崎市長本島等氏に対する日本共産党議員の「組織人」としての質問は、本島氏の「自由人」としての対応の前に、日本共産党議員集団の「ロボット集団化」を露呈する結果になったとしている(五七頁)。これは、日本共産党議員団に対する誹謗・中傷である。
(2) PKO法案をめぐる『朝日新聞』と『赤旗』の投書欄を比較し、『赤旗』紙における「偏狭」「自己正当化」を指摘している(一四七頁)。これは、宮本顕治議長の「基本点で朝日を批判」とする発言への揶揄であり、日本共産党の指導者に対する攻撃である。
(3) 天皇の戦争責任を追及するだけで民衆の側の加害責任の自覚を求めない前衛党の立場は、民衆の階級的立場の覚醒を求めるだけで民衆の市民としての政治的成熟を求めない「代行主義」の現われであるとしている(一一八頁)。これは、大衆の成長を求めてやまない日本共産党に対する誹謗・中傷である。この本は全体として日本共産党を「代行主義」として攻撃している。
(4) 政治改革と小選挙区制に賛成している。これは日本共産党の方針に対する敵対である(「小選挙区制に賛成していないのですが・・・・・・」とする私の反論に対しては、後日、電話で以下のような追加説明がありました)。海部内閣の政治改革三法案を「二一世紀を展望する政治改革の試案」(一八二頁)と評価している。ここを小選挙区制に賛成している箇所とみなす。
(5) 政党の法制化は歴史の趨勢であると主張している(一九五頁)。この主張は日本共産党に対する敵意の表明にほかならない。
*
最近の『赤旗』紙(一九九四年六月一〇日付)によれば、私は「知的方向喪失症候群」(岡倉古志郎先生)ともいうべき傾向に囚われた一人であり、日本共産党の「新しい人間集団としての成熟」(塩田庄兵衛先生)過程から排除された一人であることになります。私としては、ますます「左翼知識人の理論責任」を問う姿勢を強めざるをえなくなりました。
一九九四年七月一三日
高橋彦博
〔資料3〕 無視された反論の掲載要請
学問領域と市民社会理性への拒絶反応
――『左翼知識人の理論責任』批判への批判
高橋彦博
〔小目次〕
他の党派にたいしては鋭い批判を浴びせるのを常とするが、日本共産党にたいしては、たとえ、その欠陥が目についても批判を避け、誤りを指摘せざるをえない場合は、なるべく穏やかに人の後から指摘するのが進歩派知識人のたしなみであるとする姿勢がある。昔、河上肇が櫛田民蔵の家を訪れ、二階の一部屋でそのように櫛田を諭したことがあり、大内兵衛が揶揄して「二階の垂訓」と呼んだ日本の左翼知識人に特有の姿勢がそれである。
私の周辺には、「二階の垂訓」をかたくなに守っている先輩研究者が多い。若い研究者のなかにもそのような老成した姿勢をとる者がかなりいる。だが、私にいわせれば、改革課題への対応が遅れ守旧派となっている革新政党の現状があるにもかかわらず、既成革新党派の指導者や党官僚層の知的硬化と知的怠惰を放置する左翼知識人は、「二階の垂訓」的配慮の結果について知識人としての理論責任を問われることになる。私が、昨年、窓社から『左翼知識人の理論責任』を刊行したのは、そのような論点を提示するためであった。
今日、日本の社会だけでなく、世界中の国家と社会をめぐる激しい動きが展開されつつある。一九八九年の「ベルリンの璧の瓦解」に象徴される国家社会主義体制の崩壊は、今世紀のほとんどを賭けた大規模な社会実験の結果が「失敗」であったことを示した。二一世紀を目前に、世界史は新たな段階へその歩みをすすめようとしている。社会科学の研究に従事する者が、おそらくは今世紀最大の歴史動向と記録されることになるであろう国家社会主義体制の崩壊を目撃した以上、その巨大な歴史の歩みからなにかを学び、なにかを反省し、これまでの社会科学の研究になにかを付け加えようと試みることは、当然の努力ではなかろうか。私の場合、日本の社会運動史の再構成がその作業となった。
壮大な歴史のドラマとして国家社会主義体制の崩壊を目撃しながら、私が理論的に確認できたことは、経済原理としての市場原理の普遍性であると同時に、政治原理としての政党政治の普遍性であった。政党政治の普遍性の承認は、そのまま、議会制社会主義のソビエト型社会主義にたいする原理的優越性の確認となった。私は、現代史の底流として議会制社会主義を位置づける視点の的確性を「ベルリンの壁の瓦解」で確認することができた。議会制社会主義論の展開が、私の社会運動史再構成の主な内容となることになった。
現代史の動向としての議会制社会主義は、社会主義政党に、その党構造の質的転換を迫っていた。日本政治の動向においても、現実化しつつある政党の法制化は、社会主義政党の党構造に市民社会秩序との整合性を求めていた。党議拘束の緩和、党首公選制、党員登録の定期的確認制度、各種選挙候補者についての予備選挙制度、などが具体的な実行課題として浮上していた。私が取り組んだ作業は、日本の社会主義政党がこれらの当面する課題にどれだけ自覚的に対応しているか、という観測作業であった。
左翼の側の政治改革について、私の診断結果をいえば、日本共産党が独り議会制社会主義への転換課題を自覚せず、議会制社会主義的な党構造への転換を結社の自由を盾に拒否していた。政党政治における旧型の党から新型の党への転換過程にあって、日本共産党は大勢から取り残されていた。診断医の立場からすれば、放置できない症状を呈していた。
それにもかかわらず、日本の左翼知識人は、日本共産党の症状について、ひたすら口を閉ざしているのであった。私は、革新勢力について批判的分析を試みたこれまでの何点かの著作に続けて、『左翼知識人の理論責任』を発表することにした。
左翼知識人の理論責任を問う議論は、左翼知識人が指摘を避けて通ってきた日本共産党の症状を具体的に示す作業を含まざるをえなかった。ところが、そのような日本共産党の欠陥を指摘する私の議論は、左翼知識人批判の議論を含め、日本共産党にたいする「攻撃」であり、「公然たる誹謗、中傷」であるとする反発を招くことになった。私は、「もはや革新陣営とは無縁」の存在であると断罪されることになった。日本共産党中央委員会発行の『前衛』誌(一九九四年四月)に発表された足立正恒氏による「体制選択論への屈服と変節の証――高橋彦博著『左翼知識人の理論責任』がしめすもの」がそれであった。
今から一四年前、一九八〇年に、学習の友社から増島宏教授との共編著として刊行した『現代日本の議会と政党』で、私は「われわれは日本の現実政治を率直に見つめる目をもっている限り、日本共産党の歴史と現状をあらためて評価する立場をとることになるであろう」と述べた。そのような私が、『左翼知識人の理論責任』を刊行し、日本共産党を「攻撃」する議論を行なったのは「変節」であると足立論文は弾劾する。
日本の社会主義政党と議会の関係は、かつて一度も、真正面から取り組まれたことのないテーマであった。一四年前の『現代日本の議会と政党』における議会政治の歴史における社会主義政党、特に日本共産党の位置を分析する作業は、その意味で注目されてしかるべき試みであった。『現代日本の議会と政党』は、法政大学政治史研究会における共同研究の成果であり、学習の友社の刊行書であったが、単なる学習のための解説書ではなかった。労働者の学習組織における「社会主義政党と議会」というテーマの承認は、それ自体が、議会制社会主義の潮流が時代の潮流となっていることの運動現場における確認となっていたはずである。
共同研究『現代日本の議会と政党』で、私が行なった分析は、「統一戦線と議会制民主主義」論であり「議会制民主主義の真の担い手」論であった。私は、これらの分析作業をつうじて日本共産党が辿らざるをえないでいる議会制社会主義の方向の確定と定着の動向を確認することができた。『現代日本の議会と政党』を著わした段階で、私は、日本の議会制民主主義の担い手としての革新統一戦線と日本の共産党に大きな期待をかけていた。
だが、その期待は適えられなかったのである。一九八〇年代をつうじ、戦後政治の再編成が、戦後政治の総決算として、あるいは、危機管理体制の構築として、さらには制度疲労自覚への対応策として、保守の側で積極的に進められたのにたいし、革新の側は、戦後民主主義体制における既得の地点を確保するだけで精一杯であった。八〇年代の保守と革新のバランス・シートが、花伝社から刊行した私の『保守の英知と革新』(一九九一年)の主な内容となった。私が、「保守の英知」といいきったのは一九七九年であった。八〇年代をつうじ、私は日本の社会運動の歩みにおける「保守の英知」に対抗する「革新の英知」の発揮の例の発掘を課題としたのであったが、発掘結果は、思わしくなかった。
政党は生き物である。時々刻々と態様を変えている。変化の様を観察し、政党に自覚的対応の材料を提供することは、政党の歴史と理論を専攻する研究者にとって当然の課題であり、責務ですらある。態様を変えるのは保守政党だけではない。社会主義政党もまた、歴史の流れと社会の変化に対応して党の構造を変えていく。態様の変化を拒否する党は、化石化していくほかない。保守政党と社会主義政党のヘゲモニー争奪戦は、どちらが自覚的状況対応を成し遂げるかにかかっていたのであり、目下のところ、このヘゲモニー争奪戦において、劣勢なのは、明らかに革新の側であると私には観察されたのであった。
国家社会主義の崩壊が明らかになる前に、世界史的動向の先取り過程として、日本における戦後革新勢力の形骸化の事態が政治過程分析の結果として多くの人によって確認されていた。私もまた、私なりの観察結果を発表することになった。一九八九年以降における国家社会主義の崩壊は、日本における戦後革新勢力の崩壊についての観察結果を裏打ちする事態となった。このように、戦後革新勢力についての批判的分析が学問領域においてなされている以上、そこから提起される論点への反論は、理論的実証的になされるべきであった。特定の政治党派による党内文書の解釈論では反論にならなかった。
足立論文においては、「東欧革命」は「覇権主義」と「命令主義」の破綻による「歴史の逆流」にすぎなかったとする断定が下されている。「東欧革命」に市民革命性を認める歴史把握が拒否されているのであるが、断定の根拠は日本共産党の決定文書であった。理論的実証的になされないこの断定は、研究者にたいし、「東欧革命」の歴史的な把握に関して「市民革命」と書いた踏み絵を踏むように求める結果となっている。
左翼組織の病状について、たとえ気がついてもひたすら黙するのが左翼知識人の美徳であるとする倫理観は、知識人の生命である批判能力を減退させる結果をももたらしている。国家社会主義体制の崩壊について左翼知識人が負うべき理論責任は、メーテル・リンクの寓話を借りていえば、青い鳥が家の外にいるとする幻想をチルチルやミチルに与え、二人を放浪させたことにあるよりも、家の中にいた普通の雉鳩が青い鳥に転化する過程の観察ができなかったことにあるとするのが私の指摘であった。日本の現代史における青い鳥の成長過程を実証的に把握する分析作業の何点かの成果を、私は提示することになった。
「連合」的労働運動の位置、日本におけるネオ・コーポラティズムの成熟、日本国憲法の可能性、などの測定が私の研究課題となった。その分析結果を、私は、一度は学会とか研究会とか雑誌などで発表し、分析結果の妥当性について、それぞれの場における検証を試みることにした。分析の結果については、賛成でない人、判断を留保する人がかなり多くいることがわかった。しかし、分析の視点については、その意味を理解し、意義を認める人が予想どおり多かった。日本の左翼知識人の理論責任について議論を開始するのは当然であると、学会で、研究会で、私の論点提起の姿勢は激励さえされた。その経過を、『左翼知識人の理論責任』の「はしがき」で私が述べておいたのは、私の提起する論点が、私一人の問題意識によるものではないことを明らかにしておきたかったからである。
ここに一人の社会運動史の研究者がいる。彼は、営々として社会主義政党の党構造の分析に取り組んできた。たとえば、彼の一九七二年における新日本新書の『民社党論』がすでに構造分析となっていた。彼の党構造分析は、議会制社会主義なる概念装置を得て加速された。市民社会秩序との整合性の確保に取り組みを見せない社会主義政党にたいして、理念としてでなく、党構造という物的なレベルにおいて、その病状の確認がなされた。同時に、日本の左翼の構造的欠陥について批判を避ける左翼知識人にたいして、その理論責任の所在が明らかにされた。このような彼の研究成果は、日本の左翼陣営において、どのように受け止められることになったであろうか。
足立論文は、私の『左翼知識人の理論責任』について、「心ある知識人からの、きびしい批判と追及をまぬかれない」であろうと期待した。左翼知識人からする私への反論についての期待であった。実は、足立論文のそのような期待に応えるかのような批判が、すでに発表されている。唯物論研究協会に属する吉田傑俊氏が『社会労働研究』(第四〇巻第三・四号、一九九四年二月)に掲載した私の本の書評がそれである。
ただし、吉田氏のこの書評において、私の本への「批判」はなされているものの、私への「追及」はなされていない。吉田氏は、私の議論が、「存在するものはすべて理性的である」とする現実への埋没論になってはいないかとする厳しい「批判」を行なった。しかし、吉田氏は、私の問題設定や分析視点については、その積極的な意義を認めているのであり、したがって、「批判」はなされたが「追及」はなされなかったのであった。
「心ある知識人」においては、「党中央委文化知識人委員会」の期待から外れて、私の問題提起を正面から受け止める姿勢が示されているのであった。
日本共産党中央委員会の『前衛』誌と私との間では、永年にわたって、あるかたちにおける論争が続けられていた。
私の社会民主主義の研究は、議会制社会主義論へ落ち着くものとなったが、そのような私の研究動向は、一九七七年刊行の『日本の社会民主主義政党』(法政大学出版局)や一九八五年刊行の『現代政治と社会民主主義』(法政大学出版局)に示されていた。後者において、私は、「現代史の潮流は明らかに社会民主主義である」と述べるに至っていた。八年前、私の『現代政治と社会民主主義』が刊行された時、今回と同じように、『前衛』誌は、私の著書について批判論文を発表した。長久理嗣氏の「社会党新与党化路線肯定への論理」(一九八六年八月号)がそれであった。この時は、批判論文発表前に、『前衛』編集長と共産党中央委員会知識人対策部の責任者から、私に、「雑誌で批判する」との連絡があり、ゲラ刷りが渡された。「反論があればどうぞ」とのことでもあった。
私は長久論文への反論は、実証分析の積み重ね方式で行なうことにした。その積み重ね作業の継続は今日に至っているが、この間の作業の最新のまとめが『左翼知識人の理論責任』であった。この本は、長久論文への一つの回答となっていた。
政治の現場からする節度ある私の社会民主主義論にたいする批判には、学問の場で実証的理論的な検討を行なって答えるという関係を私は作ってきたつもりであった。しかし、今回の足立論文は、私からいわせれば、『前衛』誌と私との「黙契」になっていたはずの、社会民主主義について政治の現場と理論・歴史の両側面から同時進行的な分析を進めるという共同作業を、一方的に打ち切る宣言となった。足立論文は、私の日本の社会民主主義についての実証分析と理論整理の総体を、「反動反共勢力の体制選択論の見地」そのものであると切り捨てた。議論だけでなく、提起された問題点の受け取りまでが拒否された。
学会や研究所やシンポジウムを通過してきた私の議論であるにもかかわらず、学問領域における議論に立ち入ることを避け、私の議論をそれらの場から切り離して捉えたうえで「堕落」「変質」「転落」そして「変節」とする断罪を行なったのが足立論文であった。しかし、そのような切り離しは不可能であった。足立論文が、私の議論を断罪する時、その断罪は、学問領域と市民社会理性における問題認識の切り捨てにならざるをえなかった。
今日の社会民主主義論でいえば、それは、国家社会主義崩壊後の状況における社会主義の可能性をどこにどのような形態で見いだすかという課題に直結する議論となっている。足立論文は、私の社会民主主義論を「反動反共勢力の体制選択論の見地」そのものであると切り捨てたが、その切り捨ては、「ベルリンの璧の瓦解」という事態を直視し国家社会主義体制崩壊後の状況における社会主義の可能性を問おうとする学問領域と市民社会理性における課題意識の切り捨てになっていた。
現代社会における国家社会主義とはなんであったのか。それは現代のユートピアにすぎなかったのか、現代社会の動向として社会主義を見いだす可能性は残っているか、等々について、たとえば東京大学社会科学研究所で二年越しのシンポジウムが行なわれている例があった。そこにおける発言を踏まえたうえでの私の問題提起であったのであり、足立論文においては、私への弾劾とともに、公開されたかなり規模の大きなシンポジウムで示された研究動向の無視がなされることになった。
科学的社会主義の担い手は世界で日本共産党一党だけであるとする一国共産党論が、日本共産党の最近の議論の特徴となっている。そのことを、私は「『社会科学総合辞典』の批判的検討」(『社会労働研究』第四〇巻一・二号、一九九三年七月)で指摘した。日本共産党の一国共産党論にみられる自己完結性が、学問の領域と市民社会理性から自己を隔絶する閉鎖性において成立している事態を、足立論文は端的に示す結果となっている。
学問領域と市民社会理性の場を通過したうえで提起することを心がけた私の何点もの間題提起を、足立論文は、日本共産党の決定文書の解釈論だけで切り捨てようと試みた。その結果は、学問領域と市民社会理性から隔絶された小宇宙への閉じこもりであった。科学的社会主義が、私のいう「社会科学の外の議論」となっている例を、足立論文は、社会民主主義論のほかに何点もの例で示している。
日本国憲法の構造を民主的条項と非民主的条項に腑分けして捉える理解は、天皇の代替わり儀式の機会における天皇制論議において、象徴天皇制を政治統合機能の発揮においてのみ捉える見解に結びついていた。一面的な政治統合機能論は、象徴天皇制が発揮している文化統合機能を見落としているし、象徴天皇制を風化させ自然死させつつある市民社会の英知ある歩みから離反しているとする論議が、私の『左翼知識人の理論責任』に含まれていたはずである。しかし、そのような象徴天皇制論は、長崎市の日本共産党の議員に加えられたロボット議員云々の攻撃問題であると捉えられて終わっている。ここで、足立論文は、歴史学研究会における象徴天皇制についての論議を回避した結果となっている。
日本の左翼は、政治権力論として人民主権論を唱えていた。全人民の国家論は、人民主権論の変種であった。日本共産党が国民主権を唱える時、かつての人民主権論との理論面での接合性が問われることになった。人民主権論は、コミンテルン・テーゼの規定としてだけでなく、現代の憲法論としても論じられていただけに、日本共産党の理論的整合性を問う論点は、上田耕一郎氏や不破哲三氏への問いかけになるだけでなく、そのまま、左翼知識人への問いかけになっていた。人民主権論の国民主権論への転化の過程についての論点提起にたいしては、なぜか、足立論文は、私の議論の切り離しすら行なわず、議論の総体について口を閉ざすだけであった。この場合は、足立論文において、上田・不破両氏の理論責任にたいする沈黙と同時に、『国家学会雑誌』という学術雑誌においてなされた問題提起にたいする沈黙が示されることになっている。
「連合」的労働運動の評価と日本におけるネオ・コーポラティズムの評価について、この間、一貫して私が提起しているのは、「労働政治」なる捉え方であり、産業民主主義についての積極的評価という議論であった。「階級的民主的労働運動」なる把握は運動のスローガンにすぎず、「連合」的労働運動を分析する有効な労働運動論の枠組になっていない、とする私の論点にたいして、足立論文が示した反論は、依然として「階級的民主的労働運動」なる決まり文句の繰り返しであった。私の問題提起は法政大学大原社会問題研究所や中央大学社会科学研究所の研究プロジェクトの一端を担う場でなされたものであり、多少は議論を呼んだ論点であった。足立論文は、「労働政治論」を切り捨てる際に、これらの研究機関における研究動向をも切り捨て、「社会科学の外にある議論」となっている。
天皇制国家のイデオロギー構造にほかならない密教と顕教の二重構造が、日本の社会労働運動史研究で著名なある左翼知識人の理論構造に取り入れられているとする指摘を私は行なったが、それは一知識人批判に終わっていなかったはずである。レーニン主義を信奉する大衆を「革命的」と評価しながら自分は普遍価値の世界に身を置くという左翼知識人の二重の論理構造の指摘は、天皇制支配の裏返し現象が日本の左翼の構造に見られるという指摘であった。この私の指摘は、足立論文において反論されない一点となっていた。天皇制批判が国家主義の構造を克服できないまま指導者と大衆の二重構造に安住していたとする私の社会労働運動史の再構成論は、社会政策学会においてなされた報告であった。足立論文は、社会政策学会における「内なる天皇制」の論議も無視する結果となっている。
一度、その問題意識に囚われると、次から次へと問題点が深化し、その問題のもつ重みにますます打たれることになるのが、戦争責任論の領域である。左翼知識人の理論責任を問う私の議論の起点になったのは、主体的戦争責任を問う議論であった。指導者の責任を追及する姿勢の陰に隠れて消えていた民衆自らの責任を問う議論を、法政平和大学から生まれた小さな研究会のテーマとし、その討論記録を『民衆の側の戦争責任』と題して青木書店から刊行したのは一九八九年であった。
戦争責任を自覚的に追及する勉強会で私が到達できた地点は、戦争責任を政治責任と理解したうえで結果責任の倫理で捉える地点であり、戦争責任論を戦後責任論であり加害責任論であるとして広大な海原への漕ぎ出しに似た責任自覚の摸索を開始する地点であった。摸索の開始の第一歩となったのが、左翼知識人の理論責任の追及であった。
民衆にたいする無責任呼ばわりは「不当」であると、足立論文は、私の民衆の側の戦争責任論を拒否する。ところで、戦争責任、戦後責任、加害責任、民衆の政治責任、左翼の政治責任、と展開される主体的戦争責任論の文脈は、そのまま、この一〇年ほどの間の世論動向の反映となっていた。『民衆の側の戦争責任』から『左翼知識人の理論責任』へと継続することになった私の議論は、期せずして、戦争責任論の世論動向を追うものとなっていた。ここで、足立論文が拒否したのは、私の戦争責任論であるだけでなく、左翼の政治責任論へ帰着することになる主体的戦争責任論の文脈であり世論動向であることになる。むしろ、足立論文においては、戦争責任論に関する世論動向の拒否が本来の意図であったのではなかったか。
足立論文発表の前から、『前衛』誌は、丸山眞男氏の戦争責任論にたいする批判キャンペーンを展開していた。このキャンペーンは、左翼の政治責任論へと展開されることになる結果責任の倫理から身をかわし、日本共産党の存在意義を保持しょうとする懸命の努力であった。足立論文は、「イデオロギー闘争」として私への弾劾を行なったと宣言している。『前衛』誌の「イデオロギー闘争」において、正当にも丸山眞男氏よりは批判対象を軽く見る作業分担がなされたと見受けられるが、それにしても光栄なことに、丸山眞男氏批判の流れの一端として、私の戦争責任論の拒否が足立論文のかたちでなされたようである。
丸山眞男氏の戦争責任論批判として展開された『前衛』誌の「イデオロギー闘争」がはしなくも露呈したのは、科学的社会主義と称される理論構造が、結果責任の倫理を受容できる構造になっていないことである。科学的社会主義と称される理論構造には、人間としての責任論の領域が欠落しているのであった。いいかえれば、人間の関係を、個人の罪の自覚において捉え直す思想性が欠落しているのであった。社会主義の理論に罪の自覚を問う人間論を含むことが理論構成上、困難であるのであれば、少なくとも、人間論の領域にたいする敬虔さが内包されるべきであろう。しかし、個人の罪意識を自覚する世界など、科学的社会主義においては排除の対象とされるだけなのであった。
そもそも、科学的社会主義においては、社会科学の理論動向の参照であるとか、市民社会理性への依拠などがなされる構造になっていないのであった。そればかりではない。学問領域と市民社会理性の排除のうえに成り立たせられている閉鎖的な小字宙へ閉じこもる科学的社会主義の自己完結性は、「不滅の生命力」を誇る奇妙な境地に到達していた。
「科学」を自称する理論体系が「不滅の生命力」を誇示する論理は、単純な同義反復であつた。ソ連や東欧の国家社会主義体制の崩壊を「覇権主義」「命令主義」の破綻にすぎなかったと足立論文がみなすのは、科学的社会主義の「不滅の生命力」を信ずるからであった。そして、足立論文によれば、科学的社会主義の「不滅の生命力」を証明するのは日本共産党の存在であった。ところで、足立論文によれば、日本共産党の存在は科学的社会主義の「不滅の生命力」によって支えられているのであった。すなわち、足立論文は、科学的社会主義の「不滅の生命力」の証は日本共産党の存在にあるとしながら、その日本共産党の存在は科学的社会主義の「不滅の生命力」によって支えられているとする同義反復の論理に陥っているのである。科学的社会主義が誇示する「不滅の生命力」という自己完結性は、トートロジーによって弁証されているのであった。
科学的社会主義の理論的有効性や日本共産党の存在意義は、本来、学問領域や市民社会理性における検証によって確定されるべきことがらであった。しかし、一般社会科学の領域においては、特定の歴史把握や既存の理論体系にたいし、新たな見解の出現によって乗り越えられることに自己の意義を見いだすべきであるとする自己相対化の姿勢が厳しく課せられている。また、市民社会理性においては、自分で自分のことを正しいと平然と繰り返していうような自己相対化姿勢の喪失が独善性として厳しく忌避されている。「不滅の生命力」を誇示する教条集団においては、自己絶対化を承認しない学問領域と市民社会理性との往来は、本能的に避けられているのであった。学問領域と市民社会理性への拒絶反応としての同義反復の論理による閉鎖性であり、自己完結性であり、小宇宙の形成であった。
科学的社会主義を自称する教団は、学問領域や市民社会理性との間に依然として「ベルリンの壁」を存在させている。科学的社会主義の小宇宙を支える生命線として、「璧」の張り巡らしが必要なのであった。このような「壁」の放置にたいしても、左翼知識人の理論責任は問われているのであった。
(一九九四年四月三〇日)
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丸山真男『戦争責任論の盲点』
(高橋彦博論文の掲載ファイル6編リンク)
『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生
『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識
『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に