スパイ査問事件と袴田除名事件

 

袴田政治的殺人事件の推理劇的考察

 

(宮地作成)

()これは、「スパイ査問問題意見書」内容と結論を前提としています。ただ、それは長いので、「意見書」連続・7分割ファイルに改訂しました。そこから、この文の二章に真相のごく一部表を抜粋して載せました。文中の「イラスト写真」は長男宮地徹作成のものです。

〔目次〕

 一章 「スパイ査問問題意見書」公表

 二章 スパイ査問事件の2つの事実問題真相

     3「暴行」4種類とリンチ性有無 「不破スパイ容疑リンチ査問」を含む

 三章 袴田調書全文公表への3つの選択肢

 四章 袴田政治的殺人事件  1976年1月〜1979年7月推理劇的考察

    第一幕 宮本、不破、小林らによる袴田への“政治的自殺”強要

    第二幕 党本部内での袴田政治的殺人急迫と第1回正当防衛発言

    第三幕 袴田“口封じ”査問10ヶ月間と密室完全犯罪の成功

    第四幕 党大会後も袴田査問継続と第2回正当防衛反撃のマスコミ公表

    第五幕 批判キャンペーンによる社会的抹殺殺人の大展開

 五章 野坂参三の山本懸蔵密告・殺人と宮本、小林の袴田政治的殺人との比較

 

〔関連ファイル〕                   健一MENUに戻る

    『スパイ査問問題意見書』 連続・7分割ファイルに改訂

    『スパイ査問事件の個人的体験(宮地個人通信第十号)

    『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」

    袴田自己批判・批判の共産党側資料、「3論文」と「党史」

    立花隆『日本共産党の研究』関係 『年表』一部、加藤哲郎『書評』

 


一章 「スパイ査問問題意見書」公表

〔小目次〕 1、「意見書」提出 2、袴田排除と私の専従解任同時進行

       3、「意見書」一部公表 4、「意見書」全文公表

1、「意見書」提出

 1977年4月、袴田除名の8ヵ月前に、私は中央委員会宛に『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)』を提出しました。これは以下「スパイ査問問題意見書」とします。立花隆『日本共産党の研究』が、1976年1月から1977年12月まで21回にわたり「文芸春秋」に連載され、1976年6月平野謙著『「リンチ共産党事件」の思い出(袴田調書全文添付)(三一書房)が出版されました。なぜ「意見書」を提出したか。それは、これらの出版書籍やマスコミの宣伝にたいする党の対応の基本に賛成しながらも、その一部に重大な誤りがあると考えたからです。それは袴田・宮本陳述相違点について、宮本委員長、小林栄三中央委員・元宮本秘書が、真相を歪曲、ねつ造し、袴田副委員長の政治的抹殺、犠牲の上に立って、自己の栄光、権威の保身を図ろうとしているという判断に基づくものです。それだけでなく、その対応は合法・議会主義政党として国民にウソをつくという点で、国民・有権者への政策選択としてもさらに重大な誤りを犯していると考えたからです。

2、袴田排除と私の専従解任同時進行

 この時期、次元は異なりますが、私(宮地)の警告処分、専従解任が同時に発生していました。それを不服として私は党内でそれについての「意見書」を提出し、さらに1977年10月の第14回党大会に処分・解任不服の「上訴書」を出してたたかっている最中でした。「スパイ査問問題意見書」の分量は、23万字、68表あり、ホームページ印刷でA4版162ページと膨大です。その中で、「個人通信第十号、スパイ査問事件の個人的体験」もしました。。

 この2つの同時進行は、1977年10月の第14回党大会に党内排除処理の同時結末を迎えました。そこでは私と袴田氏の政治的殺人儀式が執り行われました。党内排除処理とは、『ゆううつなる前衛』で前衛党の排除、抹殺システムを(1)党内排除、粛清→(2)党外排除、粛清→(3)社会的排除、粛清→(4)肉体的排除、抹殺として16項目にわけて分類しましたが、その最初の粛清段階に該当するものです。

 1)、私の「党大会上訴」処理のやり方

 私の「上訴」は、無審査・無採決・30秒却下されました。一面的党勢拡大、「打撃的思想批判方式」赤旗拡大の指導の誤りにたいする、私の県常任委員会批判、中央委員会批判への、このような報復的専従解任、30秒の政治的殺人儀式に泣き寝入りすることを拒否して、私は名古屋地方裁判所に「専従解任不当」の民事裁判を提訴して、直ちに除名になりました。裁判提訴後の、共産党による連日の、1カ月間にわたる尾行、張り込みについては、妻のホームページ『政治の季節』の『尾行』に書いてあります。

 2)、袴田副委員長の政治的殺人儀式のやり方

 この大会で、宮本委員長は、袴田氏の(1)副委員長、(2)常任幹部会員、(3)中央委員という党内の一切の役職を党大会役員人事“非推薦”という形で剥奪しました。その“非推薦”理由について党大会で何の報告もなく、一つの質問も出ませんでした。その理由は『日本共産党の六十五年』によれば、『袴田が中央委員として不適格であることが明確なので、彼を中央委員に選出しなかった』とあるだけです。袴田氏は、それまでの経過とこの政治的殺人儀式に反逆して、マスコミに公表し、1978年1月に除名されました。この前後の詳しい経過については、下記第四章「袴田政治的殺人事件」で考察します。

3、「意見書」一部公表

 1994年10月、『日本の暗黒』赤旗連載の突然中止をめぐって下里赤旗記者査問、除名と作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁が発生しました。「スパイ査問問題意見書」は、宮本氏の対応が国民への政策政選択として重大な誤りというだけでなく、袴田氏への批判、政治的抹殺のやり方に私への党中央の報復と同質のものを感じたので提出しました。しかしそれを分析して、書いている私自身は、変な言い方ですが、『宮本氏は絶対に間違っている。平気で国民にウソをついている』という確信を持ち、自分として納得できたので、それを公表する気はありませんでした。

 ところが、「意見書」提出の17年後、下里記者のマスコミ公表文および私への彼の手紙で、彼の査問、除名とスパイ査問事件とに直接的関係があることを知りました。その除名と森村氏との赤旗連載契約の一方的破棄は、絶対許されない、反民主主義的暴挙です。いまだにその事件に触れようとすると、このような事態が発生するタブー問題になっているようでは、黙っていられないと判断しました。そこで1994年12月、「葦牙23号」に『作家森村誠一氏とスパイ査問事件』を投稿し、さらに『個人通信第10号、スパイ査問問題に関する個人的体験』を友人、知人に送りました。そこに「意見書」のごく一部を添付しました。1998年、「葦牙23号」の文と下里氏の手紙を私のホームページに掲載しました。

4、「意見書」全文公表

 ここには二つのきっかけがあります。一つは、川上徹著『査問』(筑摩書房)の1997年出版と私のHP『日本共産党との裁判第1部〜第8部』の1998年掲載開始です。『査問』の出版は大きな意義がありました。それは、第一に、「新日和見主義分派」という民青中央・県グループ百数十人、その他にたいする謎の一大粛清事件を解明したことです。第二に、前衛党の監禁査問システムをリアルに暴露しました。第三は、所属党組織の籍を移動する転籍問題を悪用した宮本委員長の反党策謀を初めて浮き彫りにしました。1998年2月、その合評会が、川上氏と加藤哲郎氏との対談や質疑形式で開かれました。そこでは、私の日本共産党との裁判も話題、質疑の一つとなり、その内容についての手紙『川上徹著「査問」の合評会』を高橋彦博法政大学教授からいただきました。私は、HP『日本共産党との裁判』の掲載開始とあわせて、それと同時進行し、かつ類似点が多い袴田除名事件のからくりも、HPに載せたほうがいいと判断しました。そのからくりと私の「スパイ査問問題意見書」内容とは直接的関係があるので、その全文を公表することにしました。

 二つ目は、1998年以降に、インターネットHPJCPウオッチ!〜「日本共産党」を考えるで、スパイ査問事件の活発な討論がなされ、また私のそれに関するHP内容への批判発言が2回載ったことです。このHPは、掲示板で共産党問題について自由な討論参加ができる画期的な方式で、民主的に運営され、人気があります。私もよくアクセスしますが、発言内容を見ると、現役党員もかなり討論、質疑に参加しています。1999年3月には、複数の現役党員による運営を公然と名乗ったHP『さざ波通信・日本共産党と現代日本政治を考えるホームページ』も登録され、多面的で充実した内容になっており、急速にアクセスを伸ばしています。私のHPへのメールでも、現役党員がいます。加藤哲郎一橋大学教授は、これらの現象を『インターネットは民主主義的中央集権制を超える』と評価しています。『JCPウオッチ』では、スパイ査問事件がかなりのコメント数で討論されていました。その問題での疑問、共産党批判にたいして、党中央寄り、またはペンネームを使った党中央代弁者らしきコメントも見受けられました。そうすると、疑問、批判は反論のデータがないので、やり込められてしまいます。1999年4月、そのHPに、土佐高知さんが『立花隆「日本共産党の研究」の批判』を掲載しました。その論文内容もふくめた再開討論で私のHP『作家森村誠一氏とスパイ査問事件』にたいして、スパイ査問事件での2つの事実問題の真相が“6人の査問関係者陳述の「多数決」での結論にすぎない”と批判されました。私のその文は「意見書」で書いたような途中の論証をいっさい省略して、最終的結論部分を触れてあるだけですので、それだけを読めばそう受け取られてもやむをえません。スパイ査問事件が今日でも関心を持たれ、インターネットで活発な討論がなされ、私への批判も載り、かつ党中央代弁者らしき発言者もいる以上、「意見書」全文を公表したほうがいいと考えました。

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二章 スパイ査問事件の2つの事実問題真相

〔小目次〕

   1、「意見書」書き方 2、「意見書」の表一部抜粋 3、「暴行」4種類のリンチ性有無

1、「意見書」書き方への弁明…長すぎること、読みづらいこと

 この真相をどう見るかについては、「意見書」に詳細な分析をしてありますので、ご覧下さい。ただ若干の弁明をします。私は、1976年1月立花連載開始から、1977年4月「意見書」提出の間に出版、公表された資料はほとんど読みました。そして宮本氏の重大な誤りという意見を持ちました。しかし彼が陣頭指揮をして、全党あげて宮本陳述内容100%真実説、『すべて事実無根のでっち上げ』説、『特高のでっち上げに乗ぜられた袴田』説を大展開している以上、生半可な程度、分量の「意見書」ではとても太刀打ちできません。そのウソと詭弁を論破しきる論証をと考えている間に、このHP印刷A4版162ページと長い分量になってしまいました。

 また、書き方も、その論証だけを狙いにした党内「意見書」です。他党員や党外の人に読んでもらう意図はなく、ウソと詭弁を使って国民、党員をあざむいた宮本、小林、袴田3人だけを読者として想定した書き方なので、きわめて読みづらくなっています。ただ下記に述べるように、「意見書」提出の1977年4月時点で袴田氏はすでに査問されていたので、これを読んだのは宮本、小林2人、あるいは不破氏を入れても3人だけでしょう。この全文公表にあたって、読みやすく書き直そうかとも思いましたが、当時の資料として、その党内「意見書」原文のままでHPに載せました。長文になったことには、客観条件もありました。私の警告処分・専従解任への「意見書」「上訴書」提出後、県常任委員会は、私に、1977年10月の第14回党大会での上訴審議までは「専従解任有効扱いとしての自宅待機措置」を通告しました。私はそれまでの14年間の民青・共産党専従生活の感慨を味わいつつ、愛知県委員会事務所の私の机を空にし、私物を風呂敷一つに包んで、自宅待機生活に入りました。その期間中では、それら22通にたいして一度も回答、審議はなく、したがってスパイ査問事件の全資料を読み、この「意見書」の構想を練る時間がたっぷり与えられたというわけです。

2、「意見書」からの表一部抜粋

 2つの事実問題真相について『「意見書」をご覧下さい』といっても、長くて、読みづらいので、最終判断材料となる表のごく一部を抜粋します。詳しくはやはりそちらを見てください。この真相についての私の結論は『作家森村誠一氏とスパイ査問事件』第二にも書いてあります。以下3個所だけ抜粋しました。

 〔抜粋1〕 袴田・宮本陳述の相違点は、17項目中2項目だけです。「密室審理」陳述と「公判」陳述とで15項目は一致しているのです。

スパイ査問問題の17の陳述項目

〔表1

項目

特高デッチ上げ

陳述の一致点と相違点

1

内外情勢と日本共産党の任務

2

スパイ挑発との闘争での党方針

「殺害を共謀」

3

査問原因  2人のスパイ容疑と根拠

「指導権争い」

4

査問準備1、器具準備に協議なかったこと、その他協議

「用意と協議」

5

  〃 2、器具の袴田・木島による用意、会場での存在

×

6

査問状況 1、査問の開始前後

7

  〃2、査問の進行経過(時間的)

8

  〃3、査問の基本的手段・方法

「リンチ」

9

  〃4、査問の付随的な手段・方法

「リンチ」

×

10

  〃5、査問の身柄拘束とやり方

「不法監禁」

11

小畑死亡時の状況

「リンチ殺人」

12

小畑の死因

「脳震盪死」

13

小畑の死体処分

「死体遺棄」

14

赤旗号外記事

「断罪即処刑」

15

その他査問 1、大串査問

「リンチ」

16

  〃   2、波多、大沢査問(宮本関係ない)

「リンチ」

17

熊沢光子の処遇

「不法監禁」

17項目中 完全一致(◎) 11項目…1、2、3、4、7、8、12、13、14、16、17

基本的一致(○、△) 4項目…6、10、11、15  相違点(基本的不一致)(×) 2項目…5、9

 袴田陳述は予審、第1審公判とも基本的に同じである。ただし、第4項目は、第1審公判で陳述していたが、予審では陳述していない。第9項目は、細部では予審と第1審公判とでは異なる箇所もある。そのいずれも後でくわしくのべる。2人の陳述での基本的不一致は、第5項目、第9項目の2項目のみである。この「意見書」は、2項目での相違点の解決内容・方法にたいするものである。 以下、第5項目、査問の準備2、器具の袴田・木島による用意、会場での存在を第1の事実問題とし、第9項目、査問状況C査問の付随的な手段・方法を第2の事実問題とする。

2人の闘争方法の相違

〔表2

決定、判決

袴田

宮本

1、警察

聴取書→送致書

聴取書(1〜10、11(?))

黙秘

2、検察庁

(?)未公表

(?)未公表

3、予審

予審終結決定

予審訊問調書(19回)

黙秘(5回)

4、公判

)第一審

第一審判決

第1審調書(3回〜(?))

第1審調書(6回)

第1審再開(15回)

2)控訴審

控訴審判決

控訴審調書((?)回)

控訴棄却でなし

3)大陪審

控訴棄却でなし

() は、出版・公表資料がなく、不明という意味である。

 〔抜粋2〕 6人の査問関係者〔第2の事実問題〕陳述の一致点・相違点、その性質からその証拠能力を検討する。

6人の陳述場所とその陳述の思想的立場

〔表13

宮本

大泉

木島

逸見

秋笹

袴田

検挙年

1933

1934

1935

検挙月日

12.26

1.15

2.17

2.27

4.2

3.4

警察(聴取書)

×(黙秘)

△(スパイ)

△(転向)

△(転向(?))

×(黙秘)

○(非転向)

検察庁

×(〃)

△(〃)

△(〃)

予審(予審調書)

×(〃)

△(〃)

△(〃)

△(〃)

○(非転向)

○(非転向)

第1審公判(公判調書)

○(再開公判)

△(〃)

△(〃)

△(〃)

△(途中から転向)

○(〃)

控訴審公判(〃)

△(〃)

△(〃)

△(〃)

○(〃)

大陪審

−棄却(判決確定)−

〇=非転向陳述、△=スパイまたは転向時陳述、×=黙秘。秋笹予審陳述は非転向時陳述

秋笹は、第1審公判併合審理時点でも非転向(宮本公判速記録、第1回、第2回、P.23P.76)

  

〔第2の事実問題〕と5人の自己行為自認陳述

〔表14

木島

逸見

秋笹

袴田

宮本

1)なぐるける

○「アヂラレタカラヤッタ」

○「小畑ヲ二三回蹴飛バス」

○小畑、大泉各1回

×

2)斧使用

○「有リ合ワセタル物ニテ小突ク」

×小畑への斧使用否認

×

3)硫酸第1段階

○「薬鑵ノ水ヲ之ハ硫酸タト云ツテ振リカケ」

第2段階

×

第3段階

×自己行為を否認

×

4)タドン使用

○「タドンヲ小畑ニ押シツケ」

×

5)錐使用

×

6)ピストル使用

○小畑到着時

1回

1回

2回

4回

 

〔第2の事実問題〕と6人の他人行為目撃陳述

〔表15

大泉

木島

逸見

秋笹

袴田

宮本

1)なぐるける

×(23日夜)

(?)

×(宮本)

×

2)斧使用

(自己行為自認)

×

3)硫酸第1段階

(自己行為自認)

第2段階

○(公判でとりけし)

×

第3段階

○(控訴審で木島をとりけし)

×

4)タドン使用

(△=火傷)

(自己行為自認)

×

5)錐使用

×

6)出刃包丁使用

×

×

イ.是認

5項目

4項目

5項目

1項目

5項目

ロ.否認

1項目

1項目

1項目

7項目

 

斧「なんらかの使用」是認5人陳述内容の一致点と相違点

〔表18

「存在」

「使用」是認

「使用」否認

行為者 対象者

使用程度

回数

秋笹

予審(非転向)

(?)

秋笹→大泉

小突イタ(有リ合ワセタル物ニテ)

1回

袴田

警察(非転向)

予審(非転向)

○二挺

秋笹→大泉

斧ノ背中テ頭ヲゴツント殴ルト

1回

23日使用否認

第1審(〃)

秋笹→大泉

コラ本当ノコトヲ云ハヌカト大泉ノ頭ヲ小突イタ

1回

小畑への使用否認。袴田使用否認

逸見

予審(転向)

秋笹→小畑

何故嘘ヲ云フノカト云ヒテ斧ニテ頭ヲコツント叩キ

1回

木島

予審(転向)

(?)

宮本→小畑

薪割テ頭ヲツツイタ

1回

大泉

(スパイ)

(?)→大泉

斧ノ峰テ頭ヲ殴ラレタ為カ

斧テ殴ラレ気絶、歯カ折レタ

一々器具テ殴ラレタ

1回

2回

数回

 逸見が対象者を大泉でなく小畑にしたのは、小畑の死因との関係での対象者すりかえの迎合的陳述である。木島陳述も、逸見と同じ迎合的陳述であるとともに、宮本黙秘による闘争、スパイ挑発への特高の報復的意図にたいする迎合的陳述である。この推定はいずれも後でのべる。大泉陳述はスパイとしての出鱈目な陳述ではあるが、「斧のなんらかの使用」という点で他の4人と一致しているとともに、「斧ノ峰テ頭ヲ殴ラレタ為カ血カ私ノ顔ヲ伝ツテ落チルノヲ覚エマシタ」という陳述内容は袴田陳述内容と完全一致している。

 逸見、木島、大泉の迎合的または出鱈目な部分・側面を批判的に検討した場合、秋笹自己行為自認としての「有リ合ワセタル物テ小突イタ記憶」という内容は斧の「なんらかの使用」行為を示しており、大泉をのぞく、他の4人の使用程度(小突く、またはこつんと叩く程度)と使用回数(1回)は事実である。

秋笹・袴田・逸見3人の2)、3)、4)行為陳述内容の一致点と相違点

〔表19

2)斧使用

3)硫酸使用

4)タドン使用

秋笹予審(非転向)

秋笹→大泉(自認)

小突イタ

宮本か誰か→(?)

「付ケルゾ付ケルゾ」ト

硫酸瓶振廻シ脅カシ

秋笹→小畑(自認)

足ノ脛ノ辺ニ押シツケルト

慌テテ足ヲ引込メ

袴田予審(非転向)

秋笹→大泉

頭ヲゴツント殴ルト

コラ本当ノコトヲ云ワヌカト

袴田→小畑(第1段階自認)

木島→小畑(第2段階)

之ハ硫酸タト云ツテ脅シ乍ラ

秋笹→小畑

足ノ甲アタリニクツツケタ

熱イ熱イト云ツテ足ヲ跳上ゲ

逸見予審(転向)

秋笹→小畑

頭ヲコツント叩キ

何故嘘ヲ云フノカト

木島→小畑(第1、第3段階)

ソラ硫酸ヲツケタゾ流レルゾト云ヒテ

秋笹→小畑

両足ノ甲ニ載セタルトコロ

熱イト叫ンテ足ヲ跳ネルト

 4)タドン使用については、秋笹の明白な自己行為自認があるというだけでなく、3人の陳述が行為者・対象者・使用程度・小畑の反応・使用回数などの細部にいたるまで完全一致している。3)硫酸瓶・硫酸使用については、3人に相違があるが、行為者発言のような脅迫行為の存在、「付ケルゾ、付ケルゾ」「之ハ硫酸タ」「ソラ硫酸ヲ付ケタゾ流レルゾ」という脅迫的言辞の存在は完全一致している。硫酸瓶・硫酸による「なんらかの脅迫」行為の存在で完全に一致している。2)斧使用についても、上記の相違はあるが、使用程度「小突ク」「ゴツント殴ル」「小突イタ」「コツント叩キ」と一致しており、行為者は秋笹とする点でも3人は一致している。袴田・逸見2人の陳述は袴田予審・第1審公判とも見ると、行為者の「コラ本当ノコトヲ云ハヌカト」「何故嘘ヲ云フノカト」という発言も合わせ、その使用程度、回数も一致しており、対象者のみ相違している。秋笹陳述は非転向時陳述である。

 これらを総合的に見た場合、2)、3)、4)での3人の陳述の一致点・相違点から見て、秋笹自己行為自認としての「有リ合ワセタル物ニテ小突イタ」というのは「斧で大泉を小突いた」ことを意味している。秋笹が2)斧使用行為を非転向時において自認しており、袴田予審・第1審陳述とも一致し、他の逸見、木島、大泉3人の「なんらかの斧の使用」陳述とも一致している以上、そこには、斧「なんらかの使用」行為は明白に存在した。斧の「使用」行為が存在する以上、斧の会場「存在」は袴田陳述のいうように事実であった。

 宮本陳述の斧の「存在」「なんらかの使用」全面否認内容は事実ではない。「私等ハ器具ヲ手ニシタコトハナイ」(P.235)という陳述内容は非事実性のものである。斧の「なんらかの使用」は24日午前中のことであり、秋笹の23日夜説は記憶ちがい、逸見の24日午後説は迎合的陳述である。袴田陳述では24日午前中「使用」として予審・第1審とも一貫しており、その24日午前中の査問には宮本中央委員は同席しており、秋笹の大泉にたいする斧の「なんらかの使用」行為を目撃している。したがって「何レモ目撃シテ居ナイカ」(P.245)という陳述内容はこの斧使用について事実ではない。斧「存在」そのものの否定としての「オ示シノ斧、出刃包丁等ハ存シマセヌ其様ナ物カ査問アヂトニアツタカ否判然シマセヌ」(P.260)という陳述内容も事実をのべていない。

 尚、特高のデマ、予審終結決定での薪割の使用という事実認定が、確定判決ではのべられていないがその理由への推理は後でのべる。

 タドン使用については、秋笹が非転向時・予審で明白に自己行為自認をしている。袴田陳述も予審で秋笹と同一内容で陳述し、第1審では聞かれていないのでのべていない。

秋笹・袴田・逸見3人のタドン使用行為細部までの完全一致

〔表21

秋笹(非転向時)

袴田(非転向)

逸見(転向)

イ.行為者

秋笹(自認)

秋笹

秋笹

ロ.対象者

小畑

小畑

小畑

ハ.個所

踵ノ辺

足ノ甲アタリニ

両足ノ甲ニ

ニ.行為

押シツケルト

クツツケマシタ

載セタルトコロ

ホ.小畑の反応

慌テテ足ヲ引込メ

足ヲ跳上ケマシタ

足ヲハネルト

ヘ.小畑の声

熱イ熱イト云ツテ

熱イト叫ンテ

ト.畳の焼跡

タドンカ畳ノ上ニ散ツテ処々ニ焼跡ヲ拵ヘマシタ

火ハ付近ニ散乱シテ畳ヲ焦シタリ

チ.日時

23日午後2時頃

24日午前中

24日午後1時頃より

 日時のみ相違しているが、これは秋笹の記憶ちがい、逸見の迎合的あるいは記憶ちがいの陳述である。袴田陳述の24日午前中が事実である。確定判決も24日午前中の事実認定をしている。木島は宮本陳述によれば、逸見行為として陳述しているが、3人の細部にいたるまでの一致、秋笹自身の自己行為自認からいって、秋笹行為である。足の甲に火傷がないという法医学的痕跡有無への判断は上記にのべた。

 宮本陳述は、「タドン使用」を木島、逸見の転向による迎合的陳述のせいにして全面否認した。しかし、上記1〜4から見て、宮本中央委員をのぞく査問者4人全員(但し、木島は査問委員でないが、査問参加)が上記内容で是認しており、「タドン使用」は事実であり、それを全面否認する宮本陳述は真実・真相をのべていない。24日午前中査問に宮本中央委員は参加し、その行為を目撃している。「何レモ目撃シテ居ナイカ」(P.245)という陳述内容はこの「タドン使用行為」目撃についても事実をのべていない。

 斧、タドンの使用については、秋笹が非転向時・予審陳述で自己行為として自認している。(1)、斧「有リ合ワセタル物ニテ大泉ヲ小突イタ様ナ記憶アリ」(予審第14回、P.306)。これは斧か錐が推定されるが、斧の使用行為の自認であるという根拠は上記にのべた。(2)、タドン「自分ハタドンヲ火箸ニテ鋏ミ小畑ノ踵ノ辺ニ一回押シツケルト小畑ハ慌テテ足ヲ引込メタルコトアリ」(予審第13回、P.306)。この2項目の事実性は、自己行為自認と、袴田・逸見の他人行為目撃陳述の゙細部にいたるまでの一致゙という点からも証明される。

〔表35

秋笹自己行為自認陳述

袴田他人行為目撃陳述

逸見他人行為目撃陳述

(1)斧

秋笹→大泉

1

有リ合セタル物

小突イタ

秋笹→大泉

1

斧ノ背中、斧ノ峰

ゴツント殴ルト

頭ヘ二、三滴血カ流レマシタ

コラ本当ノコトヲ云ワヌカト云ツテ

秋笹→小畑

1

小サキ斧ニテ

コツント叩キタルコトアリ

何故嘘ヲ云ウノカト云ヒテ

(2)タドン

秋笹→小畑

1

タドンヲ火箸ニテ鋏ミ

踵ノ辺ニ

押シツケルト

慌テテ足ヲ引込メ

秋笹→小畑

1

タドンノ火ヲ持ツテ来テ

足ノ甲アタリニ

クツツケマシタ

熱イ熱イト云ツテ

足ヲ跳上ケマシタ

タドンカ畳ノ上ニ散ツテ

処々ニ焼跡ヲ拵ヘ

秋笹→小畑

1

火鉢ノ火ヲ鋏ミ来タル故

両足ノ甲ニ

載セタルトコロ

熱イト叫ンテ

足ヲハネルト

火ハ附近ニ散乱シテ

畳ヲ焦シタリ

(予審第14回、P.306

(予審第14回P.248、第1審P.317

(予審第18回P.302303

 したがって、「小林論文」で『錐、硫酸だけは本人が否定している』とか『4項目中2つだけは本人が否定している』というのであればよい。しかし、゙4項目全部を上げておいで『その行為をしたと云はれた本人ばいずれも゙否定している』として、4項目行為者の全員否認を主張し、それを通じて、袴田予審陳述内容の非事実性(=基本的不正確性)を証明しようとする以上、この゙新事実゙もウソであり、ウソの゙新事実゙で袴田陳述内容の基本的非事実性を証明することはできない。党はこのようなウソをついて、袴田予審陳述の4項目他人行為目撃陳述内容の事実性全面否定の事例とするという方法をとるべきではない。

 〔抜粋3〕 「小林論文」の゙論証不十分の虚偽゙証拠能力論理操作の特徴を検討する。関係者陳述証拠における、暴行行為是認陳述証拠としては、次の通りである。その細部の内容の一致点・相違点については上記にのべてきた。

〔表49

是認者

自己行為自認者

他人行為是認者

1)なぐるける

4人

3人−袴田、逸見、木島

3人−袴田、逸見、大泉

2)斧使用

5人

1人−秋笹

4人−袴田、逸見、木島、大泉

3)硫酸瓶・硫酸使用

5人

1人−袴田(第1段階の水)

5人−袴田、秋笹、逸見、木島、大泉

4)タドン使用

4人

1人−秋笹

3人−袴田、逸見、木島

 この証拠が存在する一方で、他証拠と基本的、または細部で矛盾している側面・部分もある。それらの証拠の検討方法とその証拠能力の評価方法としては、下記4つの証拠を総合的・批判的に検討すべきであり、そのうちの1つの関係者是認陳述証拠を、内容上の検討なしに証拠能力を否定すべきではない。1、法医学的証拠、2、隣家証言証拠、3、関係者『否認』証拠、4、関係者『是認』証拠の4つを総合的・批判的に検討すべきである。

 「小林論文」は、物音発生「程度」問題についても、2、隣家証言証拠と3、宮本否認陳述のみをとりあげ、4の「程度」問題についての「15の物音」程度を゙具体的゙に検討をしないままで、4の証拠能力を『密室審理陳述』を根拠として、完全否定している。そして2と3を完全証拠能力をもつものとして扱っている。痕跡発生「程度」問題についても、1、3宮本否認陳述のみをとりあげ、4の「程度」問題についての行為の「程度」の相違と、痕跡発生「有」・「無」の相違または土中25日間後に発掘での識別可能性検討を゙具体的に゙行わないままで、4の証拠能力を同じく『密室審理陳述であること』を根拠として完全否定している。この『密室審理陳述の゙信用度゙問題、゙正確度゙問題』については、次の〔第4の詭弁的論理〕でのべる。

 このように、1、2、3、4の4つの証拠の一致点・相違点、および、その証拠間の矛盾性・両立性などについて総合的批判的検討をやらず、3宮本否認証拠のみを最初から『真実・真相』として、それら裏付けるものとして、1、または2の証拠を1つの独立した暴行行為『無』の完全証拠能力(◎印)をもつとして扱うことは、゙論証不充分の虚偽゙を上記にのべた内容でおこなうものである。

()〔抜粋〕部分は、以上です。「意見書」における〔抜粋〕部分は〔表〕ナンバーの個所前後にあります。

3、「暴行」4種類のリンチ性有無

 〔小目次〕

   1、「暴行」4種類のリンチ性有無

   2、前衛党と拷問・審理

   3、日本共産党による、明白な、2つの「リンチ査問事件」 「不破スパイ容疑リンチ査問」を含む

 1、「暴行」4種類のリンチ性有無

 リンチ性有無判断の結論をまず述べます。査問は始まったばかりでした。その2日間は、スパイかどうかを調べる、相手に自白させることが基本でした。スパイとしての決定的証拠をつかんでいれば、いきなりリンチするケースもあったでしょう。物的証拠は、大泉宛の『荷物が届いた』という電報だけでした。その『荷物』が「野呂逮捕」を意味するという容疑でした。小畑についてのスパイ容疑物的証拠を査問者側は何一つ持っていませんでした。しかも「年表」にあるように、野呂委員長検挙後、中央委員は4人しかおらず、スパイ容疑者2人はその半数をなす現中央委員だったのです。したがってそこでは上記表のような4種類の暴行はあったが、それはリンチ性を持たない、ということです。以下、私の判断根拠を書きます。

 暴行の種類、程度を具体的に特定する根拠は、1、小畑の解剖検査記録と2つの鑑定書内容、2、関係者5人の陳述内容、3、隣家からの物音聴取内容、4、その前後の他スパイ査問事件での暴行の有無とその程度です。もう一つ、5、国際共産主義運動も見た場合、当時のスターリン、コミンテルンのスパイ容疑者への査問と処刑の実態があります。そこでは『最高の処分は、党からの除名』というのは建前で、様々な拷問とともに、それによる自白だけで、ただちに銃殺刑が執行されていました。スターリンは、数千万人の被粛清者のうちで、百万人の共産党員を、スパイ、分派、サボタージュなど無実の容疑にかけ、ソルジェニーツィン『収容所群島』によれば32種類の拷問=前衛党式リンチをし、自白を強要し、銃殺、強制収容所送りにしました。スターリン粛清の規模データは、塩川教授論文にあります。戦前の日本共産党は独立した政党ではなく、コミンテルン日本支部でした。コミンテルンと日本支部との関係は、民主主義的中央集権制の鉄の規律で結ばれ、コミンテルン方針、指令には絶対服従しなければなりませんでした。ただスターリンが百万人の共産党員に32種類の拷問=前衛党式リンチををすることができたのは、国家権力という暴力装置と秘密警察NKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー)を持っていたからで、日本支部はまだそれをもっていませんでした。

 私は「意見書」で、1、2、3だけに基づいて「暴行」4種類にリンチ性はないと判断しました。立花氏や平野謙氏は「リンチ」と判定しました。2人は、(1)の45個以上出血を私の「意見書」のようにデッチ上げとせず、法医学的事実ととらえており、さらに4、5に基づく類推が多いように私には思われます。「リンチ」という言葉について考えてみます。広辞苑では『(lynch)(1)アメリカで白人が黒人に加える私的制裁、(2)私的制裁、私刑』としています。研究社英和中辞典では『(lynch)()(人を)私刑によって殺す』『(lynch law)()私刑、リンチ法《絞首などによる非合法な処刑》』となっています。「暴行」の具体的種類と程度を1、2、3で厳密に特定しないままで、そのリンチ性の有無を争っても無意味でしょう。私は「意見書」および上記のように特定しました。

 合法・議会主義政党の1976年に、非合法・暴力革命路線政党の1933年でのスパイ査問における暴行4種類を認めてもなんらおかしくありません。そもそも、治安維持法違反で検挙された約3万人の共産党員、シンパにたいする特高の拷問は、合法性がなく、すべてリンチ、特高による私刑です。小林多喜二、岩田義道虐殺は、国家権力という暴力装置を使った、もっとも残虐、悪辣非道なリンチです。共産党員はほとんどが、特高によって党内に送りこまれたスパイの手引きで検挙され、特高リンチを受けました。私の特定した4種類の暴行と程度は、特高と結びついたスパイ査問となれば、特高リンチと比較してその程度は許される範囲のものです。1976年時点では、そう開き直ればいいのです。小畑死亡原因が絡むので複雑になりますが、1976年時点では、その暴行種類と程度を認めた上で、そのリンチ性と小畑死因との関連性を争えばいい、むしろそのやり方で争うべきというのが私の主張の骨子、政策選択提案です。しかもスパイ査問事件関係資料がすべて出版、公表され、国民の大部分がその内容を知ったという状況においては、認めたことにより一時的に反共攻撃が強まっても、それが唯一の正しい政策選択肢であり、国民にウソをつかなくてもいい政策選択肢でした。その時点で、いくつかの選択肢があったにもかかわらず、宮本氏は国民、党員にウソをつく選択肢、かつ袴田氏を犠牲にする非道の自己保身選択肢を選んだというのが、この文全体での私の基本観点です。

 

 2、前衛党と拷問・審理

 ただ私は、前衛党がいかなる場合でもリンチ査問をやったことがないと言うつもりはありません。14の一党独裁国では、すべての前衛党がリンチ査問、拷問査問をやりました。その証言は無数にあります。

 1、ソルジェニーツィンは『収容所群島』の「第一部、第三章、審理」で、前衛党の32種類の拷問査問を詳細に列記しました。そのひとつのコンクリート・ロッカー(ボックス)式拷問査問のやり方は、『ゆううつなる前衛』の「査問」に書きました。

 2、日本共産党でいえば、監禁査問スタイルがあります。「年表」にあるように、1934年1月波多然スパイ監禁査問37日間、大沢武男スパイ監禁査問37日間があります。最近では川上徹氏の分派監禁査問13日間、その前の私の分派監禁査問21日間があります。波多然査問はまったく無実のスパイ容疑でした。川上氏のも、宮本氏による新日和見主義分派ねつ造の、無実の監禁でした。私の監禁も2年後に名誉回復されたように、まったく不当なものでした。「リンチ」を広義にとらえれば、これらの不法監禁査問はすべてそれに該当するでしょう。狭義に理解すれば、当てはまらないとも言えます。日本語「リンチ」の概念は広義・狭義で幅広く、暴行種類と程度真相を「意見書」のように特定しないままで、『リンチかどうか』を論争しても無意味です。

 

 3、日本共産党による、明白な、2つの「リンチ査問事件」 「不破スパイ容疑リンチ査問」を含む

 日本共産党には、今まで公表されたもので、明白なリンチ査問事件が2つあります。

 (1)、1934年1月波多然スパイ監禁査問での「暴行」

 これは大泉、小畑スパイ監禁査問事件の2週間後です。宮内勇著『1930年代日本共産党私史』(三一書房、P.183)に次のように書かれています。『《疑心暗鬼の党内》ところがこの波多然は、戦後無実を訴えて認められ、正式に名誉回復の措置を与えられている(昭和三十三年七月)。してみると、当時の波多に対する査問は単なる嫌疑によるものであったことが判る。波多は戦後、「火花」という雑誌の昭和四十二年八月十五日号に、当時を回想して次のようにのべている。「わたしは、リンチ事件の被害者の一人であり、戦後も生き残って活動して来た党員の一人である。袴田はその回想録でわたしの事件に対し、スパイ嫌疑による査問と書いている。だが実際は嫌疑ではなく、最初からスパイであることの告白の追及であり、短銃と短刀による脅迫、血の通わぬほどの手足の縛りと、息のつけぬほどの猿ぐつわ、合着で冬の寒さに数カ月(数日ではない)耐え忍んだリンチ事件である。殺して埋める計画さえもっていたのだ。査問の場所は夜中の野外の一カ所と、三軒の家に移り変ったが、そのうちの一軒は党のシンパで、戦後は入党して活動した人の家であった。戦後わたしはこの夫妻から直接このことを聞いている。わたしは幸い死を免がれたが、死ななかったのがむしろ不思議である。十日間以上も仮死状態に陥り、数カ所に取り返しのつかない傷害を受け、手足は当時から今日まで、家にいるときは一日も欠かさずマッサージをしている。査問から釈放された最後の日の監視者は若い朝鮮人の同志(金季錫)一人であった。かれは、後手にしばられ衰弱し切ったわたしを仰向けにして馬乗りになり、焼火箸を額に押しつけて、最後の拷問を加えた瞬間、皮膚の焼ける匂いをかぎながら、わたしはスパイでないことをいいつづけたのだ(一六〇ページ)」。

 額に焼け火箸を押しつけて烙印をつけるのは、将来再び組織内に潜入することを防止するためのマークであった。いずれにしても無実の嫌疑によって数カ月の長期にわたって、拷問されつづけたという波多の状況は、当時の陰惨なリンチ事件の様相をよく物語っている。大串雅美、大沢武男に対する拷問の状況とスパイ真偽の実相は、私には何ら語るべき材料がないが、多分に疑心暗鬼に取りつかれていた当時の党内の空気から推して、あるいは波多同様無実の嫌疑ではなかったかと思われる。いずれにせよ、「今日査問に当ったものが、翌日は査問を受けるかもしれない」というような極度の疑心暗鬼の横行は、追いつめられ崩壊寸前に立たされた地下組織にとって特有の断末魔の姿であるのかもしれない。そこでは個人としての人間の弱さ、醜さ、自己防衛欲などがムキ出しになって、それが組織の名において、同志殺戮の連鎖反応を生んで行く経路は、浅間事件の赤軍派と本質的には似ている。私なども、当時事件のごく間近に自分自身、身をおいていながら、幸いその渦中から逃げることができた一人であり、いま思い出しても慄然とするものがある』。宮内勇氏は、党中央壊滅時点の「多数派問題」の中心の一人です。彼の活動と多数派運動の意義については、埴谷雄高氏が『1930年代のコミンテルンと日本支部』の(添付資料)で高く評価しています。なお査問日数について、37日間とする立花「年表」と『数カ月の長期』という波多氏との違いの理由はわかりません。

 (2)、1951年春先、東大細胞における、戸塚、不破哲三、高沢寅男への、約2カ月間の“監禁”にわたる「スパイ査問・リンチ事件」

 『突如武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った』『「貴様!」武井は殴打しながら不破をなじった』『戸塚と不破の顔が変形してきたが手はゆるめられるどころかはげしくなった』『不破の兄、上田耕一郎が急に連絡がなくなってしまった弟の消息を尋ねて細胞の部屋に来た。もちろん誰もことの次第を彼に話すはずもない』『査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈してきた』『「未だ吐かない」「しぶとい奴だ」いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていった』『私もついに戸塚に数発手を下した。「手を下す」などといった生易しいものではなかった』と、安東仁兵衛氏が『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年)の「第七章」でその経過と結末を詳述しています。

 これら2つは、日本共産党による「リンチ査問」そのものです。約2カ月間の「不破スパイ監禁査問・リンチ事件」や、当時の波多然、大串雅美、大沢武男らへの30数日におよぶ「スパイ監禁査問・リンチ事件」と比べて、「大泉、小畑スパイ監禁査問事件」は、開始されたばかりの2日間の査問であり、小畑死亡で中止されました。小畑氏が不幸にも死亡しなければどうなっていたかはわかりません。しかし、「意見書」で私が特定した「2日間での暴行4種類と程度」は、まだリンチと判定できるような性質のものではなかった、その性質にまではエスカレートしていなかったのです。

 小畑死因と「2日間での小畑への暴行3種類と程度」は、確定判決にある『外傷性虚脱死(外傷性ショック死)』につながるものではなく、小畑解剖検査記録の45個以上出血は特高・検察によるデッチ上げです。それは、小畑逃亡行為と宮本、袴田取り押さえ行為の交差する瞬間における『ショック死』、あるいは共産党式釈明『急性心臓死』だったと考えられます。治安維持法とは、共産党それ自体を弾圧し、裁くことを基本目的とした悪法です。『外傷性ショック死』とする古畑鑑定や『外傷性虚脱死(外傷性ショック死)』とした確定判決は、デッチ上げ小畑解剖検査記録の45個以上出血に拘束され、かつ、偏見に満ちた治安維持法裁判の本質を表わしたものです。「意見書」第二章、区別(1)での、45個以上出血問題と小畑死因との関係分析をご覧下さい。

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三章 袴田調書全文出版への3つの選択肢

〔小目次〕

   1、袴田・宮本陳述相違点と3つの対応政策  2、歴史研究での『選択肢的方法』

1、袴田・宮本陳述相違点と3つの対応政策

 1976年1月、立花隆『日本共産党の研究』連載開始と並んで、各マスコミが査問関係者6人の調書内容をつぎつぎと公表しました。同年6月平野謙著『「リンチ共産党事件」の思い出』(三一書房)では、袴田調書についてそれまでの断片的なものではなく、その全文が添付されました。それによって、宮本、袴田氏2人の陳述内容、獄中闘争方法の一致点と相違点が浮き彫りになりました。

 第一、陳述内容の一致点と相違点です。2人の陳述範囲は、「意見書」冒頭にあるように、17項目にわたっています。その内、イ、完全一致()11項目、ロ、基本的に一致(〇△)4項目で、ハ、相違点(×)は2項目だけです。正反対内容の2項目は、査問2日間での2つの事実問題です。その真相はどちらなのかが、「意見書」の中心テーマですが、その結論部分の表一部は上記に載せました。

 第二、検挙後の闘争方法のちがいです。当時の治安維持法裁判では、警察取調べと予審があり、これらは「密室審理」です。その上で第1審公判、控訴審公判となり、「公判」陳述をします。そのどこで陳述するかという闘争方法でも2人は大きく分かれました。宮本中央委員は、1933年12月26日小畑死亡の2日後に、街頭連絡に出て、別のスパイの手引きで検挙されました。1934年1月15日監禁場所からの大泉逃亡により、小畑死亡が発覚しました。したがって宮本氏は、発覚後の「リンチ、殺害を共謀」「党内派閥の指導権争いによる殺人」という特高リーク情報、それに基づくマスコミ大宣伝を一度も直接見聞していません。そして警察聴取、予審尋問において、その一方的宣伝を受け、拷問され、公判で反論するしかないと判断して、密室審理での黙秘を貫きました。その黙秘態度は、エンゲルスの指摘や党の決定に従ったという面からだけでなく、独房に入れられ事件発覚後のマスコミ宣伝を警察、予審判事の口からしか聞けないという特殊状況のなかで選択したという側面からも見る必要があります。

 袴田中央委員候補者は、「年表」にあるように、4人の中央委員中2人もがスパイということで査問に参加し、宮本検挙後は、以前からの中央委員は逸見1人の状況に置かれました。ただ小畑死亡後に、宮本、逸見2人だけなった日本共産党中央委員会が、『袴田、秋笹中央委員候補者を中央委員に選出する』と“中央委員会総会決定”をしました。そこで逸見、袴田、秋笹3人の“中央委員会総会”で今後の方針を決め、「赤旗(せっき)」を発行し、街頭連絡指導に出ました。ところが、逸見中央委員、木島中央委員候補者は2カ月後、秋笹中央委員は4カ月後につぎつぎと検挙され、中央委員になったばかりの“袴田1人の中央委員会”になってしまいました。

 戦前の党員たちは、レーニン、スターリン、ソ連、コミンテルンを信じ、その非合法・天皇制打倒・暴力革命路線活動はまさに英雄的でした。しかしその一面、戦前のコミンテルン日本支部指導部体制のこのような異様な事態発生の原因はいったいどこにあるのでしょうか。前衛党中枢がスパイの手引きでつぎつぎと検挙され、4度も前衛党中央委員会が権力によって潰滅させられたのは、国際的にみても例がありません。その原因の究明は、『日本の暗黒』を作り出した世界有数の特高システムの側からと、コミンテルン日本支部の方針、活動スタイルの側からの両面での分析が必要でしょう。前者については、作家森村誠一氏と下里記者らが、共産党と合意の上で分析を始めましたが、宮本氏の自己保身意図で突然中断させられました。後者の原因究明については、石堂清倫氏が『「転向」再論―中野重治の場合』で、コミンテルン方針の根本的誤りおよびそれに無条件に服従、実践した日本支部の『自殺戦術』の誤りについて突っ込んだ解明をしています。

 1934年1月15日大泉逃亡による小畑死亡発覚から、1935年3月4日袴田検挙までの約1年2カ月間、袴田中央委員はこの問題での反共デマ宣伝を直接見聞し続けました。検挙月日順でみると、(1)大泉は被査問者側、スパイとして警察聴取、予審尋問に応ずる、(2)宮本警察、予審とも黙秘、(3)逸見、木島は転向し、応ずる、(4)秋笹は非転向で警察黙秘だが、予審に応ずる、分離公判途中で転向という構図となりました。黙秘・宮本以外の4人の警察聴取内容、予審尋問内容は、小畑解剖検査記録内容とあわせて、警察公式発表、リークで連日のように流されました。治安維持法下のマスコミ報道の内容は、テレビはないものの、新聞、ラジオを通じて、警察リークを鵜呑みにしたものでした。その雰囲気に付いては、1970年代の連合赤軍事件、山岳基地「総括テロ」事件、浅間山荘事件、1990年代の一連のオウム事件についての報道状況を思い出せば、想像できるでしょう。この状況については、袴田氏が『自己批判論文』で自分の獄中闘争方法の正当性を自己弁護しています。

 この当時の報道と宮本、袴田2人の置かれた状況の違いからみて、宮本式警察・予審完全黙秘闘争方法と袴田式警察・予審陳述闘争方法の正否をどう判定するかということです。抽象的厳格主義(リゴリズム)から“審問”すれば、宮本方式が原則的で正しく、英雄的であり、袴田方式は誤りとなります。しかし、袴田氏が「袴田論文」で自己弁護した具体的状況からみれば、宮本氏と条件が大きく異なっている以上、かつ、「意見書」で分析した明確な否認・是認陳述内容からみても、袴田方式も誤りではなく、正しく、英雄的でした。

 しかも、袴田式闘争方法が正しかったというもう一つの根拠があります。裁判は、治安維持法違反事件と小畑殺人事件という2件の併合審理でした。そこには、(1)小畑解剖検査記録、(2)2つの鑑定書、(3)警察聴取書、(4)検察論告、()予審終結決定、()被告主張が提出されます。それらに基づき、()第1審判決、()控訴審判決(=確定判決)が出されます。()()()(8)の中に、()被告側主張の事件真相がどれだけ取り入れられたか、通らなかったかが、袴田被告、宮本被告の闘争成果とその獲得限界になります。闘争方式の正否を判断する上では、確定判決でどのような成果を、誰があげたのかを明確にしておく必要があります。

 袴田被告は、警察での査問状況陳述を拒否した闘争、予審では積極的に事件真相を解明しようとして全面否認、是認・否認方法を使った闘争、第1審・控訴審公判闘争などを一貫して非転向でたたかい、陳述内容もすべてで首尾一貫しています。闘争成果の第一は、古畑再鑑定をかちとったことです。その鑑定内容は、確定判決内容にも大きな影響を与えました。第二は、「指導権争いの殺人」「殺意」のデッチ上げとたたかい、確定判決でそれを認定させませんでした。第三の成果は、小畑死因としての「脳震盪死」をなくさせました。一方、獲得限界としては、「ショック死」「急性心臓死」を認めさせることはできず、「外傷性虚脱死(外傷性ショック死)」との事実認定をなくすことはできませんでした。これはデッチ上げ「解剖検査記録」の拘束によるものでした。「解剖検査記録」のデッチ上げ性と「古畑鑑定書」の見方考え方は、「スパイ査問問題意見書」の中心テーマの一つで、第二章『区別(1)で詳細な分析をしました。

 宮本被告は、それにたいして、警察、予審で黙秘を続け、そのため公判開始までの黙秘5年間は特高デッチ上げにたいしなんの反論もしていません。第1審公判は、第6回まで宮本・袴田・秋笹ら中央委員3人の併合審理でしたが、そこでは内外情勢と党の任務などの陳述が主で、2つの事実問題については陳述していません。宮本腸結核のため、分離公判となり、宮本公判のみ長期に中断され、1944年の第1審再開公判時点では、他関係者全員の確定判決が出てしまった後でした。裁判所、検察側も、事件関係者の遅れた1人だけを事務的処理するためだけに再開し、事件裁判を終結させる目的でした。そのため宮本被告要求の他被告証人喚問を却下し、宮本被告にはしゃべりたいだけしゃべらせ、それへの質問を何もしないという事務的訴訟運営をしました。

 1942年袴田確定判決と1944年宮本確定判決とでは、読み比べればわかるように、字句上の若干の相違を除いてまったくの同文です。したがって、宮本被告は、再開公判闘争で、2つの事実問題での確定判決上の成果を何一つあげていません。袴田被告がかちとれなかった「外傷性」という死因認定も外せていません。はっきりいって無成果なのです。内外情勢と党の任務などは、6回の併合審理公判時点で袴田、秋笹被告もともに陳述しているのです。3人の闘争成果と役割、および宮本氏による成果簒奪(さんだつ)と独り占め現象については、「スパイ査問問題意見書」の「第3の誤り・宮本個人崇拝」で詳しく分析してあります。

 袴田・宮本陳述内容、闘争方法めぐる2つの相違点を突いて、1976年マスコミの宣伝と追及が大々的に行われました。その相違点をどう解決し、国民に説明するかで、宮本、袴田氏と常任幹部会には3つの選択肢がありました。

 《第一選択肢》 攻撃無視・相違点ほおかむり政策

 『2つの事実問題での宮本否認内容を100%真実とし、宮本式警察・予審黙秘方法だけが正しいと、従来どおり継続主張する。一方で公表された袴田是認内容を無視し、袴田式警察・予審陳述闘争方法にも触れず、そのいずれにもノーコメントの態度を取る』。ただ、これは当時のマスコミや国民の関心度からみて、政党として無責任な回答回避対応と受け取られかねませんでした。しかし、これならウソ、詭弁をついてまで袴田政治的殺人をする段階にまでは至りませんでした。そして、袴田氏が屈辱と政治的殺人に耐えかねて、次章でのべる2回の正当防衛反逆をすることを避けられるという点では“中策”といえるものでした。

 《第二選択肢》 小畑「解剖検査記録」45個出血のデッチ上げ性を徹底して暴露する。そのための袴田陳述内容・闘争方法肯定の大転換政策

 『反共攻撃への受身反撃でなく、相手の矛盾点・弱点を突いた逆襲攻勢に出る。まず、小畑「解剖検査記録」45個出血のデッチ上げ性矛盾、それに拘束された古畑鑑定書と確定判決の事実誤認性を法医学的に徹底して暴露し争う。「なぐるける、暴行は一切ない」とする従来の宮本式説明は、陳述調書、裁判記録出版状況において、相手の矛盾暴露上でまったく噛み合わず、国民への説得力にも欠けるので放棄する。

 つぎに、袴田「密室審理」陳述と宮本「公判」陳述内容で、17項目中15項目が一致しているので、正反対の2つの事実問題でも袴田陳述内容肯定に大転換し、2人の相違点をなくす。ただし、袴田陳述の「不正確な部分」は是正し、袴田是認4種類の暴行・脅迫行為と程度以上のものはないとする。2つの事実問題での宮本全面否認内容はウソであったが、当時の治安維持法裁判状況ではその態度は正当化される。また、宮本式黙秘方法が原則として正しいが、袴田式警察・予審陳述闘争方法も当時の状況では正しかった、少なくともやむをえないものであったと認める。

 マスコミや反共勢力は、勢いづいて“リンチ性”や“宮本のウソ陳述”を書きたてるであろう。しかし、2つの事実問題真相を認めた上で、査問2日間での特定された4種類暴行・脅迫行為と程度のリンチ性有無、および「解剖検査記録」45個出血のデッチ上げ性矛盾、それに拘束された古畑鑑定書と確定判決の事実誤認性を証明する。これは身を切らせて相手の骨を断つ闘争方式で、痛みを伴うが、スパイ査問事件の唯一の最終的真相解明手段である』。

 「解剖検査記録」45個出血のデッチ上げ性と古畑鑑定書、確定判決のそれによる拘束性・事実誤認性については、「スパイ査問問題意見書」二章・区別(1)で詳細な分析をしました。この政策は、関係者6人の陳述内容、その他裁判資料が全面的に公表されたという状況においては、暴行・脅迫行為種類と程度を具体的に特定し、それをリアルに肯定することによって、国民・有権者にたいするいっそう緻密な政策アピール、説明ができた筈でした。これにより2人は17項目のすべてで完全一致し、2人で協力して反共宣伝に立ち向かい、「解剖検査記録」45個出血のデッチ上げ性と古畑鑑定書、確定判決の事実誤認性を証明することができました。

 「スパイ査問問題意見書」では特高、戸沢思想検事と医師によるデッチ上げ経過を細かに推理しました。その推理を補う状況証拠として、(1)小林多喜二虐殺時点での虐殺証明となる解剖を大学に求めた党員、支持者を、どの大学医師たちも特高を怖れて、解剖を拒否したという特高、思想検事と医師との関係、(2)731部隊『悪魔の飽食』での丸太生体解剖した医師たちと関東軍、憲兵隊との関係を挙げました。(1)(2)の関係から見て、スパイ査問事件でも、特高・思想検事・医師の共同謀議に基づく「解剖検査記録」45個出血のデッチ上げは、十分ありうるし、かつ、それは査問2日間での特定された4種類暴行・脅迫行為と程度(対小畑は、斧を除く3種類)を認める方法でしか、“噛み合わない”し、論証できないというのが、私の「スパイ査問問題意見書」の根本主張です。

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 1976年の共産党は、当時の非合法・暴力革命路線政党ではなく、合法政党で、人民的議会主義路線をとっています。この転換は、それへの一時的反共攻撃強化はあっても、国民には説得力を持って受け入れられました。特高拷問に5年間黙秘でたえた宮本被告にとって、日本近代政治史上最大の悪法・治安維持法の、予想される他被告5人と同文デッチ上げ確定判決には、2つの事実問題でウソをつくことだけが残された唯一の抵抗の道でした。このウソを今日認めても、誰が非難できるでしょうか。当時の宮本氏の英雄的態度と、今回ウソと認め、率直な真相肯定大転換姿勢は高く評価され、宮本氏の栄光、権威はいっそう高まった筈でした。これが最良の“上策”でした。

 《第三選択肢》 全面否定再主張・袴田政治的殺人政策

 『宮本否認内容を100%真実とし、「器具は宮本ピストル、細引以外ない」「なぐるけるなど暴行行為も一切ない」「すべて特高による事実無根のデッチ上げ」と再主張する。その論理的帰結としては、一方で、袴田是認内容を全否定、批判し、袴田氏に「自己批判論文」を強要し、赤旗発表する。党側からも赤旗、文化評論等で、2つの事実問題での袴田陳述内容を(1)「不正確」、(2)「系統的、意図的、計画的な暴行なるものを自認したかのような陳述」、(3)「特高のデッチ上げに乗ぜられた陳述」とする。検挙後闘争方法についても、宮本式黙秘方法のみが正しいとして、袴田式警察・予審陳述方法を、当時の2人の状況相違を無視して、「党決定に違反する誤りを犯した」と全否定する』。

 これは、宮本陳述の“ウソを真実”とし、袴田陳述の“真実をウソ”とする選択肢です。また検挙時状況の違いからみれば、相対的に正しい袴田式闘争方法を、5年間完全黙秘という特殊的英雄例を唯一絶対基準にすえて、誤りと切り捨てるものでした。2つの事実問題という2/17項目だけの相違点で、“真実”をのべた袴田氏を政治的に抹殺することと引き換えに、“ウソ”をのべた宮本氏の栄光と権威を守るという袴田政治的殺人政策でした。この選択肢は、2つの事実問題について真実をリアルに陳述する闘争方法によって、古畑再鑑定をかちとり、確定判決上で特高・検察デッチ上げ粉砕にかなりの成果をあげた袴田氏にとって、耐えがたい屈辱を与える“下策”でした。それだけでなく、国民にたいする政策選択としても、国民をあざむくウソと詭弁を使うという、合法政党として最低の“下策”でした。

 共産党は第三選択肢を選びました。3つからどれを選ぶかの選択決定権は、建前では常任幹部会にあります。しかし、1976年時点の党内地位、権限実態からみて宮本委員長は、14の一党独裁国前衛党最高指導者と類似した、一種の個人独裁権限保有者、最終政策決定権者になっていました。しかもスパイ査問事件の当事者で、どれを選ぶかによる個人的利害関係が直接でる最高権力者でした。この選択は、当時の被告、かつ現委員長宮本氏の利己的思惑によるものでした。彼の選択肢決定に異論を唱える他常任幹部会員は、もう一人の当事者袴田氏以外誰一人いません。もし異論を出せば、彼からどのような報復を受けるかわかりません。彼の選択基準は、現最高権力者としての自己保身と栄光擁護であり、反共大合唱からの党防衛でした。それらの目的のためには袴田政治的殺人手段を冷酷無情に選ぶのに躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。

 ただし、これは宮本氏特有の資質ではなく、14の一党独裁国前衛党最高指導者に共通する権力者資質です。革命と党防衛目的のためにはウソ、テロ、秘密警察など手段を選ばないというのは、レーニン型前衛党の本質的政治倫理で、それは何百もの事例で証明されています。14の一党独裁国中、10カ国が一挙に崩壊した原因には、国民による一党独裁システムへの拒絶だけでなく、それと一体のその前衛党体質・倫理への拒絶がありました。第三選択肢のからくり、殺人進行経過については、次章の「袴田政治的殺人事件の推理劇的考察」で5幕にわけて分析します。

2、歴史研究における『選択肢的方法』

 「スパイ査問問題意見書」では、2つの対応策が存在したと分析しました。ロシアの反体制歴史学者ロイ・メドヴェージェフの「選択肢的方法」を読むことによって、上記3つの選択肢という考え方にいっそうの確信を持ちました。彼は、『十月革命』(未来社)において、『絶対的決定論という素朴な考え…は、決してマルクス主義の構成要素ではない。特殊具体的な歴史的事件は、たとえ非常に重大な結果をもたらすものでも、必ず、必然的過程と偶然的過程が複雑に絡みあった結果として生まれたものなのである。…歴史的、社会的現実にあっては、どんな情勢も、実行可能ないくつかの選択肢を必ず含んでいるものである。…歴史上の様々な事実は、もっともありそうに見えた歴史上の選択肢が、必ずしも実現された選択肢ではないということを証明している』としています。

 中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』(三一書房)で、ロイ・メドヴェージェフが十月革命の分析において駆使したこの方法を上記のように引用して、高く評価しています。その訳者の石井規衛東大教授は、メドヴェージェフ新著『1917年のロシア革命』(現代思潮社)の監訳者として、「解説」で『彼の思想的な原点を引き出し、洗練するために採用された方法=歴史の見方が、歴史を宿命づけられたものとみるのではなく、その流れのなかに無数の選択肢をみとめる見方である。そして、最適な選択肢を探り、それの意義を普遍化し、教訓とするという、きわめて政策提言的でもあれば前向きの見方であり、解釈の方法でもあった。そのさい最高指導者であったレーニンの思想、行動がしばしば検討に付されることになった。一九七七年版「ロシア革命論」に異様な緊迫感がみなぎっていたのも、それが原理探求の書であったためである』としています。

 メドヴェージェフは十月革命研究で、この方法を駆使しました。私はスケールはまるで違いますが、「スパイ査問事件と袴田除名事件」考察でこの方法を使ってみました。3つの選択肢は、そこでの宮本委員長側のケースです。袴田副委員長の選ぶ道は後で分析します。私の党大会上訴、裁判での選択肢もいくつか自分で分析しました。メドヴェージェフの方法についての文を長く引用したのは、宮本、袴田、宮地、後半で分析するソルジェニーツィン4人それぞれに存在したいくつかの選択肢と、そこで実際に選択した道という観点でこの文全体を書いているからです。

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四章 袴田政治的殺人事件

     1976年1月〜1979年7月推理劇的考察

 ソルジェニーツィンは、『収容所群島1918〜1956文学的考察』全6部を書きました。1918年から1956年とは、レーニンにより創設され、スターリン死去で一応終了したレーニン・スターリン式収容所群島継続38年間の“偉大なるロシア革命、社会主義時代裏面史”期間のことです。レーニンが、1905年革命、1917年二月革命、1917年十月革命をともにたたかった労農兵ソヴェト内3大党派のメンシェビキ党員約20万人、エスエル党員約100万人を、十月革命後『反革命分子』『武装反革命』とレッテルを貼りつけ、レーニン直属秘密警察チェーカーを使って逮捕し、銃殺・国外追放・強制収容所送りで完全に粛清をし、自己生存中に前衛党一党独裁を完成させたことについては、『収容所群島』の第一部第二章『わが下水道の歴史』に詳述されています。ソルジェニーツィンとその数百人の証言者たちによって、はじめてこの裏面史が明らかになりました。

 私は、彼の“文学的考察”とまではとてもいきませんので、袴田政治的殺人のからくりについて、『1976年1月〜1979年7月推理劇的考察』を試みます。1979年7月とは、1978年1月袴田除名を経て、反共毒素一掃キャンペーンにおける「クリーンパンフ」の1年半普及運動が最終集約された時期のことです。この政治的殺人は、代々木党本部内という場所で、常任幹部会という14人からなる党最高執行機関内での密室殺人です。事件の進行が外部に漏れ出るのは、「赤旗」「文化評論」「党大会決定」「党史」を通じるものしかありません。しかも、党側発表の殺人情報は、都合の悪いものは濾過され、歪曲され、ウソもかなり混じります。以下の月日や「党史」等の記述だけは事実です。よって、この“考察”は、私の15年間の民青・共産党専従体験から密室殺人デテール空白を埋める“推理劇的考察”とならざるをえません。

 私の体験内容とは、(1)私の民青地区委員長体験、(2)共産党地区常任委員・行政区ブロック責任者(=現在の地区委員長)体験、(3)そこでの箕浦准中央委員・地区委員長への1カ月間の批判活動と、それへの報復としての21日間の監禁査問体験、(4)一面的党勢拡大指導の誤りと責任追求の何度もの中央委員会批判発言と、それへの報復としての警告処分・専従解任、(5)それらを不服とした第14回党大会上訴、および上訴者への事前・当日の事情聴取を一度もしないままでの30秒却下という“政治的殺人儀式”体験、(6)民事裁判提訴直後からの約1カ月間もの、共産党による尾行・張り込み体験、(7)私の民事裁判において共産党側が長谷川正安名古屋大学法学部教授(憲法学)を使った手口などです。これら私の体験に基づきながら推理をしていきます。

 私の『日本共産党との裁判』全8部経過・同時進行ケース内容はノンフィクションですが、袴田除名は密室殺人推理劇というフィクションと一定の党情報に基づくノンフィクションとの中間に位置します。ただ、この推理を補強し、ノンフィクションに近づけるために、一党独裁型前衛党関係文献も大いに参考にしました。ソルジェニーツィン『収容所群島』全6部、『煉獄のなかで』『ガン病棟』『嘘によらず生きよ』、ロイ・メドヴェージェフ『共産主義とは何か』他彼の一連の著書、チェコ共産党特別委員会報告書『粛清と復権、隠蔽された訴訟記録』(三一書房)です。とくにアンナ・ラーリナ『夫ブハーリンの想い出』(岩波書店)は、ソ連政治局内部でのスターリンによるブハーリン政治的殺人経過、見世物裁判と肉体的抹殺=銃殺という前衛党最高執行機関内での最高幹部密室殺人事件として、袴田密室殺人事件との共通性も多く、“推理劇的考察”の参考になりました。中国の『毛沢東の私生活』『ワイルド・スワン』『上海の長い夜』も考察に役立ちました。

 

第一幕 袴田への“政治的自殺”強要

      1976年1月立花隆『日本共産党の研究』連載開始

       〜1976年6月10日「袴田自己批判論文」の「赤旗」発表

 3つの選択肢があったなかで、宮本氏は、袴田政治的殺人となる下策を選びました。袴田氏は、赤旗論文『スパイ挑発者との闘争と私の態度』(6月10日付)で『不正確な陳述』『系統的な暴行なるものを自認したかのような陳述』『密室審理に応じた誤り』を自己批判しました。これが強要されたものであって、袴田氏の本意でなかったことは除名後の言動から明らかです。6月10日付論文は、以下「自己批判論文」とします。

 この強要は、宮本委員長、不破書記局長2人を中心とした常任幹部会員13人全員によるものでした。自己批判は、赤旗発表の瞬間から、戦前の栄光、功績を自己否定する“政治的自殺”となり、かつ、その論文は党内、党外における宮本氏一人の栄光、権威を保つための袴田政治的抹殺意図を自らも許す“自殺遺書”となりました。しかし、彼にも、2つの事実問題でウソをついて国民・有権者をあざむいた個人責任があります。ソルジェニーツィンは『嘘によらず生きよ』において、社会主義ソ連の本質的特徴をウソによって成り立つ社会としています。宮本氏は、「スパイ査問問題意見書」で詳細に分析したように、ウソ、詭弁で科学的社会主義政党と40万党員をあざむくことによって自己保身に成功しました。ただ、副委員長、常任幹部会員、戦前最後の中央委員、スパイ査問事件当事者であるなら、袴田氏はどんなに常任幹部会内部で批判、強要されようとも、第二選択肢を主張すべきでした。なぜ心にもない、ウソに基づく“自殺遺書”を書いたのかという疑問が残ります。そこには次の3つの要因が考えられます。

 第一は、スターリン粛清式説得手法です。『この大反共宣伝、反共包囲網のなかで、袴田・宮本陳述相違点が党にとって最大のウィークポイントになっている。このままでは、あなたが戦前から守ってきた党が深刻なダメージをこうむる。それでいいのか。真相と異なるとしても、袴田氏が誤りを認め、それを今発表することこそが、党防衛のためになる』として、党防衛心に訴えて強力に説得することです。スターリン大粛清で、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンら何千人というボリシェビキ最高幹部たちが、公開裁判において『重工業のサボタージュを組織した』『分派を作った』『西側のスパイだった』『スターリンを中傷誹謗した』など荒唐無稽な陳述をし、“政治的自殺”をした上で、即座に銃殺されていきました。それはOGPU、NKVD(エヌカーベーデー)所属共産党員による共産党幹部への拷問32種類とともに、『ソ連反共包囲網のなかで、あんたが今このウソをつくことが、国内にまだ隠れている「人民の敵」どもを摘発し、それへの人民の警戒心を高め、祖国を守ることになるんだ。あんたはそれによって党防衛に貢献できるんだ。裁判でそのウソを陳述すれば、妻子は銃殺にせず、強制収容所送りだけにしてやる』という祖国愛、社会主義防衛心、家族愛に訴える手管で作られたものでした。

 袴田・宮本陳述相違点が集中砲火を浴びているとき、宮本陳述はウソだった、袴田陳述が真実をのべていたとする《第二選択肢》を採用すれば、党内、党外にどのような異変、反応が発生するかは袴田氏も予測がつきません。そこを指摘され、『党防衛のため』を常任幹部会“密室審理”で迫られ、自分以外の13人の“集中砲火”を連日浴びれば、不本意ながら「自己批判論文」発表に同意せざるをえない所まで追い込まれました。

 第二は、強烈なリゴリズム(厳格主義)式批判によって、検挙後闘争方法の誤りも認めさせる手口です。宮本氏の指導方式には、観念的なリゴリズムがあると党中央幹部、赤旗記者、党員文学者の間でたびたび言われます。リゴリズム(rigorism)とは、厳格主義の意味ですが、彼の場合はいったん文書で決定された方針を、その厳守状況や具体的条件を無視して、それをたてにとって機械的に相手を批判したり、観念的なきめつけをよくするというように党中央関係の一部で認識されています。袴田氏に検挙後闘争方法の誤りも認めさせた手口を分析します。

 『公判以外での密室審理には応じない。警察・予審では黙秘を貫く』という“決定”は正しいでしょう。しかし、その厳守状況はどうだったのでしょう。「年表」の山本時代、野呂時代、最後の中央委員会時代の中央委員たちで“決定”を守ったのは宮本中央委員一人だけで、他は守っていません。野呂中央委員は警察取調べ段階で特高拷問により病死しています。それ以前の3・15、4・16の大検挙のときでも、中央委員、党幹部は警察または予審という“密室”で陳述しています。その“決定”は有名無実でした。治安維持法違反で検挙され、裁判にかけられた共産党員は約2300人います。「予審」制度をもつ治安維持法裁判事件で警察・予審とも完全白紙・完全黙秘を貫いたのは、そのうち“宮本中央委員ただ一人”です。その点では、2300分の1例として特殊的に英雄的です。赤旗号外(全戸配布1976.2.1)では、『五年間も完全黙秘を通したのは、日本の近代史上宮本委員長ただ一人である』と宣伝しています。2300分の1の特殊例という数字的根拠を表で見ます。

治安維持法違反検挙者、起訴者数

発表者

 逮捕者     検挙者

起訴者

日本共産党 『社会科学総合辞典』(新日本出版社)

数十万人 192545年の20年間

            75,681

       (政府統計)

192545年の20年間

5,162

(政府統計)

西川洋三重大学教育学部助教授 『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(渡部徹編、三一書房)

193034年の5年間

検挙人員数 47,870

内検挙党員数 1,418

()、右は1929年検挙者を加えた数

193034年の5年間

起訴人員数 3,217

内起訴党員数 1,424

党員歴内訳 1年未満1,194人、1年から2179人、2年以上51

田中真人同志社大学教授 『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房)

『西川の統計分析の対象となっている一九三〇年〜一九三四年の時期は、戦前の共産主義運動がもっとも量的に拡大した時期である。この五年間の年平均は一九二八年から四三年の期間の左翼関係検挙・起訴者年平均の約二倍となっている』(P.30)

 この表で判明しているのは、1930〜34年の5年間起訴人員数3,217人、内起訴党員数1,424人だけです。1925〜45年の20年間の起訴人員数5,162人は、その1.6倍です。20年間の起訴党員数推定計算式として、1,424×1.6=2,278人で計算し、約2,300人としました。表のように、共産党員の場合、検挙されると全員が起訴され、警察・予審密室審理を受けました。よって、宮本式警察・予審完全黙秘闘争方法は、超英雄的ですが、2300分の1の特殊例であり、“決定”は有名無実でした。なお西川助教授、渡部教授、田中教授著書はいずれも、多面的で、綿密な研究内容で、たいへん参考になりました。

 スパイ査問事件関係者でも、小畑中央委員、大泉中央委員を除く、5人の中央委員、中央委員候補者で“決定”を守ったのは宮本中央委員だけでした。逸見中央委員、秋笹中央委員、袴田中央委員、木島中央委員候補者の4人が“決定”を実行せず、ここでも“決定”は有名無実でした。宮本中央委員は拷問を受けましたが、袴田中央委員は本人も認めているようになんの拷問も受けていません。袴田中央委員の置かれた検挙時状況から彼は特高のデマ宣伝、デッチ上げを打ち破るために自分の意思で積極的に真相をのべるという警察・予審陳述闘争方法を選びました。その状況からみて、この闘争方法も誤りではなく、正しいものでした。これについては、秋笹中央委員の闘争方法の正しさをふくめ、「スパイ査問問題意見書」〔第3の誤り、宮本個人崇拝〕で詳述してあります。

 宮本中央委員の密室審理5年間完全黙秘は、超英雄的であるとともに、2300分の1特殊例です。彼は、自らの特殊実践例を唯一・最高の基準にすえ、常任幹部会密室審理で袴田氏に強烈なリゴリズム批判を突きつけました。彼は、その有名無実の“決定”を振りかざして、袴田密室審理陳述方法を『“決定”違反の誤り』と一刀両断して、切り捨て、袴田氏に「自己批判論文」を強要しました。袴田中央委員の置かれた当時の条件を一切無視した上で、エンゲルス文献まで持ち出して、誤りを認めるかどうかを追求されれば、宮本中央委員以外の2300人中誰一人として守らなかったとしても、“決定”であった以上、『“決定”違反の誤り』を認めざるをえません。常任幹部会密室審理会議で、他の12人も宮本委員長に付和雷同して、袴田副委員長に集中批判を加えます。14人の常任幹部会員のなかで一人孤立した袴田副委員長は、宮本式リゴリズム批判手口とその同調者たちの連日の打撃的批判に屈服せざるをえませんでした。

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 第三は、宮本私的分派(側近グループ)を使って、代々木党本部内での屈服圧力をかけることです。これは常任幹部会で袴田副委員長に連日強烈な批判を浴びせつつ、党本部内でも陰に陽に組織的圧力を加え、宮本側近グループをフル稼働させて、袴田氏の抵抗心をくじけさせる手口です。宮本ウソを真実とするだけでなく、袴田氏に自分の真実陳述をウソと認めさせ、確定判決上ではなんの成果もあげていない宮本闘争方法だけを正しいとして、一定の成果をあげた袴田闘争方法は誤りと認めさせるのですから。しかもその自己批判を「赤旗」発表させようというのですから、ちょっとやそっとの批判では、袴田副委員長の抵抗心をくじけさせることはできません。常任幹部会内外のあらゆる圧力が必要でした。この時、その後の屈辱感がどれほどのものであったかは、マスコミ公表後の“宮本憎し、宮本への怒りの言動”からうかがえます。

 この時期、宮本委員長の権威、権限は、常任幹部会内だけでなく、書記局、中央各部局において絶対的なもので、14の一党独裁国前衛党システムと同質の“個人独裁”と呼べる状態にありました。それだけでなく、宮本氏は、私的な“最高指導者側近グループ”を形成してきていました。これは、『私の21日間の監禁査問体験』にも書きましたが、1969年愛知県指導改善問題発生で中央から派遣されていた八島勝麿中央委員が『中央には茶坊主ばかりいる』と発言したこと、その他赤旗記者や民主文学同盟元幹部も『茶坊主』『オールドワンへのイエスマン』『宮本側近グループの存在』を指摘していることからもうかがえます。

 また、“宮本氏の分派的なやり方”について、中野重治は「甲乙丙丁、下」(講談社文庫P.526)で、徳田球一と宮本顕治とを比較して、次のように書いています。文中「石垣書記長」というのは、徳田球一の小説上の名前です。『「内面指導」とかいってやってるということを聞いたが、なんだか、党運営が、それもいわば民主的に悪がしこくなってきてるように思う。石垣書記長の時期には、石垣は全くむちゃなやり方をした。とうとうそれで「五〇年分裂」へ持って行ってしまった。彼持ちまえの「家父長的」――この「家父長的」が田村にはいまだにこなれぬ点を残していたが――やり方が突つきだされて、今は石垣式はない。すくなくともも流行らない。だが、石垣たちが全く旧式に、うわべへ見えてくるところまで露骨に分派的にやったのに対して、その後は、党機構そのものをとおして、集団指導、多数決、「民主集中」そのものによる分派的やり方が押し通っているように見えてならない。その点で全体が近代化した』としています。中野重治は、2人の相違点をあげつつ、2人に共通する、最高指導者による『分派的やり方』を文学者の眼で鋭く抉り出しています。

 代々木党本部内における宮本秘書出身・側近グループのごく一部をリストアップします。以下のメンバーは、中央本部勤務専従者、赤旗記者、党員文学者などの間では“公然の秘密”ですが、誰も表立っては言いません。その秘密度合いは、『私の21日間の監禁査問体験』で書いたように、愛知県での箕浦准中央委員・県副委員長・名古屋中北地区委員長が自ら形成した箕浦グループ、別名「喫茶店グループ」の県・地区最高指導者私的分派の公然度と同じレベルです。愛知県党内でも、代々木党本部内でも、それを言えば、瞬時に密告され、規約第2条8項違反『党の内部問題を党外にもちだした』規律違反(=他の専従党員に話すこと)、または分派容疑で査問されます。

宮本側近グループ・私的分派リスト

名前

出身

14回大会党内地位、1977

20回大会党内地位、1994

任務経歴

諏訪茂

宮本秘書

常任幹部会員

1972年、宮本捏造による民青新日和見主義分派査問委員、15回大会常任幹部会員。死去

宮本忠人

常任幹部会員

常任幹部会員

書記局次長、機関紙局長

小林栄三

宮本秘書

常任幹部会員(中央委員から2段階特進)

常任幹部会員

文教部副部長、袴田政治的殺人「小林論文」執筆と粛清担当、教育局長、法規対策部長、思想建設局長、書記局員、山形県猪口県委員の粛清担当、『日本の暗黒』連載中断での下里正樹赤旗記者解雇・除名の粛清担当

小島優

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

書記局員、日常活動局長、統制委員会責任者、長期に赤旗編集局・拡大部門担当

白石芳郎

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

書記局員、選挙・自治体局長、文化・知識人委員会責任者

宇野三郎

宮本国会秘書(宮本参議院議員時期)

中央委員

常任幹部会員

社会科学研究所長・党史資料室責任者、『党史』編纂責任者、宮本意向の理論化担当、党批判者・反党分子への反論部門担当、『民主文学四月号』問題での宮本意向を受けた民主文学同盟幹部粛清担当

金子逸

宮本秘書

常任幹部会員

宮本ボディガードで身辺防衛担当、書記局次長

佐々木陸海

宮本秘書、宮本議長室室長

常任幹部会員

国際委員会責任者、衆議院議員、書記局次長

上田均

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

財務・業務局長

有馬治雄

宮本秘書、宮本議長室室長

常任幹部会員

書記局次長、選対局次長

有働正治

宮本秘書

幹部会委員

選対局次長、『前衛』編集長、参議院議員

吉岡吉典

宮本秘書

准中央委員

幹部会委員

赤旗編集局長、政策委員長

 1977年の第14回大会とは、後述の袴田全役職剥奪をした大会です。袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書は、その功績を高く評価され、常任幹部会員へと2段階特進しました。1994年の20回大会とは、宮本引退前の大会です。宮本秘書出身者のかなりを常任幹部会員に抜擢し、側近グループ・私的分派を土台とする宮本個人独裁は絶頂期に達していました。

 大会では、(1)ソ連は崩壊したが、冷戦は続いているとする「冷戦崩壊否定論」とその大キャンペーン、(2)自分が活躍した戦前の党活動への批判は一切許さないとする「丸山真男批判」と大キャンペーン、(3)14の一党独裁国中10カ国が一挙に崩壊した弁明として“社会主義をめざす国ぐにと社会主義をめざす道にふみだした国ぐに”とする「社会主義国の新規定論」、(4)宮本高齢化による引退要求噴出抑圧を目的とした「党規約に『誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である』語句挿入など、宮本式『満月の歌』を披露しました。ただし、これら4つとも、まったく不評で、党内外からバカにされ、現在では党内で(1)(2)(3)の歌を詠む人は一人もいません。(4)は、党内異論粛清の利用価値があると活用されています。このメンバー以外にも、宮本側近グループと党本部内で言われている幹部が数人います。いずれも宮本氏に大抜擢され、幹部会員、常任幹部会員となり、党中枢部門を担当し、宮本氏の周辺を固めました。

 これは、“前衛党最高指導者が自ら形成する私的分派”です。この現象は、宮本氏固有のものではありません。徳田・野坂氏も、『党史』で認めているように、50年分裂当時、党勢力の約10%の宮本分派を排除して、90%からなる主流派分派を作り、地下へ潜りました。90%を『分派』と呼ぶのは変ですが、宮本式『党史』では、“勝てば官軍”で、『徳田・野坂分派』と規定しています。徳田氏は、その分派のなかで、中野重治がいうように、さらに『家父長的』側近グループを作り、『北京機関』によって日本国内での武装闘争を指揮しました。県・地区党機関レベルでも、箕浦准中央委員は、北京密航組2000人からなる『北京機関・人民艦隊』出身メンバーの一人として、徳田氏、宮本氏を見習って、箕浦グループ・「喫茶店グループ」という私的分派を作りました。

 さらに、国際的には、スターリン、ホーネッカー、チャウシェスク、毛沢東、金日成など“前衛党最高指導者が、正規の党執行機関と別個に作る私的分派形成”の具体例にはことかきません。ただ、その分派構成には、それぞれ特徴があります。スターリンはエジョフ、ベリヤなどOGPU、NKVD秘密政治警察を分派中心メンバーにしました。ホーネッカーも秘密警察シュタージ幹部中心の分派をもちました。チャウシェスクの場合は同族支配と秘密警察セクリターテ中心の私的分派でした。毛沢東は奪権闘争戦術として天才的発想で、公然と「紅衛兵」分派結成を呼びかけ、文化大革命を10年間行いました。金日成は抗日パルチザン派に依拠して、中国帰り延安派、ソ連帰りモスクワ派、国内派を粛清して、パルチザン派分派、秘密警察と一体化した異様なまでの個人独裁を確立しました。

 宮本氏の手には国家権力という暴力装置はなく、彼は秘密政治警察を持てません。しかも50年分裂当時、党勢力の約10%しかなかった宮本派にとって、6全協党統一後も他有力幹部は徳田・野坂派にいたライバルたちでした。彼にとって、党内独裁権限をより強化するための宮本私的分派構成メンバーは、宮本氏に絶対忠誠を誓い、宮本指令を裏切らず、無条件執行することが証明された宮本秘書たちが唯一・最高の対象者でした。これら側近グループメンバーが、袴田氏に“自殺遺書”を書かせるために、さらにその後も袴田政治的殺人に向けて、代々木党本部内でどのような雰囲気づくりをしたかは、第二幕でのべます。

 以上が袴田氏が“政治的自殺遺書”を書かされた3つの要因です。ただ、除名後のマスコミ発表で、袴田氏はその理由を具体的に発言していません。この3つ以外の動機があるかどうかは不明です。

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第二幕 政治的殺人急迫と第1回正当防衛発言

    袴田「自己批判論文」発表から宮本批判発言まで

 これは、1976年6月10日「自己批判論文」発表から1976年12月袴田氏の常任幹部会における宮本批判発言までの期間のことです。この6カ月間には、2つの側面があります。

 第一の側面は、「自己批判論文」発表による袴田氏の党本部内権威の自動的・劇的崩壊です。彼の党内権威の根拠は、1960、70年代時期の表立った党活動、理論活動への貢献にはなく、もっぱら戦前最後の中央委員としての党活動に依拠していました。それは「年表」にある時期のことです。そして、スパイ査問事件関係者6人中、非転向現存当事者の一人であり、特高・検察のデッチ上げとたたかった英雄としてのイメージでした。ところが、その陳述内容が『不正確』で、“宮本陳述のように、一切なかった筈の暴行”についても『一定の系統的な暴行なるものを自認』しており、かつ、検挙後闘争方法でも『密室審理には応じないとする決定に違反する誤り』をも犯しているのです。それらが1976年時点でのマスコミの集中砲火のなかで、党にとって最大のウィークポイントになっているというのです。しかもその二重の誤りを自らも認め、自己批判まで公表したのでした。袴田氏の権威、栄光のよってたつ基盤が完全崩壊しました。代々木党本部の副委員長室にいても、党内での“窓際族”に転落し、党本部勤務800人の専従たちからは、軽蔑、侮蔑の眼で見られ、居場所がなくなりました。

 共産党専従は、『ゆううつなる党派』で書いたように4000人いますが、党本部には1000人(朝日新聞調べ)、または800人(中日新聞への党広報部1999年回答)がいます。共産党専従者集団とは、日本革命を起こすことを職業とする職業革命家集団で、略称「職革」とも言われ、マルクス・レーニン主義(=“科学的社会主義”と呼称のみ変更)で理論武装した思想集団です。鶴見俊輔がよく『共産党はプロテスタントの一種である』『宮本顕治はローマ法王である』と発言しているように、それは出家宗教家集団と多くの類似性を持つ思想信仰集団ともいえるものです。宗教との類似性については、第五幕で分析します。

 そのような職業的思想集団にとって、袴田氏が自ら認めた陳述内容と闘争方法の二重の誤りは、警察・予審における“実質的な転向”と同じであり、裏切り行為です。スターリンの粛清裁判「論告求刑」風にいえば、『党最高幹部の顔を長年装ってきた、党内に巣食う「人民の敵」』です。「人民の敵」は野坂参三がもう一人いましたが、「スパイ」「山本懸蔵密告者」として仮面が剥がされるのは、この16年先の1992年、ソ連崩壊1年後のことでした。800人から1000人の党本部専従者たちの、袴田氏への蛇蝎(だかつ)を見るような目つき、態度から、彼は自分の権威、栄光の崩壊どころか、宮本氏一人だけが真実を貫いた英雄となり、自分は“裏切り者”“転向者”扱いに転落したことに気付かされました。この党本部内袴田政治的殺人の雰囲気づくりは、宮本委員長の緻密な指令に基づいて、側近グループをフル稼働させて、精力的に行われました。

 第二の側面は、「自己批判論文」という“二重の誤りを認めた自白調書にサイン”させた以上、袴田政治的殺人プログラムのさらなるヴァージョンアップを図ることです。なぜなら、陳述・裁判資料が大量に出版、報道されており、それらを読んだ党員には『なぐるける位はあったのではないか』『すべてデッチ上げというのはおかしい』とする素朴な疑問、批判がかなりあったからです。袴田真実をウソとし、宮本ウソを真実とする『宮本陳述内容100%真実説』を40万党員頭脳にインストールしきるには、さらなるヴァージョンアップが絶対必要でした。それらの疑問、批判を党内に残したままでは、それが何かのきっかけでいつ噴出してくるかわかりません。40万党員をこの宮本式ペテンにかけるには、その徹底性こそが求められました。(1)その14日後の1976年6月24日には、袴田批判の長文の赤旗解説記事『正義の闘争の光は消せない―袴田調書を悪用する策謀にたいして』が出されます。()同年6月、宮本氏は、袴田批判記事の一方で、自ら赤旗で自己讃美を行い、『特集、宮本委員長獄中闘争物語』連載を開始し、その月だけで7回も載せました。(3)さらに、同年9月、「文化評論9月号」で、小林栄三中央委員・元宮本秘書が、『スパイの問題をめぐる平野謙の「政治と文学」』という長大な袴田批判論文を発表しました。以下これを「小林論文」とします。

 「小林論文」では、袴田氏も言っていない“意図的な”“計画的な”という文言まで捏造して、『一定の系統的、意図的、計画的な暴行なるものを自認したかのような陳述』と断定しました。器具搬入・存在という〔第1の事実問題〕についても、関係者6人の誰も陳述していないウソの新事実を挿入しました。それらによって、袴田陳述内容を全否定し、宮本陳述内容と『すべて事実無根のデッチ上げ』宮本発言を論証するウソと詭弁を全展開しました。この論文は、実は、宮本委員長と元秘書との共同執筆、あるいは、宮本原文を共同で練り、元秘書名義で発表したとも推測できるのです。推測根拠を3つのべます。

 〔根拠1〕、1976年1月から9月までのマスコミの宮本攻撃にたいし、宮本氏自身の反論は『すべて事実無根のデッチ上げ』という談話や2つの短い論文程度のもので、9月以降もこの論文ほどの内容的にまとまった反論を一度も出していません。ところが、この論文にだけは、事件当事者の宮本氏でないとわからないような査問開始2日間での細部の状況が、微妙な歪曲とウソをともなって随所に挿入されています。この論文は、袴田氏を陥れる論理と詭弁術の緻密さの点で、他論文・赤旗記事と比べて際立っているだけでなく、その後の無数の論文・記事の原典的役割を果たした重要論文です。これは、その後「新日本新書」版でも中心論文として扱われました。宮本ウソ・詭弁があまりにえげつないので、発表者はワンクッション置いて別人の元秘書名義にしたということです。そこでのウソと詭弁内容については、「スパイ査問問題意見書」〔第2の誤り、詭弁的論理使用〕で詳細な分析をしてあります。

 〔根拠2〕、さらには、当時、元秘書は一介の中央委員にすぎず、その上には常任幹部会員14人をふくむ幹部会員32人もがいるのに、それだけ重要な内容の論文を一中央委員名で発表させたのには、宮本本人という“逆ゴーストライター”がいたと考えられるのです。「逆」という意味は、普通は有名人名で出版された本の裏に無名のゴーストライターがいるというケースの反対ということです。

 〔根拠3〕、さらにまた、宮本氏は自分が直接批判されると、自己執筆反論文や記事を自ら名乗らずに他幹部名で発表してウソをつき通すという卑怯なくせがあり、この論文発表スタイルも同類だからです。他幹部名で発表する狙いは、宮本本人だけの強弁でなく、党中央全体が一致して宮本ウソを真実としているぞと誇示することにあります。宮本ウソがかなり話題になった典型的な例を一つだけあげます。ルーマニア問題でのウソですが、彼のウソを論証するため以下少し長くのべます。ルーマニア革命でチャウシェスクが倒されたとき、彼はそれ以前にルーマニアに2回も訪問し、チャウシェスク賛美、チャウシェスク同族支配と秘密警察セクリターテ網が完備した社会主義体制賛美を行っていました。崩壊後それを党内外から強烈に批判されました。しかし、自らは簡単な談話で『あの当時はわからなかった』『あの時点では正しかった』と強弁し、一方で自己正当化の自己弁護論文や赤旗記事を他幹部名で発表しました。そのときの内容も、今回と同じく、2回訪問者本人でないとわからないような微妙なウソと強弁がいっぱい入っていました。自己の言動を100%正当化するあまりの強弁ぶりに、東欧革命高揚を背景として彼を真面目に批判した党外のジャーナリスト、文化人たちもあきれはてて、笑ってしまい、今後真面目な宮本批判をしても無駄だとあきらめたほどでした。

 あまりものウソと強弁に見るに見かねて、厳名康得・元赤旗ルーマニア特派員は『あの当時、委員長はわかっていた』『あの時点での訪問と賛美は誤りだった』とする強烈な内部告発を、離党後、当時の「サンデー毎日」「月刊現代」で行いました。厳名記者は、宮本氏の第2回訪問の1978年当時、ブカレスト駐在で、チャウシェスク同族支配と秘密警察セクリターテ網状況を把握し、党中央に定期報告していました。なぜなら一党独裁国に派遣された資本主義国前衛党機関紙特派員は、相手国から一種の外交官待遇を受け、赤旗掲載記事を送るだけでなく、国内情勢、党内情勢や秘密警察システムなどについての情報収集とその別途報告特殊任務を日常的に果たしているからです。その外交官的任務については、萩原遼・元赤旗平壌特派員の3冊の著書や、加藤長・元赤旗ヨーロッパ特派員責任者著書にも書いてあります。宮本氏は、1978年訪問前に、当然厳名記者のルーマニア定期報告文書を読んでいて、チャウシェスク独裁ぶりやセクリターテの実態を十分知っていた上で、このウソと強弁を押し通したのです。

 宮本ウソを証明するもう一つの事例をあげます。朝日新聞朝刊連載小説、作家高橋のぶ子『百年の預言』は、ルーマニア革命を背景にしたもので、私はいつも愛読していました。その1999年7月15日付連載の一節を載せます。その前後関係の説明は省略します。

 『「こちらに赴任されたことは知っていました。早く御挨拶したかったのですが、監視がきつくて、御迷惑をかけたくなかったものですから。この車内は、何を喋っても大丈夫です。ブラショフの件は、有り難うございました」。「そんなに盗聴は、凄いのですか」。ブラショフ行きの依頼の仕方といい、ブラショフの黒い教会での接触方法といい、真賀木には何か、ミステリー小説もどきの非現実感しかなく、緊張や高揚より、最近は誇大妄想にルーマニア全土が掴まっている気がしていた。しかし、バルバレスコの警戒は当然だったのだ。作者の手元、いまここに、ルーマニア革命を、国民の個々の心の面から推進させたと言われる一冊の本がある。チャウシェスクの側近であり対外情報局(DIE)の副長官であったイオン・ミハイ・パチェパが米国へ亡命し、自分が高宮として直接携わっていた内部状況を『赤い王朝』(住谷春也訳、恒文社)の中で暴露している。それによると、巨大な盗聴システムはDGTOと呼ばれ、マイクと電話の傍受、全国の郵便検閲を運営し、個人の家庭、公共施設、<西>の大使館や代表部、無線やテレックスの通信も対象とし、ここを走るNATOの通信もモニターしたという。チャウシェスクは、ルーマニアのあらゆる組織内部につくられたセクリターテの大軍より、住宅地域をくまなくカバーする<ブロック別><街路別>の情報提供者委員会より、DGTOを政権維持の有効な武器と考えた。その結果一九七八年三月には、オートメ化された電子監視センターの中央施設が十、周辺施設が二百四十八、その他千以上のポータブル装置が、小都市、保養地、景勝地や修道院をカバーし、郵便検閲施設は四十八に膨らんでいた』(注、太字は私・宮地)

 厳名記者は、この状況も当然文書報告していたのです。宮本氏は、自分のウソが現地特派員の手で具体的に暴かれたことに怒り心頭に発し、厳名記者内部告発を「反共攻撃」ときめつけ、同氏への報復的人身攻撃をしました。このルーマニア問題での宮本ウソと強弁については、加藤哲郎一橋大学教授が、『日本共産党への手紙』(教育史料出版会)のなかの『科学の真理の審問官でなく、社会的弱者の護民官に』で詳細な事例で検証をし、宮本批判を行っています。この書籍を松岡英夫氏とともに編集・出版した有田芳生氏にたいし、宮本氏は即座に査問をし、彼を報復除籍しました。もちろん加藤哲郎氏にたいしても、様々な批判を浴びせ、ぬかりなく報復をしました。自分のウソが暴かれたとき、ウソを認め、反省するのでなく、逆に、暴いた者に「反共攻撃」「反党分子」「反革命」レッテルを貼りつけ、徹底した報復を加えるのは、14の一党独裁国前衛党最高指導者に共通する権力者資質です。その点で、宮本氏は彼らに匹敵する、すぐれた権力者資質をもつ前衛党指導者といえます。

 小林中央委員は、宮本側近グループという、14の一党独裁国のほとんどにある前衛党最高指導者私的分派の一人でしたが、グループ内で委員長と元秘書とは、絶対的な主従関係にあります。共同執筆でも、宮本原文清書と名義貸しでも、グループ内独裁者の「特殊任務」指令には服従せざるをえません。彼は、この論文以外でも、他幹部、記者を動員して、赤旗に無数の無署名記事、党史班の記事を連日掲載・指導する上で、委員長の片腕・忠実な指令執行者として中心的役割を果たしました。彼の役割から、私は、袴田政治的殺人事件は委員長一人だけでなく、元秘書が共犯者であると判定し、この文全体でも『宮本、小林氏ら』としています。私が「スパイ査問問題意見書」をなぜ書いたか、その理由の一つに、委員長と元秘書2人の「文化評論9月号」論文のウソ、詭弁、袴田政治的殺人意図のあまりのひどさに、同時進行中の私の体験ともあわさって、そういう殺人手法は絶対許せないと考えたからです。

 これらのヴァージョンアップされたウソ、詭弁追い討ちに会って、袴田氏は、宮本・不破・宮本側近グループによる(1)スターリン大粛清式説得と、(2)打撃的リゴリズム批判の連日連夜密室審理の両面作戦に動揺し、スパイ査問事件の真実・真相に反する“自白調書”にサインし、赤旗公表を認めたことの甘さを痛感しました。それが“自殺行為”であり、宮本・小林ワナに嵌まって、彼らに政治的に殺されたことを悟りました。しかし、時すでに遅く、副委員長、常任幹部会員という党内地位はまったく形骸化していました。頭のいい宮本氏、だまされた、あわれな袴田氏という結末で、戦前からの旧友関係は、宮本側からの冷酷な、一方的破棄で破綻を迎えました。

 このような代々木党本部内での《急迫した》政治的殺人行為にたいして、1976年12月、袴田氏は第1回正当防衛として、総選挙直後の常任幹部会で宮本批判発言をしました。《急迫した》とは、刑法上、目前に迫った不正な法益の侵害にたいして、自己の権利を防衛するために、やむをえずなされる《正当防衛反撃》が認められる条件についての法律用語です。《正当防衛反撃》とは、そこに違法な行為がふくまれていても、急迫した侵害にたいする自救行為として罰せられないものです。袴田氏の常任幹部会での宮本批判発言は、、正規の会議での発言ですので、規律違反ではありません。たとえ、袴田氏が、《急迫した》政治的殺人行為を受け、党本部他専従にその殺人経過やその批判を話したとしても、それは正当防衛反撃の一つとして《違法性阻却事由》となり、規約上でも規律違反に問われないとする法解釈、規約解釈が成立します。

 ちなみに、党内における「正当防衛反撃の正当性」理論は、宮本氏が、70年安保、東大安田講堂封鎖のとき、積極的に提起し、その実行を直接指揮したものです。新左翼派学生が、封鎖反対・解除方針の東大民青を何度も襲撃したのを受けて、宮本氏は、全国から1万人の民青、学生を動員し、全額共産党資金でその滞在費だけでなく、1万本のゲバ棒、鉄パイプを準備し、いわゆる「ゲバ民」を組織し、“武力闘争”を実行させました。「ゲバ民」とは、共産党提供の豊富な資金により、鉄パイプで武装した、全国動員のゲバルト民青1万人の略称です。その理論的基礎が「正当防衛」論で、論旨は『これは正当防衛なので、民青1万人を東大に動員し、1万本のゲバ棒で武装するという違法性は阻却され、鉄パイプで殴り返すのは法的にも正当である』とするものでした。これは、暴力革命路線理論の一種であり、いつも隠蔽している『敵の出方論』の応用編、実践編でした。『敵の出方論』については、『共産党と5つの選択肢』文末の「第五選択肢」で詳述しました。宮本氏は、その理論を「赤旗」で公然と言うのは都合が悪いので、1万人部隊に口頭で徹底させました。当時の「ゲバ民」行動隊長だった宮崎学氏は『突破者』(南風社)第一部「秘密ゲバルト部隊」(P.133)で、そのゲバ戦闘をリアルに描いています。宮本氏の直接点検の様子、一夜でのゲバ棒撤収指令については、当時現地「ゲバ民」指導部責任者川上徹氏が『査問』(筑摩書房P.37)で具体的に記しています。

 

第三幕 袴田“口封じ”査問10カ月間と密室完全犯罪の成功

   袴田査問10カ月間と全役職剥奪まで

 これは、1976年12月、袴田氏の宮本批判発言、宮本氏による即座の報復“口封じ”査問開始から、1977年10月第14回大会での袴田全役職剥奪までの10カ月間のことです。

 1976年12月5日、総選挙での前回39議席から19議席への惨敗は党内に衝撃を与えました。袴田氏は、総選挙直後の常任幹部会で、袴田政治的殺人急迫への第1回正当防衛行為として宮本批判の発言をしました。彼の批判発言とそれへの応酬は1日では当然決着がつきません。その批判内容は、党中央発表がないので不明です。1976年12月5日総選挙結果判明瞬間時点、袴田氏の選択肢は3つありました。

 〔選択肢1〕は、代々木党本部内で、“ありもしない「暴行」について、特高デッチ上げに迎合陳述をした者”“事実上の転向者、変節者”“袴田がいるためにマスコミから集中攻撃され、現在党にとって最大のウィークポイントになっている「人民の敵」”扱いされ、何の権威、栄光もなくなっても、副委員長・常任幹部会員として形骸を残し、代々木副委員長室で“生ける屍”として晩節を全うする。党本部所有権の住宅に住み続けることを許してもらい、党から“口封じ手当”としてお情けの生活費を恵んでもらう。

 〔選択肢2〕は、2つの事実問題について、自己批判を撤回し、『自己批判論文』破棄を宣言し、上記《第二選択肢》の党としての採用をを主張し、常任幹部会内で徹底してたたかう。

 〔選択肢3〕は、総選挙での、前回39議席から19議席への議席惨敗結果にたいして、宮本氏、選対関係者の政治責任、個人責任を追及し、常任幹部会内だけでなく、選挙総括の幹部会会議、中央委員会総会で発言してたたかう。惨敗結果について、一般的な総括内容だけでなく、また、大々的な反共宣伝のせいだけにするのでなく、2つの事実問題での宮本委員長と常任幹部会の政策選択の誤りに原因があるとの主張を展開する。その上で、さらに突っ込んで、《第二選択肢》のたたかいにも重点を移して行くことです。

 袴田氏は、〔選択肢1〕の“生ける屍”の道を拒否し、まず、〔選択肢3〕を突破口として、〔選択肢2〕へも展開していく道を選び、12月総選挙直後の常任幹部会会議で、宮本批判・個人責任追及発言をしました。当然、彼は、宮本批判の賛同者を求めて、幹部会、中央委員会総会でも、規約に基づく正規会議での党内批判権利行使をする構えでした。この意図と行為は、宮本、不破、小林らによる袴田政治的殺人意図とその不法行為にようやく気付いた袴田氏が、その密室審理殺人のワナを打ち破るための“正当防衛権の行使”であり、まったく当然の正しいものでした。それは、何の規律違反でもありません。

 「日本共産党の七十年」には『袴田は、七六年十二月の総選挙直後の常任幹部会会議で、突然、党と党指導部を攻撃したが、まもなく、規律違反問題があきらかになってきた。調査過程で、袴田が以前から党にたいする誹謗中傷を無規律におこない、党中央に反対する同調者をつくる分派活動をおこなっていた事実、さらに重大な規律違反として、党にかくれて七七年一月、ソ連共産党中央委員会(当時、日本共産党への覇権主義的干渉の全面中止と両党開係の回復をめぐって緊張した交渉がおこなわれていた)に個人的使者を送っていた事実などがあきらかとなった』(P.72)となっているだけです。しかし、すぐ後に開催予定されている、総選挙総括議題での、幹部会会議、中央委員会総会でも袴田氏が提起することは明らかでした。

 惨敗原因は単純ではありません。いくつかある敗因の一つに、大々的な反共宣伝による有権者の共産党離れがあります。他方、党側要因としては、『犬は吠えても歴史は進む』式反撃大キャンペーンの内容、やり方が、有権者に肯定・否定のどういう影響を与えたかがあります。反共反撃自体が正しかったということと、その対応の仕方が正しかったか、誤りだったかということとは、厳密に区別する必要があります。宮本委員長の選択した『すべて事実無根のデッチ上げ』《第三選択肢》は、関係者6人の陳述調書、公判資料が基本的にすべて公表、出版されている状況の下では、“党中央のいかなる決定、方針も絶対正しい”とする一部の“党中央忠誠派党員”以外の、国民・有権者への政策的説得力はなきにひとしく、、それどころか逆に有権者の反感をかいました。“忠誠派党員”について、ソルジェニーツィンは『収容所群島』で、不思議な、理解不能な思考スタイルの囚人として、多数の事例をあげています。それは、スターリン粛清で、無実で強制収容所に入れられても、党と祖国のためには、収容所システムが必要だとして、なおスターリンを信仰し、収容所管理者側共産党員に積極的に協力する囚人たちのことです。

 有権者は、反共宣伝によって離れた部分だけでなく、(1)2つの事実問題完全否定の硬直性、(2)反共反撃の独善性、(3)『犬は吠えても歴史は進む』題名のように立花氏を“特高の犬”に見たてた人身攻撃の低劣さ、C宮本個人崇拝傾向の異様さに反感をもって、共産党から離れた部分の方が多いのです。この総選挙結果と総括内容の誤りについては、「スパイ査問問題意見書」〔第四の誤り〕で詳述してあります。

 当時も、袴田陳述を直接読んだ大部分の党員は、『査問で、なぐるけるなど一切なかった』という宮本発言を信じてはいませんでした。ただ、私のようにその《第三選択肢》政策対応は、党内にたいしても、有権者にたいしても、ウソをつくという重大な誤りであるとして、「スパイ査問問題意見書」を提出しなかっただけです。あるいは、私以外にも「意見書」を出した党員がいたかもしれませんが、不明です。その総選挙直後の党内状況で、袴田氏の宮本批判行動と発言内容が、常任幹部会密室以外の党内に漏れでたら、どういう事態が起きるでしょうか。宮本、不破氏らは、それに重大な危機感をもち、瞬時に、定石どおりの“前衛党式危機管理マニュアル”を発動させました。“マニュアル”に基づいて、批判発言者に査問通告をすれば、会議出席権、発言権、その他の党員権一切を査問期間中剥奪できるからです。これは、袴田発言の“口封じ”査問として、緊急事態発生時における“前衛党最高指導者・最高執行機関防衛ガイドライン(指針)”に基づく基本対応でした。袴田発言のあった常任幹部会日付が12月5日投票日の何日後かということと、袴田氏に査問通告をした日付が発言の何日後かは、党側発表がないので、特定できません。

 ただ、宮本批判発言後、瞬時に報復的“口封じ”査問をしたという私の推理には、疑問をもつ方もあるでしょう。その根拠を3つのべます。一つは、総選挙惨敗結果による党内の衝撃度が高く、その上に袴田発言を幹部会会議、中央委員会総会でも自由に認めれば、それが漏れ出て、党内の動揺が一挙に増幅することが想定されました。そうなれば、重大な党内危機の発生です。なぜなら、《第三選択肢》とは、“宮本ウソを真実とし、袴田真実をウソとする演出宮本、主役小林元秘書、敵役袴田、舞台装置・観客動員総監督不破の一大ペテン劇”だからです。袴田氏の“口封じ”をするには、査問通告がもっとも簡便な手段で、それも直ちに行う必要がありました。

 二つ目は、上記「党史」の記述です。そこには『袴田は、七六年十二月の総選挙直後の常任幹部会会議で、突然、党と党指導部を攻撃したが、まもなく、規律違反問題があきらかになってきた。調査過程で…』となっていることです。『調査過程で』とは、査問開始のことです。規約では、“査問”という用語を使わず、『調査』としています。『まもなく、規律違反問題があきらかになって』とは、批判発言後まもなく袴田氏への査問だけでなく、袴田同調者リストへも下記にのべるスタイルの査問をしたことを意味しています。

 三つ目は、党最高幹部への批判者を瞬時に“口封じ”査問することは、14の一党独裁国前衛党最高執行機関の党運営不文律になっています。そのシステムは上級機関内だけでなく、国民、末端の幹部にいたるまで確立されています。スターリン粛清では、手紙検閲、盗聴、密告によって、共産党批判者、スターリン批判者は即座に逮捕され、拷問され、銃殺または強制収容所送りになりました。ソルジェニーツィンは、友人への手紙で、スターリンの名前を書かずに、それとわかる批判的文言を書いただけで、検閲で見つかりました。砲兵大尉肩章を瞬時に剥ぎ取られ、独ソ戦戦場から強制収容所へ直接連行され、本人欠席裁判で8年の刑を宣告されました。中国の『ワイルド・スワン』著者の父親は、文化大革命について毛沢東批判の手紙を党中央に提出し、その配達手続き中の手紙検閲にひっかかり、瞬時に逮捕、査問され、長期の拷問を受け、中国式強制収容所「労改」に入れられました。コミンテルン型前衛党の一つである日本共産党も同じ党運営不文律をもっています。

 次の疑問は、袴田氏の規律違反行為についての明確な証拠、密告もないのに、査問通告をして党員権剥奪ができるのかということです。これも『ゆううつなる前衛』で16項目にわたり、批判者排除システムと査問システムで分析したように、前衛党の党運営の深部で常時行われているやり方です。まず、職業革命家4000人のなかで、中央委員、県委員、地区委員という党機関役員は過半数います。常任幹部会員、都道府県委員会常任委員、地区常任委員という3レベルの党執行機関役員は、事実上の上意下達式独裁執行権限をもち、千数百人から二千人います。それらにおいて党内出世主義意識が形成される仕組みと実態については、『私の21日間の監禁査問体験』で書きました。資本主義社会の大会社と同じく、“前衛党職業的思想信仰集団”内においても、最高権力者にたいする“忠誠派”、中立派、批判派・面従腹背者が存在します。

 むしろ、民主主義的中央集権制という反民主主義的・上意下達的閉鎖組織の中では、出世主義意識は強く形成されます。最高権力者は、自分にすりよってくる、かわいい忠誠者と、党決定は実行するが自分を崇拝しない幹部との見分けはすぐつきます。自分への批判者がいれば、その仲間や同調者たちも、鋭い嗅覚で分別できます。袴田氏は、この1976年12月当時、第一幕、第二幕では、屈辱を味わい、『自己批判論文』を心ならずも書いた後で、宮本・小林・不破氏らの殺人意図に気付いたとき、彼らへの強烈な憤りを覚え、その怒り・不満を誰かに漏らすのは当然です。これは、彼らの卑劣なだまし討ち反党行為にたいする正当防衛行為で、なんの規律違反でもありません。この4年前に民青新日和見主義分派問題をねつ造し、600人以上の民青、学生、ジャーナリスト幹部を一挙に査問し、自己批判書を書かせ、そのうち100人近くを無実の分派活動規律違反口実で処分、粛清した宮本氏は、不満者・批判者をリストアップする嗅覚の点ではもっともすぐれた前衛党幹部でした。小林栄三中央委員も、宮本秘書時代や様々な粛清事件担当経験で、また宮本側近グループの一員として、“宮本忠誠者”とそうでない幹部とを見分ける嗅覚を研ぎ澄ますトレーニングをマンツーマンで受けてきました。

 宮本・小林・宮本側近グループという鍛えられた、鋭い嗅覚保持者たちにとって、袴田氏が不満・批判を漏らしたであろう代々木内専従者のリストはすぐ頭に浮かびます。袴田氏に査問通告をする前、あるいは、“口封じ”査問通告をまずしておいて、そのリストのメンバー数人を個々に呼びつけます。そしていきなり『規律違反の疑いで、または、他の同志から報告(=密告のこと)があったが、袴田同志に会ったり、電話した月日、どういう内容を言ったかすべて話しなさい』『ただし、この事件は重大なので、あなたはしばらく自宅に帰れない。この瞬間から一切の電話も禁止する』『手帳、ノート、持ち物すべて今出しなさい』と監禁査問通告をすればいいのです。7、8人をこのスタイルで査問すれば、半分以上は、すべてを“自白”し、“自白調書(自己批判書)”を書きます。袴田同志が話した不満・批判内容とその行為は、規約第二条八項違反(=他の専従という“党外”に批判を話した規律違反)とねつ造認定します。

 スターリン、エジョフ、ベリヤらは、ありもしない分派活動容疑で、ソ連共産党員100万人を、ソルジェニーツィン『収容所群島』によれば32種類の拷問にかけ、“自白調書”を書かせました。宮本氏は、4年前に600人を無実の分派活動規律違反をねつ造して、全員に“分派活動の自白調書(自己批判書)”を書かせました。その経験と比べれば、この人数程度なら、宮本私的分派にとって、いとも簡単なことです。しかも、本物の最高指導者私的分派が、中野重治指摘内容の『分派的やり方』をふまえて、査問対象者たちの“ありもしない分派をねつ造し、自白させる”わけですから、自分たちの分派経験によって査問追求のポイントもよく心得ています。この袴田査問開始で、何人の監禁査問をしたのかは、「党史」のいう『袴田の分派活動』の具体的内容と分派メンバーリストが何も公表されていないので、不明です。袴田分派が存在したかどうかも不明です。なぜなら、民青新日和見主義分派問題では、民青中央・県レベルにおいて、共産党中央の対民青方針への意見、批判は存在したものの、“分派”などなにも存在しなかったことは、川上徹著『査問』(筑摩書房)、油井喜夫・民青静岡県委員長著『汚名』(毎日新聞社)で、白日のもとにさらされたからです。

 「党史」に断定されているような『袴田の分派活動』が存在したかは、民青新日和見主義分派ねつ造のからくりと同じです。

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00126.jpg

 こうして、宮本、不破、側近グループらは、電光石火の報復査問と査問期間中の党員権停止をしました。前衛党の査問システムと4つの容疑対象については、『ゆううつなる前衛』後半の「査問システム」で分析してあります。ただ、この手口は、従来袴田氏自身が、宮本氏の片腕、よごれ役の粛清担当者として、(1)「新日本文学」関係者粛清、(2)「社会主義革命論」者粛清、(3)「構造改革論」者粛清、(4)ソ連派粛清、(5)中国派粛清などにおいて、他の常任幹部会員、幹部会員、中央委員らにたいして幾度もやってきたことでした。6全協党統一後の宮本・袴田2人は、理論発表担当宮本、首切り担当袴田と表裏の役割分担をするという盟友関係でした。表向きの“きれいな手”は宮本、裏方の“汚れた手”は袴田という分担でした。それは、レーニンとジェルジンスキー、秘密警察チェーカーの表裏関係、スターリンとエジョフ、ベリヤ、国家保安委員会OGPU、NKVDの表裏関係、毛沢東と汪東興、警衛局の関係、チャウシェスクとミハイ・パチェパ、秘密警察セクリターテの関係、ウルブリヒト、ホーネッカーと秘密警察シュタージ長官らの関係とまったく同じでした。レーニンとジェルジンスキーの表裏関係については、『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』後半で分析してあります。少し脱線すれば、高村薫著推理小説『レディ・ジョーカー』におけるビール会社社長と総務担当・総会屋・暴力団担当重役の表裏関係にも共通するものがあります。

 袴田氏は、百人以上にたいしてやってきた、卑劣な“口封じ”査問と同じやり方で、今度は自分がやられることに思い至らなかったのでしょうか。これも疑問として残ります。それとも、宮本・袴田の表裏分担関係が、いつのまにか宮本・小林元秘書の表裏関係に移行してしまっていたことに、“愚かにも”気付いていなかったのでしょうか。キャロル・リード監督の『邪魔者は殺せ』という、アイルランドIRA幹部の末路をダブリンの街並をバックに、白黒のすばらしい陰影で描いた映画があります。『第三の男』の前身をなす白黒映像美です。ここでも、革命組織内の邪魔者を殺す非情性の点で、優れた権力者資質をもつ宮本氏と、自分が邪魔者になってきたことをようやく悟らされた袴田氏の“べらんめえ口調演説”タイプとの対比が浮き彫りになったといえます。

 宮本、小林、側近グループが、私的分派グループ会議を開いて、袴田“口封じ”査問手口の細部にわたる私的合意をしました。宮本批判発言直後だけに、袴田のどんな抵抗があるかわかりません。党内では、総選挙惨敗結果への動揺が広がっています。「清算主義分子」宮地は、一介の愛知県党勤務員で、とるにたらない存在にしても、今まで数百人の専従全員がおとなしく“泣き寝入り”してきた警告処分・専従解任に抵抗して、前代未聞の第14回大会「上訴書」を提出し、その上に、なんと長大な「スパイ査問問題意見書」までも1977年4月に提出という反宮本行動を起こしています。緊急招集の臨時常任幹部会で、戎谷春松統制委員会責任者が報告します。『袴田同志に重大な規律違反の疑いがある。規律違反容疑は4つある。よって袴田同志を調査する(=査問にかける)。直ちに一切の党員権を停止する』。袴田氏以外の常任幹部会員13人全員が即座に賛成しました。4番目の容疑は、野坂参三スパイ説での袴田行動で、野坂スパイが明らかとなった1992年以降、宮本氏は「党史」から“袴田氏の正しい行動内容”を削除・隠蔽しました。袴田氏は、この時以降、1977年10月第14回大会までの10カ月間『調査中』で一切の党員権を停止されました。

 規約用語では、査問を『調査』、党員権停止を『制限』としています。規約第62条は『調査審議中のものは、第3条の党員の権利を必要な範囲で制限することができる。ただし、6カ月をこえてはならない』としています。『6カ月』期間については、分派容疑で6カ月間停止、ソ連共産党問題で6カ月停止という、特高のたらい廻しと同じやり方ができるのです。その査問形態が、自宅に帰宅させない監禁査問形式なのか、通勤査問形式でしたのかは不明です。また、査問期間は、10カ月間だけではありません。「日本共産党の六十五年」(P.393)では、『七七年十二月下旬、かねてから規律違反で調査中の袴田里見が「週刊新潮」に〜発表』とあるように、彼らは、査問を4つの容疑で12カ月間にわたって継続していたことを明記しています。「日本共産党の七十年」では、『かねてから』だけ削除するという小手先細工をしました。ただ、『かねてから』の意味が、365日間途切れなく継続していた査問なのか、断続的なものかは不明です。

 一体、1年間にわたる査問継続・党員権停止とは何なのでしょうか。立花「年表」にあるように、波多然氏は1934年無実のスパイ容疑で37日間、不破哲三氏ら3人は1951年無実のスパイ容疑で約60日間、私は箕浦ねつ造の無実の分派容疑で21日間、川上氏は宮本ねつ造の無実の分派容疑で13日間、油井氏は宮本ねつ造の無実の分派容疑で4日間、袴田氏は4つの容疑でなんと365日間前後です。大泉・小畑氏は1933年スパイ容疑で2日間で査問中断でした。これらの査問形態は、不明の袴田査問以外は、すべて監禁査問でした。この監禁査問スタイルは、私の21日間の監禁体験からみて、『調査』イメージをはみ出した、資本主義国前衛党・日本共産党による共産党員への、まぎれもない肉体的拷問の一種そのものです。このなかで、私は正式に名誉回復しましたが、それは愛知県「指導改善」民主化運動高揚と宮本氏が“理由なき召還”をした当初の党中央派遣メンバーのお蔭です。

 1977年10月、第14回大会での〔袴田案件〕は、4つの容疑で査問継続中の袴田氏の処遇でした。宮本、不破、小林氏らは、大会で袴田氏の全役職を剥奪しました。共産党の役員選出のやり方は、『ゆううつなる党派』の第一で分析したように、トップダウン式お手盛り決定で、“選挙、選出”という日本語を詐称した、純然たる役員任命システムです。彼らは、袴田氏の党大会出席権も『査問中』ということで剥奪していました。常任幹部会員といえども、党大会代議員になるには、いずれかの県に指名して“上り”の県党会議の党大会代議員候補者リストに載せてもらわなければなりません。彼らが、袴田氏の指名をどの都道府県委員会にもしなければ、袴田氏は規約上、党大会代議員およびそこでの発言権はありません。袴田氏の出席を認めて、万一彼が常任幹部会での宮本批判と同じ趣旨を発言などしたら、党大会は大混乱に陥るでしょう。

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第四幕 党大会後も袴田査問継続と第2回正当防衛反撃のマスコミ公表

   袴田全役職剥奪後も査問継続とマスコミ公表

 これは、1977年10月、第14回大会での袴田全役職剥奪から、1977年12月、「週刊新潮」でのマスコミ公表までの2カ月の期間です。

 党大会での袴田全役職剥奪のからくりを検討します。袴田氏は、副委員長、常任幹部会員、幹部会員、中央委員を兼任していました。党大会役員選考委員会で、袴田氏を“非推薦”とすれば、いとも簡単にそれらすべてを“合法的に剥奪”できるのです。宮本氏は、彼を「名誉幹部会員」にも推薦しないという『邪魔者は殺せ』式の見事な非情さを貫きました。袴田「中央委員非推薦」とは、自動的に全役職剥奪になります。しかし、袴田批判が、赤旗、「文化評論」などで掲載されているにしても、まだなんの処分もされてない以上、「非推薦」はきわめて不自然で、それを党大会で押し通そうとすれば、かなりの質疑、異論が出ることも予想されました。宮本氏は、1972年民青新日和見主義分派問題で、“2人分派、3人分派という新分派基準”を偽造し、600人監禁・帰宅査問と内100人処分という日本共産党史上最大規模の“謎”の粛清事件・対民青クーデターを、全国一斉に整然と執行しました。

 その用意周到さで、今回も、『前衛第14回大会特集』にあるように、次の熟練した粛清手腕を発揮しました。(1)まず自らを党大会役員選考委員長にお手盛り任命しました。(2)宮本委員長『冒頭あいさつ』を野坂議長『開会あいさつ』の10倍の長さで行いました。(3)役員選考委員長の立場から『役員選考委員会の報告と中央委員会の役員推薦名簿についての提案趣旨説明』(P.174)を「前衛」8ページ分の異例の長さで詳細に報告しました。(4)『名誉中央役員、顧問』『中央委員会の機構と人事』(P.251)も自ら報告しました。(5)もちろん、各都道府県党からの党大会代議員宿舎への“袴田非推薦問題の質疑封殺”のための根回しも手抜かりありません。その結果、(6)党大会では、袴田非推薦の質疑、意見などは一切出ず、満場一致の見事な“シャンシャン大会”となり、“一枚岩の党”を国民とマスコミに誇示しました。(7)『前衛第14回大会特集』には、「袴田」名前をどこにも載せない、“完全な袴田消し”をしたとき、袴田氏は71歳でした。(8)一方、宮本氏は、小林元秘書を、袴田政治的殺人の論功行賞で、中央委員から常任幹部会員に2段階特進させました。この“闇から闇へ”式殺人の実行者は、宮本、不破、小林氏ら3人でした。なかでも、宮本氏は、政治的殺人のための用意周到さ、手口の緻密さ、読みの鋭さなどにおいて、熟練した手腕をもつ、偉大な前衛党指導者です。

 ただし、ここでの疑問として次の点が残ります。彼ら3人は、全役職剥奪という密室完全犯罪の功罪、成功度をどう評価していたかです。レーニン・スターリン式銃殺で肉体的抹殺をしてしまえば、「死者に口なし」で面倒は起きません。しかし、生命を奪わないままで、『2つの事実問題で、真実を陳述したのは、宮本氏ではなく、自分の方だ。ただし、説得と強要で、偽りの「自己批判書」を書かされた』と思っている袴田氏を、何の逃げ道を残さない所まで追い詰めれば、そのリアクションとして袴田氏の第2回目の正当防衛反逆を引き起こすかもしれないことを想定しなかったかという疑問です。それとも、マスコミへの発表という反逆パターンもシミュレーションずみの政治的殺人プログラムだったのかという疑問です。

 宮本、不破、小林氏らは、第14回大会での袴田全役職剥奪に成功しましたが、袴田最終抹殺まで手を緩めず、なお2つの容疑で査問を継続していました。第3の規律違反容疑は、1977年1月袴田氏がソ連共産党に個人的使者を送ったとする“外国共産党への内通・スパイ容疑”です。その容疑は、『1977年1月』という年月と、『個人的使者』とあるだけで、彼らは、使者名、口頭なのか文書なのか、単なる交友通信なのか内通情報なのか、ソ連共産党側の誰とあったのかなどについての詳細を公表していません。一体1976年9月、「自己批判論文」発表で、代々木党本部内自己権威が劇的崩壊した袴田氏が、12月常任幹部会での宮本批判発言の1カ月後に、ソ連共産党への何か役に立つ裏情報を提供できたとは、とても考えられません。しかも強固な決意で行った批判発言1カ月後に行ったとされる『使者』について、袴田氏が査問過程で、自ら“自白”したとも考えられません。ところが、この『個人的使者』とは、増山太助氏のことでした。増山氏は『戦後左翼人士群像』(つげ書房新社)で、当時、観光旅行としてソ連に行き、そのことで『使者』疑惑の査問を受けたが、事実無根と、繰り返し主張しています。その著書を読むと、第3容疑と党史記述内容が、まったくのでっち上げによるものだということが、よく分かります。

 さらに彼らは、袴田氏を第4番目の規律違反容疑でも査問していたのです。「日本共産党の六十五年」(P.394)では『野坂議長をスパイとしておとしいれる陰謀を、一九七〇年から七年間にわたって、日系米人ジェームズ・小田なるあやしげな人物(元米軍情報部員)と組んですすめてきた事実』を第4項目として挙げています。ところが実は、野坂氏が本当にスパイであり、山本懸蔵を密告(=銃殺)したことが、1992年ソ連崩壊1年後のソ連共産党・コミンテルン秘密資料や、「野坂ファイル」を発掘・分析した小林俊一・加藤昭『闇の男・野坂参三の百年』(文芸春秋社、1993年)で明らかとなりました。袴田氏の第4項目行動は正しかったのです。宮本、不破氏らはその証拠書類、野坂密告手紙を突き付けられて、コミンテルン資料をしぶしぶ真実と認め、野坂氏を除名するとともに、1994年発行の「日本共産党の七十年」では、袴田氏の第4番目の規律違反容疑項目をすべて削除してしまいました。殺人・抹殺対象者袴田氏の“正しかった行動”は、「党史」から完全削除せよというのが、“宮本個人崇拝党史”記述方式の基本です。

 ただし、そのやり方は、宮本氏固有の方式ではなく、14の一党独裁国前衛党「党史」にも完全に共通する特徴です。有名な話ですが、スターリンは、「党史」だけでなく、十月革命時点でレーニン、トロッキー、自分がともに写った歴史的写真から、トロッキー、カーメネフら被粛清者だけを削除した偽造写真をねつ造し、堂々と公表し、歴史そのものを偽造していました。自分の恣意的党史観で、「党史」内容を自由に改竄(かいざん)し、かつ、宮本個人崇拝的文言を挿入できるようにするため、彼は側近グループの一人、宇野三郎元国会秘書を常任幹部会員にするだけでなく、党史編纂責任者にも大抜擢していました。自分の側近グループを党運営根幹部署にそれぞれ配置する点でも、宮本氏はさすがに手抜かりのない、全権力掌握タイプ指導者です。

 そもそも、「党史」と呼ばれる文書がいかなるものかについては、埴谷雄高氏が『1930年代のコミンテルンと日本支部』(添付資料)で、きわめて文学的表現で規定しています。興味ある方はお読みください。この第4容疑では、袴田氏は自分の野坂スパイ判断はまったく正しいと思っているので、彼らから『他の××同志がそれを報告した。事実と認めるか』と詰問されても、報告(密告)内容のねつ造手口が分かりきっているので、“自白”することもありません。第4容疑で、袴田氏の行動は正しかったと判明するのは、1992年という15年後です。よって、この時点では、被査問者・全役職剥奪者袴田が、第3、第4容疑で“自白”しないため、宮本批判への報復査問が365日前後も『かねてより』継続されるというまったく異様な事態になったのです。

 袴田氏にとって、第1『党への誹謗中傷』規律違反容疑については、宮本批判を党本部専従の誰かに話したとしても、その批判内容は正しく、それは袴田政治的殺人への正当防衛行為として規律違反などに該当しません。しかも、『誹謗中傷』レッテルは、従来、宮本、袴田、不破、井田氏らが、日常茶飯事に党中央や自分たちへの『正しい批判内容』をすり替えて貼ってきたものです。彼らによる、いくつかの、正しい批判内容すり替えレッテル貼り手口を挙げます。

 (1)1967年愛知県「五月問題」で、裏切り・密告者が出た途端、箕浦准中央委員は、2年後「正しかった」と名誉回復された私たちの4項目民主化要求を『特定幹部(=自分のこと)組織的排除の分派活動』とするレッテルにすり替えました。(2)1971年上記U氏、I氏の井田県委員長への愛知県政・名古屋市政政策問題批判を、上田耕一郎→宮本→井田ルートで『批判行為も内容も誤りで、規律違反』というレッテルにすり替え、U氏専従解任をしました。(3)1975年上記私の1分間発言行為で、発言内容は真実と県常任委員全員承知の上で、井田幹部会員は『行為が規律違反というだけでなく、発言内容もすべて事実でない』とのレッテルを鉄面皮にも貼り、私を警告処分・専従解任・点在党員措置の“三重殺”にしました。(4)『汚名』著者油井氏は、1972年民青静岡県委員長のとき、新日和見主義「宮本偽造2人分派3人分派」容疑により、代々木党本部で4日間監禁査問され、党静岡県委員罷免と党員権1年停止の処分を受けました。その後3年間は、静岡県直属点在党員という“格子なき牢獄”に収監されていました。

 油井氏は、1994年第20回大会に「訴願委員会の運営民主的拡充意見、離党者へのあと追い処分問題、党内紙誌での公開討論提案」の「意見書」を提出しました(P.277)。提出「意見書」中、40/367通の不掲載の一つにするとの電話が、大会事務局からありました。そのやりとりのごく一部を抜粋します。『「あなたの意見は、党内問題だから公表するわけにはいきません」。「冗談ではありません。党内問題を議論するのが党大会ではないのですか」。「冗談? あなた、そのいい方は誹謗・中傷ですね」』。『「提出された意見を公表しないような措置をとるから、閉鎖的で党のイメージが暗くなるんじゃないですか」。「ウッフッフ。暗くねえ」。「そういう理由で私の意見書を公開しないとは思いませんでした。意見の抑圧になりませんか」。「あなた、それは誹謗・中傷ですね」』。『「とても納得できません。私の意見書は三つにわかれています。二項目と三項はあなたのいう党内問題にふれないと思います。ですから一項を除いた部分を掲載してください」。「それもダメです」。「それもダメとは、いくらなんでもひどいではないですか。無茶苦茶ですよ」。「無茶苦茶? それは誹謗、中傷ですね」。「あなた、誹謗・中傷などと、そう軽々にいうものではありません。私は事実にもとづいて自分の意見を述べているのです。意見拒否になりますよ」』。第20回大会規約改定『誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である』挿入文言案が、大会開催前から、このような形で執行されました。

 このやりとりほど、不破哲三委員長の外側向き「柔軟路線」Smiling Communist仮面の裏側にある党内向き「異論抑圧・粛清路線」のパロディ的全面開花を象徴的に示すものはないでしょう。スターリンは、レーニンから『最後の闘争』を仕掛けられたにしても、基本的に彼の忠実な弟子として、レーニン神格化手法で一党独裁・異論者粛清路線を継承しました。それと同じく、不破氏も、宮本路線を引き継ぎ、多くの『レーニン賛美解説書』を精力的に出版し、表・裏を巧みに使い分け、裏側での宮本式異論者粛清も冷酷に遂行できる能力を備えた、偉大な前衛党指導者に立派に成長しました。

 第2『分派活動』規律違反容疑にしても、彼が宮本裏方・首切り担当として粛清した幹部百数十人は、明確な別の路線、政策を持ち固定的メンバーの会議で方針を決めていた“形をなした、文字通りの分派”でした。宮本式「2人分派3人分派という偽造新分派基準」を正統分派粛清経験者の自分に当てはめるなどの陰謀は問題外です。民青・学生の未経験な“若造たち”は、監禁査問通告と分派レッテル脅迫ですくみ上がってしまうが、自分はそんな偽造分派レッテルには騙されるものかとの自負があります。

 一方、宮本、不破、2段階特進小林常任幹部会員ら査問者側にとって、この第3、第4容疑は、袴田が自白しようがしまいが、他専従の“自白”という「袴田除名=党外排除」の決定的状況証拠を掴んだことになります。スターリンは、共産党幹部への32種類の拷問による“他幹部の分派、西側スパイ活動の自白”ねつ造証拠だけで、共産党員100万人を銃殺、強制収容所送りしました。まず『袴田自己批判論文』によって、党内で政治的に抹殺することに成功しました。第14回大会で、全役職剥奪をして、党機関内排除にも成果を収めました。査問継続中の第3「ソ連共産党のスパイ」、第4「アメリカ情報部員のスパイ」という“2カ国のスパイ”反党規律違反で除名する党外排除にエスカレートさせることができます。袴田“自白調書”などなくても、他専従の“自白”状況証拠だけで、スターリン式に簡単に除名できます。

 『宮本ウソを真実とする一大ペテン芝居』《第3選択肢》を完成させるための、『真実をのべた』袴田政治的殺人の“最後のとどめを刺す”最終段階を迎えました。第14回大会は1977年10月22日に閉会しました。彼らは、無役の袴田を、代々木党本部副委員長室から当然のように追い出しました。袴田氏は、上記U氏や私のときと同じように、私物を風呂敷包み一つにまとめて、党本部内査問部屋に収監されました。査問部屋では、“ソ連共産党、アメリカ情報部という2カ国のスパイ行為の自白”を一段ときびしく追及されました。ソ連派、中国派を『ソ連共産党、中国共産党のスパイ・内通者』として、百数十人粛清し、党から追放してきた体験をもつ袴田氏は、このままでは、『宮本ねつ造の2カ国スパイ』として除名、追放されるだろうと、自分の“死期”を悟らざるをえません。そうなれば、副委員長室から追い出されただけでなく、党本部に所有権がある現住居からも、スパイとして虫けらのように追い立てられるのも目に見えていました。

 他方、スパイ査問事件で大宣伝してきたマスコミは、袴田全役職剥奪処刑を見て、その真相を求めて、袴田氏に猛烈な取材申し込みの攻勢をしかけました。もちろん、袴田氏がインタビュー、手記に応ずれば、相当の謝礼を出すという条件つきです。袴田手記は、その週刊誌の売上を大幅に伸ばす、高い商業的価値がありました。

 全役職剥奪処刑を受け、『かねてから調査中の袴田は〜』と365日前後に及ぶ異様な長さの査問と党員権停止をされ続け、かつ、『2カ国のスパイ・内通者』として最後のとどめを刺される“死期”を悟った袴田氏に、残された道はいくつあったでしょうか。〔選択肢1〕、一切をいさぎよくあきらめ、全役職剥奪処刑、スパイ除名、住居追出しに従う。2つの事実問題での宮本陳述内容が『真実』なら、『特高のデッチ上げに乗ぜられた陳述』をした自分がすべて悪いとする。〔選択肢2〕、2つの事実問題では自分の陳述内容が真実だが、宮本、不破、小林らの陰謀に乗ぜられて、『自己批判論文』を書いてしまったのが、取り返しのつかないミスであった。よって、その後の経過には、泣き寝入りする。ただ、宮本、不破、小林氏らに懇願して、スパイ除名だけは取りやめてもらい、宮本氏の“お情け、戦前からの同志のよしみ”で生活費だけは支給してもらい、党本部所有の住居にも住まわせてもらい、ひっそりと晩節を全うする。〔選択肢3〕、『自己批判論文』公表は、自分の人生最大の誤り、甘さだったが、その後の宮本、不破、小林氏らのやり方は絶対許せない。政治的殺人急迫にたいする第2回正当防衛権の行使として、一切の経過をマスコミに発表してたたかう。袴田氏は、(1)(2)の道を拒否し、マスコミ公表の道を選択しました。党中央の出版業界内情報網は、公表の事前情報を入手しました。彼らは、直ちに袴田氏を除名しました。

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第五幕 批判キャンペーンによる社会的抹殺殺人の大展開

    袴田除名と5つの作戦、4つの逆説

〔小目次〕、 《逆説1》 《逆説2》 《逆説3》 《逆説4》

 これは、1978年1月3日袴田除名から、『反共毒素一掃キャンペーン』と、そのなかでの「クリーンパンフ」560万部販売を集約した1979年7月までの1年7カ月間の期間です。

 1978年1月3日、常任幹部会は袴田氏を除名し、赤旗に発表しました。宮本、不破、小林氏らは、袴田政治的殺人の最終段階に取りかかりました。それは党内密室殺人の次のステップとしての、袴田社会的抹殺《作戦(1)》から《作戦D》でした。この1カ月前から始まった、宮地社会的抹殺《作戦(1)》から《作戦C》との比較がありますが、私への作戦は、宮地『日本共産党との裁判』第6部に書きました。

《作戦1》、『袴田の尾行・張込みを連日、()カ月間行え』

 私にたいして、1カ月やったくらいですから、袴田氏にも当然やっています。袴田宅へのマスコミ関係者来訪が、かなりありましたので、袴田尾行・張込み成果はあがりました。しかし、その尾行・張込み実態や期間は不明です。

《作戦2》、『袴田の妻を査問せよ。妻が応じないときは、「反共毒素」の片棒担ぎとして徹底的に排除せよ』

 私の妻には、名古屋中地区委員長が、10日間近く毎晩電話をかけ、『あんたが党員である以上、夫の裁判をやめさせよ! 地区へ出頭せよ!』と怒鳴り続けました。地区へ出頭して来ないとして、職場での“シカト”と、居住地域での“前衛党式村八分”にかけました。袴田氏の妻にも、同じことをした筈ですが、内容は不明です。「党史」には『袴田とその妻の転落と破廉恥きわまる党攻撃』となっているだけです。

《作戦3》、『“前衛党式シカト・村八分”の徹底で、袴田の過去の担当部署、居住地内影響力を封殺せよ』

 「党史」に『袴田の党への中傷誹謗、分派活動』とあるように、代々木党本部内で袴田氏が批判、不満をもらしたと疑われる専従を一人残らず査問しました。『中傷誹謗、分派活動』というからには、当然その相手となる容疑者が一定数存在した筈です。宮本、不破、小林氏らの「批判分子を見分ける特殊嗅覚」、民青新日和見主義分派問題600人査問・100人無実の処分で証明済みの「存在しない、無実の規律違反、分派デッチ上げ能力」からすれば、そのリストアップと監禁査問通告は容易でした。彼らの「デッチ上げ能力」のデテールは、私への2つの専従解任理由、2つの除名理由デッチ上げ手口の詳細な解剖の通りです。しかし、被査問者の人数、査問後の処分、専従解任有無をふくめ、《作戦(3)》の具体的内容はまったく不明です。

《作戦4》、『袴田を家から追出せ。それに応じないときは、「住居立ち退き民事訴訟」を起こせ』

 私の民事訴訟は、原告宮地、被告日本共産党です。袴田夫妻が住んでいる住宅は、党に所有権がありました。「住居追出し訴訟」は、原告日本共産党、被告袴田夫妻とした民事訴訟です。この裁判は、強力な共産党員弁護団をつけた共産党側の勝訴となりました。ただ、その裁判経過、判決後の経緯については、新聞でときどき出ていた記事以外は不明です。彼らは、私の民事訴訟にたいして、「前衛党員が前衛党中央を民事裁判に訴える」のは『国際共産主義運動史上一度もない。前代未聞のこと』と怒り狂いました。しかし、宮地裁判開始数カ月後の「住居追出し訴訟」は、「前衛党中央が昨日までの前衛党員・党副委員長を民事裁判に訴える」もので、私に貼ったレッテルを、逆に自分に貼りつける行為です。彼らが、「住居追出し訴訟」は当然の権利で正しいと力むなら、「私的結社内の市民的権利侵害事件で私が訴えた専従解任不当民事訴訟」も当然の権利で、正しくなるのです。

《作戦5》、『「反共毒素一掃キャンペーン」で、袴田を社会的にも抹殺せよ』

 ソルジェニーツィンの場合は、一党独裁国の、完璧な情報統制社会において、全国家機関・全党組織・全大衆組織・全プレスが、彼を『祖国の裏切者』ときめつけて、「反ソ毒素・反レーニン毒素一掃キャンペーン」を大展開しました。その記事・放送回数や量は、集計もなく不明ですが、想像を絶するものでした。たった一人の人間にたいして、一党独裁国のすべての機関・組織・プレスが、これほどの規模、レベルで攻撃キャンペーンをしたのは、トロッキーとソルジェニーツィンにたいするものだけです。対サハロフ攻撃のも大キャンペーンですが、これほどではありません。

 袴田氏にたいして、宮本、不破、小林氏らは、(1)赤旗・党雑誌における、1年7カ月間での数百にも及ぶ記事掲載、(2)赤旗全戸配布チラシ数回で、1億数千万枚配布、(3)反共毒素を暴いたとする「クリーンパンフ」560万冊販売、(4)袴田反共毒素問題を中心内容とした「時事講座」880カ所、約11万人参加、(5)全国無数の屋内演説会・街頭演説会開催などのスケールで、袴田社会的抹殺を図りました。しかし、この日本共産党史上最大規模の一大キャンペーンの本質については、いくつかの疑惑があります。以下その疑惑について、私の4つの《逆説》をのべ、論証します。

《逆説1》、『反共毒素』名称は、袴田氏の「宮本個人批判」という性格をすりかえた、宮本式詭弁レッテルである。

 《作戦D》キャンペーンは、袴田氏の言動を「反共毒素」と名付けて行われました。しかし、彼のマスコミでの公表内容は、ほとんどが「宮本批判」です。宮本憎しの個人向け批判であり、戦前から『党とともに歩んで』きた共産党そのもの、共産党綱領や政策、マルクス・レーニン主義向けの批判をふくんでいません。したがって、あえて袴田氏の公表内容を「毒素」と規定するのであれば、それは「反共毒素」ではなく、「反宮本毒素」なのです。袴田氏による宮本党運営問題点への批判には、かなり正しく、適格なものがありました。宮本氏は、マスコミが正確に「袴田vs宮本」と規定している図式が、党内でも同じように受け止められるのを嫌い、怖れました。なぜなら、その図式のままでは、40万党員の考えが、「袴田と宮本のどちらがウソをついているか」というテーマに収斂されていき、そうなれば、本当は2つの事実問題でウソをついている宮本氏の詭弁にボロが生じ、宮本側に不利になってしまうからです。

 国民の大部分は『宮本ピストルと細引はあったが、他の器具は一切なかった』『なぐるけるなど何もなかった』とする宮本側がウソであると、当然のように見抜いていました。そもそも、宮本ピストルと細引が査問会場にあったのに、斧・針金・硫酸瓶の何もないとのウソには、国民はそんなに騙されるわけがありません。しかし、宮本氏にとって、国民がどう考えようと関係はないのです。彼にとっては、40万党員の考える方向こそが、自分の党内権力基盤を安定させるものであり、したがって、「スパイ査問事件めぐる2人の個人的対決」とするマスコミ図式が党内に浸透することに、強烈な恐怖心と危機感を抱きました。「どちらがウソか」というマスコミ図式から、「袴田の反共攻撃か、宮本を先頭とする党防衛か」とする図式にすりかえることが、自分の政治生命を賭けて、絶対に必要となったからです。

 そこで、『袴田は共産党そのものを批判している』『われわれ全党員を誹謗中傷している』と、いつもの詭弁術で「反共毒素」名称に巧妙にすりかえました。ただ、「反共毒素」というと、立花連載以降の全マスコミ宣伝と袴田公表内容の両者をともにふくむとする見解もあるでしょう。しかし、「反共毒素」という宮本式日本語は、袴田除名以降のものであり、かつ、袴田言動に限定して使われました。それ以前は、『犬は吠えても歴史は進む』として、立花氏を「犬」と規定し、その観点を「特高史観」としており、「反共毒素」という日本語は使っていません。したがって、袴田除名後は、『犬は吠えても歴史は進む』式反撃キャンペーンと『袴田反共毒素一掃』キャンペーンの二本立てになったのです。

 私のように、立花連載開始以後の宮本、袴田、小林氏らの対応に一部重大な誤りがあると感じて、スパイ査問事件での公表された全資料を読み、袴田氏のマスコミ公表内容も基本的に読んだ者は騙されません。しかし、当時の40万人近くの党員と赤旗HN326万読者のかなりの部分は、宮本、小林氏らの熟練した詭弁術に苦も無くひっかかりました。そもそも、世界の共産党員は、大規模な一斉反共攻撃からの“党防衛戦闘”となると、党最高指導部に、いつにもまして結集し、すばらしい戦闘力、行動力を発揮するという基本的特性があります。この特性が、宗教戦争、民族紛争でも顕著に出るのは、よく知られている通りです。宮本氏の名称すりかえは、党員心理を利用した、最高テクニックの詐術でした。さらにそれは、立花連載以降のマスコミ「反共」宣伝と、袴田氏の「反宮本」批判とを、差し替えて、40万党員に錯覚させる詐術です。「反共」攻撃および「宮本」攻撃との戦闘なれした宮本テクニックはさすがなものです。さらなる《逆説》は、この「反共毒素」と名付けられた者の方が、2つの事実問題では真相を陳述しており、その名付け親の方が、真相と異なるウソをついているということです。

 もっとも、この前衛党式詭弁術は、宮本氏のオリジナルなものではなく、レーニン仕込みのものです。レーニンは、『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』で分析したように、十月革命栄光の拠点ソヴェトであるクロンシュタット・ソヴェトの民主化要求と赤軍水兵・家族55000人を、トハチェフスキー司令官率いる赤軍5万人で殲滅・銃殺しつくしたとき、「相手の白を黒、自分の黒を白」とする鉄面皮な詭弁術を使いました。中野徹三教授大藪龍介教授(添付資料)論文でも、レーニン詭弁術が分析されています。共産党による丸山真男批判においては、『1930年代のコミンテルンと日本支部』で列記したように、宮本氏、不破氏、志位氏らは、実に華麗な3人揃い踏みの詭弁術を披露しました。

《逆説2》、大規模な《作戦5》キャンペーンは、表面的部分的なもので、作戦の大部分をなす《作戦1、2、3、4》の実態は裏面に隠蔽され不明である。

 彼らが、《作戦1》から《作戦4》までを行ったことは、私の1カ月前からの体験と比べて、間違いありません。ところが、表面に見えるのは、《作戦5》キャンペーンの5つの内容、規模だけです。私は、袴田氏のマスコミ公表内容やその理論的レベルには、彼の「自己批判論文」発表を批判したように、いろいろ批判をもっています。私の批判の一つは、袴田氏が宮本憎しで、宮本氏のエピソード的批判レベルにとどまり、戦後の党活動の裏面史とか、彼らの《作戦1、2、3、4》の具体的内容を明らかにしなかったことです。『スパイ査問事件で、小畑が死亡する寸前には、宮本が柔道の締め技を小畑の背中から掛けた』とか『獄中にいるとき、宮本百合子がいつもスクランブルエッグを差入れ、宮本はそれを一人占めして食べていた』とかいうエピソード的内容は、それなりに興味がもてる、知られざる挿話でしたが。

 《作戦》の全貌から見ると、《作戦5》キャンペーンは、海面上に現れている氷山の一角にすぎません。氷山の大部分を占める4つの《作戦》内容は、タイタニック号が衝突し、沈没の原因となった、海面下氷山部分のように、「常任幹部会氷山」海面下の暗闇に隠れていて、当事者の一方である袴田氏以外には解明できないのです。上記に、私にたいする、彼らの《作戦1、2、3、4》の全体像を、事細かに、くどいほど書いたのは、私のケースから、それに類似した袴田氏ケースの「常任幹部会海面下氷山部分」を類推していただく目的によるものです。袴田氏には、当時、マスコミという公表の場があり、《作戦》全体像を、正当防衛として明らかにする絶好のチャンスに恵まれていました。同時進行形の私には、そのような場はありませんでした。私は、その23年後に、インターネット・ホームページという公表の武器をやっと手に入れたのです。

《逆説3》、「党史上最高」の大動員・点検体制は、対外宣伝のためではない。それは、「宮本ウソ」への40万党員の疑惑・批判抑圧、「袴田真実」への党内動揺阻止という、「ウソの宮本」自己保身を真の目的とした党内向け大作戦であった。

 「時事講座」とは、袴田除名・毒素問題を全党員に徹底させるための、事実上の党内学習会でした。当時、党員数は、「公表40万人近く」ですが、『日本共産党の党勢力、その見方考え方』で党員を4つの層に分類したように、名簿だけの未結集党員がかなり多く、党費納入党員は30万人以下でした。これは、私の地区常任委員体験からの推計です。「時事講座」参加者約11万人とは、そこで分類した中央・県・地区役員と支部LC総数の10万人に相当します。それは、公表数では28%、党費納入党員では37%です。1年7カ月間で「クリーンパンフ」560万冊販売については、党費納入党員では一人当り19冊、指導部クラス10万人では一人当り56冊も販売したことになります。その上に赤旗全戸配布チラシを数回、1億数千万枚配布しました。これは、選挙戦や党勢拡大運動と同じく、むしろその期間以上にきびしい日報・週報・月報の点検体制を伴って、『党防衛戦闘』として激烈に行われました。

 陣頭指揮した宮本氏らが指示した点検項目は、(1)「クリーンパンフ」読了党員数、(2)その販売冊数、(3)「時事講座」名称の“毒素クリーニング技術の研修講習”への参加党員数、(4)全戸配布チラシの配布数などです。未読了、未販売、未参加の党員への対策を点検会議で詰めます。“毒素クリーニングパンフ”の販売実績が少ない支部にたいして、地区は『一体、この党防衛戦をどう思っているんだ』『敗北主義だ。日和見主義だ』と打撃的思想批判をします。支部LCたちは、そのスタイルの追及に耐え兼ねて、『××冊「普及」しました』と報告し、実際は自腹を切って“買い取り”もします。行政区ブロック(地区補助機関)→地区→県→中央と、(1)(2)(3)(4)の数字的成果が集計されていき、今度は逆ルートでその数字だけによるの評価が上から下へ降りていきます。数字のよい県・地区委員会は、「先進」とされ、悪い県・地区には中央から「激励・指導」という打撃批判が降り注ぎ、県委員長、地区委員長は満座の前で自己批判を強要されます。その「先進」と「激励・指導」スタイルは、支部指導までストレートに貫徹されます。この動員・点検体制が1年7カ月間継続されました。

 560万冊「普及」は、宮本氏らが、「党史」で『党史上最高』と誇示しているように、上記の驚異的党内大動員がなされたことを証明しています。これらは、私の県選対部における選挙時の全県動員体制づくり体験から見てもすごい数字的成果であるとともに、それはかつてないほどの『党史上最高』の全党組織、全党員動員・点検体制が敷かれた結果の数字です。これだけの大動員・点検体制を敷いた表向きの目的は、従来は、オウムのサリンのように国民に広く撒布された、袴田氏の反共毒素をクリーニングすることだと、彼らは宣伝し、それによって“忠誠派”党員は心底からその“宮本・小林式詭弁術”を信じました。『袴田が特高のデッチ上げに迎合した陳述をした』のであって、『宮本ピストルと細引以外の器具は存在しない』『なぐるけるなどの暴行は一切ない』とする宮本陳述のみが正しいと思い込みました。

 それでは、『党史上最高』の動員・点検体制1年7カ月間継続の裏側にある、真の目的について推理します。やや長くなりますが、2つの事実問題について袴田・宮本がなぜ正反対の陳述内容になったかの疑問から入ります。私が「スパイ査問問題意見書」で分析したように、2つの事実問題では、袴田陳述内容の方が真相に近いものでした。宮本氏は、当事者の一人として、その真相を当然ながら分かっています。治安維持法等被告事件で、宮本被告の第1審裁判は、宮本・袴田・秋笹3人の6回の併合審理後、宮本腸結核療養により長期中断されていました。宮本再開公判は1944年9月で、その終了の第14回公判は同年11月25日でした。1934年事件発覚から10年間も経ってから再開されたときは、「年表」にある検挙年月順でいえば、大泉、逸見、木島、秋笹、袴田ら他の5人の裁判も当然終了し、すべて確定判決がすんでいた時点でした。

 再開公判審理で、裁判長、検事らは、宮本被告が裁判終了済み他5人の警察聴取書、予審陳述調書、公判陳述調書、確定判決文、2つの鑑定書などすべてを閲覧することを許可しました。宮本被告は、それらをすべて読んで、分析した上で、自分の“たった一人取り残された法廷闘争戦術”を決断しました。この許可、分析事実は、小林氏らが認めています。裁判長、検事らは、スパイ査問事件関係者6人中、腸結核療養により、判決が残っていた一人を、実務処理上公判審理、確定判決形式をし、事件裁判の終結処理をしたかっただけです。彼らの意図は、第14回公判結審11月25日で、その10日後の12月5日に早くも宮本確定判決が出され、1942年の袴田確定判決文内容と1944年の宮本判決内容と比べれば、字句上の若干の変化以外はまったくの同文であることからも証明できます。被査問者大泉を除く、他4人全員にたいして、スパイ査問事件での「小畑外傷性虚脱死(外傷性ショック死)有罪」確定判決が、袴田・秋笹中央委員の予審・公判闘争にもかかわらず、同一事実認定の確定判決で出てしまっている以上、小畑・大泉査問経過における2つの事実問題について、宮本被告一人が、治安維持法法廷において、いくらがんばっても、彼らの公判再開意図から見て、他5人への事実認定を覆すことは、まったく不可能でした。

 そこで、スパイ査問事件当時26歳でコミンテルン日本支部中央委員、再開公判時点37歳の宮本被告は、不当な治安維持法裁判システムと、特高・検察の「スパイリンチ、殺意、殺人」デッチ上げへの抵抗政策として、2つの事実問題にたいして、真相とは異なるが、全面否認するという陳述方針をとったのです。その抵抗方針は、敗戦1年前の1944年時点では、正しく、英雄的なものでした。一方、袴田被告が、それ以前の上記にのべた宮本被告とは大きく異なる検挙時状況において、拷問を一つも受けないのに、自ら査問2日間の経過真相を予審・公判で積極的に陳述して、特高・検察の『指導権争いによる殺人』『リンチ、殺意、殺人』デッチ上げ粉砕のためにたたかい、古畑再鑑定を勝ち取った陳述方針も正しく、英雄的なものでした。

 これら2つのデッチ上げ項目を確定判決までに一定粉砕しえた功績は、袴田中央委員、秋笹中央委員(予審非転向、公判途中で転向、獄中死去)2人のもので、宮本中央委員はその面では、再開公判が一人だけ遅れたためになんの成果も上げていません。私の「スパイ査問問題意見書」冒頭にあるように、袴田・宮本2人の陳述範囲は、17項目あります。そのうち、15項目が完全または基本的に一致しており、「2つの事実問題」の2項目だけが正反対になっています。なぜその2項目だけが正反対なのかという謎は、事件関係者6人中、宮本被告の第1審公判だけが、宮本腸結核で大幅に遅れたことと、他5人の裁判が終了してしまっているということの判断に基づく、宮本被告の弾圧に屈しない抵抗精神から説明できます。

 ところが、1976年に立花連載が始まり、平野謙氏によって袴田調書が全文公表されるにおよんで、「2つの事実問題」とその“リンチ性”が一挙に再浮上しました。マスコミも一斉にその問題に飛びついたなかで、17項目中2項目における『袴田陳述の真実内容vs宮本陳述のウソ内容』の相違を、なんらかの形で解決しなければならない所へ宮本氏は追い込まれたのです。その解決方向として、《3つの選択肢》が存在しました。その《第三選択肢》を選んだことによる必然的プロセスの話からは、この文の冒頭に戻ります。宮本氏の誤った《下策》選択は、袴田政治的殺人とそれへの袴田氏の正当防衛反撃を連鎖的に引き起こす悲劇的な結末へ進みました。1933年12月の小畑氏死亡は不幸な出来事でしたが、袴田・宮本氏の2人が43年も前の「スパイ査問事件」という亡霊に再び取りつかれるのは、しかも今度は査問者側の2人が政治的殺人攻撃をやりあうというのは、悲劇以外のなにものでもありません。

 袴田氏が、宮本、不破、小林氏らによる党内密室政治的殺人の《急迫行為》にたいして、第2回目の《正当防衛手段》として、マスコミ公表を選択したときには、宮本氏にはもはや後戻りや方向転換の選択肢はありませんでした。党内外からの「宮本攻撃との闘争」のベテランではあるが、一方『ウソをついている』宮本氏にとっては、『袴田vs宮本』による疑惑や、『なぐるけるぐらいは当然あったのではないか』とする宮本陳述内容への疑問が、党内で、マスコミ触媒により大量発生することが一番恐ろしいことでした。宮本氏の《第三選択肢》の方向で、党内さえ固まれば、他に怖いものは何もありません。この問題に関する国民・有権者の意見・反応などは「馬耳東風」で聞き流せばいいのです。

 民主主義的中央集権制による、もともとの閉鎖的革命組織を大挙襲来したマスコミ外敵にたいして、党防衛戦向けに「ハリネズミ化」し、40万全党員の「外敵情報受容アンテナ」を心理的に閉ざしてしまえばいいのです。どうすれば全党員に、この「非常事態での党防衛戦闘意識」を持たせ、マスコミの宮本砲撃にたいする全党員の「心理的鉄のカーテン」を下ろすことができるかが最重要課題となりました。14の一党独裁国とちがって、資本主義国前衛党は、外敵情報の氾濫のなかにいます。国境に「鉄のカーテン」を下ろして、ソルジェニーツィン支援の外国情報などは、タス通信社や内部で遮断し、前衛党が一元的情報管理をしてしまうのとは異なり、一人一人の党員にマスコミ外敵情報を遮蔽する「心理的鉄のカーテン」を下ろさせるのには、大変な努力が要ります。宮本氏は、自分の『ウソの陳述内容を真実』とし、袴田氏の『真実の陳述内容をウソ、特高デッチ上げに迎合』とする、一大ペテンの《第3選択肢》を選びました。彼は、ペテン選択をしたものの、マスコミ外敵情報や袴田氏がマスコミ陣地から撃ち込む「真実貫通弾」による党内の動揺、宮本選択肢への党内での疑問大発生にたえず怯え、恐怖にかられざるをえません。

 私の「スパイ査問問題意見書」を読み、内容が正しいと判断される方にとって、《第三選択肢》から必然的に生じた「袴田除名事件」は日本共産党史上でそれこそ『前代未聞』の、恐るべき党内ペテン事件となります。宮本氏が、《第二選択肢》の《上策》を選んでいれば、その後の事態の進展はまるで異なったものになりました。ウソを維持する「ペテンドラマ」が党内で破綻するときは、宮本氏の政治生命が破滅するときです。それは、野坂参三氏の『山本懸蔵密告の手紙2通』が、ソ連崩壊後に「野坂ファイル」から発見されたときが、野坂氏の政治生命を奪ったときであったことと同じです。すでに、愛知県委員会専従・宮地健一が、袴田除名の8カ月前の1977年4月に、長大な「スパイ査問問題意見書」を提出していました。他にもスパイ査問事件での「意見書」が出ていたかどうかは不明です。ウソが党内から追求される恐怖におののいた宮本氏は、ペテンを完璧なものにするために、党内固めの一大作戦として『党史上最高』の動員・点検体制1年7カ月間継続を貫徹し、40万党員を自己保身のために見事に利用しました。自己一人の栄光と地位を守るための作戦とはいえ、「自己のウソ隠蔽と党防衛戦闘」の陣頭指揮の手腕はさすがに冴えていました。これが『反宮本毒素クリーニング大作戦』の裏にある真の目的です。

《逆説4》、パンフ560万冊販売等の大動員・大点検運動は、宗教教団の「聖戦(ジハード)」と類似しており、それは「前衛党型ジハード」として宮本神格化運動に進化した。

 立花連載開始後、『犬は吠えても歴史は進む』キャンペーンは2年間あり、袴田除名後は、「反共毒素」を偽称した『反宮本毒素クリーニング』キャンペーンとの二本立てとなり、それは1年7カ月間続けられました。それらは合わせて3年7カ月間のロングランの『ウソを真実とする一大ペテン戦争・宮本自己保身戦争』でした。ペテン戦争は公表人員40万の「赤軍兵士」を大動員することによって、無数の記事、チラシ、パンフ、時事講座、演説会と赫赫たる戦果を挙げました。表向きは「党防衛の聖戦」とされた保身戦争の敵陣営には、もちろん「立花という犬」がおり、「袴田という(本当は真実を陳述した)ウソつき、新転向者」がおり、ほとんどすべての「ブル新、ブル週刊誌」が布陣しています。宮本氏は「転向者、変節者」レッテル貼りが好きで、今回も自分の袴田批判文題名を『新転向者論』としました。石堂清倫氏は「言語文化第16号」(1999.6)『転向再論―中野重治の場合』を書きました。石堂氏は、そこで、中野個人の転向問題にとどまらず、当時のコミンテルン方針とそれに無条件服従した日本共産党の方針、活動を「自殺戦術」と規定し、戦前の党活動評価の根本的見直しを提起し、そこでの「転向」は「自殺をやめる」という正しい側面もあったとして、「転向」ものものについて、宮本氏の「転向理論」と真っ向から対立する見解を展開しています。

 この「聖戦(前衛党型ジハード)」で使われた手法は、宗教教団の大運動や、宗教戦争、民族紛争で使われるものや、そこでの組織体質ときわめて類似しています。ある教団やある民族の内部を、鉄のように固めるには、外敵への、外敵がいないときには外敵をデッチ上げてでも、それへの憎悪、恐怖、憤怒をできるだけ卑細な具体的事例、人身攻撃事例も織り交ぜて、掻き立てよというのが鉄則です。湾岸戦争のとき、赤池憲昭愛知学院大学教授は「湾岸戦争の宗教的側面」記事(中日新聞)で、『聖戦と名付けることで、自国の立場を正当化することは、過去の多くの戦争でも行われた。戦う集団にとって最も大切な事柄は、集団としての統合とそこから生まれる共同の意思である。行為の正当性を絶対的な超越神に帰属せしめることは、集団統合の最良の手段である。これを宗教の統合機能と呼んでいる』としています。これは、『絶対的な超越神』を『宮本委員長』に置き換えれば、「保身戦争」にそのまま当てはまる指摘です。これは、まさに『宮本自作自演ジハード』でした。外敵をねつ造する手法については、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』の冒頭部分の「新語法(ニュー・スピーク)」で過激に描写しました。数千万人の『人民の敵』『人民の敵の妻』を「製造」したスターリンは、このテクニックでは悪魔的天才でした。

 もともと、レーニン型共産党と宗教教団との類似性については、以前から多くの人が指摘しています。(1)評論家鶴見俊輔氏は『マルクス主義はプロテスタントの新しい一宗派であると私は考えてきたが、この宗教も国家宗教の役割を果たしてきたし、今も果たしている。これらの国家宗教は…大衆操作の一翼をになってきた』(1991.1.28朝日)と言っています。(2)水田洋名古屋大学名誉教授は、「象22号、1995年夏」で、『左に日本共産党の自己絶対化と近親憎悪、右に天皇制の強固な残存である』とし、『自己絶対化のほうは、鶴見俊輔が宮本顕治との対談で、宮本の考え方をローマ法王無謬説のようにカソリック的だといったことにも見られる』と書きました。また、「象23号、1996年秋」で、志位書記局長のテレビ討論での民主主義的中央集権制の説明内容を批判し、そこには『「日本共産党の立場」という確固不動の真理がある』『かつて唯一の真理を独占財としてにぎっていたローマ法王の権威がしだいにくずれていく過程』に類似しているとしました。また『ローマ法王的思考の残存を示す例をあげれば』としてNHKの和田春樹講演への赤旗のNHK批判を書いています。(3)ジャーナリストの熊田亨氏は『国家宗教というのは、権力を持った人間がほしいままに神意を応用するのであって、ロシア共産主義もその一変種だった』(1991.2.17中日)と規定しました。熊田氏は「藤村信」ペンネームでの有名な「パリ通信」『プラハの春モスクワの冬』『西欧左翼のルネッサンス』におけるソ連、東欧関係記事で共産党体制や幹部たちのカソリックとの類似性を何度も描写しています。(4)埴谷雄高氏も、その類似性をいろいろ指摘していますが、その「東欧紀行」の題名を『姿なき司祭』とするとともに、“東欧の司祭たちの行状”を鋭く描いています。(5)ドストエフスキーは、ロシア革命以前の1870、80年代に、『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官伝説」を書きました。彼は、ナロードニキの革命思想と革命党派内部での粛清事件としてのネチャーエフの裏切者殺人を題材として、考察を深め、恐るべき「革命逆ユートピア」を洞察し、「大審問官」という革命思想と国家宗教が合体した最高権力者像を創造しました。

 3年7カ月間にわたる一大ロングランの二本立てキャンペーンは、戦前、戦後とも宮本氏の指導、活動、法廷陳述内容のすべてが完全に正しく、無謬だったとする、宮本神格化運動に「進化」しました。1977年4月提出時点の「スパイ査問問題意見書」でも、私は「宮本個人崇拝現象」を4項目に分けて批判しました。これら宗教教団、国家宗教との類似性から見て、『反宮本毒素クリーニング大作戦』とそのなかのパンフ560万冊普及は、一層の神格化を目指した「宮本教」の布教活動と規定できるのです。戦う宗教教団にとって、「教典」や「教団パンフ」を販売し、疑問を持つ相手を説得する一大布教活動こそ、「信者」の信仰心を高め、絶対的な超越神である「教祖」への信頼を作り出す基本行事です。外敵とたたかい、教団を防衛する聖戦は、教団内部結束効果を挙げる最高の手段です。これは、すべての宗教団体指導部の常識であり、キリスト教、イスラム教、創価学会や、オウム真理教までふくめたあらゆる教団が身につけている、内部固めの基本マニュアルです。「宮本ウソを真実」とし、「袴田真実をウソ」とする一大ペテンを「ジハード化」することは、40万信者における『腰を抜かす者たち』の宮本疑惑を払拭し、宮本信心を『安心立命』の境地にまで高める、もっとも有効な党内動揺、党内疑惑発生抑止政策でした。『腰を抜かす者たち』『安心立命』は、宮本氏が、1989年からの東欧革命で動揺した党員たちを“さげずんで”、彼らにレッテルを貼った宗教用語です。この二本立てキャンペーンは、まさに『宮本の、宮本による、宮本のためのジハード』でした。

 以上4つの《逆説》が、『袴田除名事件の推理劇的考察 1976〜1979』の大団円となる謎解き部分です。

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五章 野坂参三の山本懸蔵密告(=殺人)

    宮本・小林の袴田政治的殺人との比較

 コミンテルン最高幹部の一人、野坂参三は、1938年と39年、スターリン「大テロル」の嵐が吹き荒れるなかで、同志山本懸蔵の、9件にもわたる疑惑をねつ造、列記し、密告しました。コミンテルン書記長ディミトロフ宛「密告の手紙2通」が、山本の銃殺に直結することを完全に認識した殺人行為でした。その手紙全文やその他資料は、小林俊一・加藤昭著『闇の男、野坂参三の百年』(文芸春秋社)にあります。それは、1992年、旧ソ連共産党文書保管所で発見されました。

 彼の密告意図は、3つありました。第一は、当時、コミンテルン幹部たちも大量に粛清されていたなかで、他の幹部を密告することによって、スターリンとコミンテルンへの「特別忠誠度」をアピールし、自分への粛清を免れようとする自己保身策でした。コミンテルン内での粛清規模について、ソ連崩壊後資料も使用した、ケヴィン・マクダーマット、ジェレミ・アグニュー著『コミンテルン史』(大月書店、1998)は次の資料、データを挙げています。

 『一九三七年の初期までに、スターリンは、おそらく内務人民委員部の「調査」にもとづいて、コミンテルンが転覆と反ソヴェト諜報活動の温床であることを確信していた。ディミトロフは彼の日記に、一九三七年二月十一日の日付で、スターリンの言った不吉な言葉をしるしている。「コミンテルンにいる君たち全員は敵の手先となって働いているのだ」と。同じく、恐怖の的であった秘密警察の長二コライ・エジョーフは一九三七年五月二六日、ディミトロフに、「いちばん大物のスパイ連中はコミンテルンで働いている」と報告した』(P.203)。『ナチの権力掌握後ソ連へ逃げたドイツ共産党の六八名の指導者のうち、四一名が同じく粛清にあった、と言われている』(P.205)。『ウォルター・ラーカーは一九三七年の春と夏に約五〇〇〇人のポーランド共産党員が逮捕され、殺された、と算出している』(P.206)。『数名の著者は、つぎにある、よく資料を調べてはいるが、まだ近似値的と思われる数字を、くり返し示している。すなわち、弾圧されたユーゴスラヴィア人は約八〇〇人、殺害されたイタリア人共産党員は一二〇人以上、逮捕されたハンガリー人とブルガリア人は数百人、一九三八年春まで投獄されたドイツ人共産党員は一〇〇〇人以上、さらに非業の死をとげたルーマニア人、オーストリア人、ギリシア人、エストニア人、スイス人、トルコ人、インド人、ペルシア人、朝鮮人の共産主義者は多数。多くの場合、これら犠牲者の妻と同僚は拘留され、彼らの子どもは内務人民委員部の孤児院に収容された。逮捕されたドイツ人とオーストリア人のうち多くの者が一九四〇年初めに、二人の独裁者の恥知らずなとりきめにしたがってゲシュタポに引さ渡された』(P.207)。『マヌイリスキー、ディミトロフ、クーシネンおよびその他の高官がテロルで果たした役割は、けっして名誉になるものではない。ディミトロフが数人の逮捕された外国人の共産主義者を救い出そうとしたのは確証ずみの事実ではあるけれども、彼とマヌイリスキーはコミンテルン機構の粛清と深くかかわっていた。最近ロシアで刊行された文書館資料は、ディミトロフとマヌイリスキーのテロルにおける共犯の程度がいっそう高いことを示している』(P.211)

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 第二は、モスクワにいたり、クートベで学んでいる日本人共産党員たちの間における、自己の絶対的権威を山本懸蔵排除によって、維持強化することでした。この日本人たちもほとんどが無実の罪で処刑されてしまうのですが、彼らについては、加藤哲郎一橋大学教授が『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)HP『旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧』で詳細に検証しています。

 第三は、無実ながら、NKVDによって逮捕、訊問されていた妻・野坂竜は、そのままでは逮捕された他の日本人党員たちと同じく、銃殺か強制収容所送りのいずれかに100%なる所でした。そこで、彼は、妻を釈放してもらうには、無実の山本懸蔵を密告(=銃殺)するという「究極の忠誠度アピール」以外に手段がないと決断しました。彼の思惑通り、『山本懸蔵を密告したディミトロフ宛の1通目の手紙』の“見返り”のような形で、野坂夫人は釈放されました。彼は、別の無実の同志を殺すことによって、無実の妻を救うという“極限状態での夫婦愛”の選択肢を選びました。いったん逮捕された日本人党員多数のなかで、釈放されたのは野坂夫人一人だけでした。藤井一行富山大学教授は、HP『野坂竜の逮捕をめぐって』で、旧ソ連共産党文書保管所「NKVDファイル58303号」(野坂竜ファイル)に基づき、この問題での綿密な分析をしています。NKVDとは、ソ連秘密警察のことで、レーニン時代はチェーカー、スターリン時代はOGPU、NKVDで、後にKGBとなりました。

 1938年、39年当時の大粛清の規模については、『ゆううつなる前衛』(添付資料)の「スターリン粛清の規模」データをご覧下さい。ただ、無実の共産党員山本懸蔵銃殺は、当時のソ連では特殊な事例ではありません。それは、数百万の共産党員やOGPU、NKVD所属共産党員が、スターリンの「特殊任務」指令に無条件に従って、無実の共産党員100万人を(1)レーニン型・スターリン型理論的銃殺、(2)レーニン指令式『深夜のドアノック』逮捕、(3)ソルジェニーツィン分類32種類の「科学的社会主義」式拷問、(4)レーニン・スターリン同型の肉体的銃殺、(5)『人民の敵』『人民の敵の妻』『人民の敵夫婦の子ども』別に分類された強制収容所送りをしたという、“世界政党史上最大最悪の前衛党犯罪”の一つにすぎません。そして、密告者・コミンテルン執行委員野坂参三も、ディミトロフをはじめとして、その“前衛党犯罪”に加担した、数百万の共産党員の一人にすぎないのです。

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/image008.jpg

 40万党員、326万赤旗読者を持つ日本共産党委員長宮本顕治は、1976年立花連載と袴田陳述調書全文公表のなかで、自己の過去をすべて正当化し、「獄中12年・非転向」の光栄ある歴史を、第1審公判陳述内容をふくめ、「100%真実」にしようとしました。そのため、その治安維持法等被告事件での、17項目中2項目だけの袴田・宮本2人の「正反対点」について、「真実」をのべた袴田側を『ありもしない暴行のウソ、不正確、特高のデッチ上げに迎合』とし、同じ「獄中10年・非転向」の同志袴田里見を犠牲にしました。

 この委員長宮本顕治の対応は、コミンテルン執行委員野坂参三が無実の同志山本懸蔵を、コミンテルン書記長ディミトロフにスパイとして密告し、銃殺させた行為と共通性を持っています。2人の行為にあるのは、指導者としての自己保身のためには、また、鉄の規律・民主主義的中央集権制閉鎖組織内での自己の絶対的権威を維持強化するためには、ウソをつくことによって、他の同志を肉体的あるいは政治的に抹殺しようとも、それは『党と革命のために正しい』とする、一種の前衛党式犯罪哲学です。『党と革命という目的のためには、大量殺人・粛清手段を採るのもいとわない』とする、レーニン仕込みの、目的と手段に関する前衛党式政治倫理です。

 これは、『犬は吠えても歴史は進む』反撃キャンペーンの結果としてなったのではありません。委員長宮本顕治は、2項目全面否認の自分の陳述内容の「100%真実性」を強調すればするほど、他の15項目での真実陳述と同じく、2項目でも真実をのべた戦前最後の中央委員・党副委員長袴田里見を窮地に追い込むことになることを、最初から明白に認識していました。コミンテルン執行委員野坂参三が山本銃殺に直結することを承知で、密告の手紙2通を出したように、宮本顕治もそれを承知で「袴田政治的殺人劇第一幕から第五幕」までの陣頭指揮をとったのです。この宮本顕治の『他を犠牲にしても、自分の栄光と地位さえ守れればよい』とする利己的行為は、必然的に袴田政治的殺人策謀となり、その《急迫》にたいして、袴田個人が追い詰められて、2回にわたる《正当防衛反撃》をしたのが、「袴田除名事件」の本質です。

 これは、「袴田政治的殺人事件」というべき、委員長宮本顕治の権力犯罪であり、その共犯者は(1)側近グループの中央委員・元秘書小林栄三と、(2)書記局長不破哲三です。(1)元秘書小林栄三は、「スパイ査問問題意見書」で詳細な分析をしたように、宮本と共同執筆で『小林論文』(「文化評論」1976年9月号)という、野坂『密告手紙』に匹敵する“殺人論文”を書きました。しかし、一介の中央委員にすぎないので、袴田密室殺人ステージの常任幹部会室シーンには“登場、熱演”できません。(2)したがって不破哲三は、「常任幹部会委員」役でそのステージに登場した役者14人の批判セリフを、そのなかの「敵役袴田」一人に浴びせるための演出・主演を「殺人劇第一幕から第四幕」まで果し、見事な「密室舞台劇」に仕立てました。さらに不破哲三は、ステージが第五幕の「マスコミ舞台」に移ってから、40万「赤軍兵士」を登場させ、パンフ560万冊を「普及」しきるという、“宮本神格化一大スペクタクル・大ペテン戦争シーン”演出で、書記局長として中心的役割を果たした共犯者です。

 (1)共犯者小林栄三は、袴田全役職剥奪成功の第14回大会では、常任幹部会委員に二段階特進の論功行賞を受け、第15回大会では統制委員会と並ぶ粛清担当部署の法規対策部長にも抜擢されました。元粛清担当裏方の袴田里見に取って代わって、その後宮本顕治の粛清指令に忠誠を尽くし、党大会に「民主主義的中央集権制問題での文書意見」正規提出した山形県委員猪口同志の県委員非推薦・排斥事件、下里正樹赤旗記者査問・記者解任・除名事件、その他でも辣腕を振るいました。彼には『代々木のベリヤ』という“光栄あるあだ名”が付いていて、党本部、赤旗記者でそれを知らない人はありません。

 一党独裁国・情報鎖国における密告者野坂参三は、モスクワという異郷の地に、妻までもが逮捕されるという孤立無援の状況に置かれました。スターリン「大テロル」の嵐が最大瞬間風速を記録した1938、39年に、彼は、レーニンがシェルジンスキーに指令した『逮捕するなら、夜が好都合』『監禁、監視などは徹底的に行うこと(特設仕切り壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使せよ』メモ(「レーニン秘密資料」6724点の一つ)通りに、数千万人に行われていた、NKVDの『深夜のドアノック』の恐怖に打ち震えつつ、銃殺ターゲットの「9つのスパイ容疑」ねつ造のペンを走らせたのです。かくして、同志山本懸蔵は、銃殺で肉体的生命を抹殺されました。

 資本主義国における、合法・閉鎖革命政党委員長宮本顕治は、マスコミの宮本砲撃によって、自分のウソが40万党員に“ばれる”恐怖に怯えました。それだけに一層真剣に自分と「殺人ターゲット」を除く、残りの常任幹部会委員12人全員を密室殺人に加担させつつ、自分の私的分派・側近グループを強化し、共同執筆“殺人論文”を元秘書名で発表し、政治的殺人ターゲットの「4つの規律違反容疑」ねつ造のペンを走らせたのです。かくして、戦前最後の中央委員袴田里見は、戦前同期以来の同志によって、その政治生命を抹殺されました。

 「反宮本毒素クリーニングパンフ」購入者560万人と40万党員をペテンにかけた委員長宮本顕治の悪魔的手腕の見事さは、日本政党史上、日本共産党史上高く評価されるべきでしょう。もっとも、ペテンの手腕とスケールについては、国際共産主義運動史上まで視野を広げれば、無数にあります。(1)1940年、ソ連共産党政治局決定とスターリン署名に基づく「カチンの森でのポーランド将校捕虜14700人の虐殺」を、ナチスによる虐殺にしたペテン、(2)「東欧の諸暴動、ハンガリー事件、プラハの春など」を反革命暴動としたペテン、(3)1950年、「北朝鮮軍の武力南進侵略戦争」を韓国・アメリカ側からの北侵略が発端とした、金日成・スターリン・毛沢東3人による一大ペテンなど、枚挙にいとまがありません。それらのペテン・スケールと比べれば、宮本顕治のペテンは“自分一人の栄光と地位を守る”という、ごく卑小なものです。

 この1978年の宮本顕治による袴田除名事件は、1939年の野坂参三による山本懸蔵密告事件に勝るとも劣らぬ、重大な道義的性質をはらんでいます。私の『2つの事実問題では、袴田陳述内容が真実』とする論証と、それに基づく『袴田政治的殺人推理劇的考察』が正しいとすれば、袴田除名事件めぐる宮本・袴田関係は、野坂・山本関係と同様、180度転換することになるでしょう。もっとも、野坂参三に続いて、宮本顕治の評価の大転換が起きれば、アガサ・クリスティの推理小説式に『そして誰もいなくなった』ということになりかねません。

以上
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(関連ファイル)              健一MENUに戻る

    『スパイ査問問題意見書』 連続・7分割ファイルに改訂

    『スパイ査問事件の個人的体験(宮地個人通信第十号)

    『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」

    袴田自己批判・批判の共産党側資料、「3論文」と「党史」

    立花隆『日本共産党の研究』関係 『年表』一部、加藤哲郎『書評』