丸山眞男先生から教えられたこと

 

日本共産党の丸山眞男批判

 

田口富久治

 〔目次〕

   1、『丸山先生から教えられたこと』

   2、日本共産党の丸山眞男批判について

      『戦後日本政治と丸山眞男』より、丸山批判関連部分の抜粋

      1)、むすびにかえて

      2)、

 

 〔関連ファイル〕         健一MENUに戻る

     『共産党の丸山批判・経過資料』

     『志位報告と丸山批判詭弁術』

     宮本顕治  『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判

     志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判

     共産党   『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価

     丸山眞男  『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     石田雄   『「戦争責任論の盲点」の一背景』

     田口富久治『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

              『21世紀における資本主義と社会主義』

              『どこへ行く日本共産党』

              『マルクス主義とは何であったか?』

              『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

              『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクス

              『丸山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず』

              加藤哲郎『田口富久治「戦後日本政治史」書評、および私的断想』

     水田洋   『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

              『記憶のなかの丸山真男』

     武藤功   『丸山眞男と日本共産党』

     H・田中   『市民のための丸山眞男ホームページ』

     Google検索『丸山眞男』

  1、『丸山先生から教えられたこと』

 (注)、これは、「葦牙、23号」(1996、12)の丸山眞男追悼特集に掲載された田口富久治立命館大学教授の上記題名の全文である。丸山氏の引用文における傍点については、こちらで太字にした。このホームページに全文を転載することについては、田口氏のご了解をいただいてある。

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 丸山先生が奇しくも五十一年目の敗戦記念日にお亡くなりになったことを知ったのは、八月十五日の新聞の朝刊によってであった。八月二十六日の東京・千日谷会堂での「偲ぶ会」には参列させていただいたが、先生が最後の最後まで意識を明晰に保たれ、奥様や身内の方々、医師、そして看護婦さんにまで感謝の言葉を残されて逝かれたことを知って、先生の人間としてのインテグリティにあらためて心打たれ、哀惜と追慕の念を禁じえなかった。今となっては、心から御冥福を祈るのみである。

 戦後の日本の思想界、いな近代日本思想史における丸山眞男の屹立した地位、そして戦後の政治学界において丸山眞男の与えたオリエンテーリングの卓抜した役割について、ここで論じるつもりはない。それはこれから本格的な研究の主題になると思うし、私自身もこのうち後者の問題については、近く一文を草したいと念じている。ここでは、四十数年に及ぶ丸山先生との御交誼を通して、私が先生から学び、教えていただいたことの一端を披露して、先生のお人柄と「学問の精神」を偲ぶよすがとしたい。

 私が「丸山眞男」の名前をはじめて印象づけられたのは、一九四九年秋以降か五〇年になってからの東大・駒場寮の壁新聞によってではなかったかと思う。例のイールズ旋風の頃で東大でパージの対象とされている数名の教師の中に「丸山助教授」の名もあがっていたからである。五一年四月に本郷に進学したが、丸山先生は御病気で、先生の「東洋政治思想史」の講義は聴講できなかった(家永三郎講師が代講された)。幸せなことに一九五三年度には先生は学部演習だけを担当されることになり、私はその四月から法学部助手になっていたが、一年下の五四年度卒の学生とともに、演習への参加を許されたのである。演習のテーマは、たしか「日本のナショナリズムとファッシズム」で、先生の一、二回のオリエンテーションの後、各セミナー員が 、自分の選んだ思想家、政治家について報告を行い、討論と先生のコメントが加えられるという形式の演習であった。この演習の内容については割愛せざるをえないが、助手時代の私は、丸山先生が直接の指導教授ではあられなかったにもかかわらず、いまから考えるとまったくはずかしくなるような一身上の問題で先生に御相談にうかがったり──そんなときでも先生はいやな顔一つせず、うん、うんと私の稚拙な悩みごとを聴いて下さった──、一級下のU君と中野の診療所に先生のお見舞いにうかがったりしていた。もともと、鼻っぱしこそ強かったが、知的には奥手で、すぐれた先輩や同僚との共同研究生活の中ですっかりインフェリオリティ・コンプレックスに陥っていた私が、悪戦苦闘の末になんとか「助手論文」を書き了えて、明治大学に就職できた後で、丸山先生が、「田口君が、よくもまあここまでやったな」という趣旨の感想を洩らされたということが、風のたよりに聞こえてきて、無上にうれしかったことを思い出す。

 すでに助手になる頃までには、思想的にも政治的にもある特定の立場にコミットメントを来していた私にとって、戦中から戦後にかけての丸山先生のお仕事は、自分の思想と行動をたえずそれとつき合わせ、反省するためのいわば不動の道標であった。そのような意味で、研究生活に入る頃から今日にいたるまで、私がくり返しくり返し読み、私の「マルクス主義」とつき合わせ、反省の糧を得てきた先生の労作は、つぎの三点である。

 第一は古本で買った『人文第二号』で読んだ「科学としての政治学」である。この論文は、戦後日本の政治学に基本的な方向づけを与えた画期的論文としてあまりにも有名であるが、「たとえ彼が相争う党派の一方に属し、その党派の担う政治理念のために日夜闘っているというような場合にあっても、一たび政治的現実の科学的な分析に立つときは、彼の一切の政治的意欲、希望、好悪をば、ひたすら認識の要求に従属させなければならない」という格率は、私の座右の銘であり続けた──もっとも私は愚かにも、時としてこの格率を忘れて研究者としての倫理を踏みはずすことがあったが。

 第二は、これも助手になってから読んだのだが、先生の「福沢諭吉の哲学」(『国家学会雑誌』第六一巻第三号、一九四七年九月)は、先生の福沢研究の中でも最高の傑作であると私は考えるが、私はこの論文の中に、当時の日本の左翼の「事物への惑溺」と「権力の偏重」、つまり、福沢=丸山による日本左翼の思考様式と価値意識の批判を読み込んだのであった。これと似たような経験を私は「闇斎学」と「闇斎学派」(『日本思想大系』一九八〇年)でもして先生にいただいた抜刷のお礼として感想を書き送ったことがある。もちろん、ここで問題なのは私の「読み込み」の妥当性ではなくて、私が先生の論文から何を学んだかということである。

 第三は、『世界』(一九五六年十一月)に初稿がのせられた「スターリン批判の批判──政治の認識論をめぐる若干の問題」(『現代政治の思想と行動』に大幅に加筆され、「『スターリン批判』における政治の論理」として収録)である。「スターリン批判」は世界の共産主義運動とマルクス主義者に巨大な衝撃を与えたが、この批判を「政治の認識論」の視覚からどう読み解くか、この論文は明晰にして透徹した解答を与えていた。私個人はこの論文によって当時のある種の「混迷」から脱出することができたが、今回『思想と行動』の第二部追記を読み返してみて、つぎのような一節を見出してあらためて感慨を新たにした。

 「多様性は政治の必要からは『止むをえざる悪』としても、真理にとっては永遠の前提である。マルクス主義がいかに大きな真理性と歴史的意義をもっているにしても、それは人類の到達した最後の世界観ではない。やがてそれは思想史の一定の段階のなかにそれにふさわしい座を占めるようになる。そのとき、歴史的なマルクス主義のなかに混在していた、ドグマと真理とが判然とし、その不朽のイデー(人間の自己疎外からの恢復とそれを遂行する歴史的主体という課題の提示)ならびにその中の経験科学的真理とは沈殿して人類の共同遺産として受けつがれて行くであろう。ちょうどあらゆる古典的思想体系と同じように……。」(同書、五五二ページ)

 さて、私は生涯に一度だけ丸山先生の厳しい叱責を受けたことがある。それは私が当時の明治大学の同僚と共訳したA.ローゼンベルクの翻訳『民主主義と社会主義』(青木書店、一九六八年)の「訳者あとがき」で、明らかに訳者あとがきの範囲を逸脱した文章を書き、それを丸山先生に送ったとき返ってきた叱責の葉書である。先生は私が学問の世界におけるフェアプレイの精神を逸脱した琴似がまんがならなかったのである。私はこの苦い経験から得た教訓をその後、片時も忘れたことはない。これに類した経験としては、多分一九五〇年代の中頃ではなかったかと思うが、なにかの機会に、丸山先生が左翼政党のある理論的サブ・リーダーを評して、「あの思想官僚が云々」とはきすてるようにいわれたことがある。先生にとっては高校・学生時代に堪えがたい屈辱感を味わされた戦前日本の特高警察だけではなく、戦後左翼に見られた「思想検事」もまた、もっとも忌むべき、かつ軽蔑の対象であったのである。

 まさにその反面において──というよりは丸山眞男のポジティブな「学問の精神」、より広くはその思惟様式と価値意識において(ここに私は福沢と丸山の共通性を見るのだが)──、先生は自分の学説の批判者に対して寛容であり、そのような後学に対する最大限の援助と配慮を惜しまれなかった。一例をあげれば、私は一九七五年に名大法学部に赴任したが、そこで同僚となった故守本順一郎教授から、同氏が名大法学部に就職するさい、長文の推薦文を書いて採用を強く慫慂されたのが丸山教授であったことを聞かされた。守本氏は東大経済学部の出身であり、講座派マルクス主義の系譜に連なり、『思想』誌上に丸山先生の徳川幕藩体制の正統イデオロギーとしての朱子学等の把握の批判を書いて学界にデビューした東洋政治思想史家であった。この守本氏を名大法学部初代の東洋政治思想史講座の担当者に、同氏の学問的業績のメリットと可能性を詳細に評価して心から推薦したということ、ここに丸山先生の、学問の世界におけるフェア・プレイの精神が如実に示されている。しかし話はここでおわらない。守本氏は一九七七年一〇月一日、五十台半ばの若さで世を去られた。名古屋大学法学部教授会は、守本教授の追悼論文集を編むにあたって、丸山先生に特別寄稿をお願いしたところ、先生はこころよくお引き受け下さり、それが「思想史の方法を模索して──一つの回想」(名古屋大学法政論集、七七号、一九七八年)に他ならない。丸山先生の故人に対する御厚情に、私を含めた編集委員一同、そして守本教授の門下生たちが心から感激し、感謝申し上げたことはいうまでもない。

 一九八〇年の秋には、丸山先生に名大法学部大学院の集中講義に御来駕いただいた。テーマは「まつりごとの構造」を中心とするものであったが、その間の一夕、丸山先生を拙宅にお招きして、家内の手料理で楽しい数刻を過ごすことができた。その後、先生からいただいた十一月四日付の心あたたまる御礼状は、いまも大切に保管してあるが、その折、先生は次男の方の病気のことで明日名大医学部の某教授の話を聞くことになっていると洩らされた。しかし八四年十二月には御次男の訃報をいただいた。先生と奥様の御心中を察して暗然としたことを思い起す。

 さて私は、一九九四年の名大退職の頃、熟慮の末、若い頃からの自らの政治的コミットメントを断つ決断をした。そして同年八月十日丸山先生宛書簡で、この件につき先生に報告した。なぜそうしたかというと、私は先生のいわゆる直弟子ではなかったし、また先生中心の思想史の研究会の同人ではなかったけれども、ゼミ生の一人として、いつか丸山ゼミの縦の会があったときスピーチで語ったように、シャーロック・ホームズならぬ丸山ゼミの「ベーカー・ストリート・イレギュラーズ(不正規隊)」の一員をもって自ら任じており、そのような資格で、陰に陽に御指導と励ましをいただいてきた先生に事の始末を報告する責任を感じたからである。病床の先生からは、平成六年(九四年)九月七日、熱海の消印で、御返事をいただいた。このお手紙の私事にわたる部分は省略して、最後の一節だけ引用させていただきたい(これはもともと私信であり、この一節の公開もためらわれたのだが、そこにはいつにかわらぬ先生の「学問の精神」が横溢しており、私個人にとってのみならず、同学の士一般に対する先生のメッセージが込められていると考えられるからである。)

 「……現代日本の言論状況についての私の感想をいえば、むしろ、『マルクス主義とコンミュニズムの擁護のために』という一文を書きたいくらいです。マスコミやそれと結びついた評論家ならいざ知らず、堂々たる(?)社会科学者までが、社会主義の一つの発展形態としてのコンミュニズム、そのまた一分岐としてのレーニニズム、その現実化としてのソ連国家、その国家の歴史的変貌、といったそれぞれの次元のちがいを一切ムシして、もう社会主義は過去のものになった、といった言説を吐いている珍景は日本だけです。アメリカの言論の方がまだマシです。不一、」

 私は、この私にとっての「遺言」となった先生のメッセージを重く受止めていきたい。この拙文を読まれた皆さんは、どう思われるであろうか。

 〔追記〕、やや脈絡をつけにくいが、私たちが、最後に先生のお話をうかがうことができたのは、九五年十二月三日の丸山ゼミの有志の会(新宿三井クラブ、十七〜二十時)においてであった。その時の先生のお話の中で、オウム事件に触れられた部分を、その直後にパソコンに入れたものを、参考までにそのまま再録しておく。「オウムはひとごととは、思えない。一九二〇年代──三〇年代は、オウムの時代だったのではないか。ある集団のなかで九九%が信じていることを信じないということは、多数からの孤立感という恐怖を生む。しかしそれよりみっとこわいのは『世間』からの孤立、『他者感覚』のないことのこわさである。存在が意識を決定するという。われわれの意識は、実はわれわれのつきあいの範囲によって決定されることが多い。だからこそさまざまな違う角度からの話を聞くのが、大切なのだ。いろいろな角度から見ることによって、客観的真理に接近できるのだ。」

(一九九六年九月三十日記)

 2、日本共産党の丸山眞男批判について

(注)、これは立命館大学人文科学研究所・現代史研究会発行『現代史研究会月報、第30号』(1997.9.30)に掲載された田口富久治政策科学部教授の『戦後日本政治と丸山眞男――若干の個人的回想をまじえて――』の報告と討論の抜粋である。

 報告の目次は、1、丸山青年の特高体験、2、原爆体験と敗戦体験、3、丸山眞男と八月革命説、4、平和問題懇談会と丸山眞男、5、安保闘争と丸山眞男、6、東大紛争と丸山眞男、むすびにかえて……となっている。

 日本共産党の丸山眞男批判についての関連部分は、「むすびにかえて」の一部と、「討論」の一部で、以下その部分だけを抜粋した。

 1)、「むすびにかえて」の一部

 さて丸山は、1956年『思想』3月号に「思想の言葉」(後に「戦争責任論の盲点」という表題をつける)を執筆します。この小品は、戦後日本における戦争責任論の盲点として、昭和天皇の戦争責任と共産党のそれを提起したものですが、当時、前者については若干の討議があったものの、後者にかかわってはほとんど論議されることがなかったようです。ところが、それから40年近くたって、1993年から94年7月の日本共産党第20回党大会の時期にかけて、日本共産党側は、その機関紙誌で、この小品を中心とした激しい丸山眞男批判キャンペーンを行い、党大会での公式報告などでも、丸山の共産党戦争責任論を「反動的俗論」「反動的支配層の願望にかなう」ものと断じ「こうした議論の根本には、だれが真理の旗をかかげて歴史にたちむかったか、それが歴史によってどう検証されたかをまじめにみようとせず、冷笑をもってとらえようとする観念論的・傍観者的歴史観がある」と決めつけていたのです(この問題について管見のかぎりでの唯一の体系的な批判的考察として、武藤功「丸山眞男と日本共産克」『葦牙』23号、1996.12 田畑書店があります)。私自身が、このキャンペーンをどう受け取めたかといえば、批判者の側は、丸山の議論とその趣旨を正確に理解する能力(「意欲」)を欠いており、また『前衛』批判論文の一つで、丸山かこんなことをいい出したのは、彼が戦争中、東大法学部助教授の地位を保証され、天皇制批判も戦争反対もいわなかったうしろめたさを隠すためであった、という趣旨の文章を見出したとき感じた「絶望感」、「どうにもならない」という印象でした。私は助手として丸山の1953年度の演習に参加していたのですが、ある時、丸山はイデオロギー批判の一形態としての「イデオロギー暴露」の手法について解説し、ある論者の言説を、その論者の個人的利害や動機に還元して「暴露」する手法は、批判の仕方としては最低のやり方だ、と教えられていたからでした。(なお、イデオロギー暴露というやり方の丸山による、より体系的な理解は「福沢における実学の展開」論文に見られる)なお、石田雄は『みすず』427号の丸山眞男追悼号(1996.10、後に『丸山眞男の世界』みすず書房1997年に収録)に寄稿した小論「『戦争責任論の盲点』の一背景」で丸山が共産党の責任論を論じた動機の一つに、1952年のメーデー事件で、東大法職組の女性職員二人の逮捕事件があったということを丸山自身から聞いた(95年11月25日の最後の「比較思想史研究会」において)と書いております。つまり、このような事態・結果に対して、当時の共産党の指導部が責任意識をもっていたかどうかを問題としたことが執筆動機の一つであったということです。

 日本共産党が、このような無理解、低級な批判、そして「反動的俗論」というような(私の目からみた)丸山に対する誹謗を撤回するようになる日がいつか来るのでしょうか。

 2、「討論」の一部……司会・末川清

 (質問)、丸山さんの「戦争責任論の旨点」(1956年3月)で気になっているのですが、あの時点であれが出たことの意味です。従軍慰安婦等の戦後責任の問題に関して左翼を含めて戦争犯罪を追求したとは60年代以降思えない、戦後に戦争責任をとらなかったという戦後責任の問題です。あの論文は共産党の戦争責任について言ったけれども、もう一つは国民の戦争責任というところまで読み込んで良いのかなと思います。あの文脈が時代背景を無視して唐突感を与えたでしょうし、丸山さんのあの時点での戦争責任論というのはストレートにはなかなか難しかったのではないでしょうか。もちろん現在の戦後責任論から見ると、単に支配層の責任ではなくて非支配層、国民の責任をトータルに問うという視点は貴重だったと思いますが。そういう文脈から見ると先生は今どうお考えかなと思います。

 田口、 これが出たのは56年の3月で、ちょうど日本共産党の六全協の後ですが、丸山さんがあそこで言っていることは要するに戦後日本の戦争責任――先生が言われた民衆の戦争責任を含めて――の問題が決着がつけられていない。というのは、一つは主権者統治権者の役割を実際に担っていた天皇裕仁の戦争責任に対する問題を結局すっぽかしてしまったということです。あの論文の4分の3以上は前置きと天皇の責任論なんです。最後のところに日本共産党の戦争責任論が出てくるわけで、日本共産党がもし――これは戦前の党を問題にしているわけですけれども――日本の労働者階級の前衛党ということであれば、前衛党として結局戦争を防止できなかったということについて、政党として自分達の力不足の故に国民を戦争に駆り出させてしまった、そのことについてのウエーバー的意味での結果責仕の問題は残るのではないか、ということです。あの論文で丸山が言いたかったことは一番最後のところなんです。つまり一方では天皇が全く戦争責任をほうかむりしている、日本共産党も結果として国民を戦争から救えなかった前衛党としての結果責任というものを明らかにする必要がある。しかし明らかにすることによって実は非常に広範なマルキストだけではないリベラル左派とかそういう人達まで含めた広範な統一戦線が結成されていく芽が出てくるのではないかということです。丸山の言葉はきついですが、したがって不破哲三の言葉もきつくなってくるわけですけれども、そこのところを見逃して、われわれは歴史的真理の立場にたっていたんであって、それが戦争責任になるとはとんでもない話だ、というのは理解能力の欠如だと僕には思える。

 それからさっさご紹介した石田さんの伝えるエピソードは、これは戦後の問題ですね。僕は実は1952年のメーデーの時は助手ではなく学部の4年生だった。僕はあの時メーデーに行かなかったけれども二人の女性職員が警察に捕まった。東大法学部は変なところで助教授以上は事実上組合員になってはいけないが助手は組合員になれるというので、助手になってから僕は組合員になり、一緒に付さ合ってきた方々ですが、皇居前広場に突入するというプロットは出来ていたんだけれども、何気なくハイヒールをはいてメーデーに参加した女性職員が二人とも捕まってしまった。それについて東大の法学部はもちろん責任は無かった。法学部には共産党の職員の細胞もあったでしょうし、学生の細胞もあったでしょうけれども、それも全く何も言わない。また全体のプロットを書いた勢力もいたはずです。その人達から何の挨拶もなかった。デモに誘われた人達に対して彼らは実に無責任だったということが、56年3月の小論文の執筆の一つの動機になったということですね。

以上(共産党の丸山批判関連部分のみ)

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     『共産党の丸山批判・経過資料』

     『志位報告と丸山批判詭弁術』

     宮本顕治  『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判

     志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判

     共産党   『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価

     丸山眞男  『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     石田雄   『「戦争責任論の盲点」の一背景』

     田口富久治『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

              『どこへ行く日本共産党』

              『21世紀における資本主義と社会主義』

              『マルクス主義とは何であったか?』

              『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

              『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクス

              『丸山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず』

              加藤哲郎『田口富久治「戦後日本政治史」書評、および私的断想』

              『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクスとのはざまで

              『丸山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず』

     水田洋   『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

              『記憶のなかの丸山真男』

     武藤功   『丸山眞男と日本共産党』

     H・田中   『市民のための丸山眞男ホームページ』

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