クロンシュタット1921

 

.アヴリッチ

 〔目次〕

   はじめに 宮地・注と訳者あとがき・抜粋

   第二章 ペトログラードとクロンシュタット (P.51〜52)

   第三章 クロンシュタットとロシア人亡命者 (P.142〜143)

   第五章 クロンシュタット綱領 ()(P.187〜203) ()(P.221〜225)

   第六章 鎮圧 (P.249〜250、252〜254)

   第七章 エピローグ (P.271〜275)

 

 (関連ファイル)            健一MENUに戻る

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

    イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

    ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

    スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

    A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁政策の誤り

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』

    中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散

    大藪龍介『国家と民主主義』ネップ導入とクロンシュタット反乱

    Ida Mett『The Kronstadt Communeクロンシュタット・コミューンの英語版全文

 

 はじめに 宮地・注と訳者あとがき・抜粋

 

 宮地・注

 

 これは、『クロンシュタット1921』(菅原崇光訳、現代思潮新社、1977)の第五章「クロンシュタット綱領」を中心とし、そこを理解する上で前後他章のごく一部を抜粋したものです。私のHPに、この抜粋転載をすることについては、現代思潮新社の了解を頂いてあります。抜粋転載文の著作権・出版権は、著者・訳者と現代思潮新社にあります。「本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、著作権法上の例外を除き、禁じられています」。

 

 全体316ページの大著で、『1921年クロンシュタット反乱の最高の本格的研究書』です。本書では、第一章「戦時共産主義の危機」で、レーニンの決定的誤りの一つである武力弾圧を伴う食糧独裁政策とそれへの農民反乱を分析し、第2章「ペトログラードとクロンシュタット」では、1921年2月のボリシェヴィキ一党独裁政権へのペトログラード労働者の広範なストライキと政権側の弾圧・懐柔を描いています。1920、21年における、これら農民反乱、労働者ストライキと一体のものとして、3月のクロンシュタット・ソヴィエト水兵反乱が関連性をもって位置づけられています。第七章では、同月開催中の第10回大会における、レーニンによる分派禁止と党員の1/4除名という党内大粛清と他党派粛清がそれらとの関連で分析されています。ロシア革命史において、1921年は、“ネップ導入の一方で、政治の逆改革”として、きわめて重要な転換点になっています。1920、21年は、()農民反乱、()労働者ストライキ、()水兵反乱、()他党派最後的完全粛清、()分派禁止と党内大粛清という5つの重大問題を含むレーニン一党独裁型政権の危機でした。

 

 ただ、このHP抜粋転載ページは、著書の約1/10です。これら5つの1921年問題に対し『レーニンのしたこと』を理解する上で、これを契機に本書全体が読まれれば幸いです。文中の傍点個所は、太字にしました。抜粋範囲の()は、多数あり、すべて出典が明記されていますが、ほとんどがロシア語か英語なので省略しました。

 

 (訳者あとがき)抜粋  菅原崇光東京理科大学助教授

 

 著者、ポール・アヴリッチは、現在クイーンズ・カレッジの歴史学の教授で、アメリカではロシア・アナーキズム研究の第一人者として知られている。原著は、かれがコロンビア大学ロシア研究所に上級研究員として所属していたさいにおこなった、ロシア・アナーキズムにかんする一連の研究の第二作めにあたる。最初の著作については、すでに野田茂徳氏により『ロシア・アナキズム全史』と題されで、一九七一年に合同出版から邦訳が出ている。

 

 クロンシュタット反乱については、それがボリシェヴィキによって武力により鎮圧された直後から、その性格と意義をめぐってボリシェヴィキと左翼反対諸党派との間に長期にわたって激しい論争が繰り拡げられてきた。ここに訳出したアヴリッチの研究は、そのような応酬を踏まえながらも、そこに特徴的にみられる議論の党派性からは自由な立場で、反乱を純然たる歴史学の対象として取り上げ、厳密な学問的検討の狙上にのせた、最初の本格的な研究である。

 

 ここで著者はまず、この反乱をソヴェト・ロシアが戦時共産主義からネップへの移行の過程で当面した政治および経済上の諸問題という広範な背景のなかに据え、その意味を問うことをもってはじめている。ついで、反乱の経過、亡命ロシア人の連累、および反徒の綱領の内容の検討を通じて、ボリシェヴィキと反対諸党派のいずれの主張をも退りぞけつつ、反乱の性格を歴史的にはプガチョーフ、ラージン以来のロシアの伝統的な反中央集権主義的農民反乱の系譜につながる、アナルコ=人民主義的志向性をもった、自然発生的民衆蜂起と規定している。

 

 

第二章 ペトログラードとクロンシュタット

 

 市内への大軍事力の集結以外では、ボリシェヴィキは一層の罷業者をかれらの工場からロック・アウトすることによって抗議運動を打破しようとした。このことは――トルーボチヌイとラフェルムの場合におけるように――その労働者にかれらの配給を否定することをともなった。それと同時に、広範な逮捕がペトログラート・チェカによって遂行された。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者は拘留された。二月の最後の数日間に、ダンの計算によれば、約五〇〇名の反抗的労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てた。同様に検挙された学生、知識人、およびその他の非労働者はおそらく数千名を数え、その多くは反対政党およびグループに所属していた。ペトログラートのメンシェヴィキ組織はチェカの急襲によってとくに手痛い打撃を蒙った。それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者が監獄へ護送されたのである。カズコーフとカメンスキーは労働者のデモを組織したのち、二月の末に逮捕された。ロシコーフとダンを含む少数の者は、一日長く自由の身でとどまり、夢中でかれらの声明やチラシをつくって配付したが、まもなく警察によって検挙された。すべての者はいっている、一九二一年の最初の三カ月間に、党の全中央委員を含む約五、〇〇〇名のメンシェヴィキがロシアにおいて逮捕されたと推定されている、と。それと同時に、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエス・エルとアナーキストが同じく検挙された。ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェカはそのメンシェヴィキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救った。

 

 

第三章 クロンシュタットとロシア人亡命者

 

 要約すれば、亡命地のロシア人(メンシェヴィキという一部の例外をともなう)は蜂起に歓喜し、あらゆる可能な手段によって決起者を助けようとしたのである。このかぎりで、かれらにたいするソヴェトの非難は正当化される。だが、亡命者が反乱を操縦していたということは正しくない。それどころか、パリとゲリシンクフォルスにおける一切の陰謀にもかかわらず、クロンシュタット蜂起は始めから終わりまで自然発生的かつ自己充足的な運動であった。証拠が示すところは、反乱が陰謀の結果であったということではなく、発端となる策謀が在外ロシア人サークル内に明らかに存在したということ、そして策謀家が、現存体制への水兵の敵意を分かち合いながらも、実際の蜂起ではいかなる役割も演じなかったということである。国民中央部は勃発を予想して、それを組織することを助ける、またフランスの援助で、その参加者に食糧、医療品、軍隊、および軍事資材を供給する計画をたてていた。中央部の究極的な目標は、反乱の統制権を握り、クロンシュタットをボリシェヴィキを権力から駆逐する新たな干渉の跳躍台にすることにあった。のちに判明したように、しかしながら、これらの計画を実行に移すには時間がなかった。噴出はあまりにも早く、策謀の基礎的条件――氷の融解、供給線の創設、フランス援助の確保、およびウランゲリの散在する軍隊の反乱地付近への輸送――がみたされる数週間まえに起こったのである。

 

 カデットとエスエルが反乱をみずからの利益に転じようとしたことは驚くにあたらない。だが、最後まで、主導権を担っていたのは水兵とかれらの革命委員会であった。かれらは自身の実例が本土における大衆反乱を爆発させることを自信をもって予想していたので、情勢が絶望的になるまで外部の援助を訴えなかった。しかも、かれらは亡命者たちがかれらに供給しようと骨折っていた援助のいかなるものもかつて受け取らなかったし、また、三月一六日のヴィルケン男爵の訪問を別にすれば、かれらの自称支持者とのいかなる直接的接触も蜂起の過程ではほとんど起こらなかった。利用しうる証拠は、ちなみに、いかなる白軍陰謀においても協力関係のもっとも論理的な源泉となる、亡命者とクロンシュタットにおける前帝政士官との間のいかなる種類の連環も暴露してはいない。

 

 

第五章 クロンシュタット綱領

 

(1)(第5章冒頭P.187〜203の全文)

 クロンシュタット反乱はほんの二週間少し続いたにすぎなかった。それでもなお、この短い期間に、注目すべきタイプの革命的コミューンが臨時革命委員会の指導のもとに樹立された。そのメンバーはいうにたるほどの長期的戦略をもっていなかったが、即興と自己組織化のかなりの天分を示した。委員会は、われわれがすでにみたように、三月二日、教育会館における会議の五名議長団から創り出された。だが、都市と守備隊の行政と防衛を取り扱うためには、より大きな団体が必要とされることが、まもなく明らかとなった。こうして、三月四日の夕方、クロンシュタットの工場と軍事単位から約二〇〇名の代議員――多分、二日まえ教育会館で会合した同じ代議員――が仕事のあと守備隊クラブに集まり、「勝利か死か!」の絶叫のなかで、一五名からなる拡大革命委員会を選出したのである。

 

 クロンシュタットの民政および軍事問題を指導する任務を推進するため、新委員会はその本部を戦艦『ペトロバヴロフスク』から市内にある人民会館へ移動させた。そして、委員会議長、ペトリチェンコを補佐するため、副議長としてヤコヴェンコとアルヒーポフが、書記としてキリガストが選ばれた。残りの委員のそれぞれには特定の責任分野が割り当てられた。すなわち、市政問題はヴァリクとロマネンコによって、司法はパーヴロフによって、また交通はバイコーフ(クロンシュタットにおけるかれの正規の仕事は要塞建設部運輸主任であった)によってとりしきられ、他方トゥーキンは食糧供給の、またペレピョールキンは扇動と宣伝の責任者とされた。

 

 『ペトロパヴロフスク』決議の第九項目にしたがって、差別食糧配給制は廃止された。特別割り当ては病院と保育所にのみ与えられ、また超過食糧は医師の処方箋にもとづいて病人に施された。それ以外では、クロンシュタットにおける食糧は平等の原則のもとにクーポン券と引き換えに発給された。配給は、革命委員会の厳重な監視のもとに、ふたつの既存機関、ゴルコムナとゴルプロドコムによって取り扱われた。ときどき、配給地点が反徒の新聞、臨時革命委員会の日刊紙『イズヴェスチヤ』紙上で報道された。委員会はまた、町の住民へ特別声明を放送するためまた外部の世界と交信するため、『ペトロバヴロフスク』のラジオをも使用した。

 

 蜂起の最初の数日間に、午後一一時以降の外出禁止令が課され、市の内外への移動は厳重な統制下に置かれた。学校は以後通告があるまで閉鎖された。それと同時に、革命委員会はクロンシュタットの政治機構にふれる一連の布告を発した。『ペトロパヴロフスク』決議の第七項目にしたがって、委員会は要塞の政治部を廃止し、守備隊クラブでの新しい教育プログラムを発足させた。現地の労働者および農民監督部は労働組合代表者委員会によって置き換えられた。これは『ペトロバヴロフスク』憲章の第一四項目において規定されていた「巡回統制局」のモデルとして意図されていたようにおもわれる。そのうえ、どの公共機関、労働組合、工場、および軍事単位にも、革命委員会の指令を現場レヴェルで遂行するため革命トロイカが――共産党員を混えずに――選出された。

 

 革命委員会と並んで、三月二日に教育会館で開かれた代議員の会議は、二〇〇から三〇〇名の間を上下した水兵、兵士、および労働者の構成員をもって、反乱の期間存続した。会議は三月四日、革命委員会を拡大するために開かれ、そしてふたたび三月八日と一一日、会合をもった。このとき、とりわけ、それは共産党の支配と統制から自由な、新しいクロンシュタット労働組合評議会を創設した。当然にも、しかしながら、その議題はもっぱら防衛のまた食糧と燃料供給の問題で占められた。ある権威者によって描かれているように、会議はクロンシュタットそれ自体の独特の議会形態であったが、より正確には、おそらく、それは謀反者がそのために反乱に立ち上がった「自由なソヴェト」の原型、一種の暫定的ソヴェトとして奉仕したのであろう。

 

 この活動の背後の主導勢力であったのは、クロンシュタット人口のもっとも戦闘的な分子、水兵であった。組織、立案、および宣伝の諸問題で、水兵は最初からイニシアティヴをとり、またその短い歴史を通じて運動において指導的役割を演じ続けた。兵士はひとりとして(まして士官は)臨時革命委員会に議席をもっておらず、民間の労働者と雇用者はその構成員のほんの小さな少数派を形成しているにすぎなかった。だが、もし水兵が先頭に立ったなら、クロンシュタット守備隊――周辺の砦と砲台に配置されていた「軍事専門家」と赤軍兵士――はただちに同調し、そして町の住民もまた、その職業がかれらを密接に接触させていた水兵の影響につねに敏感であったところから、積極的な支持を申し出たのであった。またたくまに、クロンシュタットはその無関心と絶望のなかから揺り動かされた。反乱の絶頂期にこの島を訪れたフィンランドの一新聞記者は、その住民の「熱狂」によって、目的と使命についてのかれらの更新された意識によって感銘を受けた。

 

 クロンシュタットの気分は、しばしば注目されてきたように、一九一七年の沸騰と極度の興奮の投げ返しであった。自身を「コミューン人」になぞらえていた水兵にとって、一九一七年は黄金時代であり、かれらは、規律の足枷が投げ捨てられ、かれらの理想がまだ権力の危急によって汚染されていなかったときの、革命の精神を奪い返そうと憧れていた。かれらがかれらの運命をボリシェヴィキに投じた四年まえ、かれらはボリシェヴィキが同じ目的を分かち合っていると考えていた。ボリシェヴィキは、外見的にはまったく、仲間の極左の革命家、圧政と不正を除去し勤労者の自由なソヴェト共和国への門戸を開く大衆的大動乱の使徒であった。「社会主義は」、とレーニン自身一九一七年一一月に宣言していた、「上からの命令によっては創り出されない。国家=官僚主義的自動性はその精神とは異質なものである。社会主義は生きており、創造的なものである――人民大衆自身の創造物である」。続く月々に、しかしながら、中央集権的独裁制の出現を目撃し、水兵は裏切られたと感じた。かれらは、かれらがそのためにたたかってきた民主主義的諸原則が新たな特権的エリートによって放棄されてしまった、と感じた。国内戦の期間、かれらはボリシェヴィキに忠誠のままでとどまっていたが、革命をその当初の道へ引きもどそうと決意した。そして、ひとたび白軍の危険が除去されるや、かれらは一〇月の誓約を取りもどすべく立ち上がったのである。

 

 政治運動としては、それゆえ、クロンシュタット反乱は、反徒の『イズヴェスチヤ』がそれを描写したように、共産党独裁の「悪夢の支配」を投げ捨て、実効あるソヴェト権力を回復しようとする幻滅した革命家によるひとつの試みであった。歴史的には、ソヴェトは、伝統的なロシアの地方自治機関、村落共同体にまで跡づけることができる。エンマ・ゴールドマンが観察したように、それは「進んだ、より革命的な形態における古いロシアのミール」にほかならなかった。「それは人民のなかにあまりにも深く根をおろしていたので、草花が野原で芽を吹くようにロシアの土壌から自然に躍り出た」のであった。レーニンにとっては、しかしながら、党の統制から独立した、自由なソヴェトはつねに呪われたもの(アナテマ)であった。かれは本能的に人民の自然発生的行動に不信感を抱いていた。地方民主主義の諸機関は、とかれは恐れた、反動への潜在的かけ橋として奉仕するか、経済的ならびに社会的混沌へ導くかもしれない。にもかかわらず、革命が到来し地方ソヴェトがいたるところで躍り出たとき、かれは旧秩序を破壊する力としてまた権力を獲得する手段としてそれらの価値を認識したのである。「すべての権力をソヴェトヘ」はかれの党の主要な合言葉のひとつとなった。一〇月蜂起ののち、しかしながら、レーニンは無政府主義的で無規律な大衆のうえに革命的独裁を課すことによってかれの当初の中央集権主義へ復帰した。そして、ソヴェト制は新たなより高度の政府形態として、マルクスによっておもい描かれた「プロレタリア独裁」として維持され続けたけれども、ソヴェトはしだいに党の統制に従属せしめられ、そして一九二一年までに、それらは出現しつつあった官僚制にとってのたんなるゴム印となってしまった。

 

 水兵が抗議に立ち上がったのは、革命のこのような転倒にたいしてであった。紛争は、かれらがそれをみたように、「勤労者の共和国」という人民の理想と、事実上ボリシェヴィキの独裁にほかならない「プロレタリア独裁」との間にあった。いかなる単一政党の排他的支配にも反対して、かれらは労働者と農民のために言論、出版、および集会の自由を確保することによって、またソヴェトの新選挙をおこなうことによって、共産党の権力独占を打破しようと目指していた。水兵は、ベルクマンが注目したように、ソヴェト制のもっとも頑強な支持者であり、かれらの掛け声は一九一七年のボリシェヴィキのスローガン、「すべての権力をソヴェトヘ」であった。だが、ボリシェヴィキとは対照的に、かれらは全左翼組織――エス・エル、メンシェヴィキ、アナーキスト、マクシマリスト――を代表し、人民の真の熱望を反映する、自由な、拘束されないソヴェトを要求していた。こうして、反徒の『イズヴェスチヤ』の檣頭のモットーは、「すべての権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」という新しい旋回をもったのである。「われわれの主張は正当である」、と『ペトロバヴロフスク』のラジオは三月六日に宣言した。「われわれは、権力をソヴェトヘ、だが政党ではなくという立場に、勤労者の自由に選挙された代表制という立場に立っている。共産党によって奪取され操作されているソヴェトは、われわれの要求と必要の一切につねに耳を閉ざしてきた。われわれがこれまでに受け取った唯一の回答は発砲である」。

 

 だが、たとえ反乱者が自由なソヴェトを要求していたとしても、かれらはすべての者への平等な権利と自由を主張するという意味における民主主義者ではなかった。かれらが非難していたボリシェヴィキと同様、かれらはロシア社会にたいして厳格な階級的態度を維持していたのである。かれらが自由について語ったとき、それは労働者と農民だけのための自由であって、地主や中産階級のための自由ではなかった。これこそ、実に、かれらが「勤労者の共和国」によって意味していたもの――かれらの以前の抑圧者ならびに収奪者にたいする労働大衆の一般意思の行使――にほかならない。かれらの綱領のなかには、西ヨーロッパの線に沿った自由主義的議会のための場所はなかった。そして、クロンシュタットの一水兵が一九一八年一月、憲法制定会議の解散を指導したことは象徴的である。三年後も、水兵は憲法制定会議あるいはいかなる類似の機関にも断固反対する立場にとどまっていた。かれらの眼には、国民議会というものは革命によって追い払われた同じ分子そのものによってではないまでも、新たな特権的少数派によって必然的に支配されるであろう、と映じていた。かれらは代議制政府にはなんの効用ももっておらず、自由なソヴェトを通じての一般人民の、一般人民による直接大衆民主主義を欲していた。「憲法制定会議ではなく、ソヴェトこそ、勤労者の堡塁である」、と臨時革命委員会の機関紙は宣言していた。反徒にとって、要するに、議会とソヴェトは正反対の政府形態であって、一方はブルジョワジーの、他方は勤労者の優越をともなっていたのである。だが、かれらはまた、いかなる新たな憲法制定会議も絶対権力ヘのその探求においてボリシェヴィキのたんなるもうひとつの道具となるであろうことをも恐れていた。クロンシュタットの崩壊ののち、ソヴェトの通信員が生存者のグループになにゆえかれらが憲法制定会議の復活を叫ばなかったのかとたずねた。「政党一覧は共産党を意味するからだ」(ア・ラス・スピスキ――ズナーチット・コムニストゥイ)、とかれらのひとりは皮肉な微笑を浮べて答えた。われわれが欲しているものは、とかれはいった、労働者と農民のまがいものでない自決権であって、このことが達成されるのはソヴェトを通じてしかないのである。

 

 その経済的内容において、クロンシュタット綱領は戦時共産主義の制度に狙いを定めた舷側斉射であった。それはかれらが三年近く従属させられてきた強圧政策を一掃しようという農民階級と労働者階級の決意を反映していた。クロンシュタット人は(太古以来のロシアの慣行にしたがって)国土を苦しめていた病いの一切を政府に――そして政府ひとりに――負わせて非難した。責任は、国内戦それ自体の混沌と破壊に、相たたかう軍隊の逃れることのできない惨禍に、連合国の干渉と封鎖に、燃料と原料物資の避けることのできない欠乏に、あるいは飢饉と悪疫のまっただなかで飢えている者に食物を与え病んでいる者に治療を施す困難に、ほとんど負わせられなかった。一切の苦悩と艱難は、むしろ、ボリシェヴィキ政権の門口に遺棄されたのであった。「共産党支配はロシア全土を未曽有の貧困、飢餓、寒気、およびその他の窮乏におとしめてきた。工場と作業場は閉鎖され、鉄道は崩壊寸前にある。農村は骨まで搾り取られている。われわれはパンも、家畜も、土地を耕すべき農具ももっていない。われわれは衣服も、靴も、燃料ももっていない。労働者は飢えかつこごえている。農民と町の住民はかれらの生活の改善のためのあらゆる希望を失っている。日ごとに、かれらは死へ近づいている。共産党の裏切り者は諸君をすべてこのような状態に零落させたのである」。

 

 水兵は、かれらの大部分がそこから躍り出た農民と同じく、ボリシェヴィキ政権の「新しい農奴制」、とりわけ武装徴発分遣隊による食糧の奪取を激しく糾弾した。「第八回ソヴェト大会でいった農民は」、とクロンシュタット『イズヴェスチヤ』は宣言した、「正しかった。『なにごともみなまったくすばらしい――土地はわれわれのものだが穀物はきみたちのものだ、水はわれわれのものだが魚はきみたちのものだ、森林はわれわれのものだが木材はきみたちのものだ』、と」。政府の略奪を阻止したいかなる村人も、と新聞はつけ加えた、かれらがいかに貧困化し絶望しているかにかかわりなく、「クラーク」とか「人民の敵」とかいって非難されている。『イズヴェスチヤ』はさらに、最良の地主地のいくつかへの国営農場の設置を、農民からかれらがかれらの正当な所有物とみなしているものを奪ったのみならず、帝政時代におけるように雇用労働の使用をもともなった措置として弾劾した。このことは、反乱者がそれをみたように、あらゆる形態における「賃金奴隷制」と搾取を廃止した、革命の本質的精神を蹂躙するものであった。『イズヴェスチヤ』は、自身の労力によって自身の利益のために小規模耕作を営むための農民の権利を擁護した。国営農場は「新しい地主――国家――の所領」にほかならなかった。「これこそ、農民が、かれらの新たにかちとった土地の自由な使用の代わりに、ボリシェヴィキの社会主義から受け取ったところのものである。徴発された穀物と没収された牛や馬と交換に、かれらはチェカの急襲と銃殺隊を得た。労働者国家におけるすばらしい交換制度――パンの代わりに弾丸と銃剣だ!」

 

 工業においても、同じ理由によって、反徒は労働者と小手工業生産者が自身の運命を統御し自身の労働の生産物を享受するための自由を欲した。かれらは、しかしながら、しばしば想像されているように、「労働者の統制」には賛成しなかった。地方工場委員会によるたんなる生産の監視は、かれらがそれをみたように、ただちに不適切かつ不充分であった。すなわち、労働者に工場をみずから運営することを許す代わりに、それは以前の管理者と技術者を枢要な責任の地位に残したので不適切であり、また、それは他の企業との必要な協調をもたらさなかったので不充分であった。しかも、かれらは任命された管理者と技術専門家による生産の国家統制をともなった工業の国有化をも承認しなかった。「『労働者の統制』のもとで生産を破壊したのち」、とクロンシュタット『イズヴェスチヤ』は宣言した、「ボリシェヴィキは工場と作業場を国有化することへ進んだ。資本家の奴隷から、労働者は国営企業の奴隷へと変えられた」。それと同時に、労働組合は、工場を運営し労働者の教育的ならびに文化的前進を助ける代わりに、無益なペーパー・ワークへと零落せしめられた、「中央集権化された共産党の殿堂」になってしまった。新選挙だけが組合を労働者の「広範な自決権」のための自由な機関へと転換させることができる。職人と手工業者については、かれらはかれらが雇用労働を用いぬかぎり完全な自由が与えられなければならない。「革命的クロンシュタットは」、と臨時委員会は宣言した、「異なる種類の社会主義のために、生産者自身が唯一の主人でありかれが適当と認める仕方でかれの生産物を処分することができる、勤労者のソヴェト共和国のためにたたかっているのである」。

 

 反乱の優越的旋律は、それゆえ、共産党支配への幻滅であった。ボリシェヴィキは、と反徒の『イズヴェスチヤ』はいった、権力を失うことのみを恐れ、またそれゆえ、「あらゆる手段――中傷、暴力、虚偽、殺人、反徒の家族への復讐――を許されるもの」とみなしている。革命の意味は戯画化され、労働者と農民は屈服せしめられ、国土全体は党とその秘密警察によって沈黙させられ、監獄は反革命分子によってではなく労働者と知識人によって満たされている。「旧体制の代わりに」、と『イズヴェスチヤ』は慨嘆した、「恣意、横柄、えこ贔屓、窃盗、および投機の新しい体制、ひとがパン一切れごとに、ビスケット一片ごとにその手を当局に差し出さなければならない恐ろしい体制、ひとが自分自身にすら属さない、ひとが自分の労働力を処分することができない体制、奴隷根性と堕落の体制が確立された。……ソヴェト・ロシアは全ロシア強制収容所となってしまった。

 

 では、なにがなされるべきであったのか。いかにすれば革命をその当初の道へ引きもどすことができたのか。三月八日、ボリシェヴィキがその最初の攻撃に乗り出したときまで、反乱者は平和的改革を期待し続けていた。その主張の正当性を確信していたので、かれらは政府に政治的ならびに経済的譲歩を強いるうえで全国の――そしてとくにペトログラートの――支持を得ることに自信をもっていた。共産党の攻撃は、しかしながら、反乱における新たな局面を画した。交渉と妥協の一切のチャンスは突然終わりを告げた。暴力が双方の側に開かれた唯一のコースとして残った。三月八日、水兵は新たなスローガンを声明した。すなわち、かれらは全ロシア住民に一九一七年二月と一〇月に始まった仕事を完成させるべく「第三革命」においてかれらに合流するよう訴えたのである。「労働者と農民は、そのブルジョワ体制とともに憲法制定会議を、またその絞刑吏の輪なわが労働する大衆の首にまつわりつきかれらを絞め殺そうと脅かしている、そのチェカとその国家資本主義とともに共産党の独裁をかれらの背後に残しつつ、着実に前方へ行進する。・・・・・・ここクロンシュタットにおいて、労働する大衆から最後の足枷を打ち落し、社会主義創造性への新しい大道を切り開く、第三革命の最初の礎石が敷かれたのである」。

 

 クロンシュタット綱領をあれこれの反ボリシェヴィキ左翼政党に跡づけるため、たび重なる試みが、ソヴェトの歴史家ばかりでなく西側の歴史家によってもなされてきた。このような比較はどの程度まで有効であろうか。数々の点で、反徒の要求は実際左翼の政治的反対派のそれと一致していた。メンシェヴィキ、社会革命党、およびアナーキストはみな、ボリシェヴィキの権力独占と戦時共産主義の制度に抗議していた。かれらはみな、自由なソヴェトと労働組合を、労働者と農民への市民的自由を、またテロルの廃止と逮捕のもとに置かれている社会主義者とアナーキストの釈放を要求していた。そして、すべての社会主義政党が代表される連立政府への要求は、早くも一九一七年一〇月、エス・エルとメンシェヴィキによってなされていた――それにはボリシェヴィキの率直なグループでさえかれらの支持をかしていた。「われわれは、ソヴェトにおけるすべての政党の社会主義政府を形成することが必要だという立場をとっている。われわれはこれ以外には、政治的テロルの手段による純粋なボリシェヴィキ政府の維持という、たったひとつの道しかないことを主張する。われわれはこれを受け入れることはできないし、受け入れるつもりもない。われわれは、これが・・・・・・無責任な体制の樹立へまた革命と国土の破滅へ導くであろうことを予見している。

 

 反徒は社会革命党とひとつの注目すべき特徴を分かち合っていた。すなわち、農民と小生産者の必要への徹底的な没頭と大規模工業の複雑さへの相応の関心の欠如である。が、かれらは、他方、憲法制定会議の復活へのエス・エルの中心的要求に裏書きを与えることも、尊敬されていたエス.エル指導者、ヴィクトル・チェルノーフによってかれらに申し出られた援助を受け入れることも拒絶した。このことだけからみても、エス・エルが反徒の運動の内部で優越的影響力をおよぼしてはいなかったことが明白である。同じことはメンシェヴィキについてもいえた。メンシェヴィキは、いかにも、一九〇五年におけるその最初の出現以来ソヴェトの第一の擁護者であり、そして労働者、兵士、および水兵の無党派会議というクロンシュタットの考えは、最初のペテルブルク・ソヴェトの樹立のための理論的基礎を築いた、メンシェヴィキ指導者、アクセリロートによる類似の提案を想起させる。にもかかわらず、メンシェヴィキの影響力は極左の伝統的拠点、クロンシュタットにおいてきわめて強力であったわけではけっしてなかった。若干の活動的メンシェヴィキが町や造船所における職人と労働者の間に見出されたが(ソヴェト側の資料がメンシェヴィキとして確認している革命委員会の二人の委員、ヴァリクとロマネンコはともに労働者であった)、それでもなおクロンシュタット綱領は工業プロレタリアートにふれる問題には比較的わずかの注意しか払っていなかった。そのうえ、水兵―蜂起のバックボーン―の間におけるメンシェヴィキの数は無視しうるほどであった。反乱の過程を通じて、ペトログラートと外国におけるメンシェヴィキ指導部が武力によるボリシェヴィキの打倒に裏書きを与えることを差し控えたこともまた、注目に値しよう。

 

 アナーキストの影響力は、それとは違って、艦隊の内部でつねにかなり強力で、そしてかれらはときどき蜂起を扇動したとして非難されてきた。だが、これはおおいに真実ではない。ひとつには、最近の年月のもっとも卓越したクロンシュタット・アナーキストはもはや現場にはいなかったのである。憲法制定会議を解散した勇猛な若き水兵、アナトリー・ゼレズニャーコフは白軍との戦闘中に殺されていた。一九一七年における人気のあった錨広場の雄弁家、イ・エス・ブレイフマンは反乱の二、三カ月まえに死んでいた。そしてかれの同志で革命期間クロンシュタット・ソヴェトにおける指導的人物、エフィム・ヤルチュークはいまやモスクワにあって、投獄されていないときには、チェカによる厳重な監視のもとに置かれていた。ヤルチューク自身のクロンシュタット史は一九二一年におけるアナーキストに顕著な役割を割り当てていないし、その時代の他のいかなるアナーキスト資料もまたそうである。国内戦で死亡したか一九二〇年代初期にソヴェト迫害の犠牲に陥ったアナーキストの徹底的名簿は、ゼレズニャーコフ、ヤルチューク、およびブレイフマン以外のクロンシュタット人を含んでいない。臨時革命委員会の委員のひとりだけが(ペレピョールキン)かつてアナーキストに結びつけられてきたが、そのときでさえ、ほんの間接的にであった。そのうえ、運動の機関紙は、『ペトロパヴロフスク』宣言のテキストを発表したとき、一度だけアナーキストに言及している。それは「労働者と農民、アナーキストと左翼社会主義政党への言論と出版の自由」を要求していた。

 

 それでもなお、一九一七年の間クロンシュタットにおいてかくも強力であったアナーキズムの精神は、けっして消散してはいなかった。ペレピョールキンは反乱指導者の間でただひとりアナーキストといわれた者であったかもしれないが、『ペトロパブロフスク』決議の共作者ならびに扇動と宣伝の責任者として、かれはその自由奔放な見解を広めるのによい立場にあった。運動の中心的スローガンのいくつか「自由なソヴェト」、「第三革命」、「コミッサール政治打倒」――は国内戦の期間アナーキストのスローガンであったし、「すべての権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」もまたアナーキストの響きをもっていた。他方、たいていのアナーキストは「権力」へのいかなる訴えも避けていたであろうし、水兵は水兵で、いかなるアナーキスト政綱においても中心項目であった、国家の完全な排除をけっして求めてはいなかった。

 

 いずれにせよ、ロシア全土のアナーキストは蜂起によって有頂天になった。かれらはクロンシュタットを「第二のパリ・コミューン」として歓呼し、それにたいして軍隊をさし向けたことで怒りをもって政府を非難した。反乱の絶頂期に、アナーキストのチラシがペトログラートの街路に現われた。それは反徒に背を向けている、大砲の轟音がフィンランド湾に轟いている間沈黙を守っているといって、その住民を批判していた。水兵はきみたち、ペトログラートの人民のために立ち上がったのだ、とチラシは宣言した。きみたちは眠気を払いのけ、共産党独裁にたいする闘争に参加しなければならない。そのあとで、アナーキズムが優勢を占めるだろう。ベルクマンやゴールドマンのような、その他のアナーキストは、その間、紛争を調停し大虐殺を回避するためむなしい努力を傾けていた。

 

 反乱は、要するに、いかなる単一政党ないしグループによってかきたてられたものでもなければ、仕組まれたものでもなかった。その参加者は、体系的なイデオロギーも注意深く練り上げられたいかなる行動計画ももっていない、さまざまな色合いの急進派――エス・エル、メンシェヴィキ、アナーキスト、共産党卒伍――であった。いくつかの革命的傾向からの諸要素を複合した、かれらの信条は曖昧で、よく規定されておらず、首尾一貫した建設的な綱領というよりむしろ、苦情のリスト、逆境と抑圧にたいする抗議の叫びであった。明確な提案、とりわけ農業と工業におけるそれの代わりに、反乱者は自由に選挙されたソヴェトを通じて機能する、クロポトキンが「大衆の創造的精神」と呼んだものにたよるほうを好んだ。

 

 かれらのイデオロギーは、おそらく、一種のアナルコ=人民主義としてもっともよく描かれよう。そのもっとも深い衝動は、農民と労働者が、下から組織された完全な経済的ならびに政治的自由をもって、調和のとれた協力のうちに生活する、自治共同体のゆるやかに結び合わされた連合体についての古代の夢、「土地と自由」派ならびに「人民の意志」派の旧ナロードニキ綱領を実現することにあった。気質と見解において反徒にもっとも近かった政治的グループは、革命的スペクトルにおける地位を左翼エス・ユルとアナーキストとの間に占めながら両派の要素を分かち合っていた、社会革命党のちっぽけな超戦闘的分派、エス・エル・マクシマリストであった。ほとんどすべての重要な点で、反徒の『イズヴェスチヤ』で述べられていたような、クロンシュタット綱領は、マクシマリストのそれに一致しており、機関紙の編集者がマクシマリストであった(ラマーノフという名の)というソヴェト側の主張に信用をかしている。マクシマリストは全体革命の教義を説いていた。かれらは憲法制定会議の復活に反対し、代わって中央国家権威を最小限にとどめる、自由に選挙されたソヴェトに基礎を置く「勤労者のソヴェト共和国」を叫んだ。政治的には、これはクロンシュタット人の目標と同一であり、そして「権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」は最初マクシマリストの結集の叫びであった。

 

 経済的分野における平行も劣らず著しい。農業では、マクシマリストは穀物徴発と国営農場の設置を非難し、すべての土地が農民へかれらの妨げられることのない使用のために引き渡されなければならないと要求した。工業では、かれらは「生産の社会的組織化と勤労人民の代表によるその体系的指導」に賛成して、ブルジョワ行政官にたいする労働者の統制を拒否した。マクシマリストにとって、反徒にとっても同様、このことは工場の国有化と中央集権的国家管理体系を意味しなかった。それどころか、かれらはたびたび、中央集権化はただちに「官僚主義」へと導き、労働者を巨大な非人格的機械におけるたんなる歯車におとしめることを警告していた。「国家管理と労働者の統制ではなく、労働者の管理と国家統制」が、計画と調整の任務を遂行する政府とともに、かれらのモットーであった。生産手段をそれらを使用する人民へ移管することが、要するに、絶対不可欠であった。これこそ、「すべての土地を農民へ」、「すべての工場を労働者へ」、「すべてのパンと生産物を勤労者へ」という、あらゆるマクシマリストのスローガンの趣旨であった。

 

 

(2)(P.221〜225、第5章末までの全文)

 「われわれの反乱はボリシェヴィキの抑圧を除去するための原初的運動である。ひとたびそれがなされるなら、人民の意志はおのずから明らかになるだろう」。このように、ペトリチェンコは、フィンランドでのアメリカ人新聞記者との会見において、三月蜂起を特徴づけた。たった一行の文章で、かれは反乱の精神を伝えた。というのは、クロンシュタットのきわだった特徴はその自然発生性、それが同じ時期の農民一揆および労働者騒擾と分かち合っていた特徴、であったからである。単一の現象とみなすとき、これらの運動は、水兵がコサックとストレリツイの役割をみたしただけで、ラージンとプガチョーフの伝統における大衆の反乱を構成していた。組織された専制にたいする突然の爆発へのその傾向を、かれらは完全な規模で相続していたのである。この同じ伝統はまた、プーシキンが一八世紀のプガチョーフシチナを描いたように、古典的な「盲目で無慈悲な、ロシアの反乱」の新版として、一九一七年にみずからを表現した。アナーキスト、マクシマリスト、およびその他の左翼急進主義者にとって、「社会革命」がついに到来したのである。かれらはかれらの運命をボリシェヴィキに投じた。そのいくつかをサンジカリストとエス・エルから借用した、ボリシェヴィキのスローガンは、かれら自身の気分と熱望に合致していた。「土地を農民へ! 臨時政府打倒! 工場の統制権を労働者へ!」 革命的綱領としては、これはマルクス主義よりナロ−ドニチェストヴォに一層近く、そしてロシアの人口の教育を受けていない分子のアナルコ=人民主義的本能に強いアピールをもっていた。

 

 一〇月以後、しかしながら、レーニンとかれの党は、かれらの権力を固め国土を社会的混沌から救うことに専念して、下からの革命を中央集権的ならびに権威主義的通路へそらそうとした。かれらの努力は農民と労働者階級の衝動に逆らって走っていた。農民と労働者階級にとって、革命とはまさに中央集権主義と権威主義の否定にほかならなかったのである。人民がはっきりと欲していたものは、地方イニシアティヴと自決権にもとづく地方分権的社会であった。政府とその機関によってほおっておかれることが、結局、下層階級の長年の夢だったのである。こうして、農民が、貴族を排除しかれらに土地を与えた「ボリシェヴィキ」と、国営農場を設置し農村へ徴発隊を送りこんだ「共産主義者」とを区別したのは、理由のないことではなかった。一九一七年、ボリシェヴィキはアナルコ=人民主義的千年王国を約束したが、ひとたび権力を握るや、かれらの当初の国家主義的原理へ復帰したのである。

 

 ロシアの革命的伝統のなかには、広くいって、ふたつの根本的に対立する傾向があった。ひとつは、レーニンとかれの党によって代表され、古い秩序を革命的独裁によって置き換えることを目指す、中央集権的傾向であり、もうひとつは、アナーキストとエス・エルによって追求され、地方分権的自己支配、強力な政府的権威の欠如、および人民の民主主義的本能への信頼へ向かうものであった。その根を農民の割拠主義と自然発生的反乱におろしていたクロンシュタットは、きっぱりと第二の範疇に属していた。そのあらゆる形態における中央集権的専制の反対者として、水兵はかれらの以前のボリシェヴィキ同盟者とかれらの選良主義的な国家社会主義の銘柄に背を向けた。かれらは、実に、ボリシェヴィキ綱領が社会主義であることをまったく否定するところまでいった。反徒にとって、かれら以前にバクーニンにとってのように、個人的自由と自決権のない社会主義は――少なくとも下層階級にとっては――新たな形態の圧制以外のなにものでもなく、ある点ではそれが置き換えたものより一層悪かった。

 

 一九二一年三月の紛争の根底に横たわっていたのは見解のこの相違であった。ボリシェヴィズムの本質的な特徴は大衆の自発性にたいするその不信感であった。レーニンは、かれら自身の工夫にまかせておけば、労働者と農民は部分的な改革にみずからを満足させるか、さらに悪くすると、反動勢力の犠牲に陥るかいずれかであろうと信じていた。かれの見解によれば、それゆえ、大衆は献身的な革命的前衛によって、「外部から」導かれなければならなかった。これこそかれの政治哲学の基本的教義であったのであり、そしてかれはそれをクロンシュタットにおける状況に適用したのである。われわれは、とかれは第一〇回党大会に告げた、この事件の政治的ならびに経済的教訓を慎重に考量しなければならない。「それはなにを意味しているのか。ほんの少しボリシェヴィキの右に、あるいは多分ボリシェヴィキの左にさえあるとの外観を与えている、悪しき取り合わせの諸分子のある名状しがたい集塊あるいは同盟への政治権力の移行である――ひとは、クロンシュタットにおいて自身の手に権力を収めようと企てている政治的諸グループのその結合がきわめて無定形である、ということはできない」。かれは反乱を白衛軍陰謀に帰して非難したけれども、その真の意義に完全に気づいていた。運動は、とかれはいった、「小ブルジョワ無政府主義的自然発生性」の反革命、すなわち、同じ時期の農民および労働者騒擾と密接に結びついた大衆反乱である。そのようなものとして、それはボリシェヴィズムの生存にとって極度に危険、デニーキン、コルチャーク、およびユデーニッチを一緒にしたものより一層危険であったのである。

 

 他のなににもまして、レーニンは新たなプガチョーフシチナの勃発を恐れていた。かれはボリシェヴィキを権力につかせたその同じアナルコ=人民主義的潮がいまやかれらを深淵に巻きこむことを恐れていた。水兵をことさらに危険なものとしたのは、白軍とは違って、かれらがソヴェトの名において反乱した事実である。反徒は、ヴィクトル・セルジュが論評したように、心身ともに革命に属していた。かれらは人民の苦悩と意志に声を与え、そしてこのようにして他のいかなる反対運動がなしえたよりもボリシェヴィキ指導部の良心を突き刺した。レーニンは反乱の大衆的アピールを理解していた。かれはそれを、かれが四分の一世紀まえ人民主義者を共同体と手工業的協同組合の過ぎ去った時代へのかれらのロマンチックな夢のゆえに攻撃したのと同じ仕方で、「小ブルジョワ」ならびに「半アナーキスト」として攻撃した。そのような幻想はボリシェヴィキ気質にとって呪うべきものであった。それはたんに原始的で不充分であったばかりでなく反動的でもあったし、また中央集権化された国家と中央集権化された工業機械がいたるところで勝利を収めていた、二〇世紀においては生き残りえなかったのである。

 

 これこそ、なにゆえ、レーニンにとって、クロンシュタットが国内戦の白軍より一層危険であったかの理由である。それは、たとえ達成されえなかったにせよ、ロシア下層階級のもっとも奥深い衝動と符号した理想を表わしていた。だが、もしクロンシュタットがその道を突き進むなら、とレーニンは推論した、それはあらゆる権威と凝集の終焉および一千もの個々ばらばらな断片への国土の分裂、一九一七年のような、だがこのたびは新しい秩序に逆行する、混沌と原子化のもうひとつの時代を意味するであろう。やがて、ある別の中央集権化された体制――左翼というよりむしろ右翼の――が真空を埋めるであろう。というのは、ロシアは無政府状態には耐えられないからだ。かくて、レーニンにとって、針路は明らかであった。すなわち、いかなる犠牲を払おうとも、反徒は粉砕され、ボリシェヴィズムがクロンシュタットにおいて回復されなければならない、と。

 

 

第六章 鎮圧

 

 その狂暴さにおいて、クロンシュタットの戦闘は国内戦のもっとも流血の激しい挿話に匹敵した。人命の損失はいずれの側でもきわめて大きかったが、共産党側は、堅固に守られた防衛者にたいして開けた氷原を越えて攻撃することをよぎなくされたので、はるかに大きな犠牲を支払った。三月三日から二一日までの時期に、公式の厚生報告によれば、ペトログラートの病院は四、〇〇〇名以上の負傷者と爆音衝撃症患者を収容し、そのうち五二七名以上がベッドのなかで死んだ。これらの数字は、もちろん、戦闘中に倒れた多数を含んではいない。戦闘ののち、あまりにも多くの死体が氷上に散乱していたので、フィンランド政府は解氷期が訪れたときそれらが海岸に打ち寄せられて健康上の害毒を生むことを恐れてそれらを取り除くようモスクワに要請したほどであった。公式資料による控えめの推定は全共産党死者を約七〇〇名、負傷あるいは爆音衝撃症を、二、五〇〇名に置いているが、あるボリシェヴィキ参加者は、かれひとりが六号砦で目撃したものによって判断しても、これらの数字があまりにも過少にすぎると記している。もうひとつの推定は赤軍の損失を死者と負傷者合わせて二万五、〇〇〇名としている。しかしながら、ヴイボルク駐在のよく情報に通じていたアメリカ領事、ハロルド・クォートンによれば、ソヴェト側の死傷者総数は約一万名にのぼり、そしてこの数字が死者、負傷者、および行方不明者すべてを合計したもののほどよい計算とおもわれる。第一〇回党大会からの代議員約一五名がこの戦闘においてかれらの生命を失った。その他の倒れたボリシェヴィキと一緒に、かれらは三月二四日、ペトログラートで催された合同慰霊祭において軍事栄誉礼をもって埋葬された。

 

 

フィンランド湾氷上を突撃する赤軍            反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍兵士

『Kronstadt Uprisingimagesからの写真2枚

 

 反徒側の損失はもっと少なかったが、けっしてとるにたりないほどではなかった。信頼しうる数字は入手できないが、ある報告は死者六〇〇名、負傷者一、〇〇〇名以上、および戦闘中に捕虜となった者二、五〇〇名としている。死者のうち、少なからぬ者が戦闘の最終的段階において虐殺されたのである。ひとたび要塞内に入るや、攻撃する軍隊は流血の饗宴のなかでかれらの倒れた同志のために復讐した。総攻撃の間に築き上げられていた憎しみの程度を測るものは、氷上を越えてフィンランドへ逃走する反徒に機銃掃射を加えるため飛行機が使用されなかったことへの、一兵士によって表明された遺憾であった。トロツキーと、かれの総司令官、エス・エス・カーメネフは反乱者にたいして化学兵器の使用を許可しており、そしてもしクロンシュタットがもっと長く抵抗していたなら、高等軍事化学学校の生徒によって考案された、砲弾と気球による毒ガス攻撃をおこなう計画が遂行されていたことだろう。

 

説明: C:\Users\My Documents\IMG00065.GIF  

地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、三月七、八日の

第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日

の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した

 

 クロンシュタットにおいては、その間、ボリシェヴィキは蜂起の痕跡を消し去るためあらゆる努力を傾けていた。パーヴェル・ドゥイベンコが、市から不同意分子と反逆思想を粛清する絶対権力を賦与されて、要塞司令官に任命された。復活されないクロンシュタット・ソヴェトの位置に、クロンシュタットのもっとも信頼されたボリシェヴィキ指導者の三名、ヴァシーリエフ、ブレグマン、およびグリボフで構成されるレフトロイカが、新しい司令官を補佐すべく設立された。三月一八日、新しい新聞、『赤色クロンシュタット』が市内に出まわり始めた。戦艦『ペトロバウロフスク』と『セヴァストーポリ』は『マーラー』と『パリ・コミューン』へと改名される一方、錨広場は革命の広場となった。党の再登録がただちに実施され、その期間に約三五〇名の党員が除籍されたか出頭しなかった。また、ある著者がそれを述べたように、「外科手術」がソヴェト海軍に執行された。信頼しがたいバルト水兵は黒海、カスピ海、およびアラル海へ、また極東におけるアムール河川艦隊へ分散させられる一方、すべての海軍部隊からその隊列内のいわゆるイヴァンモールイ――全部で約一万五、〇〇〇名――が追放された。最後の総攻撃に参加した赤軍兵士もまた、全国の遠隔地方へ分散させられた。かれらの指導者、トゥハチェフスキーがタンボフ地方におけるアントーノフのゲリラ活動を粉砕すべく派遣された懲罰遠征軍の指揮をとったのは、ようやく一カ月後のことであった。

 

 最後に、クロンシュタット生残者の運命を描くことが残っている。捕えられた反徒で公開の審問を受けた者はだれもいなかった。戦闘中に捕えられた二、〇〇〇名を越す捕虜のなかから、一三名が反乱の主謀者として非公開(イン・カメラ)で裁かれるべく、選ばれた。反革命陰謀という告発を補強するため、ソヴェトの新聞はかれらの社会的背景を強調することに骨折った。すなわち、五名が貴族の生まれの旧海軍士官、一名が以前の聖職者、そして七名が農民出身であった。かれらの名前は未知のものである。すなわち、だれも革命委員会には属していなかった。そのメンバーの四名――ヴァリク、パーヴロフ、ペレピョールキン、およびヴェルシーニン――は政府の拘留のもとに置かれていたことが知られている。そのうえ、だれも蜂起において助言者の役割を演じた「軍事専門家」の間にはいなかった。それにもかかわらず、一三名の「主謀者」は三月二〇日、裁判にかけられ死刑を宣告されたのである。

 

 残る捕虜のうち、数百名がクロンシュタットでただちに銃殺されたといわれている。残りの者はチェカによってその本土上の監獄へ移された。ペトログラートでは、監獄はあふれんばかりにみたされ、数カ月の期間にわたって何百名という反徒が小集団ごとに引き立てられて銃殺された。それらのなかにはペレピョールキンが含まれていた。フョードル・ダンは、かれの監獄の中庭で運動していたさいかれに出合ったのである。処刑されるまえに、かれは蜂起にかんする詳細な説明を執筆したが、それがどうなったか、ダンは知らなかった。他の者は、白海における悪名高いソロフキ監獄のような、強制収容所へ送られ、強制労働に従事させられたが、それは多くの者にとって飢餓、消耗、および疾病からくるゆるやかな死を意味していた。若干の場合には、反乱者の家族も同様の運命に見舞われた。三月初めに人質に取られていた、コズロフスキーの妻と二人の息子は強制収容所へ送られた。かれの一一歳になる娘だけがそれを免れた。

 

 フィンランドへ逃走した反徒はどうなったであろうか。約八、〇〇〇名が氷上を越えて逃がれ、テリオキ、ヴイボルク、およびイノーにおける難民収容所に抑留された。逃亡者はほとんど全部水兵と兵士で、わずかの男性民間人、婦人、および子供が混じっているにすぎなかった。アメリカおよびイギリス赤十字がかれらに食糧と衣類を供給した。いくらかの者には道路建設やその他の公共事業において雇用が与えられた。だが、収容所における生活は荒涼としており意気消沈させられるようなもので、最初は土地の住民との接触を許されていなかった避難民は、適応するのが非常に困難であることを知った。フィンランド政府はかれらの他の諸国への移住を助けるよう国際連盟に訴えたが、他方ボリシェヴィキは武器とともにかれらの本国送還を要求した。特赦の約束に魅かれて、多くの者がロシアへ帰ったが、ただ逮捕されて強制収容所へ送りこまれるばかりであった。五月と六月、かれらのいくつかのグループは、強制労働と早期の死の未来へ旅立つ途中、ダンの監獄を通過したのであった。

 

 

第七章 エピローグ

 

 そして、もちろん、軍隊生活には民主主義のいかなる復活もなかった。艦艇委員会と政治コミッサールを選出する権利は死んだ争点としてとどまった。クロンシュタット以後、艦隊内の権威を分権化したり軍事規律を緩和したりするいかなる問題ももはやなかった。それどころか、レーニンは、バルト艦隊は水兵が信頼しがたく艦艇の軍事的価値も疑わしいので解体されるべきだ、とトロツキーに提案した。だが、トロツキーは、そのような過激な処置が不必要である、とその同僚にどうにか説得することができた。代わって、ソヴェト海軍はすべての不同意分子を追放し、きたるべき年月に信頼に値する指導部を確保すべく海軍士官学校をみたしていた青年共産党員をもって、完全に再組織化された。それと同時に、赤軍内では規律が引き締められる一方、農民と労働者の志願者から選抜されることになっていた、民兵隊のための計画は永久に放棄された。

 

 なお一層重要なことに、反徒の政治的要求はひとつとして成就されなかった。起こったのは、むしろ、独裁的支配の強化であった。ネップの譲歩は、実際、ボリシェヴィキの権力独占をことさらに強固にするためになされたのである。第一〇回大会への演説のための梗概のなかで、レーニンは「クロンシュタットの教訓:政治学では党内における隊列(および規律)の閉鎖、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争。経済学では中産農民を可能なかぎり満足させること」と記していた。したがって、民衆のイニシアティヴは麻痺し、自由なソヴェトは挫折した夢としてとどまった。国家は『ペトロバヴロフスク』憲章において要求されていたような、言論、出版、および集会の自由を回復することや、政治犯として糾弾されていた社会主義者とアナーキストを釈放することを拒否した。蘇生したソヴェトの連立政府へ引き入れられるどころか、左翼諸政党は組織的に弾圧された。

 

 憂鬱な一致として、三月一七日の夜、クロンシュタット革命委員会が氷上を越えてフィンランドヘ逃走しつつあったとき、ソヴェト・ロシアにおけるその種の最後のものであった、罷免されたグルジア・メンシェヴィキ政府は黒海のバトゥーミ港を発って西ヨーロッパ亡命に向かった。国内戦の期間、あらゆる側面で白軍によって脅かされていたボリシェヴィキは、連続的な苦悩と監視のもとで左翼の親ソヴェト諸政党に不安定な存在を許してきた。クロンシュタット以後、これさえももはや容赦されなかった。合法的反対派という一切の見せかけは、一九二一年五月、レーニンが対抗的社会主義者のための場所は、白衛軍と肩を並べて、被告席か亡命地だと宣言したとき、放棄された。新たな抑圧の波が、当局が反乱と共謀しているといって非難してきた、メンシェヴィキ、エス・エル、およびアナーキストのうえに落ちた。より幸運な者は移住を許されたが、何千という人間がチェカの捜査網で一網打尽にされ、そして極北、シベリア、および中央アジアへ追放された。その年の終わりまでに、政治的反対派の活動的な残党は沈黙させられるか地下へ追いやられ、そして一党支配の地固めはほぼ完成した。

 

 こうしてクロンシュタットは、権威主義的体制にたいするすべての不成功に終わった反乱と同じく、その目指したゴールの反対に到達したのである。すなわち、民衆的自治政府の新時代の代わりに、共産党独裁が国土のうえにこれまでになく強固に縛りつけられたのであった。

 

 ボリシェヴィキ支配の引き締めは、党そのものの内部の分裂を終わらせる衝動によってともなわれた。「党内民主主義」を許すどころか、レーニンは、もし政権が現在の危機を生きのびなければならないとすれば分派抗争はただちにやめなければならない、と声明した。「反対を終わらせるための、それにけりをつけるための時は到来した」、とかれは第一〇回大会に告げた、「われわれはこれまでに充分反対をもってきた」。レーニンは反対派を打って屈服させる棍棒としてクロンシュタットを使い、党政策へのかれらの批判が反徒を激励して政府に抗して武器をとらせたのだとほのめかした。かれの見解は聴衆の間に強力な支持を見出した。かれらも大衆反乱がかれらを権力から一掃するかもしれないとのかれの恐怖を分かち合っていたのである。「現時点において」、とある発言者は宣言した、「党には三つの分派があり、この大会はわれわれが党におけるこのような状態を今後も黙認するのかどうかをいわなければならない。わたしの意見では、われわれは三つの分派を抱えてコズロフスキー将軍にたち向かうことはできず、したがって党大会はそういわなければならないのだ」。代議員らは即座に呼応した。激烈な言葉遣いの決議において、かれらは労働者反対派の綱領をマルクス主義的伝統からの「サンジカリスト的ならびにアナーキスト的偏向」として非難することを表決した。

 

 「党の統一について」という第二の決議は、いかに党内論争が反革命諸勢力によって利用されるかの実例としてクロンシュタットを引用し、そして党内のすべての分派と派閥の解散を要求した。三年近く秘密に付された、その最後の条項は、中央委員会に不同意分子を党の隊列から追放する特別権限を与えた。その後まもなく、レーニンは信頼の置けない分子を排除するため「頂上から底辺まで」の党の粛清を命じた。その夏の終わりまでに、全党員のほぼ四分の一が除名されたのである。

 

 モスクワ裁判とスターリン主義的恐怖の治世の展望から、多くの者が反乱を、官僚主義的抑圧の勝利と社会主義の地方分権的ならびに自由奔放主義的形態の最終的敗北を画する、ロシア革命史における運命的な岐路とみなした。

 

 このことは、ソヴェト全体主義がクロンシュタットの鎮圧をもって始まったとか、あるいはそれは当時すでに不可避であったとかとさえ、いうことを意味しているのではない。「『スターリニズムの胚芽は最初からボリシェヴィズムのなかにあったのだ』ということがしばしばいわれている」、とヴィクトル・セルジュは論評した、「そう、わたしは反対しない。ただ、ボリシェヴィキはまた、その他の多くの胚芽――その他の胚芽のひとかたまり――をも含んでいたのであって、最初の勝利の革命の最初の数年間の熱狂を生き抜いてきた者はそのことを忘れるべきではない。生きている人間を、検視が死体のなかに暴く――そして、かれが誕生以来かれのなかにもっていたかもしれない――死の胚芽によって判断すること、このことはきわめて分別のあることであろうか」。

 

 二〇年代初頭の間には、いいかえれば、いくつかの異なる道がソヴェト社会にとって開かれていたのである。それでもなお、セルジュ自身強調したように、きわだった権威主義的傾向がつねにボリシェヴィキの理論と実践のなかに存在していた。レーニンの抜きがたい選良主義(エリーテイズム)、かれの中央集権化された指導部と厳格な党規律への固執、かれの市民的自由の抑圧とテロルの承認――すべてこれらは共産党とソヴェト国家の未来の発展のうえに深い刻印を残したのである。国内戦の期間、レーニンはこれらの政策を緊急事態によって要求された短期の便宜的措置として正当化することに努めた。だが、緊急事態はけっして終わることがなく、そしてその間に未来の全体主義的体制のための機構が建設されていった。クロンシュタットの敗北と左翼反対派の窒息をもって、勤労者の民主主義への最後の効果的な要求は歴史のなかに過ぎ去った。それ以後、全体主義は、たとえ不可避ではなかったとしても、ありそうな結末であった。

 

 一九二四年、レーニンは逝き、そしてボリシェヴィキ指導部は激烈な権力闘争のなかへ突き入れられた。

 

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 (関連ファイル)

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

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