丸山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず
田口富久治
(注)、これは、立命館大学『政策科学・13巻3号』(2006年3月)に掲載された田口富久治名古屋大学名誉教授の「研究ノート」である。私(宮地)のHPに全文を転載することについては、田口氏の了解をいただいてある。
〔目次〕
3、注
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
政策科学部の同僚として、また1988−91年に日本学術会議会員(第二部)として、一緒に活動した山下健次氏の追悼記念号に執筆する機会を与えられたことを、『政策科学』編集部に感謝する。論題としては、本誌11巻3号(04.3)に私が執筆した「丸山眞男をめぐる最近の研究について」1)以後、とくに05年7月以後に公刊された三つの著書および論文を紹介し、検討する。
1、丸山眞男『自由について 七つの問答』
丸山眞男『自由について 七つの問答』(聞き手 鶴見俊輔、北沢恒彦、塩沢由典。SURE、05・7.15.pp.270)は、1984.10.6(東京)、1985.6.2(京都)の二回にわたって、丸山から「文体研究会」メンバーである上記三人を聞き手として行なわれた質疑の記録を刊行したものである。聞き手三人のうち、北沢恒彦(故人)の『隠された地図』(発行所クレイン02・11刊)については、私は注(1)の文献でかなりくわしく紹介し、論じている(拙著では、pp.118-123)。塩沢は1945年生れの経済学者、大阪市大教授。鶴見は、戦後「思想の科学」同人として、丸山と親しく交ってきた哲学者、思想家である。筆者としては、すでに、戦後日本思想史研究の一環として、丸山−加藤周一関係、家永三郎−丸山関係についての論文を執筆しているので2)、同じような趣旨で、丸山と鶴見の交流史を書くことも考えたのである。
が、丸山の鶴見評は、その集、座談等によって簡単に検索できるのにたいし、鶴見の丸山評は、恐るべき多数の著書、随想、座談等に散布されており、しかもこの両者の交渉史を書くためには、膨大な数量に達している「思想の科学」誌をチェックしなければならない。私にはさしあたり後者の仕事をする用意はない。これはより若手の戦後日本思想史の研究者に是非やってもらいたい仕事である。とはいえ、この仕事を、私としてまったく避けて通るわけにもいかないので、ここで予備的な補論のかたちで、まず両者の交渉の過程を見ておくことにしたい。
丸山の鶴見への言及は、丸山の集別巻では、E163H335.336J367K282N153、158、162-164、N170、O88。座談では、第三冊pp.139-194.第七冊(対談)1967年5月『思想の科学』普遍的原理の立場(pp.101-123―末尾の丸山の「思想の科学」批判はおもしろい)。書簡集では、B191、C104、320、321。D6、118、347、353。A55、A55-56。56頁の鶴見の回想は重要である。
鶴見の側の丸山への言及。私の手許にある座談・自伝等に限定する。『鶴見俊輔集』全12巻、『鶴見俊輔集続』全5巻、『鶴見俊輔座談』全10巻には私はあたっていない。まず鶴見俊輔、聞き手山中英之『読んだ本はどこへいったか』(潮出版社、02.9)pp.18-19。「徳川夢声の活弁で、(ドイツ映画の)「ガリガリ博士」を見た戦慄の体験が、丸山、埴谷(雄高)、二人の後の学風・作風に影響を与えた。丸山の場合は、ファシズムの解剖、つまりドイツではなぜファシズムが生まれたかという研究に結びつく。一方の埴谷の場合は、人間社会の不条理の問題として、ファシズムとスターリニズムを相手取って獄中で考えた小説『死靈』の根になる。その二人とも探偵小説ファンだった。」この鶴見の推測がどれだけの根拠があるかどうかはともかく、この推理自体は面白い。
また同書pp.120-121には、丸山の陸羯南論文についてのコメントがある。「陸羯南は、…明治の欧化時代にあって日本人は自分をしっかりと保った上で西洋を受け入れるべきだという姿勢を見失わなかった。敗戦の時、丸山眞男は自分もそうありたいと思ったんです。自分を保ちつつ西洋をゆっくりととらえていく姿勢。昭和の国粋主義とは違う。その明治の保守主義の面影は、川上澄江〔版画家、1895-1972〕の作品の中に常に表現されていたものです。それは軍国主義下でも同じだった。」もう一ヶ所。P.146、「旧ソ連でスターリン批判が始まった1950年代半ば、作家の武田泰淳(1912-76)は丸山眞男と『中央公論』で対談し、批判演説をするフルシチョフの顔つきや体形を写真で見て「おっ、これは猪八戒的人物だ」と言った。武田はそこから猪八戒と似た弱点を持っているのではないかと発想していったんです。そういう語り直しもある。」(丸山−武田関係の追跡も面白い研究課題であろう。)
つぎに鶴見俊輔座談『思想とは何だろうか』(晶文社、1996.2)。この座談の巻頭は、すでに言及した丸山との対談「普遍的原理の立場」(pp.12-41)であるが、これには丸山への言及は、P.84(「青年文化会議」とかかわって。橋川文三の発言)。P.108、丸山が、カストリかなんか飲んで放歌高吟して、渋谷の道玄坂を中村哲、橋川、平凡社の鈴木均と肩を組んで歩き、当時駒場の教養学部にいた眞下信一に“夜討ち”をかけて失敗した、というエピソード。若き丸山にはこういう一面もあったのだ。鶴見は吉本隆明との対談で、鶴見は、丸山は「政治に関するかぎりはプラグマティストでありたい」と書いているが、「自分(鶴見)は、政治に関するかぎりはシニシズムだな。(それは)戦争が自分のなかにつくったものであって、それは戦争のなかばから今日まで、ずっと変わらない」と述べている。この対照も面白い(p.176)。またP.13には、鶴見の丸山の戦争中の思想の軌跡についての理解が示されている。やや長くなるが、重要な点なので引用しておく。
「戦争中に麻生義輝(あそうよしてる)の哲学史の書評を書かれたことがありましたね。あのなかに、大西祝(おおにしはじめ)の評価を書かれていて、歴史主義一本じゃダメだっていう考えかたが、そこに出ているということを、丸山さんは指摘されているわけですが、戦争中の歴史主義的な思想の流れが主流だったときに、そういうふうな、いま流れているものと別の流れが、かつてはあって、それが重大なものだということを指摘することをやめない……、そういう意味で、ふだん忘れていて状況に合うことをぽこっと思い出す、その思い出しの論理から、ひじょうに自由な考えかたを戦争中にとっておられたような気がするんです。たとえば、「国民主義の形成」ですか、あのなかにアーネスト・サトーの記録が出てきますね。英艦の砲撃で壊れた砲台を日本人が修理している、そこへサトーたちが行くと、みんな寄ってきて、自分たちのすることを手伝ってくれる。」(「英艦の砲撃」以下の記述は不正確。英部隊の作業に日本の庶民が協力したという話。これについての丸山のコメントは、「何たる光景!上の国民に対する不信と下の政治的無関心とはかくして相補ひ合ったのである。」したがって鶴見のコメントは的はずれだ。)
なお、丸山がこの対談の中で、彼が原爆体験の思想化をしていなかったことを反省している文章もきわめて重大である。(pp.19-20.)
「「平和問題談話会」で、わたしは、朝鮮戦争のあと、「三たび平和について」という報告の序論の部分の原案を書いたんです。それで、なんとかして平和共存論の理論的基礎づけをしようとした。そのときに、原爆でこれまでの戦争形態がすっかり変わった。原爆の出現によって、どんな大義名分のある戦争でも、現在の戦争は手段のほうが肥大化しちゃって、目的に逆作用する可能性がひじょうにつよくなった、ということを述べたわけです。けれども、それは一つのグローバルな「抽象的」観察なんで、わたしが広島で原爆にあい、放射能も浴びたという体験とは結びつかない。現在、日本人がヒロシマを重い経験として感じている。そうして大江健三郎さん(『ヒロシマ・ノート』岩波新書)とか、最近の井伏鱒二さん(『黒い雨』新潮文庫)とか、作家がその重みを作品に結晶化しようとしている。そういう意味での原爆体験というものを、わたしが自分の思想を練りあげる材料にしてきたかというと、してないです。その点が、自分はいちばん足りなかったと思いますね。」
鶴見はこれをうけて、『自由について』の解説の末尾で「丸山眞男の交流によっては、みずからがくぐりぬけた原爆を位置づけることはむずかしかったのではないか」と書いている(この点後逑)。
つぎに、鶴見の自伝である『期待と回想』上・下巻(晶文社、97.8)を見てみよう。この自伝は、北沢恒彦、小笠原信夫、塩沢由典の三人を聞き手とするものであった。丸山への言及は、上巻で、57、64、159、165、188、196、284、302の八ヶ所であり、下巻で119、150、169、182、212の五ヶ所である。また丸山の著作への言及は「陸羯南」下39、「三酔人経倫問答」下42、「自然と作爲」下39、「福沢諭吉」下42、「山崎闇斎と闇斎学派」下42の6ヶ所である。このうちのとくに重要なものについて、言及し、また必要があれば紹介もしていく。
上巻p.64。鶴見は、丸山の源流として、一つはドイツ観念論で、カント、ヘーゲル、マルクスという流れがあり、もう一つはヘーゲル、マルクスぎらいの如是閑の流れ(かれを通してプラグマティズムが入っている。なお丸山の「福沢諭吉の哲学」、集3、pp.163-204.参照)。P.165の、丸山の「無責任の体系としての天皇制」という考えとリースマンの『孤独な群集』との結びつきの指摘。これは鶴見のみが指摘できた独創的見方だ。pp.188-190、ここでの、桑原武夫と丸山と鶴見との戦前の獄中共産党員に対するスタンスの違い、および鶴見が丸山の批判を受け入れた二つの事例は、まことに興味ぶかい。P.196の、丸山は初期からマルクス主義には倫理が欠けているといっていて、梅本克己と親しかった。その意味でカウツキやベルンシュタインに共感をもっていた、という評価については、私としては判断を保留する。余談になるが、鶴見は上巻P.304で川勝平太の「物産複合」という見方を評価しているが、私はこの概念を「国民」形成の経済的条件に示唆を与えることを指摘したことがある(拙著『民族の政治学』法律文化社、1996.3.pp.30-31)。
下巻に移ろう。P.169で、鶴見の「知識人の戦争責任」について丸山が「共産党を免責している」と批判し、鶴見は前述のようにこの批判を受容したが、丸山の共産党批判は、『前衛』で批判されることになる(1994年の日本共産党第二〇回大会で丸山の1956年の発言は、38年後に口を極めて非難され、罵倒された〔拙著『丸山眞男とマルクスのはざまで』pp.252-253参照〕。pp.212-214には、鶴見が「思想の科学」の売れゆきが悪くなって、丸山に相談したところ、丸山の示唆がきっかけとなって「読者の会」というサークルになっていったことが語られている。
丸山の論文等についての鶴見のコメントで、pp.39-40には丸山の「自然と作爲」論文と戦後の「陸羯南」とから彼が影響を受けたことと、自らの本の題名を「日本的思想の可能性」から丸山の示唆で、『日常的思想の可能性』に変えた次第が語られている。またpp.42-43には、丸山の『山崎闇斎と闇斎学派』を「全著作中の最高峰じゃないかな」という評価が出ている。鶴見の『隣人記』(晶文社、1998.9)のpp.153-158には、「丸山眞男氏を悼む」という条理をつくした、見事な追悼文がのっている(初出、朝日、96.8.19)。全文引用できないのが残念だ。
私の手許にある残った本は、上野千鶴子、小熊英二を聞き手とする『戦争が遺したもの―鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、04.3.10)である。この本の二日目のところに、「丸山眞男と竹内好」という節(pp.174-205)がある。この節では、鶴見と丸山との交流の経過、相互の影響関係、さらにナショナリズムとパトリオティズムの相違についての議論などがかなり体系的に語られている。P.198以下では、鶴見と竹内好との交流が論じられている3)。その他にも本書には、丸山眞男への沢山の言及がある(言及の第一位が丸山で、第二位以下が鶴見和子、桑原武夫、竹内好、都留重人、吉本隆明、藤田省三、小田実等である。これらの言及の興味はつきない。ちなみに、井口洋夫を聞き手とする都留重人の自伝(学士会刊。先学訪問都留重人編、06. 1. 1 発行)は、抜群に面白い。都留は2006.2.5逝去)。
この本の成立については、本節の冒頭で触れた。丸山へのインタビューの準備をした丸山眞男研究会と、それがその一部をなす文体研究会の活動については、本書の解説の1で、塩沢由典が「丸山さんを囲む会と文体研究会」という題で書いている(pp.235-251)。この中で塩沢は、6.「反動の概念」とその書評、7.その後の文体研究会で、北沢恒彦の仕事について解説をしているが、私の「反動の概念」評価と大筋のところで一致しているように思う4)。解説の2は、鶴見俊輔による「丸山眞男おぼえがき」(pp.252-263)であるが、このおぼえがきは、よく整理されており、前項でとりあげるべきだったかもしれない。いずれにしろ、この本での鶴見の丸山評価は、前項で引いた「丸山眞男を悼む」とともに、鶴見の丸山との交流と評価を集約的に開示していて興味深いが、その最後の一節を、われわれはどう考えたらいいだろうか?(pp.262-3)
私は、近ごろは、自分の死が近いということもあって、東大教授の頭蓋骨の中には脳みそではなくて豆腐がつまっているというような無礼かつ、あきらかにまちがっていることを公言する〔笑ってしまった。田口〕が、丸山さんが生きている間は、そういう衝動に対して心の底にブレーキが掛かっていた。こういう無茶なことを言うようになったのは丸山さんの死後である。
私にとって、批評は、自己破壊機(セルフ・ディフィーティング・マシーン)だった。丸山さんに向けた批評もそのようなものとして終始したが、ただひとつ残っているのは、丸山眞男の方法によっては、みずからがくぐりぬけた原爆を位置づけることはむずかしかったのではないか、ということだ。丸山の方法は、ヨーロッパ思想の型を守っており、ヨーロッパ思想の崩れる彼方にあるものを、学問のヴィジョンとしてもっていない。動物と人間を混合しないという自戒もそこからくる。人間はいつか畜生道まで高まって、同種の間の殲滅戦(アナイレーション)をまぬかれぬというヴィジョンを、丸山が原爆投下の犠牲者であるにもかかわらず、戦後の活動の中で持たなかった。これは自己破壊的な言いかたになるが、私の無意識に根ざす方法である。丸山眞男の方法は、(キリスト教の)神を想定したほうが自分の論理としては整然とする、というところがありはしないか〔これについては、後でコメントする〕。私には、原爆投下は、その神の自殺のように思える。
以上の鶴見のコメントで、丸山がその方法では、みずからがくぐりぬけた原爆を位置づけることはむずかしかったのではないか、という点については、丸山自身が、さきに指摘したとおり、自らの原爆体験を自ら理論化することがなかったことを自認しており(丸山・鶴見対談、「普遍的原理の立場」)、「理論化することがなかった」のが、鶴見のいうように、丸山の方法の限界によるものであったかどうかについては、私としては判断をさしあたり保留しておく。
さて、『自由について』は、七つの問答から構成されている。この七つの問答は、第一から第四まで、第一部 戦争の記憶の底から、という表題でくくられ、第五から第七までが第二部
私があなたと考えを異にする自由、という魅力的な題でくくられている。これらの問答のテーマをまず簡単に要約して示す。
第一の問答は、丸山が、日本の思想史をとらえるさい、「思想が本格的な『正統』の条件を充たさない」ことを特徴としてあげていることにかかわって。
第二の問答は、「仏教が日本思想史にもたらした影響について」である。
第三の問答は、丸山の仕事には、<服従−不服従>への観点がはらまれているのではないか、に関して。
第四の問答は、マルクス主義の丸山に与えた影響およびマルクス主義思想の再生可能性。
第五の問答は、政治的敗北者をどう評価するか。「政治家」の政治責任と「政治思想家」の政治責任のちがいをどう考えるか。
第六の問答は、支配者でない人びとが、対立を暴力的なものにしないように互いの付き合いを工夫することも、政治思想的なものではないか?
第七の問答は、現在の国際社会の中で、日本の「国民的統合」をどう考えるか、未来にむけて、天皇制についてどう考えるか、である。
これらの問答の中で、質疑のなされた84年85年以後、とくに丸山の没後前後から、より体系的なかたちで丸山の思想が展開されている図書等が公刊されている場合もある(たとえば第二の問答にかかわって、『丸山眞男講義録〔第四冊〕日本政治思想史1964』の第四章 王法と仏法、および第五章 鎌倉仏教における宗教行動の変革、とくに後章は、より詳細な展開となっている。また丸山の1960年時点の政治学論および政治観は、『講義録〔第三冊〕政治学1960』でより体系的に展開されている)。
そこで以下では、この七つの問答のそれぞれについてコメントしたり、個々の論点をとりあげるというよりも、私自身の過去および現時点での政治的・思想的スタンスと―それを私は私の最近作では「丸山眞男とマルクスのはざまで」と表現した―、政治学(政治思想)の専門の研究者の立場から論じる。また丸山が日本の政治思想史研究についてなした独自の独創的貢献の一端にも触れたい。
最初に、第四の問答の検討からはじめよう。旧制高校時代の丸山(一高独法クラス)は、マルクス主義の文献(『ドイツ・イデオロギー』、『資本論』〔これはすばらしい業績だといっている。原文で読んだのだろうか?〕、読書会ではヒルファーディングの『金融資本論』などを読んでいるが、他方では、新カント派のリッケルトの『認識の対象』、ヴィンデルバンドの『イマヌエル・カント』、「批判的方法か、発生的方法か」(この論文から教えられて、丸山はエンゲルス『起源』末尾の国家の発生論と本質論の混同を批判した)などを読んでいた。それに加えて当時のソ連と、その官許経済学と官許哲学(ミーチンなど)のデタラメさには、ついていけないと感じていた。
つまり、この時点の丸山は、おそらくマルクス(主義)文献はかなりよく読んでいたし、『資本論』は高く評価していたが、官許マルクス主義側の論理の目の粗さにはついていけなかったということだったようだ。丸山がこの時点でレーニンの仕事をどの程度読んでいたかはわからないが、この本では、「レーニンは、やっぱりツァーリズムの<OBJECT>の遺産を非常に継承している。だから〔マルクスからの〕変貭がある。」(p.140)とのべる。そしてロシア革命後のローザとレーニンの党内民主主義についての有名な論争に触れて、丸山は「独立社会民主党からスパルタクスに行ったドイツ社会民主党の左派と、ボルシェヴィキとの基本的な違いは、個人の自由の問題なんです。ローザの有名な自由についての言葉で―『自由というのはいつでも、他人と考えを異にする自由である』、ぼくは好きなんだよね、これが(笑)。この伝統のあるなし、そこの違いなんです。民衆の解放とかいうよりね。つまり、自由とは、あなたと考えを異にする伝統なんです。」(p.141)
つぎに丸山は≪マルクス主義再生の意図は今ももっているか≫という質問に、彼は「第二の『資本論』を書かなければならない時期だと思う」と答えている。丸山は「マルクスは第一次産業革命の時期の人間だから、現代の目でみておかしいところがあるのは当然だ。当時の「生産」は物の生産で、情報生産のパターンはない。それが今では、見えない情報産業というものが圧倒的に大きくなって、しかも第一次産業なんてのは有るのか無いのか分かんないみたいになってしまって、経済そのものの社会的あり方がまるで違っちゃってい」る。だから「新たな『資本論』が書かれなければいけない」という提言が出てくる。これは価値論のタームでいいかえれば、労働価値説と「情報の価値」との関連の問題をどう考えるか、どうおりあわせるか、という問題であろうと、私は考える。
丸山は第一次産業革命のインパクトを受け止めて、壮大な社会理論を構築したマルクスの志を現代に生かす必要があるし、第二に疎外の問題は現代でもとくに先進社会で新しく出てきている(第三世界の問題はマルクスで説明できる問題が多い)という。そしてマルクスとウェーバーの比較という点では、官僚制化という問題は、マルクスは考えていなかったと指摘する。また質問者の北沢が、「マルクスによるイデオロギー暴露、もしも、それの幾分かを自分自身の足場に向けるという態度が少しでも受け継がれていたら、…マルクス主義の現実性を確保できていたのでは」と水を向けると、丸山はそれこそマンハイムの知識社会学が考えたことだと応じている(pp.106-107)。私は以上のマルクス主義にかかわる丸山の議論(@労働価値説と情報との関連をつめて、「新しい資本論」が書かれなければならぬという点と、Aマルクスにおける官僚制論の欠如にどう対処するか)、には、私自分でもこれまでそう考えてきた問題で、完全に同意する(おそろしく難かしい課題だが)。
なお、丸山は、第一の問答のところで、コミュニズムとファシズムは、現実の共産主義国家には、自分がかって考えていた以上に、ファシズムとの類似性が多いけれど、イデオロギーの独自の次元では両者は根本的に異るとのべ、その根拠もあげているが、(pp.29-31.および第五の問答の末尾、pp.152-153.)、この点も私は丸山に同意する。なお、この点と関連して、丸山が、自由主義のディレンマとして、自由主義の敵に対して、自由を与えるのかという問題があると指摘し、「トレランス(寛容)を原則的に認めないものに対しては、トレラントであってはいけない…それはぼくのナチの経験です」とのべている態度(pp.150-152)は、首肯できる。
第二番目に、丸山の政治理解、政治学の理解をとりあげる。この問題については、私は「戦後政治学と丸山眞男」という論文(『思想』1999年9月号、拙著『戦後日本政治学史』東京大学出版会、01・2刊の第三章第一節pp.70-97.)で詳細に論じているので、これを一応の私の側の前提として、この書物を読んで私が新しく知り得たことなどによって補足をしておく。丸山の政治学のテキストでもっとも大量に流通し読まれたものは、『政治の世界』(御茶の水書房、初版1952.3.15.その後絶版。丸山眞男集では第五巻pp.125-191.)であったろう。この問答集を通じて、私はこれについての自分の理解のいくつかを確認することができたとともに、これについての同業者(具体的には京極純一)の批判、丸山の自己批判についても知ることができた。確認できた点というのは、『政治の世界』のC−P−Sがひっくり返って力が自己目的化して、P−C−S−P'になるというシエーマが、マルクスのW−G−WがG−W−Gになるという方式にヒントを得た(そもそも力の循環とその再生産というシエーマそれ自体が、資本論の資本の循環と再生産論の示唆を受けているのだが)という点。
ところで、この丸山定式に鋭い批判を加えたのが京極純一であって、この本の「途中まで(が)政治学で、後ろのほうは国家論ではないか」と批判したそうである(この点を理解するには、P−C−S−P'が(C−)D−L−O−d(−S)という第四式に展開されていることを理解しなければならない。Pは力、Cは紛争、Sは解決、Dは支配従属関係、Lは政治力の正統化、Oは政治枚力の編成及び組織、dは力・利益・名誉等社会的価値の分配を表現)。丸山はその批判を認めた(pp.157-159.ただ私は、丸山が京極の批判に簡単にシャッポをぬぐ必要は必ずしもなかったし、この批判を突破する学問研究方向―分野―私の発想では制度論の構築―を示唆すべきではなかったかと考える。(拙稿「制度の概念と政治制度論の新動向」、拙著『政治理論・政策科学・制度論』有斐閣、01・5、pp.181-219.参照)。
さて、丸山は、この『問答』で、以上の理論構成上の自己批判点に加えて、相互に関連する二つの論点についても自己批判をしている。第一は、1952年の時点で、55年頃から顕在化してくる経済の高度成長をぜんぜん予測していないという自己批判である。しかし、52年の時点で、数年後に開始される経済の高度成長を予測した論者(日本の経済学者等々)はおそらく一人もいなかったのではないか?都留重人が「もはや戦後ではない」と述べたのは、1956年7月17日刊の第一回の経済白書においてであったのである(この第一回経済白書の注意深い再検討を必要とする)。
この点ともからんで、丸山は『政治の世界』で、デモクラシーを支えるのは自発的結社であると説き、自発的結社のモデルとして労働組合を考えていたのであるが、この書物のおわりに書いた予測(原本ではpp.82-83。集第五巻ではpp.190-191.)は完全に外れたことを自認している。組合官僚化と労働貴族化がこれほど進行するとは考えなかったというのである。テキスト第四章あとがきの「政治化」の時代と「非政治的大衆」―砂のような大衆の出現という命題は当ったが、労働組合美化は完全な間違いだったというのである。しかしこの「非政治的大衆」をいかにして民主主義のにない手に近づけていくのか、という実践的にして理論的課題は解かれないままに残されたのである。
さて、この『問答』の第二部に入ると(第五の問答)、政治の認識論というよりは、政治と倫理、「政治家」の政治責任と「政治理論家」の政治責任の違いというようなことが問題とされていく。丸山は、自分が責任ということを非常に言うのは、日本人のものの考え方や状況に対するアンチテーゼを出そうという戦略戦術的配慮が働いているのだとした上で、ウェーバーの『職業としての政治』のかの有名な政治家の責任倫理と心情倫理との関連にかかわる有名な一節をパラフレーズして(結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」(ルター)と言うなら、測り知れない感動をうける。…そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる眞(エヒト)の人間をつくり出す(岩波文庫、脇沢、p.103)を肯定的に引用する5)。
政治的思考も、政治的行動も、人生の思考・行動の中でそれほど高い価値のあるものではないが、政治的行動をする以上、政治的ものの考え方とは何かを知り、その考え方にどこまで貫かれているかによって、政治的成熟と政治的未熟が判別される。丸山は、自由民権いらいの日本人の政治的未熟性を指摘し、それが保守陣営より進歩陣営の方に多い。丸山の1956年の『思想』のことば「戦争責任論の盲点」は、天皇のことを書くのが主だったのだが、ついでに共産党のことも書いて、『前衛』誌上で志賀義雄によって批判された。
この共産党批判は、メーデー事件(52.5.1)のさいの共産党指導部の政治責任問題に触発されたものであったことが語られている(pp.120-123)。実はこの問題は、石田雄が、「『戦争責任論の盲点』の一背景」(『みすず』96年10月号)でより具体的に触れているところである6)。また丸山は、「政治家の責任」と「政治思想家の責任」のちがいという点では、政治家の責任は問えるけれども、政治思想については、これの責任は取れない、政治家の場合と同じような意味で、政治思想家の責任は問えない、と語っている(pp.125-127.)。その理由の説明は、私は説得的だと考える。政治思想家の責任は、ほかの思想家一般の責任と同じだ、という丸山の説明は納得できる。
また第六の問答の後半では、他の社会的領域(経済、道徳、宗教等々)と政治という社会現象の相違と連関について、丸山の原理的な見解が提示されていて興味がある。たとえば、「政治と道徳が交わる、その最小の領域をあらわすとすれば、「賢明さ」である(政治的賢明さと人間としての賢明さが交錯する)」(p.168)「政治行動というのは、政治を手段としてしか特徴づけられないこと、つまり(宗教・学術・教育・芸術等々とならぶ)政治という特殊な領域はない」「政治はさまざまな人間活動を横断している」(p.171)、「政治は機能的にしか定義できない」(p.172)。それでは政治の機能とはなにか。「本人の意思に反して、その人に加えられる強制行為」それがほかにはなくて政治にある特色である(p.176)。「政治という領域は、極限状態においては殺すことを予想している」「最終的には―殺すという例は極端だけれども―その人の意志に反して、その人にある行動を取らせるという(強制の)契機があるのが、政治行動の特色だ」(p.177)。
この本について、なおとりあげるべき問題は多々残されているが、先にも予告したように、第七の問答を中心として、丸山の「日本の政治」理解、つまり、日本の伝統的政治観ないし政治観の古層、「まつりごと」の理解の独創性、独自の貢献について触れておきたい。丸山は第六の問答の政治観の考察において、紛争のあるところ政治があり、社会があるところに紛争があるという前提から出発する。逆にいえば、紛争それ自体が惡だという考え方は、幕藩体制から明治天皇制に至るあいだにできた負の遺産だというのである。歴史的に見れば、たとえば、鎌倉時代の『御成敗式目』の画期的特色は、@法制定者・支配者自身もそれによって拘束されること、A評定所で評定衆の会議で裁判をするが、そのさい「三問三答の訴陳を番(つが)ふ」、それらを審理した上で、最後に評定所で決を採る(評定衆の発言順は抽選で決める。裁判官忌避の制度もある。)そして紛争を公平に裁くのが「道理」の精神であって、それはほとんど近代法の考え方だというのである(筆者は法学部の卒業生であるが政治コースの学生で、学生時代石井良介教授の「日本法制史」の講義を聞く機会を逸してしまったのは残念だ)。
この封建法の性格が、江戸幕府時代に儒教を通して埋め込まれた紛争それ自体が惡であり、お上のおかげで天下泰平なんだという観念におきかえられて、明治以降にもユナミニティ(挙国一致)万才の思想として続いていくことになる。それを破っていかなければ、日本にデモクラシーは根づかないと思う、と丸山は断じている。この話をまくらとして丸山はリチャード・ストーリーの退職記念論文集(結局追悼論文集になってしまった)に寄稿した英文論文、“The Structure of Matsurigoto : the basso ostinato of Japanese
political life”、日本語訳では「政事(まつりごと)の構造―政治意識の執拗低音―」(丸山眞男集第十二巻、pp.205-239.)の問題意識、内容を解説していく(図表参照、政事の図式−第十二巻、p.217)。私は、この論文は、日本政治思想史における画期的な研究であると同時に、日本政治の過去と現在の理解についても、多大の貢献をする、丸山の業績においてもっとも重要な地位を占めるものの一つであると考える。
この要点を丸山の説明に即してまとめておこう。@日本の政治のバッソ・オスティナートの一つをなす「政事(まつりごと)」とは“奉献事”、下から上に献上する、サーヴィスを献上するという意味であり、つまりそこでは、政治が下から定義される。それは俗説でいう「お祭ごと」という意味ではない。その点宣長はさすがに、「政事」という言葉の由来を、「奉仕事」(ツカエマツリゴト)に求めているが、丸山は、さらにつめて、『献上事』=物を献上する=租税を収めることだという。下から上へ行く。政治が下から定義され、みんなが被治者であるだけでなく治者であるともいえる。治者と被治者とが対立的に向きあうのではなく、みんな、上を向いている。天皇も皇 神のほうへ、つまり上を向いている。明治の帝国憲法がそれ以前と違うのは、人民代表の議会が君権を制限するという点にある。大日本帝国の核心は教育勅語にあって、帝国憲法にはない。
この上と下の同方向性(上と下が対峠しない)という文化的特色の発生的な原因はどこにあるのか。その原因を、この問答での丸山は、せまい農耕地における水田稲作とそれが要請する村総出の協業の必要に求めているが、その説明は体系的でもないし、十分に説得的でもない。後で取りあげる予定の網野善彦の仕事などとのつき合わせも必要であろうと思われる7)。しかし、丸山は、この「政事」の古層の研究を通じて、彼が「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年3月号に書いた)で論じた日本の無責任体制なるものについて、近ごろ自己批判している、と述べている。つまり、この論文で、日本支配層の無責任体制と見たものが、実際にはそうではなくて、もっと根が深いものだと反省しているのである。
丸山はこの反省を、その後(1987年以後)学問的に深め、実質化していったとは、残念ながらいえない。しかし、丸山が、和辻哲郎、柳田国男等の「政治」=「祭事」という図式を疑わない態度を批判しつつも、和辻が神社を「通路」だといった点は鋭いと評価しているし(p.223.)、また実践的には、日本でコスモポリタニズムよ大いに起これ、と説き、在日韓国人・朝鮮人の問題と部落問題をどう解決していくか、という実践的問題を提起しているのである。以上指摘したような理論的課題と実践的課題をどう解いていくかは、丸山亡きあとの後続世代に残された課題なのである。
つぎに、最近私が読んだ二つの丸山研究論文をとりあげる。一つは、2005年の第六回「復初」の集いにおける憲法学者、樋口陽一の「憲法学にとっての丸山眞男―「弁証法的な全体主義」を考える―」(これは「丸山眞男手帖」35.2005.10刊行に掲載。刊行に先立って講演ゲラ刷りを読むことを認めていただいた樋口教授と手帖の会の事務局に感謝する。ちなみに山下教授と樋口教授は、ともにフランス憲法(学)に造詣の深い憲法学界における学友であった。)
もう一つは、関西学院大学法学部教授冨田宏治の「『古層』と『飛礫(つぶて)』―丸山思想史と網野史学の一接点に関する覚書き―」(関西学院大学法政学会『法と政治』第56巻第一・二号、05・6刊)論文である。なお冨田には、『丸山眞男―「近代主義」の射程』(関西学院大学出版会、01.11刊)という丸山研究の単著がある。
樋口講演の冒頭の小見出が自由をめぐる二つの定義となっている。樋口は彼が1997年に書いた「『近代的思惟』と立憲主義―『丸山眞男』とともに戦後憲法史を考える」という小論が、1947年の丸山論文「日本に於ける自由意識の形成と特質」(『丸山集』第三巻)において丸山が定式化した二つの自由というコンセプト、「人欲の解放としての自由」と「規範創造的自由」の対比に示唆をうけて書いたものと記されている8)。私は『憲法 近代智の複権へ』を著者より恵送されて同年4月16日に読了し、礼状を書いている。樋口のこの講演は大きく二大別されている。前半では、丸山の1936年の緑会懸賞当選論文「政治学に於ける国家の概念」の末尾の一節の、「今日の全体主義から区別する必要が生じてくる」「弁証法的な全体主義」とはなにかについての樋口説が展開される。後半では、近代国民国家の「国民」は「民族」ではないこと、丸山がそのことを明瞭に認識していたにもかかわらず、文脈によっては「民族国家」という言葉を使っている。その点について樋口は批判的な検討をしている。
第一の論点についての樋口の解釈は、丸山の「絶えず国家に対して否定的な独立を保持する」そういう「個人」は、1789年宣言のタイトルに言うオムhommeであり、「国家を媒介としてのみ具体的な定立を得る個人」とは1789年宣言で言うところのシトワイヤンである。そして樋口は、ルソーの『社会契約論』「ジュネーブ草稿」の中の「我々はシトワイヤンとなってはじめてオムとなる」という一句を引いて、「つまるところ、丸山の言う『弁証法的な全体主義』に一番近いところにいるのは、私の見るところルソーだという理解です。」という結論が導かれている。この結論にいたるフランス憲法史を知悉している憲法学者(法学者)樋口の精密な論証、またそれは続く節におけるルソーこそが、ロックやモンテスキューよりも徹底的な権力分立論者であるという指摘。また丸山が1947年という時点で、「規範創造的自由」こそが近代的自由の本質であることを確認していることへの注目。まことに緻密な論理の運びである。
それでは、まことに明快な樋口の論証によって、この一件は落着してしまったのであろうか。この解釈に、私がなお異和感をもつのは、以下の丸山の文章の私が下線を加えた部分の解釈にかかわる。「個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもこうした関係は市民社会の制約を受けている国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる。」問題は「市民社会の制約を受けている国家構造」とは一体何を意味するのか?また丸山が今日の全体主義から区別さるべき全体主義に、なぜ「弁証法的」(当時の日本の学問状況においてはヘーゲルおよび/ないしマルクスが想起される形容詞)を用いたのであろうか?
なお論文の詮衛者南原教授が、その論評で、「又筆者が要請する如き新たな国家概念が歴史的社会的地盤との関係に於て如何に在るのか、に就いて重要なる問題が存するであろう。」と批判するとき、南原がこの「新たな国家概念」を、いかに解したのであろうか。カント主義者南原が、この形容詞を、ヘーゲル的なものというより、マルクス的なもの、ないしは社会主義的ニュアンスのものとして受取めていた蓋然性が高いのではないだろうか9)。またもちろんこの時点で、マルクスが自ら試みた『資本論』の仏訳で、「ブルジョワ社会」をsoci師・bourgeoiseとsoci師・civileと訳し分けていることを南原も丸山も知らなかったであろう。
それでは樋口は、この「市民社会」、「市民社会の制約を受けている国家構造」としてなにを理解しているのか?樋口は明確にいい切っているわけではないが、それを第三共和制期(R姿ublique)に措定し、「さまざまな社会的な権力、お金の支配あるいは宗教の支配、場合によってはエスニックの単位、民族集団、こういうものがまさに丸山が、一番抽象的な用語で言うと『市民社会の制約』というところのものなのですが、こういうものが個人の自由な生き方を社会関係の中で妨げている。…こういうものからの解放者の役割を、他ならぬ国家が買って出る。これがレピュブリックです。もちろん建て前です(p.18上段)」「一方でそういうレピュブリックと、他方で丸山の言う『英米流の』国家観は対照的です。(p.19上段)」
私は樋口のこのような理解には賛成しかねる。それは、丸山がフランス憲法におけるオムとシトワイアンの関係を知らなかったとか、あるいは19世紀のフランスレピュブリックの実態を知らなかったからではなく、実際はその逆であったであろう(学生時代の丸山は、原文で読んだかどうかはわからぬが、マルクスのフランス三部作もレーニンの『国家と革命』も読んでいた可能性が高い)。ともあれ、私は「弁証法的な全体主義」についての樋口の解釈には賛成できず、私が今井弘道との論爭論文(拙著Tの五.pp.158-200)で書いたように、それはなんらかの意味で、社会主義的なものないしマルクス的な理解であるという自説を保持する。しかしこの点をめぐる論争には、丸山自身によるなにか決定的な発言等が発見されないかぎり、結着はつかないのではないか。
なお樋口論文の、この論文の後半で展開されている「ルソーとトクヴィルの共通性」の指摘(樋口は、p.20下段で、「トクヴィルとルソーの問いにある、いわば相互乘り入れ的な共通性が、丸山のまさに「弁証法的な全体主義」の内容の基盤をなしている…そういう意味で、「弁証法的な全体主義」という表現は、個人と国家の間の緊張関係をあぶり出してみせる一つの挑発的な表現ではないのでしょうか。」(p.21上段)と述べて自説を補強している。なお、樋口の議論の後半(p.22上段以降)については、私はそれによって多大の教示を受けたし、「民族国家」という単語は使わないほうがいい。学術のための必要があれば、「民族の等質性を相対的に強く維持してきた国民国家」という言い方をすべきだという提言には賛成する。また最後の結びのところでの、民族が国家を乗っ取っている現状に対する抵抗論を語ろうとしている人たちの対照的な二つの立場の協力と討論の必要の提唱にたいしても、賛意を表する10)。
─丸山思想史と網野史学の一接点に関する覚書き─
冨田はかつて名古屋大学法学部政治学研究室で私のもとで学んだ院生・助手の中で、唯一人日本政治思想史の専門家となった者である(前述したが現在関西学院大学法学部教授)。すでに『丸山眞男−「近代主義」の射程』(関西学院大学出版会、2001.11刊)を刊行していることにも先に触れた。ここでとりあげる上述の論文は、『法と政治』第56巻1・2号、2005.6発行に発表された総頁73、論文の副題にかかわっての画期的力作であると私は考える。この論文を通じて、私がこのかつての教え子から学んだことは多大である。
1996年に亡くなった丸山の思想史、とくに「古層」論と、1928年生れで2004年2月にこの世を去った日本史学・日本中世社会史学に新地平を切り拓いた網野善彦の史学にはどのような接点がありえたのか。これが冨田がこの論文で扱う学問的課題である。この論点が中心となってはいるが、その焦点の周辺において、私が冨田論文から教えられたことを、まず二・三指摘しておこう。本稿T−2において京極純一が、丸山の『政治の世界』の鋭い批評家であったことを指摘したが、京極の名著『日本の政治』の第二部 秩序の構図 第三章 秩序の思想の第七節、第八節で集合体コスモスと相即コスモスと二つのコスモスがとりあげられている。そのうちの後者、相即コスモスが、丸山の「古層=執拗低音」と相通ずる、そして網野のいう「原始の野生につながる強靱な生命力」=「未開の野生」にも通ずるものとして提起されていたことが注目されている11)。
また石田雄の場合には「アニミズム的な生成信仰」ないし「生成のアニミズム的信仰」がそれに近い。また丸山の「古層=執拗低音」と網野の「飛礫」が、「未開の野生」ともいうべきものにかかわるモチーフなのではないかという冨田の議論を補強してくれると思われるものとして、網野の恩師でもあり、また丸山の親しい友人でもあった石母田正の「歴史学と『日本人論』」という論考13)(これは1973年6月に金沢で行われた岩波書店主催の文化講演会での講演の記録であるとされている)があげられている(冨田論文、pp.98-104)。
また網野の義理の甥であり、網野史学の展開に身近に立ち会っていた中沢新一(宗教学者、中大教授)は、その抜群に面白い『僕の叔父さん網野善彦』(集英社新書、04・11)で、網野の「飛礫」というモチーフについて、吉本隆明の「アフリカ的段階」という概念との類似性を指摘している(吉本の本は『アフリカ的段階について』春秋社、1998年。私はこれは読んでいない。中沢本、pp.62-65.冨田論文、pp.105-109)
そして冨田がこの本で主題について言及している丸山の関連文献、網野の関連文献14)の他に、私が自発的に、また冨田に意見を求めながら読んだ冨田論文引用文献には、すでに言及したものおよび丸山研究として周知の論業績の他に、石田雄『丸山眞男との対話』みすず、05。水林彪『記紀神話と王権の祭り新訂版』岩波、01。大林太良『東アジアの王権神話』弘文堂、84.1。小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社、1995年。同『<日本人>の境界−沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年などがある。
以上のことを前提として冨田が、丸山思想史と網野史学の一接点をどのようにおさえているかを見よう(本誌の読者には丸山思想史、とくにその古層論にはこれまで触れてきたが、網野史学とは接触のなかった人が多いかもしれない。このような人々には、注14)の網野の労作二点と、冨田論文の冒頭の網野史学の紹介、pp.66─77参照。より簡単には、『豪古襲来』の「はじめに」と結章一三世紀後半の日本、の一読をすすめる。)また丸山の「原型」→「古層=執拗低音」の展開(内容的変化を含む)およびその批判者(米谷匡史、末木文美士、水林等)に対する冨田の解説・反論については、冨田論文、pp.77-97参照。なお上記の展開については、冨田は、丸山眞男講義録〔第四冊〕東大出版会、1998年の飯田泰三の解題(pp.315-352)にかなり依拠しているが、飯田の理解が、丸山の「古層=執拗低音」と水稲生産構成や村落共同体(網野のいう「文明の世界」)と結びつけた「固有信仰」や記紀編纂された時点の古代「日本」の思惟と同一視している点で、重大な誤りを免れていない、と批判もしている。(冨田論文、pp.109-114)
それでは丸山の「古層=執拗低音」と網野の「飛礫」と相通ずるものは、結局なんであったか。それは一言でいえば、「未開の野生」をこそ表現するものであったという一点に盡きる。もちろん、丸山と網野は、それぞれ「古層=執拗低音」ないし「飛礫」として「未開の野生」ともいうべき共通のなにものかをとらえながらも、丸山は「古層=執拗低音」を、あくまでも自らのコミットする「普遍者」ないしは「超越者」に相対立するもの、もっぱら否定と克服の対象としてのみとらえていた(このような解釈は『丸山眞男自由について』の鶴見の「おぼえがき」の末尾、「丸山眞男の方法は、(キリスト教の)神を想定したほうが自分の論理としては整然とする、というところがありはしないか。」という評と通底する)。
これに対し網野の方は「飛礫」の側にこそ「トランセンデンタル」なものを見いだし、それに深くコミットしていたのだと答えるような答え方は簡単ではあるが、ことを単純化している。先に触れた飯田の『丸山講義録〔第四冊〕』の解題(pp.344-346)に見える丸山の親鸞像が、網野の『蒙古襲来』が描き出した親鸞像(pp.20-23)―川崎庸之が「一個の偉大な被抑圧者」と評した親鸞、そして中沢が「上からの超越とは正反対の、大地性への内在化によって超越を果たしていく」ものと表現した親鸞の宗教思考とが瓜二つであることに注目し、それは決して偶然ではないと冨田はいう。また石母田正が、先に言及した論文で、丸山の「古層=執拗低音」に網野の「飛礫」のモチーフと重なり合う「未開社会」的なものを見出している(石母田著作集八巻p.229、冨田論文p.100)のも、冨田の評価の妥当性の一つの裏づけとなるであろう。
冨田論文の最後の節で、「日本的なるもの」そして「天皇制」を論じ、「古層=執拗低音」の読範疇は、これまたそれ自体何ら特有なものではない道教、儒教、仏教、西欧近代思想など、大陸ないしは西欧由来の主旋律と響き合い、『ゲシュタルト』=全体構造としての日本のカルチュアル「日本的」としかいいようのない「個体性」をもたらすのである。そして、こうした「個体性」こそが、まさに「古層=執拗低音」論と「文化接触と文化変容の思想史」の描き出そうとしたものだった(冨田論文、p.116)。
こうして見れば、「古層=執拗低音」の抽出と日本文化の「個体性」の探求を通じて、「これまでいわば背中にズルズルと引きずっていた『伝統』を前に引き据えて、将来に向っての可能性をそのなかから『自由』に探って行ける地点に15)」立とうと格闘しつづけた丸山と、「飛礫」「悪党」「無縁」「異形異類」の世界を描きだすことを通じて、天皇制の基盤としての農業民的な世界と非農業民的な世界との二元的な構造を浮き彫りにし、「天皇」と「差別」という二つの問題の克服という「歴史そのものがわれわれのすべてに課した課題」と格闘しつづけた網野とは、こうした面においても、大きく強く響きあう思想と学問を奏でてきたといってよいのではなかろうか。(冨田論文、p.119)
冨田論文は「むすびにかえて」で、網野史学に「飛礫」というモチーフが芽生えたとされる68年1月の「佐世保事件」をめぐるエピソードと、同時期東大本郷キャンパスで吹き荒れた「全共闘」による東大紛争の渦中にいた丸山の没後公表のノート(丸山『自己内対話』pp.119-120、またp.145の56年の「ポケット帖からの抜き書き」。そして「講義録」第四冊の飯田の解題、p.344)を対照させて、冨田は今日が「転形期」を準備しつつあるのかもしれないし、「転形期」において、原始の混沌、ないし「自然状態(タブラ・ラサ)」に帰り、そこから或る原理的なものを提え直してきて「再生」「蘇生」してくることが可能なら、丸山の古層論からもその可能性を引き出すことが可能ではあるまいかと示唆して、筆を置いている。
3、注
1)この論文は、拙著『丸山眞男とマルクスのはざまで』(日本経済評論社、05.8.15刊)にTの三として収録。
2)前掲拙著、Tの一 丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」、Tの二 家永三郎の「否定の論理」と丸山眞男の「原型論」。
3)戦後思想史の一駒としては、竹内好と丸山眞男との関係も興味がそそられるが、最近、松本健一の『竹内好論』(第三文明社、1975年)が『岩波現代文庫』に入った(05.6)。ほかに、孫歌『竹内好という問い』(岩波、05.5)という力作が公刊された。孫歌には「丸山眞男におけるフィクションの視座」(『思想』1998.6、pp.4-22)という好論文がある。
4)前掲拙著、Tの三、pp.118-123.
5)最近のウェーバーの責任倫理と心情倫理の関係の問題にとって、私がたいへん教えられたのは、牧野雅彦(広島大学法学部教授)『ウェーバーの政治理論』(日本評論社、1993)の補論「ウェーバーと『大審問言』―心情倫理と責任倫理との関係によせて」、および牧野『責任倫理の系譜学』(日本経済評論社、2000)である。
6)石田のこの論文は、『丸山眞男の世界』(みすず書房、1997)に収録され、さらに石田の『丸山眞男との対話』(みすず書房、2005.1)にも収められている。
7)この論点については、Uの二の末尾を参照のこと。
8)この論文は、樋口著『憲法 近代智の復権へ』(東京大学出版会、02.7刊)の4 立憲主義の基礎としての「規範創造的自由」、と改題されて収録されており、その補論として「三教授批判」眼力(丸山集10巻月報)が付されている。
9)丸山の演習指導教授南原が、演習でヘーゲルを読んだとしても、彼は丸山の思想傾向および高校三年のときの唯物論研究会講演会への出席と特高による逮捕という事実は知っていたはずである。なお一で論じた『丸山眞男 自由について』p.97で丸山が「そういう意味で社会科学的には、事実、非常にマルクス主義に近づいたなあ。だから(36年論文で)、マンハイムなんが最初に挙げているのは、ほんとはマルクスを持ってきたいんだけれど、マンハイムでごまかしたというところですよ。存在非拘束性なんで言ってるのは。だけど、哲学的には納得がいかない。」もっともこの時点で、丸山がルソーマルクス関係をどう考えていたかは、樋口の問題提起を考えれば問題になりうるが、それを論ずる資料がない。
10)80年代半ばの丸山は、この二つのうちの前者の立場に立っていたようだ。丸山『自由について 七つの問答』pp.208〜210。「コスモポリタリズム、大いに起これ」と丸山は言っている。
11)京極純一『日本の政治』(東京大学出版会、1983.9)pp.163〜186.
12)石田雄『日本の政治と言葉上』(東京大学出版会、1989)p.63.
13)石母田正著作集第八巻、所収。
14)私がもっとも強いイムパクトを受けたのは、『増補 無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』(平凡社、78年6月初版。手元の本は90年5月の第5刷)と『蒙古襲来』(小学館文庫、手許の版は05.6の第二刷)である。
15)丸山集、第九巻、p.115.
田口富久治HP掲載論文7編と加藤哲郎書評
『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクスとのはざまで
加藤哲郎『田口富久治「戦後日本政治史」書評、および私的断想』
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〔関連ファイル〕