ボリシェヴィキ権力とロシア農民

 

――戦時共産主義下の農村――

 

梶川伸一

 

 (注)、これは、梶川伸一名城大学助教授著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、1998)からの下記〔目次〕部分の抜粋です。梶川氏は、現在、金沢大学文学部教授です。前著『飢餓の革命』では、「ロシア十月革命と農民」のテーマで、十月革命、1918年5月の食糧独裁令強行、農村における階級闘争を引き起こすための貧農委員会組織化とその失敗・18年秋の解散までを分析しました。

 本書は、その続編となる631ページの大著です。食糧独裁令の第2過程「割当徴発制」を18年秋から1920・21年大規模な農民反乱まで研究した内容です。このHPでの抜粋個所は、ネップ導入の直前での「第八章・ロシア農村の危機」全文を載せ、それとの関係で、「はしがき」「序章・戦時共産主義と農民」全文を載せました。3つの文が長いので、第八章を分割ファイルにしました。このHPに転載することについては、梶川氏の了解を頂いてあります。

 

 「表紙カバー裏」の文が、本書内容を簡潔に示しています。「ソ連が崩壊して十年近くが経過し、資料の公開を含め、従来のステレオタイプの政治的、イデオロギー的呪縛から解放されたロシア・ソ連史研究が可能な、客観的条件がようやく整えられた。本書では、従来の「労農同盟」論に疑問を投げかけ、十月革命史を根本的に再検討する。十月革命からの歴史を都市労働者と共同体農民との対立の構図で捉え、この当初から内在していた矛盾が、全国的飢餓状況を媒介として極限にまで尖鋭化したことを明らかにする。すなわち、戦時共産主義期におけるボリシェヴィキ権力と農民との関係を、モスクワの公文書資料館の未公開資料を用いて具体的に描くことで、従来主張されてきたようなロシア革命=「労農同盟」論を否定し、新たなロシア革命像を描く。」

 

 〔目次〕

    はしがき 全文

    序章 戦時共産主義と農民 全文(P.1〜20)

    第一章〜第七章までの「目次」のみ P.29〜560)

 

    第八章 ロシア農村の危機 全文(P.561〜615)(別ファイル)

     一、割当徴発への不満

     二、凶作に直面して

     三、軍事=徴発体制の危機

     四、シベリアでの農民反乱

     五、タムボフ反乱

 

 (関連ファイル)             健一MENUに戻る

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    梶川伸一『幻想の革命』ネップ「神話」の解体

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    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

        1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

        クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

    『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領と農民反乱との関係

 

 はしがき 全文

 

 ロシア十月革命が生じて八〇年が経ち、ソ連が崩壊して六年が経過した。この間ロシアの公文書館(アルヒーフ)の非公開文書が開けられ欧米研究者に一定の情報公開がなされ、旧ソ連研究者の一定部分は従前のイデオロギー的呪縛から解放され、ロシア革命史に新たな視野を開く機会が与えられた。これまでの様々な理由により歪められた歴史のヴェールを剥ぎ取れば、そこで浮かび上がってくるのは、紛れもなく民衆の悲劇であり、二〇世紀の最大の悲劇の一つであり、それは喧しい議論とともに往々にして「社会主義=ユートピア論」に結びつけられる。

 

 われわれロシア=ソ連史研究者にとって、しかし重要なことは「社会主義社会」の構築過程を単にユートピアに基づく悲劇として退け、断罪することではなく(この論拠に基づけば一九世紀後半からのあらゆる共産主義運動は悲劇の元凶になろう)、それが歴史的現実であったことの認識であろう。当時ヨーロッパ=ロシアにあった一億四〇〇〇万人以上と、その後の何世代もの人々の命運を決定づけた事実は重く現存している(本書はロシア共和国以外の地域は考察されていない)。本書の目的は、この悲劇の元凶探しにあるのではなく、十月蜂起後の、特に戦時共産主義期のロシア社会の現実を叙述することにある(この時期は内戦期とも称されているが、この時の政策の根幹は軍事状況とともに共産主義的イデオロギーにあり、それが固有の政策を生みだしたので、本書では「戦時共産主義」期の名称が用いられる)。ここで描かれるのは、ボリシェヴィキ権力と農村共同体との対立の構図であり、都市プロレタリアと勤労農民との敵対関係である。そこで現出する敵意の根元は、革命と反革命よりむしろ一九一七年から顕著になりはじめる飢餓である、というのがぼくの主張である。このことについては『飢餓の革命:ロシア十月革命と農民』(名古屋大学出版会、一九九七年)で論じた。本書でも穀物の取り分をめぐる確執が、ここでの叙述の中心となる。

 

 本書を著した経緯については、前著の「はしがき」で触れたが、九二年度日本学術振興会による一〇カ月ほどと、九六年のほんの短いモスクワ滞在で読み、蒐集した資料が本書で利用されている。これら資料に基づき十月蜂起からネップ体制の成立までを著そうとしたのだが、駄文を重ねるうちに何冊分かの分量になってしまい、凝縮して一冊の書物にするのも選択肢であったが、この時期のロシア農村に関する研究書は、すくなくとも日本ではまだ公刊されていないことを勘案し、結局は独立した分冊にして出版することにして、とりあえず出したのが前著と本書である(後はちょっと息が続かなくなった)。個人の職人的仕事でしかなく(ブローデルのように粋がるわけではなく、ロシア語で「職人的」に該当する言葉には粗雑なとの意が込められていることを思い起こしつつ)、早晩若手研究者に踏み超えられる素材でしかないとしても、これまで等閑視されてきた、もしくは誤ってイメージされてきたこの時代の状況を叙述することの意義は失われていないと確信する。前著の「はしがき」を繰り返せば、ボリシェヴィキ政権下の農村の風景を描くことが本書の基本である。贅言を弄した理由はほかにはない。ブハーリンの過渡期経済理論も、トロツキーの輝かしい戦歴も登場しない。細かなニュアンスを除けば、ボリシェヴィキ指導部には農村からの食糧の収奪により内戦を乗り切るとの基本的政策にほとんど異論が認められないからである(少なくとも二〇年末までは)。以下では、戦時共産主義期に都市プロレタリアによって農産物も生活必需品までもが一切合切奪われた農民の悲惨な生活と農民経営の荒廃が述べられるにすぎない。これは決して社会主義建設に向けての階級闘争ではありえなかった。前著ではこれを都市と農村、あるいは中央と地方との対立と表現した(単純すぎる図式とはいえ、少なくとも大筋では)。これを「近代的」イデオロギーと伝統的規範、ポリティカル・エコノミーとモラル・エコノミーとの対立と解釈できるかもしれない。

 

 長くもないぼくの研究生活の中で、本書がカバーする十月蜂起からネップへの転換までの時期、換言すれば飢餓の革命期から二一年の飢饉の直前にいたる戦時共産主義期は、いわば初期ソヴェト・ロシア史の中のミッシング・リンクであり、この部分だけは日本にいては執筆できないと思われた。なぜなら、当時の定期刊行物は、新聞であれ機関誌であれ、公式論の表明以外に農村の現状に関する情報はきわめて乏しく、ごくわずかな例外を除いて、旧ソ連や欧米の文献も政治史、軍事史のほかにはこの時期の実体的研究がほとんどなかったからである(ただし、これら例外的作品の中に注目すべき労作があることは、本文で触れられている)。日本にあってはこの時期の研究者さえほとんどいないのが実状である。ヒロイズムの時代でもなく、圧制の時代でもない、時代状況そのものを描く必要を感じながらも、資料不足の状態が続いた。そのような中で、モスクワでアルヒーフ資料を読む機会を与えられたのは好運というべきで、個人的怠惰により地方の資料を集めることは断念せざるをえなかったが、この時期の権力と民衆、特に農民との関係の骨格を掴むための最小限の材料は入手できたと思っている。本書では、戦時共産主義政策の根幹ともいうべき割当徴発制度をめぐって論が展開されるが、それはこの制度そのものにボリシェヴィキの対農民政策が凝縮されていると考えているからにほかならない。ある意味ではロシア社会主義の本質が。三〇年代にいたるまでは疑いもなく、社会主義ロシアは農村ロシアであった。レーニンが一九年八月に、「今や食糧問題が社会主義建設全体の基盤である」と確言したように、この問題はソヴェト・ロシアの運命を決定づけた。

 

 この時期には特に戦況がロシア社会主義革命全体を左右したのは事実であるが、さまざまな理由で赤軍と白衛軍・干渉軍との軍事的局面に関する記述は最小限に抑えられている。農民史研究の碩学の二人、ダニーロフとシャーニンは、浩瀚なシリーズを予定している『ロシアの農民革命』の最初の巻に充てられた『タムボフ県の農民反乱』の序文の中で、この時期の従来の歴史研究について次のように述べている。「ロシア革命を研究する際に、国家権力をめぐる容赦のない、非妥協的な闘争で衝突する主要な政治的組織的勢力である「赤」と「白」に長い間研究者の関心が占められてきた。最終的に、ロシアにおける革命と内戦の歴史はそれらの対立に帰着した。それ以外の社会的勢力の運動と活動は個々の具体的現象で考察され、それは、ブルジョワジーと労働者階級の闘争に向けられた全体的な革命の流れの挿話としてしか解釈されなかった」。このような「挿話」の部分が、基本的にはそれだけが本書であつかわれる。

 

 しかしながらこの「挿話」は、政治=軍事問題と直接にも間接にも深く絡み合いながら、最終的には戦時共産主義政策の継続を不可能にさせる、ソヴェト・ロシアの帰趨を決定づけるだけの影響力をおびた。これら個々の事例ははじめは「挿話」でしかなかったとしても、それらすべてが二〇年に濃密な大きなうねりとなってボリシェヴィキ体制を揺るがせた。ウクライナ、シベリア、中央黒土一帯を覆った大規模な農民反乱に加えて、完全なロシア農業の荒廃は、戦時共産主義体制の存続を もはや許さなかった。本書では、従来の主張のように反ボリシェヴィキ=政治反乱として農民闘争は描かれていない。十月蜂起以来食糧調達であれ、赤軍兵士徴募であれ、勤労動員であれ、そのほかさまざまな理由でこの時期に各地で農民反乱が勃発したが、「階級闘争」を原因とするものはきわめて稀であった(これについては前著を参照して欲しい)。深刻になりつつある飢餓の中で萎えた麦穂を見、翌年分の種籾を食さなければならなくなったとき、絶望した農民大衆は立ち上がった。二一年の飢饉で頂点を迎えるロシア農業の崩壊も、二〇年夏に生じた旱魃などの自然災害の必然的結果であると認めるのは難しい(それが主因の一つであるとしても)。播種用の種子にまで割当徴発がおよんでいただけでなく、そのために勤労意欲を喪失し消費基準ぎりぎりにまで経営を縮小していた農民には、被災時のための貯蔵はもうすでになく、わずかな旱魃、霜害、虫害を蒙った経営はそれを復元するだけの力は、心的にも物質的にも残されていなかった。この意味で二一年の飢饉は戦時共産主義政策の必然的帰結であり、人為的である。母親が子供の肉を食らうような飢饉にまでいたらしめた政策は、あまりにも悲劇的としかいいようがないが、幸いなことに本書で描かれる風景はそこまで筆はおよんでいない。

 

 (以下10行略)  1998年1月28日    梶川伸一

 

 

 

 序章・戦時共産主義と農民 全文

 

 一九一七年の十月蜂起直前のペトログラードの食糧状態は破滅的で、一〇月二三日までの穀物搬入量は一〇月計画量の〇・九パーセントであり、市ドゥーマ会議では「もし近日中に充分な量の穀類と麦粉を受け取らなければ、一週間でペトログラードはまったく麦粉なしの危険に晒される」と報告された。一〇月二一日からパン配給は一日半フントに縮小された。こうした飢餓の中ではじまったロシア十月革命であったが、一七年の革命情勢で掲げられた民衆の要求のうち土地と平和は、それが一時的幻想であったとしても、ソヴェト権力の樹立を唱い挙げた第二回全ロシア・ソヴェト大会で解決が示された。だが、食糧問題については何ら方針が指示されることなく、民衆は厳しい冬を迎えた。ニジェゴロド県ボゴロドスクでは石油と薪の欠乏も重なり、特に子供の死亡率は恐るべき規模に達し、地方議会と労働者はこの災厄の原因をボリシェヴィキの政策に帰した。

 

 組織的解体に燃料不足と雪溜まりが加わって、鉄道運送は停滞し、一八年一月七日にペトログラードのパン配給は四分の一フントに縮小したが、それでも一月半ばでこの基準で同食糧参事会の倉庫には五日分の貯蔵にも不足した。雪が融け、泥濘期を過ぎてさらに悪化した。食糧参事会の決定により五月一九日からパンの基本配給は八分の一フントまでになった。地方はさらに劣悪であった。この冬カルーガ、スモレンスク県では月半フントの配給であった。トヴェリ県の多くの郷で農民は、粗殻、油粕、麩を食し、餓死者が出て、住民は食糧小売店を略奪した。

 

 十月革命はこれまでの都市と農村との対立を解消せず、飢餓のためにそれは深まり、このため飢餓はいっそう尖鋭化した。大戦下で穀物商業は解体され、一七年の革命の中で鉄道駅や倉庫の穀物貯蔵は消尽され、勤労農民にしか穀物は残されていなかった。農民はすでに生産原価にも食い込むような臨時政府期の低い固定価格による自発的な穀物の供出を拒否し、穀物の搬送は停止した。飢えた都市労働者はかつぎ屋となって穀物を求めて四散したが、それでも穀物を獲得するのは困難であった。五月に、スモレンスク県ベラゴから、「食糧の到着は止まった。飢餓が突発した。一揆が起こっている。緊急に穀物を引き渡すようお願いする」と、モスクワ県から、「飢えた群集は穀物を求めている。倉庫に穀物はない。ルザとヴェレヤ市で一揆が生じた」と報じられた。さらに悪いことには全般的飢餓状況の下で、地方権力組織は地域内での穀物の確保を目指した。ヴォルガ中流のサラトフ県の食糧県コミサールは五月半ばに、県内での穀物調達を無条件に禁止するとともに、国家固定価格を破棄して新たにライ麦プード当たり一八ルーブリの固定価格を独自に定めた。県食糧委は食糧人民委員部全権の調達を妨げ、それに対し食糧人民委員ツュルーパは、 このような活動は食糧人民委員部への積極的抵抗と見なし、責任者は革命裁判所に引き渡すと警告した。ツアリーツィン、アストラハン、ヴィヤトカ、カザン県など穀物生産諸県各地で国家固定価格が破棄され、ペンザ県では穀物自由商業が宣言された。中央権力が直面したのは、県から村にいたるソヴェトによるこれら「食糧分権主義」であり、まずこれを克服する必要に迫られた。

 

 官報で幾度も繰り返されたペトログラードの異常な破滅的五月に、食糧独裁に関する一連の決定がなされた。一三日づけのいわゆる『食糧独裁令』は、播種と個人消費を超えるすべての余剰の供出義務を定め、国家による穀物調達に法的根拠を与えた。さらに二七日布告は、従来食糧組織は現地ソヴェトに従属していたのを改め、非常大権を付与された国家機関である食糧人民委員部に全面的に従属することを定めた。ここで創出された体制が「食糧独裁」であった。食糧独裁とは、食糧人民委員部がその強大な下部機関を通して、農村に「プロレタリア」権力組織(労働者部隊、貧農委、コムニスト)を動員して強権的に穀物を徴収するシステムを意味するだけではなかった。そもそも、「十月革命」または初期ソヴェト体制とは、自然発生的農民運動とボリシェヴィキ的都市革命の緩やかな統合体であり、共闘体制を採ったとしても、あくまでもそれは一定の自立的地域的運動体にすぎず、そのことは、一七年一二月に内務人民委員部のソヴェトに関する指令の中で、「地方の権力組織である労働者、兵士、農民、バトラーク[雇農]代表ソヴェトは、地方的問題で完全に独立している」と保証されていた。いうまでもなく、食糧問題は完全に地方的問題であるはずであったが、こうして地方ソヴェトが持つ根元的権利が侵犯され、これ以後、強権発動による中央権力への地方権力の従属過程がはじまった。これは戦時共産主義期の開始を意味した。これから描こうとするのはロマンチシズムが横溢する「歴史上かってみない英雄主義によって飾られる」時代ではなく、ボリシェヴィキ権力により物心ともに荒廃させられるロシア農民の悲劇としての戦時共産主義の歴史である。

 

 この時、ВЦИК(全ロシア中央執行委)会議で食糧独裁をめぐり激しい議論が展開されていた。五月九日の会議で、地方権力によるサボタージュを食糧危機の原因と見て、食糧の中央集権化を要求したツュルーパに対し、出席したあらゆる他党派の代表は激しい論難を浴びせた。そこでの問題は、農民の評価に係わっていた。ボリシェヴィキは、農民を階級基準により富農=クラーク、中農、貧農に分類するが、食糧独裁令の下では穀物なし農民=貧農だけが同盟の対象者であり、それ以外の穀物持ち農民は徴収の対象者、すなわち農村内「階級闘争」の適用者であった。シベリアに派遣された経験を踏まえてシリーフチェルは、「わたしは恐らく全農民の一〇分の九がこれ[余剰持ち農民]であるとあえていおう。これが、まさに階級闘争の原則を適用すれば穀物を取り上げることができる層である」とまで断言した。左翼エスエルは、非常措置の適用が勤労農民におよぶ危険があるとして、食糧独裁に激しく反対を表明し、ボリシェヴィキとの分裂は決定的となった。メンシェヴィクのダーンは的確にも、食糧独裁は「本質的に農民への真の宣戦布告である」と喝破した。

 

 地方では早くもボリシェヴィキの中でその反農民政策への懸念が表明されていた。一八年夏に後に農業人民委員部参与となるペンザ県執行委議長B・クラーエフは県コムニスト協議会で中農について次のように語った。「中農はソヴェト権力から、平和、土地、免税を受け取った。これらの利益のほかに、彼らは不利益を、食糧問題を受け取った。穀物余剰と交換に中農は繊維、釘、ナイフ、そのほかを要求している。われわれは、彼らに現在蒙っている不利益は一時的であることを説明して、中農をわが隊列に引きずり込まなければならない」。しかし、農民大衆の要求を充たすことができず、彼らの不満は高まった。もちろん貧農委期にも農村の階層分化は起こらなかった。農民が革命意識に基づき反革命に敵対したと考えるのも誤りである。ヴォロネジ県からの報告書によれば、農民はソヴェト権力に不信を抱いているとしても、コルチャークの権力はソヴェト権力よりはるかに悪いだろうと考えて、ボリシェヴィキを支持しているにすぎなかった。赤軍隊列への農民の動員がはじまり、村は動揺した。多くの場合、彼らは残された家族のことを心配した。

 

 貧農委の設置の際にも、特別税の導入の際にも、中央権力は農村内「階級闘争」を促す措置を正当化した。しかし、現実には党セヴェロドヴィンスク県委が伝えるように、農村内分化でなく「農村と都市との分裂раскол」が起こった。県の現状は次のように報告された。「農民は冬の間中石油も、石鹸も、時には塩もほとんど受け取らず、ごくわずかな煙草、マッチ、織物を受け取り、現在多くの郷は、飼料はいうまでもなく、種子を持っていない。[……]農民におよぼしているこれら状況は呆れはてるだけで、現在の動員に次ぐ動員、徴収に次ぐ徴収に彼らは堪えなければならない。[……]そこで、村を訪れると、全員から一様に焦眉の難問を聴かなければならない。なぜ、都市の労働者は自分たちより多くを受け取っているのか。家畜のために飼料を手に入れ、種子や穀物を収穫するわれわれより少なくしか働かないのに」。

 

 このような状況で農民の不満が反乱に転化するのは容易であった。しかし、トウーラ、リャザニ県の一連の郷で一一月に起こった反ソヴェト直接行動を調査して、ВЦИК幹部会員П・スミドーヴィッチは、ヤロスラヴリでの労働者の、トゥーラ県クラピヴナ郡での農民の直接行動のわずかな例外を除き、生産物不足とそれらの原因を関連づけなかった。以下がその詳細な報告である。

 

 一一月一五日にリャザニ県[中部]スパッスク郡の方々で同時にナバート[共同体農民の合図となった教会の警鐘]が鳴り響いた。カシモフの方からも、トゥーラの方面からも。翌日運動は[西方の]スパッスク、プロンスク、ミハイロフ郡を席巻し、[リャザニ県に隣接する]トゥーラ県カシラ、ヴェニョフ、エピファニ郡に広がった。次いで運動はエゴリエフスク郡を除くリャザニ県の残りの郡に移り、そしてトゥーラ県の一連の郡にもおよんだ。直ちに郡毎に白衛軍的参謀本部がその活動を公然化し、郷参謀本部の組織化についてのプリカース[命令書]が郷毎に送られた。郷参謀本部はナバートにより村住民を決起させ、武器を渡し、集結場所に連れて行き、郡都への直接行動を起こし、クラーク分子は兵役忌避者に頼って多少とも強圧的に住民を郷ソヴェトに駆り出し、そこで全ソヴェト職員を捕らえて、郷にあるすべての武器を奪い、時にはもっとも憎悪の的になっていたボリシェヴィキ・コミサールを殺害した。ここで駆けつけた白衛軍兵士により演説が行われ、ビラとプリカースが読み上げられ、宣言文が作成され、参謀本部と指導者が選出される。ビラと宣言文は要求する。「戦争止めろ! 動員止めろ、穀物登録止めろ、税を廃止せよ、ソヴェト権力打倒」と。反乱の開始時には非武装の二〇〜三〇人の小部隊が送り出され、それが反乱の領域を直ちに拡大させた(カシモフ、ミハイロフ、プロンスク郡へと)。参謀本部から指示された時間に郡都へ農民は移動し、次いで鉄道、電信、電話を破壊した。農民は散弾銃、三叉、棍棒で武装していた。ライフル銃は郡で通常は数十丁、稀には数百丁と勘定されている。ゆっくりと群集は郡都に向かい、そして引き返す。白衛軍兵士は群集を歩きながら、時には馬上から指揮し、市に接近する際に群集は何十もの武装したコムニストと赤軍部隊に遭遇する。勇敢な反撃で冷水を浴びせられた何千もの群集は郷に引き返す。中央からの軍事部隊の到着で鎮圧がはじまった。機関銃の銃撃により群集は沈黙した。白衛軍参謀本部は旧将校からなり、将校の指導者は現地で銃殺されたが、その多くは跡形もなく消え失せた。

 

 われわれはこれに類する多数の農民の直接行動が食糧独裁令の後で特に頻繁に生じた事実を知っているが、その原因を、スミドーヴィッチが無知な農民と農村権力の脆弱な活動に帰すのは、ほとんどのボリシェヴィキに通底した。彼はそれらの原因を次のように指摘する。

 一、ソヴェト活動に関する農民の完全な情報不足。郷まで文献が充分に届かず、村ではさらにひどい。農民は読むことに慣れてなく、しばしば不合理な風聞をむさぼっている。風聞は司祭、反革命的教師や識字力のあるクラークから流される。もし、学校からイコンを外せば、農民にこのようにいう。明日は百姓小屋からイコンが外され、明後日には首から十字架が外され、教会が禁止されると。そしてこれを農民は信じてしまう。そこで農村に関係のある布告と訓令は分かり易く書かれなければならず、これら文書はすべての村スホード[寄り合い]で必ず大声で読まれるために村に配布されなければならない。

 二、村の政治的文盲。情宣は充分に行われず、体系的に設定されなかった。

 三、郷執行委はソヴェト布告を充分に理解していない。

 四、郡権力からの郷委員会への統制が弱く、指導力が不足している。県執行委から郡執行委への統制も同様に弱い。県・郡執行委はその村の選挙人との結びつきが弱く、都市住民とまったく隔絶している。

 五、これらのことすべてが農村での党活動の混乱と結びついている。党からのソヴェト組織の活動への統制も弱い。党委員会は自らを権力と見なし、執行委の構成を定め、ソヴェトの責任ある地位に自らの活動家を任命し、このほか、死刑判決にいたる命令を出し、これら命令は、たとえ、それらが中央権力の命令と矛盾していたとしても、地方ソヴェト権力にとって義務的と認められ、このような場合に党の統制はまったく不可能である。

 六、人と馬の動員は農村の混乱の先駆けであった。動員は充分に組織されず、このための資料もなかった。飼料と食糧にも住民は不足し、動員された者は兵役忌避者となって勝手に家に戻った。このため、現権力に対する非合法な状態が現れた。

 

 農民とボリシェヴィキ権力の間には越え難い溝が存在し、強制的に適用される穀物の無条件の供出義務を含むさまざまな負担がそれをますます深めさせたことが、この時期の農民反乱の基本的背景であったことを、スミドーヴィッチの結論にかかわらず、この報告書から読み取ることができる。ボリシェヴィキの解釈によれば、農民反乱の原因が権力の脆弱さにある以上、その徹底的弾圧は権力の強化を意味した。そこで強調したいのは、すでにレーニンは一八年夏の時期に、すなわち、食糧独裁令の発布直後に穀物の非供出者をクラークと断罪し、その徹底的殲滅を命じていたことであり、これらの文書をわれわれは基本的資料である『レーニン全集(第五版)』の中で容易に見いだすことができる。

 

 ペンザ郡クチキンスカヤ郷で八月はじめに食糧独裁と貧農委に反対して「多くの中農と貧農さえも巻き込んだ」[全集註釈の表現]農民反乱に対し、レーニンは県執行委に八月九日の電報で、「クラーク、坊主、白衛軍兵士に容赦のない大量テロルを行使し、疑わしき者を強制収容所に拘禁することを」、翌一〇日の電報で、「最大限のエネルギー、速やかさ、無慈悲をもってクラーク反乱を鎮圧し、[……]決起したクラークのすべての資産とすべての穀物を没収すること」を命じた。さらに一九日の電報で、この命令の不徹底を厳しく非難して県執行委議長に、「すべての執行委員とコムニストに、彼らの責務は容赦なくクラークを鎮圧し蜂起者のすべての穀物を没収することであると伝えよ。貴殿の怠慢と弱気に憤っている」と書き送った。このペンザ反乱は当時の農民反乱の最大の一つであったが、レーニンにとって穀物徴収への抵抗と反乱は同義であった。サラトフには穀物があるのに運び出せないのは超極悪архискандалとして、レーニンは、「すべての余剰の収集と集荷に命を賭ける富農からそれぞれの穀物郷で二五〜三〇人の人質」を取るようツュルーパに提案した。二〇日にオリョール県リヴヌィ郡執行委に次のような電報を送った。「郡でのクラークと白衛軍兵士の精力的鎮圧を歓迎する。熱いうちに鉄を鍛え、一刻を失うことなく郡で貧農を組織し、決起したクラークからすべての穀物と資産を没収し、クラークの中から首謀者を絞首刑にし、わが部隊の当てにできる指導者の下に貧農を動員し武装させ、富農の中から人質を取り、郷ですべての穀物余剰が収集され集荷されるまで彼らを拘留することが必要である」。これは、後に触れる二一年のタムボフ反乱の鎮圧を最後の頂点として、戦時共産主義期を貫く農民運動弾圧の基本方針であった。クラークが何者かは、余剰持ち農民の規定以外中央で議論された痕跡はまったくないことを、もう一度繰り返さなければならない。クラークは「人民の敵」の体現者となった。二〇年八月の第二回党シベリア会議で、農村で供給は劣悪であるとの消費組合代表の演説は、クラークの発言として封じられた。

 

 割当徴発や動員などで醸成された慢性的不満が些事をきっかけに直接行動に転化するのは容易であり、それはしばしば共同体を基盤として大規模な反乱に発展した。ПК・カガノーヴィッチはシムビルスク県の中農について次のように報告した。「中農は国が蒙っている全般的経済的条件の下では充分な程度に強化されなかった。商品不足、穀物や家畜や馬の徴発、労働力の動員、これらすべてが中農に経済的に強固にする可能性を与えず、彼らを怒らせた。これをクラークが利用することができた」。

 

 共同体農民の一体となった抵抗に遭遇したボリシェヴィキ政府は、農村内「階級闘争」=貧農路線から共同体支配=中農路線への転換を余儀なくされた。この時期は、ロシア農村全体で特別税と穀物の徴収、それにさまざまな動員に対する不満が顕在化していた。ヴィヤトカ県の党サラプル郡委は、一九年はじめの郡の農民の雰囲気は、農民のほとんどが中農であるにもかかわらず、穀物の再登録と特別税の徴収のために悪化したと報告した。ウルジューム郡でも同様な不満が認められた。一九年二月はじめに、「わが国家生命の主要な問題の適切な解決は、貧農と中農の広範な大衆の気分と結びついていることを理解しなければならない」と、党機関紙は路線の修正を言明し、三月の第八回ロシア共産党大会で中農路線が確立された。

 

 それでも中農の概念は曖昧であった。すでに一八年秋にボリシェヴィキ指導者の中で、問題は穀物を現在富農=クラークだけでなく、「勤労農民の」中農も持っていることであり、現在彼らを区別することはほとんどできないと、これら階級基準の適用の困難が指摘されていたように、彼らにもその明確な定義は存在しなかった。ジノーヴィエフは、農村の分化を不要と見なす左翼エスエルを小児と呼び、富農と貧農を区別する必要を訴え、これを革命の本質とするが、中農の定義について富農でも貧農でもない多数の農民であるとしか言及しなかった。左翼エスエルの著した小冊子によっても、クラークとは土地を買い足し、バトラークを雇用するだけでなく、商店主であり、高利貸しであり、その対局にバトラークとして雇用される貧農がいた。中農とは農村住民の多数を占めるが、その中間物でしかなかった。動揺する階級が中農ではなく、揺れ動く勤労農民の規定が中農であった。

 

 第八回党大会において農業=農民問題は三月二〇〜二二日の大会部会で審議されたが、同大会でのレーニンのこれについての粗雑な議論よりも、そこではいくらか具体的な問題の所在を窺うことができる。同大会でロシア共産党綱領が採択され、「共産主義建設のもっとも困難な任務」である中農への政策転換がはかられたにもかかわらず、そこに数回登壇したレーニンの報告では、対農民政策についての具体的言及は慎重に避けられた(党綱領特別委の活動に忙殺され農業部会にレーニンは出席しなかった)。繰り返しレーニンは、所有者と勤労者の二面性を持つ動揺する階級としての中農の規定について触れたが、具体的に農民を中農と規定するための確実な判断基準を提示することはできなかった。二〇日の部会会議で農業人民委員部参与クラーエフは、土地の社会化後に中農は農業革命の不備を自覚するようになり、農村内での階級闘争が生じ、プロレタリアートと農民との関係が尖鋭化したとの現状認識に立脚し、その解決策を農業生産性の向上に、穀物工場としてのソフホーズの創出に求めたのは、当時のボリシェヴィキの一定部分に共通していた。それだけでなく彼は、農業における共産主義的活動のための経済的、文化的拠点としてのソフホーズの役割を評価した。彼によれば、ソフホーズの担い手は都市プロレタリアであり、この意味でもそれは農村革命の拠点であった。一八年一〇月の貧農委廃止に関する官庁間会議で農業人民委員セレダーが、貧農委にコミューン的形態を付与することで経済組織としての貧農委の役割を強調し、貧農委の存続を強く主張したのも、共通するのは農村革命を遂行するための現実的「プロレタリア」的基盤が欠けているとの認識であった。

 

 そもそも、ボリシェヴィキが農村での「社会主義」革命で依拠しようとした貧農=バトラークは、共同体内では実体のない存在であり、土地革命を経た農民層の一定の均等化の後には、この傾向はいっそう顕著であった。農村内「階級闘争」を実行するために設置された貧農委は、この意味で幻想の産物であった。「[十月]革命は農村のクラーク分子を根絶し、農民大衆を中農化し、その結果、プロレタリア層が大きく減少し、中小農民グループが増大した」と指摘されるような「中農化」が、土地革命の過程で生じた。しかし、これは農民経営が零細な形で平準化されたことを意味した。ラーリンは土地革命を次のように総括した。播種なしと小播種経営への大経営地の分割と余剰地の切り取りは中規模農民のかってないほどの著しい拡大をもたらした。トゥーラ、シムビルスク、ヴィヤトカ、オレンブルグ、オロネツ、ノヴゴロド、ヴラヂーミル、トヴェリ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、ヤロスラヴリ、ヴォログダ、セヴェロドヴィンスク県の一九年のセンサスによれば、一経営当たりの播種面積は三・四四デシャチーナであったが、土地革命の結果、二・七三デシャチーナになり二一パーセント縮小した。このため、経営は自給的傾向を見せ、販売用の大量の余剰を持つ経営数の減少と相まって、都市への食糧の供給が大幅に減退した。特に播種の減少は工業原料と輸出用作物(亜麻、大麻、甜菜、搾油用種子)と、都市向け作物に顕著に現れた。土地革命は大量の小商品生産者を創り出しただけでなく、都市と農村との亀裂を深める客観的状況を生みだしたのである。

 

 クラーエフは党大会農業部会でこの時期オリョール、ブリヤンスク、スモレンスク県などを席巻している農民反乱を考慮して、中農は共産党を憎悪していることを繰り返し主張した。共同体農民の支配はボリシェヴィキ権力にとって重要であり、困難な任務であったにもかかわらず、党大会で採択された中農に関する決議では、中農は長期的に存続し、彼らとの協定が必要であるとの前提で、集団化の強制的加入の禁止、中央権力の法令を遵守した穀物徴収、特別税の緩和などが盛り込まれたものの、全体的文脈では貧農委期を含めて従来の路線の変更はないことが明示された。農業部会での議論はおもに社会主義的農業形態の論戦に終始し、同大会で対中農路線の変更についての具体的方針は言及されなかった。そもそも共同体農民の認識に欠けていた。

 

 そうであるなら、中農路線は、当時の最大の問題の一つであった内戦の激化にともなう動員の問題と係わっていたと考えるのは自然である。軍事情勢だけでなく、農民を動員するには農閑期の冬に徴募しなければならず、この時期に是非とも徴兵カムパニアを実施する必要があった。一八年一〇月はじめにレーニンは、三〇〇万の軍隊を持つ必要をモスクワ労働者に訴えた。彼の構想は世界革命への期待に充ちていた。二月の第六回全ロシア・ソヴェト大会の演説で中農政策への転換に言及したジノーヴィエフは、共産党は都市の政党であったが、それは農村に拠点を持たなければならないと述べ、それを三〇〇万の軍隊の創設と結びつけ、「都市プロレタリアートは、農村なしでこの軍隊を完全に創り出すことはできない」と語った。ボリシェヴィキにとって、農村でのプロレタリア権力の樹立に食糧と軍隊が、すなわち、革命の運命がかかっていた。同大会でレーニンは革命一周年記念と国際情勢について二度登壇したが、彼の演説内容のほとんどは赤軍の輝かしい成果について充てられた。二月六日づけ『軍事人民委員部から中農への書簡』でトロツキーは、農民の間で食糧・軍事政策への反ソヴェト的気分が醸成されている事実を認め、ここでも中農路線を農民の動員と結びつけるとともに、この路線でレーニンとトロツキーとの間にはいかなる意見の相違もないことを強調した。

 

 このような意味においてこそ、中農路線は内戦により惹起された労働者と農民との「軍事=政治同盟」であった。この結果は次のように現れた。三月一日に一八九九年生誕者の徴兵令が出され、ヴォルガとウラル諸県で三月一日から六月一日までに二八万四〇〇人が動員され、それはこの三カ月間で動員された人数の四倍以上であった。第八回党大会の非公開総会でレーニンは軍事問題に関する演説で中農について次のように触れた。軍隊への「思想的感化の政策は必要であるが、軍隊のプロレタリア分子は大きくないので、それでは不充分でしかない。そこに鉄の規律が必要である。[……]鉄の規律なしで、中農に対してプロレタリアートが実行する規律なしで、何も行うことはできない」。軍事体制の下で中農への抑圧を公言したのである。もちろん、旧ソ連史学界で異口同音に指摘されたように、「一九年秋までにそれ[労農同盟]は最終的に強化され」ることもなく、「ロシア共産党がすべての勤労者の利害に合致する労働者の利益を体現した」こともなかった。三月に東部戦線第四軍司令官М・フルーンゼは、サマラ県サマラ、スタヴロボリ、メレケス郡、シムビルスク県センギレイ、スィズラニ郡一帯での動員への不満に端を発した暴動をレーニンに報告した。

 

 通常一九年春までの農村への共産党組織の影響は次のように言及されている。一八年末までに国内四四〇郡のうち三五〇に党郡委が存在し、それらの設置にともない郷・村党組織は単一党システムに組み込まれた。だが、このような通説にもかかわらず、個々のケースを検討するなら、農村への党勢力の拡大を確認できる具体的資料はきわめて少なく、多くは農村の権力基盤が脆弱であったことを物語っている。

 

 この時の党勢力は前線への動員と、一九年六月末から七月はじめにかけて終了した党員再登録により急速にその数を減らし、活動家の不足は慢性的現象となり、特に優れた活動家の欠如は深刻であった。一九年に動員が強化されるにつれ、それへの農民の不満は増加したが、農村党組織は弱体化した。動員はあらゆるレヴェルで実行された。チェルニゴフ県ノヴゴロド=セヴェルスキィ郡では郷執行委からの大量の活動家の動員のために、その活動は著しく弱まり、村権力の強化のために新たに貧農委を組織しなければならなかった。ヤロスラヴリ県で党中央委の決定に従ってコムニストの五〇パーセントが動員され、党リャザニ県委は東部戦線への動員のために全県のコムニストとシンパの五〇パーセント動員を命じた。ヴラヂーミル県ムロム郡で市と郡のコムニストとシンパの五〇パーセントの動員が宣言された。サマラ県プガチョフ郡ではコムニストのほぼ一〇〇パーセントが動員された。ヴォロネジ県コロトヤク郡の党員は半減した。

 

 モスクワ県の地区で動員は強制的であり、自発的動員は行われなかった。リャザニ県で「強制的に動員せよ」との宣言でも、動員はわずかであった。このような動員への特に農民の不満を明確に物語るのが、大量の兵役忌避者дезертирの存在である。一八年末にトロツキーは、「わが部隊は編成される以前に崩壊し兵役忌避者の高い比率を残し(七〇パーセントまで)、彼らはライフル銃を持って離脱し緑匪賊に合流している」と軍の規律の低下をレーニンに訴えた。二一月二五日づけ国防会議政令で、兵役忌避はもっとも重大な犯罪として忌避者には銃殺にいたる、隠匿者には五年の強制労働の厳罰を定めた。一九年六月三日の同政令では処罰をよりいっそう厳格にし、現地住民が頑強に忌避者を支援する場合には、郷または村全体に連帯責任で罰金または強制労働を課し、各地で兵役忌避との闘争特別委が設置されて、兵役忌避との闘争カムパニアが展開されたにもかかわらず、特に農民からの徴兵が増加する一九年以後それは急増した。一九年後半で赤軍からの脱走兵は一五〇万を数え、ある戦線では収穫期に八〇パーセントの兵士が脱走兵と記録された。兵役忌避者の自発的出頭週間が設けられ、出頭した多くが郡軍事委を通して現隊に送り返された。六月のリャザニ県での同週間に、二一五人のコムニストが全県に送られ、各郷や村で『兵役忌避について』のテーマで一〇〇〇回以上のミーチング、一二〇回以上の講演が行われ、これに関する一六万五〇〇〇部の檄や指令などが出された。その結果、この間に一万一〇〇〇人が出頭するか捕獲された。スモレンスク県ユフノフ郡で五〜六月に大量のコムニストとシンパが動員カムパニアのために送り出されたが、兵隊に応募した農民はわずか六一人で、七月三日までに出頭した兵役忌避者は二〇〇人におよんだ。同県では、二カ月間現隊に出頭しなかった忌避者は銃殺された。クルスク県で一九年二一月から二〇年六月前半までに六万九〇六九人の兵役忌避者(その内訳は意志薄弱な忌避者六万六〇三〇人、悪質な忌避者三〇三九人)が収用され、そのうち三万五〇七〇人は自発的に出頭し、残り三万三九九九人は捕獲された。兵役忌避者との闘争委は活動家の不足のために成果を挙げず、郷・村当局はその活動に怠慢であっただけでなく、彼らを幇助し隠匿した。このような事情を勘案すれば、兵役忌避者の実数は膨大な数におよんだ。

 

 前線へのコムニストの動員が強化されると、彼らの中でも兵役忌避が広まった。ヴラヂーミル県ポクロフ郡やペンザ県ルザエフカ郡でこのような現象が認められ、ヴォロネジ県では党細胞書記でさえ前線への動員を拒否した。彼らは徒党を組んで、地方執行委を襲撃し、納屋を壊して穀物を奪い、農民の穀物搬送を妨害し、当局と激しい戦闘を繰り返した。オロネツ、ヴォロネジ、スモレンスク、ミンスク県など各地でこのような事件が起こった。そして、兵役忌避者による反乱が各地で勃発した。一九年七月半ばにヤロスラヴリ県ポシェホニエ郡で発生したこれら反乱はヴォログダ県グリャゾヴェツ郡にまで拡大した。タムボフ県の村には多数の兵役忌避者が潜み、五月にタムボフ郡とボリソグレブスク郡の境界付近で、彼らが指嗾した農民反乱はいくつかの郷を席巻し、派遣された捕獲部隊を武装解除した。県の各地で赤軍への動員に対する農民の不満が高まったために、七月にキルサノフ郡革命委はこれまでの罰則を強化し、彼らを隠匿する家族からの資産の没収のほかに、自発的出頭期間後は家族を人質にし、隠匿する村や郷に五〇〇〇から五〇万ルーブリのコントリビューツィア[懲罰的課税]を課すよう郷執行委に命じた。その後、兵役忌避との闘争で人質は広く適用され、これら忌避者とその幇助者は厳罰に処せられた。隠匿者は最後の財産を没収され、乏しい食糧も奪われた。ヴィヤトカ県ヤランスク郡で、忌避者隠匿の廉で一六人の貧農経営から最後の馬八頭と牛二頭が没収され、畑の耕作が不可能になり経営は崩壊した。トヴェリ県で兵役忌避者であるとの理由で闘争部隊長により、馬、サモヴァール、羊、ズボンが没収された。サマラ県エラニ郡で二〇年一〇月に一三人の悪意的忌避者の隠匿の廉で家族一六三人が人質になった。

 

 農民大衆の中に動員への恐怖が蔓延していたことに気づいたボリシェヴィキ指導者はほとんどいなかった。二〇年三月末に開かれた第九回党大会で議論の焦点は、ソヴェト経済の再建に向けての生産性の向上に当てられた。そこで登壇したトロツキーは、労働の軍隊化を提唱し、「労働組合を通して前衛的労働者は、勤労賦課[つまり強制労働]に基づく労働に引き入れられる巨大な農民大衆を軍隊化することができ」、遂行しない者は忌避者として懲罰を受けると、勤労農民の強制的軍隊化を提起したのであった。四散したプロレタリアートを補うために、農民にレーニンは鉄の規律を要求し、トロツキーは軍隊化を求めたが、農村の実状はそれをまったく許さなかった。

 

 農村の権力組織は充分に構築されず、コストロマ県ユリエヴェツ郡で一九年三月に開かれた郷執行委代表者大会の報告によれば、「郷ソヴェト、それら執行委、村ソヴェトの活動はかならずしも適切に計画的に進んでいないことを確言しなければならない。これら組織は相互にそして郡執行委と関係を持たずにばらばらに行動している。重要な組織的意義を持つような大問題の解決さえ、現地で独自に行われ、それはしばしば中央ソヴェト権力の一般的政策に反している」ような地方主義が依然として存在していた。八月になっても、郡で村ソヴェトの活動はわずか、いくつかのソヴェトは文具もなく怠業しているとの状況が報告された。一九年はじめの食糧機関の監査結果は、端的に次のように報告された。「紙はなくなりつつある。システムはない。記録保管はぞんざいに行われている。文書の綴じ込みは遅れ、遂行の点検はない」。

 

 このような農村の実状では、農民をソヴェト政治体制に取り込むことは不可能であった。ハリコフ県スタロベリスク郡に農村細胞を組織するために派遣された活動家は、そこでのやり取りを第八回党大会で次のように語った。「どこからやって来たのか」と尋ねられ、コムニスト細胞を設置するのに来たのだと答えると、「石油を持って来たか、塩はどうだ」と聞かれた。否との返事に農民は次のようにいった。「それじゃ、失せやがれ」。ヴィヤトカ県ヤランスク郡の広大な面積を占める郡都からわずか一〇ヴェルスタの郷の一九年夏までの様子は次のように描かれた。「住民は一連の賦課のように選挙に対応し、責任がかからないよう、被選挙人はただうまく逃れようと行動している。そのため、執行委に今日まで遂行されない多くの中央の命令がある。たとえば、赤軍兵士家族から、彼らはいかなる補助金も受け取らずこの分野で執行委はほとんどまったく何もしなかった旨の大量の申請があった。[……]次いで、穀物登録に関して自分の所には穀物がない旨の多くの申請があり、現在まで集荷所から引き渡されていない。特別税はあまりにも不公平に徴収されたとの多くの請願があった。[……]郷には多くの兵役忌避者がおり、何人かの市民の言葉によれば、そこでは闇の僧侶の強力な情宣が行われている。中央執行委の二〇人の動員は完全には履行されず、わずか九人だけが動員された。どこかに細胞は存在するのだが、党活動はまったく行われていない。一部は前線に赴き、残りは利己主義者のようにそこから脱退し、今日までいかなる党組織も存在していない」。

 

 党組織をはじめとする中央の権力機関は、農村住民からまったく遊離していた。ヴィヤトカ県マルムィジ郡の郷を三月に訪れた活動家は、村落で住民はソヴェト権力が何かを理解せず、投機、馬乳酒醸造、兵役忌避行為が広範に展開されていたが、執行委は何も活動していない事実を報告した。一九年前半の党委と執行委の県内での活動に関する会議で、現地組織の悲惨な状態が開陳された。ヴィヤトカ郡では、党組織は完全に欠如し、ある郷には党細胞は存在するが、それらは住民からまったく隔絶している。スロボドスコイ郡では、郡組織と党細胞との恒常的関係は存在していない、恒常的な指導がない、郷は郡に訴え、郡は県に訴えている、シンパ細胞は偶然的性格を帯び、それらは執行委の誰それの委員がいる間だけ存在するが、三カ月も経つとそれらは解散する、労働組合組織で党活動は行われていない。グラゾフ郡で活動はわずか、郷のソヴェト組織は弱く、組織活動家はいない、ソヴェト活動家の職権濫用が甚だしく、時には全財産を没収した。ウルジューム郡では、内部の敵と呼ばれた職権濫用と闘うために内部革命があり、ソヴェトの隊列の粛正のために軍事革命委が設置された。

 

 トゥーラ県チェルニ郡に二〇の党細胞があるが、新聞と党文献がまったくないために住民との関係はなかった。「農村は現在あらゆるバカげた風聞に満ちている。クラーク、コルチャーク支持者、投機人が農村ではいつもの情報提供者である」とシベリアから報じられたように、農村での情報の媒体はもっぱら風聞であり、そのためにも機関紙などの文献が農村活動に不可欠であったが、ほとんどの地方組織から文献の不足が報じられた。ノヴゴロド県では紙不足のために新聞の発行の停止を余儀なくされた。実際に、農村の党組織はわずかで、ヴィテフスク県では都市から五ヴェルスタ離れると農村での活動は行われていなかった。前線が拡大するにつれ、動員のために活動家はほとんどいなくなり、状況はさらに悪化した。ヴォログダ県から報じられるように、郷の党組織は中央の指令なしに組織され、いかなる関係もなかった。一九年春のサマラ県の農民の気分を県執行委は次のように報告した。「おもな訴えは「[党]細胞」についてであった。「細胞」の言葉自体が農村の恐怖となった。「細胞さえなかったら、すべて丸く収まったのに」。[……]「われわれはコムニストにではなく、われわれの細胞に反対しているのだ」、「われわれはソヴェト権力には賛成するが、われわれのソヴェトには反対する」、「やりきれない」などと」。

 

 時には農村権力の存在自体が農民の反発を招いた。一一月にトゥーラ県エピファニ郡の住民は地方権力の活動について、組織されたこの地域の権力として居座っている現地の犯罪的徒党の放埓な不法行為、同じく法律違反、勝手な振る舞い、人間性への愚弄に憤り、これから逃げ出すために住み慣れたこの地から村落毎の移住を準備していると、CHK(人民委員会議)に訴えた。シムビルスク県アラトウィリ郡を訪れた指導官は一一月に党県委に、「[党]郡委とそのメンバーはまったく誤った方針に立っている。中農との関係についての問題で、彼らは口では、第八回党大会の決議を執行しているというが、実際には特に地方の共産党細胞では、それを否定し、貧農委の時の戦術を堅持している」と報告した。このような文書は多数存在する。二〇年春までの農村の現状をノヴゴロド県執行委議長メシェリャコーフは次のように食糧人民委員部に通知した。

 

  県は飢えている。膨大な数の農民が苔やその他の屑дряньを食べている。秋から樹皮、草、苔などをたくさんвозами蓄えた。農村は三年目の飢餓である。気分はまったくはっきりしている、飢えで苦しむ農村でいかにして生きれるかである。

 はじめて昨年夏と秋から中央は関心を抱き、ペトログラードから党活動に一人の責任ある同志を送った。ようやく秋から党委と組織は中農についての第八回党大会の路線に慣れはじめた。夏まで百姓への対応は無慈悲свирепоで貧農委期的であった。このため昨年春から大規模な反乱が起こって、それらは残虐に鎮圧された。農民の慰撫に関する活動を継続することだけがわたしに残された。綱領に沿って農村への慎重な対応を主張することが。いくつかの大会から判断して、われわれは成果をえていると思われる。打ち拉がれ、おびえた百姓は心を動かしはじめ、喋りはじめ、自分たちにも権利があり、ピストルのような残虐な「コミサール」の時代は過ぎつつあると理解するようになっている。[……]要するに、飢餓県の農民に慎重な村応が必要である。農村ブルジョワジーはここではほとんどいなくなった。チエー・カーがそれを完全に根絶した。中農は飢えている。勇ましい国内保安軍の活動がはっきりと農民を飢餓一揆に導いた。

 

 このような訴えにもかかわらず、二〇年になっても基本的にこの状況に変化はなかった。内務人民委員部機関誌は地方活動家の声として、リャザニからの次のような報告を掲載した。地方では責任ある活動家の配置転換が頻繁に行われ、そのために彼らの間で独創性が発揮されず、中央の指令に諾々し、大衆から遊離した官僚主義がはびこり、県執行委も郡執行委も村で何が行われているかを知らないような状況が生まれている。このようにして、彼はソヴェト活動家がお役所仕事から大衆の実践的要求に重心を移すよう主張した。党の強化とともに肥大する官僚主義は権力と民衆をさらに隔絶させた。

 

 コムニストと農民との関係はいっそう劣悪であった。プリカミエ県マルムィジ郡の村で郷税を徴収するためのスホードが開かれた。そこで一人の農民は、コムニストは税を要求するだけで何も払う必要はない、奴らは俺たちを守るのではなく、身ぐるみを剥いでいるだけだと発言した。タムボフ県シャツク郡のコムニストは、党綱領とソヴェト憲法の基本を知らず、そのような党員が農民の間での情宣活動を成功させるはずがなく、逆に、そのような活動家の到着は農村の憤激を招いた。このような活動家だけが食糧と必需品の受給の特権を享受していた。第二回党シベリア会議で、情宣はソヴェト権力を誉めちぎり未来のことしか語っていないと農村での党活動が批判されたのも、同様である。このような地方コムニストの状態が招く結果は明白である。二〇年秋にタムボフ県リペツク郡に赴いた活動家は次のようにその有り様を報告している。

 

  村に着くと、そこで直ちにソヴェト権力と農民の関係の具合がよくないことが感じられた。コムニストに悪口が浴びせられる。どこに問題点があるかを解明しなければならなかった。そこではいい加減なカムパニアが準備され、それがコムニストにも浸透し、農民を愚弄しはじめていることが分かった。そこではコミューンよりサモゴンカ[密造酒]に関心がもたれていた。われわれに苦情が持ち込まれた。リペツクから同志が到着し、このまったくの酪酎状態の同業者たちを逮捕した。だが彼らは突然再び村に戻って、そして報復に取りかかった。以前よりひどく無法を働いている。農家を回り、行くたびに卵焼きを出せ、歓待しろと。そこで割当徴発が宣告され、このカムパニアに着手した。穀物を集めて運び、貨幣を受け取ったが、百姓にはびた一文与えなかった。ソヴェトや共産主義について喋ろうものなら、「この権力はわれわれの所では赤ん坊のくせに民衆を迫害している」とすぐに返事が返ってくる。

 

 二〇年の割当徴発の主要な対象となった周辺部でソヴェト活動はほとんど進んでいなかった。オムスク郡の農村を巡回した西シベリア軍管区勤務員は次のように報告した。「農民は無知に生活し、いかなる文献も、新聞も、政治的活動家もない。その替わり農村はバカげた風聞に満ちている。[……]いたるところでサモゴンカが醸造され、民衆はこれまで以上に酔っぱらっている。土地問題で農民は非常に動揺している。なぜなら、現在まで彼らはこれに関する布告を知らないので。もちろんこれらすべてをソヴェト権力の敵であるクラークが利用し、政府の訓令を自分流に解釈し歪めている。心からпо душе農民に対応することができる人物にほとんど会えない。飽食の「コミサール」が割当徴発と当番馬の遂行を彼らに要求している。新聞はなぜかまったく配達されないか、学校や革命委などに返却されなければならないのに、どこかに消えてしまう。キルサノフカ村のある農民の百姓小屋は一面〈ソヴェト・シベリア〉紙が貼りつけられていた」。

 

 戦時共産主義期に農村経済は動員に次ぐ動員、消費基準を残さぬ割当徴発により完全に疲弊した。農民には翌年の収穫を期待すべき種子もなく、旱天の下で萎えて麦穂もつけない穀物が疎らに生えた大地だけが残され、十月革命で受け取ったはずの勤労農民の権利が失われつつあることを知ったとき、二〇年夏にボリシェヴィキへの憎悪は一連の農民反乱として爆発した。そしてその主要な舞台がここタムボフとシベリアである。

 

 (宮地・注)『序章』には、66の()がありますが、ほとんどがロシア語なので、省略しました。

 

 

 

 第一章〜第七章までの「目次」のみ P.29〜560)

 

  第一章 一八年の割当徴発

     一 割当徴発の開始

     二 穀物賦課の実施

     三 ヴィヤトカ県での試み

     四 割当徴発について

 

  第二章 農業現物税と特別税

     一 土地革命の限界と現物税

       (1)不徹底な土地革命  (2)現物税草案の作成

     二 貨幣税による収奪

       (1)特別税の実施  (2)コントリビューツィアの徴収

     三 現物税実施の猶予

 

  第三章 第一回全ロシア食糧会議

     一 割当徴発の原則を求めて

     二 割当徴発の地方での経験

     三 割当徴発の実施に向けて

 

  第四章 最初の割当徴発カムパニア

     一 割当徴発カムパニアの開始

     二 サラトフ県でのカムパニア

     三 最初の割当徴発の総括

     四 シムビルスク県での独立調達

     五 徴収部隊の活動

       (1)軍事食糧局の強化  (2)食糧軍と食糧部隊の確執

     六 地方食糧委の現実

 

  第五章 割当徴発の展開(一九一九年)

     一 一九/二〇年度の割当徴発規程

     二 ペンザ県での割当徴発

     三 割当徴発の問題点

       (1)飢餓  (2)穀物固定価格  (3)穀物登録

     四 一九年秋のカムパニア

       (1)不吉の前兆  (2)収穫カムパニアの開始

     五 割当徴発の逸脱

       (1)登録の有名無実化  (2)割当徴発の負担過重

 

  第六章 穀物カムパニアの展開(一九一九〜二〇年)

     一 食糧輸送

       (1)鉄道輸送  (2)荷馬車搬送

     二 一九/二〇年度割当徴発カムパニア

       (1)一九/二〇年度カムパニアの進捗  (2)第二回全ロシア食糧会議

     三 二〇/二一年度割当徴発規定

     四 二〇/二一年度カムパニアの開始

     五 困難なカムパニアの実施

       (1)軍事=徴発体制の設定  (2)シベリアでのカムパニア

 

  第七章 割当徴発の拡大(一九二〇年)

     一 製粉税

     二 家畜の調達

       (1)割当徴発以前の家畜調達  (2)家畜徴達の現実

     三 指定外生産物の調達

       (1)指定外生産物の自由搬送  (2)馬鈴薯の国家調達

       (3)指定外生産物調達の強化  (4)亜麻の割当調発

     四 商品交換制度と市場

       (1)一九年の商品交換の適用  (2)商品交換と割当徴発

       (3)商品交換の現実  (4)自由市場との競合  (5)商品交換制度の意義

 

 (宮地・注)、『第八章』(別ファイル)における「シベリアでの農民反乱」「タムボフ反乱」は、これら『第一章〜第七章』の詳細な分析に基づき、それらによる必然的結果として描かれています。

 

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 (関連ファイル)

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