転向・非転向の新しい見方考え方

 

戦前党員2300人と転向・非転向問題

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1戦前13年間、コミンテルン日本支部党員2300人の分析

表1治安維持法違反検挙者、起訴者数

表2、転向有無と密室審理陳述有無について、約2300人の分析

表3、2300人中の非転向者の人数と%のデータ

   2、転向・非転向問題の見直し

1、コミンテルンの対日本支部方針の根本的誤りとレーニン・スターリンの誤り

2、当局の転向政策と日本共産党が内部で強行した転向政策

3、コミンテルン日本支部方針・実践の根本的誤りと個々の転向・非転向との関係

   3、『日本共産党の七十年』−コミンテルンと日本支部の誤り記述部分抜粋

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

    石堂清倫『中野重治の転向−再論』

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

    田中真人『1930年代日本共産党史論』(あとがき)

    伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

    加藤哲郎『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』

    共産党『共産党の丸山批判・党史公式評価』

 

 1戦前13年間、コミンテルン日本支部党員2300人の分析

一党独裁10カ国崩壊以前の『共同研究・転向』などでは、レーニン、スターリン、コミンテルンの方針、対日本支部方針が根本的に誤りであることを前提とした考察は、ストレートにはできなかった。新しい見方考え方とは、一党独裁10カ国崩壊事実に基づき、()1930年代コミンテルンの対日本支部方針が根本的に誤りであり、かつ、()日本支部もそれを機械的・教条的に実践し、当時の日本の左翼運動、反戦運動に重大な実害を与える誤りを犯したことを前提として、転向・非転向問題を見直すという意味である。

()新しさのもう一つは、非転向者の位置づけ問題である。1991年ソ連崩壊前では、ほとんどの論調・視点が転向者側の分析、なぜ転向したのかという検証になっていた。それは、転向=党と革命にたいする裏切り・変節とする宮本顕治式レッテル貼り史観に呪縛されていた。一方、非転向者9人〜20数人は、英雄視され、指導者としての誤りや反戦平和運動に与えた実害・問題点が一切不問にされてきた。このように機械的な党員2300人の二分法は正しいのか。非転向指導者の誤り・深刻な実害とその結果責任を隠蔽する日本共産党史観を大転換させる必要があるのではなかろうか。

戦前の党活動期間は、13年間だけだった。1922年創立から1935年袴田中央委員検挙による党中央潰滅までである。その間のコミンテルン日本支部党員は約2300人だった。そのほぼ全員が検挙され、起訴された。約2300人という数字的根拠は『袴田政治的殺人事件』でも載せた。以下のとおりである

治安維持法違反で検挙され、裁判にかけられた共産党員は約2300人いる。予審制度をもつ治安維持法裁判事件で警察・予審とも完全白紙・完全黙秘を貫いたのは、そのうち宮本中央委員ただ一人だった。その点では、2300分の1例として特殊的に英雄的である。赤旗号外(全戸配布1976..1付)は、「五年間も完全黙秘を通したのは、日本の近代史上宮本委員長ただ一人である」と宣伝した。2300分の1の特殊例という数字的根拠を表で見る。

(表1) 治安維持法違反検挙者、起訴者数

典拠

逮捕者 検挙者

起訴者

日本共産党 『社会科学総合辞典』(新日本出版社)

192545年の20年間

数十万人 75,681

(政府統計)

192545年の20年間

5,162

(政府統計)

西川洋三重大学教育学部助教授 『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(渡部徹編、三一書房)

193034年の5年間

検挙人員数 47,870

内検挙党員数 1,418

()、右は1929年検挙者を加えた数

193034年の5年間

起訴人員数 3,217

内起訴党員数 1,424

党員歴内訳 1年未満1,194人、

1年から2179人、2年以上51

田中真人同志社大学教授『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房)

「西川の統計分析の対象となっている一九三〇年〜一九三四年の時期は、戦前の共産主義運動がもっとも量的に拡大した時期である。この五年間の年平均は一九二八年から四三年の期間の左翼関係検挙・起訴者年平均の約二倍となっている」(P.30)

この表で判明しているのは、1930〜34年の5年間起訴人員数3,217人、内起訴党員数1,424だけである。1925〜45年の20年間の起訴人員数5,162人は、3,217人の1.6である。そこから、20年間起訴党員数推定計算式として、1,424×1.62,278で計算し、約2300人とした。ただし、田中真人が分析する年平均値から逆算すれば、2300人よりかなり少ないデータも推計できる。表のように、共産党員の場合、検挙されると全員が起訴され、警察・予審密室審理を受けた。彼らは、予審で黙秘しなかった。よって、宮本式警察・予審完全黙秘闘争方法は、超英雄的であるが、2300分の1の特殊例である。

次に、転向有無と密室審理陳述有無について、約2300人のコミンテルン日本支部党員の分析をする。

(表2) 転向有無と密室審理陳述有無での約2300人の分析

転向有無

密室審理陳述有無

人数

合計

非転向

警察・予審黙秘

宮本1人のみ

1人 …12300

 

非転向

警察黙秘・予審陳述

警察・予審陳述

拷問死・獄中病死

秋笹(公判転向)、他?

袴田、他数十人

小林、岩田、野呂、他数十人

非転向のままで敗戦後出獄したのは9人、他?

全党員の23

転向

警察・予審陳述

2300−数十=2200数十

全党員の9798

1945年12月の第4回大会では、中央委員7人、中央委員候補7人だった。1946年2月の第5回大会では中央委員20人、中央委員候補20人である。宮本を除くと、これら非転向だが、警察・予審陳述党員39/2300で、2%弱だった。そして、全党員の97〜98%が、転向し、警察・予審陳述をしたというコミンテルン日本支部党活動と党組織とは何であったか。それを下記で検討する。

フランス、イタリアなどコミンテルン各国支部でこのような雪崩的転向現象はどこにもない。戦前のコミンテルン型共産主義運動において、これほど大規模で、一挙に発生した思想転換現象=革命組織離脱現象は、日本でしか見られない、まったく特殊なケースである。国際比較論としてだけでなく、1930年代日本における社会思想史上の重大思想事件の一つとしてもさらに考察を深めるべき研究テーマである。

(表3) 2300人中の非転向者の人数と%のデータ

典拠

非転向者の人数

 

 

『日本共産党の七〇年』

()最後まで屈服を表明しなかった者10人(P.128)

(2)敗戦後の非転向出獄者9人(P.157)

(3)1945年12月第4回大会、中央委員7人、中央委員候補7人、他で計14人(P.158)

(4)1946年2月第5回大会、中央委員20人、中央委員候補20人で、計40人(P.162)  (宮地・注)、敗戦時出獄者9人以外の31人は、それ以前の出獄者であるが、全員が非転向かどうか不明

0.5

0.5

0.7

 

2

 

 

立花隆『日本共産党の研究()(講談社文庫)

(5)ビューロー時代からの中央委員で非転向6人+宮本、袴田、計8人(P.341)。偽装転向を含むと10数人(P.354)

()1940年末、受刑者以外の出獄、執行猶予、起訴猶予で獄外にいた被監視者の非転向、158/4183(P.342)(宮地・注)、党員以外のシンパを含む→1945年敗戦時の非転向?人

()非転向人数での宮本答え。亀山幸三質問「ほんとの意味での非転向を貫いたのは他に誰がいるか」、宮本「結局、おれと春日()ぐらいかな」(P.354)

(8)虐殺された者80余名(山岸一章調査)(P.346)

0.5

 

4

→?%

0.1

 

4

 

伊藤晃『転向と天皇制』((勁草書房)

(9)‘33年6月佐野・鍋山転向声明から’35年6月までに、共産党関係受刑者650人のうち、当局が転向・準転向と認めたものが合わせて505人、非転向は154人(P.133)

(10)‘38年4月現在、28年以降治安維持法違反で司法処分を受けた者12,145人のうち11,355人釈放。そのなかで再度司法処分に至ったもの854人にすぎなかった(P.134)

 

24

 

7

 

 2、転向・非転向問題の見直し

 〔小目次〕

1、コミンテルンの対日本支部方針の根本的誤りとレーニン・スターリンの誤り

2、当局の転向政策と日本共産党が内部で強行した転向政策

3、コミンテルン日本支部方針・実践の根本的誤りと個々の転向・非転向との関係

 1コミンテルンの対日本支部方針の根本的誤りとレーニン・スターリンの誤り

()コミンテルンの対日本支部方針が根本的に誤っており、かつ、()日本支部指導部もそれを教条的に実践し、()そのため党、党員の活動が国民感覚・感情から遊離し、日本の実情にてらして誤りを是正できなかったことである。

)、コミンテルン方針の誤り

コミンテルン方針の誤りについては、石堂清倫が『中野重治の転向−再論』でのべている。その一部を引用する。私は日本の天皇制問題が、現実の歴史過程の外側での形而上学的な、したがって不毛な論争として一人歩きをしてきたという意味のことを書いたことがある。それは天皇制の規定がコミンテルンによって与えられ、それを無謬の真理として、というよりは天孫降臨の神話のような出発点として受け取っていたために、その教条解釈が歴史過程の分析を不可能にしたのである。

私はそのとき満鉄調査部以来の知友横川次郎の遺著「我走過的崎嶇的小路」の一節をひいた。彼は端的に、崩壊した戦前共産党の根本的錯誤の根元がモスクワにあったというのである。

第一は、コミンテルンが日本の党にソ連邦防衛を主要任務として与えたこと。それは極言すれば、ソ連共産党の民族的利己主義を暴露するものでしかない。

第二に、三二年テーゼが、ファシスト・クーデタの危険にたいする闘争よりも天皇制闘争に向かわせ、さらに日本の社会民主主義を「社会ファシズム」と誤って規定して事実上統一戦線を否定したこと。

第三に、テーゼが天皇制の歴史的生成とその発展の条件、さらには日本人民のあいだにある天皇信仰の現実を捨象して、ロシア・ツアーリズムとの外面的類推にもとづき「絶対主義」と断定したこと。それは「厳重な錯誤」である。

第四に、テーゼが「もっとも近い将来に偉大な革命的な諸事件が起こりうる」と主観的に妄想して、日本共産党を左翼冒険主義の泥沼におとしいれ、客観的には軍部ファシズムの「把権」(権力奪取)を助けたことだという。

共産党は一九二七年テーゼから三五年の党消滅にいたるまで、同一の自殺戦術をくり返した。党員は逮捕された瞬間に党から見捨てられる。コミンテルンにたいしては忠誠をつくしたつもりであろうが、党は消滅した。

    石堂清倫『中野重治の転向−再論』

私は、別ファイル『1930年代のコミンテルンと日本支部』でもその誤りを分析した。不破哲三も「赤旗」や共産党HPで初めて『レーニンはどこで道を踏み誤ったのか』を公表した。不破哲三のレーニン批判の意図が、目先の総選挙対策としての柔軟路線にあったのは、その後の彼の発言・著書をみれば明らかである。その証拠として、共産党は、不破論文をHPから抹殺してしまった。

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』

    不破哲三『レーニンはどこで道を踏み誤ったのか』共産党HPから抹殺

)、ロシア革命そのものが根源的な誤りとするグラムシの意見

さらに、ロシア革命そのものが根源的な誤りだったとするグラムシの意見について、石堂清倫が『二〇世紀を生きる』で次のようにのべている。グラムシにこんな意見がある。一九二一年までレーニンが信じていた永続革命は、フランス革命から始まって、マルクスたちが『共産党宣言』を書いた一八四八年革命で頂点に達した。そしてそのサイクルは、一八七一年のパリ・コミューンで閉じている。それ以降は、新しいヘゲモニー運動に移らなければならない。

武力によって権力を獲得して、権力によって社会主義を建設できるという考えは誤りである。むしろ大衆自身の同意を得て、一歩一歩、暴力ではなしに文化的、経済的に新しい社会生活を実現していかなければならない。もちろん、これはロシア革命の流産のあとに出てきた考え方であり、コミンテルン的戦略戦術への批判だった。しかもこのグラムシの思想が我々に伝わったのは、戦後のことである。グラムシのことばでいえば、「陣地戦」として行わなければならない闘争を「運動戦」としてやったのが、ロシアの十月革命であったということになる。

    石堂清倫『二〇世紀を生きる』

この意見通りとすれば、1930年代のコミンテルンと日本支部の方針、活動も、暴力によって権力を奪取し、暴力によって社会主義権力を維持・強化しようとした、おそるべき時代錯誤的な誤り、レーニンの革命そのものが、暴力使用を大前提とした、アナクロニズムの革命運動であった。

このグラムシの意見を、ソ連崩壊後に発掘・公表された膨大なデータに基づいて、私流に解釈すると、別ファイル『見直し「レーニンのしたこと」、ソヴェト革命・権力からのレーニンの奪権・7連続クーデター』のようになる。

    『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』レーニン批判のファイル多数

転向・非転向問題の見直しは、グラムシの意見からも根源的に掘り下げる必要がある。転向・非転向とは、(1)天皇制打倒綱領・スローガンの正当性認否と並んで、()このようなレーニン・スターリン・コミンテルンの暴力依存革命路線を、絶対正しいとするか、誤りと認めるかどうかという問題だからである。

 2、当局の転向政策と日本共産党が内部で強行した転向政策

 〔小目次〕

   1、当局の転向政策

   2、江戸幕府・長崎奉行によるキリシタン弾圧・棄教の転向政策

   3、日本共産党が内部で強行した転向政策−1972年

 1、当局の転向政策

転向政策は、当局の対共産党基本方針の一つだった。()治安維持法による徹底した検挙・起訴、(2)大量のスパイ送り込みによる大規模な一斉検挙、()最高指導部から転向させることによる組織内部崩壊を促すことなどの方針の重要な柱だった。

  石堂清倫は、上記『中野重治の転向−再論』論文で次のように指摘している。三〇年代に入って、当局は既存の共産党組織を壊滅させる自信をもっていたであろうが、つぎつぎに生まれてくる新しい勢力、というよりは潜在力に恐れをなしてもいた。支配階級の一部には、共産党を弾圧することによって、国民のうちに彼らを英雄視する傾向が生じることを警戒する動きがあった。その対策の一つとして、この勢力を支配階級の許容しうる地帯に誘導しようという試みもあった。このことはこれまでほとんど注意されていないが、思想検事平田勲の行動はその試みの存在を裏づけているように思われる。

 平田は、資本主義変革の運動をある程度許容し、共産党の合法化を認めてもよいと考えていたようである。そしてそれを許容する代償として天皇制反対のスローガンを取り下げさせようとしたのである。それは平田個人の構想のように見えるが、日本の支配層のうちには、ことに新しい資本主義によって後退させられた勢力のうちには、平田を支持する層があったであろう。この平田に誘導されたのが佐野・鍋山の転向運動であったと思われる。

 平田的な構想がなかったら、あの昭和の大転向運動は生まれなかったであろう。転向が共産主義運動の弱い環からではなしに、その最強部から、指導者集団から生まれたこともこの考えを支持すると思われる。 しかしそこまで行かない先に、共産党はスパイ松村の手で崩壊させられ、平田構想は必要ではなくなつたというのが私の考えである。 なぜこの集団の最強部がこうした誘導に乗ったかという問題がある。

 この転向政策については、伊藤晃千葉工業大学教授『転向と天皇制、日本共産主義運動の1930年代』(勁草書房、1995)が緻密な分析をしている。石堂清倫は、この著書帯封で、昭和史の暗部である転向時代を、()不毛の革命戦略と、()出口のない侵略戦争との衝突と順応の集団現象として解明した創始的研究と高く評価している。

『日本史辞典』(岩波書店、1999年)では次のように規定している。転向 1930年代に共産主義者が権力の強制に屈して自己の思想信条を放棄したことをさす日本思想史上の用語。‘33年6月、日本共産党の最高幹部であった獄中の佐野学,鍋山貞親が、コミンテルンの指導と共産党の政策を批判、皇室中心の社会的感情を把握する必要を述べた<共同被告同志に告ぐる書>を発表すると、これを契機に治安維持法違反などで拘留されている共産主義者のなかから大量の転向者が続出、共産主義運動に壊滅的打撃を与えた。戦後,鶴見俊輔らの<思想の科学>グループ、吉本隆明らにより戦争責任論と関連して、その意味が問われた。

日本共産党の公式規定は「社会科学総合辞典」(新日本出版社、1992年)にある。ところが、「転向」項目はなく、「転向変節」で、「変節」の項目としている。「変節」とは、政治学・社会思想史用語ではなく、倫理学用語である。転向項目を独自には作らないというのが、科学的社会主義の辞典編集方針なのであろう。共産党の公式規定は次である。

変節 革命運動上の変節とは、支配階級の圧迫や誘惑によってその思想信条をかえ、裏切ること。戦前、支配階級は治安維持法下の弾圧による変節を「転向」と称した。これは裏切りをせまるために、変節することをあたかも「正しい方向に転じ向かうのだ」として、本質を欺瞞(ぎまん)し美化するものであった。天皇制警察や憲兵、なかでも特高警察は弾圧をもっぱらの職務として、共産主義者を逮捕・投獄し、テロをくわえ、この圧迫によって天皇制を支持することを強要した。

1933年,日本共産党最高指導部の一員であった佐野学、鍋山貞親は、出獄したいという一心で天皇制を支持する「転向声明書」を出し、支配層はこれを大々的に宣伝した。野呂栄太郎や宮本顕治ら党中央委員会は彼らをただちに党から除名し、その意図を暴露してたたかった。戦後、党再建の過程で、みずからの変節について反省し、ふたたび党の隊列に復帰したものも少なくなかった。→治安維持法,特高警察。

 2、江戸幕府・長崎奉行によるキリシタン弾圧・棄教の転向政策

権力による、このような大規模な転向政策は、日本史上で江戸幕府・長崎奉行によるキリシタン禁制、弾圧と棄教「転ばせる」手口があった。()昭和の転向政策と、()江戸時代のそれとはかなりの類似性がある。それを少し比較検討する。キリシタン信仰運動は、表面的には思想信条の宗教活動である。しかし、島原の乱で爆発したように本質的には体制批判の内実をもち、信仰の対象は、封建領主を敬わず、外来の一神教だった。しかもアジア、アフリカ、中南米の歴史が示すように、キリスト教宣教師たちの熱烈な布教活動を先兵として、その信者と布教地を拠点として、軍隊を送り込み、その国家体制を暴力的に転覆して、植民地にした。禁制、弾圧してもつぎつぎと生まれてくる信者数やパライソを信じて殉教者になっていく勢力に幕府、奉行は恐怖を抱いた。そこで権力側が編み出したのが、キリシタン信仰の放棄を公的に表明させる踏絵政策だった。

しかも、最高指導者のパードレ、宣教師を転ばせることを最優先課題にした。キリシタンを非合法化し、宣教師を国外追放し、残留して地下活動に入ったパードレたちを、信者内に作ったスパイで一人残らず検挙した。最高指導者のパードレたちが、拷問と懐柔によってイエスやマリアの銅版を踏んで転んだことは、一定数の隠れキリシタンが存続したとはいえ、そのキリシタン運動に壊滅的打撃を与えた。

遠藤周作は小説『沈黙』で、権力側の意図、手口とパードレの転びの苦悩、スパイの心情を緻密に描いた。篠田正浩監督は映画『沈黙』でそれらを見事に映像化した。宮川一夫カメラマンによる流麗、鮮烈なその映画を私は3回観たが、その都度1930年代の転向を連想してしまう。島原の乱は、キリシタン弾圧への反体制蜂起であり、農民一揆であり、武士・庄屋・百姓の統一戦線的決起だった。堀田善衛が小説『海鳴りの底から』において克明に描いたように、その37000人は逃亡者20余人と背教者・西洋絵師山田右衛門作1人以外は、ことごとく戦闘で死に、虐殺され、全滅した。一方、踏絵を踏んで転んだ者は10万人を超えている。コミンテルン日本支部党員、シンパにたいする当局の転向政策は、日本史上2度目の大規模なものだった。

 3、日本共産党が内部で強行した転向政策−1972年

 奇怪なことに、1972年、日本共産党常任幹部会が、民青同盟内の共産党員約600人にたいし、反体制組織内部という逆側からの転向政策を強行した。その背景には、3つがある。()、宮本顕治が、民青中央委員会・都道府県常任委員会にたいし、党中央の指導・指令から離れ、沖縄返還闘争などで独自の大衆運動を始めたという疑惑を抱いたことが契機だった。()、彼が、民青・ジャーナリスト間に、ソ連共産党分派・中国共産党分派に続いて、朝鮮労働党分派結成の動きがあると錯覚したことも原因である。()、直接の契機は、共産党常任幹部会が、民青中央委員会に事前相談をしないままで、民青幹部の年齢引下げを勝手に決定した傲慢な姿勢・手口だった。それにたいし、民青内共産党員幹部のほぼ全員憤激し、不破哲三の事後説得を拒否した事実である。

 宮本顕治が、この転向政策を発動したのは、その反対にたいする感情的な報復だった。これほど大規模な600人一斉の監禁査問→自白と転向強要→規律違反処分100人→民青からの全員追放措置は、日本共産党史上で空前絶後の党内犯罪だった。そこでの思想検事役上田耕一郎副委員長だった。民青内共産党員にたいする宮本・下司・上田が遂行した転向政策は、日本史上3度目の大規模な犯罪だったと位置づけられる。なかでも、上田耕一郎は、「トップから転ばせる」という転向政策の歴史的定石を踏襲し、宮本顕治から指令された任務を見事なまでに完遂した。

 彼ら3人は、この転向政策によって、民青を破壊した。民青は、当時の20万人から、30年後に2万人、内同盟費納入40%・8000人になり、事実上潰滅している。この犯罪結果責任にたいし、上田耕一郎思想検事沈黙したままで引退した。高橋彦博の問いかけにも沈黙した。これらテーマの詳細は、別ファイルで分析した。

    『上田耕一郎副委員長の党内犯罪事例』新日和見主義事件の思想検事役

    『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事

    高橋彦博『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

 3、コミンテルン日本支部方針の根本的誤りと個々の転向・非転向との関係

個々の転向・非転向の見直し問題である。私の見解は、このテーマを2つの側面からとらえ直す必要があるということである。上記、共産党の変節規定は、一面では正しくとも、他の面を恣意的に無視する重大な誤りを犯す一面的な規定である。

 〔第1側面〕革命運動上の転向とは、支配階級の圧迫や誘惑によってその思想信条をかえ、裏切ることという共産党の規定は、一面では正しい。転向表明は、()組織的に、共産党員であることを認め、党を離れ、今後党活動をしない、()路線的には、皇室中心の社会的感情を把握する必要を述べる。天皇制反対の綱領・スローガンを取り下げる。コミンテルンの方針を誤りと認めるとする内容である。

 〔第2側面〕、特高に検挙されると、拷問を受け、未決のままでたらいまわしにされ、転向しなければ無期懲役と脅迫され、転向すれば短期懲役で出獄できると誘惑される。それらによって陳述調書、公判で転向表明することは、権力への屈服であり、変節であろう。ただし、転向項目でなく、変節項目とするこの規定は、党派感情剥き出しの、きわめて倫理的規定である。上記データの警察・予審陳述党員2〜3%・39人の非転向者が、自分たち指導部の方針・実践の根本的誤りを棚上げした上で行う、97、98%転向者への断罪規定である。

第2の側面雪崩的に発生したのは、()コミンテルンの対日本支部方針が根本的に誤りであり、かつ、()日本支部の実践も教条的、機械的だったことが基本原因である。不破哲三は『レーニンはどこで道を踏み誤ったのか』とようやく認めた。その誤りの方針は、石堂清倫が規定した自殺戦術だった。さらには、私が『1930年代のコミンテルンと日本支部』で分析したが、コミンテルンの革命戦争方針に基づいて、かつ、軍部を敵とする以上に、社会ファシズムを当面の主要敵として、位置づけた。そこから、2〜3%・39人の非転向者には、当時の反戦平和運動の統一を破壊する役割も積極的に果たした、明確な戦争責任もある。

したがって、その誤った方針=自殺戦術を、転向によって消極的に放棄し、その組織から離脱することは、政治的自殺の回避行動になる。特高の拷問、誘惑下とはいえ、やむをえざる選択肢として正当化されるべき側面がある。この側面を完全に無視したところに、宮本式・非転向者中心党史がある。1930年代のコミンテルンの対日本支部方針、スターリン路線が根本的に誤っていたにもかかわらず、それは絶対正しいと信仰していた党員は、いかなる拷問、誘惑に遭っても教義を捨てない。

その点で、()キリシタン信仰と、()コミンテルン・スターリン信仰は、多数の殉教者を出した面でも一定の同質性を持っている。13年間の日本支部党員2300人中、わずか2〜3%の数十人だけの非転向者は、英雄的であるとともに、信心厚き者だった。その社会主義理念、犠牲的精神の気高さは歴史に残る、優れたものである。この理念・精神の純粋さと、路線・方針の誤りとの乖離(かいり)は、まさに悲劇的である。

一方、97〜98%を占める2200数十人の転向者は、変節者・裏切り者なのか。野呂・大泉・小畑・宮本・逸見中央委員ら5人で構成される当時の日本支部中央委員会は、暴力革命路線、抽象的な天皇制打倒スローガンを第一義的課題とした。その方針・実践による結果責任としての犯罪的な実害例を2つだけ挙げる。

〔実害例1〕、全協労組への誤った方針の押し付けと結果としての破壊

全協という最大・最強の合法・左翼系労働組合に天皇制打倒の革命綱領を押し付けた。その誤った方針によって、全幹部を検挙させ、組合も非合法化させ、壊滅させるという犯罪的な実害を与えた。組合執行部の半分近くが反対したのに、一票差で強引に可決させた。世界でも、日本でも革命情勢切迫、高揚というコミンテルンによる極左的情勢判断と、革命への即時蜂起という冒険主義方針を、野呂・宮本ら党中央委員会が盲信し、プロレタリアートが組合ごと日本革命に決起せよと押し付けた。これほどコミンテルン信仰の善意に満ちた、かつ、幼稚な誤りはない。

特高と思想検事らは、これで全協幹部全員を検挙できる口実ができたと大喜びした。野呂・宮本中央委員らは、この可決が、瞬時に合法労働組合を非合法革命団体に転化させ、特高による全幹部一斉検挙と全協壊滅に至ることをまるで想定できないほど幼稚なインテリ革命家だったのか。

(表4) 全協系治安維持法違反起訴者・起訴党員の全国計

1930

1931

1932

1933

1934

起訴者(組合幹部)

201

140

282

512

219

1354

うち起訴党員

11

65

154

184

90

504

 ()、これは、渡部徹編『1930年代日本共産主義運動史論』(三一書房)における西川洋三重大学助教授『共産党員・同調者の実態』(P.120)の詳細な表から、私が全協系データのみを抽出・編集したものである。この全国計は、起訴者数であるから、全協系幹部、組合員の検挙者数は1354人の数倍になった筈である。

それとも、それを突破口として、天皇制転覆の革命的蜂起が、コミンテルンのいう通り、日本全土で勃発するとでも善意で妄想したのか。当時の日本の情勢はどうだったのか。高橋彦博法政大学教授は、『日本国憲法体制の形成』(青木書店、1997年)「結び」(P.258)で次のようにのべている。そもそも、戦間期日本において、コミンテルンの32年テーゼが言う天皇制の転覆が政治日程化され政治争点化された瞬間がなかったのであり、天皇制との対決を帰結する構造分析のあれこれは、コミンテルン型左翼に特有の歴史に残す姿勢からもたらされる経済分析としてしか評価されていなかったのである。

全協とは、1932年6月に、32,000人の組合員を擁した戦闘的な、合法組合「全日本労働組合全国協議会」だった。しかし、野呂・宮本・袴田ら党中央委員会の誤りにより、革命綱領をもった非合法組織とされ、すべての幹部が検挙され、上記表のように起訴され、1934年壊滅した。1930年代前半における戦争突入か阻止か一大政治決戦時期において、これほど結果としての党中央の利敵行為は、世界のコミンテルン型共産主義運動のどこにもない。宮本顕治は、97〜98%の転向者にたいし、変節者と断罪する資格があるのだろうか。

〔実害例2〕、反戦平和運動とその統一の破壊

また、コミンテルンの革命戦争方針のみを教条的に信奉し、一般的な反戦平和運動を社会ファシズムと攻撃し、帝国主義戦争反対スローガンでなければならないとした。その結果、1930年代前半の戦争突入か阻止かの一大政治決戦時期において、反戦運動の高揚と統一を積極的に破壊したというより重大な犯罪的な実害を与えた。方針の誤りを認めるだけでなく、それらの反戦運動に破壊的実害をもたらしたという戦争責任=結果責任の存在を率直に認め、結果責任総括として公表すべきというのが、丸山真男『戦争責任論の盲点』の真意である。この革命戦争方針内容と日本支部の教条的実践については、別ファイル『志位報告と丸山批判詭弁術』で詳述した。

    丸山眞男『戦争責任論の盲点』

日本支部の革命活動スタイルは、非合法・地下活動だった。中央委員の主な活動スタイルは「赤旗(せっき)」紙面において、それら誤った方針・スローガンの原稿書き・印刷・配布街頭連絡だった。コミンテルン方針の誤りと大衆から遊離した活動スタイルにたいしてなんらかの疑問、不信を抱いた党員たちは何を考えたのか。その誤りを是正する手段は、鉄の規律、上意下達の反民主主義的民主集中制=暴力革命を遂行する軍事的集権制の下ではなかった。2200数十人は、石堂清倫のいうように自殺戦術遂行を指示され続け、特高に検挙され続けた。それらの誤った方針=自殺戦術の放棄とその革命組織からの離脱は、変節という規定、レッテルで片付けられるのか。

2300人の日本支部党員の革命精神は純粋で、その行動はファシズムの闇が無限に覆っていく中で、まさに英雄的だった。しかし、その97〜98%もが自殺戦術を放棄し、組織を離脱したことについては、まず根本的に誤ったコミンテルン方針・スターリン路線を日本で機械的、教条的に指令・実践した党中央委員会および宮本中央委員が真っ先に自己批判すべきである。それをしないままで、自殺を放棄した97〜98%を変節した連中呼ばわりするなどもっての外である。その放棄は、やむをえない正当な行為であり、変節、裏切りという一面的な規定、レッテルは誤りであったことを認めるべきである。

    宮本顕治『変節した連中』

逸見中央委員についていえば、彼には、立花隆「年表」にあるように、5人の中央委員会の一人として、自殺戦術の指令・実践に重大な政治責任がある。しかし、彼は、宮本顕治のように、信心厚き者=スターリン・コミンテルン崇拝者でなかったというだけである。転向者の心情には、従来の『共同研究・転向』にあるように、2種類ある。()ヨーロッパなどで、レーニン、スターリン、コミンテルンの方針は基本的誤りなので、そこからの転向=放棄は当然で正しいとする思考スタイルの人は、なんの良心的呵責も感じない。しかし、()当時の日本の左翼思想状況において、ほとんどの転向党員の心理としては、中野重治の「転向問題発言」と同じく、自ら裏切り行為だったという心情にならざるをえなかった。97〜98%もが党中央方針の誤りをなんら責めず、自分の側の変節、裏切りだけを責めるというのは、なんという悲劇的光景なのか。

    立花隆『日本共産党の研究』年表の一部

検挙後の逸見中央委員の言動はどう評価できるか。()、スパイ査問事件における2つの事実問題での陳述内容は、斧使用対象者以外は、秋笹、袴田と一致した真実をのべ、迎合的個所はない。()、密室審理陳述も、宮本一人を除く約2299人がしている以上、日本支部党員の通常行為である。()、当局政策に基づく転向も、拷問・誘惑への屈服の側面を持ちつつも、自殺戦術の放棄というやむをえない行為として正当化されるものである。

    『「スパイ査問問題意見書」第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相

それにも拘わらず、宮本・不破・小林らは逸見教授を、()、迎合的陳述、()、密室審理陳述をするという党決定違反、()転向という変節、裏切り、とする正反対の三重殺評価を貼り付け、逸見教授政治的殺人を行った。彼は、それにたいして沈黙で応えた。

    高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人の権力犯罪

遠藤周作の小説『沈黙』は、キリシタン弾圧、パードレ・信者への残虐きわまる拷問、殺戮、踏絵政策にたいし、神はなぜ沈黙しているのかと問いかける意味だった。彼は、神の沈黙の理由についてはのべていない。逸見教授の沈黙の理由、心情については、本人が表明していないため不明である。別ファイル「追悼集」や高橋彦博教授コメントで沈黙の意味についてさまざまな解釈がなされている。いずれにしても、宮本・不破・小林らの行為は、袴田政治的殺人であるとともに、それによって逸見教授政治的殺人となる権力犯罪だった。

 3、『日本共産党の七十年・上』−コミンテルンと日本支部の誤り記述部分抜粋

 

(宮地・注)日本共産党は、1988年、東欧革命の直前からようやく戦前の党方針の誤りを認めるようになった。しかし、他政党にたいする独善的きめつけ評価は変えていない。さらに、1994年の『日本共産党の七十年・上』には、重大な欠陥が2つある。

 

第一、誤りだったと認めた路線・方針・その実践が、()反戦平和運動と、()労働組合全協にどのような犯罪的実害を与えたのか、という実害結果の明記、その結果責任の認否を意図的に棚上げした。それは、無責任体質を露呈した誤り認知レベルにとどまっている。

 

第二、その総括レベルからは、もう一つの欠陥が生まれる。実践上の最重点具体行動としては、軍部ファシズムとの闘争よりも、「社会ファシズム」理論により、一般的な反戦平和運動の高揚と統一攻撃・破壊し、また全協を壊滅させたという結果を黙殺・沈黙した。そこから、野呂・宮本ら党中央のコミンテルン信仰善意にあふれた、革命家として幼稚きわまる利敵行為と、2300人の党員のうち97、98%の転向を生み出したこととの結果関連性を全く無視した。それは、あいも変わらない非転向者39人賛美史観・完全黙秘一人だけの宮本自画自賛党史になっている。そこでの戦争責任=結果責任の存否については、共産党の丸山批判・党史公式評価で全面否定し、自己弁護をしている。

 

    共産党『丸山批判・党史公式評価』1994年時点の評価

 

加藤哲郎教授は、『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』において、別の視点からこの宮本党史を批判している。ただし、自己の路線・方針の誤りを一切認めない前衛党よりは、歴史の真実に一歩接近したと高く評価すべきであろう。以下での赤太字は、私が付けた。

 

    加藤哲郎『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』

 

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「赤旗」と反戦平和の活動 末尾(P.87)

 

 日本帝国主義が侵略戦争拡大の道をつきすすんでいるなかで、戦争反対の旗をかかげ、平和と民主主義、真の国民的利益をまもりぬいた政党は、日本共産党だけであり、党はどんな迫害にも屈しないで、毅然(きぜん)としてたたかいつづけた。

 

コミンテルンと「社会ファシズム」論の誤り 全文(P.8788)

 

 侵略戦争に反対し民主主義をもとめるこの時期の活動は、さまざまの事情によって展開がはばまれていた。

 第一は、日本共産党が非合法下におかれているとともに、社会民主主義諸党は、反共分裂主義のうえに専制政治の根幹である絶対主義的天皇制に反対して主権在民の見地から民主主義を主張する根本的姿勢がなかった。したがって、党と党との共同行動は問題となりえなかった。この点がヨーロッパの反ファシズム闘争や抵抗運動で共産主義者、社会民主主義者、カトリック信者のあいだで地下活動でも統一戦線がくまれたのと根本的に異なる歴史的事情だった。

 

 いま一つは、コミンテルンでつよまっていたセクト的な社会民主主義論の日本の運動への影響だった。一九二八年のコミンテルン第六回大会で採択された綱領によれば、統一戦線戦術は、社会民主主義的潮流との関係では、「大衆を階級的に動員し、改良主義者の上層部を暴露し、孤立させる手段」でしかなかった。このセクト主義は、コミンテルンが一九二九年の第十回執行委員会総会で「社会ファシズム」論を採用したために、いっそう極端な形をとった。すなわち、この総会で決定された国際情勢とコミンテルンの任務についてのテーゼは、社会民主主義政党をファシズムの特殊な形態としての「社会ファシズム」と規定し、社会民主主義との闘争、とくにその「左翼」との闘争を強化することを、すべての支部に義務づけた。

 

 これらの方針は、直接には、ドイツなどで政権についた社会民主党が、警察権力をもって共産党や労働運動を弾圧し、現実に資本主義の支柱としての役割をはたし、またファシストの台頭をたすけていた事実からひきだされたものであった。第一次世界大戦中、社会民主主義政党は、ドイツ、フランス、イギリスなど多くの国ぐにで、「祖国擁護」のスローガンをかかげて帝国主義戦争を支持し、大戦後、各国で革命運動がたかまったときにも、資本主義制度擁護の立場をとって、革命運動に敵対した。また、ヨーロッパでは、社会民主主義政党は、ドイツ、イギリスなどで政権に参加し、それ以外の諸国でも露骨な階級協調政策をとって、多くの国ぐにで文字どおり「資本主義の主要な支柱」としての役割をはたしていた。だからといって、権力についている党もついていない党もふくめて、社会民主主義政党全体をファシズムと同一視することは正しくなかった。

 

 もちろん、「満蒙の権益を民衆へ」などと称して、日本軍国主義の中国侵略を合理化し、軍部ファシストとむすびつきをつよめていた社会民衆党、全国労農大衆党(三二年七月両党は合同して社会大衆党を結成)や国家社会主義の立場から「反資本主義、反共主義、反ファシズム」の三反主義綱領にすら反対して日本国家社会党を結成(三二年五月)した赤松克磨らにたいする枇判と闘争は当然必要であった。

 

 レーニンは、第一次世界大戦のさいに、帝国主義戦争の支持者に転落した第二インタナショナルの諸勢力を社会主義を名のって帝国主義的行動をとる「社会帝国主義」、「社会排外主義」と特徴づけたが、「社会主義」の名によって天皇制の侵略戦争を肯定し、その専制政治のファッショ的強化に手をかした日本の右翼社会民主主義の潮流が最悪の社会帝国主義者であり、「社会ファシスト」とよばれるべき勢力であったことは、まぎれもない事実である。「社会ファシズム」論の誤りは、そうした潮流にたいする批判や闘争にあったのではなく、そのことを理由にして社会民主主義の勢力全体を「社会ファシズム」と規定して排撃し、とくにその「左翼」を危険視したところにあった。

 

 このセクト主義は、プロフインテルンに加盟していた日本労働組合全国協議会(全協)の活動をも制約していた。全協が、すべての改良主義的幹部を排撃する態度をとったことや、他の労働組合の内部に「革命的反対派」を結成する方針をとったことは、全協に結集した階級的労働運動の戦闘的エネルギーを、労働戦線全体の前進の仕事に正しくむすびつけることをさまたげた。党が一時期、思想・信条をこえて要求で団結すべき労働組合の全協に、革命の目標である天皇制打倒のスローガンをかかげさせたことも、党と大衆団体を混同した誤りであった。

 

「三二年テーゼ」の歴史的役割 後半(P.9293)

 

 しかし、「三二年テーゼ」には、世界の共産主義運動の当時の状態を反映して、いくつかの重要な欠陥もふくまれていた。

 第一に、「テーゼ」は、日本における「革命的決戦」が切迫しているという主観主義的な情勢評価にたっていた。「テーゼ」は、日本では「かならずやもっとも近き将来に偉大なる革命的諸事件がおこりうる」として、日本共産党が「迫り来る最大規模の革命的事件の指導にたいして自己の陣列を準備する」ようよびかけた。この評価は、日本だけの問題ではなかった。

 

 当時コミンテルンには、「資本主義の全般的危機」論にたって、世界経済恐慌やファシズムの台頭などを、単純に革命的危機の世界的な成熟のするしとみなし、資本主義諸国の情勢を革命情勢への一路接近の過程としてとらえる誤った傾向が、全体として根づよくあり、「三二年テーゼ」の情勢規定はそうした傾向の一つのあらわれであった。この傾向は、一九三二年八〜九月のコミンテルン第十二回執行委員会総会の決定では、いっそう顕著になり、日本は革命のはじまった中国やスペインにつづいて、ドイツやポーランドとともに、革命情勢のもっとも切迫している国にかぞえられた。

 

 こうした非科学的な情勢評価は、党が、情勢と力関係の冷静な分析のうえに、正確な政策や戦術をたてるのを妨げる一つの要因となった。

 

 第二に、「テーゼ」は、セクト主義を批判しながら、セクト主義の最大の根源の一つであった「社会ファシズム」論をいっそうはっきり定式化するという矛盾におちいっていた。

 

 当時、社会民主主義者のさまざまの潮流は、天皇制の専制支配を免罪するとともに、侵略戦争への断固とした反対の立場にたたず、わが国の大衆に大きな害悪を流していた。その「排外主義」「分裂主義」の危険を警告することは必要だったが、社会ファシズムとの闘争という定式化は、社会民主主義者の役割への正しい批判的立場をかえって妨げ、大衆のあいだの進歩的エネルギーの結集をかえって困難にするものだった。

 

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 〔関連ファイル〕

    石堂清倫『中野重治の転向−再論』

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

    田中真人『1930年代日本共産党史論』(あとがき)

    伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

    加藤哲郎『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』

    共産党『共産党の丸山批判・党史公式評価』