幻想の革命

 

十月革命からネップへ

 

梶川伸一

 

 ()、これは、梶川伸一金沢大学文学部教授著『幻想の革命』(京都大学学術出版会、2004年11月)からの一部抜粋・引用です。帯には、「〈飢餓〉で始まり、〈幻想〉で突き進んだ革命の実像」とあり、「共産主義『幻想』に駆られたボリシェヴィキ権力が辿る先は何か。ロシア十月革命から始まる民衆の悲劇を克明に描き、これまでのネップ『神話』を解体する」と書かれています。

 

 私(宮地)は、今までに、梶川教授2著の抜粋・転載をさせていただきました。この著書は3部作の完結編です。ただ、これは294頁あり、まだ出版されたばかりなので、下記〔目次〕の章・節のそれぞれから一部を引用するという形の抜粋をします。各章・節に、アルヒーフ(公文書)などの膨大な〔註〕がありますが、省略します。引用の頁数・行数を入れると煩雑になるので、書きません。それでも、ファイルとしてはかなり長くなります。この引用形式による紹介によって、本書全体を読もうとする方が増えれば幸いです。下記(関連ファイル)Amazonで注文できます。このHPに抜粋・引用することについては、梶川氏の了解をいただいてあります。

 

 〔目次〕

    はしがき

    用語解説

    はじめに

    第一章 飢餓は続く (省略)

    第二章 割当徴発の停止 (第二節〜第七節省略)

    第一節 タムボフでの農民蜂起

    第三章 現物税布告の策定 (省略)

    第四章「現物税=商品交換体制」の成立 (省略)

    第五章 戦時共産主義「幻想」の崩壊 (第一節〜第三節省略)

    第四節 ウクライナの現状

    第六章 現物税体制下の民衆 (省略)

    第七章 二一〜二二年の大飢饉

    むすびに替えて−ネップへの移行の意義

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

        食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

        レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

    Amazon『梶川伸一』で著作4冊リストと注文

 

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

        1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

        クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

    『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』21、22年の飢饉死亡500万人

 

 はしがき

 

 飢えで始まった十月革命についての最初の拙著である、『飢餓の革命』(名古屋大学出版会、一九九七年)を出して七年が過ぎようとしている。そこの「はしがき」で触れているように、最初は「穀物調達問題を基軸に十月蜂起からネップ体制の成立までを扱う一巻の著作を予定し」ていたのだが、贅言を重ねて分量がいたずらに脹らんだ結果、戦時共産主義期の農村を舞台に描いた『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、一九九八年)と分冊にし、その後にネップへの移行を扱う著書を公刊する予定にしていた。しかし、これは延び延びになっていた。ともかく、これで「三部作」は一応完結したことになる。

 

 一九二一年という時代は、戦時共産主義期の凝縮でもあり、既に前年からタムボフ県ではアントーノフ、ウクライナではマフノーを指導者とする大規模な農民蜂起が荒れ狂い、そのほか西シベリアでも未曾有の規模で新たな農民蜂起が勃発し、ことさら寒い冬のさなかに全国的規模で燃料と食糧の欠乏が極限にまで達しようとしていた二月末にクロンシュタット叛乱が起こり、それから間もなく三月に第一〇回ロシア共産党大会で割当徴発から現物税への交替が決議され、いわゆるネップが開始されるという、どこを切開してもドラマチックなテーマが伏在しているという、きわめて意味深い時期である。それに、例年よりはるかに早い雪解けと雨のない春を過ぎて次第に顕著になる大飢饉を加えなければならない。要するに、ボリシェヴィキ革命の諸要素あるいは諸々の矛盾が濃密に噴き出しているのがこの時期なのだ。

 

 ただし、この内容は先に述べた二一年に内在する主要問題に正面から立ち向かったのではなく、戦時共産主義からネップへの移行を、「共産主義幻想」をキーワードにして、従来とは異なる視野から解きほぐし、民衆の悲劇の根源をその中に探求しようとしている。戦時体制は、二〇年秋に基本的に内戦が勝利したその時から緩まる環境が整えられたとしても(実際はそうではないのだが)、共産主義体制から、もしくはその根幹をなす「共産主義幻想」から後退すべき論理的根拠はその当時はまったく存在していなかった。戦時共産主義期末に、すでに土地革命によって「プロレタリア分子」は勤労農民に転化していた農村ではもちろんのこと、ボリシェヴィキ権力がその支持基盤としてきた「都市プロレタリアート」さえもが都市経済の崩壊の中で失われつつあるという状況の下で、ますます強くなる「共産主義幻想」は権力と民衆との乖離をいっそう深め、それが重大な結果を招いたその現実を描こうとしている。

 

 こうした不充分さを残しながらも、本書を上梓した理由は、従来のネップ解釈への批判としての論考を最低限は尽くし、それに対して新たな解釈を提示していること、さらに、ネップへの移行を二一年飢饉と結びつけることができたと考えているからに外ならない。飢餓で始まった十月革命が、その必然的帰結として二一年の大飢饉を生み出し、この事実を抜きにいわゆるネップへの転換がありえなかったというのが、ここでの主張の一つである。

 

 ソ連時代の文献では大飢饉の被害はまったく過小評価されてきた。現在でもネップへの移行と飢饉を直接に結びつける議論は少なく、最小限ヴォルガ流域の実状に触れているとしても、実際には周辺民族地域の方がはるかに膨大な犠牲者を出したという事実に、殆どすべての研究者が沈黙している。それではこの時期のボリシェヴィキ権力の本質を完全に見失うことになる。本文でも繰り返されているが、ネップへの移行に関する多くの文献の基調は、苛酷な内戦期と適正なネップ期との対比である。この図式は完全に誤っている。これらの文献で二一年における民衆の辛酸が描かれることは余りにも少なく、その甚大な犠牲は余りも軽んじられている。本書でくどいまでに飢饉の実態に触れているのは、ボリシェヴィキの農民政策が導いたその悲劇を明らかにしたいと思うからであり、歴史家は過去を裁く裁判官ではないが、過去の過ちを観念的でなく具体的に指摘する責任があると考えるからである。議論を尽くしたとは言い難い一片の党大会決議で、ボリシェヴィキ権力の本質に根本的な変化が生ずるはずもなく、戦時共産主義の理念が切断されることもなかったことを示すことができたなら、本書の大きな目的は果たせたと思っている。

 

 

 用語解説

 

 カムパニア

 キャンペーン。活動や大衆の動員を伴う、政策を集中的に施行するために採られる態勢。

 

 共同体農民

 基本的農民大衆。三圃制の下で土地分与と割替を伴う共同体的土地利用は、そこでの農民に強い共同体的規制と一体感を植え付けることになる。そのような共同体農民の全体集会がスホード(寄合)であり、ここでの決定は全会一致を原則とした。この時期の村ソヴェトは基本的にスホードと同じである。一七年一〇月のソヴェト権力の樹立とともに出された土地についての布告では、共同体による没収地の分配を認めたために、共同体からの離脱農が復帰して、共同体的土地関係が強化される結果となった。左翼エスエルはこのような農民全体を勤労農民として捉えたのに対し、ボリシェヴィキはその中に、富農、中農、貧農の階級的分化が存在すると認識していた。

 

 クラーク

 殆ど農村ブルジョワジー、富農と同義。革命以前または集団化前夜になるとおもに資本家的経営を行うとの意味が加わる。要するに、農村におけるボリシェヴィキ権力の敵である。ボリシェヴィキは基本的に農民を、クラーク、中農、貧農と分類するが、本文でも触れているように、その規定はまったく公にされなかった。ソヴェト文献では、農民蜂起を「クラーク反乱」と呼称することで反革命的な政治的意味を持たせるとともに、一般的農民大衆の不満の表出であるとの解釈を認めなかった。

 

 コミッサール

 人民委員。当時の行政官庁の責任者。

 

 現物税 食糧税

 基本的には同じもの。現物税の最初の構想は一八年のレーニンのいわゆる『八月テーゼ』に認められ、階級的性格を強調した現物税布告は同年一〇月二六日の人民委員会議で最終的に承認された。財政政策との関連で、これは財務人民委員部の所管であった。研究者の間では、割当徴発との関連で同布告の有効性と二一年に実施される布告との継承性について議論がある。二一年に第一〇回ロシア共産党大会以後実施される現物税は、その内実から食糧税とも呼ばれる。この税は徴税方法が複雑であり、さらに二一年夏以後商品=貨幣関係が復活し定着するとともに、農業現物税は一定の簡素化を経て、徐々に貨幣税に移行し、農業年度途中の二四年一月に農業現物税の徴収は停止され、農業貨幣税に一本化された。

 

 コルホーズ コミューン アルチェリ

 コルホーズは農業集団経営のこと。この時期には農業生産性を向上させるとの観点から、大規模農場が奨励されていた。土地や家畜、農具などの生産手段の共有化形態の程度によって、殆ど完全にそれらが共有化され、模範定款によれば構成員の財産所有権が認められないコミューンから、土地の共同耕作を目的として個々の基本的所有権が残される土地組合的トーズに分かれる。アルチェリは、主要な土地は共有化されるが農戸付属地は私的所有が認められるその中間形態。

 

 商品交換 生産物交換

 一般的な商品間の交換を指すのではなく、社会主義的交換形態である無貨幣交換、すなわち、生産物交換への過渡的交換形態を意味する。ボリシェヴィキ指導者は十月革命直後から、マルクス主義理論に基づきこの制度への移行を構想していた。

 

 食糧人民委員部 食糧委員会

 食糧の調達と生産物の分配を司った中央官庁。その地方組織が食糧委員会で、基本的には県と郡単位で配置された。内戦期には、この機関は、割当徴発の実施に関連して大権が付与され、特に重要な役割を果たしたが、二四年一月以降農業現物税の廃止にともない、この機関も清算され、その機能は財務人民委員部に移管された。

 

 食糧独裁

 一八年五月に出された布告により、地方権力組織により実行されていた食糧活動を全面的に中央の食糧人民委員部が掌握し、食糧調達を実行するための軍事力(労働者部隊と食糧軍)の行使をも含む強大な権限が食糧人民委員部に付与された。この政策は同時に、当時まだ残されていた地方ソヴェトの自治権を完全に否定し、さらに中央では左翼エスエルの政権からの離脱を引き起こし、ボリシェヴィキ独裁の形成過程で重要な役割を果たした。

 

 人民委員会議

 閣議に相当。同会議の議長がレーニン。

 

 人民委員部

 中央省庁に相当。旧来の省に替わる名称。人民委員を長とし、それを補佐する人民委員代理が置かれ、その下に重要事案の審議と決定を行う参与会がある。一八年憲法の規定では、参与会は当該人民委員部の決定に反して人民委員会議またはソヴェト中央執行委に上訴する権限が与えられたが、ボリシェヴィキ独裁後はこの規定は有名無実となった。地方組織としては、例えば、農業人民委員部はそれぞれの地方ソヴェトの下に農業部を設置した。

 

 ソヴェト体制

 一八年七月に公布されたロシア共和国憲法によれば、最高権力機関は全ロシア・ソヴェト大会とされたが、その開催期間外では全ロシア中央執行委員会、実際には同幹部会がそれと同等の権限を行使した。しかし、行政府として設置された人民委員会議も事実上中央執行委と同様な立法権を獲得するようになった。一八年夏に左翼エスエルが、人民委員会議と全ロシア・ソヴェト中央執行委から脱退するとともに、本来的にそれぞれの国家機関が持つ固有の機能と権限の区別は徐々に消滅した。

 

 ソフホーズ

 ソヴェト農場。その組織形態と管理・運営方法は国有化工場ときわめて類似する。農業人民委員部の直接管轄にあったのは少なく、多くは地方ソヴェトの管理下に置かれていた。これらはもっぱら工場労働者などの非農民住民から構成されたために、充分な農業経営を遂行できなかっただけでなく、周辺の共同体農民との摩擦を引き起こした。

 

 チェー・カー 非常委員会

 元々は反革命行為、サボタージュ、投機との闘争のために一七年一二月にヂェルジーンスキィを議長として設置された非常委員会。その後に内戦状態と農民蜂起が強まる状況の下に、全ロシア非常委(ヴェー・チェー・カー)として、次第に反革命行為の情報収集とその根絶という政治的色彩が強調され、まさに「赤色テロル」の執行機関となった。この組織は二二年二月の布告によって、内務人民委員部「国家保安局(ゲー・ペー・ウー)」に改変された。また、チェー・カー資料集やルビャンカ近くの保安局中央文書資料館は、研究者にとって非常に興味深い有益な情報源となっている。

 

 貧農委員会

 食糧独裁を調達現場で支援するボリシェヴィキ権力の階級的拠点として一八年六月布告によってロシア共和国全土に設けられた。実際には、その構成員としてボリシェヴィキが想定した貧農は当時の農民層の中には殆ど存在しなかったため、その多くが都市労働者から構成された。これら委員会は、勤労農民からの激しい不満と敵意を引き起こしただけで、殆ど成果を挙げることなく同年末に解散された。

 

 ロシア共産党中央委員会 政治局 組織局

 「民主的中央集権主義」によって党組織体制は、党活動の基底をなす細胞から最高機関である党大会への双務的経路が開かれていると、標榜されている。だが実際には、ほぼこの時期に形成された党=国家体制の中で、党中央委が事実上国政を決定する最高機関となった。その中でも政治局は重要な政策を審議し決定した国家機関の中枢。また党内の組織問題を扱う組織局は、特に地方での厳しい活動家不足の中で党員の配置転換を実施した点で、大きな役割を果たす。

 

 

 はじめに

 

 次に掲げる文書は、一九二一年三月一七日にロシア共産党中央委員会組織局会議に提出された、ある食糧活動家からの上申書(全文)である。

 一八年一月から今日まで、わたしは食糧関係で働き、この間できる限りの任務を執行してきた。一八年一月から五月までチェリャビンスク地区での食糧人民委員部全権に、一八年五月から食糧人民委員部穀物飼料管理部部長補佐に任命された。六月には、タムボフ、ヴォロネジ、オリョール、クルスク県の食糧人民委員部全権を拝命し、一八[年]九月から一九[年]二月までモスクワで穀物飼料管理部部長補佐として活動し、個々の任務を遂行した(カザン、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、ヴラヂーミル、ヴィテブスク県における活動の構築のため)。一九年二月にはタムボフ及びヴォロネジ県全権、同時にタムボフ県食糧コミッサールに任命された。二〇年二月にはアルタイ及びセミパラチンスク県全権であると同時にアルタイ県食糧コミッサール、二〇年八月からシベリア食糧委参与、そして一二月から現在までシベリア食糧委議長代理に任命された。

 

 この三年余の食糧活動での困難さに触れるのは余計なことである。わたしはこのことだけを述べよう。わたしは初めて一八年夏に、タムボフとヴォロネジ県で武装力によって穀物を取り上げなければならなかった。これは食糧活動での最初の前進であった。

活動は異常に緊張した精神状態の下で信じがたいほどに過酷であった。一九年のタムボフ県での活動も容易ではなかった。シベリアでの活動の開始はいくらか容易に行われたが、二〇年五月から活動は緊張して再三熱に浮かされたようになった。この活動すべてがわたしを肉体的にひどく消耗させ、わたしの神経を根本からずたずたにした。わたしは、もし完全でないとしても暫時わたしを食糧活動から免除し、ほかのソヴェトまたは党活動に転任させるよう、衷心からロシア共産党中央委に要請する。わたしは、食糧人民委員部は異議を唱えないと期待する。なぜなら、現在わたしは食糧活動家として活動能力の五〇パーセントを失うまでに疲労困憊しているので。

[署名、日付三月一〇日]

 

 この申請に基づいて、党[以下断りがなければ、党とはロシア共産党を指す]中央委組織局は五月三〇日の会議で、この食糧活動家ゴーリマンに一ヶ月間の休暇を与えるよう命じた。

 彼は上申書に記されているように地方で辣腕を振るい、その活躍ぶりはよく知られていた。もちろん、彼は綺羅星のごとく輝く党中央委員でもなく、食糧人民委員部参与のエリートでもない食糧人民委員部の責任ある活動家といわれる上級幹部の一人にすぎない。そのような彼が、戦時共産主義期の過酷な調達活動で心身ともに衰弱し、活動の限界を告白しているのがこの文書である。この上申書で象徴的に表されているように、ソヴェト=ロシアもまた七年に及ぶ大戦と内戦の中で、物理的にも精神的にも完全に消耗していた。

 

 二一年のソヴェト=ロシアで現出したのは、農業であれ工業であれ、経済システムの完全な疲弊と瓦解であった。農民の気分は、戦時共産主義の開始とともに実施された割当徴発の合法的ならびに非合法的行為によって、完全に打ちのめされるか、ボリシェヴィキ権力への憎悪が漲っていた。

 

 それに加え、ロシア全土でボリシェヴィキ党組織はおもに党員の不足のために、完全に崩壊していた。二〇年六月にカルーガ県から、「誠実な党活動家にきわめて困窮している」として、県と郡の党委員会への同志の派遣が党中央委に要請された。このような要請はこの時期に多数寄せられた。その理由は党員が前線などに動員されたためだけではなかった。「党内の雰囲気を評価するなら、一方で、組織からの同志の脱党と、その一方で、新たなメンバーの加入を指摘することができる。脱党の基本的理由は、組織がこれら同志に充分な政治教育を施すことができず、彼らは党の理念に涵養されることなく、机上でのみ党員として存在していたことであり、そこで彼らにとって党の規律は鬱陶しく、自分の損得のために党内に留まっていた」と、タムボフ県モルシャンスクから二一年春の党内事情が報じられたように、自発的脱党が急速に広まり、特に農村での党活動は自壊していた。

 

 二一年における戦時共産主義から新経済政策(ネップ)への政策転換を考察する際に、従来の解釈では三月に開催された第一〇回党大会の決定を過大評価しすぎていたように思える。二〇年末からの「党内の危機」と評される労働組合論争など、地方紙では殆どまったく取り上げられなかった。二一年夏から広汎に展開される党の「粛正」の問題は、党大会での分派闘争の禁止決議や党の統一との関連でこれまで説明されてきたが、それはこの時期の党組織の疲弊と崩壊現象という現実を無視することになる。これは「粛正」ではなく、不適切なコムニストの党からの文字通り「浄化чистка」である。

 

 このような、戦時共産主義期末から特に深刻になるロシア国内の全般的な危機的現実(物質的にも心性的にも)を抜きにして、二一年の「政策転換」を考察することはできない。これが、ネップへの移行を考察する際の本書の基本的前提である。

 

 だが、あらゆる公文書館資料は、この時期にヴォルガ地方だけでなく、西部と中央農業諸県のごく一部を除きロシアの殆ど全土、及びその周辺に位置する共和国など非常に広汎な範囲が飢饉に見舞われたことを示している。したがって、飢饉はネップへの移行に際しての副次的付随的現象ではなく、そこでの本質的契機と考えるのが合理的である。つまり、飢饉にもかかわらずネップへの移行が達成されたのではなく、飢饉であったからこそ二一年の転換が生じたのである。

 

 しかし、問題がより深刻なのは、全ロシア的規模で飢饉が存在していたにもかかわらず、レーニンを含めて当時のボリシェヴィキ指導部は、これを重大な事態として受け止めていなかった事実である(この実情を充分知悉していたとしても)。その大きな理由の一つは、彼らが依然として共産主義的「幻想」に囚われていたことであった。この「幻想」が崩れ去ったとき、ようやく新しい路線に転換する道が開かれるのである。そして、以下で叙述するように、十月革命以来連綿と続いていたこの「幻想」を解体させたのは、飢餓の苦しみの中で生き抜こうとする民衆の動向であった。当時ロシア全土を覆っていた農民蜂起や匪賊運動に劣らず、積極的であれ消極的であれ、このような彼らの行動こそがボリシェヴィキ指導部の「幻想」を打ち砕いたのであった。その意味で、ネップへの転換は、政策的よりむしろ自然発生的である。

 

 本書は、当時のロシアの社会状況を、おもに共産主義「幻想」に囚われ続けるボリシェヴィキ指導部と、その実状がまったく顧慮されることもなく困窮の中で生存し続ける民衆との確執を描くことで、二一年の「政策転換」の意味を問い直そうとしている。ここで描かれる光景は、通常ロシア革命について叙述される一般的イメージとは異なっているとしても、基本的に公文書館資料に依拠している。

 まず、十月革命以後に飢餓はいっそう深化した事実から指摘しなければならない。

 

 

 第二章 割当徴発の停止 (第二節〜第七節省略)

 

 通常、割当徴発の停止は、現物税の導入と同義と解釈されている(時にはネップ構想もこれに関連づけられた)。こうして、農民の気分を緩和するために現物税が導入された、との主張が繰り返された。果たしてそうだろうか。民衆の不満を考慮して割当徴発が停止されたのか、また割当徴発の停止によって事態は改善されたのだろうかについては、改めて具体的な検討が必要である。

 ここでは、いかなる事情で割当徴発が停止されたのかを検証するため、まず、当時猖獗していた農民蜂起と割当徴発停止との関連を見なければならない。

 

 第一節 タムボフでの農民蜂起

 

 タムボフ県は、肥沃な黒土を持つ豊かな穀物県として、僅かな期間を除いて戦場となることもなく、モスクワに比較的近距離にあるために、食糧と人員の尽きせぬ源泉として十月革命直後から徴発と動員の標的となり、それに応じて農民蜂起も頻発していた。

 

 対匪賊全権として二一年二月に同県に派遣された元タムボフ県執行委議長В・А・アントーノフ=オフセーエンコは、アントーノフ蜂起までの「もっとも農民的な」県の実情を次のように報告した。「農民経営の需要を考慮せずに寄食する何十もの赤軍兵士部隊に、南部郡は耐えてきた。[…]特に食糧割当徴発は重く県にのしかかった。前線付近の軍事部隊が集結したため、畑作経営が没落して家畜と農具に大きな損失を蒙った県は、食糧人民委員部から生産県の一つとして認定され続けてきた。莫大な努力を払った末に、力の及ばぬ負担であった一九〜二〇年度の割当徴発は半分が遂行された。[…]二〇〜二一年度の割当徴発は、前年比で半分に縮小されたものの、完全に力の及ばぬものであった。大きな播種不足と異常な凶作の下で、県の著しい部分は自分の穀物も賄えなかった」。戦前平均で一人当たり穀物約一八プードと飼料七プード余りの年間消費であったが、「割当徴発が一〇〇パーセント遂行されたなら、農民一人当たり穀物一プードと馬鈴薯一・六プードしか残らなかった。そこで割当徴発はほぼ五〇パーセントが遂行された。既に、[二一年]一月までに農民の半分が飢えていた。ウスマニ郡、リペツク郡の一部、コズロフ郡では飢餓は極限にまで達している(樹皮を噛み砕き、餓死者があった)」。

 

 二〇年春の播種は壊滅的と報告され、この時既に県内各地で飢餓は顕著になっていた。キルサノフ郡からは、「生きて行くことはできない。穀物は取り上げられ、家畜は奪われ、われわれには飢餓が残されている」と、リペツク郡からは、「農民からすっかり穀物も一粒残らず家畜まで全部を奪っている。何も与えず、衣服も何も与えてくれない。そのようなことがタムボフ県全土で起こっている。このために暴動が勃発するだろう。農民は部隊に反対している。何も播種できない」と、ルジェフからは、「われわれの所に部隊が到着し、穀物を取り上げ、一人当たり二五フントが残されているだけである」との、農村の窮状が報告されていた。このように窮乏化した農民からも割当徴発は容赦なく徴収され、農民はそれからの救済を訴えた。

 

 とはいえ、ボリシェヴィキ権力は、割当徴発制度を根本から変更することなど思いもよらなかった。五月に開催されたタムボフ県ソヴェト大会で、県執行委議長となったА・Г・シリーフチェルは食糧問題に関する長い演説で次のように述べた。食糧問題はソヴェト社会主義の現状におけるもっとも深刻で困難な問題の一つである。そこでは、「穀物割当徴発は住民にとって重い負担であり、非常に厄介なтягостные方法によって、抑圧と強制の方法によって実行されている、との非難を一再ならず聞かなければならなかった」。シリーフチェルはこのような声を理解できるとしながらも、そのほかの方法が案出されていないために、割当徴発の継続を認めた。穀物がなければ帝国主義者がわれわれの息の根を止め、労働者は四散し工場制工業が停止する。彼はいう。「革命は犠牲を必要とする」。したがって、個々の行き過ぎは排除されなければならないとしても、割当徴発を遂行するための、「懲罰的措置としての逮捕、没収、徴収、すなわち、穀物任務を達成するための階級的国家的抑圧は必要である」。

 

 二〇年の収穫が明らかになるにつれ、旱魃による県内の異常な凶作が認められるようになり、ボリソグレブスク郡では播種分の収穫までもが危ぶまれた。それでもキルサノフ郡食糧委は、文字通りすべての穀物と家畜を徴収し、畑には何も植えられず、そのため農民は播種のために馬の返却を要請した。リペツク郡では、雹害や旱魃のためにライ麦の収穫はなく、ある村ソヴェトは、公的文書によって村は自分を賄うことができないだけでなく、畑に完全に播種することもできないことが確認されていることを根拠に、СНК議長とВЦИК議長М・И・カリーニンに、「翌年の農業に完全な崩壊をもたらす国家的割当徴発」を免除するよう要請した。農民の窮乏は極限にまで達しようとしていた。

 

 増え続ける赤軍への招集も農業荒廃の一因となり、それへの不満も高まり、内戦が激化し召集兵が増えるにつれ、召集を拒否したり軍隊から脱走したりする兵役忌避者дезертирの数がロシア全土で急増した。赤軍兵士の多くは農閑期の冬に召集され、夏の収穫期とともに脱走した。夏の徴募は困難で、トゥーラ県一一郡(一二郡のうち)では、一九年五月の兵役志願者は七九八人であったが、八月には一九二人に激減した。共和国で一九年後半に赤軍からの脱走兵は一五〇万を数え、ある戦線では収穫期に八〇パーセントの兵士が脱走した。動員された兵士は残された家族と畑を心配した。各地で働き手の支柱を失った赤軍兵士の留守家族による経営は崩壊したが、そのための援助は殆どなかった。そもそも、農民兵士は、共同体の外で繰り広げられる「世界革命」の夢を、ボリシェヴィキと共有することは決してなかった。

 

 兵役忌避者の増加とともに、各地で兵役忌避との闘争特別委員会が設置され、そのカムパニアが繰り広げられた。一八年一二月二五日づけ国防会議政令により、兵役忌避はもっとも重大な犯罪として、忌避者には銃殺に至る、隠匿者には五年の強制労働の厳罰を定め、一九年六月三日の同政令では、処罰をいっそう厳格にし、現地住民が頑強に忌避者を幇助する場合には、郷または村全体に連帯責任で罰金か強制労働が課せられた。このような措置にもかかわらず、赤軍の徴募は遅々として進まなかった。スモレンスク県ユフノフ郡で一九年五―六月に大量のコムニストとシンパが動員カムパニアのために送り出されたが、この間に赤軍の徴募に応じたのはわずか六一人で、七月までに出頭に応じた兵役忌避者は二〇〇人であった。同県では、二ヶ月間原隊に復帰しなかった兵役忌避者は銃殺された。ヴェー・チェー・カーの報告書によれば、二〇年一〇月前半に共和国全体で、一〇万一四一六人以上の兵役忌避者が捕獲され、少なくとも七一二人に銃殺の判決が下された。

 

 兵役忌避者家族に対する資産の没収と人質は、この闘争の中で広汎に適用された手段であった。党中央委は党県委に宛てた二〇年五月の極秘совершенно секретно文書で、一九〇一年生誕者の召集に向けてのあらゆる措置が執られたが、出頭拒否や移送時の軍用列車からの脱走などの兵役忌避が著しく増加した事実を指摘し、「脱走兵は必ず肉体的懲罰を受けなければならない」ことを命じた。だが、厳罰を適用しても、住民の支持を得て広汎に展開する兵役忌避と闘争するのは殆ど不可能になっていた。このように農民大衆の間に蔓延する動員への恐怖に気づいたボリシェヴィキ指導者は殆どいなかった。二〇年の第九回ロシア共産党大会に登壇したトロツキーは、輝かしい赤軍の戦歴を引き、強制動員による農民大衆からなる労働軍の創設を提唱したのであった。

 

 タムボフ県に広がる森林地帯は、兵役忌避者に絶好の隠れ家を提供し、ここにも多数の忌避者が徒党を組んで跳梁していた。二〇年五月にはタムボフ郡とボリソグレブスク郡の境界付近で彼らが指嗾した農民蜂起は、いくつかの郷を巻き込み、派遣された捕獲部隊を武装解除した。県チェー・カーは七月の報告書で、全県で強力に組織された匪賊の活動と兵役忌避者の群れを確認した。秋にはその数は二五万に達し、彼らは徒党を組み、穀物集荷所やソフホーズへの襲撃を繰り返していた。

 

 これら徒党の指導者の一人が、元エスエル党員А・С・アントーノフであった。八月に兵役忌避者の捕獲にタムボフ郡カメンカ村を訪れた部隊は匪賊に急襲され、その後に県チェー・カーから派遣された部隊も村付近で粉砕された。八月一九日に決起した約一五〇人の農民は、近くのソフホーズを襲い家畜を掠奪して、コムニストを殺害した。赤軍部隊によって村が鎮圧された二四日の晩に、徒党を引き連れたアントーノフが到着した。これが、その後一年数ヶ月にも及び、約五万人の犠牲者を出した「アントーノフ運動Антоновщина」の始まりであった。

 

 こうして農民と労働者に支持されたアントーノフ軍は、蜂起発生から数日間で工業地区を含む広汎な地域を瞬く間に占領した。村ソヴェトはパニックを起こして逃げ出し、匪賊がラスカゾヴォを攻撃するや、コムニストの半数は何処となく失せた。八月三〇日に党地区委は全コムニストに武器を持って参ぜよとのプリカースを出したが、そこに現れたのは「羊の群れ」でしかなかった。組織性もなく、急遽設置された防衛参謀部のメンバーは、「退却用の立派な馬を用意し、残りのコムニストは全員が非武装であった」。労働者は自分の工場の防衛に喜んで馳せ参じると期待されたが、実際にはそれは無条件に拒否された。翌三一日にタムボフから赤軍騎兵部隊と軍学校生徒が到着し、農民と匪賊への攻撃を開始したが、ヴェルフネ=スッパスコエの農民は赤軍との戦闘にもっとも積極的に参加した。戦闘は三日間続き、この村は殆ど丸ごと焼かれ、多数が殺害された。「約三〇〇〇人の匪賊と決起した農民は、[繊維工場のある]ラスカゾヴォを占領し、羅紗を掠奪し、コムニストを皆殺しにしたいと思っていたが、これは成功しなかった」。民衆のアントーノフ軍への支持、現地の党・ソヴェト組織の狼狽と無秩序状態は、二一年二月に中央から全権特別委が派遣されるまで続いた。

 

 アントーノフ=オフセーエンコは、先に触れた二一年七月のレーニン宛の膨大な報告書でその原因を適格に次のように指摘した。「県内には少なからぬ軍事部隊からの脱走兵と、強奪行為に手慣れて戦争により階級から脱落した様々な分子、紛れのない白衛軍兵士も潜んでいた。農民経営の需要を考慮せずに寄食する何十もの赤軍兵士部隊に、南部郡は耐えてきた。ソヴェト権力は、厳格な軍事行政的性格を帯びた。経済、啓蒙組織は充分広汎な建設的活動を展開することができなかった。総じて、大多数の農民の観念では、ソヴェト権力は、郷執行委と村ソヴェトに大胆に命令を下し、まったく支離滅裂な要求を履行しない廉で権力のこれら地方組織代表を逮捕するために訪れるコミッサールや全権と同一視され、しばしば農民経営に直接の害を与えてまったく国家の利益にならずに行動する食糧部隊とも同一視された。」。まさにタムボフ県での農民蜂起の原因は、彼が指摘するように、飢餓とコムニスト権力への農民の憎悪であった。

 

 農民史研究者В・В・コンドラーシンはヴォルガ流域の農民運動を考究した大部の研究書の中で、国内のきわめて苦しい食糧事情により、農民革命は一八年以後に新たな段階に入り、これ以後は先行する時期とは異なり、農民運動は農業経営を疲弊させるボリシェヴィキの農業政策からの「防衛的性格」を帯びるようになったと、適切に特徴づける。この特徴づけは、タムボフ県にも該当する。だが、乏しい収穫でも何とか生き長らえることができたときにはボリシェヴィキの圧政にも耐えてきたとしても、経営が完全に荒廃し、畑に疎らで膝丈もなく既に黄ばんだ麦しか見られないような厳しい飢饉の下で、絶望に駆られた農民は命を賭して立ち上がった。

 

 これまでの多くの農民直接行動は、通常は政治的スローガンを掲げず、農民の生存の権利を要求した地域的運動に留まった。だが、都市労働者から構成される食糧部隊による割当徴発が彼らの生存を脅かすようになり、彼らによって満足な収穫も実現されなくなったとき、食糧部隊員によって具現化されるボリシェヴィキは農民の共通の敵となった。こうして、二〇年夏以降に生存を賭けての新たな農民戦争が地域を超えて各地で大規模に展開された。二一年三月の第一一回タムボフ県党協議会で採択された「エスエル匪賊運動との闘争に関する決議」の中で、飢饉と農民蜂起について、「異常に苦しい県の食糧事情が、エスエルなどの反革命的プロパガンダを成功裡に有利に導いている」と述べられたように、飢饉は農民を反ボリシェヴィキへと駆り立てた

 

 アントーノフ蜂起は、タムボフ県からサラトフ、ペンザ、ヴォロネジ県へと浸透し、サラトフの東に隣接するウラリスク県からも、二一年二月に匪賊活動の拡大が伝えられたように、連鎖反応的に農民蜂起が随所で勃発した。さらに、西シベリアのイシム郡で発生した農民蜂起は二月以降急速な展開を見せ、この時期最大規模の反ボリシェヴィキ運動となりつつあった。

 

 党中央委で農民の気分に関する問題が取り上げられてから現地で態勢を整えるまでに、二ヶ月間が過ぎようとしていた。この時までにタムボフではアントーノフ軍と赤軍との戦闘は、三月初めに受け取った以下のレーニン宛の電文が物語るように、抑えようのない規模にまで拡大していた。「兵力三〇〇〇人のアントーノフ匪賊は、オゼルキ村(タムボフ南東四五[ヴェルスタ])で敗北し、南部方面に退却し、アトホジャヤ駅地区で三月一日に匪賊はわが三個の騎兵中隊への襲撃に移り、アトホジャヤ駅を占領し、大砲四門を奪った。最後まで防戦した砲手は殺害された。わが部隊は南部方面のオブロフカ駅に後退した。[…]北部への移動を続けているコレースニコフ匪賊はテルノフカ駅を占領したが、わが軍によってそこから放逐され、北東方面に後退し、テルノフカ駅から三〇ヴェルスタで北西に転じた。コレースニコフ匪賊の通過に関連し、モルドヴォ=ボリソグレブスク鉄道の地区で個々の匪賊の活動の強化が認められる。コプィル村(テルノフカ駅西三五ヴェルスタ)の地区で、わが大隊は一五〇〇人の匪賊の攻撃を受け、戦闘の結果、匪賊はわが部隊によってサドーヴァヤ(アンナ駅北西七ヴェルスタ)への後退を余儀なくされた。残りの地区では、わが軍事部隊は成功裡に匪賊との戦闘を行っている」。

 

 いかなる文書資料を紐解いても、党中央がアントーノフ蜂起の鎮圧にきわめて緩慢であった事実を合理的に説明することはできない。ボリシェヴィキ権力はこの時軍事力を動員する能力を失っていたと強く推測できるだけである。この鎮圧のためにボリシェヴィキ権力は膨大な軍事力の投入を余儀なくされ、その戦闘は辛酸を極めた。さらに、これら軍事部隊の糧秣の負担すべてがタムボフ農民に重くのしかかり、過酷な現物税の徴収の下で農民の権力への不満をさらに募らせ、そのため鎮圧をいっそう困難にした。

 

 農民蜂起へのこのような対応を勘案すれば、これを直接の理由としての割当徴発の停止は考えにくく、農民革命が割当徴発を破棄させ、ネップを導入させたとの主張に同意することはできない。何よりアントーノフ匪賊への中央からの直接的介入以前に(アントーノフ=オフセーエンコのタムボフ到着は二月一六日)、既に割当徴発は停止されていた(タムボフ県がその停止指令を受け取ったのは二月八日)。そもそも、農民蜂起の主因を割当徴発と関連づけるような議論は、当時にあっては稀であった。「労農同盟」を標榜する以上、ボリシェヴィキ指導者にとって労農政府の政策に反対して農民大衆が決起することはありえなかった。アントーノフ蜂起も、公式には「エスエルと勤労農民組合により導かれた」反革命的政治運動と解釈された。したがって、官報『イズヴェスチャ』紙上では、オムスク一帯の「クラーク反乱を組織した「シベリア州勤労農民組合」は[タムボフ県と]同様な役割を果たした」と評された。

 

 一般に通念されているように三月の党大会決議で割当徴発が廃止されたのではなく、二月下旬に始まるクロンシュタット叛乱以前に、中央ロシアの殆どで既に割当徴発は停止されていた。したがって、二一年四月のサマラ県チェー・カーからの極秘報告が、「食糧割当徴発が現物税に替わり、生産物の自由交換[が認可された]のは、もっぱらクロンシュタット水兵の要求とそのほかの蜂起のおかげであり、それらがなければこれは行われなかったであろう」との、農民の間に流布している根も葉もない風説を指摘しているように、同叛乱も割当徴発の廃止と関わりがないのは明白である。

 

 

 第五章 戦時共産主義「幻想」の崩壊 (第一節〜第三節省略)

 第四節 ウクライナの現状

 

 この状況は、ウクライナにとっても例外ではなかった。ウクライナはロシア十月革命から間もない一八年四月に、ブレスト講和に違反して侵攻するドイツ=オーストリア軍の占領下に入り、その後は、何度も革命派と反革命派の政権交代を繰り返した。一九年二月にボリシェヴィキがキエフに入城し、その後は順次ボリシェヴィキ軍がウクライナを軍事的に占領しながらここでの「解放」が実現された。だが、このような軍事占領に対しウクライナ農民が決起し、ここでの情勢はさらにもつれた。ここでの土地政策は集団化幻想が濃厚に反映され、優良地の殆どがソフホーズに引き渡されたことへの根強い不満があった。一九年五月にウクライナ食糧人民委員部が設置されたが、モスクワにとってウクライナはロシア共和国の重要な食糧源として位置づけられ、七月のロシア共和国食糧人民委員部決定により、ウクライナ食糧人民委員部は完全にモスクワ指導部の管轄に置かれ、一九年夏までにロシアの工業地区で編成された食糧部隊の多くがウクライナに送られた。

 

 ボリシェヴィキ政権が樹立したそのときから、激しい農民蜂起の洗礼を浴びたウクライナでは、ロシア共和国と幾分異なる食糧調達が行われた。ウクライナ食糧人民委員ヴラヂーミロフによれば、きわめて緊迫した政治情勢により、一、食糧活動は党と密接な関係を持ちつつ実施され、党の代表が食糧活動の政治的監視を行う地区食糧コミッサール代理に就き、二、農村における階級闘争が徹底されたのが、特徴とされる。要するに、ロシアに比べいっそう暴力的であった。

 

 しかし、既にウクライナ全体が農民蜂起に覆われ、四月後半のウクライナ情勢に関する中央委への報告書では次のように述べられた。「ウクライナは現在周期的な蜂起の波を蒙っている。ハリコフ、ドネツ、チェルニゴフ県で蜂起ははっきりと手に負えなくなり、隣接のクルスク、エカチェリノスラフ、キエフ県からそこへと浸透している。後者では、蜂起は既に完全に組織的性格を帯びている。例えば、エカチェリノスラフ県では、アレクサンドロフスクとパヴログラード郡で武装したマフノー・パルチザンはしばしばドネツ県に侵入している」。同様な文書が多数モスクワに送られた。

 

 このような強圧的食糧活動のために、一万五七六人に及ぶ大量の動員が実施された。しかしながら、既に貧農委布告が発布される直前の四月末にトロツキーはレーニン宛に、匪賊運動が猖獗しはじめ、ウクライナ情勢に真剣に配慮する必要があると打電したように、マフノーを先頭にして農民蜂起は深刻な状況にあった。その鎮圧のためには強大な軍事力が必要とされたものの、ロシアと同様に、これら軍事部隊は常に装備と武器の不足に悩まされ続け、期待された成果を挙げることは稀であった。二〇年夏にハリコフ県で、七四七人の国内保安軍兵士と七二〇人の労働者が食糧活動に従事していたが、このうち武装されていた部隊は半分に留まった。樹皮を食べているような飢餓があり、割当徴発は停滞する中で、農民蜂起は拡大し続け、一二月五日の電報でウクライナのチェー・カーは、「右岸ウクライナ全土にペトリューラの匪賊運動が満ちあふれている」と報じた。

 

 ウクライナ赤軍総司令官М・В・フルーンゼは、二月一三日の軍事革命評議会議長トロツキー宛の極秘電報で、その崩壊現象を次のように報告した。「軍隊と管区から、部隊のきわめて苦しい実情に言及する多数の報告が入っている。多くの箇所全域で文字通りの飢餓が認められる。至る所で装備と靴の欠如を訴えている。革命評議会は、現状がこのまま続くなら深刻な騒擾を想定しなければならないことを明言する。この点に関する状況を報告し、危機の根本的原因は、ウクライナへの輸送の完全な麻痺であることを通告する。すべての貨物が途上にあり、前線基地にも部隊にも実際は何も入荷がない。ハリコフ自体が完璧に飢え、パトロールを拒否するケースが認められる」。このような軍事部隊の危機的状況を報じたフルーンゼは、軍需と医療用の軍用列車の優先的運行と、二週間の穀物貯蔵をウクライナ現地で形成するなどの支援をモスクワに要請した。

 

 三月半ばにはウクライナ食糧人民委員部は、はっきりと現物税導入の立場を採るようになった。三月一四日づけの電報でヴラヂーミロフはツュルーパに、穀物と飼料に関して割当徴発の七五パーセントの規模で税を五月一日以後に導入するのがきわめて必要であることを通告し、その裁可を求めた。続く三月一八日の電報でも、三月一五日までの割当徴発による穀物調達は僅か六〇〇〇万プード余でしかなく、党大会での税の宣告により既に割当徴発の続行が不可能になった事実を指摘し、「即座の税の宣告が必要である」ことを強調した。そこでは、モスクワの食糧人民委員部から、商品交換のための商品フォンドを受け取る可能性はないと通知され、税を超えた分の汲出しは殆ど不可能でありながら、すなわち、残りの余剰は自由取引に流れる可能性を充分予知しながらも、中央ロシアで割当徴発の廃止が宣告された以上、ウクライナでの割当徴発の継続ができなくなった現実に基づき、ヴラヂーミロフは即座の税の実施を求めたのであった。

 

 四月二日のツュルーパへの電報でヴラヂーミロフは、ウクライナ四県で割当徴発を解除したことを通告したが、ここでも既に割当徴発の続行は不可能になっていた。隣接諸県に既に税と自由商業が宣言された現状の下では、集荷所から鉄道駅への穀物の搬送は完全に停止し、穀物調達は急激に悪化し、播種カムパニアの遂行さえも脅かされるようになった。

 

 その第一の理由は、ロシアと同じく多数の担ぎ屋の流入であった。第二の理由は、ウクライナでいっそう強まる匪賊運動であった。三月三〇日に党中央委がキエフから受け取った電報によれば、「組織的で整然とした陣容の、革命的で理想的な匪賊運動の広汎な展開が確認され」、このような「攻撃細胞」が四方八方からキエフを包囲していた。このような匪賊細胞は現地住民の共感を得ながら、徐々に肥大する傾向にあった。そしてこれら運動の対象は、以前と同様、ボリシェヴィキ権力による食糧活動であった。ヴラヂーミロフの電報によれば、匪賊運動はもっとも一般的な軍事的スローガン、「食糧活動家を撲滅せよ」の下で行われ、未曾有の反食糧プロパガンダが行われ、匪賊によって貧農が襲撃されているとのニュースが広がり、貧農委からの大量の脱出が認められた。あらゆる県で食糧活動は限界に達し、食糧活動家の大きな損害を出しながらも、その成果は僅かであった。五月最初の一週間で、アレクサンドロフスク県では六〇人、[ポルタヴァ県]ルブヌィ郡だけで約四〇人の食糧活動家が殺害された。

 

 

 第七章 二一〜二二年の大飢饉

 

〔小目次〕

   第一節 旱魃による凶作

   第二節 飢饉の惨状

   第三節 飢饉の救済を求めて

 

 第一節 旱魃による凶作

 

 サマラ県執行委議長に転出し県飢餓民援助特別委(コムポムゴル)компомгол議長兼任となったアントーノフ=オフセーエンコは二一年一二月一六日の県ソヴェト大会で、県内での飢饉との闘争について次のように述べた。二一年のヴォルガ一帯での飢饉の原因をまず内戦に求めた後で、今年の飢饉は、「以前と同様に気象条件、定期的にほぼ四年に一度完全な凶作年を引き起こす旱魃と結びついている。平均的[穀物]収穫の際には七〇〇〇万プードであるが、個々の年の収穫は、例えば一三年のように一億六〇〇〇万プードに達したり、または、一八九一年のように一一〇〇〜一二〇〇万プードに落ち込んだりした。今年は、馬鈴薯をそれに含めて収穫は六〇〇万プード以下であった。農民が持つ家畜の現有頭数も穀物と牧草の収穫に完全に依拠している」と、今年の飢饉が過去最悪といわれた一八九一年飢饉の半分の収穫しかない、未曾有の規模であるとの厳しい現状を報告した。だが、二一年の飢饉は既に割当徴発の下で二〇年に始まっていたことも、ここで強調された。

 

「状況は非常に苦しい。このことについて、われわれは全ロシアと外国に語らなければならないし、援助は充分ではないとの農民の声に耳を傾けて欲しい。もしこの援助が近い将来に増えないなら、何万もの農民は死滅し始めるであろう。今や彼らは何千となって死滅しつつある。人間の死体が掘り起こされて食べられ、飢餓で正気を失って、肉を食べるために自分の血を分けたわが子に襲いかかるとの情報を、われわれは持っている」。

 

彼が述べているように、二一年の飢饉は突然訪れたのではなかった。既に二〇年春から旱魃はゆっくり、途上の生き物を容赦なく破壊する目に見えない怪物のように、ヴォルガ東部流域平原から西シベリアの広大なステップに忍び寄っていた。二〇年の春は暖かく殆ど雨が降らず、春蒔きの時期に土は硬く乾燥していた。そのような旱天が夏まで続き、穀物は時機を待たずして熟し、収穫はまったく不調であった。秋になっても降水量は不足し、秋蒔き穀物は充分な収穫を約束するには乾燥しすぎの土壌に播種された。

 

旱魃のために穀物は異常に早く成熟した。六月初めに既にサマラから北二五ヴェルスタ辺りの畑で、秋蒔き穀物は穂を付けだした。この地域は初春から一滴の降水もなかった。近日中に雨が降らなければ、干草用に刈り取るしかなかった。春蒔き穀物の一部は黄ばみ始め、二週間は雨なしで保つであろうが、もしこの間に雨が降らなければ、種子も提供せず、丈が低いために干草にもならないのは明らかであった。

 

最後に、南東の風とともに、この地方にとって危険きわまりない「乾燥霞помоха」が現れ、すべての作物の全滅を完成させた。昨日まではまだ褐色であった小麦と大麦は黄ばみ、オート麦は白色になり、まだ完熟していない穀物は萎れ、早生穀物は全滅した。畑には穂の四分の三が空であったり穂を付けなかったりする藁だけが、二、三列残された。蝗の害から穂を護るためにも刈取りが急がれた。こうして、サマラ県での二一年の穀物収穫は、県平均でデシャチーナ当たり六プードにも達しなかった。脱穀された僅かな量の穀物は、粉に挽かれず、そのままで食された。農民は既に七月から晩生作物を当てにせず、あらゆる代用食の採取に取りかかった。藁、アカザ、アザミ、樹皮、ぼろぼろになった骨が砕かれ、食用に利用された。仔家畜も屠畜された。

このような光景は、ヴォルガ流域諸県だけでなく各地で見られた。

 

タムボフ県は匪賊運動が拡大を見せていただけ、いっそう厳しい状況にあった。匪賊運動の中心の一つ、キルサノフ郡では、多くの郷で昼間は匪賊が妨害を加えるため畑作業は夜間に行われ、播種委とセリコムは匪賊の襲撃の対象となり多数の活動家が殺害され、播種カムパニアは困難を極めた。住民は様々な代用食を摂り、種子用の穀物も食用に利用された。したがって、畑にデシャチーナ当たりライ麦を四プードしか播種しないケースも認められた。このように、二一年春の播種段階で凶作は充分に予想された。

 

タムボフ県でも家畜の激減が凶作の被害をさらに昂進させた。ボリソグレブスク郡では、牽引力として重要な馬頭数は、一七年の七万九〇三一頭から二一年には三万五七六一頭にまで減少した。馬一頭当たりの耕作面積の負担は、播種地が大幅に縮小しても、同じく七・七デシャチーナから一三・四デシャチーナに増えた。このため、農民は畑作業に牛を利用するようになり、それにより幾分農民の負担は緩和されたものの、このため牝牛の搾乳は悪化し、彼らの重要な栄養源を奪う結果となった。

 

このような乏しい県内の食糧資源も、匪賊によって掠奪されただけでなく、一二月にはボリソグレブスク郡の郷で、匪賊を追撃した赤軍部隊によって一万プード以上の穀物や馬鈴薯のほかに藁や肉などが大量に奪い取られた。この事実は赤軍部隊と郡食糧委によって確認されたにもかかわらず、これらを食糧税として算入するようにとの県食糧コミッサール代理の請願は、食糧人民委員部によって却下された。

 

 第二節 飢饉の惨状

 

 飢饉がいつ始まったのかを確定するのは難しい作業である。なぜなら、十月革命直後から飢餓や餓死の存在は既に指摘されているからである。一八年末に開かれた第一回全ロシア食糧会議で、北部オロネツとアルハンゲリスク県からの代表は異口同音に、住民の多くが苔を食べ、蠅のように餓死している現状を報告した。モスクワ市食糧委機関誌は一八年四月三〇日号で、飢餓により全国的規模で深刻な混乱があることを指摘し、そこで原因として強調されたのは、戦争による全般的経済の崩壊を別にすれば、農民から適正に穀物を受け取ることができていないこと、及び鉄道輸送の解体であった。例えば、サマラやサラトフ県では、ある郡では穀物の投機が蔓延していても、別の郡では飢餓状態で餓死者も出ている。タムボフでは、麦粉がないためにパン焼場が閉鎖されていると同時に、ホテルでは投機人が高い価格で麦粉の取引を行っているという。妥当な評価である。

 

一七、一八年の穀物収穫は決して不作ではなかった。当時の食糧活動家の算定によれば、戦前平均に比べて幾分かの収穫の落ち込みがあったとしても、それは穀物輸出の停止と相殺されるか過不足バランスでいくらかの余剰があった。それでも革命直後から厳しい飢餓状態を各地に出現させたのは、以下のボリシェヴィキの政策的過誤の結果であった。第一に、穀物貯蔵が偏在し局地的飢餓が認められ、分配機関が未構築であったにもかかわらず、その自由流通を禁止したことである。このため闇食糧取締部隊が怨嗟の的になったことは既に述べた。第二に、割当徴発の下で窮民への食糧供給が穀物商業を禁止する際の担保となるべきであったが、実際にはそのように設定されていなかった。割当徴発の基本方針を審議するために招集された第一回全ロシア食糧会議でブリュハーノフは、この制度の下で農村住民の二五パーセントだけが供給計画に含まれている、と明言した。彼はそこで次のような驚くべき発言を行った。「すべての需要を一様に充たすことはできない。このため、緊急の需要を充足する目的で[一八年]九月から食糧フォンドが形成された。それは飢餓によって生ずる反革命的直接行動に対する政治的性格を持つ。[…]セヴェロドヴィナとアルハンゲリスク県は穀物に困窮しているが、他県を飢餓に陥れることなしに[それらに]供給することはできず、栄養失調のままにせざるをえない。[供給の]平等はありえず、それを考えてはならない」。こうして、その当初からボリシェヴィキ権力は、飢餓を地方に封じ込め、中央の都市労働者に食糧を確保することで、政治的基盤の安定化を目指したのである。この意味で戦時共産主義期から始まる飢餓は人為的である。

 

割当徴発による完全な農業の荒廃の下で、二〇年に始まる旱魃は自然災害以上の打撃をもたらした。既に割当徴発が全国的に展開された一九年春にも、ヴォロネジ県ニコリスク郡ヴォズネセンスク地区の農民は、播種用に二五万プードの穀物を残さなければならないが、食糧エイジェントは穀物を残すことを拒否して、すべての穀物を搬出し、畑は播種されないままに残された、と窮状を訴えた。ウファー県ビルスク郡からも、ペルミ県オサ郡からも、食糧部隊は種子にも飼料にも何も残さず、一切合切奪い去り、播種面積は縮小し、役畜を失った経営が崩壊しつつある事実が報告された。割当徴発は農民から、生産意欲も未来の希望をも奪い取っていた。

 

二〇年になると飢餓による播種不足が各地ではっきりと現れるようになった。スモレンスク県ムスチスラフ郡では、郡食糧委は飢えた農民から最後の馬鈴薯を奪い、畑は何も植えられないままに放置された。リャザニ県スコピン郡で、種子用馬鈴薯の徴収に県食糧全権が訪れ、冬季の調達で住民には春蒔き用の種子さえも残されず異常な播種不足が明らかになっているにもかかわらず、彼はそれでもさらなる徴収を命じた。

 

このような割当徴発に起因する農業の荒廃は、わずかな異常気象にも持ち堪えることができず、二〇年の収穫を待たずして、全土で飢饉は明らかになっていた。七月五日づけでカルーガ県コゼリスク郡執行委からВЦИКに、次のような電報が届けられた。「六月四日の郡執行委幹部会会議で、苦しい食糧事情に関する幹部会議長の報告を聴いた。いくつかの例外を除き、コゼリスク郡のすべての市民は現在、あらゆる代用食として雑草、樫の実などを食べている。ひどい飢饉のために大量の農民住民が、自分の播種を投げ捨て他県に逃げ出し、穀物諸県への通行証を要求して、郡執行委を取り囲んでいる。地方から入る同志の情報によれば、春蒔き畑の大部分は播種されず、秋蒔きはいくつかの地方で劣悪なのは明白である。餓死があった。栄養失調のためにあらゆる疾病に多数が罹っている」として、飢餓住民の支援と移住の許可を求めた。

 

しかし既に、これらの認定地区をはるかに超えた範囲で、共和国の至る所から凶作に関する情報が入っていた。食糧人民委員部は全ロシアで由々しき事態にあるとの認識から、県食糧委に九月一三日づけで、「凶作の結果、飢えた農民住民への食糧援助に関する方策の作成に至急着手するよう」命じた。その中で、「穀物の全体的に低い収穫の下では、飢えた農民住民に穀物生産物の搬送を期待することができない」との前提で、飢餓民援助のための食糧フォンドとして、県内の食糧資源の再分配を利用し、特に凶作を蒙った地方では食糧配給所を通しての食糧供給が指示された。飢餓の現実を前にしても、現地の食糧資源以外に被災者援助の国家フォンドは想定されなかった。この方針に基づき、一一月二日づけСНК会議決議は、凶作を蒙った地方の農村住民への食糧援助強化のために、「必要な穀物フォンドを現地で形成する目的で、それら余剰を持つ資力のある農民から余剰を精力的に収用するのを食糧人民委員部に義務づける」ことを定めた。要するに、凶作罹災地での割当徴発の強化が命じられたのである。

 

割当徴発と飢饉との関連については九月一四、二八日のСНК会議で取り上げられ、ブリュハーノフにその検討が委ねられた。これを受け、一一月一五日の会議でブリュハーノフ特別委は、僅かの例外としてモスクワ、チェレポヴェツ、ポクロフスク県とドイツ人コミューンで割当徴発を低減する以外、穀物割当徴発を変更する必要がないことを、公表を必要せずとしてСНКに勧告した。タムボフ県などの実情を視察したスヴィジェールスキィは一〇月一一日の食糧人民委員部参与会会議で、昨年までの穀物貯蔵が存在するために、今年の凶作でもタムボフ県は割当徴発の半分を遂行可能であり、それでも割当徴発を完遂できないのは、「穀物を取り上げるという意味で、われわれはまだいかなる英雄的措置を執っていない」からであると結論づけた。

 

こうして、飢餓の原因に割当徴発はまったく関連づけられず、したがって、割当徴発の免除や軽減の請願は凶作諸県でも考慮されなかった。一〇月半ばにリャザニ県食糧委は郡食糧委に割当徴発からの解除について、次のような訓令を与えた。郷または村団から割当徴発の解除についての農民代理人によって請願が提出された場合に、一、郷または村団が当該割当徴発を五〇パーセント遂行するまで割当徴発の解除や再検討について協議できず、二、すべての割当徴発を一〇〇パーセント遂行しなければならないが、ごく例外的場合にのみ八〇パーセントの遂行を認め、三、その遂行後に郡食糧委は割当徴発の再検討を行い、四、この解除された割当量によって郡全体の割当総量を減じさせない条件で、それ以後の収用を停止することが指示された。凶作県にも割当量の変更はまったく認められなかったのである。

 

こうして二一年を待たずに、飢餓はロシア全土に猛烈な勢いで襲いかかった。

 

 次いで彼らを待ち受けるのは、伝染病であった。この事実は多数報告された。六月に現地チェー・カーは、ヴォロネジ市(人口約九万)での多数のコレラ患者を確認した。六月二―五日で一四八人の患者が記録され、カラチェフ郡では四人のペスト感染があった。六月初めのサラトフ県チェー・カーの報告によれば、コレラ感染が蔓延し、六月八、九日にサラトフの医療機関に二六人のコレラ患者が入院し、そのうち半数は到来した避難民で、一〇日にはさらに五六人のコレラ患者が記録された。県チェー・カーは、「農民は雑草を食し、そのためコレラ感染が猖獗している」と伝えた。医療関係者と医薬品の不足のために、これと闘うのは殆ど不可能であった。

 

飢えについて手紙は次のように伝えている。「人々が浮腫んでいると、ブズルクから書き送っている。一人当たり日に桶三杯の水だけを口に入れている。二〇日くらいで病気になり、次第に死んで行く。村住民の三分の一が意識朦朧となっているлежит без памяти。新たな病が現れた。嘔吐が始まり、口中と舌の皮が破れ、人が死んでいる」。同郡の七村で現地消費組合によって調査が行われ、二一年一一月前半から一二月一〇日までに一六歳以下の子供一一八人、一七から四九歳までの成人七〇人、五〇歳以上の老人四八人の死亡が確認された。

 

年が明けるとここでの状況はさらに悪化し、二二年一月にプガチョフ郡ポムゴルは県執行委議長アントーノフ=オフセーエンコに、伝染病と飢餓のために死亡率は一五から二〇パーセントに達し、雪が大地を覆い尽くしたために代用食の採取さえ不可能になり、死者は路上に放置されたままで、屍肉を食べるために白昼でもそれらは盗まれ、人肉食も見られるような郡の悪夢(カシマール)から状況を改善するために食糧援助を要請した。

 

そこでの悪夢は人肉食で頂点を極めた。一二月二三日の第九回全ロシア・ソヴェト大会で報告に立ったアントーノフ=オフセーエンコは、「農民の血の滴で綴られた」県内の飢餓の惨状を描く際に、ブズルク郡で認められる屍肉食の現実に触れた。通常ならば秘匿されるようなこれら多くの実例が、当時の新聞、雑誌、書籍などで報じられた。サマラ県執行委・県党委機関紙『コミューン』二二年一月一五日号は人肉食について、「穀物と肉から見捨てられたサマラ県の広大なステップ郡で悪夢が演じられ、軒並みの人肉食повалное людоедствоという異常な現象が認められる。飢えのために絶望と無分別に追い込まれ、眼にして口にできるあらゆるものを食い尽くした人々は、人間の屍体を切り刻み、自分の死んだ子供を貪り食っている」と報じた。まさに、このような事実はその後も多数報道された。飢えた人々は(なぜか、実行犯の多くが女性であった)、痩せさらばえた屍体には肉など殆ど残っていなかったが、墓場や納屋などあらゆる場所からそれを盗み、あるいは殺害して屍肉食や人肉食に及んだ。

 

より広汎な事例は、現地チェー・カーの報告により公式に確認できる。二二年二月六―九日間の県内の状況についてサマラ県チェー・カーは極秘として、「飢餓は食糧がないために恐ろしい規模に達している。プガチョフ[郡]では三日間で餓死者は三七八人、メレケス[郡]ではいくつかの村で毎日五人から一〇人が死に絶え、サマラ市と郡では一六六人が餓死した。人肉食が増えている。スタヴロポリ郡全土で二件、サマラで一件の人肉食が記録された」と報告したが、その後もこのような惨状はいっそう強まり、二月二四―二七日間の報告書では、「屍肉食と人肉食が頻繁に繰り返されている」と指摘した。

 

最大の飢饉を蒙ったサマラ県での数々の惨劇は、人肉食や屍肉食の生々しい実態を含めて多数の出版物で広く知られることになったが、このように悲惨な光景は、厳しい飢饉が発生した至る所から現地チェー・カーによりВЦИКポムゴルに報告された。サラトフ県から、二二年「一月三日。人肉食のケースが見られる」、バシ共和国から、「一月二〇日。飢餓は日ごとに強まり、住民の八〇パーセントが飢えている。代用食は枯渇し、人肉食のケースがある」、タタール共和国から、「一月二四日。スパッスク郡で人肉食が認められる」。次のような極秘報告もある。これらはすべて公式の報告書であるが、これ以上の引用は余計であろう。ハリコフ大学神経精神病学科長フラーンク教授は、人肉食と屍肉食についてオデッサ、ドネツ、ザポロジエ、ニコラエフ、エカチェリノスラフ県を調査し、殺人が行われ人肉食に至った信憑性の高い二六件と殺害された死体が販売された七件を確認し、あらゆる県で屍肉食は日常的であったと結論づけた。

 

 第三節 飢饉の救済を求めて

 

 統計資料によれば、ロシア共和国での馬鈴薯と搾油用種子を除く穀物の二一年の総収穫は一〇億五五八九万二〇〇〇プードで、中央農業地帯を中心として旱魃被害のあった前年の総収穫一三億一四〇八万九〇〇〇プードを大きく下回る、未曾有の凶作となった。六月二六日づけ『プラヴダ』紙上で、一八九一年を凌ぐ、罹災者二五〇〇万人の飢饉の存在が初めて公式に報道され、同月三〇日づけ『経済生活』紙は農民が大量に村を捨てている飢饉地区の惨状を伝え、中央権力による以下のような飢餓民救援が始まった。

 

第一は、飢餓民援助機関の組織化である。七月一八日づけВЦИК幹部会決議で設置されたВЦИК飢餓民援助中央委(議長カリーニン)は、飢餓民の援助を組織する目的ですべての県と州に飢餓民援助委(コムポムゴル)の設置を命じ、七月中に殆どの地方で組織化が終了した。この時は飢餓民の数は一〇〇〇万人と想定された。イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県では、七月一五日の県党協議会で県委の提案により、全国的規模で凶作を蒙った飢餓民を援助するカムパニアを実施するため、県委、県執行委、県労組評議会代表からなるコムポムゴルが選出された。そのため飢餓民救済の名目で教会貴金属の没収が断行され、教会への圧力が強まり、民衆と権力との新たな緊張関係が生まれた。

 

 八月半ばにВЦИКポムゴル議長カリーニンは、飢饉の視察と新経済路線の組織化のためにサマラを訪れ、プガチョフ郡の村を視察した。その状況はアカザを食べ、餓死者も出たほどで既に悲惨であり、農民は口々に中央からの支援を訴えた。だがそこで彼は具体的援助を明言することはできなかった。その後も、県ポムゴルは殆ど中央政府からの援助を受け取らず、県のあらゆる出版物は「助けてくれ!」と、同胞からの支援を訴え続けた。総人口二八〇万を持つサマラ県で、二一年八月には八六万近くが飢えていたが、二二年一月にはその数は二四三万人に迫ろうとしていた。

 

ヴォルガ一帯で人々は亡霊のようになって一粒の穀物を求めて彷徨し、多数の家畜が屠畜され、チフス、壊血病が蔓延した。このような辛酸な光景は全土で認められたが、国家からの飢饉援助はほとんどなく、そのため、二二年までに地方権力は独自に様々な付加税を導入した。

 

第二の支援措置は、凶作諸県での秋蒔き区画からの現物税の免除である。ВЦИКは七月二一日づけ政令により、凶作を蒙ったアストラハン、ツァーリツィン、サラトフ県、ドイツ人コミューン、サマラ、シムビリスク県、タタール共和国、チュヴァシ州、ウファー県ベレベイとビイスク郡、マリ州セルヌルとクラスノコクシャイスク(カントン)、ヴャトカ県ヤランスク、ウルジューム、ソヴェトスク、マルムィジ郡で、秋蒔き区画からの穀物現物税の徴収を免除した。ただし、同政令によれば、国税としての徴収は免除されたが、県内の秋蒔き播種に投入する目的で「凶作を蒙った諸県で所によっては満足な収穫があることに配慮し、地方税として食糧税を実施する」とされ、これを受け八月四日づけВЦИК政令は、これら地方税を確定するための手続きを定めた。七月二一日政令でも言及されたように、この規程は二一年春の播種カムパニアの際に実施された県内種子再配分と同様であった。そして、当時この再配分が追加割当徴発と同義であったように、この措置は農民にとって現物税負担の免除をまったく意味しなかった。

 

この間にも飢餓地域の範囲は著しく拡大し、二一年末までにロシア共和国で公式に二二〇〇万人が飢餓民と認定されていたが、実際には二三県の三一九二万二〇〇〇人が飢饉の罹災者であり、それは全人口の二七・七パーセントに及んだ。

 

この時ボリシェヴィキ政府は秋蒔き播種カムパニアを目前にして、全面的飢饉の下でいかにして種子フォンドを確保するかの大きな難問に直面していた。

 

七月一一日に農業人民委員代理は県農業部に、昨秋と今春に貸し付けられた種子を、秋蒔き種子材として穀物には一二パーセント、馬鈴薯には二〇パーセントの利子を付けて徴収するよう命じた。一方、食糧人民委員部はサマラ県など先の七月政令で認定された凶作地域の播種委に、これら地域での秋蒔き穀物の不作と、これらが「非生産的に利用される危険性[つまり、食用にされること]」を考慮して、秋蒔きを最大限に播種する目的で、種子を食用に消費すること、播種終了まで秋蒔き穀物を脱穀すること、秋蒔き種子を市場取引に出すことを禁止し、村ソヴェトに秋蒔き穀物の収穫を登録し、秋蒔き播種に必要な量を控除した残りすべての収穫を余剰と見なし、余剰持ち経営から種子余剰を収用し、郷執行委は受け取ったこれら種子余剰を、郷内再分配に利用して種子の充足を行うよう命じ、この違反者を厳罰に処するよう指示した。飢饉地域の農民に餓死を強いる、驚くべき内容である。

 

しかし、より本質的問題は、現地の飢餓状況を斟酌することなく党指導部がロシア中央に最優先で穀物を確保しようとした事実である。飢餓地域に認定されながらも、キルギス共和国領内での窮状は完全に無視された。ネップへの移行に関して通常描かれる両首都での復興と「繁栄」の背後には、無数の犠牲が隠されている。ここでの春の播種カムパニアは、種子が供給されないために農民が勝手に国家集荷所から種子材を奪い取るような危機的状況の中で実施された。

 

文字通りの飢餓輸出を強いられたキルギス共和国での罹災者は甚大な規模に上り、二二年一月には公式資料によれば飢餓民の数は一六〇万に達し(人口の約三三・七パーセント)、その後も急速に増え続けた。二一年末の政治状況についてオレンブルグ県チェー・カーは、「実際の成果を見ていないとの理由で、農民は新経済政策に馴染んでいない」と報告した。既に触れたように、二一〜二二年の飢饉は特に周辺《民族》地域で多大な犠牲者を生じさせたが、それは、割当徴発の後遺症とならんで、自然災害以上にこのような政策の必然的帰結である。まさに人為的飢餓であった。中央に優先的に穀物が搬出されたため、両県が配属されたウファー県は八月末に、集荷所に穀物と飼料はなく、商品交換で一六〇プードの穀物しか受け取らなかった、と打電したような成果しかここでは挙げなかった。このような措置を通して、全体として八月二五日までに任務命令の四五パーセントに当たる四一三万五九〇〇プードの種子用ライ麦が飢餓諸県に発送された。

 

 外国からの支援に依拠しなければ、二一年飢饉の克服は不可能であった。ネップ体制の成立において、十月革命からいったんは閉じられた外国勢力との関係修復が、重要な意味を持つが、その中で非政府団体の際だった活動が特徴的である。

 

 七月一一日づけで総主教チーホンが出したロシアでの飢餓と農業の破壊を克服するための援助を求めるアピールに続き、翌一二日にマクシム・ゴーリキは、世界大戦で失われた人間性を回復する好機であるとして、未曾有の旱魃による飢饉への支援を「すべての善良な人々」に訴えた。後者のアピールを受け、合衆国商務長官H・フーヴァーは七月二三日の電報で、アメリカ人捕虜の即時釈放を絶対的条件として、彼を議長とする「純粋に任意団体で完全な非公式組織」であるアメリカ援助局がロシアを援助する用意がある旨を表明し、同ヨーロッパ代表との間で援助交渉がリガで始まった。

 

 それでも権力は徴収に容赦がなかった。サマラ県「プガチョフ郡で、駐屯している軍事部隊への農民の対応は尖鋭化している。それらは農民から最後の生産物と家畜を取り上げ、それらに対して貨幣も、引き渡した生産物に対して農民が貨幣を受け取ることができる受領書распискаも交付していない。住民は言葉の完全な意味で飢えている。屍肉食と人肉食が頻繁に繰り返されている。メレケス郡で、餓死は五〇から一五〇人に達している。ブグルスラン郡では、[二二年]二月中に全部で三〇六〇人が死亡し、そのうち子供が一六七八人。プガチョフで[二月]一六から二二日までに、九六八人がチフスに感染し、五四九人の全患者の五六・七パーセントが死亡した。医療援助がないために死亡率は高い」と、県チェー・カーは二二年二月下旬の極秘報告書で伝えた。

 

 これがネップ一年目のロシアの現実である。現物税と飢饉は、十月革命以来荒廃し続ける農村に重くのしかかり、疲弊し無気力に陥った農民はそれから逃れる術を知らず、ただ黙って近づく死を待ち受けるだけであった。

 

 

 むすびに替えて−ネップへの移行の意義

 

 二一年一二月に開催された第九回全ロシア・ソヴェト大会には、その一年前のソヴェト大会が内戦の終了にともなう楽観的気分が支配的であったのに比べ、きわめて沈鬱な雰囲気が漂っていた。そこでカーメネフは、新経済政策の予備的総括について次のように報告した。「われわれが「新経済政策」なる用語を使うとき、われわれは十月革命直後の一八―一九、二〇年に実施を余儀なくされた経済分野での政策を、それと対置しようと思っている。この意味で「新経済政策」なる用語は、おそらく、二一年まで適用するのを余儀なくされたわが経済と、現在の方法を対置するのに的を射ている。だが、もしこの「新」という言葉を拡大解釈し、ソヴェト権力にとって、労農国家にとって、われわれが現在既にこの数ヶ月間実施しているこの経済政策に何か突然なもの、何か原理的に新しいものがあるだろうかと自問するなら、われわれはこの質問に次のように答えなければならない。突然なものはない、原理的に新しいものはない、われわれが二一年春に不意に考えついたようなものは何もない」として、この方針の起源を一八年春の政策に遡らせて次のようにいう。「もし諸君が一八年春の労農政府の政策に注意を払うなら、現在いわゆるわが新経済政策によってわれわれが吹き込んでいるすべて同じ内容が当時既に示されていたことが分かるであろう」。

 

 見事なレトリックである。三月の第一〇回党大会で現物税について副報告をした際にツュルーパは、この政策転換による、急激な方向転換の際に乗客が荷馬車から投げ出されるのと同じような危険性を警告し、過去の割当徴発は最善の政策でなかったが、現物税も最善の方策ではなく、「息継ぎ」を与える目的を達成するためだけに実施されることを、レーニンの発言を引いて強調した。これが現物税導入当時のボリシェヴィキ指導部の多くが持つ共通認識であった。しかし、カーメネフはこのように論ずることで、ネップが予め構想された適正な社会主義路線であることを論じただけでなく、ボリシェヴィキ政府は一貫して労農同盟路線を執り続け、これからの逸脱は反革命運動やチェコ反乱のような外的要因によって余儀なくされたとして、十月革命からのすべてのボリシェヴィキ政策を正当化し、免罪したのであった。これが基本的にそれ以後のネップ解釈の源流となった。

 

 西シベリアに赴いた経験を持つシリーフチェルは一八年五月のВЦИК会議で、何千、何万プードの穀物余剰を持つ非常に多くの「農民ブルジョワジー」の存在を指摘し、「おそらく農民全体の一〇分の九がこれであるといわざるをえない。これが正に階級闘争の原理を適用すれば、穀物を取り上げることができる層である」と発言した。彼によれば、殆どすべての勤労農民大衆が、階級敵となり、クラークとして断罪された。このような論拠で、食糧独裁が実行されたのであり、都市労働者部隊による農民からの食糧の収奪に法的根拠が与えられ、農村での階級闘争が始まった。「労農同盟」を標榜したとしても、クラークや中農が何者かであるかの議論は、党のいかなるレヴェルでも行われなかった。彼のようなボリシェヴィキ指導者の発言に対し、左翼エスエルは、食糧独裁は本質的に農民への宣戦布告であるとして反ボリシェヴィキ的旗幟を鮮明にした。それだからこそ、穀物の供出を拒否する農民は階級敵であり、彼らに対しては「民衆がそれを見て、身震いし、悟り、悲鳴を挙げるように」、徹底的な弾圧が正当化されたのである。

 

 このような一八年五月一三日づけ布告により制度化された食糧独裁は、中央権力内でのボリシェヴィキと左翼エスエルの連立に終止符を打ち、ボリシェヴィキ独裁への道を拓いただけでなく、都市労働者と共同体農民との決定的亀裂を招いた。いうまでもなく、西シベリアでチェコ反乱が勃発し、武装反革命運動と日本を含めた欧米からの干渉戦争が本格化するのはこの食糧独裁令以後である。このような戦時共産主義体制を生み出したのは、「農村での十月革命」、より正確には、農民への抑圧の行使を社会主義革命の強化と同一視した、ボリシェヴィキ指導部が共有する内在的論理からの必然的帰結である。そして、この時の「革命的英雄主義」は共産主義幻想とともに肥大化した。

 

 民衆の窮状に対してボリシェヴィキの政策を免罪するような立場は、もちろんカーメネフ一人ではなかった。二一年の飢饉について報告した第九回ソヴェト大会議長カリーニンにとって、ロシアで発生した飢饉とは通常の現象にすぎなかった。彼は二一年飢饉の原因を農業の崩壊に見たが、それは一四年の帝国主義戦争[世界大戦]から始まり、一九、二〇年に白衛軍や赤軍の行動が自然災害を拡大させた結果であるとして、割当徴発や対農民政策とはまったく関連づけなかった。これら両者が、飢餓民援助の統括責任者(援助中央組織の議長と議長代理)であった。

 

 この種の議論はさらに続く。二一年の冬から春にかけて特に両首都を中心に急速に広まった、食糧危機をその主因とする都市労働者の一連の騒擾について、一二月の第一一回党協議会でカーメネフは次のように報告した。農村は都市労働者を賄う替わりに、農民の気分が都市プロレタリアートの政治意識を圧倒した。都市と農村の関係は、農村が卓越するようになり、農民の要求が反映されるようになった。彼にとって農民の心性は否定されるべきであった。なぜなら、それにエスエルがつけ込み、プロレタリアートと農民の間に楔を打ち込もうとし、同時にブルジョワジーにも農民の中に潜り込む機会を与えたからであり、「コムニストなきソヴェト」のスローガンはこのことによって説明される、と彼はいう。このような論理で、ロシア全土で飢饉が蔓延し何十万もが餓死しつつある現実に、党指導者は殆ど沈黙を守った。

 

 この時期にも依然としてプロレタリア革命の幻想に囚われていた党指導部が、十月革命以来のボリシェヴィキの政策によって引き起こされた民衆の窮状にきわめて無自覚であったとしても、それは当然である。戦時共産主義政策とネップとの間で、ボリシェヴィキ党指導部の政策理念に相違を見いだすのは難しい。二一年に極限に達する食糧危機を克服するため、農産物を徴収する際の強制力の行使は完全に正当化され、そこでは農民の事情が配慮されることもなかった。戦時共産主義期と同様な政策理念が、二一年の政治過程で繰り返されるのを既にわれわれは見てきた。

 

 シベリアも同様である。ここでの飢餓も夏が近づくにつれ深刻となった。七月に開かれた第四回トムスク県党協議会で、シェグロフスクやトムスク郡組織から、食糧危機のために匪賊運動が盛んになり、そのためにソヴェト活動は殆ど停止した事実が指摘された。それでもシベリアには三九〇〇万プードの食糧税が課せられ、そのうち二一年一二月で六〇パーセント以上が徴収され、これら数字はほかの地方に抜きんでていた。シベリアの実情を考慮することなく中央権力により執行される穀物調達は、シベリア各地で二一年の収穫後にも食糧危機をいっそう昂進させ、権力への憎悪を脹らませていた。

 

 特にこのような穀物辺境地で、強制力をともなう穀物調達が強化されたことが特徴的である。したがって、現物税への移行により、戦時共産主義期を特徴づける軍事的暴力を伴う調達活動が停止されたと考えるなら、それは大きな誤解である。一二月に二万二七六八人の兵員を数える軍事部隊войскаが食糧調達のためにロシア共和国とウクライナに展開し、ほぼこれと同数の民警と民兵団дружинаもこれに従事していた。この軍事部隊の人員は一九年前半にロシア共和国に展開していた食糧軍に[匹敵した]の総員を超えていた。

 

 最終的に二一年飢饉の規模は、ポムゴル中央委の清算に関するВЦИКの訴えの中で、「パヴォルジエ、プリウラリエ、カフカース、クリミアの広汎な地区とウクライナの一部で、旱魃は殆どすべての播種を絶滅させた。この自然災害に三七六二万一〇〇〇人の人口を持つ一八の県、州、連邦共和国とウクライナ五県が罹災し、それはロシア共和国人口の約三〇パーセントをなす。[…]以前は常にロシアの穀倉であった穀物生産地区は、穀物余剰を提供しなかっただけでなく、著しい部分で種子さえ収穫できず、二億プード以上の不足を生み出した」と公式に確認された。

 

 このような飢饉の下での現物税の徴税活動は、様々な抑圧的措置を行使して一段と厳しさを増していた。シベリア食糧委議長カリマノーヴィッチは、一二月一五日に始まった食糧二週間で一万五九八件の行政的処罰があり、人民裁判所と革命裁判所税巡回法廷により五五七一件が審理され、そのうち七五パーセントが財産没収を受け、一八六三人の赤軍兵士が不払人の監視に就き、二二箇所で新たな革命裁判所食糧法廷が設置され、トムスク、オムスク、アルタイ県の一連の郡で市場が閉鎖されたにもかかわらず、納税が殆ど増えなかったシベリアの現状を報告した。

 

 当初はロシア共和国で、搾油用種子、馬鈴薯を含めライ麦単位に換算して二億七〇〇〇万プードの規模と定められた現物税は、最終的に一億三八〇〇万プードにまで徐々に縮小され、一二月一五日と定められた納付期限は、延滞料を付けて二二年三月一五日まで延長され、ようやく初年度に一億三二七六万プードの穀物現物税を徴収することができた。

 

 こうした農村での悲惨な光景とは対照的に、二一年の間に大都市の相貌は大きく変容していた。モスクワでは現物税の導入とともに、各広場で自然発生的に市場やバザールが生まれ、夏以後にその数は急増し、商業施設が整備されるようになった。広場はアスファルトで舗装され、電気照明が付けられ、カフェ、電話機などが設置された。街路には着飾った人々が溢れ、商店には様々な品物が並ぶようになった。このような変貌に瞠目したのは、二二年一月にボリシェヴィキ監獄から釈放されたダーンだけではなかった。

 

 カーメネフの方針もあり、モスクワの賑わいは別格であった。ネップへのドラスチックな転換を強調するため、多くの文献は二一年末の都市での驚嘆すべき変容ぶりを描写してきた。しかし、これは二一年ロシアの原風景のごく一部でしかなく、その上で、これらの変貌はボリシェヴィキの政策理念の転換を決して意味しなかったことも、強調しなければならない。二一年の飢饉が単に二〇年から続く旱魃などの自然災害をその基本的原因としない以上、そして十月革命以来綿々と続くボリシェヴィキの農民統治政策に基本的変更がない以上、割当徴発から現物税、さらには単一農業貨幣税へとその形を変えたとしても、ボリシェヴィキ権力による農民からの強制徴発が存続する限り、ネップ期においてもロシア農民の窮状は殆ど旧態依然のままであった。この点でカーメネフは正直であった。第九回ソヴェト大会の報告で、彼は「新経済政策により気楽に生活できるようになった」との考えを戒め、「この新経済政策は大きな犠牲を求めている。それは農民に都市への無償の前渡しを、労働者には勤労の一部の無償の引渡しを要求している」と明言した。

 

 二二年九月七日づけВЦИК決議により、「新収穫の刈入れにともない、飢饉の直接的尖鋭化が止んだ」ため、ポムゴル中央委は清算されたが、その後もロシア農民の飢餓状態が改善することはなかった。トロイツコエ村の村スホードで、「ソヴェト権力はコルチャークよりもひどい。それは農民から奪い取って税で苦しめている」との叫びが挙がった」と報告した。それでも、「殆どもっぱら税支払人への抑圧の大量の適用によって」単一農業税の徴税は続けられた。二五年に飢饉はさらに拡大した。革命前はロシアの穀倉地帯と位置づけられていたタムボフ県の各地で、市民の間に餓死と浮腫が認められた。農民史研究者エシコーフはタムボフ県での具体的資料を援用し、二〇年代中葉にあっても家畜の減少、低い農業技術水準などの要因による穀物生産の危機があったことを指摘し、現在も根強く残るネップ期における農業復興の「神話」を完全に否定する。

 

 ネップの導入は、むしろ、都市と農村、中央と地方との亀裂を構造的にいっそう深める結果となった。抑圧的措置を行使して食糧調達を断行しながらも、国家的義務を遂行した飢えた民衆への援助をことごとく拒否する中央権力と、欠乏と困窮の中で苦しみ喘ぐ民衆との乖離は、二一年の飢饉の中でさらに増幅された。ロシア革命以来連綿と続いた民衆の悲劇は、この現実の中でピークを迎えたとしても、それでもまだ止むことはなかった。

 

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 (関連ファイル)

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

        食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

        レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

    Amazon『梶川伸一』で著作4冊リストと注文

 

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

        1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

        クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

    『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』21、22年の飢饉死亡500万人