「枚方事件」について

 

脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む

 

高橋彦博

 

 ()、これは、高橋彦博法政大学名誉教授の論考である。別ファイル『白鳥事件の消去と再生』の考察に続き、吹田・枚方事件を分析している。このHPに全文を転載することについては、高橋氏の了解をいただいてある。

 

 〔目次〕

   1、「枚方・吹田事件」の研究書二点

   2、日本共産党と「枚方・吹田事件」

   3、「吹田事件」の陰にかくれた「枚方事件」

   4、阪大生、歯大生の火炎ビン闘争批判

   5、有罪の「枚方事件」、無罪の「吹田事件」

   6、枚方地域史における「枚方事件」の位置

   7、解説論文「抵抗権と武装権の今日的意味」

     結び:「党活動」から「大衆運動」

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

     脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』1952年6月24、25日

           『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

     明石書店『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』内容構成で全目次紹介、購読注文

     伊藤晃『解説―抵抗権と武装権の今日的意味』

     『日本共産党の武装闘争路線』ファイル多数

 

    (高橋彦博論文の掲載ファイル7編リンク)

     『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題

     『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

     『川上徹著「査問」の合評会』

     『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

     『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識

     『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果

     『白鳥事件の消去と再生』

 

 1、「枚方・吹田事件」の研究書二点

 

 新風文庫の『白鳥事件』で、和多田進氏の「事件解説」を読み、事件関係者である高安知彦氏の証言内容を知った私は、その読後感をまとめ、宮地健一氏のホーム・ページに掲載していただいた。

 続けて、私は、「白鳥事件」と同じく1952年前半期に発生している「枚方事件」について検討を試みることにした。「枚方事件」については、つい先日、下記の二点の研究書が刊行されていて、私の検討課題になっていた。

 

  脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件−戦後史の空白を埋める』

           明石書店、2004年3月。(以下「脇田、p.-」で引用。)

  西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争−吹田枚方事件の青春群像』

           岩波書店、2004年6月。(以下「西村、p.-」で引用。)

 

 講和条約発効直後の1952年6月、日本共産党主導の「軍事闘争」として大阪の衛星都市で展開された「枚方(ひらかた)事件」であり「吹田(すいた)事件」であった。これまで事実経過と事件内容を詳しく分析した研究がなかったこの二つの事件について、関係者の記憶と回想を掘り起こし、警察史料と裁判記録によって経過を確認し、二つの事件の全体像を明らかにしたのが脇田氏と西村氏による今回の二点の著作である。脇田氏の著作は、主として「枚方事件」研究の書であり、西村氏の著作は、主として「吹田事件」研究の書となっている。

 

 この二つの事件は、日本共産党大阪府委員会に属する非合法の「軍事闘争委員会」によって同時多発の「軍事闘争」として取り組まれた事件であったので、これまで、「吹田・枚方事件」として一体化された形でとらえられてきた。発生時の順序から言えば「枚方・吹田事件」であった。以下において、私は、脇田氏の「枚方事件」への参加経験と、その後の事件研究に依拠して「枚方事件」論を試みるつもりであるが、その場合も、事件の性格を「枚方・吹田事件」として一体化してとらえる視点を見失わないつもりである。

 

 日本共産党によって引き起こされた事件である「枚方・吹田事件」は、日本共産党の党史において、「指導部の中枢をにぎった志田重男ら」によって指導された「極左冒険主義の活動」であったとされ、その意義が全面的に否定されている(「日本共産党の五十年」『前衛』1972年8月)。共産党の党史関連文献において「枚方・吹田事件」は、この時期における他の「治安事件」と同様、実質的な党史からの「消去」処分を受けている。

 

 しかし、この時期の「血のメーデー」事件を含む多くの「治安事件」についてそうであったように、「枚方・吹田事件」に関しても、個人あるいは有志グループによる回想記の発行や「聞き書き」の記録作業などが地味な形で続けられ、事件の「消去」に対抗する「再生」の努力が続けられてきた。今回の脇田氏と西村氏の著作は、それら、これまで散発的に続けられてきた二つの事件についての探索と記録の作業を集大成するものとなっている。「枚方・吹田事件」は、今回の脇田氏と西村氏の著作によって、事件から半世紀余が経った時点においてではあるが、ようやく社会運動史への本格的な書き込みがなされたのであった。

 

 以下の「枚方事件」に関する研究ノート作成に当たって、私は、主に脇田氏の著作からの抜き書きに依拠することにし、西村氏の著作は、脇田氏の所論を補強し修正する研究成果として利用させていただくことにした。なお、脇田氏と西村氏の著作からの摘記にあたっては、個人の実名をなるべく伏せ、イニシアルによる表記とした。

 

 ところで、私にとって、枚方市と吹田市における1952年の二つの事件の全体像の把握は長年の懸案であった。私は、かつて、大阪市内の私立大学で4年間の教員生活を過ごしていたが、その間、二つの事件の発生地点である枚方市と吹田市の近くにいながら、いつもそこを素通りするだけであった。社会労働運動史の専攻を自認する私として、二つの事件を現地で調べることができるせっかくの機会を活かさないまま大阪の地を去ったことについては、残念な思いが残っていた。今回、脇田氏と西村氏の研究成果にふれることによって、私がこれまでに得ていた雑然とした不正確な情報を整理し、事件についてより確かなイメージを描くことができ、大いに救われたのであった。

 

 

 2、日本共産党と「枚方・吹田事件」

 

 日本の社会運動史において、1952年前半の時期は異常な時期であった。米軍の占領体制が日米軍事同盟体制に転換させられたこの時期に、基地の米軍と対峙し、日本の警察権力と対決する直接行動が少なくとも10件ほど発生している。現代史の年表に、多くの場合に「○○事件」と銘打たれて記録されているそれらの「治安事件」を一覧表にすると、以下のようになる(『岩波総合年表』第二版による。*印のみ別出典)。

 

  1952年1月21日 札幌市で白鳥一雄警部射殺される(白鳥事件)。

  1952年2月20日 東大学生、学内の劇団ポポロ座公演会場に潜入の警官を摘発、警察手帳を押収(ポポロ事件)。

  1952年2月19日 青梅線小作駅から貨車4両暴走(青梅事件)。

  1952年3月29日 武装警官100人で、共産党の東京小河内山村工作隊23人を検挙。

  1952年4月30日 長野県辰野町で警察署・駐在所5カ所に対する火炎ビン、ダイナマイトによる襲撃事件発生。共産党員13人逮捕。裁判の結果無罪となる(辰野事件)。(*)

 

  1952年5月01日 第23回メーデー(中央会場は神宮外苑)でデモ隊6000人、使用不許可の皇居前広場に結集。警官5000人と乱闘、2人射殺され、1230人検挙(メーデー事件)。

  1952年5月09日 早暁、警官隊、早大の警官パトロール抗議集会に突入、学生・教職員100人余負傷(早大事件)。

  1952年5月30日 全国各地で〈5.30事件〉記念集会、102人検挙。東京では新宿駅前・板橋岩之坂上交番等で火炎ビン騒擾、3人射殺。

  1952年6月02日 大分県菅生で交番が爆破され、共産党員逮捕される(菅生事件)。

  1952年6月24日 吹田市で朝鮮動乱2周年記念集会後、デモ隊、〈人民電車〉を動かし警官隊と衝突、60人逮捕(吹田事件)。6.25夜、新宿駅周辺でデモ隊と警官隊衝突、30人逮捕。

  1952年7月07日 名古屋で帆足・宮腰中国帰国報告会終了後、デモ隊と警官隊、火炎ビンとピストルで衝突、121人検挙(大須事件)。

  1952年7月 芦別事件。(*)

 

 これらの中には、永い裁判を通じて無罪判決に到達した事件があり、冤罪が判明した事件があった。日本共産党による「組織犯罪」とされながら、実は警察機関による「権力犯罪」であったことが明らかにされた事件があった。事件の多くでは火炎ビンやダイナマイトやピストルなどの武器が使用され、死者が出た例もあった。北海道から九州にいたる日本全土における「治安事件」の集中的発生という事態は、これまでに例のない異常な事態であった。

 

 ところで、これらの事件の多くは、日本共産党の活動方針によって引き起こされ、日本共産党員が主力となり主導する事件であった。そのことは、日本共産党自身が認めるものとなっている。日本共産党の党史文献「日本共産党の五十年」(前出)は、中国の人民戦争の機械的な適用と結びついた「暴力革命唯一論」が「極左冒険主義の活動」をもたらし、それが「1951年末から1952年7月にかけて集中的にあらわれた」と記述している。否定的な評価を与える視点からではあるが、これらの事件の多くが当時の共産党の方針と活動によってもたらされた「武力闘争」であったことが認められている。

 

 ただし、日本共産党によって、1952年前期に多発したこれらの事件の具体的内容が明らかにされ、個々の事件に対する同党の責任が明らかにされることはなかった。先にも指摘したように、これらの事件は共産党史において「消去」の処分を受けているのである。『日本共産党の六十五年』に付記された「党史年表」を見ると、「白鳥事件」「メーデー事件」「菅生事件」「吹田事件」「大須事件」などについて記載があるが、「血のメーデー事件」を含め、いずれも日本国内に発生した社会的事件一般欄への記載であり、そのどれが日本共産党主導の「武力闘争」であったのか、そのすべてがそうであったのか、明記されていない。「枚方・吹田事件」は、まず「吹田事件」と総称され、次いで、「治安事件」一般に融け込まされ、結果として「消去」されている。

 

 

 3、「吹田事件」の陰に隠れた「枚方事件」

 

 先に見た『岩波近代日本総合年表』の記述もそうであったように、1952年の「枚方・吹田事件」は、ともすると「吹田事件」と総称され、「枚方事件」が「吹田事件」の陰に隠れがちである。しかし、「吹田事件」のほかにもう一つ「枚方事件」があったのである。この二つの事件は、ほぼ同時の発生が仕組まれていたが、大阪の淀川を挟む二つの衛星市における別の事件であり、別の裁判で別の判決が下された事件であった。検察側の呼称でも、一方は「枚方放火事件」であり他方は「吹田騒擾事件」であった(脇田p.310)。

 

 日本共産党の非公然組織である「大阪府委員会ビューロー」は、東京のメーデー事件に触発され、同様の大衆暴動を大阪においても発生させる方針を決定した。大阪市内で、最後の打ち合わせ会議が開かれたのは、1952年6月22日であった。参加者は「ビューローキャップQ」を含む幹部六名であった(西村p.181)。当時の共産党の最高幹部・志田重男の意向を受けて、「枚方事件」と「吹田事件」が、同時多発の「軍事行動」として展開されることになった。

 

 この二つの事件の関係については、枚方市における非合法「軍事行動」が主な作戦であり、吹田市における大衆的合法集会は「陽動作戦」であったと見ることができると指摘されている。そう指摘するのは、「枚方事件」の「参加者」であるとともに事件の「研究者」となっている脇田憲一氏であった(脇田p.171)。しかし、司法担当の新聞記者であり、「枚方事件研究会」を主催した毎日新聞社の西村氏の場合、「枚方事件」の作戦は、「吹田方面への警察官を少しでも枚方に引きつけるためであった」と逆の関係でとらえている(西村p.59)。

 

 脇田氏の今回の著作が刊行されるにあたり、小論文となる「解説」を寄せた伊藤晃氏(千葉工業大学教授)は、「主たる軍事行動」は伊丹基地攻撃、吹田軍臨列車攻撃、枚方工廠攻撃であったのであり、大衆集会としての「吹田事件」は、それらの「陽動行動」であったとしている(脇田p.787)。

 

 いずれにせよ、大衆集会と大衆デモの展開に乗じた中核自衛隊の活動が企図されていたのであり、大衆集会と大衆デモが「武力闘争」の陽動作戦として設定されていた構図であったことが確かであった。モデルは「メーデー事件」(人民広場突入)。

 

 ともあれ、1952年6月24日夜、枚方市と豊中市において同時刻に開催される「朝鮮戦争開戦2周年記念前夜祭」の大衆集会であり、さらに、この前夜祭に組み合わせて設定された翌6月25日早暁の旧枚方工廠の爆破と吹田操車場における軍需貨物輸送阻止の「実力闘争」であった。この、同時多発の「軍事行動」においては、中核自衛隊の行動と、大衆を巻き込んだ火炎ビンや竹槍による「武装」が指示され、とくに、枚方市の旧工廠爆破にはダイナマイトが用意された。

 

 すでに調査も終わり計画も決まった段階で「府委員会ビューロー」の最終会議が開かれた。1952年6月22日のことである。ここで、幹部の一人から、作戦見直しを求める動議が出されている。それは、レッド・パージですべての工場で組織が破壊しつくされたあと「懸命の組織活動」が続けられているところであり、「過激な戦術や行動は避けるべきではないか」とする慎重論であった。しかし、ビューローの「キャップQ」による「オヤジ(志田重男)」の名を出した説得があり、事件の計画通りの決行が決定された(西村p.182)。

 

 日本共産党における「枚方・吹田事件」の最高責任者は、「キャップQ」と、その背後にいる「オヤジ(志田重男)」であったことを明らかにしたのは、この最終会議に主席した「ビューロー幹部」の一人である「U」であった。「U」によれば、「枚方・吹田事件」が強行された背後にあったのは「党中央での業績競争、主導権争い」であり、「東京のメーデー事件に対応して関西が急いだ」側面があったのであった。ここで名が挙げられている「キャップQ」とは、現在も共産党常任幹部会のメンバーである「Q」のことである(西村p.182)。徳田球一は中国に渡っていて、関西出身の志田重男が日本共産党の国内における最高幹部となっていた。

 

 おそらくは情報が警察に漏れていると判断されたためであろう、6月25日早暁に予定されていた枚方市における旧工廠爆破が一日、繰り上げられ、6月24日早暁に実行された。しかし、決死隊による旧工廠爆破は、ほとんど「不発」に近い結果となり、事件直後にニュースとして伝えられることがなかった。

 

 他方、豊中市の阪大グラウンドで6月24日夜に予定されていた大阪府学連主催の大集会は、予定通り実施された。集会の閉会後、会場を二手に分かれて出発したデモ隊は、これも計画通り6月25日早暁、吹田市で合流し、国鉄操車場に突入、機関車の入替作業を中断させ、警官隊との乱闘を演じた。大阪地検は同日午後、吹田駅一帯の現場検証を行った後、「騒擾罪」(騒乱罪)適用を決定した。翌6月26日の『朝日』紙には「『人民電車』といい、放火、ピストルを奪うなどかつてない悪質なソウジョウ事件」であるとする大阪地検・市丸検事正のコメントが載った(西村p.25)。

 

 こうして、「吹田事件は戦後三大騒擾事件として社会的に騒がれ」たのであり、「枚方事件はその陰に隠れた観」を呈することになったのであった(脇田p.171)。

 

   「枚方事件」の第一幕と第二幕

 

 6月24日早暁、旧枚方工廠に仕掛けられ破裂した数本のダイナマイトが市民を驚かせたのは、その轟音だけであった。自治体警察は現場へ出動していない。旧工廠保管関係者に気付かれたのは現場に放置された不発のダイナマイト数本の束で、翌々日の6月26日午後、警備員によって発見され、警察に届けられている。警察が旧工廠の破裂箇所を確認したのは数ヶ月後であった。

 

 共産党枚方市委員会は、関係者によって「口止め」され「発表を禁止」されている「河北青年行動隊」の「愛国的行動」を市民に伝えるべきであると判断した。事件から何日か経って、「日本共産党枚方市委員会」の署名の入った「壁新聞」が張り出され、旧工廠爆破の事実が市民に知らされた(脇田p.124)。ガリ版刷のビラも散布されたという。河北解放青年行動隊の「特別部隊」が旧工廠の「砲弾引き抜きプレス」を「爆破」したと声明するビラは、『北河内青年新聞』の「号外」として「7月1日」に配布された。このビラには「特別部隊」の大隊長が経営する「かき氷店」の宣伝が地図入りで刷り込んであった(西村pp.55-56)。自治体警察による爆破事件関係者の逮捕が開始されたのは、その後のことであった。

 

 6月24日早暁の工廠「爆破」を第一幕とすると、「枚方事件」には第二幕があった。「朝鮮戦争2周年前夜祭」が豊中市にある阪大グラウンド開催された6月24日夜、同じ趣旨の集会が枚方市の「一本松の丘」(鷹塚山)に招集された。この集会に、百数十名の枚方・守口地区住民、多くの在日朝鮮人、阪大と歯科大の学生たちが火炎ビンなどを準備して参加した。集会では、まず、早暁に決行された「枚方工廠爆破」が報告された。次いで、枚方市内居住の「売国奴」が数名、実名で指摘され、「実力で打倒せよ」と決議された。

 

 この場合も、時間的に、吹田操車場における実力行動展開と並行する形で、6月25日早暁、「一本松の丘」の集会者はそのまま「行動隊」となり、実力行動の開始に移った。枚方市内居住の「売国奴」と目された○○氏宅に火炎ビンが投入され、器物が破損された。火炎ビン投入後、デモ隊員は山中に逃走、出動した警官隊によるピストルの発射を受け、12名の現行犯逮捕者を出した(脇田p.164)。この事件も「壁新聞」で市民に知らされた。共産党枚方市委員会の「壁新聞」は「枚方事件」の第一幕と第二幕の「犯行声明」となっていた(脇田p.124)。

 

 事件参加者であった脇田氏は、「…この軍事闘争は爆破闘争として失敗したばかりでなく、行動計画にはなかった真夜中の○○氏方襲撃事件を誘発して、根こそぎ逮捕される大きな犠牲を払う結果となった」と回顧している(脇田pp.171〜172)。脇田氏によれば、「枚方事件」の事件性は、ほとんど未遂に終わった工廠爆破にあるよりも、これもまた、ほとんど未遂に終わったとはいえ、「○○氏方襲撃事件を誘発」したことにあるのであった。

 

   ある在日朝鮮人の立場

 

 在日朝鮮人が「枚方事件」参加者に占める比率は高かった。旧工廠爆破の実行班4人のうち3人が在日朝鮮人であったのは特例としても、全体として事件参加者の半分、ないし60%の感じであったとされている。「吹田事件」においても同様で、現場の指導者が調べた例では、デモ参加者の三分の二が在日朝鮮人であった(西村p.144)。

 

 在日朝鮮人の一人として「枚方闘争」の先頭に立っていたB.Sがいた。彼は、「祖国防衛闘争」としての「枚方闘争」の意義を確信していた。日本共産党の「軍事方針」転換も、彼の「祖国防衛闘争」に対する熱意と「枚方闘争」の積極的意義の評価を変えることは出来なかった。

 

 B.Sは、慶尚道出身で当時23歳、「祖防隊守口隊長」として枚方工廠爆破の実行隊長となった。B.Sは、工廠爆破の5日ほど前、友人に対し、ことにあたる決意を次のように述べていた(検察調書による。友人の証言。本人は完全黙秘)。

 

 「今度命がけの仕事をやる。それは6月24日の夜、枚方の山で大勢人を集めて騒ぎ、警官を山の方に気をとらせておき、その隙に別働隊一〇名位が工廠のプレスを破壊する。工廠では今度迫撃砲弾を作り、その砲弾は朝鮮戦争に運ばれ我々の祖国を攻撃するのであるから、一日でも砲弾製造を遅らせるため日本に三台しかないといわれるプレスを破壊するのである」(脇田p.103)。

 

 B.Sが逮捕されたのは1952年12月、保釈されたのは3年後の1955年で共産党の自己批判がなされた「六全協」の直後であった。保釈された彼の被告団会議における発言を見ると、その決意のほどは3年前と変わっていなかった。

 

 「俺たちは工廠に爆弾を仕掛けることに命を賭けたんや。電池の配線の手元が狂えばその場で爆死することも覚悟してたんや。工廠爆破は失敗した。しかし俺らはまちがっていたとは思わん。ここで造られる砲弾で祖国の同胞が殺されるのだ。六全協で日本の同志は自己批判して済むかもしれんが、俺ら朝鮮人の場合はそうはいかんのや」(脇田p.120)。

 

 在日朝鮮人であるB.Sが、「祖国防衛闘争」としての旧工廠爆破に掛けた信念にゆるぎはなかった。ただし、そのB.Sにあっても正当化されているのは兵器生産阻止行動であった。個人的テロリズム容認の姿勢はまったく示されていなかった点に注目しておきたい。

 

 6月24日早暁の旧工廠爆破では先頭に立っていたB.Sであったが、6月25日早暁の○○氏宅襲撃にあっては、現場にいながら火炎ビン投入を「傍観」する立場をとっていたとされている(脇田p.158)。それは、役割分担の意識からだけであったろうか。

 

 

 4、阪大生、歯大生の火炎ビン闘争拒否

 

 「枚方事件」の具体的経過において確認されるのは、「軍事委員」の「コミッサール」(政治指導者)化であった。ひとたび「軍事行動」が決定されると、その瞬間から、地域や大学の共産党「細胞」が、夜間高校の「民青」を含め、まるごと中核自衛隊の行動計画に組み込まれ、「軍事委員」の指導を受ける体制に入っていた。

 

 ただし、次のような局面も確認されている。「軍事行動」の内容について、組織内部から異論が提起されると、出撃直前にもかかわらず「集団討議」がなされる場合があった。「グループ代表者」会議が招集され、その意向を受けて行動計画の調整がなされた場合があった。日常活動の組織をぐるみで「軍事行動」の組織に転化させた場合、日常活動の組織論理を全面的に否定することはできなかったということであろう。

 

   「火炎ビン襲撃」直前の「代表者会議」

 

 枚方市内にある通称「一本松の丘」(鷹塚山)は、100名ほどが座り込める高台になっていた。そこへ、1952年6月24日夜、「朝鮮戦争二周年記念前夜祭」の名目で動員された人々が参集したが、一部の参加者は火炎ビン製造の材料を用意していた。

 

 この夜8時頃から開催された「一本松の丘」の集会でなされた参加者の演説は、どれもが「実力闘争」を訴える激烈なものであった。それらの演説内容に関する記憶が「供述調書」に残されている(脇田p.140)。以下は、その摘記。

 

 「枚方工廠へ爆弾を仕掛けに行き成功したことなどが演説された。《これから○○の家やガレージを火炎ビンで焼きに行くと言った》ところで皆賛成し、異議なしと叫び拍手していた。」(歯科大生D)。

 「労働者風の男が《我々の同志が枚方工廠を爆破して敵に包囲されておったが、只今無事に本隊に帰着したので我々は方向転換して○○の家を攻撃する》といった。」(阪大生K)「山の上でM.Hが《再軍備反対、徴兵反対、兵器を作っている○○の家をやっつけろ》と演説した。」(守口グループ某)

 「《小松製作所社長(○○)は戦争協力者であり売国奴であるから、われわれの手で実力で枚方から追放するんだ》という演説があった。」(朝鮮人グループ某)

 

 会場で「河北解放統一戦線綱領」の案文が読み上げられた。そこには「売国奴を実力で打倒せよ」とする方針とともに、小松製作所社長と誤解された○○氏のほか、市議会議員一名と警察関係者二名の実名が挙げられていた。ここで、「本日の参加者全員をもって河北解放青年行動隊を結成する」との宣言がなされた(脇田pp.142-143)。この「一本松の丘」の集会が「共同謀議」であったと認められ、「枚方事件」における全員有罪判決の有力な根拠とされたのであった。

 

 ところで、一審の有罪判決文には、一カ所、注目される箇所があった。それは「同参集者は集会終了後○○方襲撃の隊編成に同意するものの、学生グループから火炎瓶襲撃に反対する意見が生じて大衆討議を行っている」としている箇所である。集会で火炎ビン襲撃に反対意見が出され「大衆討議」がなされたとする事実確認が検察側によってなされているのである。しかし、判決は、内部に批判的意見が出て討議がなされたことに注目するのではなく、その討議が「火炎瓶襲撃を承認したことによる討議であり最終的に合意している」ことに注目するものであった(脇田p.141)。

 

   学生グループからの「異議」申し立て

 

 集会参加者全員を「行動隊」とする決議に従って、会場でその編成がなされた。指導部に「軍事委員」であるK.HとM.Yの二人が指名され、「大隊長」に「シベリア帰り」のM.Hが指名された。第一中隊(前方防衛隊)に阪大工学部と大阪歯科大の「学生グループ」、第二中隊(後方防衛隊)に「守口グループ」と「関西女子医大医療班」、第三中隊(攻撃隊)の第一小隊に「朝鮮人グループ」、同第二小隊に「枚方グループ」が配置された。

 

 脇田憲一少年は第二中隊所属であった。第一中隊の第一小隊長として名が挙げられたのは阪大工学部学生の某・某であったが、彼は、その後、著名な経済評論家となり、事件後も脇田氏との親しい関係が続いたという。

 

 一見、軍隊組織に見える「行動隊」の編成であったが、内実は地域・職域ブロックの代表者会議であった。そもそも、指導部が「枚方の軍事委員」と「守口の軍事委員」による二人構成となっていた。しかも、この二人は、軍事方針について「慎重論」と「強行論」に分かれていた(脇田p.144)。そのような「行動隊」であったので、指導部の決定に対しては、下部から「執行部不信任!」の怒号が飛び、「緊急会議」が招集され、一時間近くも「大衆討議」がなされるという運営実態になっていた。

 

 「一本松の丘」でなされた「大衆討議」において、枚方グループは「早朝の行動は顔を知られた警官と出会うとまずい。夜中に行動を起こせ」と主張し、歯科大グループは「○○方を火炎ビンで襲撃するのは反対だ。火事になって隣家に延焼したらどうする」と中止を求めたという。「大衆討議」の結果、行動は午前3時に開始されることになり、学生グループの任務は「防衛隊」とされたのであったが、編成されたのは「一大隊」構成の「行動隊」で、各中隊には火炎びんと竹槍が配備されるものとなっていた(脇田pp.144-145)。

 

 火炎ビンの準備を担当させられたのは「武装」に反対していた阪大と歯科大の学生グループであった。結局は、彼らも「武装」準備の指令に従ったのであったが、集会に参加する2、3日前に、阪大工学部細胞と大阪歯大細胞の代表は、「武装」を指示した「枚方グループ」のキャップ某に「異議」を申し立てている。しかし、「党の上からの指令である」と却下されている(脇田p.136)。

 

 なお、枚方にあった阪大工学部の学生細胞のキャップが、「行動隊」第一中隊の第一小隊長であった某・某であったが、彼も「個人の家を襲撃するのは革命の倫理に背くのではないか」と反対していたという(西村p.59)。

 

 公判の過程で、被告団長であったK.Hに寄せられた大阪歯大生の一通の書簡がK.Hの手元に残されていた。公判を意識した表現を若干修正して、その内容を箇条書きすると以下の諸点となる。

 

 ()、最後まで当日、参加するか否か、歯大グループの考えはきまらなかった。

 ()、地区行事に参加し、その役目は救護班とする。デモなどには参加しない。○○宅襲撃については「実際上も倫理的責任という面においても関係なし」という点で統一がやっと得られ、それで参加した。

 ()、○○宅まで行く結果になってしまったが、火炎ビンは○○宅へ投げないで山へ持って帰った。

 

 火炎ビンなどの「武器」を備えた「武装闘争」としてのデモであったが、個人に危害と損害を加える「テロ行為」は行うべきではないとする自制力が決行直前に発動されていた。

 

 ところで、「吹田事件」においても「武装闘争」の展開に関する自制力の発動がなされていた。しかも、「吹田事件」の場合も、自制力発動の主体となったのは学生であり、この場合は豊中地区の大阪大学の学生たちであった(西村p.38)。

 

 ここで、あえて、二つの事件において学生たちが発動した暴力抑制契機の内容分析を試みておきたい。ある場合に発動されたのは「日常感覚」としての「倫理性」であり、別の場合に発動されたのは「運動方針」としての「大衆性」であったが、どちらの場合も、その基底にあったのは、大阪の地に特有な「庶民感情」であったと言えないであろうか。

 

 

 5、有罪の「枚方事件」、無罪の「吹田事件」

 

 「枚方事件」の参加者は総勢で百数十名であったが、「吹田事件」の場合、参加者はその十倍であった。阪大グラウンドの集会に参加した者の数は、主催者側によれば約2000から3000名である(警察側資料で約1000名)。集会後の行動展開で、吹田操車場に突入したデモ隊参加者に限っても、その数は1000人から1500人であった。「枚方事件」の規模は、参加者数で見れば「吹田事件」の十分の一であった。

 

 ところで、「発物取締罰則違反」「放火未遂」「公務執行妨害」で起訴された「枚方事件」においては、総計で98名が検挙され厳しい刑罰を受けている。最高裁の結審があったのは1967年11月であったが、一審通り7人に3年から5年の実刑が確定。死亡の一人を除き、6人が未決通算2年6ヶ月から3年6ヶ月の懲役に服した。事件当時の被告の年齢は10代5人、20代56人、30代3人、40代1人であった。15年間の裁判が終わったとき、被告たちの多くは30代から40代で、中年の域に達していた(脇田pp.167-168)。

 

 他方、「騒乱罪」の適用対象とされた「吹田事件」においては、付随した一部の刑事事件を除き、全員無罪の判決であった。大阪地裁は、「吹田事件」が朝鮮戦争に反対し軍需列車に抗議するデモ行進であり、表現の自由に属する行為であるとの判断を示した。「破防法の適用」は意図されたが適用はなされなかった。1963年6月の一審判決後、1968年7月に二審判決があり、最高裁の決定は1972年3月であった(西村pp.166-167)。

 

 この二つの裁判結果から、「実刑の量刑面」では「枚方は吹田を上回った」とされているが(脇田p.171)、二つの裁判の比較は、もう少し多面的になされる必要があるようである。たとえば、裁判期間の長さである。最高裁における確定までの期間は、「枚方事件」の場合は15年であったが、「吹田事件」の場合は20年であった。その他、在日朝鮮人で本国に送還された者の数、デモ隊と警官隊の双方が出した負傷者の数と負傷の程度、死者の有無、裁判中の自殺者の有無などを見ると、「吹田事件」においてかなり深刻な事態に達していた。裁判の進行経過については、司法記者としての西村氏の記述が詳しい。いずれにせよ、事件がもたらしたのは、検挙された者たちの多くにとっての失職であり、就職困難であり、生活苦であり、家庭の崩壊であった。

 

   「軍事委員」三人の「枚方裁判」への対応

 

 「枚方裁判」の主任弁護人であった東中光雄弁護士(のち共産党国会議員)は、被告団に、枚方事件には「枚方闘争」と「枚方裁判」の二つの側面があると指摘し、「枚方裁判は権力の不当な弾圧といかに闘うかにある。枚方闘争の総括は党内で議論してほしい」と要望した(脇田p.168)。

 

 日本共産党の内部で、「武装闘争」関連事件は党内の「家父長制指導」によるものであったとする自己批判がなされ、この自己批判の受け入れをめぐって被告たちの間の議論が開始された。東中弁護士は、裁判の渦中で「闘争の総括」をすべきではないとしたのではなく、むしろ、法廷の外で積極的になされることを期待したのであったであろうが、共産党が、「闘争の総括」の場になることはなかった。したがって、東中弁護士の要望にもかかわらず、事件の関係者たちからすれば、各自の「闘争の総括」をぬきにして「裁判運動」への取り組みはありえなかった。逆に、「裁判運動」への取り組みに各自の「闘争の総括」内容を持ち込まないようにすることは困難であった。

 

 事件の参加者であり観察者である脇田氏は、事件の経過を追うとともに事件の主な担い手となった人たちの「人間像」に関心を示し、記録している。「枚方闘争」において「指導者」となった「軍事委員」三人についても、「枚方裁判」への対応に具体的に示された三者三様のプロフィールを描き出している。

 

 【M.T(当時23歳)】

 

 彼が事件の「最高指導者」であった。共産党の常任活動家で、同党東大阪地区の軍事委員であった。淀川製鋼の職場を1950年にレッド・パージされ、その後「主流派幹部としての最も忠実な活動家の道」を歩んでいた。旧枚方工廠爆破の先頭に立ったのは在日朝鮮人の青年B.Sと彼であり、決行日の一日繰り上げの決定を上部機関からか持ってきてその指示を与えたのは彼であった(脇田p.102)。

 

 彼は、「事件は反戦・民族解放の実力闘争であり、誤りではなかった」とする主張を変えず、共産党の「六全協」後の裁判方針を不満として離党した。被告団指導部から身を引いたが被告団からは脱退しなかった(脇田p.119)。

 

 【K.H(当時23歳)】

 

 彼は、枚方グループの中心に立ち、「穏健派」であった。「行動隊」の指導部をM.Tと二人で構成していた(脇田p.144)。京阪電車の職場を1950年にレッド・パージされ、その後、共産党の常任活動家として京阪地区の工場担当オルグとなっていた。

 

 K.Hは、裁判にあたって「被告団長」を務め通した。彼は、事件における「指導部内の意見対立」について沈黙したままであり、事件当夜の「党の指令」の内容についても語ることをしなかった。そのような彼であったが、ある機会に、脇田氏に、「党の軍事方針に反対であった」と漏らしている(脇田pp.152-153)。

 

 【M.H(当時27歳)】

 

 彼は、事件当夜、「行動隊」の「大隊長」に任命された。彼は、沖縄出身であり、応召し下士官となった「シベリア帰り」であった。共産党守口市委員会の軍事責任者として旧工廠爆破と○○氏宅襲撃に関与した。逮捕直後、家族の生活維持のため保釈を受ける必要があり「転向声明」を発したが、間もなく裁判闘争の戦列に復帰し、事件は「反戦闘争であった」とする「信念を回復」していた(脇田p.119)。

 

 彼は、後日、脇田氏の問いに答え、「転向声明」を発した事情を語り、事件についての感想を書面で語っている。また、少年であった脇田氏を事件に巻き込んだことについて、謝罪の言葉を述べている。

 

   脇田少年から見たK.HとM.

 

 【K.Hについての印象】

 

 「軍事委員」K.Hには、○○氏宅襲撃時における「空白の時間」があった。その時刻に「どこにいたかは答えたくない」と言う(脇田p.152)。K.Hは、○○氏宅襲撃が「誤爆」であることを知っていた。共産党の指令文書に○○氏を「小松製作所社長」とする認識があり、デモ参加者の多くがそう思いこんでいた節がある。枚方地区の「軍事委員」であるK.Hは、「○○氏=小松製作所社長」説が誤認であることを知っていた。それで、K.Hは、○○氏方へ「抗議に行かなかった」と言う(脇田p.153)。これは、法廷における証言である。K.Hは、法廷で、「誤爆」に加わっていなかっと言いたかっただけであろうか。

 

 おそらくは、K.Hは、「誤爆」を止めるためにだれかと会っていたというところまで証言したかったのであろう。しかし、会っていたのがだれであったか、それは言えないのであった。K.Hが会っていたのは、「ビューローQ」ではなかったであろうか。

 

 ○○氏宅に対する火炎ビン攻撃を開始した直後、後ろの方から「引けっ!」と声が飛び、隊員たちがいっせいに逃げ出したと証言するのは攻撃隊の中隊長である(脇田p.147)。この声で、○○氏宅「放火事件」は「放火未遂事件」に止められた。この「退却の号令」を発したのはK.Hではなかったかと脇田氏は推定している(脇田p.158)。

 

 服役後、K.Hは、酒におぼれ、身体を壊し、離婚し、「失意のまま」に病死した。そのようなK.Hについて、脇田氏は、「無念だったのは『枚方闘争の総括』について党内で議論できなかったことであろう」と追悼する言葉を寄せている(脇田p.153)。

 

 【M.Hについての印象】

 

 「行動隊」の「大隊長」に任命されたM.Hは、部下であった当時17歳の脇田少年を「いつもニコニコしている紅顔の美少年」として覚えていた。M.Hは、彼の妻への手紙の中で、脇田少年の「学業放棄」については「彼の非凡な才能をひそかに知っていた」だけに「胸が痛む」と述べている。

 

 朝から午後まで北浜の大阪証券会社で「場立ち」として働き、夜は定時制高校の生徒であった脇田少年は、民青同盟の班責任者となり、地元共産党の党員候補となった。そして、そのまま「高校民青」の組織ぐるみで「中核自衛隊」に入隊し、さらに「独立遊撃隊」に「選抜」され、「軍事活動」に挺身することになった。脇田少年は、『球根栽培法』で「民兵」と規定されていた「中核自衛隊」の一員として、いわば「少年兵」であり、「応募」方式で選抜された、いわば「特攻要員」であった。

 

 ある日、「少年兵」は、枚方市への「出動」を命じられた。現地に赴くと、そこに待っていたのは、旧工廠爆破工作への参加であった。「少年兵」は、二日間続いた早暁の「軍事行動」の後も、さらに、山中で拳銃を発射する警官隊に追われ後も、証券取引所で午後の「場立ち」として働き、夕刻から定時制高校に通う日常をしばし続けていた。脇田少年が工廠爆破の実行者として国家警察に逮捕されたのは事件後、三ヶ月経った1952年10月であった。

 

 そのような脇田少年の姿を脳裏に止める「大隊長」M.Hであっただけに、「彼らの青春を台なしにしてしまった自分」を責める気持ちが強かったようである。M.Hは、彼らに対する贖罪のために「懲役をくらっているのだ」と妻に書き送っている。

 

 逆に、そのようなM.Hの姿を知って、脇田氏は、「いつまでも事件の幹部としてその責任を背負って生きなければならない苦悩の深さを知った」と言う。脇田氏は、M.Hの贖罪感と苦悩について、「それを知っただけでも彼らに対する不信と懐疑が洗い流されていくのを感じた」と述べている(脇田p217)。

 

 やがて、M.Hは、なぜ「転向声明」を出したのか、その心境についてかつての「少年兵」である脇田氏に詳しく語ることになる。彼が語ってくれたについては理由があった。かつての「少年兵」が「枚方事件は自分にとってマイナスではなかった」と言ってくれたからであった。M.Hにとって、かつての「少年兵」から「こういわれる程うれしいことはない」のであった(脇田p217)。

 

 M.Hは、脇田氏が、自分の青春時代を後悔したり、愚行の責任を他に転嫁したりするのではなく、運動展開を「マイナスではなかった」と受け止め、正面から「自分史」に対峙している、その「受苦」の姿勢に共感したのであった。

 

 

 6、地域社会における「枚方事件」の位置

 

 懲役二年、執行猶予二年という、少年にとってはかなり厳しい刑事罰を脇田氏は受けている。それにもかかわらず、「枚方事件」への関与を「マイナスではなかった」と受け止める脇田氏は、少年の日における事件への参加経験を、いわゆる「転向史観」の問題意識に封じ込めることをしていなかった。同時代史への立ち向かいを、「参加者=研究者」の立場と視点で持続する姿勢を確立し、その地点を確保していた。

 

 脇田氏が文学的手法で「自分史」との対話を開始した頃、戦前派の共産党員である波多然(戦後、共産党中央委員)から「事実を眺めればよい」と言われたことがある。そのような「識者」の助言が、脇田氏の自分史分析が、よくある「私小説」的作品の域に留まることなく、社会的事件の総体を観察する社会科学的認識に昇華する契機になっていた。それにしても、脇田氏の「枚方事件」論の記述には、しばしば文学作品のように生き生きとした関係者の会話が出現し、状況の活写となっていた。それと、おそるべき記憶力の公開である。

 

   「枚方事件」以前における枚方市の住民活動

 

 たっぷり半世紀も前のことになるが、1952年6月23日、守口市にある京阪高校定時制の民青同盟員であった脇田少年は、同志たちと連れ立って、京阪電車土井駅から京都方面に向かった。50分ほどで、枚方市駅から京都方面へ二つ目にある牧野駅に降り立った。夜10時頃であった。それから6月25日の早暁にかけて、脇田少年は、その後の人生を決定的に方向づける事件の渦中の人となった。6月24日早暁の工廠爆破と、6月25日早暁の○○氏宅襲撃の見張り役に立ったのである。どこかで、火炎ビンを投げていたかもしれない。

 

 脇田少年のその後においては、自分が飛び込んだ、あるいは放り込まれた「枚方事件」とは何であったのか、それを解くことが終生の課題となった。自分を刑事事件の有罪者としておきながらその責任の所在を明確にしない組織や指導者に対する糾弾課題もあったが、それ以上に、そもそも「枚方事件」とはどのような社会状況にあって引き起こされ、今日どのような社会的評価を受けている事件であるのか、そこで自分が果たした役割は何であったのか、それらを確かめないではいられなかった。自分は「加害者」であったのか、「被害者」であったのか、単なる「無知」であったのか、それを見極めないで特定の組織や個人を糾弾しても自分史の把握にはならないと思えたのである。

 

 脇田氏における「枚方事件」研究は、生涯の大きな課題となったが、そこにおいて、「枚方事件」の場となった枚方市における地域社会史的環境の把握が主要な課題の一つとなった。脇田少年が、半世紀ほど前に、何も知らぬままに飛び込んだ、あるいは放り込まれた「枚方事件」の場について、社会史的に認識する作業が開始されることになった。

 

 「枚方裁判」が終結した後の脇田氏には、枚方地域社会史の研究をすすめる好条件があった。脇田氏は言う。「さいわい、わたしが労働団体の総評オルグの仕事をしていたことや、労働運動史研究に関わっていたこともあり、『枚方市労連史』の執筆を依頼されたり、また、枚方市教育委員会主催の講座『在日朝鮮人の歴史―枚方での掘り起こし』の講師に招かれるなど、『枚方事件』の確認調査の機会に恵まれた」のであった(脇田p.224)。

 

 脇田氏が捉えた「枚方事件」の社会史的輪郭となる「事件前後史」を一覧表にすると次のようになる(脇田pp.225-247)。

 

 「枚方事件前後史」

 1949年4月。資本論研究会発足 京大や阪大の卒業生と学生10人ほど。

 1950年4月。枚方民主主義擁護同盟結成。

 1950年5月。大阪民擁同・ストックホルム・アピール署名第一回集会。

 1950年11月。枚方民擁同、「共愛会」(生協類似団体)、診療所活動を開始。

 

 1951年4月。枚方民擁同会長、枚方市会議員選挙で立候補、落選。

 1951年8月。京大同学会「原爆展」の地域巡回。枚方市三矢町空き地で開催。

 1951年9月。小松製作所、兵器生産の意向を示す(日経記事)。

 

 1952年2月。枚方民擁同、枚方工廠問題で市会に請願文提出。

 1952年3月1日。枚方民擁同、枚方工廠問題で市会集会を開催。武装警官介入。

 1952年5月9日。小松製作所、迫撃砲弾2000万ドル受注(毎日記事)。

 1952年6月。小松製作所へ枚方工廠の全面使用許可(エコノミスト)。

 1952年6月24日。河北青年行動隊、旧枚方工廠「爆破」。(枚方事件の1)

 1952年6月25日。河北青年行動隊、「○○宅襲撃」。(枚方事件の2)

 

 1952年7月18日。枚方市議会、旧香里工廠復活反対(火薬工場復活反対)を決議。

 1952年7月25日。香里地区住民、旧香里火薬製造所活用反対同盟を結成。市民大会。

 1952年8月6日。枚方市、旧香里工廠跡の緑化案。大蔵省に払下げを申請。

 1952年8月10日。香里地区住民の反対同盟、不動尊幼稚園で「報告会と祈願祭」。

 1952年8月20日。枚方市長と住民、衆参両院、大蔵・通産両省、議会筋に陳情。

 

 京阪線で、大阪よりも京都に近い枚方であった。阪大の学生だけではなく、京大の学生も参加する枚方の地域社会活動となっていた。たとえば、資本論研究会で『経済学批判』を読み始めた中心人物は京大経済学部の元助手であった。枚方市内で最初の診療所を開設した若い医師は京大医学部の出身であった。枚方市内の空き地で「巡業」がなされた「原爆展」は、京大の同学会の学生たちが京都市内のデパートで成功させた行事であった。

 

 ただし「原爆展」の実績を基盤に展開された1951年11月の「京大天皇事件」は、その波紋を枚方地域に及ぼすことがなかった模様である。また、いわゆる「イールズ旋風」は、京大や阪大など西日本の大学を襲っていなかったので、大学における「レッド・パージ」反対闘争が「枚方事件」の前史となるようなことはなかった。

 

 「枚方事件」前後史の記録作業にあって、脇田氏は、ある事件を知った。1950年代に入ってようやく開設された枚方診療所の顛末である。診療所の一人しかいない若い医師が『アカハタ』後継紙の名義人とされたため、その医師は占領政策違反に問われ、診療所は閉鎖に追いやられた。この件について、脇田氏は、「稚拙な非合法活動の失態が大衆運動を潰した典型的な例」であると珍しく怒りを込めた記述を見せている(脇田p.240)。

 

 民主主義擁護同盟(民擁同)の活動を通じ着実に展開されていた枚方市における地域の平和運動であったが、そこから突出するのが共産党の非合法機関紙発行をめぐる「愚行」であった。そして、地域社会における日常活動の成果を踏みにじる共産党のそのような「愚行」の決定版とも言うべき「妄動」が、ほかならぬ「枚方事件」となっていた。そのことを、脇田氏は、「枚方事件」前後史の整理を通じて充分に確認したのであった。

 

   「枚方事件」から「香里団地」へ

 

 事件当時、阪大経済学部細胞員で、枚方居住細胞にも出席していたN.H氏は、「枚方事件」によって枚方におけるすべての「大衆運動」は「消滅した」と語っている。

 

 「当時、阪大経済学部細胞のキャップをしていた。火炎瓶闘争をやれと党がいてきたので、『そんなバカなことはできん』と断った。同時に山村工作隊の話があったので、『そっちの方がよい』と参加した。」(脇田p.243)

 

 「党は○○を小松製作所の社長だとまともに考えていた。○○の家は自分の家の二件先の隣組だったので、小松製作所とは全然関係ないことを知っていた。…火炎瓶を投げたと聞いて、『アホ』と違うかと笑ってしまった。」(脇田pp.243-244)

 「大衆運動として組織した民擁同も共愛会診療所も資本論研究会も、そして枚方細胞も枚方事件後に消滅した。」(脇田p.244)

 

 枚方市の地元住民の間には、戦後「大衆運動」の経験の蓄積があり、共産党の「武装闘争」方針を「アホと違うか」と笑い飛ばす常識と判断力が備えられていた。「軍事委員会」は、旧工廠の「爆破」の前に、地元住民の良識を「爆破」しなければならなかった。枚方市における「大衆運動」の蓄積が「枚方事件」で「消滅」させられたと語るN.H氏は、共産党から査問され、除名処分を受けている。

 

 先に見た「事件前後史」にあるように、きわめて人為的で作為的な「武装闘争」であった「枚方事件」の直後、まぎれもない自然発生的大衆運動としての「旧香里火薬製造所活用反対」の運動が開始されている。大衆運動の担い手は「枚方市長、市議会、地元住民」であった。そして、この大衆運動に「枚方民擁同、共産党枚方細胞は組織的にも、個人的にも関与していない」のであった(脇田p.244)。

 

 戦前、軍工廠としてあった「香里火薬製造所」における大爆発があったことを枚方市民は地域の歴史として熟知していた。殉職者の記念碑が二基も市内に建立されていた。大爆発の被災者の多くが戦後の枚方市住民となっていた。朝鮮戦争の「特需」対応として、旧工廠施設の「活用」が浮上したとき、枚方市とその周辺の住民が「火薬製造所活用反対」の運動に立ち上がったのは自然の流れであった。この流れと全く無縁の地点で引き起こされたのが「枚方事件」であった。

 

 枚方の地域社会史における事件のその後を探索する脇田氏であったが、根気よく枚方市議会の議事録をめくっていてあるページに目が止まった。一人の「古老議員」が、1992年9月の市議会で、香里団地の歴史について発言していた。市議10期目というこの「古老」は、「枚方事件のおかげで香里団地が出来た」と発言していた。(要旨)

 

 「住宅公団法(1956年5月)が出来たので、あそこへ公団住宅を造ったらどうかと、こう言うたら、あんなうさぎやキツネがぴょんぴょんおるところで、ちょっとできまへんでということであった。」(脇田p.265)。「この公団住宅を造るためには、住宅公団だけが考えて造ったんじゃないわけなんです。ちょうど小松製作所を誘致して、そして、共産党の諸君から大変ひどい目に遭うて、火炎瓶なんか投げられて、それを契機として僕はこの公団ができてきたと思うんです。だから、この陰には、共産党の協力があったと僕は思います。」(脇田p.264)

 

 皮肉か本音か不明の発言をするこの「古老議員」の名を脇田氏はよく覚えていた。彼は、1952年6月24日、枚方市内「一本松の丘」に結集した「行動隊」が、「打倒」目標として○○とともに名を挙げた「売国奴」四人の一人であった。脇田氏は思わずつぶやく。「事件が歴史になるとはこういうことであろうか」(脇田p.267)。

 

 

 7、解説論文「抵抗権と武装権の今日的意味」

 

 総ページ数が「索引」を含め844ページになる大冊『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』であった。この書で、脇田氏は、「若い歴史研究者の枚方事件の記述」を二点(掲載誌不明)、紹介している(脇田pp.267-270)。加えて、巻末の「解説」として、日本近現代史研究者である伊藤晃氏(千葉工業大学教授)による「抵抗権と武装権の今日的意味」と題された小論文を掲載している(脇田pp.773-792)。脇田氏の研究に関するこの三点の論評について、その要点を見ておきたい。

 

   「若い歴史研究者」による二点の論評

 

 (その1)城塚昌之「枚方・交野にみる在日朝鮮人の足跡を辿る」。

 

 1951年1月には、朝鮮向けの武器とか軍需物資の輸送を阻止することを一つの任務として「在日朝鮮民主戦線」が結成され、その行動隊として「祖国防衛隊」が生まれました。この枚方事件も当時の日本共産党に指導されたものでしたが、先頭に立ったのは朝鮮人でした。工場内に時限爆弾を実際に仕掛けた三人(計4人)は、いずれも「祖国防衛隊」の在日朝鮮人でした。…これらの闘いの上に、場所によっては、住民運動の結果、旧軍施設の払い下げ中止に追い込まれたところもありました。香里製造所もその一つであり、跡地は香里ヶ丘団地となりました。(「一五年戦争研究会」)

 

 (その2)藤目ゆき「草奔の記」通信第七号書簡。

 

 (日本共産党が)…日本を植民地規定し中国型の武力革命を志向したことはどう考えても正しくなかったでしょうが、軍事闘争を一般的に否定すべきではないし、むしろ実際に米日「韓」が中国・南北朝鮮民族を攻撃している最中に軍用列車をとめたり軍需工場を破壊しようとする闘いは、その正義性が認められるべきだと思います。(「大阪外語大学助教授」)

 

 城塚氏や藤目氏らによるこれらの評価は、そのまま、脇田氏によって受け入れられるものとなっていたと思われる。とくに「枚方事件」を在日朝鮮人の運動として、また地域住民運動との関連においてとらえる評価については、大いに我が意を得たのではなかったであろうか。

 

   伊藤晃氏による「解説」論文のポイント

 

 伊藤氏の「解説」は、脇田氏の著作についての「解説」であるにとどまらず、1950年代前半のある期間に日本共産党が取り組んだ「武装闘争」に関する批判論文となっている。さらに、日本の社会労働運動史に関する根源的問題点の幾つかについて独自の見解を披瀝する小論文となっている。

 

 (1)、伊藤氏は、「本書は、日本共産党が武力革命の考えをもって行動していた一九五二〜一九五三年の諸事件、枚方事件、吹田事件、奥吉野・奥有田山村工作隊を扱っている」と脇田氏の著作を紹介しているが、この一言には重要な指摘が含まれている(脇田p.773)。伊藤氏によれば、1952年前半の諸事件について日本共産党からなされている「極左冒険主義」なる規定は、それが「党内分派」による方針であったとする逃げ口上の意味を持っていて、事態を適格にとらえる規定とはなっていない。事実を事実としてとらえれば、それらの諸事件は、共産党総体の「武力革命」方針による諸事件にほかならなかった。また、「武力革命」方針採用の期間は、「極左冒険主義」の活動に「山村工作隊」の活動を含め、1953年までとする把握が正しいのであった。

 

 (2)、伊藤氏は、「武力革命」に青春を賭けた青年たちの心境について、かつて早稲田の学生運動から「山村工作隊」の一員となり、先年、死去した由井誓が残した言葉を引く。「(当時の活動は)私なりに精いっぱいの情勢への対応であった。それへの批判には謙虚に耳を傾けるとしても、私にとって『奪われた青春』でもなければ、まして『なかったこと』などではもちろんない」。伊藤氏によれば、由井のこの言葉は、脇田氏における「武力革命」への献身を「負の青春」とするとらえ方と一致しているのであった(脇田p.775)。

 

 由井誓と脇田憲一の二人を並べて立たせた伊藤氏の理解には、次のような意味があったと「深読み」しておきたい。由井は、戦前派のコミュニストであった石堂清倫氏に私淑する立場にあった。脇田氏も、「強い影響」を受けた人物として「東京の思想家石堂清倫氏」の名を挙げている(脇田p.776)。由井がそうであったように、脇田氏においても、石堂清倫の存在を通じて、戦前からの日本における社会労働運動の脈動を受け止める姿勢があったのである。

 

 (3)、伊藤氏の「解説」は、基本的な社会構成原理として「抵抗権と武装権」の積極的意義を確認する議論となっていた。伊藤氏は、朝鮮戦争下の「武力闘争」には、戦争反対運動の意味内容があったのであり、「大衆的な運動で戦争に反対し、介入しようとしたのは、近代日本において初めてのこと」であったと、その意義を確認する。また、「日本人と朝鮮人との運動場面での共闘、これもこのような規模ではかつてなく、またその後も経験されていない」と、その意義を評価する(脇田p.774)。

 

 ところで、伊藤氏によれば、「抵抗権と武装権」の理念は、「党派的理解」の二階梯を経て具体化されるものとなっていた。第一階梯。「四九年一一月、アジア・太平洋労働組合代表者会議での劉少奇の演説は、帝国主義支配への武力闘争を宣言した。コミンフォルムは日本にもそれを適用したのである」(脇田p.780)。第二階梯。「この党内権力闘争で、所感派は反対派を排除したが、それは自分たちこそコミンフォルムの方針=軍事方針を実現するものと主張しながら現れることに成功したということである」(脇田p.781)。

 

 すなわち、コミュニズム的展開の二階梯を通じて現実化された「抵抗権と武装権」の理念は、「党派的理解」としての「党派的利害」によって、かなり世俗化されたものとなっているのであった。

 

 (4)、「抵抗権と武装権」の理念の具体化には、さらに第三の階梯があった。それは、活動家の「本気」であった。伊藤氏は次のように指摘する。「このように戯画的で、後日から見れば無意味ともみえる武力行動でも、これを実行するものは自分の全力を振りしぼって本気で行動しなければならない」(脇田pp.782-783)。「ここで忘れてはならない重要点は、武力革命に根拠はなくとも、党員・活動家の『本気』には根拠があったことである」(脇田p.783)。

 

 伊藤氏は、「抵抗権と武装権」の理念の現実化の第三階梯において、党員・活動家の「本気」が共産党の提起した「観念の武力革命と矮小な武力闘争」枠から「はみ出し」ていたことを指摘する。すなわち、世俗化された「抵抗権と武装権」の理念は、第三階梯における「はみ出し」の事実経過を通じて具体化されるのであった。これは、いわゆる、歴史における「理性の狡知」の作動であった。

 

 ところで、脇田氏が発掘した事実経過によれば、「枚方事件」の暴走局面では、かなりの「抑制契機」が発動されていた。「抵抗権と武装権」の理念は、「ホッブス的レベル」の理解水準に達していた。自然状態についての認識は「共通」の抑制枠の承認に裏打ちされていたのである。そして、発動される「抑制契機」は、これも脇田氏が発掘したように、日常性を基盤とする「庶民の狡知」そのものであった。大衆の「本気」を通じて「理性の狡知」を発動させるのは「庶民の狡知」であったことになる。

 

 

 結び:「党活動」から「大衆運動」

 

 三人の研究者によってなされた「枚方事件」の論評に、脇田氏は、異論を述べたり、反論したりしているわけではない。三氏による論評内容を受け入れているのであるが、なにか一つ、釈然としないところがあるようである。そこのところを解くカギが、脇田氏が控え目に述べる自分史の部分にあると思われる。

 

   「事件前後史」についての「確認調査」

 

 かつての脇田少年にとって、日本共産党によって導かれる「党活動」の世界は、大阪の下町の生活と一体化した「魔法の園」であった。そこでの「定時制高校生」「民青団員」「党員候補者」「中核自衛隊員」という三年間の経験は、脇田少年にとって、「魔法の園」の「呪縛」にとらわれた「精神的な体験」であった。

 

 脇田氏において、そのような「魔法の園」の「突き破り」(ブレーク・スルー)は、「六全協」という外からの衝撃によって可能となった。共産党の「武装闘争」要員は2000〜2500人であったと推定されている(脇田p.783)。「六全協」は、2000〜2500人の機関要員の解雇を意味していた。脇田氏もその一人となっていた。脇田少年は、「魔法の園」を「突破」する前に「排出」されていた。

 

 脇田氏において、「魔法の園」の「呪縛」の解体は、「枚方事件」の社会運動史における「相対化」作業によって推進されることになった。そこでなされたのが、先にその概要を見た、脇田氏における枚方市の地域社会史の研究であり、「枚方事件」の「前後史」についての「確認調査」であった。その作業が進行したのは、「枚方15年裁判」が終わった後、1980年代に入ってからのことであったと見受けられる。脇田氏は、大阪労働運動史研究会の研究発表であるとか、刊行された『枚方市史』(全五巻)の「戦後版」を検討することによって、それまで「まったく知らなかった運動」が「枚方事件」を取り巻いていたことを知る(脇田p.223)。かつてのあの事件前後の枚方における地域社会史の動向とその存在を知ったことは「正直いってショックであった」と、脇田氏は率直に語っている(脇田p.224)。

 

    戦前からの地域社会史文脈における「平和都市宣言」

 

 枚方市には、戦前、1939年における火薬庫爆発という大惨事の経験があった。その記憶が、戦後、1952年7月18日の枚方市議会における「火薬工場反対決議」の背景となっていた。脇田氏は、この市議会決議が、枚方市が「平和産業都市」「住宅平和都市」へ「構造転換」する「端緒」となったと見ている(脇田p.256)。

 

 枚方市は、戦後、「社会党の市長時代」を続けていたが、初代以降、かなりの期間、ほとんど連続して枚方市長の任にあったのは寺島宗一郎であった。枚方市議会における「火薬工場反対決議」を提案した寺島市長は、1939年における火薬庫爆発の被害者であった。さらに、寺島は、官業労働総同盟、日本農民組合、日本労農党で活躍し、村会議員、町会議員、府会議員を務めた戦前からの社会派であり、「無産党」系の「名望家」であった。

 

 脇田氏は、寺島という人物の存在を通じ、枚方市における戦前からの地域政治史継続の重みを感じ取った。同時に、日本における戦前からの社会派「大衆運動」の伝統を読み取った。この「読み取り」が、脇田氏の後半生における「大衆運動」展開の大きな要因になっているのであった。

 

   「運動人生」のすべてとなる「二つの経験」

 

 脇田氏は、今回の大部の著作「あとがき」で言う。「私の人生の決定的な精神的体験は日本共産党の軍事闘争時代の三年間であり、運動的な体験の原点は大特(大阪特殊製鋼)闘争時代の七年間であったと思います。この二つの体験がわたしの運動人生のすべてであったと言っても過言ではありません」(脇田p.794)。

 

 この回顧の言からすると、脇田氏の人生における「二つの経験」とは、一つは、共産党の「党活動」の経験であり、もぅ一つは、労組、生協、市議会を場とする「大衆運動」の経験であった。今回の著作の奥付ページにある「執筆者紹介」を見ると、脇田氏の経歴の前半と後半が、脇田氏の言う「二つの経験」に明快に対応させられていた(小見出しは引用者)。

 

 【党活動の時期】、1935年愛媛県に生まれる。1952年6月、17歳で枚方事件に参加、検挙される。保釈後高校中退して山村工作隊(独立遊撃隊)に入隊。奈良奥吉野、大阪府下で山村工作、基地工作に従事。

 

 【大衆運動の時期】、1955年7月『六全協』後、鉄鋼・金属の労働組合運動に入る。1973年、総評総評地方オルグとなる。1985年北摂生活者ユニオン理事長、北摂・高槻生活協同組合理事長を経て1995年高槻市議に(一期のみ)。思想の科学研究会会員。新日本文学会員。

 

 三人の研究者から寄せられた「枚方事件」についての論評は、脇田氏の前半生を構成する「党活動」の経験について、その意義を説くものとなっていた。脇田氏として、説かれる意義内容に異論はないのであるが、後半生における「大衆運動」が、前半生の「党活動」からもたらされている経過と構造について三人の研究者の論評がほとんど論じていない、その点に不満が残っていたのである。

 先にもふれたように、脇田氏は、「枚方事件」関係者に、「枚方事件は自分にとってマイナスではなかった」と語っている(脇田p.217)。その意味は、若き日の「党活動」を通じて、その後、「大衆運動」の地平に到達できたということであった。

 

*      *      *      *

 

 日本の社会運動史において、脇田少年が辿ったような「党活動」から「大衆活動」へという「転生」が何度、繰り返されてきたことであろうか。だが、その繰り返しを通じて、社会派の「大衆運動」は、彼岸志向から脱し、動員型・集権組織の運動論を克服してきたのであった。此岸における「社会主義」(ソサイアティ・イズム)を見出し、参加型・多元構成の運動原理を確定してきたのであった。

 

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 〔関連ファイル〕

     脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』1952年6月24、25日

           『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

     明石書店『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』内容構成で全目次紹介、購読注文

     伊藤晃『解説―抵抗権と武装権の今日的意味』

     日本共産党の武装闘争路線』ファイル多数

 

    (高橋彦博論文の掲載ファイル7編リンク)

     『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題

     『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

     『川上徹著「査問」の合評会』

     『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

     『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識

     『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果

     『白鳥事件の消去と再生』