「転向」再論−中野重治の場合

 

石堂清倫

 ()、これは明治学院大学言語文化研究所発行『言語文化、第十六号』(1999.6)の「特集、中野重治没後20年」に掲載された上記題名論文の全文である。その特集号は、中野重治に関する他の評論13編も載せた。この全文を私のホームページに転載することについては、石堂氏のご了解をいただいてある。中野重治が「転向」について述べたことの石堂氏による引用部分は、私(宮地)緑太字にした。

 なお、私たち夫婦と石堂氏との交流の経緯については、妻HP『師、友』の『道連れ―石堂清倫氏のこと』で触れた。

 

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    『「転向」の新しい見方考え方』戦前党員2300人の分析

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

    田中真人『1930年代日本共産党史論』(あとがき)

    伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

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 中野重治は、一九三四年五月二六日に、日本プロレタリア文化聯盟事件の控訴法廷で、「日本共産党員たることを認め、共産主義運動から身を退くことを約束」し(『中野重治全集』別巻年譜)、執行猶予で出獄している。

 中野はこの「転向」についてつぎのように述べている。

 僕が革命の党を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮べたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。

 これについてなおつけ加えるべきことがある。中野は一九三二年四月四日に逮捕されたが、党の組織関係については一貫して陳述しなかった。控訴法廷ではじめて自分が党員として文化聯盟フラクションに所属していたことを述べたのである。ところが、そのことは彼よりさきに逮捕されたフラクションの責任者生江健次が警察で自白している。警察調書がないためその時日はわからないが、四月中であったと推定される。三三年九月二一日の生江の第八回訊問調書では、改めて中野が党員であることを確認している(『運動史研究』一九七九年二月刊、第三巻二〇六ページ)。

 生江は共産党の最高幹部の松村(本名飯塚盈廷)の直接の指示によって行動していたが、この松村は思想検事戸沢重雄直属のスパイであり、党の人事も政策も要所はすべて当局が詳知していたこともつけ加えておく必要がある。中野のいう党への「人民の信頼」も、一部にはまだ残っていたかもしれないが、松村によって計画され実行された「銀行ギャング事件」で党への信頼が地に墜ちていたことを、どこまで法廷段階の中野が知っていたか疑問である。松村は一貫して目的のために手段をえらばず、大金の拐帯やいろいろさまざまな反社会的事件をくわだて、共産党が冒険主義者の集団であるかのような印象をひろめることができたのである。

 中野が裏切りの赦しを乞う党はもはや崇高な理念のうちにしかなかったのが実情である。それは理念というよりは物神と呼ぶべきものであるかもしれない。すでに献身にあたいする党でなくなっている事実をあからさまに承認することをためらわなければならなかったのは何故であるか。そのことを指摘しておかなければならない。

 中野が、「降伏の恥」を招いた「要因」を「社会的個人的」としていることにはふかい意味があろう。悪しき伝統を含めた社会的要因を追求することを避け、もっぱら自己自身のうちにそれを認めたのは、当時としては一つの弱みであろう。転向は個人の心性に起因するという通念への遠慮もあろう。しかし、「革命運動の伝統の革命的批判」とは具体的に何であるのか。そこには積極的な主張があるはずである。中野はそれを自己の能力を発揮できる文学の場に求めた。そしてそれを実践してきた。彼の生涯の文筆活動に匹敵する文化的あるいは理論的な仕事をなしとげた人はすくない。しかも「転向」の「痣」はいまなお消えていないとされることも事実である。

 どんな反体制運動参加者のなかにも途中で脱落するもの、ときには裏切るものも出てくる。それは日本にかぎらない。フランス革命のなかのフーシェや、ロシアのマリノフスキーみたいな人間の出現はまぬかれないことですらある。だが、日本の「転向」はそれとはちがっている。戦前に治安維持法違反事件で検挙されたものは三万人をこえる。そしてその大半のものは運動を持続することができなかった。一つには、運動に参加すれば、しばらくのうちに必ず逮捕されてしまうという不可思議な現象があった。反体制運動が抑圧されるのは日本に限らない。しかし参加者のほとんど全部が体制側の監視下にあり、いつ、どの部分を検挙するかというイニシアティヴが政府当局に握られている例はめずらしい。

 三〇年代になると共産党指導部に当局のスパイが潜りこむことが容易になり、松村の場合は別としても中央委員の半数がスパイであった時期さえある。それは組織論上の未経験というよりも、政治的欠陥というべきものである。スパイ狩りや査問の話をきくことが多いが、組織自体に抜け穴があった。運動内での共同生活がないため、その人物がどんな思想を抱いているか、その時の行動がどんなであるかを確かめようがなく、たとえ異分子であっても怪しまれることなく入りこむことができた。それは極端な非合法体制の結果であった。非合法主義がかえってスパイの潜入に好都合であったと思われる。

 最大の問題は共産党の活動方針そのものに伏在していた。秘教的な組織形態とならんで、党の戦略なり戦術なりが、無上の権威をもって君臨していた。それが現実の運動におけるながい経験をつうじて点検されたことがなく、現実の階級関係のなかで適用の可能性があるか否かも問われたことがない。何回かの全党員の根こそぎ検挙をつうじて分かったことは、共産党の考えが一般国民にたいしてまったく浸透性をもたず、国民の支持をうけるに至っていないことである。犠牲は累加するが国民は無関心である。

 正面攻撃が困難であるなら迂回作戦を考えるのが普通である。目標に的中させるためには射撃時に銃口を下げなければならないことがある。このような常識的対応なしに、コミンテルンも共産党指導部も、必敗の戦術を漫然と五年も十年もくり返すだけであった。党員は片っぱしから逮捕されたが、目標には一歩も近づくことができない。逆に攻撃部隊の兵員は減少するばかりである。国民はいまやその息子や娘を共産主義運動にさし出すことを拒否していたのである。

 私は日露戦争の旅順要塞戦のことを思いだした。私の生まれた石川県は旅順攻城戦で莫大な死者を出したところである。日本人のまだ知らないベトンで固めた難攻不落のロシア要塞に、日本兵士は白兵戦を敢行した。半年そこらで四万七千人の死傷者を出した。しかしそれは予定のことであり、兵士の生命など「鴻毛よりも軽し」 (「軍人勅諭」)であった。

 共産党はそれとおなじことをやったようなものである。陸軍は一年内に重砲をもちだしてやっと攻略に成功したが、共産党は一九二七年テーゼから三五年の党消滅にいたるまで、同一の自殺戦術をくり返した。党員は逮捕された瞬間に党から見捨てられる。日本陸軍よりももっと能力を欠いていた。コミンテルンにたいしては忠誠をつくしたつもりであろうが、党は消滅した。

 そこで共産主義運動は個々の共産主義者の判断によって遂行される外はなくなった。ただ、党は現実には組織を形式上維持するのがなしうる唯一のことであって、拡大し、深化する侵略戦争にたいする反対運動を国民のあいだに組織する力はなかった。したがって機関紙を配布する以上の力は個々の党員にもなかった。その党員が逮捕されると、ほとんどすべてのものが、党活動をやめることを誓うほかに選択はなかった。それは不可能事を不可能と言っただけである。ところがそれは「変節」であり「降伏」であると当局によって宣伝された。

 「転向」とは共産主義者の志気をくじくため当局が案出した官庁用語である。代替策をもたない共産主義者はこの宣伝に対抗する力をもたなかった。それが「転向」なのである。転向者が責められるべきだとすれば、自殺戦術を放棄したことについてではない。彼は代替戦術をとらなかったことにたいして責任があった。つまり、事は個人の心性にかかわる道徳の問題ではなく、反体制の、とくに反戦の連帯行動を可能にする道を示さなかった政治の問題であった。

 たとえば天皇制の問題がある。コミンテルンは最初から君主制(ミカド)の廃止を日本の社会主義者に強調した。一九三一年からは「君主制」の代わりに「天皇制」と言うことに変わったが、それは日本側が一貫して避けたい問題であった。君主制廃止を支配制度の暴力的撤廃と解釈したこともその一つの原因になっている。大正期の共産主義者は、大逆事件の二の舞になることを極度に警戒していた事実がある。「革命家」からしてそうであるから、一般国民にとってはもっとも理解し難いスローガンであったにちがいない。

 だが「君主制廃止」とは具体的にどうすることを意味したのであろうか。それがまことに曖昧であった。君主制廃止という特別な闘争方式があるわけでない。しかし、国民の大多数が君主制という支配形態の廃止を要求するような運動は、どのような部面と段階を必要とするか、それについての細密な研究はこれまで聞いたことがない。われわれ自身が何をどうするかも知らないで、どうして国民にこの廃止を提案することができるのか。それが私のながいあいだの疑問である。一貫して君主制廃止のためにたたかってきたという人もあるが、私の疑問に答えることができるであろうか。言いうるのは、君主制廃止とは一つのスローガンであり、ただそれだけであった。スローガンにとどまる君主制廃止は神話のように尊重された。現実化に至らないことがかえって神話性を増大させたということができる。

 私は日本の天皇制問題が、現実の歴史過程の外側での形而上学的な、したがって不毛な論争として一人歩きをしてきたという意味のことを書いたことがある。それは天皇制の規定がコミンテルンによって与えられ、それを無謬の真理として、というよりは天孫降臨の神話のような出発点として受け取っていたために、その教条解釈が歴史過程の分析を不可能にしたのである。私はそのとき満鉄調査部以来の知友横川次郎の遺著「我走過的崎嶇的小路」の一節をひいた。彼は端的に、崩壊した戦前共産党の根本的錯誤の根元がモスクワにあったというのである。

 その第一は、コミンテルンが日本の党にソ連邦防衛を主要任務として与えたこと。それは極言すれば、ソ連共産党の民族的利己主義を暴露するものでしかない。第二に、三二年テーゼが、ファシスト・クーデタの危険にたいする闘争よりも天皇制闘争に向かわせ、さらに日本の社会民主主義を「社会ファシズム」と誤って規定して事実上統一戦線を否定したこと。第三に、テーゼが天皇制の歴史的生成とその発展の条件、さらには日本人民のあいだにある天皇信仰の現実を捨象して、ロシア・ツアーリズムとの外面的類推にもとづき「絶対主義」と断定したこと。それは「厳重な錯誤」である。最後に、第四に、テーゼが「もっとも近い将来に偉大な革命的な諸事件が起こりうる」と主観的に妄想して、日本共産党を左翼冒険主義の泥沼におとしいれ、客観的には軍部ファシズムの 「把権」(権力奪取)を助けたことだという。(全文は小著『中野重治と社会主義』一二八〜一三〇ページを参照されたい。)

 皇室は明治維新段階では政治的に微々たる存在であった。それがなぜ国民統合の精神的原理になる力をもつようになったか。その生成と発展の歴史的経過の分析からして乏しい状態にある。一言で言えば、天皇制は日本帝国主義のイデオロギー的表現として成長した。旧封建階級中のエリート層は維新に際して国権をにぎり、「有司専制」の体制をつくりあげた。彼らは自由民権運動を弾圧するとともに上からの改革を成功させた。そのうえ日清・日露の戦役における勝利によって威信をたかめた。彼らは幕末における外圧に抗するのに、みずからをアジア諸民族にたいする支配者たらしめる「脱亜入欧」の政策をとった。こうして保守的反動的な道で国民的合意を達成したのである。その上部構造としての天皇制は一見強力のようであっても、国民生活の民主化とアジア諸民族との連帯を否定する地点に立脚する点で大きな弱点をもっていた。したがって国民的合意の符号を逆にすることは必要でもあり、また可能でもあった。その契機を発見することが共産主義者の任務でなければならなかった。だが、その任務は果たしえなかった。その原因はどこに求めるベきであろうか。

 その一つを私は共産主義者自身のナショナリズムに認められるのではないかと思っている。それはこういうことである。三〇年代に入って、当局は既存の共産党組織を壊滅させる自信をもっていたであろうが、つぎつぎに生まれてくる新しい勢力、というよりは潜在力に恐れをなしてもいた。支配階級の一部には、共産党を弾圧することによって、国民のうちに彼らを英雄視する傾向が生じることを警戒する動きがあった。その対策の一つとして、この勢力を支配階級の許容しうる地帯に誘導しようという試みもあった。

 このことはこれまでほとんど注意されていないが、思想検事平田勲の行動はその試みの存在を裏づけているように思われる。平田は、資本主義変革の運動をある程度許容し、共産党の合法化を認めてもよいと考えていたようである。そしてそれを許容する代償として天皇制反対のスローガンを取り下げさせようとしたのである。それは平田個人の構想のように見えるが、日本の支配層のうちには、ことに新しい資本主義によって後退させられた勢力のうちには、平田を支持する層があったであろう。この平田に誘導されたのが佐野・鍋山の「転向」運動であったと思われる。平田的な構想がなかったら、あの昭和の大転向運動は生まれなかったであろう。「転向」が共産主義運動の弱い環からではなしに、その最強部から、指導者集団から生まれたこともこの考えを支持すると思われる。

 しかしそこまで行かない先に、共産党はスパイ松村の手で崩壊させられ、平田構想は必要ではなくなつたというのが私の考えである。

 なぜこの集団の最強部がこうした誘導に乗ったかという問題がある。

 支配集団と被支配集団の敵対関係のうちに妥協地点をさがすとき、共通の地盤としてナショナリズムを発見することができる。

 その一つの例は、昭和農業恐慌が激甚をきわめ、農民運動内に在来の小作料減免闘争から土地所有制度そのものに挑む動きが生じたとき、危機感に迫られた軍部は、一九三〇年末から小一年のあいだ全国各地に大宣伝活動を組織した。わが国は土地狭小のうえに人口が過剰であり、一部農民が主張するように土地分配を断行しても零細経営は改まらない。この際満蒙の沃野を占拠することによって農民は一挙に十町歩の地主になることができるというデマゴギーが軍服姿の将校によって強調された。演説会は一八六六の市町村で一六五万五千人の聴衆を集めた。国内の階級矛盾を解決する代わりに対外侵略を断行せよという排外ナショナリズムが、自由主義者からも社会主義者からも一つの抵抗もうけることなく見るみるうちに「世論」を形成し、それが頂点に達したとき、九・一八の満州侵略軍事行動が開始された。

 軍部が農民の救済者を装って軍事予算を増加させたが、リヒアルト・ゾルゲが、「巧みなアジテーターがいたら軍は農民の……窮乏化の張本人だと言われる」危険に陥ったであろうにと嘆いたのはそのあとである。

 九・一八事変ごろ社会主義者のかなりの部分が社会排外主義の立場をとるようになったことは、もともと彼らがナショナリズムの基盤に立っていたことを思わせる。

 日本のプロレタリアートのナショナリズムははやくから指摘されていた。その一つの例は一九二二年のコミンテルン主催の極東民族大会である。東アジア各地の革命的勢力をあつめたコミンテルン指導者のジノヴイェフは、アジア革命の先導力を期待される日本のプロレタリアートが「母乳とともにのみこんできた愛国心」がその大きな障害になっていることを警告した。朝鮮からきた労働者も、日本人の愛国心が排外的であって、この排外愛国心を日本人が捨てることなしには連帯はありえないと述べている。それを受けて、翌二三年に日本では雑誌「赤旗」が朝鮮の民族独立運動について社会主義者や労動運動活動家にアンケートを計画した。多くの人は民族の契機よりも階級の論理を先行させ朝鮮の独立には積極的でなかった。

 戦後に「赤旗」誌が覆刻された機会にある日、私は中野とこのことについて話しあった。愛国心を捨てるとは階級的な思想改造のことであり、それは一朝一夕の事業ではないであろう。日本人の民族的原罪からの脱却は、まず朝鮮民族独立の問題として考えられるであろう。

 中野の亡くなる年(一九七九年)の四月六日に、彼から長い電話があった。新刊の『沓掛筆記』を出版社から君のところへ送らせる。あれには特別にふかい思いがこもっている。ぜひ一読して感想をきかせてもらいたいというのであった。その日はまだ本は届いていなかった。それから連日おなじことを言ってきた。四月一六日にやっと本が届いた。この日の電話は五〇分以上つづいた。その日は彼の結婚記念日であるとも言った。『沓掛筆記』は届いたか、あれには特別にふかい思いがこもっている……。私はいま届いたところだと答えたのに、五〇分あまりの間におなじ質問を四回もくり返し、私は胸が痛んだ。特別の思いとは何であろう。

 それはことによると新著のかなりの部分を占める「世田谷通信」であるかもしれない。そこには「在日朝鮮人と全国水平社の人びと」の連載十二回分がのっている。すくなくとも朝鮮の問題は最後まで特別の思いで残っていたのであろう。とくにその第十二回のものは、さきにあげた「赤旗」誌のことをあげている。それは解答ふうのものではない。彼はしかし、問題提起から「四十五年近くたつた今日現在そこはどうか」と問うているのである。

 何十年たっても解決されていないものにはさきにあげた天皇制の問題もある。われわれの先輩もわれわれも、天皇制イデオロギー解体の具体的作業に着手しなかった。天皇制イデオロギーの基本文献である「軍人勅諭」 が公布されてから百十六年たっている。「教育勅語」も発布から百八年、どちらも批判したことはない。支配階級は軍隊でも学校でもあらゆる機会に反復して教えこんでいる。ただの一行も反駁していない共産主義者たちは最初からイデオロギー的に完敗しているのである。天皇制はあらゆる攻撃に堪える頑強な砲台群によって守られてきた。

 この有様では反天皇制の運動が「転向」として終わるのは必然であった。「転向」は日本人の民族的宿命であるかのようである。しかしそうではなく、どんなに困難な状況のもとでもそこに生きる道はありえたのではないか。それについて中国革命は心づよい例をのこしている。その事実は耳にしていたが、文書として残っていることを最近になって知ることができた。その例を以下にかいつまんで紹介する。

 日中戦争の発端となった蘆溝橋事件の前年に、日本軍は華北一帯を第二の満州国として占領する準備行動を開始し、中国民衆のあいだに巨大な抗日闘争がまきおこった。当時華北の白色地帯の指導者であった劉少奇は、抗日運動を組織するカードルの不足を痛感し、在獄の同志を取り戻す計画をたてた。当時中国共産党員が国民党政権によって特別の監獄に多数収容されていた。北京では草嵐子監獄がそれであった。蒋介石政府は一方で苛烈な弾圧を強行し、他方では逮捕した共産主義者を懐柔する方策を考案した。

 共産党員が、悔悟し政治運動を放棄することを約するならば放免してもよいという制度をつくった。それには自発的に「反共啓事」に登録し、署名捺印する方式が定められていた。劉少奇は在獄の同志たちにこの「反共啓事」制度を利用することをうながした。しかし同志たちはすでに何年も非転向で戦っていたのであり、この方式をあやぶみ、容易に応じなかった。そこで劉は張聞天総書記の正式の承認をとりつけ、北方局の柯慶施組織部長をつうじて、次のような手紙を獄中の同志にとどけた。

 「新しい政治情勢と任務の必要にもとづき、また諸君が長期の闘争の試練をうけていることを考慮し、党は、諸君ができるだけはやく党活動ができるようにするため、諸君が、敵の規定する出獄手続を実行してよろしいだけでなく実行しなければならないと認める。このようにすることは、党の最大の利益に合致する。諸君がこれまで敵の「反共啓事」に捺印しないことを堅持したのはまったく正しかった。しかし、諸君の当時の闘争は、なお小さなサークル、小さな範囲内での闘争であり、今や諸君がもっと広い範囲で闘争することが要求される。……これは特定の条件のもとでなされた決定である。党が現在諸君にたいし、政治上および組織上完全に責任を負い、政治上一律に、自首した裏切者とは認めず、組織上差別しないことを保証する。諸君は中央を信じなければならない。もし諸君がこの通知を受けた後も実行しないならば、諸君は厳重な錯誤をおかすことになろう。」

 ここで一九三六年八月から三七年二月までに九回にわたり六一名が出獄してきた。そのうち十三名は第七回党大会代議員に選ばれている。日本でもよく知られた薄一波(経済工作指導者)、楊献珍(マルクス・レーニン主義研究所長)、劉瀾涛のような人をはじめ、すぐれた活動をしている。

 以上は『劉少奇在白区』(中共党史出版社、一九九二年刊)「営救(1) 六十一人出獄」の項の一部である。この本には白色区域におけるカードル政策として「隠蔽精子、長期埋伏、蓄積力量、以待時機」のこと、また大衆活動における基本原則としての「有理、有利、有節」が劉によって説かれたことを述べている。有理とは、多くの人民が正義に合している、理にかなっていると思うことが行動を起こすときの第一の条件だということである。日本のように、国民の多くが天皇崇拝の精神をもっているとき、天皇制打倒などといえば、合理的でなく孤立するだけであろう。

 有利とは、行動は具体的な力関係からして大衆にとって有利な条件のもとでおこなわれるべきだということである。有節とは、行動を適当な程度で行うこと、すなわち行動における節度を重視することであるという。これにくらべると、わが国の運動は大衆の現実の状態とのかかわりなしに、しかも大衆の意識改造をはかる努力を怠たり、前衛だけで冒険主義的に行動したのかと反省される。中野は中国革命のなかで「反共啓事」が利用されたことなど夢にも知らなかったであろう。しかし彼のいう「革命運動の伝統の革命的批判」は当然これに合致することになろう。

 日本に劉少奇が生まれることはありえないか。絶対にないとはいえない。かなりの共産党員が計画的に「転向」して、そのうえ闘争をつづけることが不可能ではなかったのである。その一例として、「本音の会」が出版した「種子島から来た男」の著者原全吾は、逮捕されても何かと手管を弄し「転向」を装って釈放をかちとり、帰ってすぐ活動をつづけている。それも二回もそのようにすることができた。個人の責任でなしに集団の知恵としてそれが実行できなかったのは、コミンテルンや共産党を「無謬」としたため、戦術の根本的改定ができなかったからにすぎない。「日本の革命運動の伝統の革命的批判」はそれを可能にすることができたであろう。

()営救――方法を講じて救出すること (石堂註)

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