白鳥事件の消去と再生

 

『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

 

高橋彦博

 

 ()、これは、高橋彦博法政大学名誉教授の白鳥事件に関する論考である。このHPに全文を載せることについては、高橋氏の了解をいただいてある。『白鳥事件』(新風文庫)は、2005年10月に刊行された。

 

 〔目次〕

   1、「権力犯罪」説から「組織犯行」説へ

   2、「犯行声明」を確認する高安証言

   3、日本共産党史における「白鳥事件」の消去

   4、「白鳥事件」から「白鳥裁判運動」へ

   5、学生運動史における「中核自衛隊」

   6、証言と記録による運動史への刻み込み

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

    『武装闘争路線−白鳥・メーデー・吹田・大須事件』関連ファイル多数

 

    (高橋彦博論文の掲載ファイル7編リンク)

    『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題

    『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

    『川上徹著「査問」の合評会』

    『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

    『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識

    『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果

    『「枚方事件」について』脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む

 

 1、「権力犯罪」説から「組織犯行」説

 

 新風舎発行「事件シリーズ」の一点として山田清三郎著『白鳥事件』が刊行された(新風文庫、2005年10月)。この書は、30年近く前、白石書店から刊行された山田清三郎著『白鳥事件研究』(1977年3月)の再販である。内容が改められることのない重版としての再刊であるが、出版社が異なって文庫版となるにあたって85ページの「解説」が付され、面目を一新した一書となっている。ジャーナリストである和多田進氏(元『週刊金曜日』編集長)が加えた「解説」は、「もう一つの《白鳥事件研究》序説」と題された小論であり、旧版再刊よりもこの「解説」論文発表に今回の再刊の意図があったと見受けられる構成であった。

 

 まず、戦後史の年表に刻み込まれている「白鳥事件」の発生と判決を『近代総合年表』(岩波書店、第二版)で確認しておきたい。

  1952.01.21 札幌市で白鳥一雄警部射殺される(白鳥事件)。

  1963.10.17最高裁、白鳥事件上告審で2審判決(村上国治に懲役20年)を支持して上告棄却。

  1975.05.21 最高裁、白鳥事件で村上国治の再審請求を棄却。

 

 和多田氏が今回発表した「白鳥事件」についての「解説」は、「白鳥事件」で有罪判決を受けた日本共産党員であり中核自衛隊員であった元・北大生の高安知彦氏になされたインタービューにもとづいている。最高裁の特別抗告にまですすんだ「白鳥裁判」は、物証に関する「権力犯罪」のからみがあったことを明確に否定するものとはなっていなかったが、事件全体が日本共産党が編成した「中核自衛隊」による「組織犯行」であったとする判断を下すものとなっていた。そのような最高裁の判決がもたらされる起点となったのは事件直後の時期における高安証言であった。今回、和多田氏が紹介する高安発言は、「白鳥裁判」における高安証言を再確認する内容の発言となっている。

 

 かつての山田清三郎著『白鳥事件研究』は、事件を「反共謀略事件」であるとする「権力犯罪」説に立脚する文献となっていたが、今回の、山田清三郎著『白鳥事件』は、和多田氏の「解説」が付されることによって、逆に「組織犯行」説を主張する文献となった。この本の読者は、各自が抱いてきたであろう「白鳥事件」についてのイメージを、再確認するか、描き直すか、いずれにせよ再構成することを求められることになる。

 

 ところで、「白鳥事件」が1952年1月に引き起こされたあと、事件の関係者と見られた10人が1950年代半ばに中国に「不法出国」し、そのうち、死亡が2、生存が1、1970年代の帰国者が7と伝えられている。国内で裁判を受けた者は3人であり、もっとも罪の重かった1人には20年の刑が課せられた。この1人については仮釈放後の事故死が伝えられている。半世紀が経過した「白鳥事件」であるにもかかわらず、事件の内容については未確定の部分が多いままとなっている。最高裁の判決は確定しているが、「白鳥事件」について社会運動史の一ページとして確認する研究課題は未だに残っていると見なければならない。

 

 

 2、「犯行声明」を確認する高安証言

 

 元・北大生の高安知彦氏が「白鳥事件」の被疑者として逮捕されたのは1953年6月であった。高安氏は「殺人幇助」で起訴され、懲役3年(執行猶予3年)の刑を受けた。今回の文庫版の「解説」者となった和多田進氏は、ある機会に高安氏から「白鳥事件」について話を聞く機会を得た。和多田氏が高安氏にインタービューした日時は記録されていないが、比較的最近であったと思われる。この高安発言が、新風舎文庫版『白鳥事件』における和多田「解説」の主内容となっている。

 

 高安氏の発言は事件の核心部分を明らかにするものとなっていた。たとえば、「拳銃」で「殺る」と言う命令は誰が発したのかという問いに、ためらうことなく「もちろん村上国治です」と答えている(p.304. 以下、文庫版のページ)。「白鳥警部を殺る」ことは「既定の方針」であったと説明している。「行動開始」となったのは、「組織の最高幹部である国治の指示」があったからであると断言している(p.310)。ただし、「実行犯」個人についての高安証言は推定判断としてなされている。

 

 事件直後、1952年1月22日付けで発行された日本共産党札幌委員会の署名のある一枚のビラがある。そのビラの内容と文体は、ほとんど「犯行声明」と言えるものになっている。そして、この一枚のビラ、いわゆる「天誅ビラ」の作成経過に関する高安発言は、きわめて具体的な実行証言となっていた。和多田氏が紹介する高安発言の中でとくに注目されるのは「天誅ビラ」の作成に関する部分ではなかろうか。

 

 札幌市警警備課長白鳥一雄警部が何者かによって札幌市内の路上で射殺されたのは1952年1月21日の夜であったが、その翌日である1月22日の日付で「見よ天誅遂に下る!」との見出しをつけたビラが日本共産党札幌委員会の名で発行され、1月23日に撒かれた(文庫版・所収年譜)。この「天誅ビラ」について、高安氏は、「犯行声明に近い内容」(p.331)となったことは認めているが、「犯行声明」であったと認定しているわけではない。しかし、同氏の「天誅ビラ」作成経過についての具体的な回顧は、この「天誅ビラ」が日本共産党の「犯行声明」にほかならず、さらなる事件の「犯行予告」ですらあったことを確定する証言となっている。

 

 事件の翌日、日本共産党札幌委員会に属する「中核自衛隊」の仲間がアジトに集まりニコニコしながら握手を交わしたこと、「隊長」であった村上国冶がその場でビラの原稿を書いたこと、ビラの見出しに「見よ天誅遂に下る!」と書き入れたのは村上であったこと、村上の原稿には発行人の署名が入っていなかったこと、校正作業を命じられた高安が一存で「日本共産党札幌委員会」の署名を入れたこと、署名入りで刷り上がったビラについて村上が「しゃあないな」と是認したことなどがきわめてリアルに語られている。このビラ作成について高安発言が描く状況は、まさにドストエフスキー『悪霊』の一シーンとなっていた。

 

 高安氏とそのグループは、「白鳥襲撃」が個人を特定した殺人行為であることについての明確な自意識を持っていなかった。彼らは、「白鳥襲撃」がきっかけとなって「民は自由のためにケッ起する」(天誅ビラ)と期待していた。彼らは、この期待のもとに、「労働者を先頭に全市民が結束し団結し…嵐のような斗いをまき起こそう」(天誅ビラ)と呼びかけたのであった。「天誅ビラ」は、和多田氏の「解説」で全文が紹介されているが、このビラで示された「白鳥襲撃」の戦略と戦術は以下のようなものであった(ゴチックは引用者の文言)。

 

  打倒目標=「占領者・占領軍と反動政府とその番犬ども」

  攻撃目標=「ファシストの親分!白鳥市警課長」

  実行主力=「天」

  実行方法=「実力」

  アピール=「労働者、農民、学生、市民の皆さん」

  威嚇対象=「全警察及その上級者と札幌市長」

  要求項目=「不当捜査に絶対反対」「拘置中の日雇労働者を即時釈放せよ」

 

 このビラの内容は、当時の左翼の理論水準から言っても、権力構造、戦略配置、運動組織論などにおいてかなりお粗末な内容であった。このビラは、戦後直後期の共産党組織末端の活動家が作成した劣悪なアジビラにすぎなかった。しかし、このアジビラに記された程度の状況認識と行動契機で日本共産党札幌委員会の「軍事行動」なるものが決定され、一人の警察官が攻撃対象となり、その命が奪われたのであった。

 

 

 3、日本共産党史における「白鳥事件」の消去

 

 和多田氏が「解説」で紹介する高安発言は、「白鳥事件」が日本共産党の「中核自衛隊」によって実行された「組織犯行」にほかならなかったとする証言になっていた。この「白鳥事件」は、日本共産党史においてどのように記録されているであろうか。

 

 これまで、何回かまとめられた経過のある日本共産党史において、たとえ「負の遺産」としてであっても、「白鳥事件」が党史の一ページとして記述されたことはなかった。『日本共産党の50年』(1972年)、『日本共産党の60年』(1982年)、『日本共産党の65年』(1989年)の本文記述に「白鳥事件」が登場することはなく、わずかに『65年』に付された「党史年表・1952年」の欄に「1・21白鳥事件」と記された例があるだけであった。それも、「日本のできごと一般」欄への記入であり、日本共産党関係の欄からは除外される扱いであった。

 

 日本共産党は1972年における「50周年」の機会に、党の歴史において「極左冒険主義の方針と戦術」が採用された時期があったことを認めている。この「極左冒険主義」は1951年末から1952年7月にかけて集中的に現れ「党と革命の事業にきわめて大きな損害をあたえた」とされている。日本共産党における「中核自衛隊」の編成による「軍事方針」の実行は間違いであったと反省されたのである。しかし、その反省に「白鳥事件」が含まれているかどうかは明らかにされていない。

 

 そもそも、1972年になされたに日本共産党の「極左冒険主義」についての反省なるものは「党と革命の事業」の立場からなされた総括であった。たとえば、「白鳥事件」は、共産党の末端組織が警察官に対し「天」にかわって「誅」を加え、その命を奪ったという明らかな「テロ」行為であったが、そのような反社会的「犯罪」について、道徳的な「罪」を認め、法的な「処罰」を受認するという倫理観に基づく反省ではなかった。

 

 日本共産党が「創立50周年」にあたって示した「極左冒険主義」の反省とは、朝鮮戦争当時の「軍事方針」の採用と「中核自衛隊」の行動に対し革命の戦略・戦術として「負」の評価を与え、今後、その種の記録を革命運動史における「負のページ」として党史から消去するという新たな指令にほかならなかった。

 

 日本共産党における「負のページ」の消去作業において、真っ先に対象とされたのは、「権力犯罪」として喧伝されながら実行部隊となった中核自衛隊員の「自供」が続いた「白鳥事件」であった。記録としての「白鳥事件」の消去作業は、日本共産党と密接な関係にあった新日本出版社において次のようにすすめられた。

 

 新日本出版社刊行の『社会科学辞典』は、1967年の初版で「白鳥事件」の項目を設定し、そこで「事件はあきらかにでっちあげである」とする見解を示していた。私は、この初版の編集会議に出席し、執筆者の一人となっていたので、この辞典編集の雰囲気は良く知っているつもりである。新日本出版社の『社会科学辞典』は、その後、『新版』(1978年)、『新編』(1989年)、『総合辞典』(1982年)と改版されているが、そこでは、「でっちあげ」とする記述を見ることができなくなっている。「白鳥事件」の項目立てそのものが消去されている。

 

 

 4、「白鳥事件」から「白鳥裁判運動」

 

 ところで、「白鳥事件」の消去作業は、必ずしも単純作業として進められるものとはなっていなかった。『社会科学辞典』と同じ新日本出版社から1970年に刊行された『戦後労働組合運動の歴史』(潮田庄兵衛・中林賢二郎・田沼肇著)という新書判の一冊がある。当時、かなり読まれた日本の労働運動史についての標準的「教科書」であり、私も、永い期間、大学の講義で参考書として取り上げ、学生諸君に通読をすすめていた一冊である。

 

 このテクストでは、日本がサンフランシスコ体制に入るとともに「1952年1月の白鳥事件、2月の青梅事件、5月の血のメーデー事件、6月の菅生事件、枚方事件、吹田事件、7月の芦別事件」など「多数の謀略事件と弾圧事件」が集中的に発生したと記述され、「白鳥事件」については「白鳥警部射殺をデッチあげられた村上国治が無実の罪で網走刑務所に閉じこめられた」との説明がなされていた。執筆を担当したのは、執筆者三人のうちで、おそらくは「東京白鳥事件対策協議会副会長」の立場にあった塩田庄兵衛氏であろう。そして、この記述は、同書の1973年版(5刷)においても消去されないままで残っているのである。

 

 ここで、塩田庄兵衛氏の「白鳥事件」論に注目しておきたい。同氏が編者となった東洋経済新報社『労働用語辞典』(1972年)では、「白鳥事件」が中項目・半ページの扱いとなり丁寧な解説を受けている。「でっちあげ事件」とする事件の理解は他と共通しているが、この解説では、最高裁にいたる判決の経過が詳しく記述されていて、筆者が塩田氏であることを充分に推察させるものとなっているが、それだけではなかった。「白鳥事件対策協議会」の経過が逐一説明されるこよによって、「白鳥事件」の社会労働運動史への書き込みが、「テロ」事件の記録としてではなく、大衆的裁判運動の記録としてなされている。ここで、「白鳥事件」の記録の「白鳥裁判」の記録への転換が、おそらくは意図的になされたのであった。

 

 それはともあれ、日本共産党の「軍事方針」採用についての批判的総括が1972年になされていたにもかかわらず、大衆運動史の実態においては、「権力犯罪」を糾弾する「裁判運動」が中断することなく継続され、共産党による「組織犯罪」消去の作業に距離を置いた独自の歩みをすすめていた。

 

 札幌から東京を目指す「白鳥事件再審要求大行進」が参加者総数125名で開始されたのは1975年であった。その前年の1974年には、「大行進」の呼びかけに応じ、106の地方議会が「再審要求決議」を行い、同年11月には、東京の渋谷公会堂で、「白鳥事件再審を国民に訴える大集会」が参加者数2500で開かれている(p.252)。

 

 刑事事件としてほぼ四半世紀、法廷で争われた「白鳥事件」であったが、1975年5月、最高裁で再審請求特別抗告が棄却され、1960年5月になされた村上国治被告に対する懲役20年の刑が再確定された。ここで裁判運動としての「白鳥事件」は幕を閉じた。最高裁の特別抗告棄却を受けた被告弁護団は、「公式声明」で「われわれは誤った裁判を正すためにあくまで努力する」と発表したが、「内部報告」では「再審請求の手段、一応つきた」とする運動終結方針を明らかにした。1975年7月、「白鳥裁判運動終結のための全国代表者会議」が開かれ、「裁判運動としては、法的手段をふくむ総合的判断から、この運動を一応終結する」との「宣言」が公式に発せられた(pp.239-240)。大衆運動としての「白鳥裁判運動」は、最高裁の特別抗告棄却の後、公然たる「終結宣言」を発して幕を閉じたのであった。

 

 ところで、「白鳥事件」については、上に見た、東洋経済新報社『労働用語辞典』と同じような記述の例をほかにも見ることができる。平凡社の『大百科事典』(1985年)は、川村善二郎氏の執筆で「白鳥事件」を取り上げているが、そこでも、事件そのものについてではなく、「白鳥裁判」の経過と判決内容が詳しく記述され、国外逃亡者について「時効停止」の措置がとられたところまで記されている。

 

 法政大学大原社会問題研究所編の『社会労働運動大年表』(労働旬報社刊、1995年)は、事件の発生、最高裁の上告棄却、最高裁の特別抗告棄却というそれぞれの時点で、いずれも解説項目として取り上げ、参照文献を付した解説を行っている。いずれの場合にも挙げられている文献は旧版というべき山田清三郎著『白鳥事件研究』(1977年)であった。

 

 この『大運動史年表』では、事件内容について多少とも立ち入った「解説」が試みられている。おもな証拠となる関係者の供述に伝聞が多いこと、とくに物証の弾丸については偽造された疑いが濃いこと、不法出獄者数名は村上が仮釈放された頃に帰国し不起訴・起訴猶予処分となったこと、最高裁において再審却下となったが「疑わしきは被告人の利益に」とする原則が適用されていたことなど、「組織犯行」であったであろう「白鳥事件」にからむ「権力犯罪」存在の余地を十分に疑わせる把握が示されていた。

 

 「白鳥事件」を「白鳥裁判運動」へ転換させ、そこで記録するという方法は、日本共産党の非合法軍事組織による「テロ」行為の史実に対してなされる消去作業の一形態になっていたと見ることができるかもしれない。しかし、そのような歴史記述の「狡知」を越えたところで確認されるのは、運動史の一ページに対して加えられる党派的消去作業を克服する大衆運動史のしたたかさであり「英知」ではなかろうか。

 

 

 5,学生運動史における「中核自衛隊」

 

 日本共産党史における「武力闘争」方針採用の時期における「中核自衛体」の編成であったが、共産党札幌委員会に属する「中核自衛体」がおもに高安氏ら北大生によって構成されていたように、その他の地域のける「中核自衛隊」も学生運動の延長線上に組織されていた。

 

 北海道余市の出身であった高安氏が北海道大学に入学したのは1950年であった。新制大学教養学部の学問環境は高安氏の期待に反するものであった。その高安氏の目の前で展開されたのは「イールズ事件」(*)であった。生物が好きで山歩き専門であった高安氏であったが、そこで学生運動に参加する。高安氏は、「イールズ事件」を経験した直後に「民青」に入り、次いで「細胞」に入党届を出す。その後、間もなくの中核自衛隊への「入隊」であった。

 

 (*)アメリカ占領軍による大学でのレッドパージに対する学生の反対闘争。GHQの民間情報局(CIE)顧問W.C.イールズは1949年7月の新潟大学を皮切りに、各地で共産主義教授追放の講演を行っていた。50..2には東北大学で講演を行う予定であったが、学生がこれに反対し講演会を流会に追い込んだ。5.16には北海道大学でも同じように学生の反対で講演は中止となり、10月には都学連がレッドパージに反対ストを行った。(『岩波日本史辞典』)

 

 高安氏は新制高校生時代を回想して言う。「…『青い山脈』で描かれた舞台と僕らの田舎の高校は同じようなものだったんです。いろんなことがまったく自由でね。…特攻隊で帰ってきたり、樺太で苦労して帰って来た人たちが教師になったり、東京空襲で焼け出されて来た教師がいたりしたんです。田舎の学校に。…とにかく教師たちが自由だった。だから生徒も自由だった。そんな高校生活だったから、大学に入って余計に絶望したんですね。そこに《イールズ事件》だったから、こんな面白いことはなかった。これを求めて大学に入ったんだ、と思いましたね。」(p.271)

 

 占領政策の一環として新制大学に提起された「赤色教授」追放政策は、全国の大学生から強烈な反対を受けた。それが「イールズ事件」でありレッドパージ反対闘争であった。高安氏は当時を回想して言う。「《イールズ事件》で如何に反共的政策が愚劣であるかを知りました。それに対して日共北大細胞の学生の指導が如何に正しく占領軍に対する攻撃が正しいか…を考えさせられたのです。」(p.272)

 

 新入生の高安氏は「イールズ事件」に遭遇し、ほとんど自動的に学生運動に入り、学生運動を通じ日本共産党に入党することになった。当時、そのようなコースを辿る学生は少なくなかった。共産党に入党した後、積極的な党員が中核自衛隊の一員になるというコースもまた、よくあるコースであった。

 

 「イールズ事件」から「中核自衛体」に直結するコースが、戦後学生運動史の一ページになっていたことは、最近、刊行された『早稲田・1950年・史料と証言』の「年表」(「別冊・資料編」2000年6月、掲載)によって容易である。そこに見出されるのは、大衆的な学生運動展開の基盤の上に中核自衛隊が突出する構造であった。

 

 戦前の学生運動は、「新人会」(東大)や「建設者同盟」(早大)の運動に代表されるように、労働運動・農民運動に活動家を提供するための運動であり、「プチ・ブル学生の自己否定」としての運動であるところにその意義が見出されていた。学生運動は「学生自治活動」であるよりも「学生社会運動」であった。

 

 それが、戦後の学生運動の場合、学園における戦後民主主義の自覚的な担い手となり、全学単一の自治会と全国単一の自治会連合連合によって学生層独自の要求を追求する新たな大衆運動としてのあり方を目指すようになっていた。戦後の学生大衆運動展開の初発点における「イールズ事件」であり、「レッドパージ反対闘争」であった。そこにあったのは、まぎれもない自発的大衆運動であり、それらは、しばしば自然発生的大衆運動としての様相すら示していた。

 

  【早大における大衆的学生運動の展開】

  1950年08月30日  全学連緊急中央執行委員会、レッドパージ反対闘争宣言。

  1950年09月28日  早大「伝統を守る会」に都下5000の学生参加。警官隊乱入。

  1950年10月17日  第一次早大事件。「大学擁護大会」。学内で143名逮捕される。

  1951年05月22日  原爆禁止・ストックホルム・アピール署名運動開始。

  1952年05月08日  第二次早大事件。座り込む1500の学生に警官隊乱入。

 

 戦後の大衆的学生運動が「イールズ事件」を契機とする「反レッドパージ闘争」で高揚した状況にあって、大衆的学生運動が示す新憲法感覚を継承するのではなく、中国革命における共産党主導の権力奪取方式をモデルとして提示したのが日本共産党における「武装闘争」方針の採用であり、「中核自衛隊」の結成であり、その突出した「軍事行動」であった。

 

  【早大における中核自衛隊の突出】

  1951年11月  早大政経学部の細胞会議で「新綱領」の軍事方針が提示される。

  1951年12月  早大社研、小河内村に農村調査隊派遣。

  1952年02月  早大細胞と中核自衛隊、牛込警察署長官舎を襲撃。

  1952年03月  早大の山村工作隊23人、小河内村で検挙される。

  1952年04月  民族解放早稲田突撃隊、隊長ほか各学部の党員10人ほどで編成。

  1952年05月  メーデー事件の騒乱罪で活動家萎縮。隊員募集のビラ作成。

  1952年05月  「5・30」記念集会。各大学軍事組織、はじめて火炎瓶闘争。

  1952年06月  朝鮮戦争勃発2周年。市ヶ谷の米軍司令部へ「テルミット」攻撃。狙ったドラム缶は空だった。新宿駅周辺で警官隊と衝突。改造モデルガン発射の隊員(露文科の学生)、逮捕される。不発であった。

 

 北大生を「主力」として組織された札幌の「中核自衛隊」における「イールズ闘争」から「白鳥事件」へという経路は、そのまま、早稲田の「中核自衛隊」における経路でもあったことが以上の年譜によって明らかである。元・北大生である高安氏が回顧する「イールズ闘争」から「白鳥事件」へという経路は、「中核自衛隊」が日本共産党史の一ページであっただけでなく、戦後学生運動史の一ページでもあったことが確かである。

 

 ここで、「イールズ闘争」と「中核自衛隊」という二つの運動段階の連続関係、すなわち基盤となった大衆運動と、そこへ外部から持ち込まれた「目的意識的」な運動との段階的構造に注目しておきたい。まがりなりにも、大衆運動の自然発生性と自発性の発揮を経験していた場においては、その経験と組織が党派的な運動に対する大衆的な規制要因として作動していた経過を認めることができる。

 

 「イールズ闘争」と「中核自衛隊」という二つの運動段階は必ずしも構造的必然性を内包する内的連関によって組み合わされていたわけではなかったが、北大と早稲田の学生運動を比較すると、磁場としての大衆運動の規制力における強弱の違いが、「中核自衛隊」による「武力闘争」展開の突出度すなわち「妄動度」の違いを微弱にではあるがもたらしていたと診断することができる。

 

 

 6、証言と記録による運動史への刻み込み

 

 それは「青春の回顧」であったかもしれないが、そこにとどまらない戦後直後期の学生運動の意義が自覚され、半世紀も昔の学生運動を回顧する記録編纂作業が「早稲田・1950年・記録の会」による『証言と記録』の6冊本となっていた(*)。そのような、運動参加者が自らの記憶と手持ちの史料を文書として残す運動として繰り広げられた運動史編纂作業において、運動参加者の記憶と回顧にほかならない高安氏による「白鳥事件」についての証言内容が確認される結果となっているのは当然であったと言えよう。

 

 (*)大衆的学生運動を記録する大衆的作業としてのこの資料集については、拙稿「新憲法定着過程における大衆的学生運動−『早稲田一九五〇年史料と証言』(全6冊)刊行の意義−」『社会志林』第47卷第4号、2001年三月、を参照。

 

 半世紀昔の「白鳥事件」の発掘は、今後も多様な形で継続されることが予想される。山田清三郎『白鳥事件』(新風文庫)の巻末には、「解説」を担当した和多田氏による「主な参考文献」一覧が掲載されていて、「白鳥事件」研究の経過と現状を把握することができる。

 

 一般的な事件関連文献のほか、裁判記録、警視庁警備局の刊行物などがあり、事件関係者の自費出版物もあるとされている。最近の刊行書としては、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件−戦後史の空白を埋める』(明石書店、2004年3月)と、西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争−吹田枚方事件の青春群像』(岩波書店、2004年6月)の二点が挙げられている。

 

 和多田氏が今回の「解説」で最後に指摘している点であるが、社会労働運動史の一ページである「白鳥事件」の今後の発掘については、「事件関係者と目される人たち十名が中国に密出国し、亡命したと言う事実、その全員が日本共産党員であったという事実」(p.336)が今後重視されることになるであろうと思われる。それらの多くの人たちには、和多田氏が今回、高安氏に試みたようなインタービューが可能なはずである。

 

 日本共産党史から消去された日本共産党の「白鳥事件」であったが、事件関係者の証言と、それを発掘した一人のジャーナリストの営為によって再生された。その際、記録の裏付けを行うのは大衆的に取り組まれた大衆的学生運動の記録作業であった。

 

 日本共産党史から消去されつつある多くの「極左冒険主義」については、今後もその再生の作業が取り組まれつづけることであろう。事件の関係者が、あるいはジャーナリストが、または運動史の研究者が、「個人史としての現代史との対面」をつづける限り、党派的利害によって消去されようとする現代史の局面が再生される作業が止むことはないであろう。

 

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 〔関連ファイル〕

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

    『武装闘争路線−白鳥・メーデー・吹田・大須事件』関連ファイル多数

 

    (高橋彦博の掲載ファイル7編リンク)

    『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題

    『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

    『川上徹著「査問」の合評会』

    『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

    『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識

    『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果

    『「枚方事件」について』脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む