『収容所群島』第一部第三章「審理」

 

チェーカー、NKVDの32種類の拷問

 

ソルジェニーツィン

 

 ()これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』第一部「牢獄産業」の第三章「審理」(新潮社、1974)からの抜粋です。第三章「審理」は、第二章「わが下水道の歴史」に続く内容で、レーニンのチェーカー、スターリンのNKVDによる32種類の拷問、その他の拷問を克明に分析、分類しています。ソルジェニーツィンは、「わが下水道の歴史」でもレーニンとスターリンの粛清方針、手段は同質としたように、チェーカーとNKVDの拷問手口も同質で、これらの拷問はレーニンから始まったとしています。

 ただ、この章も46ページと長いので、〔目次〕の3箇所を抜粋しました。その見出しは、ソルジェニーツィンの『1918〜1956文学的考察』文体の流れにたいして誠に失礼ですが、抜粋の便宜上私(宮地)がつけたものです。()は省略しました。文中の太字は青太字、傍点個所は太字にしました。『収容所群島』は、第六部までありますが、新潮社単行本・文庫版とも絶版になっています。図書館貸出しでなら読むことができます。

 

 〔目次〕

1拷問の始まり (P.103105)

2、32種類の拷問 (P.108119)

3、「審理」環境、その他の拷問 (P.125129)

(宮地コメント)

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1拷問の始まり

 

 もっとも、被告の罪に対する論理的見解はそもそもの初めから非常に流動的なものだった。赤色テロに関する指令書にチェキストのMI・ラツィスは次のように書いている。「・・・・・・審理に当って被告が反ソビエト政権的な言動を行なったという証拠や資料を求める必要はない。最も重要な問題は、被告がどんな階級に属しているか、どんな素性であるか、どんな教養があるか(沼地沈澱物委員会の事件はまさにこれと関連しているのだ!――著者)、どんな教育を受けているか、である。被告の運命を決定するのは、これらの問題でなくてはならない」・・・一九二〇年十一月十三日にジェルジンスキーは全露非常委員会(ヴェー・チェー・カー)宛の手紙のなかで「非常委員会ではしばしば中傷的届出が採用されている」ことに言及している。

 

 この何十年の間、あそこからは誰も帰らないということを、私たちは教えこまれてきたのではなかろうか? 一九三九年の、短い期間の意図的な釈放以外は、審理の結果によって被告が釈放されたというケースは、たとえあってもきわめて稀である。いや、たとえ釈放されても、すぐ再び逮捕されたり、さもなければ当人を尾行する目的で故意に釈放したものだ。このようにして、機関は絶対に過失をしないという伝統が確立した。では、無実の人びとはいったいどうなるのか?

 

 ダーリの《解釈辞典》によれば、審問審理との相違は、審理を始める前にその理由の有無を確認するために何をするかにあるという。

 ああ、なんという素朴さよ! ところが、機関ときたらいまだかつていかなる審問をも知らなかったのである! 上層部から送られてくるリストあるいは些細な(ささいな)嫌疑、または情報提供者の密告あるいは匿名の密告は、すぐ逮捕に結びつき、その後は不可避的な起訴へと導いた。審理のために与えられた時間は犯罪糾明のために当てられるのではなく、百件のうち九十五件までは被告を疲労困憊(こんぱい)させ、へとへとにさせたうえ、もう殺されてもいいからとにかく早く終りが来てほしいという心境に被告を追い込むためのものである。

 

 すでに一九一九年に取調官が主に用いた方法は、机の上にピストルを置くことだった。

 

 このようなやり方は単に政治的事件の審理だけでなく、《一般事件》の審理に際しても行われた。燃料総局裁判(一九二一年)のとき、被告のマフロフスカヤは取調べ中にコカインを飲まされたと訴えた。検事はこの訴えに対して「もし彼女が取調べ中に暴力を加えられたとか、銃殺するぞとおどされたとか言ったのなら、まだしも信じられもしようが」と反論している。ピストルは威嚇(いかく)的に机の上に置かれ、時たまあなたに銃口を向ける。取調官はあなたにどんな罪があるのか頭をひねろうともせずに、いきなりあなたにむかって「さあ、話すんだ、何を話せばいいか自分でわかってるだろう」と強要する始末である。このようにして一九二七年にはハイキン取調官がスクリプニコワを強要し、一九二九年にはヴィトコフスキーが強要されたのである。四半世紀が過ぎても何ひとつ変らなかった。一九五二年、同じアンナ・スクリプニコワがもう五回目に投獄された時、オルジョニキーゼ市の国家保安省(エム・ゲーペー)主任取調官シワコフは言った。「監獄医からの資料によると、お前の血圧は上が二四〇で下が一二〇だ。畜生っ、お前にはこれではまだ低い(彼女はもう五十歳を過ぎていた)、お前のような悪党には、こちらが手をかすこともない。青あざや打ち身や骨折なしでくたばるように、血圧を三四〇まで上げてやるぞ。それにはお前を寝かせないだけでよいのだ!」スクリプニコワが夜間訊問(じんもん)のあと監房に戻って昼間目を閉じようとすると、看守が押し入ってきてどなりつける。「目を開けろ! でなければ、足を引っ張ってお前を寝台から引きずり降ろして、立ったまま壁に縛りつけてやるぞ!」

 

 夜間訊問も一九二一年には主要な方法であった。その際、被告の顔に自動車のライトを当てるのだ(リャザン市非常委員会、ステリマフ)。一九二六年にはルビヤンカ監獄でも(ベルタ・ガンダリの証言)監房に冷たい空気と臭い空気を交互に注入するためにアモーソフ式の暖房が使われた。蒸し暑くて息もできないのに、それをさらに熱するというコルク監房もあった。こんな監房に詩人のクリューエフも、ベルタ・ガンダリも入れられたようだ。一九一八年のヤロスラーヴリ蜂起(ほうき)に参加したワシーリイ・アレクサンドロヴィチ・カシヤノフの話によると、毛穴から血が噴き出るまでに監房を加熱し、覗(のぞ)き穴からそれを確認すると、逮捕者を担架で運び出し、供述書にサインさせるために連れていったという。《黄金》時代には《暑い》(《塩からい》のも)方法も知られている。グルジアでは一九二六年に被告の手をタバコの火で焼きつけたし、メテフスカヤ監獄では暗闇の中で被告たちを汚水の貯()め池へつき落した。

 

 ここにはきわめて単純な関係が存在する。すなわち、逮捕された者に何らかの罪をかぶせる必要があるなら、威嚇、暴力、拷問は避けられないし、その罪状が幻想的であればあるほど、告白を強要するための審理は残酷をきわめなければならないということである。したがって、でっちあげの事件が常にあったのなら、暴力と拷問も常にあったわけだし、これは決して一九三七年に特有なものではなく、共通の性格をもつ長期にわたる特徴であった。そのため、元囚人(ゼック)たちが回想録の中で、「拷問は一九三八年の春から許可された」と書いているのを見ると不思議でならない。機関に拷問を許さないような精神的道徳的な束縛はいつの時代にもなかった。革命後の最初の数年間は『全露非常委員会週報』『赤い剣』『赤色テロ』などの誌上で公然とマルクス主義的観点から拷問の当否が論議された。その結果から判断すると、全面的ではないにしても、肯定的な解答が出された模様である。

 

 

2、32種類の拷問

 

 逮捕者の体に外傷ひとつ残さず、しかもその意志と人格を粉砕する最も簡単ないくつかの方法を数えあげてみよう。

 まず心理的な手段から始めよう。監獄の苦しみを耐え抜く準備を一度もしたことのない哀れな犠牲者にとっては、これらの手段はきわめて効果的であり、破壊的な力さえもっている。たとえちょっとした信念の持ち主であっても、この拷問にはなかなか耐えられないものである。

 

 () まずほかならぬ夜間のものから始めよう

なぜ精神を破壊する主な作業は夜間に行われるのか? なぜ機関はその創設当時から夜間を選んできたのか? それは、夜間に睡眠を中断された(まだ不眠で虐げられていない人でも)逮捕者は、昼間のように落ち着いて、冷静でいられないからである。いや、そんなときにはどうしたって従順になるからである。

 

 () 衷心から語りかける調子での説得

最も簡単なものだ。もうこれ以上鬼ごっこをしてもしようがないだろう? というわけだ。他の審理中の被告たちとある期間いっしょにいると、逮捕者もおおよそ全般的な状況を把握(はあく)する。そこで取調官がのんびりと、友達のような調子で話しかける。「もうわかったろう、いくらもがいても、懲役は免れないよ。もし抵抗するなら、この監獄でとことんしぼられて、健康をこわしてしまうよ。収容所へ行けば、空気もいいし、日光もある・・・・・・だから、今すぐ供述書に署名したほうが身のためだよ」これはきわめて論理的である。その言葉を受け入れて、署名する人はまともかもしれない。ただし・・・・・・それは供述書の内容が彼自身のことに限られている場合である! だが、そんな場合はきわめて稀(まれ)である。結果的には闘いは避けられないのだ。

 党員に対しては別の説得方法がある。「もし全国で品物不足や飢饉が発生したら、あなたはボリシェヴィクとして自分の立場を明らかにしなければならないが、あなたはそれを党全体あるいはソビエト政権のせいであると認めますか?」「もちろん、認めません!」と、亜麻加工センター所長は慌てて答える。「それなら、あなたは勇気を出して、自分で罪を着なさい!」 こうして彼は罪を着るのである!

 

 () ひどい悪罵

これは手のこんでいない方法だが、育ちのいい、洗練された、繊細な性格の持ち主にはとてもよく効く。私は単なる悪罵(あくば)のために譲歩した二人の神父を知っている。その一人の神父の場合(ブトゥイルキ監獄、一九四四年)、女性が審理を担当していた。彼は初めのうち監房に帰ってからも、彼女がとても礼儀正しいとほめてた。ところが、ある日彼は意気消沈(しょうちん)して戻ってくると、彼女が片足を膝にのせて、えらく上品ぶって悪態をつきはじめたときのことを、すぐには話そうとしなかった(ここに彼女の口にした文句を引用できないのは残念だ)。

 

 () 心理的コントラストによるショック

たとえば、相手に急激な変化を与えること。まず訊問の間じゅう、あるいはそのある期間、きわめて慇懃(いんぎん)な態度をとり、相手を名前と父称で呼び(名前と父称で呼びかけるのは丁寧な言い方)、よいことばかり約束する。次の瞬間、いきなり文鎮を手にとって相手にぶつけるふりをして怒鳴りつける。「この悪党め! 後頭部に一発ぶちかましてやるぞ」それから両手を突き出し、鉤針(かぎばり)のようになっている爪の先で頭髪をひっつかんで、相手にのしかかるのだ(この方法は女性に対して非常に効果的である)。

 これの変種として、二人の取調官が交互に訊問に当る方法もある。一人は粗暴で、虐待するが、他の一人は好感のもてる、誠意のありそうな人物である。被告は取調室へ入るたびに、今日はどちらだろうかと、おびえている。両者の対照があまりにもひどいので、被告は後者に対しては何もかも署名して、実際にはなかったことまでも認めてやりたい気持ちにかられてしまう。

 

 () 前もっての侮辱

歩道の厚いガラスの下にあるロストフ市の国家保安部(『三三号館』)の有名な穴蔵(もとの倉庫)で何時間も訊問を待っている間、囚人たちは共同廊下の床にうつぶせにさせられて、頭を上げるのも、声を出すのも禁じられていた。彼らは礼拝する回教徒のような格好をしたまま、看守が肩にさわって、訊問に連れ出すまでずっと床にうつぶせになっていた。別のケース。アレクサンドラ・オーワはルビャンカ監獄で強要された供述をしなかった。彼女はレフォルトヴォ監獄へ移された。そこの収容室で女看守が衣服を脱ぐように命じ、手続のためにと言って衣服をどこかへ持っていって、彼女を裸のまま《ボックス》に閉じ込めた。すると男の看守どもがやってきて、覗き穴を覗いては、笑ったり、彼女の体の品定めを始めた。――いろいろな人に聞けば、こんな例はまだまだたくさん集められるにちがいない。これらの目的はただ一つ――打ちのめされた状態にすることである。

 

 () 審理中の被告を混乱におとしいれるあらゆる手段

モスクワ州クラスノゴルスク市出身のFIVは次のように訊問された(IAPevの報告)。女性の取調官は彼の目の前でだんだん裸になって(ストリップ・ショー!)、しかもなお平然として訊問を続けながら、部屋の中を歩きまわり、彼に近づいたりして、供述面での譲歩を強要した。ひょっとすると、これは彼女の個人的欲求だったかもしれないし、冷静な計算だったかもしれない。いずれにしても、審理中の被告は目の前がくらくらして、ついに署名してしまうのである! 一方、彼女のほうには少しも危険がない。ピストルも、呼び鈴もあるのだから。

 

 () 恐喝

最も利用されていて、非常に多様化している方法である。これはしばしば誘惑約束(もちろん、偽りのものであるが)と一体となっている。一九二四年――「自白しないのですか? では、ソロフキ島へ行ってもらいましょうか。自白する人は釈放してますよ」 一九四四年――「お前がどこの収容所へ送られるかは私が決めるのだ。収容所にもいろいろあるからな。今は強制労働の刑もあるし。すなおに自白するなら、わりといい所へ行けるが、罪を否認すれば、二十五年も地下で手錠をはめたまま鉱山で働くことになるぞ!」 ほかのもっと条件の悪い監獄を例にだしておどかすこともある。「罪を否認すれば、《レフォルトヴォ監獄》へ(あなたがルビャンカ監獄にいるなら)、《スハノフカ監獄》へ(あなたがレフォルトヴォ監獄にいるなら)移すぞ、あそこはここと違ってもっときびしいからな」 あなたはもうこの監獄に慣れている――ここでは待遇もまあまあだし、あそこではどんな拷問が待ち受けていることか。それに引っ越しとなれば・・・・・・譲歩しようか・・・・・・という気になる。

 恐喝は、まだ逮捕はされていないが、召喚状でボリショィ・ドームへ出頭を求められた人に対して非常に効き目がある。彼(彼女)にはまだ失うものがたくさんある。彼(彼女)は何もかも心配している。――今日家に帰してくれるかどうかも心配だし、品物や住居を没収されるのではないかと危惧(きぐ)している。このような危険を避けられるなら、彼は少しでも多くの供述や譲歩をする用意がある。彼女は、当然のことながら、刑法を知らない。訊問に先だって刑法からの偽りの引用を載せた少なくとも一枚の紙切れが目の前につき出される。――「偽りの供述に対しては・・・・・・禁錮(きんこ)5(五)年と前もって知らされていました」(実際は――第九五条で二年以下)・・・・・・「供述拒否に対しては・・・・・・5(五)年・・・・・・」(実際は、第九二条で三カ月以下)。ここではすでにもう一つの取調官の手段が用いられているわけだが、これは常に用いられるものである。

 

 () 嘘

私たち小羊にとって嘘は許されないが、取調官はいつも嘘をつくことができる。彼にはいかなる法律も適用されないからである。私たちは、取調官の嘘に対してはどんな罰が科されるのか、という質問さえ忘れてしまった。彼はいくらでも私たちの親類や友人のサインを偽造した供述書を私たちの前につき出すことができる。いや、それはまさに取調官の洗練された取調べ技術なのである。誘惑と嘘とを組み合せた恐喝は、証言供述のために出頭を求められた逮捕者の親類に効き目のある主要な手段である。「もしあなたがこのような供述(求められたような)をしなかったら、彼はひどい目にあいますよ・・・・・・あなたは彼を滅ぼすことになりますよ・・・・・・(母親にとってそれはどんなに怖(おそ)ろしい言葉であることか) この紙切れ(さっとつき出される)にサインすることによってのみ、彼を救う(滅ぼす)ことができますよ」

 

 () 近親者に対する愛着を利用するやり方

これは審理中の被告にも非常に効き目がある。恐喝の中で最も効果的でさえあり、近親者に対する愛着を利用すれば、怖れを知らぬ人物をも屈服させることができる(ああ、古人もうまく予言したものだ。「汝(なんじ)の敵は汝の家人なり」!)。例のタタール人のことを憶えていますか。彼はすべてを耐え抜いた――自分の苦痛にも、妻の苦痛にも。だが、娘の苦痛には耐えきれなかったのだ・・・・・・一九三〇年、女性の取調官リマリスは次のようにおどすのが常だった。「あなたの娘を逮捕して、梅毒患者の入っている監房にぶち込みますよ!」これを女が言ったのですよ!・・・・・・

 あなたが愛しているすべての人びとを投獄するとおどすのである。時には音響効果をともなって。すなわち、お前の妻はすでに投獄されている。だが、彼女の今後の運命はひとえにお前の誠意にかかっている。さあ、隣りの部屋で訊問されているから聞いてごらん! 実際に、壁の向う側から女性の泣き声とわめき声が聞える(もっとも、泣き声とかわめき声などはすべての女性に似かよったものだ。しかも壁の向うから聞えるものには区別がつかない。そのうえあなたは混乱していて、音を聴き分ける人間に必要な冷静さを失っている。時には《典型的な妻》の声を録音したレコードを回すことがある――ソプラノか女性最低音(コントラルト)で。これは誰か発明の天才にあやかった労働合理化の名案である)。次はもうそのものずばり、ドアのガラス越しに、妻が口をつぐんだまま、頭を垂れて通るところを見せてくれる。もう一点の疑いもない! それはあなたの妻だ! 国家保安委員会の廊下を歩いているのだ! 自分の頑固さで妻を滅ぼしてしまったのだ! 妻はもはや逮捕されてしまったのだ! と被告に思いこませる(ところが、実際には、彼女は召喚状で何かくだらない手続のために出頭を求められて、打ち合せた時間に廊下を歩かされただけのことである。もっとも、頭を上げてはいけない、でないとここから出られないぞ! と警告されてのことであるが)。――時には妻の手紙を見せてくれる。それはまぎれもなく彼女の筆跡である。「あたしはもうあなたの妻ではありません! あなたについての汚ない話を聞いてから、あなたはもうあたしには不要です!」と書いてある(わが国にそんな妻がいるなら、そんな手紙があっても不思議ではないが、そうなると、自分の妻もそんな女かと自分の胸で確かめなければならない)。

 取調官ゴルドマン(一九四四年)は、X・A・コルネーエワから他の人びとに関する供述を次のようなおどしで強要した。「家を没収して、お前の老婆たちは外へ追い出してやる」 堅い信仰をもっていたコルネーエワは、自分のことに関しては何ひとつとして怖れることはなかった。彼女はどれほどの苦痛にも耐えるつもりだった。だが、わが国の法律の下ではゴルドマンのおどしは実現可能なものだったから、彼女は近親者のことをそれは心配した。何度も拒否された供述書を破りすて、ようやく夜が明けるころになってゴルドマンは四通目ぐらいの、彼女ひとりを有罪にする供述書の作成に取りかかった。コルネーエワは喜んでそれにサインして、秘かに精神的勝利を味わった。偽りの罪状をくつがえして、自分を正当化するという、人間の最も基本的な本能さえ、私たちは満たすことができないのだ。いや、できっこないのだ! 私たちはすべての罪を自分ひとりにかぶせることができただけで喜んでいるのだから。

 自然界を分類するときに明確な境界線がないのと同様、ここでも心理的方法と物理的方法との間の境界線が判然としない。たとえば、次のような悪戯(いたずら)をどこの部類に入れるべきか。

 

 (10) 音響手段

取調べに際して被告を六メートルないし八メートルも離して坐らせ、絶えず大声でものを言ったり、繰り返させたりするのである。もはや疲れきった人にはなかなか容易なことではない。あるいはボール紙で二つのメガフォンを作り、もう一人の取調官と両側から逮捕者に近づいて、その両耳に怒鳴りつける。「自白しろ、この悪党め!」 逮捕者は気が遠くなり、時にはつんぼになってしまう。だが、これは非経済的手段である。ただ取調官も単調な仕事に飽きてきて、時どき悪戯したくなるのだ。そんな時にいろんなものを考え出すのである。

 

 (11) くすぐり。これも悪戯だ

手足を縛ったり、あるいは重い物を手足にのせたりして、烏の羽毛で鼻の中をくすぐる。逮捕者は身をもがくが、その感じは脳にドリルで穴をあけられるみたいで、耐えがたい苦しみである。

 

 (12) 被告の皮膚の上でタバコをもみ消すこと(前述のとおり)

 

 (13) 照明による方法

逮捕者の収容されている監房や《ボックス》に、四六時中まぶしい電灯をつけておくこと。狭い部星と真っ白な壁にはあまりにもまぶしい電球(小学生や主婦たちが節約した電力だ!)。このために瞼(まぶた)の炎症が起り、きわめて痛い。また審理の行われる部屋ではスポットライトが被告の目に向けられる。

 

 (14) こんな思いつきもある

一九三三年五月一日の前夜、ハバロフスクの国家保安部(ゲー・ペー・ウー)では、チェボタリョフを一晩じゅう、十二時間も訊問しなかった。いや、正確に言うと、十二時間も訊問のために連れていったり、帰したりしたのだ! 名前を呼ばれ、「手を後ろに!」と命ぜられ、監房から連れ出され、階段を急いで登らせられて、取調官の部屋へ連れ込まれる。看守はすぐ出ていく。だが、取調官は訊問一つせず、時には椅子に坐らせもせずに、受話器をとると、「一〇七号室から囚人を連れ出せ!」と命令する。彼を監房に連れ戻し、当人が板寝床に横たわろうとするとまたもや錠がガチャガチャと昔をたてて、看守が怒鳴る。「チェボタリョフ! 訊問だ! 両手を後ろへ!」だが、取調官の部屋へつくと、またもや「一〇七号室から囚人を連れ出せ!」という命令。

 だいたいにおいて、被告に対する圧力は取調室へ入るずっと以前から始められる。

 

 (15) 監獄は、ボックス、すなわら、箱あるいは戸棚から始まる

自由の世界から引き抜かれたばかりの、まだ内心ではこの逮捕は何かの間違いであると考え、それを確かめるためには論争も闘いも辞さぬ人間を、投獄したとたんに何よりもまず《箱》の中に閉じ込めてしまうのである。その箱は時には電灯もついていて、坐ることもできる。が、時には真っ暗で、しかも立ってしかいられず、そのうえ扉で圧迫されるような代物(しろもの)である。そんな箱に数時間も、時には十二時間も、いや、時には一昼夜も閉じ込められる。長い不安な時間が流れる! ひょっとすると、このまま一生閉じ込められるのでは? 誰もそれまでにこんな目にあったことがないから、何が起るものやら見当がつかない! なおも心の中で激しい嵐が吹きあれているときに、監獄での最初の時間が流れていく。ある人びとは絶望的になる――ここで最初の訊問を実施したら、何と効果的であろう! 他の人びとは腹をたてる――これは取調官の思うつぼだ。彼らはすぐにも取調官を侮辱したり、不用意なことをしてしまう。そうなればもっとたやすく彼らに罪を着せることができるからである。

 

 (16) ボックスが足りないときには、こんなことも行われた

ノヴォチェルカスクの内務人民委員部(エヌ・カー・ヴエー・デー)でエレーナ・ストルチンスカヤは廊下の背もたれのない椅子に六昼夜も坐らされた。その間、彼女は何によりかかっても、眠っても、下へ倒れても、立ち上がってもいけない、と命じられた。それで六昼夜です! まあ、六時間だけでもそんな姿勢で坐ってみて下さい!

 またこの方法の変種としては、実験室に置いてあるような、坐っても足が床に届かない高い椅子に、囚人を坐らせることもできる。そうすると、足がすっかりしびれてしまう。八時間ないし十時間もそんな椅子に坐らせるのである。

 でなければ訊問に際して、逮捕者を次のような状態で、目の前の普通の椅子に坐らせる。すなわち、腰をおろすところの一番端の、縁のところに(「もっと前へ! もっと前へ!」、倒れる寸前まで前へ出させて、訊問の間じゅうその縁の角が痛く食い込むようにする。そして何時間も微動だに許さない。それだけかと読者はたずねるかもしれないが、それだけである。試してみて下さい!

 

 (17) 地域的な条件によってボックスは、大きい穴の形をしている師団牢に変ることがある

大祖国戦争(第二次大戦のこと)の時、ゴロホヴェツク周辺の駐屯地(ちゅうとんち)であったように。探さ三メートル、直径約二メートルの穴に逮捕者を突き落し、何日も露天の下で、時に雨天の下で監禁する。その穴は彼にとって監房でもあり、同時に便所でもあった。三百グラムのパンと水は紐(ひも)で上から降ろされた。そのような状態に置かれた自分を想像できますか。しかも、逮捕された直後で、心のなかは怒りで煮えくりかえっている自分を。

 赤軍の全特務部隊へ共通する指令のためか、あるいはその露営状態が似かよっていたせいか、この方法は非常に普及度が高かった。ハルヒン=ゴル(ノモンハン)の戦闘に参加した第三十六機械狙撃師団が、一九四一年に蒙古砂漠に駐屯した時、逮捕されたばかりの者に一言の説明もせずにシャベルを持たせ(特務部隊長はサムリョフ)、とまったく同じ大きさの穴を掘らせた(ここにはすでに心理的方法もまじっている!)。逮捕者が腰以上の深さまで掘り進むと、掘ることをやめさせて、その底に坐るように命じた――坐った状態での囚人の頭は見えない。これと同じような穴をいくつか一名の哨兵が見張って、まわりには誰もいないように見えた。この砂漠のなかで被告を取調べたとき、あの蒙古の猛暑の下でも帽子をかぶせなかったし、夜の寒さの中を服も着せなかった。もっとも拷問は何ひとつ行われなかった――拷問のために骨を折るまでもなかったのだ。配給は、一昼夜に百グラムのパンコップ一杯の水だった。チュリペニョフ中尉は、二十一歳のボクサーで大男だったが、この状態で一力月坐っていた。十日後に彼にはシラミがわいていた。十五日後に初めて彼は審理へ呼び出された。

 

 (18) 被告を跪かせること(精神的な意味ではなく、直接的な意味で)、すなわち、踵(かかと)に尻がつかぬように、しかも背中をぴんと伸ばして、跪かせること

こうして取調室でも、あるいは廊下でも、十二時間も、二十四時間も、四十八時間も立たせることができる(取調官のほうは家へ帰って、眠ったり、気晴らしをしたりすることができる。これは発達したシステムである――跪いている被告のそばには哨兵をたて、時間決めで交替させる)。この手は誰によく効くかといえば、すでに弱りきった、屈服寸前の人に効くのである。女性にもきわめて効果的である。イワーノフ=ラズームニクはこの手の別口を報告している。取調官は若いロルドキパニーゼを跪かせて、彼の顔に放尿したのだ!それでどうなったか? ほかの手段ではびくともしなかったロルドキパニーゼが屈服したのである。となると、プライドの高い人にもよく効くということである……

 

 (19) あるいはただ立たせるだけのこともある

訊問のときだけ立たせてもよい。これも人を疲労困癒(こんぱい)させ、まいらせる。訊問のときは坐らせてもよいが、訊問と次の訊問との間は立たせるのである(哨兵をたて、看守は、壁によりかからないように見張っている。もし相手が眠って転んだなら、蹴とばして、また立たせるのだ)。時には人を弱らせてほしいままの供述をさせるためには、一昼夜立たせるだけで十分である。

 

 (20) 三、四、五昼夜にわたって立たせるとき、普通、水は飲ませない

 これで心理的方法と物理的方法との組合せがいよいよ理解しやすくなるだろう。以上の方法が次のものと結びつくのも理解できる。

 

 (21) 不眠との結びつき

 中世はこれをまったく評価しなかった。中世は人間が人格を保てる範囲が狭いことを知らなかったのだ。不眠は(さらにこれが起立、渇(かわ)き、まぶしい光線、恐怖および未知のものと結びついた場合、いかなる拷問にも太刀打ちできるのだ!)意識を遠のかせ、意志を弱めて、人間の《自我》を失わせる(チェーホフに『ねむい』という短編があるが、そっちのほうがずっと楽である。そこでは少女も横になれるし、少しでも意識を休ませることができる。その一分だけの休息でも頭脳は回復するからだ)。こうなれば、人間はもはや半ば無意識的に、あるいは完全に無意識的に行動する。したがって当人がどのような供述をしようとも、もう非難することはできない。

 取調官はよく次のように言ったものである。「あなたは供述において率直ではない。だから、睡眠を許さない!」時には効果を上げるために立たせるのではなく、特に眠りに誘うような柔らかいソファに坐らせた(当直の看守は同じソファのすぐ隣りに坐って、相手が少しでも目を閉じるたびに蹴飛ばす)。この拷問でやられた人は(おまけに、その前には南京虫のうようよしていたボックスの中で何昼夜も過しているのだ)、その感触についてこう説明している。「大量出血のあとの悪寒(おかん)がする。日の粘膜は乾ききって、目の前で誰かが灼熱(しゃくねつ)した鉄塊をもっている感じがする。渇きのために舌が膨(ふく)れて、ちょっとでも動かすたびにハリネズミで刺されるような痛みがする。唾(つば)を飲み込むごとに、咽喉(のど)に激痛が走る」。

 不眠は――拷問のきわめて有力な手段であり、全然目に見える跡を残さない。たとえ明日これまでついぞ一度もなかった検査が万一あったとしても、訴えるための口実さえ残さない。「眠らせてくれなかったって? ここは保養所じゃありませんからね! 職員だってあなたといっしょに眠っちゃいませんよ」(その代り昼間ぐっすり眠っているのだ)機関では不眠がごく当り前の手段になったと言っても過言ではない。不眠は拷問の部類から国家保安委員会の職務上の内規にまで組み込まれてしまい、そのために歩哨すらたてることなく最も安直なものとなった。審理の行われるすべての監獄では、起床から消灯まで一分でも眠ることは許されない(スハノフカ監獄と他の特に審理に用いられたいくつかの監獄では、昼間になると、寝台はすべて壁の中へ片づけられる。他の監獄では横になることも、坐って目を閉じることも禁じられている)。主な訊問はことごとく夜間に行われる。こうして自動的に、審理の行われている被告は、一週間のうち少なくとも五昼夜は眠る時間がない(日曜日と月曜日の前夜は取調官も休みたがっている)。

 

 (22) 前項のものをさらに発展させた取調官のコンベアー

 被告は眠れないだけでなく、三、四昼夜間断なく、交替する取調官の訊問を受ける

 

 (23) すでに言及した南京虫のうようよしているボックス

 薄暗い木箱の中には何百匹の、ひょっとすると、何千匹の南京虫がうごめいている。被告は背広や軍服を取り上げられる。その箱に入れられたとたん、周囲の壁や天井から血に飢えた南京虫が襲ってくる。最初のうちは彼も懸命に闘い、体の上や壁の上で潰(つぶ)して、その臭気で息がつまりそうになるが、数時間もするとぐったりして、もう抵抗もせずに自分の血を吸わせるばかりだ。

 

 (24) 懲罰房。監房の条件がいくら悪いといっても、懲罰房は常にそれよりもずっと悪い

 そこから見れば普通の監房は常に天国に見える。懲罰房では人間を飢餓と普通は寒さ(スハノフカ監獄には熱い懲罰房もある)で苦しめる。たとえば、レフォルトヴォ監獄の懲罰房にはまったく暖房がなく、ラジエーターは廊下にしかないが、その<暖房のきいている>廊下でも、当直の看守はフェルトの長靴をはき、綿入服を着て、歩きまわっている。囚人は肌着だけで、時にはズボン下一枚で動くこともならず(狭いために)、三昼夜から五昼夜を(熱い野菜汁(バランダー)は三日目にしか与えられない)懲罰房の中で過さなければならないのである。最初は一時間も耐えられないと思うが、その五昼夜を奇蹟(きせき)的にも耐え抜く人もある。たぶん、その後は死ぬまで病身になろうが。

 

 (25) 懲罰房にはさまざまな種類がある――湿気や水を利用するもの

 もう戦争が終ってからマーシャ・Gはチェルノヴィック監獄で、裸足(はだし)のまま二時間も氷のように冷たい水にくるぶしまでつかって立たされた。自白しろ!(彼女はその時十八歳、まだ自分の足が惜しかったし、しかもこの先まだ何年間もこの駄目になった足とともに生きなければならなかったのだ!)

 

 (26) 壁がんに立ったまま閉じ込めることも懲罰房の一種と見なしてよいだろうか?

 すでに一九三三年、ハバロフスクの国家保安部においてこの方法でSA・チェボタリョフが拷問を受けている。裸のままコンクリートの壁がんに膝(ひざ)を折ることも、腕を自由に伸ばすことも、頭を回すこともできない格好で閉じ込められたのである。いや、それだけではない! 頭のてっぺんに冷たい水がしたたり落ちてきて(なんと陳腐なことか!・・・・・・)体じゅうを流れはじめた。もちろん、この拷問がたったの二十四時間だけだとは前もって説明されなかった。これがどれほど怖ろしいものかわからないが、とにかく当人は気絶してしまった。翌日、彼は死人のようになって発見され、意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。彼を正気づけるためにアンモニア水をかがせ、カフェインを飲ませて、全身マッサージをしなければならなかった。いや、意識を取り戻してからも長いこと、自分がどこからきたのか、前の日には何があったか、なかなか思い出せなかった。丸一カ月というもの、彼には訊問さえできなかった(この壁がんと水滴装置はチェポタリョフ一人のために作られたものでないとあえて推測することができる。一九四九年、ドネプロペトロフスク市出身の私の知人は、水滴装置こそないが同じような壁がんへ閉じ込められた。ハバロフスク以来ドネプロペトロフスクに至るまで十六年間にわたってこのほかの場所でも同じような拷問が行われたのであろう)。

 

 (27) 飢餓は他の方法との組み合せによる威圧について述べたところですでに言及した。飢餓によって囚人から供述を引き出すことは、それほど珍しい方法ではない

 実際、飢餓の要素は夜間の利用と同様、囚人を威圧するための全般的なシステムに組み込まれた。監獄の少ない配給食糧、平和時の一九三三年は三百グラム(パン)、一九四五年のルビャンカ監獄では四百五十グラム、差入れや売店の許可・禁止などはすべて一方的――こうしたことは例外なく全員に適用される、ありきたりの手段であった。だが、もっときびしい飢餓の適用もある。すなわち、チュリペニョフの場合のように、百グラムの配給で一カ月拘留した後、穴牢(あなろう)から連れ出して、ソーコル取調官は彼の目の前に脂肪の浮いた美味(うま)そうなボルシチの入った飯合(はんごう)皿と斜めに切った白パン(パンを斜めに切ったか、まっすぐに切ったかは大差はないように思われるが、チュリペニョフは今日もなお、それがあまりにも美味そうに切ってあったと主張する)を置いたが、ただの一度も相手に食べさせたことはない。これは大昔からの、封建的な、いや、洞窟(どうくつ)的ですらある方法である! ただ社会主義社会において用いられたということだけが目新しいのである! これと同じような方法については他の多くの人びとも語っている。とても頻繁(ひんぱん)に行われたことだという。だが、ここでまたチェボタリョフの経験したことに話を戻そう。とにかくそれはすこぶる豊富な方法の組み合せだったから。彼は七十二時間も取調室に置かれて、許されたことといえばただひとつ便所へ連れ出してもらうことだけであった。ほかのことは、食べることも、飲むことも(すぐ隣りに水の入った水差しがあった)、眠ることも、すべて許されなかった。部屋には常に三人の取調官がいた。連中は三交替制だった。一人は絶えず(無言のまま、被告をわずらわすこともなく!)何かを書いていた。他の一人はソファの上で眠っていた。三人目は部屋のなかを行ったり来たりしながら、チェボタリョフがうとうとするたびに、殴りつけた。その後、連中は互いに任務を交替した(もしかすると、この連中も仕事の成績が上がらないために、このような兵営生活に追い込まれたのかもしれない)。そこへ突然チェボタリョフに昼食が運ばれてきた――脂肪の浮いたウクライナ風ボルシチ、いためたじゃがいも、美味そうなカツレツ、それに赤ブドウ酒入りのカット・グラスの水差し。だが、もともとアルコールの嫌いなチェボタリョフは、いくら取調官に強要されても(あまり無理じいするわけにもいかなかった。それではしかけたゲームがばれるから)ブドウ酒は飲まなかった。昼食後、彼は次のように言われた。「さあ、今度は二人の証人がいたところでお前が供述したものにサインしろ!」 つまり、それは一人の取調官が眠っていて、もう一人が歩きまわっていたときに黙々と作成されたものであった。最初のページに目を通しただけでチェボタリョフには、自分が著名な日本の将軍たちと緊密な関係にあって、彼らからスパイの任務を与えられていることを知った。そこで彼はそれらの文章を消していった。彼は殴られて、部屋から追い出された。ところが、彼といっしょに逮捕された東支鉄道職員ブラギーニンは同じ拷問にかけられたが、ブドウ酒を飲み、陶酔のなかでサインをし、銃殺されてしまった(三日間も飢えた人には少量の酒でもとてもきく! それが水差し一杯なのだから)。

 

 (28) 痕跡を残さないように殴りつけること

 ゴムの棒で殴ったり、棍棒(こんぼう)や小さなサンドバッグで殴ったりする。骨の上を、たとえば、骨がほとんど表面に出ている脛(すね)のあたりを取調官の長靴で蹴られると、非常に痛い。旅団長カルプニッチ=プラヴェンは二十一日間も続けて殴られた(「三十年過ぎた今もいろんな骨が痛み、頭痛もする」と彼は語っている)。自分の経験や他人の話から彼は殴打による五十二種類の拷問を数えあげた。たとえば、こんなやり方もある。掌が机の上に密着するように被告の両手を特別な装置で締めつけておき、定規の背で関節を殴りつける。思わず絶叫してしまう! 殴打のなかで歯を叩き折ることは特筆すべきことだろうか(カルプニッチは八本折られた)。誰でも知っているように、拳骨(げんこつ)でみぞおちを殴ると、息は一瞬とまるが、どんな小さな跡も残らない。戦後レフォルトヴォ監獄のシードロフ大佐は、男性の垂れ下がった突起物をオーバーシューズで勝手気ままに蹴りあげた(鼠蹊部(そけいぶ)をボールで打たれたことのあるサッカー選手なら、この一撃の苦しさがわかるだろう)。この痛みは比べようもなく、普通は気絶してしまう。

 

 (29) ノヴォロシイスクの内務人民委員部(エヌ・カー・ヴエー・デー)では爪(つめ)を締めつける機械を発明した。中継監獄ではノヴォロシイスクから来た囚人の多くの爪が剥がれていた

 

 (30) 緊衣は?

 

 (31) 脊柱の骨折は?(これもやはり例のハバロフスクの国家保安部、一九三三年)

 

 (32) 馬勒をかけることは?(《つばめ》の別名あり)

 これはスハノフカ監獄の方法だが、アルハンゲリスク監獄でも知られている(イフコフ取調官、一九四〇年)。腹這(はらば)いにさせたうえ、長い、ごわごわしたタオルを口にくわえさせ(馬勒(ばろく)をかけること)、その端を肩越しに引っ張り、持ち上げた踵に結びつける。こんな格好で、飲まず食わず、背中をずきずきさせながら、二昼夜も腹這いでいられるだろうか。

 

 これ以上列挙する必要があろうか? まだたくさん残っているだろうか? ぶらぶらしている、栄養たっぷりの、無情な連中には、発明できないこととてないのだ・・・・・・ わが兄弟よ! このような目にあって、心弱く余計なものに署名した者を責めてはいけない・・・・・・彼らに石を投げてはいけない。

 

 

3、「審理」環境、その他の拷問

 

 被告の孤独!――これもまた不正審理が成功する一つの要因である! この孤独な閉ざされた状態に、機関の全員が押し潰すように襲いかかるのだ。逮捕の瞬間から第一攻略期間のあいだ被告は理想的な孤独の状況に置かなければならない――監房でも、廊下でも、階段でも、取調室でも、彼は自分と同じような人に会ってはならないし、誰の笑いにも、誰の視線にも、同情や忠告や支持を見出させてはならない。機関は彼に未来を諦めさせ、現在を歪曲(わいきょく)するためにありとあらゆる手段を講ずる。たとえば、彼の友人や親類が逮捕されたと見せかける。物的証拠が見つかったような振舞いをする。彼やその身内の人を処罰する権限を実際より大きく思いこませたり、赦免の権限(そのようなものは機関にはまったくない)があるように見せかける。率直な《悔悟》を判決の軽減や収容所の待遇の緩和に結びつける(このような結びつきは最初から存在しなかった)。被告がショックで参ってしまい落ら着いて考える能力を失った短時間に、機関はできるだけ多くの取返しのつかない供述を手に入れ、さらになるべく多くの無実の人間を巻添えにしようとする(一部の人びとは供述書を声に出して読まないように哀願するほど参ってしまう。聞くだけでも耐えられないのだ。だから彼らは読まずにただサインするだけだ)。その時になってはじめて彼は独房から大きな監房へ移され、そこで彼は自分の間違いに気づくのだが、後悔してもすべては後の祭りである。

 

 この一対一の格闘においていったい誰が間違いを犯さずにすむであろうか? いったい誰が間違いを犯さないのだろうか?

 先ほど「理想的な孤独の状況に置かなければならない」と述べた。だが、監獄が超満員だった一九三七年(一九四五年もそうだったが)には、逮捕されたばかりの被告に理想的な孤独の原則を適用することはできなかった。ほとんど最初から被告は超満員の共同監房へ入れられた。

 

 しかし、そこには欠点を上まわる長所もあったのである。監房の超過密は狭い一人用《ボックス》の効果を兼ねるだけではなく、第一級の拷問にもなったからである。特に、それが貴重だったのは、何昼夜も何週間も連続で続けられたことと、取調官側としては何の骨折りもいらないことであった。つまり、囚人がほかならぬ囚人によって拷問されたのである! とにかく坐る場所がないほど、人が人の上を歩くほど、にっちもさっちも身動きできないほど、互いの足の上に坐らなければならないほど、一つの監房にたくさんの囚人が詰め込まれたのである。このようにしてキシニョフ拘留所(カー・ペー・ゼ−)では一九四五年に独房に十八人ずつ詰め込まれた。ルガンスクでは一九三七年に十五人ずつ、一九三八年イワーノフ=ラズームニクはブトゥイルキ監獄の二十五人用の標準監房に百四十人といっしょに入れられた(便所は超過密のために、用を足すのは散歩と同じく一昼夜に一度、時には夜間になることもあった)。また彼の計算によると、ルビャンカ監獄の臨時収容所《犬小屋》では何週間にもわたって床面積一平方メートルに三人も詰め込まれた(その面積で足りるか、考えてごらんなさい!)。《犬小屋》には窓も通風口もなかった。体温と吐く息で気温は四十〜四十五度(!)にもなった。皆はズボン下一枚で坐っていた(冬の衣服は尻の下に敷いて)、彼らの裸の体は圧縮されて、肌には他人の汗で湿疹(しっしん)ができた。こうして彼らは何週間も坐っていた。空気も水も与えられなかった(朝の薄い野菜汁(バランダー)と紅茶のほかには)。

 

 もし監房内の用便桶(バラーシャ)があらゆる種類の用を足すためであったら(あるいは逆に、シベリアの若干の監獄でのように、用足しから次の用足しまで房内に用便桶がなかったら)、もし一つの飯皿から四人が、互いの足の上にのって食べるのだったら、もし絶え間なく誰かを訊問に引き抜き、代りに誰かが殴られ、睡眠不足のあまり屈服した者をぶち込み、その屈服した者の外見が取調官のおどしよりもいっそう怖ろしいものだったら、何カ月も訊問に呼び出されない者には、どんな死であれどこの収容所であれ、このようなみじめな状態よりはまだしも楽なものに思われたであろう。――とすると、これは理論的に理想的な孤独の状況を立派につくりだしていたのではなかろうか? このように人がうようよいる中ではまさか誰かに自分の心を打ち明ける決心もつかないし、相談相手もなかなか見つからない。さらに、拷問や殴打の怖ろしさがわかるのは、取調官のおどしからではなく、それを身をもって体験した人びとがまざまざと見せてくれる時である。

 

 潅腸器(かんちようき)で塩水を咽喉(のど)に流し込まれ、一昼夜も渇(かわ)きで苦しむように《ボックス》に閉じ込められることを(カルプニッチの場合)被害者自身から知らされる。あるいは大根おろし器で背中を血みどろになるまでひっかかれ、その上にテレピン油をそそがれる(旅団長ルドリフ・ピンツォフはこの両方とも体験した。このほか針を爪の下へ刺され、腸がパンクする寸前まで水を飲まされて、革命記念日のパレードで戦車旅団を政府要人席に向けて進撃させるつもりだったという内容の供述書にサインするよう強要された)。脊柱を折られて、体が斜めに傾いてしまい、涙腺(るいせん)のコントロールのできなくなった全ソ対外文化連絡協会の前芸術部長アレクサンドロフから、いかにアバクーモフその人が(一九四八年に)殴打するかを知ることができる。

 

 ええ、そうですとも、国家保安相アバクーモフは自分でもこの汚れた仕事を嫌わなかったのだ(第一線のスヴォーロフ将軍気取りで!)。彼は時どきゴムの棒を手にとって、拷問することもためらわなかった。次官のリューミンはもう喜んで殴打を浴びせた。彼はそれをスハノフカ監獄の《将軍用》取調室で行なった。その取調室の周囲の壁にはクルミ材まがいの腰板が張られ、窓とドアには厚い絹のカーテンがさがり、床には大きなペルシアじゅうたんが敷かれていた。この豪華な美しさをそこなわないように、じゅうたんの上に鞭(むち)打たれる者のために汚ならしい細長い敷物が置かれたが、それには血痕(けっこん)が点々とついていた。殴打のときリューミンの助手をつとめるのは平の看守ではなく、大佐であった。「そうですか」と、太さ四センチもあるゴムの棒を撫()でながら、リューミンは慇懃(いんぎん)に声をかける。「あなたは不眠による試練を見事に耐え抜きましたな」(アレクサンダー・Dは一計を案じて一カ月も《眠らずに》いられた――立ったまま眠ったのである)「今度はこの棒を試してみましょうか。これで二、三回以上耐える人はいませんからな。ズボンをおろして、その敷物の上に横になって下さい」 大佐は鞭打たれる者の背中にまたがる。ADは鞭打たれる回数を数えようとしている。長期の飢餓のために臀部(でんぶ)が痩()せ細っているとき、坐骨神経をゴムの棒で鞭打たれることが、どんなものか彼にはまだわかっていないのだ。それは鞭打たれた所ではなくて、頭の中が割れそうな感じになる。一発くらうと、あまりの痛さに気も狂わんばかりで、思わず爪で敷物をひっかき、爪が折れてしまう。リューミンは狙いをさだめて鞭打ちつづける。大佐はADの胴を自分の体重で押えつけている――三つの大きな星をつけた肩章(大佐の肩章は三つの大きな星)にとって全能者リューミンの助手をつとめるのはそれこそうってつけの仕事だ!(鞭打たれた後は歩けないから、もちろん、抱えて運ぶのではなく、引きずっていくのだ。しばらくすると臀部は膨(ふく)れあがって、ズボンもはけなくなる。しかも外傷はほとんどない。ただ激しい下痢が始まり、ADは独房の用便桶に坐ったまま哄笑(こうしょう)した。彼にはさらに二回、三回と鞭打ちが行われた。尻の皮が裂けると、リューミンはいっそう荒れ狂って、今度は腹を鞭打ち始める。腹膜が裂けて、腸が大きいヘルニアのように飛び出してしまう。彼は腹膜炎としてブトゥイルキ病院に運ばれて、彼に対するこの卑劣な試みは一時的に中止された)

 

 このようにして誰でも拷問にかけられるかもしれないのだ! この後ではキシニョフの取調官ダニーロフが神父ヴィクトル・シポワリニコフの後頭部を火掻(ひか)き棒で殴ったり、長い髪をつかんで引っ張りまわしているのを見ても、父親の愛撫(あいぶ)ぐらいにしか見えない(神父をそんなふうに引っ張りまわすのはらくだ。俗世間の者だったら――顎ひげをつかんで、部屋の隅から他の隅へと引きずりまわす。シドネイ・レイリ逮捕に加わり、クロンシュタット反乱鎮圧の際は中隊長だったフィンランド人の赤衛兵リハルド・オホラは、交互に左右の長い口ひげをつかんで宙に持ち上げられて、足が床に届かないまま十分間ずつ宙吊りにされた)。

 

 しかし、最も怖ろしいのは次のやつだ――あなたの下半身を裸にして床に仰向けに寝かせ、両足をひろげさせて、その足の上に助手がまたがる(堂々たる軍曹連中)。あなたの手を押えたまま、取調官は(女性取調官の場合もそれをいやがらずにやる)あなたの拡げた足の間に入って自分の編上靴(女性だったら、自分のハイヒール)の先で、あなたをかつて男にしていたものを、少しずつゆっくり力を加えながら圧し潰していく。と同時に、あなたの目を凝視しながら何度も質問を繰り返し、何度も裏切りを促すのだ。たとえ相手が少々おくれて踏みつけたとしても、ものの十五秒もすれば、あなたはすべてを認め、前々から強要されていた無実の二十人を投獄させる用意のあることを、さらに自分にとってどんなに聖なるものでも新聞紙上で中傷してかまわないと大声でわめきだすことだろう・・・・・・

 そんなあなたを裁けるのは人間ではなく、神だけである・・・・・・

 

「逃げ道はないさ! 何もかも認めなければならないんだよ!」と、監房へ潜入した機関の手先はささやく。

「単純な計算だよ。とにかく健康を保たなくちゃ!」と醒()めた人は言う。

「歯だけはもう生えないからねえ」と、歯をやられた人はうなずく。

「認めようと認めまいと、いずれにしても刑を宣告されるさ」と、本質を見抜いた人は結論を出す。

「サインしない奴は――銃殺されるぞ!」と誰かが隅っこから予言する。「復讐(ふくしゅう)のために。どんな審理が行われたかという証拠を湮滅(いんめつ)するために」

「取調室で死んだら、文通が禁じられている収容所送りになったと親類には知らせる。わかりっこないさ」

 

 もしあなたが正統派の共産党員だったら、もうひとりの正統派共産党員が近づいてきて、事情を知らないほかの人が聞いていないかと敵意のこもった目つきでまわりを眺めてから、あなたの耳もとに熱心に言葉を投げ込む。

「われわれの義務はソビエト的審理を支持することだ。情勢は緊迫している。われわれ自身が悪いのだ。われわれがあまりにぐずぐずしていたために、わが国にはこんなにかびが発生してしまったのだ。今や秘(ひそ)かに激烈な戦いが行われているのだ。ほら、ここにもわれわれのまわりには敵がいる。連中の喋っていることが聞えるか? 党はわれわれ一人ひとりに、なぜ、どうしてとこまかく説明する義務はないはずだ。要求があれば、サインしなければならない」

 

 そこへもうひとりの正統派共産党員が秘かに近づく。「私は知人のすべて、三十五人に関する供述書にサインした。これは私の忠告だが、あなたもなるべく多く名前を書き出して、なるべく多くの人を監獄へ引っ張り込むといい! そうすれば、これはまったくナンセンスであることが判明して、全員が解放されるからね」

 

 ところが、これは機関の思うつぼなのである! 正統派の共産党員意識と内務人民委員部(エヌ・カー・ヴエー・デー)の目的は自然に一致した。内務人民委員部には、扇の要(かなめ)にいる一人から上へむかって末広がりに逮捕する形の、名前の拡大再生産こそが必要なのである。それは連中の仕事の質の評価になり、新しい投縄をかける的でもある。「もっと共犯者を! もっと共犯者を! もっと共犯者を!」と連中は執拗(しつよう)に要求された(R・ラーロフは自分の共犯者としてフランスの枢機卿(すうきけい)リシュリエの名をあげ、供述書にも記入された・・・・・・一九五六年の名誉回復訊問までは誰もそれを不思議に思わなかった)。

 

 

(宮地コメント)

 

 ソルジェニーツィンは、拷問され、殺された数千万人の側からの克明な記録を書き記しました。私のこのコメントでは、拷問した側を考察します。

 

 ソルジェニーツィンが分析・分類した上記の「科学的社会主義」式拷問は、レーニンの暴力依存型・憲法制定議会議席獲得率25%少数派による不法な独裁権力維持システムの絶対必要付随物でした。14の一党独裁国のどこでも類似の拷問が行われました。その拷問者たちは、全員が「民主主義的中央集権制」の上級決定への無条件服従原則に基づき、党中央粛清指令執行に最も忠実な前衛党員でした。

 

 14の一党独裁国前衛党システムにおいては、拷問による“自白”強要指令を拒否・逡巡した党員は、瞬時に被拷問者に転落します。ユダヤ人ホロコーストを遂行したアイヒマンは、裁判で『ホロコーストは、上部の指令を実務的に執行しただけで、殺人の責任はなく、私は無罪である。道義的責任だけは認めるが・・・』と証言しましたが、その主張は認められず死刑を執行されました。アイヒマンと、これらの拷問・銃殺・収容所送りを遂行した数百万人の前衛党員たちとの間に、人間道徳における質的相違があるのでしょうか。二〇世紀は、表面的な“戦争と革命の世紀”というにとどまらず、その内実の一つとして、数千万の粛清犠牲者の一方で、革命内部での自国民大量拷問・銃殺を遂行した数百万人の『前衛党員』拷問・殺人者たちを産み落としたのです。そのような『レーニン型前衛党』とは、一体何なのでしょうか。

 

 ソ連崩壊後の新資料によって、推計2000万人から5000万人粛清犠牲者のうち、拷問による死亡者が十数万人から数十万人幅で発生したとの研究も出されています。拷問によって一生の障害を負った者は、その十数倍から数十倍に上がるとされています。

 

 世界政党史上もっとも凄惨・残虐、かつ大規模な、これら“前衛党の拷問犯罪”件数が明らかになる時期がいつの日にか来るでしょうか。

 

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 (関連ファイル)

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚

    『ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン』3DCG11枚

    『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』3DCG9枚

    『ソルジェニーツィン「収容所群島」』第3章「審理」32種類の拷問

    『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリン記念運河建設での接点

 

    イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』 クロンシュタット綱領の検討

    P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』 クロンシュタット綱領の検討ほか

    中野徹三札幌学院大学教授『社会主義像の転回』 憲法制定議会と解散

    大藪龍介富山大学教授『国家と民主主義』 ネップ導入と政治の逆改革

    英文リンク集『ソ連の強制収容所』 ポスター、写真、論文など多数