民主集中制の放棄とフランス共産党

 

党内は四分したが、党勢は上向き

 

労働運動研究所 福田玲三

 

 ()これは、『労働運動研究No.343』(1998年5月号)掲載の福田玲三論文の全文である。このHPに載せることについては、福田氏の了解を頂いてある。

 

 〔目次〕

   パ・ド・カレーの「恐竜」

   今日は粛清、明日は追放

   政治的には致命的

   イタリア共産党の先例

   自由電子議員の出現

   フランス共産党の行方

   社共分裂の歴史に幕か

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

   『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』

   アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてならないこと』

   『イタリア左翼民主党の規約を読む』

   『なぜ民主集中制の擁護か』

   『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4つのシステム

 

 パ・ド・カレーの「恐竜」

 

 フランス共産党は94年1月の第28回大会で民主集中制を規約から外した。当時党内の一部では、これによって規律がゆるみ、結束が弱まることが心配された。それから五年を経た現在、この党の現状と未来を検討してみたい。

 まず、規約改正が行われたときの論議を振り返ってみよう。

 

 それより先、90年12月に行われた第27回党大会では、改革派からの執拗な民主集中制廃止の要求に対して、マルシェ書記長は「党の運営で、長い間、満場一致を追求してきたことが、決定や指導者に対する異議の表明に、悲劇的展開をみちびいた」としながらも、「民主集中制の原則については、その可能性がまだ汲みつくされていない」と、要求を拒否した。

 

 それより二年後、92年8月12日、マルシェ書記長はニューヨークのコロンビア大学を訪問し、アメリカの政治学者と懇談した際、「アメリカ左翼の経験からみて民主集中制の考え方は誤りだと思われますが」と質問され、「現在わが党にはさまざまな考え方の同志がいて、二〇年前なら排除されていたでしょうが、今は重要な地位に選出されています」「民主集中制の表現は党内のこうした変化をあいまいにし、ゆがめています。個人的には私は民主集中制に無条件に執着しているわけではありません」と答えている。(注1)

 

 それから一年半後の94年1月、第28回党大会は規約の改正という形で民主集中制の放棄、正確にいえば克服を提案した。これは支部段階での討議で九一%、県段階で九〇・四%、全国段階で九六・三%、すなわち全国大会では棄権四四票、有効投票一五八二票中、反対五二票の圧倒的多数で可決された。これによって中央委員会は全国委員会に、書記長は全国書記に、政治局は全国局に、フランス共産党中央機関紙はフランス共産党紙に改称された。(注2)

 

 94年1月25日に開始された大会討議では、県段階で規約改正案を唯一否決した英仏海峡に面するパ・ド・カレー県の代議員は「新ボリシェヴィキ」派として、民主集中制の放棄を懸念し、「もし集中制が強過ぎたとしてもそれは誰の責任か」と聞い掛け、この制度は「欠陥の原因」ではなくて「統一と効率の保証」であると主張した。彼の主張に反響は伴わず、逆に「パ・ド・カレーの『恐竜』」とからかわれたのに対して、彼は反撃した。「私の主張はジュラバークではない。しかし、ディズニーランドでもないぞ」と。(注3)

 

 

 今日は粛清、明日は追放

 

 フランスの左翼系日刊紙『ル・モンド』は当時、次のように解説した。

 民主集中制は細胞から支部、支部から県、県から中央委員会、中央委員会から政治局への各段階で次々に少数意見を排除し、書記長の示す決まりをピラミッドの頂上から底辺へ押しつけ、これと逆の方向をたどる複数主義を否定する。この規約には、フランス共産党と東欧の諸共産党の歴史を通じて、不文の準則が加わる。すなわち現在、異議を唱えている人は、昨日は粛清を主張し、明日は追放される身にあるということ。この冷酷な論理は最近は弱まった。この一〇年間に相次いで異論が発生し、それを排除することで党は疲れてしまったのだ。

 

 だが、「党は粛清によって強化される」というレーニン主義的原則に縛られ、「改革派」のジュカンとラブレス両氏の排除に、「再建派」のポペラン、リグー、ダメット氏は多かれ少なかれ加わってきたし、その「再建派」は「改築派」のフィッテルマン、エルミエ氏から同じような目で見られ、「改築派」はやっと今度の民主集中制放棄のゴングによって救われる。異論をもった多くの活動家が、これまで党の行政手続きによる屈辱をしのぶよりも、黙って闘争を放棄する道を選んだ。と。(注4)

 

 

 政治的には致命的

 

 大会第一日日の討議の終わりに、答弁に立ったマルシェ書記長は、彼が願っている「新たなタイプの共産党」は「共産主義を薄めて再生する党ではなく、それを濃くする党である」と述べ、党内保守派に対しては、民主主義という言葉の採用が、「時流への譲歩、後退の印し、要するにある種の軟化」ではないと保証した。

 

 この日の討議で、哲学者のリュシアン・セーヴ中央委員は「必要な改革があまりにも遅いし、また小心に過ぎる」と批判し、三年前の27回大会で、アンシェ・ルポール氏(ミッテラン政権下の国務大臣経験者)が提起して否決された民主集中制の廃止を、今大会で書記長自身の提案に基づいて決定するのは、「文化的に時代錯誤」であり、「政治的には致命的」と発言した。いつもは反論が湧き上がるのに、今回は指導部に近い哲学教授のジュアリ氏が、「時間の節約は大事だが、急ぎ過ぎると魂と未来を失う」と、一人だけ反論した。(注5)

 

 大会の第三日日、提案者のロベール・ユー政治局員は、これまでの活動を自己批判し、民主集中制の考え方が「統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」「共産党とその活動家はこれを遺憾とし、二度とこうした事態の起きないことを望む。……第28回大会を機に、共産党は、かつて党員であった人、あるいは共産主義者であると今考えている人のすべてに、党への参加あるいは復帰を呼びかける」と明言した。(注6)

 

 この大会を機にマルシェ氏は書記長を退き、ユー全国書記がその後を継いだ。

 

 

 イタリア共産党の先例

 

 こうしてフランス共産党は94年1月の大会で民主集中制を放棄したが、イタリア共産党は、実質的に、それより二〇年前の75年にこれを行っている。フランスの左翼系週刊誌『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』](94年1月、一五二五号)は、両党のこの歴史の違いを「イタリアの奇跡」(マルセル・パドヴァニ記者)という記事で次のように分析している。

 

 その違いを明らかにするには昔に遡らなければならない。哲学者アントニオ・グラムシは一九二〇年代に社会主義に向う自主的な道を作成した。しかし、フランスの党はインターナショナルからの、時には矛盾した指令の実行に満足していた。ファシストの支配が終わったとき、イタリアに帰国したパルミロ・トリアッチは、インターナショナルの伝統に背を向け「国民的大衆政党」の結成を提案し、その規約は新入党員にマルクス主義承認の表明さえ求めなかった。

 

 トリアッチとグラムシによって、イタリア共産党の全歴史は、自主的な決定で際立ち、その度にそれは共産主義的正統性に対する転回点となった。56年、イタリア共産党は「労働組合伝導ベルト」(党による組合支配)理論を放棄し、労働組合の自立性に道を開いた。64年、トリアッチは「多中心主義」を提起し、世界の共産主義はもはや均質的ではなく、社会主義社会を建設する中心は一つではないと発表した。彼はこれによってフランス共産党から異端と非難された。

 

 68年、イタリアの党はチェコスロバキアへのソ連軍侵入を非難し、新しいチェコの党との関係をすべて断った。75年、三つの大きな決定が行われた。まず民主集中制の実質的な放棄である。すでに党内では発言が自由に行われていた。大会は複数の方針案を審議していた。除籍あるいは除名されたものが裏切者ではなく、対話の相手とみなされていた。次にNATOへの加盟支持。このときベルリンゲルはソヴェトよりもアメリカの傘の下の方が安心できると述べる。三つ目に経済政策としての「緊縮財政」の採用である。と。

 ()、イタリア共産党は、1989年、第18回大会で、正式に、民主集中制を放棄し、分派禁止規定を削除した。

 

 

 自由電子議員の出現

 

 このような歴史の違いは両共産党をどこへ導いたか。

 イタリアでは左翼民主党を中核とした「オリーブの木」連合が、破産に瀕した国を背負い、苦しい数年のたたかいを経て、ついにマーストリヒト条約で定められた経済の均衡を達成し、欧州通貨統合の参加基準をパスした。この偉業は国の内外で高く評価されている。

 

 他方、フランスでは当時すでに存在していた党内諸潮流が、その輪郭を明らかにする。『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』(97年9月、一七一六号)の「四つに分かれた共産党」(フランソワ・バザン記者)は次のように論評する。

 同党の下院勢力は議会内同盟者二名と合せて計三六名である。

 第一の潮流は政府与党派で一〇名。この派の指導者はロベール・ユー全国書記。彼は与党の存続は共産党議員の態度にかかっていると考える。この派の路線は共産党の特徴を発揮しながら、与党の形成につとめること。

 

 第二の潮流は保守派で一〇名。この派の指導者はアラン・ボケ議員団長。彼は28回大会ではユーの競争者である。彼の意見は、連立与党内で党の違いをはっきりさせること。その路線は反マーストリヒト条約。この条約に根本的な異議を提出しなければ左翼に未来はないとする。

 

 第三は改革派で八名。指導者はギィ・ヘルミエ全国局(=元政治局)員。彼はすべての議員の意見尊重を求める。路線は反自由主義。しかし、保守派ほど反ヨーロッパ的ではなく、政府が自由主義に譲歩すると、緑の議員と共に抗議する。

 

 第四は沼沢(=中間)派で六名。指導者は不在。全国的論争には熱心でなく、選挙区の気分を反映する。

 

 その他に、自由電子と呼ばれる二人。一人はマクシム・ゴルメッツ全国局員。超正統派として孤立し、採決では規律を無視して投票。党の多様性を象徴している。もう一人はJ・P・ブラール議員で、彼は議会内同盟者。理論的には改革派に、議会活動では社会党の立場に近い。

 

 97年7月の初め、ジョスパン首相が下院の共産党議員団に挨拶によったとき、各議員が違いを目立たそうとしているのに驚いた。この日、首相は「強硬派のなかの強硬派」マクシム・ゴルメッツ議員をたしなめることさえしたのに、誰もこの党内干渉に不快を示さなかった。「確かに共産党は変った」と首相はもらした。

 

 規律の無視、派閥の争い、党機関と議員の派手な張合い、今後はもう何でもありえる。これは昨秋、福祉問題討議の際にも見られた。もともと政府案に反対の共産党議員は長い交渉の末に、棄権を選んだが、ゴルメッツは反対票を投じた。党内の「政府与党派」「保守派」「改革派」がそれぞれ三分の一弱という状況で安定を欠き、与党意識も薄い。その中で保守派のボケ議員団長は自派と改革派の提携を、現状批判の一点で図ろうとする。他方、ユー全国書記は解散を恐れる議員心理を握る。ジョスパン首相にとってはこれら共産党の前代未聞の状況が、ますます判断錯綜の源になっている。

 

 

 フランス共産党の行方

 

 それでも、当面、党勢は上向くだろうと、失業者闘争の盛り上がっている今年の初め、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』(98年1月、一七三四号)でコラムニスト(ジャック・ジュイアール記者)は次のように論評した。

 改良と革命を分かつ塀にまたがって、一方の足は政府に、他方の足は野党において、ユー全国書記はジョスパンの心配も極左の怒りも気にしない。穏健派のなかの急進派、急進派のなかの穏健派。貧者と責任者の言葉を使い分け、彼は共産党の下降曲線を上向きにすることに専念している。

 

 彼は成功するか? 短期的にはこの両面作戦は成功するだろう。とくに余り重大な結果を導かない今度の地方選挙では成功するだろう。

 

 だが、あえて共産党を中期的に予言してみよう。すでに各派に引き裂かれたこの党は、社会主義者に合流する大衆的な改良派と、極左の再生をもたらすプチブルの反体制派に分裂するだろう。95年以来、この反体制派の再生は明らかだ。しかし、かつての共産党と違って、これは革命的ではない。権力獲得とその行使の手段も意志ももたない。明確な階級的基盤を欠き、古典的プロレタリアを掴み切っていない。多くの場合にトロツキスト運動で育てられ、プチブルの知識人の間から引き抜かれたプロによって指導され、学生、移民、失業者に支持を求めている。

 

 

 社共分裂の歴史に幕か

 

 彼の予測通り、本年3月15日の県議会選一回目投票につぐ、22日の二回目で、社会党は三一二名から六四七名へと二倍以上に躍進し、戦後史上かつてない大勝利を得たのにともない、共産党も一〇〇名から一三六名に前進した。

 

 この県議選結果に関連して、前記ジュイアール記者は、「共産党の地盤はどのように沈下したか」というコラムを次のように書いた。

 共産党は共同政府綱領成立後の74年大統領選挙を除いて、党創立以来初めて、一回目投票から候補者を立てず、共同リストに加わった。これは進歩だ。しかしこれは、戦後来のフランス政界で共産党が失速し、自己を次第に見失い、社会民主主義の左派としての自分を受け入れる明らかな証拠だ。

 

 国土解放以後におけるこの党の姿を見てみよう。46年11月には有効投票の二八・六%を獲得した。それから徐々に転落する過程は省こう。最大の誤りは60年代に訪れたチャンスを逃がしたことだ。イタリア共産党はそれに成功した。当時、フランス社会党は停滞し、共産党は左翼内最大勢力を維持していた。スターリン主義と明確に手を切り、改良的綱領を採択して、その優位を確保すべきだった。ワルデック・ロシェ書記長はそれを知っていたようだが、できなかった。

 

 今、共産党の財産は三つに分裂した。一つは社会党と保守を経て、極右の国民戦線に流れた。都市や郊外の下町を見れば明らかなとおり、国民戦線は共産党の地盤を浸食している。切り取られた下町の地盤を回復しない限り、社会学的多数派に左翼は返り咲けない。

 

 二つ目の部分は、革命の理想に忠実であり、極左のトロツキスト、アナキストや、新たな社会問題と闘う運動に接近している。移民、失業、貧困、ホームレスの問題だ。今回の地方選挙結果は、極左や体制反対派の選挙結果には限界があることを再確認した。しかし、政治的予言を掲げながら社会的・人道的戦闘性を発揮するこの部分の活力には、異論の余地がない。

 

 三つ目の部分が現共産党である。前マルシェ書記長が革命と統一の論理の間で揺れたのと違い、ロベール・ユーははっきり選択した。政府への参加、左翼共同リストの作成である。政界の再編成は進行している。一九二〇年のツール大会で社会主義者は社共に分裂し、社のブルムと共のカシアンは敵対した。逆のツール大会の一夜が訪れ、ジョスパンの仲介で、ブルムとカシアンの仲直りが、ここ数年のうちに実現するだろう。やがてそれは分かることだ。いずれにせよ、四分の一世紀前には不可能と思われたことが、今後は明らかになる。つまり、共産主義は社会民主主義のなかに溶け込む。(注7)

 

 コラムニストのジュイアール氏は歴史家。毎週の『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』で健筆を振るっている。彼の大胆な予測に注目したい。

 

 注

 1 『リベラシオン』 92年8月13日付

 2 『ル・モンド』 94年1月31日付

 3 同前 1月27日付

 4 同前 1月27日付

 5 同前 1月28日付

 6 同前 1月29日付

 7 『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』 98年3月、一七四一号

 

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 〔関連ファイル〕

   『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』

   アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてならないこと』

   『イタリア左翼民主党の規約を読む』

   『なぜ民主集中制の擁護か』

   『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4つのシステム