ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件

 

レーニンが行った「前衛党犯罪」を告発 加筆改定版

 

(宮地作成・3DCG9枚宮地徹)

 

 ()これは、2005年10月、従前の文を加筆改定をしたものである。3Dとは、3次元(-Dimension)の意味で、立体を表す。まず絵の立体データ(3Dデータ)を作り、それをさまざまな角度から「撮影」して、光線の向き、その影のついた画像を作成する。3DCGについては、長男宮地徹HP『Grafic Worldの画像で、お分かりいただけるかと思う。

 

〔目次〕

   1、私(宮地)のたたかいとソルジェニーツィンとの関係

   2、ソルジェニーツィンのたたかい

   3、西側追放事件と批判キャンペーン

   4、レーニンが行った「前衛党犯罪」を告発

   5、「下水道創設者」レーニンに依拠したブレジネフらウソの政治を直撃

   6、レーニンによる無実のロシア革命勢力の大量殺害犯罪データ (1、2、)

   7、一党独裁システムを爆破する超大型爆弾のレーニン像なぎ倒し

 

(関連ファイル)                 健一MENUに戻る

     『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件−電子書籍版』

     ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章「わが下水道の歴史」

     ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問

     『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚 『電子書籍版』

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚 『電子書籍版』

     『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚 『電子書籍版』

     『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリン記念運河建設での接点

     英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数

 

     レーニンによる「無実のロシア革命勢力の大量殺害犯罪」データの根拠に関する詳細

     『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』数十万人殺人の根拠

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

     『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

     『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 1、(宮地)のたたかいとソルジェニーツィンとの関係

 (宮地)が、ソルジェニーツィン問題に深い共感を抱いたのは、それが日本共産党とたたかった私のテーマや時期と同じだったからである。私は、1963年以来、共産党の専従だった。そして、共産党名古屋中北地区常任委員・5つのブロック責任者(=現在は5つの地区委員長)をしてきた。そこは、名古屋中部北部の10行政区を範囲とし、愛知県党の半分の党勢力を占め、専従52人を抱える、巨大な共産党地区機関だった。

 

 専従活動の中で、1967年、愛知県「5月問題」第1次民主化運動と21日間の監禁査問を体験した。さらに、1969年、「指導改善」第2次民主化運動とそれを「清算主義」とした宮本顕治による逆転評価、逆転評価人事も味わった。「5月問題」とは、赤旗の極度に一面的な拡大運動と細胞破壊・幹部の健康破壊結果にたいし、地区常任委員・地区委員・細胞長ら数十人が、准中央委員・地区委員長への批判活動を地区党挙げて一カ月間展開したことである。

 

 ところが、県副委員長も兼任する准中央委員側は、以前から「喫茶店グループ」と呼ばれる地区委員長個人の私的分派を創っていた。批判活動が地区内の全細胞規模に広がる中で、批判活動仲間の常任委員一人が、地区委員長分派メンバーによる陰湿な説得工作を受けて、裏切り・密告をした。それによって、正当な批判活動が一転「規律違反の分派活動」と規定され、地区常任委員の私が「首謀者」と断定された。監禁査問とは、私一人だけを21日間も事務所内での監禁状態に置いたままで査問した事件である。准中央委員は、他の常任委員・地区委員たちを3、4日間で釈放した。

 

 共産党中央委員の県委員長を初め、十数人の県常任委員全員は、同じ事務所内における監禁査問を目にしつつも、県副委員長・准中央委員による不法監禁犯罪を批判せず、黙認していた。丁度その時期、1968年、「プラハの春」民主化運動と5カ国軍戦車による鎮圧に接し、私の個人的な体験と合わさって、レーニン型前衛党の体質に強烈な疑問を持つようになった。これが、私の日本共産党批判、レーニン批判の原体験になった。

 

 それは、いわゆる「ソルジェニーツィンのたたかい」が始まっている1967年時期と重なり、彼の作品をほとんど読んで、たたかい方にも、作品内容にも心から共鳴した。上記での私のたたかいの進行につれて、前衛党の粛清体質の歴史的暴露、一人で巨大国家権力・共産党とたたかうやり方に、私のたたかい方との多くの類似性を見出した。しかも、ソ連共産党が彼を政治的文学的に殺す手口と、日本共産党が私を「三重殺、四重殺」にする手口には、多くの共通点があった。

 

 文学的に殺す手口とは、西側追放で彼をロシアの大地から引き剥がすことである。それによって、その文学的創作環境・意欲を剥奪するというロシア人文学者へのもっとも残酷、苛烈な処刑スタイルのことである。パステルナークが、1958年、ノーベル賞を辞退したのは、授賞式に出たら、ソ連共産党による帰国拒絶報復で、その大地に帰れなくなることを怖れたからだった。私は、ソルジェニーツィンのたたかいと作品に鼓舞されつつ、HPに載せた『日本共産党との裁判』全8部過程を、たたかい続けた。

 

    『日本共産党との裁判』第1部 第1次民主化運動と21日間の監禁査問体験

    『日本共産党との裁判』第3部 第2次民主化運動と「清算主義」逆転評価

 

 

 2、ソルジェニーツィンのたたかい

 

 以下、ソルジェニーツィンの『収容所群島』西側出版問題と、それに至る彼のソ連国内でのたたかいを検討する。これは、1967年、ソルジェニーツィンがソ連作家大会へ「公開状」約250通発送したことによる「ソルジェニーツィンのたたかい」が始まった時点から、1973年12月、パリでの『収容所群島第1巻第1、2部』刊行までの7年間の期間のことである。

 粛清経過と作品出版 彼は、1973年12月、パリで『収容所群島第1巻第1、2部』を刊行した。これは、ソ連共産党が彼にたいして行った政治的殺人攻撃への正当防衛反撃だった。そこに至る経過には何があったのか。彼は、1945年、27歳、砲兵大尉のとき、友人宛の書簡のなかで、直接の名前を挙げないがスターリンを批判したと判定されるような文言を書いた。それが、すべての郵便物を事前開封・検閲せよという一党独裁型社会主義国家システムにひっかかった。裁判所は、当時広く用いられていた欠席裁判方法で、特別審理決定により、彼にラーゲリ懲役8年の刑を宣告した。ソ連国家=ソ連共産党は、砲兵大尉を、独ソ戦の戦場において即刻逮捕し、矯正労働収容所に直送した。

 一通の手紙におけるスターリンの名前を書かない批判ほのめかし文言だけで、8年の刑である。その刑期が過ぎても、国家・共産党は、彼を釈放せずに、南カザフスタンへ永久流刑に処した。1953年、スターリンが死去した。1956年、第20回ソ連共産党大会でのフルシチョフによるスターリン批判後、ようやく追放を解かれた。この10年間に及ぶ強制収容所・流刑体験から、彼は『イワン・デニーソヴィチの一日』『煉獄のなかで』『ガン病棟』を書いた。そして、1961年、第22回大会でも再びスターリン批判が出される状況のなかで、1962年に『イワン・デニーソヴィチの一日』がノーヴィ・ミール誌に掲載され、世界的な話題となった。その後、いくつかの短編はソ連国内で出版された。

『イワン・デニーソヴィチの一日』 モルタルをペタン! ブロックをペタン!

ぐっと一押しして、まっすぐかどうか、確かめる。モルタル。ブロック。モル

タル。ブロック……たしか、班長も命令していたはずだ――モルタルなん

かけちけちしないで、さっさと壁のそとへうっちゃって、引揚げてこい、と。

シューホフは馬鹿っ正直というのか、そうはできなかった。八年のラーゲル

暮しでも、ところが、この性格ばかりはなおらなかった。たとえそれがどんな

小さな物でも仕事でも、みすみす無駄になるのは見るにしのびないのだ。

モルタル!ブロック!モルタル!ブロック!「畜生っ、やっと終ったか!」と

センカが叫んだ。「さあ、いこう!」モッコをかつぐと、タラップをおりていった。

 

こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、三千六百五十三日

あった。閏年のために、三日のおまけがついたのだ……

 非スターリン化の「性急な後退」 しかし、この間、一方では、彼の言葉によれば、非スターリン化の波の「性急な後退」が起きた。1956年末のポーランドでの暴動事件、ハンガリー動乱を経て、思想引き締めの動きが強まり、1964年にフルシチョフが解任される。それらの動きと平行して、ソ連共産党による彼への攻撃が強化された。ソ連共産党は、彼の作品公刊に中止圧力をかけ、『煉獄のなかで』の国内出版も延期した。1965年、国家保安委員会がその草稿を没収した。各文芸誌も『ガン病棟』掲載を拒否した。

『煉獄のなかで』 特殊収容所における、盗聴のための「声紋法」開発研究

ネルジンもこの新しい仕事にひっぱりこまねばなるまい。相談相手なしでどう

して仕事ができようか?……この課題はきわめて面倒なものになるだろう。

音声に関する研究はたったいまはじまったばかりのところだ。はじめての分類

はじめての用語。学問的研究の情熱が彼の中に燃えあがりはじめた。声の

特徴から犯人をさがしだす――これはまったく新しい方法だ。これまで指紋

で犯人を見つけるという方法があった。指紋法といわれるものだ。この方法

は何世紀もかかってつくりあげられてきたのだ。新しい方法は「声紋法」と

でも呼んだらいいだろう。しかも数日でこの方法を完成させねばならない。

 

 ソ連共産党は、彼の文学作品をソ連ジャーナリズムから完全に締め出した。これらの動きは、『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』で書いたように、1920、30年代にソ連文壇が、ザミャーチンを完全に排斥し、その作品を抹殺した状況に酷似している。ザミャーチンは、ゴーリキーの仲介でスターリンに手紙を書いて、自ら西側に出国した。それにたいし、ソルジェニーツィンは、あくまでソ連国内でたたかう道を選んだ。

 250通の「公開状」 1967年、49歳のとき、ソルジェニーツィンは、彼への締め出し攻撃にたいして、ソ連作家大会宛に約250通の「公開状」を発送した。ここから、いわゆる「ソルジェニーツィンのたたかい」が始まる。それは、一人で、国家、ソ連共産党、ソ連作家同盟にたいする『仔牛が樫の木に角突く』たたかいだった。80人の作家たちが、連名で「公開状」の審議を要求する行動に出た。

「公開状」で要求した内容 「あらゆる検閲の廃止、中傷ならびに

迫害にさらされた作家同盟会員に抗弁の保証が与えられること」

 

 除名 一方、翌年の1968年には、5カ国軍戦車がチェコに侵入し、「プラハの春」民主化運動を鎮圧した。そして、ソ連共産党と作家同盟は、ソルジェニーツィン批判をいっせいに始め、同年作家同盟は彼を除名した。他方、1970年、ノーベル文学賞が彼に決定した。国内では、サハロフ、ロイ・メドヴェージェフらが党指導部へ民主化要求を提出した。世界的に有名なチェリストのロストロポーヴィチもソルジェニーツィン問題での「公開状」を発表し、彼に自分の別荘を提供し、援助した。

 

 反体制派大弾圧 ソ連共産党は、反ソルジェニーツィン、反サハロフのキャンペーンを始めるとともに、彼らに大弾圧を加えた。当局は、(1)、まず、ロストロポーヴィチの海外演奏旅行半年間禁止措置で報復した。(2)、1972年には反体制系「時事日誌」グループを逮捕した。(3)、1973年、KGBがサハロフを査問した。(4)、以前に精神病院に強制隔離した反体制派遺伝学者ジョレス・メドヴェージェフの市民権を剥奪した。(5)、さらには、反体制派歴史学者ヤキールとクラーシンを裁判にかけ、審理10日間だけで、2人に禁固3年・流刑3年の判決を下した。

 

 『収容所群島』草稿押収 共産党、マスコミが一体となって、ソルジェニーツィン批判キャンペーンを大展開するなかで、1973年9月、ソ連国家保安委員会は、彼の友人ヴォロニャンスカヤ女史が『収容所群島』草稿を保管していることを探り出した。そして、彼女を5昼夜連続で取調べ、保管を自白させ、その草稿を押収した。帰宅後、彼女は縊死した。実は、彼女が保管していた草稿とは別に、最終草稿は安全のためにソルジェニーツィンがパリに移送していた。彼は、彼女に保管は危険だから焼却するように頼んでいた。しかし、女史は、万一最終草稿が押収された場合を心配して、彼には黙って保管していたのである。『収容所群島』草稿は、無数の人々の手で、命を懸けて守られてきた。

 『収容所群島』パリ刊行とその「まえがき・献辞」 「まえがき」で、彼は「私は胸に何か重苦しいものを感じながら、数年の間、すでに完成したこの書物の出版を思いとどまってきた。それはまだ生きている人たちに対する義務のほうが、死んでしまった人たちに対する義務よりも重かったからである。しかし、いずれにしても国家保安委員会がこの書物を押収してしまった今となっては、ただちにこの本の出版にふみきるほかに残された道はないのである。一九七三年九月 A・ソルジェニーツイン」と記した。表とびらに下記の「献辞」がある。総計227人が『群島』の物語や回想や手紙の形で、この書物の資料となるものを提供してくれていた。「まだ生きている人たちに対する義務」とは、そこで実名を使った人たちを、出版から起る当局の弾圧から守るソルジェニーツィン側の守秘義務という意味である。

『収容所群島・献辞』『いのち足らずして/ この真理を語れざりし/

すべての人びとに――/ わが見聞のいたらざるを/ わが記憶

のいたらざるを/ わが洞察のいたらざるを/ 赦されんことを』

 

 共産党の粛清体質と非人間的偽善性 彼の『収容所群島』国外出版の決断とその行為が誤りだとする人は、ソ連共産党以外では、世界でも、日本でも一人もいなかった。異論・批判を持つ一人の人間にたいして、国家・党の全権力あげて、市民的権利を侵害し、報復し、弾圧キャンペーンをするこのやり方ほど、共産党という政党の反民主主義的本質を全世界にさらけ出した事件はないであろう。公平・正義・平等な社会主義国家を建前として掲げる共産党の裏側にある粛清体質と非人間的偽善性を、これほど白日の下にさらしたという点では、20世紀の十大事件の一つにランクされるべき出版事件と言える。

 

 

 3、西側追放事件と批判キャンペーン

 

 召喚・逮捕・西ドイツ追放 1974年2月、ソ連最高会議幹部会は、ソルジェニーツィンを召喚した。それを拒否されると、彼を直ちに逮捕し、ソ連市民権を剥奪し、そして空路、西ドイツに追放した。その前、1月に、作家同盟は、ソルジェニーツィン支持を表明していたリジア・チュコフスカヤ女史を除名した。ソ連共産党は、プラウダ紙上に「裏切りへの道」と題する『収容所群島』攻撃の大論文を載せた。その一節には、「『収容所群島』は明らかに、ソ連についての、およそ可能な限りの捏造によって、善意の人々を混乱させ、あざむくために書かれたものである」とある。タス通信は彼を「祖国の裏切り者」と呼んだ。

 

 一国挙げての、一作家抹殺・批判大キャンペーン それ以後現れた、おびただしい数の批判論文、プレス・キャンペーンは、ソ連共産党、国家、新聞・出版社、KGBが一体化した、完璧な情報統制社会が行うものだった。一国挙げて、一人の作家を抹殺しようとする大キャンペーンだった。ソ連作家同盟を除名されたリジア・チュコフスカヤ女史は、このキャンペーンにたいして、次のようにのべた。「私は、1973年に、ソルジェニーツィンの『収容所群島』が世に出たことは、巨大な事件であると考えている。その計り知られざる今後の影響力を考えるならば、それはまさに1953年の事件、つまりスターリンの死とのみ比較できるものである。わが国では、ソルジェニーツィンが裏切り者と呼ばれている。確かに、彼は裏切っている。だが、それは、彼がそのために誠実にたたかった祖国でもなければ、おのれの創作によって栄光をもたらした祖国の人民でもなく、ほかならぬ収容所管理本部(グラーグ)そのものを裏切ったのである」。一般の人々も、彼の逮捕、国外追放を聞いて、ひそかに国外から持ち込まれた『収容所群島』を争って、読み始めた。ほとんどのソ連市民が『群島』の住民たちと、なんらかの形で繋がりを持っており、身につまされて、読み回しをした。

 

 ブレジネフの衝撃度 ところで、ブレジネフやソ連共産党政治局が、『収容所群島』パリ刊行で、なぜ緊急事態として、彼を即座に逮捕、国外追放したのかという疑問が生ずる。1962年の『イワン・デニーソヴィチの一日』国内発行以来すでに11年以上経っているからである。それまでの短編、中篇、長編はすべて小説か戯曲形式だった。しかし、今度は、数千万人が逮捕、拷問、銃殺、強制収容所送りされた事実についての歴史ドキュメントだった。ソ連国家保安委員会が押収した『収容所群島』草稿分量は、トルストイの『戦争と平和』を超えるものだった。問題は、その内容と衝撃度である。

 

 ソルジェニーツィンは、押収後の事情について、次のように語っている。「国家保安委員会の連中は、(押収作品を)読み始めたとき、その内容にがくぜんとして、恐怖に震撼したにちがいない」。彼は、安全のために、国外にもう一つの最終草稿を持ち出していた。なぜなら、以前にも、国家保安委員会により自宅の家宅捜査を受け、『煉獄のなかで』などの草稿を押収された体験があり、ソ連国内では草稿保管の安全な場所がなくなったからである。彼が国外出版を決断してから3週間後、国家保安委員会は、彼の前夫人レシェトフスカヤを通じて、「もし『収容所群島』を今後20年間出版しないと公に声明してくれるならば、今直ちに『ガン病棟』を国内で出版する」との取引を申し込んできた。この一事を見ても、ソ連共産党政治局がいかにこのドキュメント内容に衝撃を受けたかが分かる。

 

 

 4、レーニンが行った「前衛党犯罪」を告発

 

 2つの衝撃内容 ソ連共産党政治局が、なぜそれほどの衝撃を受けたのか。それには、2点がある。

 

 第一、それが『群島』全体の歴史ドキュメントだったからである。これは、11年間に国内外で出版されてきた彼の中・短編や2つの長編の小説形式とは異なっていた。その内容として、強制収容所システムの全体像をあらゆる角度から分析し、226人の証言に基づき、すべて年月・実名を用いていた。これは、スターリン体制の裏側社会を体系的に暴露したものであり、ソ連の本質が労働者・農民の楽園とは正反対のついに実現した革命逆ユートピア社会であることを白日の下にさらした。しかも、『群島』創設・維持・拡大の詳細な描写を通じて、ソ連が数千万人という囚人の奴隷労働を必要とする社会システムであったことを、「文学的考察」表現を使って、読み易い形で書かれていた。

 

 この点については、加藤哲郎一橋大学教授の『ソ連は「奴隷包摂社会」でなかったか』論文が刺激的な問題提起をしている。このドキュメント以前に、ソ連国内で、ギンズブルグやブハーリン夫人など個人的な強制収容所体験記はあった。しかし、これほど克明な群島全史を書いたのは、ソルジェニーツィンが初めてだった。ソ連共産党政治局は、ポーランド暴動、ハンガリー革命、プラハの春などを鎮圧した。そして、ブレジネフ・ドクトリン「制限主権論」を振りかざして、東欧への締め付けを強化しつつあった。国内でもフルシチョフを解任に追い込んだ上で、「雪どけ」をストップし、新たなスターリン化を性急に進めようとしていた。その時点の彼らにとって、ソルジェニーツィンの国内での言動と国内存在自体が、体制そのものを崩壊に導く爆弾のように映ったのである。

 

    加藤哲郎『ソ連は「奴隷包摂社会」でなかったか?』

 

『収容所群島』地図 1953年2月27日時点、黒丸は強制収容所

 

 第二、これは、もっと大きな爆発効果のあるレーニン批判を含んでいたからである。彼は、第1部第2章『わが下水道の歴史』でも「1918〜1956文学的考察」をした。そこで、彼は、レーニンが1918年から生存・活動中の1922年末にかけて行った粛清行為を詳細に記述した。

 

 (1)、レーニンが自ら積極的に秘密政治警察チェーカーを、1917年12月、権力奪取直後から創設し、粛清を大々的に展開したこと。レーニンこそが、チェーカー→スターリンのNKVD→ブレジネフのKGBという一貫した秘密政治警察国家システムの流れを創ったこと。

 

 (2)、チェーカーに、裁判によらない、逮捕・銃殺の無制約の権限を与えたこと。それは、「かつぎ屋」の取締りだけでなく、次第に、レーニン・ボリシェヴィキの誤りにたいするロシア革命勢力内の正当な批判者、抵抗者の逮捕・銃殺に発展したこと。

 

 (3)強制収容所の創設者であったこと。レーニンこそが、無実のロシア革命勢力を秘密政治警察によって、大量銃殺・虐殺・強制収容所送りを開始した張本人だったこと。

 

 (4)「反革命」「人民の敵」レッテルを、レーニンの誤った路線を批判するロシア革命勢力へも拡大適用し、それへの銃殺・強制収容所送りを提案したこと。全員が共産党員であるレーニン・ジェルジンスキーのチェキスト(チェーカー要員)、スターリンのNKVD要員らは、逮捕したロシア革命勢力数十万〜数千万を、共産党が創作した31種類もの拷問で無実の罪を自白させたこと。

 

 (5)「農民に土地を」公約を実質的に裏切り、穀物調達令というボリシェヴィキ政権による食糧独裁令を強行したこと。80%・9000万農民は、「十月革命」以前の3月頃からロシア全土で農民革命に決起していたロシア革命勢力だった。それに反撥・抵抗する農民数十万人を銃殺・虐殺したこと。

 

 (6)、ソヴェト内4大社会主義政党のエスエル、左翼エスエル、メンシェヴィキ、ボリシェヴィキのうちで、10月にレーニン、ボリシェヴィキが抜け駆けクーデター的単独武装蜂起・単独権力奪取でボリシェヴィキ一党政権を作ったこと。

 

 (7)、さらに翌年1月憲法制定議会選挙で25%議席しかとれなかったレーニンらが、憲法制定議会をクーデター的に武力解散させたこと。それにより、「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンの裏側で、「すべての権力をボリシェヴィキ党へ」とする一党独裁狙いの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの仕上げを成功させたこと。

 

 (8)、それらを批判、抵抗した他党派に「反革命」「武装反革命」レッテルを貼ったこと。

 

 (9)、レーニンは、そのレッテルで、他3大社会主義政党をソヴェトから排除、粛清しつくし、自己の生存中に自分の手で一党独裁権力を完成させたこと、などの歴史的真実を暴露した。

 ただし、「レーニン秘密資料」6000点やレーニンによる数十万人殺人犯罪の数字的データが発掘・公表されたのは、1991年ソ連崩壊後である。『収容所群島』を執筆していた時、ソルジェニーツィンは、下記のレーニン手書きによる「農民の絞首刑指令」証拠とソ連全土における実行事実などをまだ知るよしもなかった。しかし、崩壊後に発掘・公表された資料・データは、ソルジェニーツィンによるレーニン批判内容が正しかったことを証明した。

1918年8月18日、レーニンによる「暴動」農民の絞首刑指

 

 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年、P.307)のデータである。彼の直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」である。それは、レーニンの手書きの手紙だった。同一指令内容が、梶川伸一『飢餓の革命』(P.547)にもあり、その正確な日付は8月11日である。ただ、岩上著の日付のままにした。

 

 「ロシア連邦ソビエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン

 一九一八年八月十八日

 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ

 同志諸君!

 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。

 二、彼らの名前をすべて発表すること。

 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。          あなたのレーニンより

 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。」

 

 レーニンは、「反乱」農民にたいする絞首刑指令をペンザ市に出した。しかし、それだけでなく、1918年から1921年にかけて、ソ連全土で、チェーカーと赤軍による「赤色テロル」として遂行させた。レーニンは、根本的に誤った食糧独裁令に抵抗・反乱した農民たちに、「富農(クラーク)の暴動」という虚偽のレッテルを貼り付けて、数十万人を殺害した。

 

 レーニンとスターリンとの連続性・非連続性問題 その上で、スターリンは、レーニンが作ってくれた一党独裁権力と粛清システムをそのまま継承したこと、群島維持・拡大の点ではレーニンの偉大な教えを忠実に守っただけであることを、無数の事例証言で論証した。レーニンとスターリンとの連続性と非連続性の問題は、ロシア革命研究における重要なテーマの一つである。この群島ドキュメントは、粛清・強制収容所問題=下水道の創設・維持問題に関して、2人の連続性、継承性が基本であるとした。しかし、2人の非連続性にも当然触れている。

 

 レーニンは、ボリシェヴィキ以外のソヴェト内3大社会主義政党とその党員百数十万人によるレーニン批判・抵抗に「反革命」という、ねつ造レッテルを貼りつけた。さらに、彼らを銃殺・国外追放・強制収容所送りにした。しかし、彼はボリシェヴィキ党員を銃殺しなかった。しかし1921年、レーニンは、クロンシュタット反乱=水兵の平和的要請行動に参加した離党した党員・現役党員千数百人を銃殺・溺殺などで皆殺しにした。もっとも、ソルジェニーツィンはソ連崩壊前でデータがなく、レーニンによる共産党員虐殺という歴史的真実・実態を知らなかったが。

 

 スターリンは、粛清規模において、レーニン型粛清を数百倍に広げた。粛清範囲では、ソルジェニーツィンが著書で「今度は粛清者が粛清される側になった」と言っているように、100万人もの現役共産党員を逮捕した。OGPU、NKVD所属共産党員は逮捕した共産党員を32種類の拷問にかけ、銃殺または強制収容所送りにした。除名されていた元共産党員100万人も銃殺した。現元合わせて200万人の共産党員を殺害した。一方、囚人製造目標を各県組織に指令した。それによって、千数百万人の囚人=ただ働きの奴隷労働者による収容所産業をソ連全土で興した。日本人捕虜60万人も奴隷労働の一部として使い、シベリアにおける極寒作業で6万人を死亡させた。

 

 

 5、「下水道創設者」レーニンに依拠したブレジネフらウソの政治を直撃

 

 虚像レーニンに依拠したウソの政治 ブレジネフらソ連共産党政治局にとって、フルシチョフが第20、第22回大会においてスターリン批判をしたため、スターリン主義システムの復活強化をもくろむにしても、スターリンの教義、功績に表向きは依拠できない。よって、スターリンがレーニン神格化手法で自らの個人独裁を強化したように、それを上回るレーニン讃美をし、レーニン理論・レーニンのしたことすべてが正しかったとして、虚像レーニンに依拠したウソの政治を続けるしか道はありえなかった。現在日本で、不破哲三議長が、さかんに時代錯誤的な「レーニン讃美論」を十数冊も書いているやり方と同じである。それにたいして、『わが下水道の歴史』のレーニン批判記述部分は、それまでに国内では一度も書かれなかったレベルのもので、衝撃的内容を持っていた。

 

 ロイ・メドヴェージェフは、この6年前の1968年、『共産主義とは何か、スターリン主義の起源と帰結』というスターリン批判の画期的なレベルの大著を書いた。日本では、1973年、石堂清倫訳(三一書房)で出版されたが、ソ連国内では正規の出版はできず、サムイズダート(地下出版)のタイプコピーでひそかに、しかし広く読まれていた。スターリン批判内容については、驚くべき豊富な原資料に基づき分析した歴史研究書で、スターリン批判に関する最高の原典である。しかし、それはまだレーニン批判を含んでいなかった。ここで彼は、レーニンのしたことを基本的に正しかったとする点で、ソルジェニーツィンとはかなり異なっている。それにたいして、『わが下水道の歴史』は、下水道の創設者をレーニンと規定し、その粛清史、群島史における犯罪的役割では、レーニンとスターリンを同列視した内容になっていた。もっとも、ソ連崩壊後、メドヴェージェフは、「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)を発掘・研究し、レーニン批判内容の面で、ソルジェニーツィンとほぼ同じレベルに立つ著書2冊を出版した。

 

 粛清指令者レーニンの証拠 ロイ・メドヴェージェフは、新著『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)で、レーニンの粛清をいくつも書いている。その研究によれば、1917年の二月革命と十月革命の間の7月には、メンシェヴィキ党員約20万人、エスエル党員約100万人がいた。ただ、2党とも、その後党勢は下降し始め、エスエルから左翼エスエルが分裂した。レーニンは、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエルのソヴェト内社会主義3党にたいし、様々な口実で党活動の禁止に追いこみ、労働者・農民・兵士ソヴェトから排除し、そのリーダーたちを逮捕し、デッチ上げに基づく裁判にかけた。その多くを10年の禁固刑にした。

 

 1922年、レーニンは、多数の人文系学者を追放することを承認し、その大規模な追放措置は「作戦」というコード名で呼ばれた。ジェルジンスキー宛のレーニン「指令」メモの一つには次のように書かれていた。「ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。積極的な反ソヴェト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。『思想』と『家族共同体』の論集参加者のチェックをする。草々  F・ジェルジンスキー」(P.135)。

 メドヴェージェフは、他にも、粛清指令者レーニンの証拠を挙げている。彼は、ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)に基づいて、崩壊前におけるソルジェニーツィンのレーニン批判内容の正しさを裏付けた。

 

 「下水道の創設者」は誰か レーニンは、根本的に誤った机上の空論「市場経済廃絶・貨幣経済も廃絶」路線を強行した。その具体化としての食糧独裁令に抵抗・反乱した無実の自国民すべてを「人民の敵」として殺害した。「人民の敵」という用語を最初に使ったのは、スターリンと思われてきた。しかし、「人民の敵」という言葉をソ連の法律に明記させたのは、レーニンだった。ラーゲリ24年間のフランス人ジャック・ロッシは『ラーゲリ・強制収容所注解事典』(恵雅堂出版、1996年、P.86)において、それを証明した。

 

 「人民の敵」という言葉は、フランス革命において、ジャコバン党が初めて使った。レーニンは、1917年12月20日に設立された「反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会」(チェーカー)の設立決定(3)において、「人民の敵のリスト公表などが講じられる」とした。このレッテルは、スターリンからではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半後から、正式に使い始めたのが歴史の真実である。ジャック・ロッシは、さらに、このレッテルの使用経過をのべている。「1918年《食糧国家調達》に関する全露中央執行委員会布告は、強情な農民を《人民の敵と宣言して…刑期10年以上の監獄刑が宣告されるよう》提議している(ロシア連邦共和国法律集35:468第3条)。1922年に制定された刑法典およびそれに続く法典には《人民の敵》という用語は引用されず使用されなくなった。しかし、1927年にスターリンはこれを復活させた。彼は、トロツキーに対し、また、本物またはでっち上げのすべてのトロツキストたち、および自己の独裁の敵に対して適用した。エジョフ大量逮捕時代に、遂に《人民の敵》は公式的な法律用語となった」。

 

 「人民の敵は殺せ」指令・執行は、マルクスの「プロレタリア独裁」理論が行きつく必然的結末だった。レーニンは、その理論を「一党独裁権力には、反革命分子=人民の敵の生存権を剥奪する(=殺す)ことが許されている」という思想に高めた。1918年〜21年、反乱農民数十万人、ストライキ労働者数万人、反乱兵士・労働者1万4千人を銃殺・殺害・強制収容所送りにした。1922年、聖職者数万人を銃殺し、信徒数万人を殺害した。1922年、知識人数万人を国外追放・強制収容所送りにした。ソルジェニーツィンは、それらの数値データが未発掘の段階において、『群島』の実体験証言に基づき、レーニンこそが「下水道の創設者」だと断定した。

 

 

 6レーニンによる無実のロシア革命勢力の大量殺害犯罪データ

 

 レーニンによる無実の自国民大量殺害犯罪データの根拠については、下記7つのHPファイルに書いた。これらソ連崩壊後に発掘・公表されたデータは、ソルジェニーツィンが告発したレーニンの大量殺人犯罪を具体的に論証し、数字的に裏付けた。たしかに、『収容所群島』6部作内容の大部分は、スターリンの4000万人粛清犯罪の証言と告発である。しかし、彼は、スターリン批判を突き抜けて、そこからさらに、スターリン犯罪の根源であるレーニンの犯罪告発という歴史観に到達した。

 

     『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』数十万人殺人の根拠

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

     『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

     『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image004.jpg

「レーニンの犯罪」 彼は、正統派マルクス主義者であった。彼は、根本的

に誤った机上の空論「市場・貨幣経済廃絶」路線を強行した。それに抵抗

し、反乱した無実のロシア革命勢力すべてを「人民の敵」として殺害した。

 

 レーニン・政治局が、抵抗・反乱・異端の自国民を「殺した」テロルの手口は、3種類あり、それぞれをさらに細分化する。レーニンが「殺した」自国民の推計と合わせて、2つの()にする。この(表)は、『赤色テロル』ファイルにも載せた。

 

(表1) 自国民を「殺した」テロルの手口

性質

細目

 

肉体的殺人

絞首刑、裁判なしの射殺、逮捕時点の拷問死、革命裁判所による48時間以内の銃殺刑、反乱の武力鎮圧時の殺戮、毒ガスによる殺戮、

強制収容所移送中の殺害、強制収容所内での拷問死・銃殺、強制労働死

「緑の銃殺」(伐採作業の疲労による意図的殺人)、「乾いた銃殺」(殺人的作業による殺人)

 

政治的殺人

抵抗農民の大量人質、「反乱」した農民・労働者・兵士の強制収容所送り、コサック農民の強制移住、左派エスエル・エスエル・メンシェビキ党員のほぼ全員の逮捕・投獄

「反ソヴェト」知識人の国外追放または辺地流刑

 

飢餓の殺人

「軍事=割当徴発」結果としての飢饉死亡者500万人。3大農民「反乱」地方や、戦争状態になった36県の、または118件、数百件の「反乱」郷・村にたいする報復的な穀物・家畜の完全没収による意図的な「飢餓発生殺人」。マフノ農民軍「反乱」で、赤軍側が数万人の死者を出したことへの報復措置とウクライナ100万人餓死との直接的関係()

 

(表2) レーニンが「殺した」自国民の推計

階級階層

時期

レッテル

人数

(1)「反乱」農民

()脱走兵・徴兵逃れ

()コサック身分農民

()ストライキ労働者

()ペトログラード労働者

()クロンシュタット水兵と住民

()聖職者・信徒

()「反ソヴェト」知識人

()カデット、エスエル、左派エスエル、メンシェヴィキ、アナキスト

1918521.6

1918夏〜21末

1919.1〜

191820

1921.2

1921.3

1922.2〜

1922.6〜

1918〜22

クラーク反乱

犯罪、腰抜け

白衛軍加担

反革命ストライキ

反革命ストライキ

白衛軍、反革命の豚

黒百人組

反ソヴェト

反革命、武装反革命

数十万人

数十万人

3050万人

15379

500

55000

各々数万人

数万人

(数十万人)

(10)亡命者

(11)内戦犠牲者

(12)飢饉死亡者

191722

1918夏〜2011

1921〜22

200万人)

700万人)

500万人)

(13)総計(最低で見た数字)

数十万人

(+250万人)

 

 この人数は、肉体的殺人と政治的殺人とを合計したものである。これら数字データの具体的な根拠と出典は、7つのファイルそれぞれに載せてある。レーニンの大量殺人犯罪数値を単純合計すれば、百万人を超える。しかし、まだ証拠数字が確定されていないものも多いので、最低で数十万人とした。7つのファイル中、総合データは下記にまとめた。

 

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 

 7、一党独裁システムを爆破する超大型爆弾のレーニン像なぎ倒し

 

 一党独裁システムを爆破する超大型爆弾 レーニン批判を明確に打ち出した『収容所群島』は、過去の粛清史、群島史のレベルにとどまらなかった。それは、ブレジネフらのよって立つレーニン主義基盤の現在の土台を根底から揺るがした。そして、推計で最低2000万人から最高5000万人を粛清した前衛党犯罪にもかかわらず、なお続いている、前衛党による一党独裁システムそのものを爆破する超大型爆弾となった。

 

 彼らは、前衛党式危機管理マニュアルに従って、直ちに爆弾の除去作業(=草稿の押収)に入った。しかし、もう一個のパリに仕掛けられたものが炸裂し、その破片はチェルノブイリの灰とは逆に、西側からの風に乗って、ソ連国内に飛び散り始めた。彼らは、爆弾製造犯を緊急逮捕し、市民権を剥奪し、空路西ドイツへ追放した。なぜなら、ソルジェニーツィンは有名すぎて、レーニンのチェーカー、スターリンのNKVDのように、ひそかに暗殺するわけにもいかなかったからである。ただ、彼は、逮捕前に、「暗殺される危険性大」とする覚悟の発言を記者会見でしているから、その可能性もあった。

 

 パリでの炸裂とレーニン像なぎ倒し 追放された爆弾製造犯は、『収容所群島』のなかで、次のように言っている。「もし真実の最初のごく小さな一滴が、心理的な爆弾となって炸裂したのだとしたら、<真実>が瀑布(ばくふ)となって襲いかかるとき、わが国にはいったい何が起るだろうか。いや、それは襲いかかるにちがいない。今はもうそれは避けられないことなのだから」。1973年12月、パリで炸裂したソルジェニーツィンの内部貫通式爆弾は、ソ連の国民だけでなく、共産党政治局内部での出世階段システムにも影響を与え、ゴルバチョフとその新思考を生み出した。さらに、その18年後の1991年、ソヴェト連邦社会主義共和国そのものを崩壊させ、数万体のレーニン像をなぎ倒す要因の一つともなった。

 ソルジェニーツィンの作品 西側追放後、彼は、『嘘によらず生きよ』で、当時のソ連が「嘘」によって成り立っている社会と規定した。『クレムリンへの手紙』では、イデオロギーで一面的に拘束された国家と規定し、イデオロギーの呪縛から解き放たれたロシア復活を唱えた。後者におけるロシア正教復活国家という内容には、サハロフやロイ・メドヴェージェフが批判しているように、私も同意しかねる部分がある。しかし、それによって『収容所群島』の歴史的価値が下がるものではない。ただ、私の好みという面からは、私は『イワン・デニーソヴィチの一日』や『マトリョーナの家』などの中・短編が好きである。なぜなら、そこに登場するイワン・デニーソヴィチ・シューホフやマトリョーナの人物像は、トルストイ『戦争と平和』の農民像や、ドストエフスキー『地下室の手記』の小官吏といった典型的なロシア人像と共通性をもち、ロシアの大地から切り離しがたく生まれ出た、ロシア文学の伝統の延長線上にある、愛すべき群像たちだからである。

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(関連ファイル)

     『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件−電子書籍版』

     ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章「わが下水道の歴史」

     ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問

     『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚 『電子書籍版』

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚 『電子書籍版』

     『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚 『電子書籍版』

     『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリン記念運河建設での接点

     英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数

 

     レーニンによる「無実のロシア革命勢力の大量殺害犯罪」データの根拠に関する詳細

     『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』数十万人殺人の根拠

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

     『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

     「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

     『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 

     宮地徹HP『Grafic World