『収容所群島』第一部二章わが下水道の歴史
ソルジェニーツィン
〔目次〕
第一部、第二章 わが下水道の歴史 P.38上段19行目〜
1917年11月末〜 1918年〜20年 1919年〜 1920年
(注)、これは新潮社出版、木村浩訳に基づくもので、第二章は、P.37〜P.99まであります。その内、1917年末からレーニン生存中で、チェーカーが国家保安部に改組される1922年春までの「下水道の歴史」を内容とする、P.38上段19行目〜P.47下段14行目の全文を転載しました。第二章冒頭のP.37〜P.38上段18行目部分は省略しました。
文中の太字個所は青太字、傍点個所は太字にしました。この長文には目次(小見出し)がなく、HP画面上で見にくいので、ソルジェニーツィンの《1918―1956 文学的考察》の文体の流れに対して誠に失礼ですが、レーニン批判資料という観点から、こちらでおよその年号区分をつけ、それを赤太字にしました。なお、章末の(注)は転載ページ分だけですが、レーニン、チェーカーの引用文の出典根拠として重要ですので、(1)から(16)は茶太字にしてあります。新潮社単行本・文庫版とも絶版になっています。図書館貸出しなら読むことができます。
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『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚
『ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン』3DCG11枚
『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説
『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚
『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』3DCG9枚
『ソルジェニーツィン「収容所群島」』第3章「審理」32種類の拷問
『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリン記念運河建設での接点
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』クロンシュタット綱領の検討
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領の検討ほか
中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
大藪龍介『国家と民主主義』ネップ導入と政治の逆改革
英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数
周知のように、どんな器官(オルガン)も活動していなければ衰えるものである。
それゆえ、生きとし生けるものの上に君臨し、歌にもたたえられた機関(オルガン)(連中は自分自身を呼ぶのにこの胸くそ悪い言葉を使った)が、触手一本失うどころか逆にどんどんふやし、筋肉組織を強めていったことを私たらが知っているならば、機関が絶え間なく活動していたことは容易に推察できるわけである。
下水管には脈動があった。水圧は予定したものより時には高く時には低かったが、しかし牢獄の下水道が空っぽだったためしは一度としてなかった。私たちの体から搾りとられた血と汗と尿が絶え間なく管を叩いていた。この下水道の歴史は呑み込んでは流すという過程の絶え間ない繰り返しの歴史である。ただ満水の状態が渇水の状態にかわったり、また再び満水の状態に戻ったりということはあったが、とにかく大小さまざまの流れが集まり、さらに四方八方から、河、小川、どぶ川、さらに囚人の一滴一滴が流れ集まってきたのであった。
これから先引用される時期ごとの流れのリストには、数百万という囚人からなる大きな流れも、たったの数十人からなる目立たない小川もひとしく述べられているが、これはまだまだたいへん不十分であり、貧弱であり、過去をきわめる私の力量にも制約されている。ここでは、事情を知っている人びとや生き残った人びとからの大幅な補足が必要であろう。
∴
こうした流れを列挙していくうえで、どの流れから始めるべきかが一番むずかしい。なにしろ、何十年と過去にさかのぼればさかのぼるほど、生き残っている証人の数は少なくなるし、風聞は消えたり曖昧になったりしてしまうし、記録はないし、いやあってもしまいこまれたままだからである。さらにまた、特にひどいことの行われた時期(内戦時) も、慈悲ぶかい扱いが期待できるような最初の平和な時期もここで同列に見ることはあまり正しいとはいえないからである。
だが、当時のような人口構成をもったロシアがいかなる社会主義にも、むろん、適しておらず、ロシア全体が汚れていることはすでに内戦以前にもわかっていたことである。プロレタリア独裁の最初の攻撃目標の一つは立憲民主党員(カデット)であった (これは立憲民主党員がツアー時代には極端に革命に感染し、プロレタリア政権下では極端に反動に感染していたためである)。一九一七年十一月末、召集はされたが流れてしまった憲法制定会議第一会期で立憲民主党は法律の保護外に置かれ、党員の逮捕が始まった。ほぼ同じ時期に《憲法制定会議同盟》や《兵士の大学》組織に加わっている人びとの投獄が行われた。
この数カ月問に、ペトログラードのクレストゥイ、モスクワのブトゥイルキその他これと類似した多くの地方監獄が、大金持、著名な社会活動家、将軍や将校、それに新政権の命令を遂行しようとしない省およびすべての国家機関の官吏などでいっぱいになっていったことは、革命の意味と精神からいって容易に推察できるところである。非常委員会(チェーカー)の最初の活動の一つは、全ロシア職員同盟のストライキ委員会の逮捕である。一九一七年十二月付の内務人民委員部の最初の回状の一つにこう書いてある。『官僚のサボタージュにかんがみて……・各地で最大限に創意を発揮し、没収、強制、逮捕をも辞さないこと(1)』
そしてV・T・レーニンは、一九一七年末、《厳に革命的な秩序》を確立するため「飲んだくれ、ごろつき、反革命分子等の側からの無政府状態をつくりだそうとする試みは容赦なくたたきつぶす」よう要求したけれども(2)、つまり、彼は十月革命に対する主な危険は飲んだくれどもからくるものと考え、反革命分子はどこか第三列目あたりに十把一からげにしておいたけれども、しかし彼はもっと幅広い問題提起をしようとした。V・T・レーニンは論文『競争をどう組織するか』(一九一八年一月七日と十日)の中で「ロシアの土地からあらゆる種類の害虫を駆除」するという全国的な共通目標を提唱した(3)。そして害虫という言葉で彼が理解していたのは単に労働者階級に無縁のすべての人間ばかりではなく、《仕事をさぼる労働者》たとえばペトログラードの党印刷所の植字工たち、といった連中までがその中に含まれていたのだった(これが時のへだたりというものだろう。労働者が独裁者となるや否や、さっそく、自分たちのための仕事をさぼる気になったのはどういうわけか、今の私たちには理解に苦しむところだ)。そしてさらにこう書いている。「……大都会のどの区、どの工場、どの村に、自分はインテリだと称する怠業者がいないだろうか?(4)」 実際、レーニンがこの論文の中で予見した害虫駆除の形は多種多様であった。ある場合には投獄する、ある場合には便所掃除をやらせる、ある場合には 「独房拘禁の終ったあと黄色の鑑札を交付する」、ある場合には寄食者を射殺する、またある場合には牢獄か最も重い種類の強制労働罰かを選択させる(5)、といった具合だった。レーニンは、懲罰の基本的方向を見出そうとし、また示唆しようとして、最もいい駆除手段の発見を《コンミユーンと共同体》の競争の対象とするよう提唱してはいたが。
どんな人間がこの幅広い害虫の定義に当てはまったのか、現在私たちには十分に調査することができない。なにしろ、ロシアの人口はあまりにも多様であり、その中には孤立した、まったく不必要な、今は忘れ去られている小さな集団がいくつもあったからだ。地方自治会議員はもちろん害虫だった。協同組合員も害虫だった。家主も全部そう。中学校教師の間にも害虫が少なからずいた。教会の教区会議に出る者はどれもこれも害虫ばかり、聖歌隊で歌うのも害虫どもであった。主祭もすべて害虫なら、修道僧や修道尼たちは言うまでもなかった。だがしかし、ソビエト政府機関やたとえば鉄道などに就職する際、銃を手にとってソビエト政権をまもる旨の宣誓書を出そうとしなかったトルストイ主義者たち――これもやはり自分が害虫であることをみずから暴露するものであった(彼らに対する裁判の事例はこれから先述べることになろう)。鉄道といえば、ずいぶん多くの害虫が鉄道員の制服を着込んで隠れており、こういう連中はひっこぬき、場合によってはぶっ殺してやらねばならなかった。電信技手連中もなぜかたいていソビエト政権に共鳴しない猛害虫ばかりであった。全露鉄道従業員同盟執行委員会にせよ、しばしば労働者階級に敵意をもつ害虫がいっぱいに巣くっていたその他の労働組合にせよ、なんとも困りものであった。
私たちがこれまでに数えあげた集団だけでも害虫はもう莫大な数にのぼり、駆除作業には数年を要するのである。
さらに、どうしようもないインテリ、ふらふらしている学生、さまざまな変人、真理探究者、それにすでにピョートル一世もロシアから駆除しようと努めたことのある、いつも整然たる厳格な政治体制には妨げとなる《ユロージヴィ》(キリスト教の狂信的信者)たちはいったいどれだけいることだろう?
それだから、もし古くさい訴訟形式や裁判手続を用いていたとしたら、この害虫駆除を行うことは、それも内戦という情況下ではとても不可能だったろう。ところがまったく新しい形が採用されたのだ。つまり、それは裁判抜きの制裁であり、人にありがたがられないこの仕事を献身的にわが肩に引き受けたのが全露非常委員会(ヴェー・チェー・カー)であった。これは、《革命の番人》といわれ、監視、逮捕、審理、起訴、裁判、判決の執行すべてを一手に収めた、人間の歴史上またとない懲罰機関であった。
一九一八年、革命の文化面における勝利をも早めようとして、聖者の遺体をばらばらにしたり、教会の器具を没収したりしはじめた。破壊される教会や修道院をまもろうと、民衆の騒擾が続発した。あちこちで警鐘が打ち鳴らされ、正教徒たちが、ある者は棍棒まで持って、逃げた。当然のことながら、その場で射殺したり、逮捕したりしなければならなかった。
現在、一九一八年から二〇年にかけてのことを考えると、私たらは困惑してしまう。いったい監房まで連れてこられないうちにぶっ殺された人びとは牢獄の流れの中に入れるべきなのだろうか? また、貧農委員会が村ソビエトの入口階段の陰や裏庭で片づけた人びとはどの欄に入れたらよいのか? 各県で続々と発覚したソビエト政権転覆の陰謀(リャザンで二件、コストロマー、ヴイシニイ・ヴォロチョク、ヴェリジで各一件、キエフ、モスクワで各数件、サラトフ、チェルニゴフ、アストラハン、セリゲル、スモレンスク、ボブルイスク、タンボフ、カヴァレリイスク、チェムバルスク、ヴェリーキエ・ルーキ、ムスチスラーヴリで各一件など)に加わった人びとは、せめて片足なりと《群島》の地に足を踏み入れることができたのだろうか?それとも踏み入れることができず、したがって私たちの研究の対象にはならないのだろうか? 有名な暴動(ヤロスラフ、ムーロム、ルイビンスク、アルザマスの暴動)の鎮圧以外にも、私たちが名前だけ知っている事件がいくつかある。たとえば一九一八年六月に起きたコルピノでの銃殺だが、これはどんな事件なのか? どんな人びとが殺されたのか?……そしてこれはどこへ分類したらいいのか?
次のことを決めるのも少なからず難儀する問題である。何万という人質、つまり、自分は何の罪科もないのに、敵あるいは暴動を起した大衆への威嚇と復讐の目的で抹殺するため捕えられ、鉛筆書きの名簿さえつくってもらえなかったこれらのおとなしい平和的な住民は、この牢獄の流れの中に入れるべきなのか、それとも内戦の貸借対照表に入れるべさなのか? 一九一八年八月三十日以後、内務人民委員部は「右派の社会革命党員(エス・エル)は全員ただちに逮捕し、ブルジョアジーと将校からは相当数の人質をとるよう」各地に指令を出した(6)(これはちょうど、たとえばアレクサンドル・ウリヤーノフのグループによるアレクサンドル三世暗殺未遂事件後、このグループばかりでなくロシアの学生全員と相当数の地方自治会議員が逮捕されたようなものである)。一九年二月十五日付の国防会議(おそらくレーニンを議長として行われたにちがいない) の決定で、鉄道の除雪作業が「あまり十分に行われていない」地方の農民を人質にとることが、「もし除雪が行われない場合には農民たちは射殺される」という付帯事項付きで非常委員会と内務人氏委員部に命ぜられている(7)。一九二〇年末の人民委員会議の決定では、社会民主党員を人質にとることも許されている。
だが視野を狭くして普通の逮捕だけに限ってみても、私たちは多年にわたる途切れることのない裏切者=社会主義者たちの流れがすでに一九一八年春以来流れだしたことに気づくはずである。社会革命党、メンシェヴィキ、アナーキスト、人民社会党といったこうした政党はすべて何十年来革命家を装っていただけであり、革命家の仮面をかぶっていたにすぎなかった。そのために懲役にも行き、ずっと革命家を装いつづけていたのだった。そして革命への急激な進行の過程で、はじめてこれら裏切者=社会主義者たちのブルジョア的本質がいっペんに明るみに出た。こうした連中の逮捕にのりだすのはまったく当然であった! 立憲民主党員の逮捕、憲法制定会議の解散、プレオブラジェンスキー連隊などの武装解除後まもなく、少しずつ、はじめのうらはこっそりと、社会革命党員とメンシェヴィキたちの逮捕が始まった。一九一八年六月十四日、つまり、すべてのソビエトから彼らが締め出された日以来、こうした逮捕はいっそう大量かつ迅速に行なわれだした。七月六日から、徹底した唯一のプロレタリアートの党の友党を他党より巧妙かつ長期間装っていた左派の社会革命党員たちも同じ道をたどった。その時以来、どこかの工場あるいはどこかの町で、労働者の騒擾、不満、ストライキが一つでも起れば(そうしたものはすでに一九一八年の夏にもう頻発していたし、一九二一年三月には、ペトログラード、モスクワ、それからクロンシュタットをゆさぶり、政府に新経済政策の採用を余儀なくさせた)、労働者をなだめ、彼らに譲歩し、彼らの正当な要求に応ずると同時に、非常委員会はメンシェヴィキや社会革命党員たちをこれらの騒擾の元凶として夜ごと秘かに逮捕していったのである。一九一八年の夏、一九一九年の四月と十月、アナーキストがごっそりぶち込まれた。一九一九年には可能なかぎりの社会革命党中央委員会の面々がすべてぶち込まれ、一九二二年の裁判までブトゥイルキ監獄に入っていた。その同じ一九一九年に、非常委員会の要職にあったラツイスはメンシェヴィキについてこう書いている。「このような連中はわれわれにとって妨げとなるだけにとどまらない。それゆえ、われわれの足に絡みついたりしないようこの連中をわれわれは道から取り除くのだ……われわれは連中をブトゥイルキのような人目につかない所へ入れ、労働と資本の闘いが終わるまでずっとご滞在いただくのだ(8)」同じ一九一九年にはまた無党派の労働者大会の代表委員たちがぶち込まれた(そのために大会は開かれなかった(9))。
早くも一九一九年に、海外から戻ってくるわがロシア人帰国者たちもまことに怪しいことがわかった(なんのために? どんな任務を帯びて戻ってくるのか?)。こうしてフランスヘ派遣されていたロシア軍団の将校たちも帰国するとぶち込まれた。
一九一九年、ソビエト政権に対する真偽とりまぜての陰謀(《ナツィオナリヌイ・ツェントル》、軍の陰謀)をめぐって、モスクワ、ペトログラードその他の都市で名簿順の銃殺(というのはつまり、自由の身の人間をつかまえて即座に銃殺することだが)が大々的に行われ、またいわゆる立憲民主党周辺のインテリゲンチヤがごっそり牢獄に放り込まれていった。《立憲民主党周辺》とはどういう意味か? 君主制主義者でもなく、また社会主義者でもない、つまり、すべての学者、すべての大学人、すべての芸術家、すべての文学者、それにすべての技師たちである。極端な思想を持った作家、神学者、社会主義の理論家を除いて残りのインテリゲンチヤ全部、すなわち、インテリゲンチヤの八割までが《立憲民主党周辺》であった。レーニンの考えによれば、たとえば「ブルジョア的偏見の囚となった哀れなプチブル(10)」 コロレンコもその一人であり、「こういう『才子ども』は数週間監獄に入っているのも悪くはあるまい(11)」ということだった。逮捕された人びとの個々のグループについては、私たちはゴーリキーの抗議文から知ることができる。一九年九月十五日、レーニンは抗議に答えて、「……ここにも間違いのあったことはわれわれには明らかだ」が、しかし「まったくなんという不幸だろう! なんという不公平だろう!」と慨嘆し、「腐りきったインテリどもの泣言に自分の力を消耗する」ような真似はしないようゴーリキーに忠告している(12)。
一九一九年一月から食糧徴発が実施され、食糧集めのため徴発隊が編成されている。徴発隊は全国路地の農村で、ねちねちしたのやら激しいのやら、いろいろな抵抗に遭った。この抵抗を抑えようとした結果、やはり(その場で射殺された者は勘定に入れないでも)二年間にわたる水量豊かな囚人の流れができた。
私たちは戦線の推移、都市や州の占領に関連して行われた、非常委員会、特別部、革命裁判所の粉ひきの大きな部分についてここではわざと触れないでおく。一九一八年八月三十日の内務人民委員部の例の指令は「白衛軍の仕事に関係したすべての者の無条件銃殺」に全力を尽させようとするものであった。だが時どき途方に暮れることがある。境界線はどう引けば正しいのか、と。内戦がまだ全面的には終っておらず、しかしドン地方ではすでに終っていた一九二〇年の夏以来、ドン地方のロストフやノヴォチェルカスクから将校たちがアルハンゲリスクヘ、さらに伝馬船でソロフキ島へ(そして数隻の伝馬船が白海や、いやカスピ海でも沈没したと言われているが)大勢送られているが、こうしたことはすべて内戦に関連させたらいいのか、それとも平和的建設の開始期に関連させたらいいのか? その同じ年、ノヴォチェルカスクで妊娠している将校の妻が夫をかくまったかどで銃殺されているが、この婦人は帳簿のどの項目から消したらいいのか?
一九二〇年五月の「後方における破壊活動について」の中央委員会の決定はよく知られている。このような決定はどれも全国的に新たな囚人の流れを起させるインパルスであり、流れの始まりを示す合図であることを私たちは経験から知っている。
このようなすべての流れをつくりあげるうえでの特別な難点(だがこれは逆にまた特別な利点でもあった!)は、一九二二年以前には刑法法典とか刑法体系といったものがなかったことであった。ただ革命的正義観念(だがこれは常に間違いのないものだ!)だけが、どういう人びとをつかまえ、どんな処分にするか、つまりどんな不純物を除外して下水管へ投げいれるかを指導してきたのである。
この概説では刑事犯や軽犯罪人たちの流れは究明しない。したがって、行政や公共機関やすべての法律の再編成の際に起った全体的な災厄や物不足は、窃盗,強盗,強姦,収賄、転売(投機)などの件数をはなはだしく増大させただけかもしれなかったことを言っておくにとどめよう。こうした刑事犯罪はソビエト共和国の存立にとってそれほど危険なものではなかったけれども、それでもやはりこれらも一部裁判に付され、この種の囚人の流れも反革命家たちの流れを大きくしていった。また、一九一八年七月二十二日付のレーニンの署名のある人民委員会議の法令が示しているように、まったく政治的性格をもった投機もあった。「共和国の独占する食料品を商売の形で売ったり、買い占めたり、販売のため貯蔵したりした責任者は(農民が穀物を貯蔵している――商売の形での販売のために。だが、農民の商売には他にいったいいかなるものがあるというのか??――著者)……最も重い強制労働および全財産の没収をともなう、最低十年の自由剥奪」
その年の夏以来、農村は限度をこえた無理をして収穫物を無償で供出していった。これが農民の暴動(13)を、したがってその鎮圧と新たな逮捕をひき起した。一九二〇年に私たちは《シベリア農民同盟》裁判のあったことを知っているし(その実情は知らないが……)、二〇年末にはタンボフ県の農民暴動の未然粉砕という事件が起こっている(この場合は裁判は行われなかった)。
だが、タンボフ県の村々から《人間駆除》が行われたのは大部分が一九二一年六月のことである。暴動に加わっている農民の家族を入れる収容所はタンボフ県中に散在していた。野っ原の一角にぐるりと杙(くい)が打たれ、有刺鉄線が張りめぐらされ、暴動に加わっているのではないかと疑われる男をもつ家族がそこに三週間収容された。二週間内に男が出頭し、わが身とひきかえに家族を受けもどすことをしないと、その家族は流刑地に送られるのだった(14)。
もっと以前、一九二一年三月、ペトロパヴロフスク要塞のトルベツコイ稜堡を経由して、銃殺刑に処された者を除き、暴動を起したクロンシュタットの水兵たちが《群島》の島々へ送られていった。
その一九二一年は『ブルジョアジーに対して弾圧を強めよ!』という全露非常委員会命令第一〇号(二一年一月八日)で始まった。内戦の終った今、弾圧を弱めるのではなく、強めねばならないのだ! クリミアでこれがどんな様相を呈したかは、ヴォローシンが詩に書いて私たちに伝えてくれた。
一九二一年の夏、未曾有の飢饉がロシアを襲うのを食い止めようとしていた飢餓救済委員会(クスコワ、プロコポヴィチ、キーシキンその他)が逮捕された。つまり、こうした救いの手は飢餓に苦しむ者に食糧を与えることを許してもよい手ではなかった、ということなのだ。逮捕は免れたこの委員会の会長コロレンコは臨終の床で委員会の殄滅(てんめつ)を「政治的策動中最悪質の、政府による政治的策動」と呼んだ。(一九二一年九月十四日。ゴーリキー宛の手紙)(そのコロレンコは一九二一年の牢獄の重要な特徴を私たちに想起させてくれる(15)――「牢獄中チフスだらけだ」と。当時入獄していたスクリプニコワやその他の人たちもそのとおりだったと述べている)
その一九二一年、《現体制批判》(公然のではなく、学生同士の話の中での)を理由とした学生たちの逮捕もすでに行われていた(たとえば、チミリャーゼフ農業大学、E・ドヤレンコのグループ)。そのような例はおそらくまだ数は多くなかったのだろう。前記のグループは直接メンジンスキーやヤーゴダから訊問を受けているのだから。
同じ一九二一年、ボリシェビキ党以外の政党に属する人びとの逮捕が相ついで行われ、組織化された。実際のところ、勝利を収めたボリシェビキ党以外のすべてのロシアの政党はすでに姿を消していた(ああ、人を呪わば穴二つ!)。だが各政党の壊滅が決定的となるためには、さらにこれらの政党の党員たち自身が、これらの党員たちの肉体が死滅しなければならなかったのである。
かつてボリシェヴィキ党以外の政党に加入したことのあるロシア国民は一人として非運を免れることはできなかった。その人の運命はもはや決っていたのだ(マイスキーやヴィシンスキーのように、自分の属していた政党が壊滅したとき、巧みに渡り板を使って共産党へ入るという芸当ができなかったならば)。そういう人が一番はじめに逮捕されない場合もあり、(その人の危険度に応じて)一九二二年まで、三二年まで、あるいは三七年までも生きのびる例があったが、リストはちゃんと保存されており、そのうちに順番がやってきて、その人は逮捕されたり、あるいはただ丁重に招かれて、ただ一つだけ「あなたは……から……までこれこれの党におりましたか?」という質問をされるのだった(その人の有害な活動についての質問があることもあったが、数十年経った今私たちに明らかなように、この最初の質問がすべてを決定するのだった)。それから先の運命は人さまざまだった。すぐさまツァー時代から有名な中央監獄の一つに入れられる者もあった(運よく中央監獄はすべて立派に保存されていて、社会主義者たちの中には、昔自分が入っていた監房にまた入れられたり、もう顔なじみの看守の世話になったりする人まであった)。また、ちょっとの間、ほんの二、三年間だ、と流刑地行きをすすめられる者もあった。あるいはもっと軽いのは、マイナス制限(数都市が指定される)をもらうだけで、自分で自分の居住地を選べるが、選んだあとはもうその場所以外で暮すことを禁じられ、じっと国家保安部の意向待ち、というのもあった。
この作戦は長年にわたった。こっそりと人目につかないようやるのがこの作戦の第一条件だったためだ。モスクワ、ペトログラード、港、工業中心地、そしてさらにはなんと郡からまで他の種類の社会主義者すべてを是が非でも一掃しなければならないのだった。それは、いってみれば声を出さない大規模なパシヤンス(トランプ遊びの一種)で、そのルールは当時の人びとにはまったくわからなかったし、その輪郭はやっと今になってつかむことができるのである。だれか先見の明ある頭がこれを計画し、だれか的確な手が一瞬も無駄にすることなく一つのカードの山から三年の刑期をつとめあげたカードを取り出し、それをそっと別のカードの山へ移していく方法だった。中央監獄に入っていた者は流刑地へ(そしてどこかもっと先へ)、《マイナス》をつとめあげた者もやはり流刑地へ(しかし《マイナス》から見えない所へ)、流刑地から流刑地へ、それからまた中央監獄へ(今度は別のだが)移される、といった具合で、パシヤンスのカードを配る人びとはとにかく辛抱第一であった。こうして他の政党の人びとは、大きな声もあげず、音もたてず、しだいに姿を消していき、以前彼らや彼らの革命活動を知っていた土地や人びととのあらゆる結びつきを断たれていった。かつて学生集会で大活躍したり、帝政時代に足伽を誇らしげに鳴らしたりした人びとの抹殺が、こうして人目につかぬよう着々と準備されていったのである。
この《大パシヤンス作戦》では昔の政治犯が大部分抹殺された。というのも、ツァーの裁判所からもっとも過酷な宣告を申し渡されたのは社会民主党員ではなく、社会革命党員やアナーキストたちにほかならなかったし、昔の懲役人口を構成していたのもそうした人びとにほかならなかったからである。
だがしかし抹殺の順序は公平であった。二○年代にこの人びとは自分の政党と政党のイデオロギーを放棄する旨の声明書に署名するようすすめられた。ある人びとは署名を拒否し、そのため当然のことながら第一番目に抹殺の憂き目にあった。またある人びとは放棄のすすめに応じ、それによって数年命をのばした。けれどもそうした人びとの順番もどんどんまわってきて、情け容赦なく肩から首が落ちていった(16)。
一九二二年の春、国家保安部と改称されたばかりの反革命および投機取締非常委員会は教会のことにも容喙(ようかい)することを決めた。《教会革命》をも行うこと、つまり、幹部を入れかえ、天のほうに片耳だけ向け、もう一方の耳はルビャンカのほうに向けるような人びとを新しい幹部に据えることが必要だったのだ。そういう要請に添うことを約束したのは《生きている教会》派の人びとであったが、彼らは外からの援助なしでは教会機関を手中に収めることができなかった。チホン総主教が逮捕され、銃殺刑の宣告をともなった二つの有名な裁判――モスクワでは総主教を中心に暴動を起す計画を推進しようとしていた人びとの裁判、ペトログラードでは教会の権力が《生きている教会》派に移るのを阻止しようとしたヴェニアミン府主教の裁判が行われたのもそのためであった。県や郡でもあちこちで府主教や主教が逮捕され、こうした人物逮捕の後には例によって例のごとく雑魚の、つまり、主祭長や修道僧や補祭などの逮捕が続いたが、これは新聞紙上に報道されなかった。教会改革を唱える《生きている教会》派の圧力に屈しようとしなかった人びともぶち込まれていった。
聖職者は毎日の水揚げ量の必ずある一部を占めており、ソロフキ島のどの囚人護送団宿泊地でも彼らの銀髪が目についた。
以上 (第二章 わが下水道の歴史、P.47の下段14行目まで)
(1) 『内務人民委員会部通報』 一九一七年 第一号 四ページ
(2) レーニン全集 第五版 第三五巻 六八ページ(大月書店版『レーニン全集』第二六巻 三〇七ページ)
(3) 同書 二〇四ページ (第二六巻 四二三ページ)
(4) 同書 二〇四ページ (第二六巻 四二四ページ)
(5) 同書 二〇三ページ (第二六巻 四二三ページ)
(6) 『内務人民委員部通報』一九一八年 第二一、二二合併号 一ページ
(7) 『ソビエト政権の法令』第四巻 モスクワ 一九六八年 六二七ページ
(8) M・T・ラツィス 『国内戦線における闘争の二年間』非常委員会の活動概観普及版 国立出版所 モスクワ 一九二〇年 六一ページ
(9) 同書 六〇ページ
(10) レーニン全集 第五版 第五一巻 四七、四八ページ(第四四巻 三五四ページ)
(11) 同書 四八ページ (第四四巻 三五五ページ)
(12) 同書 四九ページ (第四四巻 三五四、三五六ページ)
(13) 「人民のうち最も勤勉な部分がまったく絶滅した」 (コロレンコ 二一年八月十日付のゴーリキーヘの手紙)
(14) 雑誌『戦争と革命』一九二六年 第七号、八号 トゥハチェフスキー『反革命暴動との闘い』
(15) コロレンコはゴーリキーに宛ててこう書いている (二九年六月二十一日)。「誠実な革命家や社会主義者をボリシェヴィキ革命が帝政時代と同じ手段で罰したことに、いつの日か歴史は注目するであろう」
(16) 時どき新聞紙上で小さな記事を読み、あっけにとられることがある。『イズベスチャ』 五九年五月二十四日 ヒトラーが政権について一年後、マクシミリアン・ファケが逮捕された。何か他の政党にではなく、共産党に入っていたためであった。彼は抹殺されたか? いや、二年の刑を宣告されただけだった。そのあと、もちろん、新たに刑期を追加されたろう? いや、釈放になった。これはお好きなように理解してほしい! 彼はその後ひっそりと暮し、地下組織をつくっていったが、彼の大胆不敵さについての記事もそれに関連したものである。
以上 (第二章 わが下水道の歴史、P.47の下段14行目までの(注))
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『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚
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