宮本顕治議長(当時)による丸山眞男批判
新春インタビューと第11回中央委員会総会冒頭発言
〔目次〕
1、新春インタビューでの丸山眞男批判部分 1994年1月1日
2、第11回中央委員会総会冒頭発言での丸山眞男批判部分 1994年3月27日
3、宮地コメント−「丸山氏の『共産党戦犯』論」という宮本氏の歪曲的規定
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志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクスとのはざまで
武藤功 『丸山眞男と日本共産党』
H・田中 『市民のための丸山眞男ホームページ』
Google検索『丸山眞男』
1、新春インタビューでの丸山眞男批判部分…『赤旗』1994年1月1日号、『日曜版』1月16日号
学問の世界での日本共産党の働き―「丸山理論」への本格的批判
それとの関係で、私たちは理論的にどう前進したか、思想や理論の問題ではどうかということも考えてみる必要があります。昨年は、学問の世界でも、日本共産党が、有数の働きをした一年だったと思うんです。
まずいえるのは、丸山眞男の日本共産党にも戦争責任があるという、近代政治学の立場からの日本共産党否定論にたいする批判、反論です。丸山氏の議論は、たまたま、日本共産党が「50年問題」で混乱している時期に世間を風靡(ふうび)した学説です。これにたいして、日本のインテリゲンチアのなかで若干のしっかりした人は学問的にも「丸山理論」を承服しないで、正論の立場から奮闘し彼を批判したことは十分記憶されなければならないと思います。しかし、当の日本共産党が、ああいう状況だったために、十分に反論しきれなかった。
私も、1957年の鶴見俊輔氏らとの対談で「共産党の戦争責任」なる主張を正面から批判していますが(『中央公論』対談「日本共産党は何を考えているか」、『宮本顕治対談集』〔新日本出版社、1972年〕所収)、党としてそれにきっちり反論するというような状況にはなかったわけです。その後、党として丸山氏の議論が歴史の階級闘争の弁証法を理解しない誤ったものという批判はおこなってきました。志位和夫同志の「退廃と遊戯の『哲学』」(1986年)でもそれに言及しています。
そういうなかで、昨年、初めて丸山眞男氏にたいする全面的、本格的な批判が「赤旗」評論特集版(1993年5月31日号)で展開されました。さらに、『前衛』(1993年12月号、「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」)で批判しました。若い人が一生懸命論文を書いて、しかもただ丸山氏の「共産党戦犯」論の批判だけでなく、彼の学説の背景、彼に影響をあたえたドイツの学者の学説はどういうものかを調べて、丸山氏はドイツでさえいえなかったようなゆがめた共産党批判を行っているということまでをちゃんと書いています。堂々たるものです。
「赤旗」評論特集版の長久理嗣論文――「社会進歩への不同意と不確信、『葦牙』誌上での久野収氏の議論について」も、集団的労作ですが、「共産党の戦争責任」をうんぬんした丸山眞男氏の議論をはじめて本格的に批判したものです。丸山氏の議論というのは、要するに、日本共産党は侵略戦争をふせぐだけの大きな政治勢力にならなかったのだから負けたのだ、したがって、侵略戦争をふせげなかった責任がある、“負けた軍隊”がなにをいうか、情勢認識その他まちがっていたから負けたんだと、そういう立場なんです。これにたいして長久論文は、世界の歴史の決着はこの問題でどうついたかをはっきりさせました。
日本共産党の存在意義そのものにかかわることですが、戦後の憲法論争や世界史の結論からみれば、日本共産党の立場こそ先駆的だったのです。けっして日本共産党は負けたのではありません。歴史をつうじて、第二次世界大戦の結末をつうじてあきらかになったことは、日本共産党が先駆的な展望をしめしていたということです。しかも実際の勝ち負けという点から見ても、日本共産党はいわば大きく日本国民を救ったといえる、日本歴史の新しい主権在民の方向と展望を示す、そういう基礎をつくったんだということを書いたのです。
これは当然の結論ですが、これが丸山氏の議論のいちばんの盲点になっていました。日本共産党は非転向といっても、みんな捕まり、軍旗とともに投獄された、結局、負けたじゃないか、というような誤った議論を論破する仕事を若い人をふくめて集団的におこなってきたのは、戦前史における日本共産党の役割をめぐる日本の学問のゆがみを正すことに貢献したといえます。
2、第11回中央委員会総会冒頭発言での丸山批判部分…『赤旗』1994年3月27日号
新しい理論的探究――丸山眞男の天皇制史観への反撃
わが党はいろいろな新しい理論的な探究もいたしましたが、その一つが、丸山眞男の天皇制史観の問題です。この丸山眞男・元東大教授の天皇制史観はなかなかこったもので、それを近代政治学として裏づけているものであります。つまり、天皇制は無責任の体系である、責任がとれない体系であるというものです。それだけならともかく、その天皇制に正面から反対した日本共産党にも、実は天皇制の「無責任さ」が転移しているのだというのが、丸山の天皇制史観の特徴であります。
これは、1950年代に展開されたもので、党中央が解体状態で統一した力をもたなくて、こういう党攻撃にたいしても十分な反撃ができなかった、いわば日本共産党が戦闘能力を失うという状況のなかで、丸山のような見解が学界を風靡(ふうび)したわけであります。何十年かたちまして、日本の現代論についてみると、党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論をもってきて、いまだに自分たちの合理化をやっているということがわかりました。革命運動のなかに天皇制的精神構造があるというようなことをいいまして、いろいろな攻撃をくわえてきたわけであります。
丸山眞男の一番大きな誤りは、歴史を大局的に見ることができないということです。戦時中に日本共産党がかかげていた「天皇制反対」とか「侵略戦争反対」反共攻撃、ただ日本共産党が大衆をどう動員したかということではなくて、ひろく世界の戦争とファシズム反対という、世界の民主主義の潮流と合致していたのです。戦後の日本も世界もその方向に動かざるをえなかった。そこに日本共産党の先駆性があるわけです。
それを彼は、日本共産党の幹部たちも雄々しくたたかったけれども、結局は、「敗軍の将」であって、「政治的責任」を果たさなかったと攻撃している。「死んでもラッパを離しませんでした」という木口小平の話のような結果ではないかという嘲笑(ちょうしょう)をした。そういう丸山の理論にたいして、50年代当時は十分な反論ができませんでしたが、いまはちがっております。
何十年かたっておりますが、やはり非常に大事な問題です。しかも学界ではその後、丸山眞男をこえるような天皇制論をだれもやっておりませんから、これが一番の権威になっているのです。したがって、さきほどあげた丸山眞男の一番の盲点を中心とした反撃が大事です。『前衛』では昨年の十二月号に若い党の研究者がしっかりした論文を書きましたが、五月号には丸山の天皇制史観に焦点をあてて学問的にも充実した別の若手研究者の論文が発表されようとしております。
3、宮地コメント−「丸山氏の『共産党戦犯』論」という宮本氏の歪曲的規定
〔小目次〕
3、宮本氏の歪曲的規定の根拠となる丸山氏の文献は存在するのか
『共産党戦犯』論と「政党の政治責任としての戦争責任」論とでは、その意味がまるで異なる。
侵略国側の戦争責任といった場合、天皇、軍部、財閥等の戦争推進者の戦争責任は絶対的なものであり、それは戦争犯罪に相当するものとして、「戦犯」となる。
それ以外の国民、各階層、各政党は、被害者であると同時に、直接間接の加害者となったのであり、侵略国側の国民としての加害責任が全てに問われる。ただし、それは政治責任、結果責任としての「戦争責任」であり、アジアの国々を侵略し、2000万人の死者を出したという加害の責任があるとしても、捕虜虐待等の事例を除いては、「戦犯」という性質のものではない。
宮本氏は、丸山氏の「共産党の政治責任としての戦争責任」論を「丸山氏の『共産党戦犯』論」にすり替える、ひどい歪曲をしている。
次に、国民全体の中で、(1)戦争に積極的に協力、加担した個人、団体、政党、(2)戦争進行に消極的加担、無作為、無抵抗だった者には戦争責任が存在する。そして、(3)戦争に一貫して反対し、闘った政党にも戦争責任が存在するのか、それとも一貫して反対したが故に戦争責任を「免責される」のかという問題が出てくる。具体的には、コミンテルン日本支部は日本における唯一の「免責団体」となるのかというテーマが浮上する。
宮本氏は、コミンテルン日本支部にとって、1922年結成から1935年壊滅までの13年間、戦争に一貫して反対し、闘ったことが「絶対的免責事由」なのであり、政治責任、結果責任としての戦争責任を問われるいわれは一切ないという立場に立っている。
それに対し、丸山氏は、果たしてそう言い切れるのか、(1)天皇の戦争責任と(2)共産党のそれを先験的に除外するという「大多数の国民的通念」は正しいのかという疑問を提起した。その根拠として、次の二点を挙げている。
〔疑問点1〕、戦前の日本共産党が、戦争推進か阻止かという点で、「体制」か「反体制」かという点で、天皇制の対極にいた政党であり、「最も能動的な政治的敵手」であったという事実がある。
〔疑問点2〕、前衛政党、即ち前衛党の看板を掲げた政党だったことである。前衛党とは、科学的真理の、世界と日本における唯一の認識者、体現者であり、政治的実践における無謬者であると自己規定してきた世界観政党だった。そういう前衛党の看板を掲げる以上、戦争突入という結果になったことに対する責任をのがれることはできない。そこから独自の立場での戦争責任を認めるべきではないかという疑問を提起した。
(1)天皇の戦争責任が徹底的に追及されず、同時に、(2)国民全体、各階層、各政党の戦争責任問題の位置づけを確定するのが弱いことが、日本の政治状況にとって重要な問題となっている。(3)天皇制の対極にいて、かつ上記の規定の前衛党を名乗る日本共産党が「日本共産党だけは一切戦争責任がない」としているのは、それらを追及し、確定していく上での重大な障害の一つになっているという状況認識が、丸山氏の見解の根底にある。
この点については、水田洋名古屋大学名誉教授は、『象、22号』で、「日本共産党は、最近、丸山眞男が四十年近くも前に書いた共産党戦争責任論に、むきになって反論しているが、『敗軍の将』にも、戦争犯罪の主犯たちとはちがった意味で責任があるのは当たり前だし…」と批判している。
また、高橋彦博法政大学教授は、『左翼知識人の理論責任』(窓社)の「戦争責任論の欠落部分――左翼の側の権威主義」の章において、同じような論旨を展開した。
3、宮本氏の歪曲的規定の根拠となる丸山氏の文献は存在するのか
『共産党の丸山批判・経過資料』、3−2)の(注)でも書いたが、上記の「丸山氏の『共産党戦犯』論」(新春インタビュー)という宮本氏の断定的規定はどの文献を根拠としているのか。私の調査、検索では、丸山氏によるその用語使用、それを類推させるような言い回し使用は一切ない。
もしそれが丸山氏のどこかの文献に存在するのであれば、(注)で述べた私の意見は撤回する。その存在をご存知の方は、メールで教えていただきたい。もしそれがないのであれば、宮本氏および共産党は、「学問の世界での日本共産党の働き」などと「学問」を語る資格はない。
第一は、共産党という民主集中制の上意下達の組織においては、最高指導者の発言は絶対的な重みを持つからである。とくに党大会前後のすべての「上り」「下り」会議=都道府県党会議94回、地区党会議600回以上、支部総会約50000回での口頭報告、討議において「丸山氏の『共産党戦犯』論」「共産党否定論」が、丸山氏の論旨の様々な歪曲をからめながら、まことしやかに伝えられ、徹底されたからである。それを聞いた36万党員は、「共産党戦犯」などという丸山眞男を全く軽蔑し、頭のおかしい馬鹿げた学者だと笑い者にし、さらに強い敵意を抱くことになる。
第二に、この「共産党戦犯論」は、『赤旗』1994年1月1日号で50数万人に、『赤旗(日曜版)』で200万人に、最高指導者による丸山眞男人物像として、公式見解の形をとって宣伝されたからである。
これはやはり見過ごすことはできない。他にも、丸山氏の論旨を歪曲した個所が丸山氏の天皇制論をふくめて、多々あるが、ここではふれない。これ以上書くと、(コメント)の範囲を超えてしまうので、別ファイルで改めて考察することにする。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクスとのはざまで
武藤功 『丸山眞男と日本共産党』
H・田中 『市民のための丸山眞男ホームページ』
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