日本共産党と5つの選択肢

 

(宮地作成)

 

 〔目次〕

  1内部矛盾の深化、表面化

  2、矛盾にたいする5つの選択肢

     〔第1選択肢〕社会民主主義政党へのなしくずし的転換

     〔第2選択肢〕革命政党から、社会民主主義政党への大転換を公然と宣言

     〔第3選択肢〕批判回避として、便宜的に民主主義的中央集権制だけを放棄

     〔第4選択肢〕解党路線

     〔第5選択肢〕「04年綱領」革命路線を堅持しつつ、それを隠蔽した柔軟路線

 

 (関連ファイル)                  健一MENUに戻る

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』各国共産党の選択

    『イタリア左翼民主党の規約を読む』左翼民主党規約の全文添付

    アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

     フランス共産党の党改革状況(宮地作成)

    福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

    福田玲三『党史上初めて対案提出』2003年フランス共産党32回大会

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕

1、内部矛盾の深化、表面化

 党員の活動意欲の深刻な減退が、25000ある支部レベルで、いま進行しています。それは、大衆闘争、大衆運動への各職場、地域毎の取り組みを欠落させた、(1)赤旗拡大、(2)ビラまき、(3)票よみ、()中央諸決定読了だけの、党活動一面化、上意下達式点検スタイルが原因です。一体このような活動スタイルが、はたして革命運動なのかという不満、疑問を感じ、未結集党員が増大しています。支部会議にはまったく参加しないが、赤旗を読み、機関紙代集金のときに、1%党費だけは払うという党員も増えています。この党員(P)の状況については、『日本共産党の党勢力』、党費納入率69.8%という『官報』データも含めて分析してあります。公表在籍40万党員で推計すると、40万人×69.8%≒党費長期未納・幽霊党員12万人になります。

 党員(P)・・・・・19987年49万人―→1997年37万人―→2000年386517人―→2003年40万人

 党費納入率・・・1990年最高時納入率?―→1998年69.8%(党費納入党員27万人)

 機関紙(HN)・・1980年最高355万部―→1997年230万部―→2000年199万部

 党支部・・・・・・1995年28000支部―→2000年26000支部―→2003年25000支部

 選挙組織票(N×2)・・1980年、最高590万票―→1997年380万票―→2000年324万票

 民青()・・・・・1973年最高20万人―→2001年2万3千人未満、地区組織も廃止

 このように、1980年を党勢力ピークとして、以降今日に至る24年間は、党勢力の全指標で一貫した減退を食い止められていません。なぜ1980年を党勢力ピークとするかについても、『日本共産党の党勢力』で分析してあります。この党勢力全面的減退は、矛盾の表面化そのものです。

 ただ、党員(P)は、1994年36万人→1997年37万人→2000年38.6万人→2003年40万人と最低より4万人増えました。これは、赤旗日曜版読者164万人全員にわら半紙に片面印刷した『入党申込書』を事前に配り、それへの無差別入党工作を大展開せよ、とする党中央の新方針と強力な点検活動による成果です。

 2、内部矛盾に対する5つの選択肢

〔小目次〕

   〔第1選択肢〕社会民主主義政党へのなしくずし的転換

   〔第2選択肢〕革命政党から、社会民主主義政党への大転換を公然と宣言

   〔第3選択肢〕批判回避として、便宜的に民主主義的中央集権制だけを放棄

   〔第4選択肢〕解党路線

   〔第5選択肢〕「04年綱領」革命路線を堅持しつつ、それを隠蔽した柔軟路線

 

 これらの内部矛盾の解決方向については、以下の選択肢があります。常任幹部会が、どれを選択するのか、この文を読まれる方とともに考えてみたいと思います。これは、『第Y回常任幹部会への、路線選択に関する不破、志位報告』の文体形式で書きます。ただし、最終決定権、執行権を、規約に違反して不法に占有している常任幹部会の、このテーマでの討議内容が、『第X回中央委員会総会』に報告されることはありません。ましてや、『しんぶん赤旗』で公表・討論されることは一切ありません。この民主主義的中央集権制の4つの反民主主義的、上意下達式システムについては『ゆううつなる党派』で詳述してあります。

 

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 今後の、わが党が取るべき基本路線について、5つの選択肢が想定されるので、以下報告し、討論する。現在、党が選択しているのは、「第Z選択肢」である。当然のことながら、この報告、討論内容は、ここにいる常任幹部会員以外には、口外してはならない。

 〔第1選択肢〕社会民主主義政党へのなしくずし的転換

革命戦略をなしくずし的に転換、総括なしの放棄をして、資本主義国枠内での改革路線に実態として転換していく。革命政党から、社会民主主義政党になしくずし的に転換させる。

 1997年、第21回大会において、わが党は、従来からの基本方針を外し、転換させた。具体的には、(1)、革新統一戦線→平和・民主主義・革新統一をすすめる懇談会(革新懇)、(2)天皇制打倒、廃止→専制政治(天皇制という用語を使わない)、(3)アメリカ帝国主義→アメリカなどに実態的転換をした。そして資本主義枠内での改革路線を提示した。「61年綱領」の日本革命路線から、実態として脱却し、社会民主主義政党への転換をすでに始めたのである。常任幹部会員は、これについて、誤解のないようにする。

 将来的には、2004年に全面改定をした革命綱領を廃止し、革命放棄の改良路線綱領に転換すべく、それがスムーズに行えるよう、党内での理論思想的下地を徐々に作っていく。なぜ、きちんと総括してから、転換しないのか。わが党が、転換前提の総括をするということになれば、従来の綱領路線が誤りということになり、その他宮本・不破・常任幹部会が行った数百人に及ぶ様々な粛清問題もあり、宮本元議長をはじめ、現常任幹部会個人の個人責任追及の動きが党内で発生する。それはなんとしてでも避けなければならない。それだけでなく、誤りを認める総括をすれば、党内で激しい動揺が起き、それにより激減している党勢力(PHN)が、さらに壊滅状態になる可能性もあり、党分裂、解党主義が発生する。

 総括なしの、なしくずし的改良主義転換こそ、上策である。ただし、世界で、この型の転換に成功した前衛党は皆無である。マルクス主義革命政党から、社会民主主義政党へのソフト・ランディング(軟着陸)は、21世紀初頭の歴史的実験となるであろう。

 〔第2選択肢〕革命政党から、社会民主主義政党への大転換を公然と宣言

ある日、突然、常任幹部会が、革命戦略の放棄=革命綱領放棄を宣言する。綱領の時代錯誤性と民主主義的中央集権制が党内民主主義を破壊した誤りの側面を大胆に認める。改良路線新綱領案と民主主義的中央集権制放棄新規約案を全党討論にかけ、革命政党から、社会民主主義政党に公然と大変身する。

〔小目次〕 1、革命幻想 2、イタリア共産党の大転換

 1、革命幻想

 社会主義14カ国中、ヨーロッパ10カ国がすべて崩壊し、冷戦は消滅した。北朝鮮は崩壊寸前の状況にある。残存するレーニン型社会主義である中国、ベトナム、キューバの一党独裁型政治体制も長くはもたない。なぜなら、その一党独裁システムの本質は、権力奪取後も他党派結成動向をたえず暴力で弾圧し続けてきた反民主主義的・暴力依存症型=軍事独裁型体制にほかならないからである。これが、レーニン型社会主義の実態であった。崩壊・未崩壊の社会主義国を、(1)社会主義をめざす国ぐに、(2)社会主義をめざす道にふみだした国ぐにと2つに腑分けし、性格をすりかえる第20回大会式・宮本式欺瞞規定を続けることは、もう止めようではないか。そこから目をそむけずに、現実を直視しよう。

 2000年・2003年における、わが党の総選挙連敗は、柔軟路線急速展開とレーニン型革命路線堅持という矛盾した路線への有権者、無党派層の審判であった。それによって、国民、有権者をだまそうとした、だませると思った策略は失敗した。もはや、この路線を継続することはできない。それでは、その矛盾した路線のうち、いずれを放棄すべきなのか。レーニン型日本革命、あるいはレーニン主義の一部を修正した「ゲバルトを使わず、国会で安定した241議席を占める二段階革命」は、(1)21世紀でも実現可能な革命なのか、それとも、(2)革命幻想にすぎなくなったのか。以下、3点から検討する。

 第一、マルクス・レーニン主義型革命は、理論的に幻想となった

 マルクス・エンゲルスの『史的唯物論』は、19世紀当時のヨーロッパ資本主義分析に基き、かつ当時流行の、生物学ダーウィニズム進化論を機械的に社会科学に適用したものだった。それは、生産力と科学技術の無限発展を前提とした一種のユートピア思想だった。ヨーロッパ社会主義10カ国がすべて崩壊した事実は、その非科学性、空想性を浮き彫りにし、その理論的破綻を証明した。

 また、マルクス・エンゲルスは、市場経済を資本主義の本質とみなし、「その廃止に基く社会主義計画経済」理論を唱えた。レーニンは、ボリシェヴィキ単独武装蜂起と単独政権樹立後、ペトログラード、モスクワでの飢饉が進行すると、1918年春・夏にかけて、「食糧独裁令」を発布し、食糧徴発隊と貧農委員会を組織して、農民から暴力的に穀物を徴発した。それは、貧農以外のすべての農民を敵に追いやった。この誤った政策を強行した、レーニンらボリシェヴィキ自身こそが、ロシア内戦の基本原因を作ったということが、ソ連崩壊後資料に基く最近の研究で明らかになっている。このレーニンの誤りの根底には、「食糧独裁令」による農村における市場経済廃止という、マルクス・エンゲルスの空想的社会主義計画経済理論を実行に移そうとした急進主義があった。中国の「開放経済」、ベトナムの「ドイモイ」などは資本主義市場経済再導入政策である。皮肉にも「残存する社会主義国家」自体が、市場経済全面否定というマルクス・エンゲルス社会主義経済理論の空想性を日々証明している。

 現存した(する)レーニン型社会主義は、崩壊後のさまざまな新資料から見ても、暴力依存・反民主主義権力であり、一党独裁権力政党の“前衛党の犯罪”内容には目を覆うほどのものがあることも判明した。1917年から1923年にかけて「レーニンのしたこと」を克明に検証すればするほど、とても擁護できない事実が多々出てきた。レーニンの革命理論は、結局、暴力による権力奪取、暴力による憲法制定議会解散、秘密政治警察チェーカーを使っての拷問、暴力による他党派粛清、暴力による食料独裁政策等、議席獲得率25%しかない少数派ボリシェヴィキによる一党独裁権力維持のための暴力使用を絶対必要条件とする理論である。それをレーニン流の詭弁で、合理化、正当化するものであった。

 私(不破)が、著書『1917年「国家と革命」』(2000.)において、日本共産党史上初めて、名指しでレーニン批判をしたのはなぜか。それは、レーニン理論の根幹部分をなす暴力依存型・一党独裁路線を、この日本で、これ以上擁護することは、わが党の発展にとって、決定的な障害になることが明白になったからである。暴力による権力奪取、暴力に依存した権力維持システムを基本理念とするレーニン主義革命はもはや幻想となった。それときっぱり断絶する以外に、21世紀の政界再編、政党間サバイバル戦争にわが党が生き残る道はない。

 ただ、現時点までのレーニン批判は、雑誌『経済2000年5月号』でも憲法制定議会武力解散問題を取り上げているが、まだ表面的部分的な批判程度にとどめている。党内外のそれへの反応を見ながら、柔軟路線展開とレーニン主義との断絶路線とを平行させつつ、漸次的に進めているところである。レーニン主義絶対信奉者の宮本氏と側近グループ・宮本秘書団が、なお健在であれば、第21回大会以降の、現在のようなレーニン主義との部分的な断絶路線でさえも、一歩も踏み出すことはできなかったであろう。

 第二、国内における革命の客観条件、主体的条件から見ても、日本革命は幻想となった

 1917年ロシアにおける労働者、農民、兵士の貧困、飢餓、劣悪な生活水準、ツアーリ圧政、第一次世界大戦前線での兵士の不満等の、ヨーロッパ辺境にあり、帝国主義の鎖のもっとも弱い環・ロシアの条件と、21世紀における高度に発達した資本主義日本とでは、まるで客観条件が異なっている。今後、ロシア、中国、ベトナムのような革命情勢が、21世紀日本にも、いつか形成されるだろうというのは幻想でしかない。しかも、この革命情勢は、キューバ革命を除いて、すべて、第一次、第二次世界大戦の最中に形成されたのである。第三次世界大戦=世界核戦争が勃発でもしなければ、日本にそれが成熟することはありえない。それとも、わが党はその大混乱、核戦争、戦争を内乱に転化せよと呼び掛けうる情勢を、レーニンのように熱望するとでもいうのか。

 革命の主体的条件としての党員、赤旗読者、民青にしても、1980年をピークとして、この24年間一貫して減りつづけている。最高時と比べて、党員は9万人減、赤旗読者156万人減、民青にいたっては20万人から2.3万人に減り、壊滅状態になっている。1994年以降の9年間で、党員はようやく4万人増えて、40万人になった。しかし、これは、「わら半紙片面に、各地区が印刷した入党申込書を164万赤旗日曜版読者全員に配り、無差別入党工作をせよ」という常任幹部会の新方針を徹底させ、強力な指導、点検運動をやった成果であり、日本革命の強力部隊4万人増加とはいいがたい面がある。これら24年間連続党勢減退の指標は、主体的条件から見ても、「04年綱領」実現は、革命幻想となったことを証明している。

 第三、国際情勢からも、日本一国での単独革命成功見通しは、まったく非現実的であり、幻想である

 このグローバリズムとIT社会化が激烈に進行する中で、アメリカ、EUとともに三極構造の一角を占める、高度に発達した資本主義国日本において、共産党が一国だけでレーニン型社会主義革命を成功させ、綱領にある政策を行うなど、夢物語でしかない。それとも、日本共産党とともに、レーニン、トロッキーが熱烈に夢想した世界同時革命、連続革命に決起する他国共産党があるとでもいうのか。

 二月革命でツアーリ帝政を打倒したのは、労農兵ソヴィエトとソヴィエト内社会主義政党エスエル、メンシェヴィキなどが中心のロシア革命勢力だった。ボリシェヴィキは、2月時点では、弱小勢力で、その打倒には、大きな役割を果たしていなかった。敵であるドイツ軍部の配慮と思惑による「封印列車」で、4月にフィンランド駅に到着したレーニンは、ロシア革命を発火点とする世界革命の連続的勃発を、楽観的に夢想し、とくにドイツ革命に期待した。その幻想実現を大前提、絶対必要条件として、意図的にそれら他革命勢力を出し抜いて、ボリシェヴィキだけの単独武装蜂起と単独政権を樹立した。それは、他のロシア革命勢力の猛反発を招いた。その反発の炎に油を注ぐように、自己の政権が実施した11月投票・憲法制定議会選挙で議席獲得率25%・175議席しか獲得できないと、その議会第1日目に武力解散させた。このレーニンのロシア革命勢力内部での権力簒奪クーデターにより、ボリシェヴィキ政権は、左翼エスエル以外の、他のロシア革命勢力すべてを敵にまわし、孤立した。左翼エスエルとの連立も3カ月しかもたなかった。その孤立した少数派・クーデター政権を維持し続けるには、レーニン直属の秘密政治警察チェーカーや赤軍などの暴力に依存する以外に、サバイバルの道はなかったのである。

 レーニン、トロッキーは、ドイツ革命を幻想的に熱望した。彼らは、ドイツ・プロレタリア革命の勃発と成功を夢想し、それを絶対的前提条件として、二月革命でツアーリ帝政を打倒したロシア革命勢力を出し抜いて、ボリシェヴィキ単独武装蜂起を決行した。また、ドイツ革命の勝利は、暴力により憲法制定議会解散を強行したボリシェヴィキ少数派クーデター権力が生き残る上での絶対必要条件でもあった。しかし、その革命は、1919年1月、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグが虐殺され、失敗した。そもそも、わざわざ「封印列車」を仕立てて、4月に、フィンランド駅まで送り届けてくれた、ドイツ軍部の思惑と計算を、レーニンはどう逆計算していたのか。ドイツ軍部は、レーニンらを送り込むことによって、二月革命の一層の進展と、それによる対戦中のロシア軍隊の背後かく乱、内部崩壊を目論んでいただけではない。当然、ロシア革命がもたらすドイツ・プロレタリアートへの影響とドイツ革命の勃発も予定に入れ、その鎮圧に万全の作戦、体制を採った上で、レーニンらを「封印列車」に乗せたのである。ドイツは帝国主義の鎖のもっとも弱い環ではなかった。レーニンは、ドイツ国内情勢、力関係、ドイツ軍部の思惑と計算を見誤り、楽観的なドイツ革命幻想に基いて、ロシアにおいて、まず、単独武装蜂起をするという冒険主義的誤りを犯した。他国の革命勝利を前提として、自国での単独決起をまず行なうことは、冒険主義以外の何ものでもない。

 そこで、レーニンはやむをえず、一国社会主義論に急旋回し、スターリンはその理論を確定し、一国だけの社会主義国を1945年まで維持した。その時点のロシアを取り巻く国際情勢と、21世紀の日本が世界に占める位置とでは、一国で革命を成功させ、一国だけで社会主義権力を維持し続ける上での国際条件が、まるで異なっている。国際情勢からみて、それは、まさに幻想そのものとなった。

 今や、これらの革命幻想と断絶して、新しい左翼政党として再出発する時がきた。宮本引退強要、側近グループ・宮本秘書団排除の1997年第21回大会以降、私(不破)が、矢つぎばやに柔軟路線を急展開してきたのも、すでにマルクス・レーニン主義全面放棄と前衛党体質との断絶的刷新を図り、資本主義枠内での社会民主主義政党への転換に取り舵をきったのである。私たち(複数)は、ユリウス・カエサルと同じ気持ちで、もはや後戻りのできないルビコンを渡ったのである。

 もちろん、1956年発刊の『戦後革命論争史』に含まれる、一種の構造改革路線とは、いくつかの点で異なるが、資本主義枠内での構造改良を強力に追求するという基本理念は同じである。六全協から第8回大会にかけて、私たちは、宮本分派工作の影響で二段階革命路線派に鞍替えした。当時は、それが正しいと思ったからである。そのため、構造改革路線派からは、裏切者・宮本派への日和見的転向とも中傷された。しかし、私も上田同志も、『戦後革命論争史』に書いた路線の正しさを、心の中では捨てきれず、信奉していたのである。宮本氏の天才的な、かつ、異様なまでに研ぎ澄まされた異端思想・異端者察知嗅覚能力が、私たち転向者の心底を嗅ぎつけたのが、2人への査問と「自己批判書」の『前衛』公表だった。

 しかし、この2004年、今や、党内権力は私たち(複数)の手にある。強力な改良主義政党に公然と大転換できる体制が、常任幹部会内で確立した。

 現在の(1)04年革命綱領、(2)民主主義的中央集権制・分派禁止規定の規約、(3)共産党という党名などは、時代錯誤的な路線、反民主主義的党運営規定として全面放棄する。そして、わが党は、強力な改良主義綱領と党内民主主義を全面保障した規約を持つ新しい左翼政党に大転換する。

 この転換は、2007年7月の参院選、2007年11月までにある解散・総選挙での、野党政権枠組み協議、野党間立候補者調整、野党連立政権樹立への政権交代を準備する上での絶対必要条件でもある。それは、反自公・非自公の有権者、および最大党派となった40%無党派層の期待、要望に応える路線である。わが党の転換は、それらの人々に心から歓迎されるであろう。わが党の大転換こそ、自公政権がもっとも怖れる悪夢である。なぜなら、戦後59年間、事実上一貫して続いた自民党一党支配体制が、有権者の選択によって、転覆し、ヨーロッパ12カ国(1998年時点)に続いて、アジアで初めて強力な中道左派政権が誕生することになるからである。

 この大転換プログラム、転換公表時期については、常任幹部会の特別小委員会で検討を始めたところである。ただし、これを公表すれば、革命綱領支持派の反対を含め、かなりの混乱が発生する。

 2、イタリア共産党の大転換

 これは、イタリア共産党型大転換スタイルともいえる。分派禁止規定も当然放棄し、党内における異なる意見の諸潮流の存在を認める。複数党員・党組織による独自の党大会決議案提案権を認める。ただし、このケースは、党分裂を引き起こす危険性が高い。

 イタリア共産党は、1986年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」を規約で認めた。1989年、第18回大会で、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。1991年、第20回大会で左翼民主党に転換した。同年12月、少数派が共産主義再建党を結成し、分裂した。1996年、総選挙で中道左派連合政権が誕生し、左翼民主党21.1%、共産主義再建党8.6%の得票率で、オリーブの木全体では、319議席を獲得した。1997年、左翼民主党第2回党大会における党員数は68万人で、このうち女性党員が28.5%を占めている。

 イタリア共産党は、この大転換で分裂した。ただ、イタリアの場合、分裂したイタリア共産主義再建党は、左翼民主党が政権党になる時点で、小選挙区候補者調整に応じ、閣外協力をした。しかし、イタリア共産主義再建党は、その後、左翼民主党政権との閣外協力問題をめぐって分裂した。また、イタリア共産党機関紙「ウニタ」は、1970年代に26万部あったが、左翼民主党転換後の2000年には5万部に落ち込んでいる。

 今や、党分裂を恐れず、わが党の21世紀でのサバイバルと躍進を賭けて、党の柔軟路線への支持が残っている現時点こそ、大転換をすべきチャンスである。2003年総選挙のような惨敗が、2007年7月参院選、次回解散・総選挙も続いたら、わが党は永久に少数異端派政党・泡沫会派の地位に甘んずることになるであろう。

 〔第3選択肢〕批判回避として、便宜的に民主主義的中央集権制だけを放棄

とりあえず、党内外からの批判がもっとも強い民主主義的中央集権制だけを放棄する。革命綱領と共産党名称は当面堅持し続ける。

 そのため、現規約を廃止し、党内民主主義を基本とした新規約を制定する。漸次的に開かれた民主主義政党に移行する。これは、フランス共産党型、スペイン共産党型漸次的転換スタイルともいえる。

 現在在籍する40万党員結集状況は深刻である。党費納入率は、69.8%しかない。1年間を通して30.2%・12万人もが収入1%党費を払わない党組織とは何なのか。1980年をピークとして、党勢力PHN、党支部数は、24年間一貫して減退している。

 選挙での柔軟路線の大胆な採用と同じく、党運営、党内民主主義、党規約を抜本的な柔軟路線に転換しなければ、党勢力がじり貧になることは目に見えている。はっきり言って、この常任幹部会メンバーにも、その言動を見ると、この党内状況の深刻な事態に対する危機意識が弱い同志がいる。PHNは、24年間も一貫して減退しているのである。われわれは、その減少に手をこまねいていたわけではない。PHN拡大のためには、あらゆる手段をつくしてきた。しかし、差引では大激減が続いている。このままでいけば、10年後のPHNおよび党内結集率、党費納入率がどうなるのか、考えたことがあるのか。その時点では、シミュレーションをするまでもなく、党の自然崩壊、内部からの消滅という悪夢が待っている。

 党員の活動意欲、結集状況、およびPHN拡大の抜本的な解決策は、民主主義的中央集権制の放棄しかない。この放棄は、党員の活動意欲低下、結集状況悪化を食い止めるという消極的目的だけによるものではない。

 有権者のわが党に対する声は、共産党の政策、清潔さは良く、支持するが、その閉鎖的、独善的体質はだめだ、不安を感ずる、という内容が圧倒的である。毎回の世論調査結果でも、支持したくない政党で、共産党と公明党とが、だんとつのトップ争いをしている。民主主義的中央集権制の放棄は、その不安、批判、嫌悪感を取り除き、放棄による、開かれた党への転換によって、PHN飛躍的拡大の展望を切り開くという、大胆な、積極的目的に基づくものである。

 フランス共産党が、民主主義的中央集権制を放棄した決定的な理由は、党員数と機関紙「ユマニテ」の激減であった。機関紙「ユマニテ」は、1960年代から80年代まで、15万部、2001年では、4.5万部に減少している。その党勢力の激減現象に対して、党最高指導部全員が深刻な危機意識で一致したのである。フランス共産党は、1995年、第28回大会で、民主主義的中央集権制を放棄した。放棄に賛成1581人、継続22人という採決結果だった。民主主義的中央集権制放棄による党分裂はなかった。

 スペイン共産党は、1983年、親ソ派、カリリョ派、ユーロコミュニズムを党内民主主義の徹底化にまで深化させることを主張する新世代派に3つに分裂したが、その後、1991年、民主主義的中央集権制を放棄した。1989年選挙共闘組織としてのスペイン統一左翼を結成して、選挙でも奮闘している。しかし、2000年3月、総選挙で、統一左翼は1996年の21議席から8議席に後退、大敗した。

 わが党が民主主義的中央集権制を放棄する場合、(1)党内外でどのような事態が発生するのか、(2)第Y回大会での民主主義的中央集権制放棄方針への賛成、反対の採決見通し、(3)放棄後の党分裂の可能性等について、私たち(不破、志位)は書記局に指示して、そのシミュレーションを作成中である。そのデータが出来次第、常任幹部会としての放棄プログラムの具体的検討に直ちに取りかかる。

 〔第4選択肢〕解党路線

これは現時点では想定外だが、なしくづし的あるいは公然とした転換以外に、解党という選択肢もある。

 その場合、イギリス共産党型、オランダ共産党型、ベルギー共産党型解党スタイルになる。

 イギリス共産党は、1992年の解党後、デモクラティック・レフトを結成した。別の一部はイギリス労働党に参加して、そのブレーンとなっている。イギリス共産党の理論家ミリバンドの息子は、労働党政権首相ブレアのブレーンに成り下がっている。オランダ共産党は、解党して、緑の党と合同し、グリーンレフトパーティになった。部分的に都市単位で、オランダ共産党を名乗っている所もある。ベルギー共産党は、実質的な解党状態にある。1980年代半ばに国会議員もなくなった。その後、総選挙でも立候補せず、党機関紙も廃刊になった。 いずれも科学的社会主義を放棄したあげく、惨めな状態になっている。

 〔第5選択肢〕「04年綱領」革命路線を堅持しつつ、当面それを隠蔽した柔軟路線

革命戦略を、(1)二段階革命路線、(2)前衛党理論、(3)民主主義的中央集権制、(4)「敵の出方論」という暴力革命路線、(5)革命権力維持システムとしての「プロレタリアートのディクタトゥーラ」路線のいずれも放棄しないままで、その隠蔽に努め、選挙戦術としての柔軟路線をさらに強化する。

 〔小目次〕

   1、「国会で安定した241議席を占める革命」路線と「敵の出方論」の関係

   2、平和的選挙で勝利した3カ国の国際的経験と「敵の出方」に関する教訓

   3、自衛隊クーデター・アメリカ軍事介入という「敵の出方」ケースの想定

   4、自衛隊クーデター抑止力形成の方策

 日本経済がさらに行き詰まり、破綻が長期化すれば、たんなる体制内改良ではなく、抜本的な革命的変革を望む声が増大する。それは、レーニン主義的な意味での資本主義体制廃止の革命情勢が成熟することである。これは私の絶対的確信である。アメリカ帝国主義の内部矛盾が激化し、日本への干渉力が弱まった時こそわが党の出番である。選挙での躍進を積み重ね、日本共産党が与党となった民主連合政府樹立が成功し、かつ政府、官僚組織、自衛隊・警察、拠点産業の中で重要な地歩を築いたとき、表面上の改良路線=柔軟路線をかなぐり棄てて、隠忍自重してきた革命政党活動を全面展開する。

 それまでは、わが党のこの真意を絶対覚られてはならない。これは、革命情勢待望スタイルともいえる。わが党が、党内外やマスコミからどんなに批判されても、民主主義的中央集権制を放棄しない真の理由は、その時には、民主主義的中央集権制の鉄の軍事規律で、一糸乱れぬ中央集権制の政治・軍事組織が必要となるからである。その時には、それはなぜ絶対必要条件となるのか。以下4つのテーマを検討する。

 1、「国会で安定した241議席を占める革命」路線と「敵の出方論」の関係

 わが党は、2004年第23回大会で、「国会で安定した241議席を占める革命」路線を提起した。そこでは、日本革命の移行形態としての「敵の出方論」を放棄していない。「敵の出方論」とは、建前としては、平和的手段による権力獲得を目指すが、その一方、民主主義革命から社会主義革命への二段階革命が高揚する過程で、本土、沖縄駐留のアメリカ軍をふくむアメリカ帝国主義と自衛隊、警察等日本の国家権力が、自らの権力を黙って放棄したり、革命勢力におとなしくその暴力装置を移譲する筈はなく、共産党を中心とする革命勢力に暴力的抑圧、弾圧を加えるという出方をした場合は、日本共産党側も暴力革命路線に転化する道を放棄しないというものである。

 党中央委員会が、事実上作成、監修した『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)でも、「革命の移行形態」の項目において、()武力革命を革命の唯一の形態として絶対化したり、平和的な移行を保障された必然の形態とみなすなどの立場は、誤った非科学的な見地である、(2)反動的な支配勢力が、人民の多数の意志にしたがわず、武力クーデターなどに訴える場合には、これをおさえる実力行動が必要となる、と明記した。04年綱領の革命路線を堅持する以上は、暴力革命路線の一種としての「敵の出方論」堅持は、当然の、正しい、科学的社会主義方針である。

 1970、80年代において、ポルトガル共産党を筆頭として、ヨーロッパの資本主義国共産党すべてが、(5)プロレタリアートのディクタトゥーラ路線とともに、(4)「敵の出方論」を含めた暴力革命路線を全面放棄した。さらには、ポルトガル共産党以外の全共産党が、(3)民主主義的中央集権制までも放棄した。これらはレーニン型科学的社会主義から逸脱する重大な誤りである。なぜなら、私(不破)「1917年『国家と革命』」(2000年2月発行)で分析したように、(5)プロレタリアートのディクタトゥーラとは、マルクス・エンゲルスのプロレタリアートの執政=労働者階級の権力という本来の正しい意味内容にたいして、レーニンが誤って、プロレタリアートの暴力独裁の意味側面を付け加えたことから誤解が生まれた。レーニンが道を踏み誤った側面だけを放棄すればよいからである。また、(4)日本革命の移行形態理論についても、暴力革命形態を唯一とするのでなく、「国会で安定した241議席を占める革命」を目指すが、「敵の出方」によっては暴力革命実力行動に転換する柔軟性こそ必要だからである。「敵の出方論」という柔軟な暴力革命形態を内蔵プログラミングしてあるのが「国会で安定した241議席を占める革命」の本質である。(3)民主主義的中央集権制放棄の誤りの理由は下記でも述べる。他の資本主義国共産党が、上記のようにことごとく堕落・右転落した中で、世界で日本共産党だけが、依然として(3)(4)(5)を堅持するレーニン主義に最も忠実な革命政党・大衆的前衛党なのである。

 2000年第22回大会の「規約全面改定」で、規約前文の全面削除に伴い、日本語「前衛党」をした。しかし、前衛党概念を放棄してはいない。表面上、その用語を使わないだけである。また、日本語「人民」使用をやめ、「国民」に転換した。選挙での連続的躍進を重ね、国会で安定した241議席を占め、民主連合政府樹立に成功すれば、日本革命は現実の具体的課題となるであろう。

 2、平和的選挙で勝利した3カ国の国際的経験と「敵の出方」に関する教訓

 そのためには、平和的選挙での勝利により、政府を樹立した、3つの国際的経験の分析と教訓のくみ取りが重要である。

(1)、1936年2月〜39年3月、スペインの経験

 スペイン人民戦線は、36年2月、選挙に勝利して、ブルジョア共和制政府を樹立した。同年7月ファシスト反動派は、将軍フランコで軍事反乱を起こした。9月には、共産党の大臣をふくむ人民戦線政府が成立した。このスペイン内乱の過程で、新しい革命的民主的軍隊が作られ、統一戦線政府は革命権力に転化した。ヒットラーとムッソリーニは、フランコの軍事反乱を全面支援し、直接介入した。事実上のナチス空軍による爆撃は、ピカソの『ゲルニカ』に怒りを込めて、告発されている。39年3月、統一戦線政府は、首都マドリードを明け渡し、軍事的に敗北した。

(2)、1965年9月30日、インドネシアの経験

 インドネシアのスカルノ大統領は、反帝反植民地主義をかかげ、非同盟運動の国際的指導者だった。彼は、国内では、軍とインドネシア共産党との力の均衡の上に政治を行った。インドネシア共産党は、アイディットを議長として、党員360万人で、当時アジアでは最大の共産党で、スカルノ政権下の最大与党であり、選挙でも躍進を続けていた。一種の民主連合政府の実態を持っていた。

 それに危機感を持った、スハルト率いる軍部が、9月30日、共産党が武装蜂起クーデターを企てている、毛沢東の「鉄砲から権力が生まれる」理論を実行に移そうとしているという事実無根の口実をねつ造し、自らがクーデターを起こした。アイディットを殺害し、50万人以上の共産党員を虐殺し、共産党を壊滅させた。スカルノは失脚した。この9・30事件で、インドネシア共産党は『軍部に異常な動きがあるので、待機せよ』という指令を出しただけで、武装蜂起の準備など何もしていなかったことが、学者の研究でも明らかになっている。ここでは、アメリカ、CIAの強力な軍事支援、実質的介入が存在した。

(3)、1970年〜73年、チリの経験

 チリの大統領選挙で、人民連合候補のアジェンデが当選し、チリ人民連合政府(統一戦線政府)を樹立した。政権は、民主主義を徹底させつつ、社会主義を実現する課題を追及した。73年2月の総選挙でも、人民連合は43%の得票を得た。

 アメリカは、意図的にチリ経済の混乱を引き起こし、1973年9月、ピノチェト将軍の反動軍部がクーデターを起こした。アジェンデは殺害され、人民連合政府も倒れ、軍事独裁政権が樹立された。3千人以上の共産党員、支持者が虐殺され、あるいは行方不明になった。これも、アメリカ、CIAの全面的な軍事支援、陰謀をともなって行われた。

  3カ国の経験からの「敵の出方」に関する教訓

 これらの経験には、様々な教訓がある。以下の3つにまとめられる。

(1)、選挙での躍進を重ね、政治的に勝利して、革命綱領を持つ共産党が与党となった民主連合政府を樹立する段階までは、平和的に到達する可能性は高い。その樹立前の段階での「敵の出方」は、政治的対応である。軍事クーデターは国民感情から見て、すぐには起こせないからである。

(2)、資本主義体制廃止綱領を掲げる共産党が、民主連合政府の与党や、その第一党になったとき、資本主義体制擁護派との対決と政治的緊張は、極限状況にまで高まる。それに対抗する勢力が、軍部を押し立て、軍事反乱、軍事クーデターを起こす。スペインの当初、およびインドネシアでは、資本主義枠内での改良を目指す民主連合政府レベルでの軍事反乱、クーデターであった。チリでは、資本主義体制廃止を目指す、ワンランク上の革命統一戦線政府レベルでのクーデターであった。スペイン内乱の途中からは、ツーランク上の、自らの革命的民主的軍隊という暴力装置を持った人民の権力への軍事反乱という性格になった。3カ国とも、政治的には選挙で勝利したが、その後、軍事的に敗北した。

(3)、その軍事反乱、クーデターは、その国に大きな政治的・経済的・軍事的利害関係を持つ外国の陰謀、軍事支援、事実上の軍事・経済介入にバックアップされている。または、リードされている。

 チリの場合、アメリカによる大規模な経済混乱化策謀は、チリ経済に深刻な影響を与えた。アメリカと資本主義擁護勢力は、国民の経済的不安、不満が、統一戦線政府に向けられるよう誘導した。その人為的に誘発された不安、不満をバックとして、クーデターが決行された。経済混乱化、破壊策謀は、軍事クーデターの露払いの役割を果たすものであり、経済作戦と軍事行動とは一体のものである。その一体作戦は、「敵の出方」の典型的パターンとなっている。

 3、自衛隊クーデター・アメリカ軍事介入という「敵の出方」ケースの想定

 3カ国の経験と教訓から見れば、その時に何が発生するか、および、その時に向けて、政治的・組織的・軍事的に何を準備していかなければならないかが分かる。もちろん、そこでの準備とは、わが党が、直ちに暴力革命路線に転化し、武装闘争の準備に入ることを意味するものではない。あくまで、その時での「敵の出方」次第で、柔軟に対応する。

 ただ、クーデターが発生してしまった場合には、自衛隊・アメリカ軍の軍事力、軍事技術に対して、わが党と民主連合政府、あるいは、ワンランク上の民族民主統一戦線政府が武装して、反乱軍とたたかうといっても、彼我の軍事的格差がありすぎ、日本革命は、3カ国と同じく、挫折するであろう。

 1950年、党分裂当時、徳田野坂分派は、武装闘争方針を掲げ、実践した。もっともこの分派は当時の党勢力の9割以上を擁した日本共産党の主流派であった。宮本氏の側には1割の党勢力しかなかった。したがって、この武装闘争には、日本共産党員の圧倒的多数が参加したのであった。これは、朝鮮戦争勃発にあたって、国連軍後方基地日本での後方撹乱を狙い、スターリンと毛沢東が、日本共産党に強力な武装闘争指令、擾乱指令を出したのが原因である。そもそも、1950年の朝鮮戦争自体が、金日成、スターリン、毛沢東ら3人の共謀に基づく、社会主義国が仕掛けた侵略戦争=北朝鮮による武力南北統一戦争であった。

 徳田・野坂らは、(1)、山村に革命的軍事的拠点を作るという山村工作隊・山岳共産党基地方針を掲げ、多くの党員を、山村に派遣した。また、(2)、球根栽培法パンフでの、火焔ビン製造法と、それを使用する都市ゲリラ的方針も採り、実践した。メーデー事件、吹田事件、大須事件における火焔ビン事前製造・携帯・会場持込の指令は、彼らが行ったのである。ただ、その使用を挑発し、擾乱罪に持ち込もうとしたのは、国家権力と機動隊による陰謀であった。数多くの警察署襲撃事件も、「北京機関」の指令により、各県軍事委員会が決行したものである。白鳥事もその一つである。(3)、人民艦隊を設立し、共産党幹部の密航だけでなく、中国共産党からの資金、物資、武器も日本に持ち込んだ。(4)、スターリンと毛沢東は、徳田野坂らを北京に呼び、北京機関を作らせ、そこから日本国内での後方撹乱武装闘争を指揮した。北京には、一時約2000人もの日本共産党員が人民艦隊で密航しており、その一切の費用は中国共産党持ちだった。それらは、なんの効果も上げえなかっただけでなく、悲惨な結末に終わった。それらは、まさに、主観的な、極左冒険主義的な軍事方針と実践そのものであった。

 平和的に、選挙で樹立された政府が、自衛隊反乱軍とたたかうのであるから、当然1950年レベルのものではない。また3カ国の状況とも諸条件が異なるが、クーデターが発生してしまった場合は、軍事的敗北が想定される。ただ、革命か反革命かの政治的緊張が極限にまで激化し、それが自衛隊内部にも反映し、自衛隊の内部矛盾にもなって爆発し、自衛隊を政府軍とクーデター軍とに分裂させられれば、別の問題になる。その時は、スペイン内乱後半レベルの状況となる。

 4、自衛隊クーデター抑止力形成の方策

 資本主義枠内の民主主義革命から、資本主義体制廃止の社会主義革命へと、平和的に移行できれば、それにこしたことはない。それには、自衛隊クーデター未然防止、アメリカ軍事介入回避という軍事的反革命への対応策こそカギとなる。

 アメリカ軍事介入回避の方針については、以前すでに報告してある。今回は、自衛隊クーデター抑止、未然阻止方針について検討する。現在、書記局特別グループが作成した、対自衛隊クーデター抑止方針の原案概略は、以下の通りである。軍事評論家やわが党の旧日本軍幹部経験者もスタッフに加え、数十ページにわたる、詳細な自衛隊分析と方針案がある。しかし、今回は、第一次報告としての抽象的なものに止める。

1)、政治的抑止力

 この形成度が基本である。日本的社会主義実現への国民の要求が高まるにつれて、クーデター抑止力が形成される。ただし、自衛隊クーデターの抑止には、それは十分条件でないことは、3カ国の経験から見て、明らかである。チリでは、1970年、大統領選挙では、36%、1973年2月総選挙での人民連合得票率は、43%だった。

 (不破)の近著『新共産党宣言』(光文社)で、共産党政権になっても、現自衛隊は相当期間存続させ、自衛力として機能させる構想を明確にしたことと、2000年6月「有事のさいは、自衛隊の使用を認める」と発言したということは、自衛隊クーデターの抑止政策、アメリカの軍事介入回避政策の一環なのでもある。

2)、軍事的抑止力=物理的なクーデター未然阻止力の形成

(1)、民主連合政府樹立段階では、共産党議員がいくつかの閣僚ポストを占める。そこでは、共産党が防衛庁長官、または防衛政務次官ポストを掌握する。そして自衛隊への文民コントロール・システム改革を、幕僚配置をふくめ、徹底して行う。自衛隊員への思想教育システム・内容を民主連合政府支持レベル、および社会主義政府支持レベルのものに大改革する。これは、トップからの作戦である。

(2)、自衛隊将官級クラスでは、現在の日本政府の防衛方針、システム等に対し、アメリカ依存・べったり路線に批判、不満を持つ者も多い。アメリカに依存しない、日本の自力での、自主防衛を考える層を結集する。現在では、それらは表面化していないが、国民だけでなく、自衛隊員も、資本主義か日本的社会主義かの選択を迫られる段階に来れば、民族民主派将官グループを結成する。自衛隊の上級・中堅クラス対策である。

(3)、自衛隊員募集時に、民青、共産党員を意識的に、送り込む。部隊定員補充もままならぬ時点では、活動経歴さえ秘匿すれば、この方針実行は、可能である。自衛隊各部隊毎に、強大で、非公然の党支部を作り上げる。これがクーデター勢力トップの行動を、自衛隊内部から実力阻止するもっとも重要な力となる。

 ただ、いかなる国家、体制においても、軍隊は現体制擁護の鉄壁の役割を果たしてきた。軍隊内での体制変革勢力の組織は、ロシア革命時のような「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」というボリシェヴィキのスローガンが、兵士に、無理なく、受け入れられる客観的条件が成熟しないと、きわめて困難である。

 旧日本軍においても、兵士内部での共産党細胞は皆無に等しかった。戦前のわが党は、コミンテルンの軍事指令に基づいて、「日本軍の召集礼状拒否は小ブル的方針である。党員は召集に積極的に応じて、軍隊内で活動せよ」という方針を出し、『赤旗(せっき)』でもくり返し訴えた。しかし、兵士の中での運動の実態は、1932年7月から3カ月間、呉海兵団で党員3名の細胞が存続し、機関紙『聳ゆるマスト』を6号まで発行し、党員、同調者5名、一年前までの水兵5名、計10名という規模だった。軍隊内での党細胞は、呉海兵団以外になく、兵士への手がかりもわずかだった。

(4)、わが党幹部内でも、軍事技術、軍事情報に精通し、かつ、自衛隊将官クラスと軍事理論、独立民主日本の採るべき軍事方針について対等に議論し合えるレベルの幹部を養成する。専従だけでなく、国家公務員の党員内に軍事分野の専門幹部を養成する。わが党は、旧社会党のように非武装中立という空想的、非現実的方針を掲げたことはない。わが党の軍事面での方針は、独立民主の自衛軍事力を持つことである。

 このスタッフは、ロシア革命における、1918年から21年内戦時の赤軍内政治委員としてのコミッサールのような役割も果たす。内戦時の赤軍最高司令官であったトロッキーは、白衛軍との内戦遂行にあたって、赤軍全部隊に、ボリシェヴィキ党員からなるコミッサールを配属した。そして「赤軍派となっている旧ツアーリ軍隊の将官や部隊長たちが、ボリシェヴィキの軍事方針、作戦計画に従わないときは、その将官を直ちに射殺せよ」と命令し、実行させた。

 民主連合政府樹立が成功した段階では、閣議決定で、この任務を持った文民コントロール強化公務員を任命する。そのスタッフを、自衛隊全部隊に自衛隊への公務員出向形式で配属する。そのリスト作成と出向先部隊の決定業務は、防衛政務次官である共産党議員が掌握する。防衛政務次官は、書記局特別軍事グループの直轄指導下に入る。自衛隊外部からの、合法的、強制的文官内部配属作戦である。

 この4つの方針の立場は、自衛隊クーデターを未然に防ぐ抑止力は、大局的に、国民の政治的結集度であるが、それは十分条件ではなく、実際上の物理的抑止力を自衛隊内部に醸成するというものである。

 04年綱領通りに、日本革命を成功させるということは、以上のことを緻密な計画でやり遂げることである。この書記局特別軍事グループの対自衛隊方針を実施するのは、衆議院241議席獲得時点前後の話である。その時には、これらを全面実践する。この時に、民主主義的中央集権制がなければ、どうなるのか。この組織原則を放棄しない真の理由は、それが、この革命を行う上での絶対必要条件の一つだからである。これは「敵の出方論」という柔軟な暴力革命路線と一体の軍事的中央集権制、軍事的規律である。レーニンは、ロシア・ナロードニキの「裏切り者死刑、上級決定絶対服従」の中央集権制を基軸としつつ、それに「党内選挙、報告制」という民主主義的要素を上乗せして、Democratic Centralism=民主主義的・中央集権制を創作したのである。これは、レーニンが暴力革命路線における鉄の規律というように、中央集権制・軍事的集権が本質であり、来るべき日本革命遂行には絶対必要である。

 党内には、マスコミなどの影響を受け、民主主義的中央集権制を放棄したらどうか、もう少し党規律をゆるめた方がいいという意見がかなりある。常任幹部会は、それを自由主義、分散主義として一貫してたたかってきた。上記で述べたことから見て、その意見、批判は、日本革命を放棄せよということと同じである。その本質は、一種の反革命的意見である。ただ、この反革命という用語は、スターリン主義的イメージを与えるので使わないだけである。

 4000人のわが党専従からは、民主主義的中央集権制に批判的意見を持つ者は、すべて専従を解任した。約30000人の中央委員、県委員、地区委員という三段階の機関役員からも、その自由分散主義者をすべて排斥した。次の段階として、350000人の一般党員でこのような意見、批判を持つ者と徹底してたたかい、あるいは、規約に基づく除籍をする。日本革命を遂行する一枚岩の党を作り上げる。

 資本主義枠内での民主主義革命を目指す民主連合政府樹立に向けて、国会で安定した241議席を占める選挙活動と、その次のランクの資本主義体制廃止の社会主義政府へとレベルアップしていくたたかいは、一貫した継続性のあるものである。選挙での柔軟路線と、綱領実現の革命路線とは、連続する過程なのであり、なんら矛盾するものではない。

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(関連ファイル)

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』各国共産党の選択

    『イタリア左翼民主党の規約を読む』左翼民主党規約の全文添付

    アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

     フランス共産党の党改革状況(宮地作成)

    福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

    福田玲三『党史上初めて対案提出』2003年フランス共産党32回大会

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕