共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと

 

ルイ・アルチュセール

 

 (注)、これは、哲学者であり、フランス共産党員のルイ・アルチュセールの論文で、1978年4月に『ル・モンド』紙に掲載されたものである。その第二章、「組織−支配の機械」から一部抜粋をした。この抜粋部分は、民主主義的中央集権制システムおよび専従活動家システムに関する内容の個所である。日本では、1979年に「新評論」社から、加藤晴久東京大学助教授訳で出版された。1978年3月の総選挙結果に関するフランス共産党中央委員会の総括内容をめぐって、千数百人以上の知識人党員が公然と異議申し立てを表明した。この論文は、ルイ・アルチュセールの党中央批判内容である。それへの党中央の対応については、加藤氏が詳細な事実経過と解説を書いている。尚、訳書の傍点個所は太字にした。

 

 〔目次〕

   1、徹底的に変えなければならぬ運営方式

   2、国家機構と軍事機構を敷き写しにした党

   3、ブルジョア的な政治運営方式

   4、指導者間の盟約

 

 (関連ファイル)           健一MENUに戻る

     『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』

     福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

     福田玲三『史上初めて対案提出』フランス共産党32回大会

     『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

     柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』

     加藤哲郎『ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織』

     『コミンテルン型共産主義運動の現状』

     『ゆううつなる党派』その動態的・機能的党勢力

     『なぜ民主集中制の擁護か

 

 1、徹底的に変えなければならぬ運営方式

 いま多くの党員が言っている、「これ以上こんなことを続けてはいられない」、党というこの〔機械〕の運転方式を告発し、徹底的に変えなければならない、と。これは、彼ら自身のため、彼らの党員としての自由のため、すなわち党のため(党とは、すなわち党員なのだから)ばかりでなく、フランスの勤労者大衆のためである。フランスの勤労者大衆は、共産党なしでは階級闘争に勝利することはできない。しかしそれ以上に、この、いまあるままの共産党とともにではますます勝利することはできないのだ。(途中略)

 党史を書くというのはひとつの政治的課題である。指導部の現状を知っている者は、フランス共産党が、ソ連共産党とまったく同じように、おのれ自身の歴史を書くことができないという事実に、だれも驚かないだろう。党は自己の歴史を正面から見ることに耐えられないのだ。というのも、数々の誤りやそれ以上の事柄を告白しなければならなくなるだろうが、党はそれらに《光をあてる》ことは絶対に望まないからである。

 2、国家機構と軍事機構を敷き写しにした党

 以上のことをことわったうえで、党とはなにかを考えてみよう。

 私は〔機械、マシーヌ〕という言葉をわざと使っている。国家を論じた際にマルクスとレーニンが用いた言葉であるからだ。実際、誰もが確認できる驚くべき事実がある。すなわち、党はもちろん本物の国家ではないが、あたかも党が、その構造において、またヒエラルキーにもとづいた運営において、ブルジョア議会制国家機構と軍事機構を敷き写しにしたかのように、すべてが進行しているという事実である。

 まず党の議会制的側面。最下端に党員から成る国民がいる。彼らは彼らの細胞と地区党組織のなかで自由に討議する。彼らは《主権者たる国民》である。だが、専従活動家が掌握している県書記局の段階に達すると、《主権者》ももう先へ進めない。越えられない溝がある。そこから先では、機関が下部に優先する。物事は真剣に(指導部にとって)なりはじめる。国民たる下部の意思は選挙において表明されるが、この選挙たるや、超反動的な形式(大会代議員の場合、三段階の多数決投票)で、しかも「候補者選考委員会」(この委員会の存在は「幹部」の選挙の場合は規約に適合しているが、大会代議員の選挙の場合にも規約に違反して拡大されている)の厳重な監視のもとに行なわれるのである。

 こうした選挙制が幹部のヒエラルキーを生みだす。地区委員会と地区書記局のメンバー→県委員会と県書記局のメンバー→中央委員会。その上に中央委員会の政治局と書記局。中央委員会は念入りに選別された県代表によって選挙されるわけだが、党の最高機関であり、立法・執行機関であるとされている。実際にはこの最高機関は、なにか新しいことを提案するよりは、指導部が行った決定の記録機関として、またそれらの決定を実行させるための機関として機能する。中央委員会がなにごとであれ発議したことがあるという話しは聞いたためしがない。実際には中央委員会は、指導部の立法機関であるよりは執行機関なのだ。その点で、中央委員会はいわば全国知事会議〔フランスの県知事は任命制〕である。県党組織を《フォロー》したり、つまり密着して監視したり、県書記を任命したり、微妙な問題を解決したりさせるために、指導部が全国に派遣するところの知事の集団である。

 指導部が依拠しているのは、中央委員会の正規のメンバーだけではない。中央委員会の専従勤務員や協力者といった、あらゆる種類の官僚――選挙されたのではない、能力あるいは人脈に基づいて、いつも選考指名(コオプタシオン、すでにある機関の成員になっている者たちが新しい成員を指名すること)によって任命される、あの陰の人々――の強大な、しばしば隠れた力と、それにあらゆる分野の専門家にも支えられているのである。

 次に党の軍隊的側面。右の記述は、絶対的な縦割り構造という基本原則を付け加えなければ不完全である。軍隊の階級制度(ヒエラルキー)のそれを想起させるこの縦割り構造(クルワゾヌマン)には2つの効用がある。第一に、すべての下部党員を、彼の所属する細胞から地区党組織、さらにはその上の県党組織と中央委員会へと通じる、狭い吹き抜け(コロンヌ・モンタント)のなかに閉込める。この《上り通行(シルキュラシオン・モンタント)》を制御するのは専従幹部である。彼らは中央の決定を考慮しつつ下部の寄与を慎重に選り分ける。第二に、代議員になって地区党会議や県党会議に出席する場合を除けば、下部党員は他のいかなる細胞の党員ともどんな関係も保つことはできない。他の細胞は別の吹き抜けに所属するからである。《横の関係》をうちたてようとする一切の試みは、今もなお《分派活動》であるとされる。他方、《上り通行》は県党組織どまりで、中央にまで達することは中央の承認がない限り決してありえないが、その代わり、同じ吹き抜けによる《下り通行(シルキュラシオン・デサンダント)》はいかなる障害にもぶつからない。上部の指令はすべて下部に到達する。

 それはちょうど軍隊と同じである。軍隊においては、作戦の有効性のために、絶対的な指揮命令権および機密を必要とする。と同時にまた、戦闘に投入された諸部隊のあいだを完全に遮断しておく必要がある。党を軍隊となぞらえるのは党にたいする侮辱を意味しない。非合法化されていたレーニンの時代、対ナチ=レジスタンスの時代のように、党が自己を防衛し行動するために軍隊のような組織形態と安全装置を持たなければならなかった時期があった。当時の状況からすれば縦割り構造をとったのは、きわめて正当な措置であったと言えるが、今日の状況ではそうした縦割り構造は時代遅れ、時代錯誤であり、また主体性を喪失させるものである。党員だけではなく、大衆にとっても、さらには幹部にとっても。

 3、ブルジョア的な政治運営方式

 このように、軍隊式の縦割り構造のモデルと議会民主制のモデルとを結合することによって、党は必然的にブルジョア的な政治運営方式を再生産する――しかもそれを強化しつつ――ことになる。議会制のモデルから得られる利点は、周知のとおりである。すなわちブルジョアジーがその政治支配の諸形態を自由な《公民、シトワイヤン》に再生産させるのとまったく同様に、党指導部はその支配の諸形態を党員に再生産させるのである。軍隊式の縦割り構造のモデルからはとりわけ、幹部の選考指名(コオプタシオン)を選挙(エレクシオン)に見せかけることができるという、小さからぬ利点が得られる。というのも「秘密投票による選挙」という体裁をとっているが、細胞の場合を除いて大多数の幹部の選出は選考指名によって行われているからである。軍隊と議会制の二つのモデルの組合せの結果、指導部の政治的支配形態の再生産のみならず、指導部自体の再生産が可能になる。指導者の再生産の幅の狭さゆえに事実上、彼らの更迭はあり得なくなる。たとえ彼らがどんな失敗を犯そうが、またときには(一九四〇年秋、ナチ占領下にもかかわらず強引に進められた「合法化」路線の場合のように)どんな政治的破産に導こうが、である。

 4、指導者間の盟約

 党員を支配し監督し操るこの機械の見事な働きぶりを知るには、この機械がそれ固有の他をもって代えがたい所産として、文字通り生産するところの活動家のタイプを見るにしくはない。つまり終身雇用の専従活動家である。彼は、めしの種とひきかえに無条件の服従を要求する非情の掟によって党につながれている。専従活動家は、このめしの種を棄てることはできない。なぜなら専従活動家(各種青年運動あるいは共産主義学生同盟の出身者が少なくない)はこれまで一度も職に就いたことがないか、あるいはもうすっかり忘れてしまっているかのどちらかであるからである。しかも大抵の場合、専従活動家は専従になったことで大衆との真の接触が得られるわけでもない。いつも大衆をコントロールすることに専念しているからである。二〇年も三〇年も前から労働者の地位を、程度の差はあれそれなりの《職責》を担った官僚化した知識人の地位と交換してしまっているのに、自分の有権者カードに《土木労働者》《郵便局員》《金属工》などと書き入れるとは、せめてもの慰めではあろうが、またなんという欺瞞であることか!専従党員といってもいろいろで、中央委員会や県党組織の官僚的専従党員と、下部と実際に接触しつつ活動している専従党員との間には雲泥の差がある。

 しかしながら、専従であるということは、絶大な権力という補償も下部との接触という宝も得られない地位にある大部分の者たちの場合には、党の狂気(デレーゾン)――専従党員はこれを近くで見ることができる場に置かれている。ただし沈黙している。あるいは諦めて順応するという条件つきでだ――を無理にでも正気(レーゾン)に昇華させるのでない限り、とうてい堪え忍ぶことのできない悲劇(ドラマ)である。コミンフォルミスムからであるにせよ仕方なくであるにせよ、忠実かつ従順であること、これこそが神がかり的な盲従者でない限り、専従活動家に残された自由である。つまりなにも残されていない。彼が下部と結びつきうる状態になく、また下部と結びつくことを欲するだけ十分に共産主義者でない限りは。

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 (関連ファイル)

     『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』

     福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

     福田玲三『史上初めて対案提出』フランス共産党32回大会

     『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

     柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』

     加藤哲郎『ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織』

     『コミンテルン型共産主義運動の現状』

     『ゆううつなる党派』その動態的・機能的党勢力

     『なぜ民主集中制の擁護か