マルクス主義とは何であったか?

 

田口富久治

 

 ()、これは、田口富久治名古屋大学名誉教授が、2001年10月24日、中京大学法学部大学院学術講演会で行った講演内容の全文です。それは、『中京法学第36巻第2号』(2001年12月)に掲載されました。このHPに全文を転載することについては、田口氏の了解を頂いてあります。

 

 〔目次〕

     まえがき

   1、体制としてのマルクス主義

   2、運動としてのマルクス主義

   3、思想・理論としてのマルクス主義

     むすびにかえて

 

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  まえがき

 

 こういう大きな演題はもちろん私が考えたのではなく、本日の講演の企画者である丸山敬一教授によって私に与えられたものです。丸山教授は、日本でも有数のマルクス主義の民族間題の研究者でありまして、『マルクス主義と民族自決権』(信山社、一九八九年)、編著『民族問題――現代のアポリア』(ナカニシヤ出版、一九九七年)、そしてマルクス主義における民族間題の古典としてのオットー・バウアー『民族問題と社会民主主義』の邦訳の組織者にして共訳者(御茶の水書房、二〇〇一年)というすぐれた業績をあげておられます。

 

 マルクス主義研究という点では私も同業者で、中部政治学会などで親しくさせていただいておりますが、今回私にこのようなテーマを与えられたのは、もちろん御好意もあると思いますが、同時に、お前(田口)は、若い頃からマルクス主義政治学の確立というようなことをいってきたし、それとかかわりをもつ日本の左翼運動にも長いことコミットしてきたはずだ。一九九〇年前後のソ連、東欧の激動、共産主義レジームの崩壊という巨大な歴史的事実を前にして、お前は長いこと信奉してきたはずのマルクス主義について、いまどう考えているのか、はっきりさせろという要求もおありなのではないかと感じます。せっかく与えられた機会でありますので、私の見解を率直にお話して、御批判をいただきたいと存じます。

 

 さて、それではマルクス主義とはなんでしょうか。もっとも常識的な解答は、十九世紀のドイツに生まれたカール・マルクス(一八一八〜八三)とその盟友であるフリードリヒ・エンゲルス(一八二〇〜九五)が、一八四四年ころから形成した諸理論、哲学、経済学説、国家と政治=階級闘争の理論、そして戦略戦術などの総体として理解されています。彼らの労作でもっとも有名なのは、一八四七年に執筆した「共産党宣言」および、マルクスがその第一巻だけ仕上げ、その死後エンゲルスがマルクスの遺稿をもとに第二巻、第三巻と一応完成させた「資本論」などでしょう。

 

 ところで、マルクス主義は、たんなる理論体系に止まるものではない。御承知のむきが多いと思うのですが、「共産党宣言」が一八四八〜四九年のフランス二月革命を突破口とするヨーロッパ革命の前夜において、当時マルクス・エンゲルスが属していたドイツの革命結社、共産主義者同盟の綱領的文書として執筆、公刊されたものですし、一八七一年のパリ・コンミューンを経て、一八七九年、つまりフランス革命勃発百年目にパリで結成された、第二インターナショナル=国際労働者協会とヨーロッパの主要諸国、とくにドイツ、フランスなどで組織された社会主義政党――その中心をなしていたのはドイツ社会民主党でした――のイデオロギ的背景を提供していたのは、マルクス主義でした。

 

 ヨーロッパ中心の社会民主主義運動や労働組合運動は、一九一四年夏の第一次世界大戦の勃発にさいして分裂したわけです。それは帝国主義戦争にたいする賛成か反対かをめぐるものでしたが、それによって、「帝国主義戦争を内乱へ」という第二インターの既定路線に沿って、一九一七年ロシア革命に突入したロシア社会民主党(共産党)と、それに反して自国の帝国主義戦争に賛成し、自国の労働者を戦争に駆り立てていった第二インターの主要政党に分裂するわけです。このうち前者、つまりレーニンやトロツキーに率いられていたロシア共産党(後にソ連共産党)は、革命を成功させただけでなく、ともかくその革命レジーム、一九二二年からはソ連社会主義体制を維持することに成功したのであって、この体制は、一九九一年のクーデタをきっかけとして、ソ連邦が解体し、ソ連共産党も解消してしまうまで七十四年間、とにもかくにも続いてきたのでした。

 

 したがって、多くの論者が、マルクス主義を論じるさいには、これを、思想、運動、体制――これらは相互に密接につながっているのですが――の三つの角度、側面から扱うことが多いのです。つまり、「思想ないし理論としてのマルクス主義」、「運動としてのマルクス主義」、「体制としてのマルクス主義」の三局面です。

 

 これからこれら三つの角度からマルクス主義を見ていきますが、順序としては、体制としてのマルクス主義、運動としてのマルクス主義、思想としてのマルクス主義の順序で論じたい。これは二〇世紀のマルクス主義、二一世紀へのそれの生き残りを考えるさいに、いわばダメになっていった順序で論じる。つまり、私の考えでは後のものほど、いいかえれば、思想としてのマルクス主義は、そのままのかたちではないとしても、二一世紀を生きのびるであろう、という趣旨であります。

 

 

 1、体制としてのマルクス主義

 

 すでに指摘したことですが、マルクス主義を理論的基礎とする、あるいは世界観的基礎とする労働者政党は、一九世紀の末から第一次大戦までは、一般的には社会民主党を名乗っておりまして、第一次大戦の勃発による第二インターの崩壊ないし分裂の後に、マルクス主義政党は、一九一九年にレーニンがモスクワで世界のロシア革命を支持する社会民主党左派を結集して、コミンテルン(第三インターとも呼ぶ)を結成し、各国共産党はコミンテルン支部(日本ならコミンテルン日本支部)として組織されました。そして戦争に協力したその他の社会民主主義政党は、第一次大戦後、コミンテルン世界共産党とは一線を画した社会民主主義的国際組織を結成していきます。そして後者は、資本主義体制の暴力による転覆には反対し、社会改良主義を唱え、議会制民主主義の選挙による政権交代のルールを支持してきましたから(暴力革命およびプロレタリア独裁には反対)、社会民主主義がかなり長期にわたって政権を維持してきた場合でも(たとえばスウェーデン)、ある時期にその後かなり長いタイムスパンにわたって維持されるような経済政治体制を構築することはあっても(たとえば独自のスウェーデン型社会民主主義体制)、定冠詞つきの社会民主主義体制というものは、原則としては成立していないのです。

 

 これに対して共産党が政権を掌握して確立していった経済政治体制は一九一七年のロシア革命いご第二次大戦のおわりまでは、そのような体制は、ソ連型体制一つだけでした――、レーニンによって補強された「プロレタリア独裁」の教義――それを媒介として、階級対立も、国家も死滅する社会主義、共産主義のユートピアにいたる――を支柱として、独自の経済政治体制を築いていきました。このような体制は第二次大戦後、いわゆる社会主義国が、ソ連の衛星国としての東欧諸国、アジアでは中国(一九四九年十月一日の中華人民共和国の成立)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、ヴェトナム等、中南米ではキューバに拡大されて社会主義陣営ないし社会主義圏を形成するようになると、多少ともそれぞれの国の特殊性をもちながらも、それらの全体にひろがりました。

 

 それでは、そのような体制――現存型社会主義体制あるいは共産党という一党が恒久的、全面的(経済、社会、政治、文化を含む)支配政党として予定されているという意味では共産党支配体制と呼ばれる――はどのような特徴をもっていたのでしょうか。

 

 まず経済体制面から考えましょう。資本主義経済体制においては、私的に所有されている生産手段と、二重の意味で自由な労働力を結合することによって生産が営まれ、商品(労働力を含む)が生産され、再生産されていきますが、どのような種類の商品がどれだけ生産されるかは、自由な市場における需要と供給との関係によってきまる、これが資本主義的自由経済=市場経済の基本枠組であることは、皆さんよくごぞんじのところです。マルクスの『資本論』は、この資本主義的市場経済のトータルな過程と構造を、緻密な分析力と広大な構想力によって明らかにした天才的労作です(このことはいまの日本のマルクス経済学を名乗る学者たちが、現時点での世界経済、日本経済の具体的分析をどれだけできているか、という問題とは、また別の問題ですが)。

 

 これに対してソ連型経済体制においては、生産手段の社会的所有――実際には「国家的」所有にとどまったのですが――ということを一応の前提として、「計画経済」、より具体的には指令経済というかたちをとりました。「計画経済」とは、「単一の国家計画の作成とその遂行という形で経済発展がおこなわれ、財貨の生産・流通・分配が人間の意識的管理のもとにおかれている国民経済をいう」と社会主義経済を専門とする経済学者によって定義されてきました(岡稔「計画経済」、岩波『経済学辞典』第3版、一九九二年、三〇一〜三〇二ページ)。指令経済というのは、一九三〇年代にソ連で確立された、中央集権的な「計画経済」の形態で、基本計画と工業生産は中央によって計画された、上から下への命令としての効力をもつ計画で、この計画が各人民委員部(省)によって管轄される企業に対して設定され、その対象は生産物や原材料の量と種類、賃金、価格などあらゆる領域に及び、計画の調整機関としてのゴスプラン(国家計画委員会)の役割を高めた、といわれています。

 

 このような「計画経済」には、一社会の一切の財貨やサービスとそれをになう労働力の配分が、人々の需要をみたすようなかたちでうまくおこなわれるかという問題、経済専門家のいう「経済計算」という技術的難問があるばかりでなく、「指令経済」においては、一九三〇年代、ついで戦後のソ連をとりまく国際環境――不断の軍事的脅威、戦後は米ソ冷戦――によっても規定されて、生産中心的、とくに軍需生産中心的で消費者無視の傾向、もの不足と品質不良、官僚主義的傾向、非能率などのマイナス面が多かった。スターリン没後、いろいろ改革が試みられたのですが、抜本的効果をあげることはなく、体制が崩壊してしまいました。この「計画経済」の可能性の問題についての論争には最終的な決着はまだついていませんが、歴史的事実の問題としていえば、それは自然発生的な社会的分業にもとづく資本主義的市場経済体制にとって代わることはできなかったし、次節でのべる政治的条件(革命による資本主義体制の転覆ということが難かしくなっていること)もあって、これからも難かしいのではないでしょうか。ただ部分的な計画化ということが市場経済体制にとりこまれるということは、ありうるとは思いますが。

 

 つぎに、「現存した社会主義体制」の政治的社会的特徴を考えてみましょう。ここでもその典型として、スターリン個人崇拝・独裁体制が確立されていった一九三〇年代から彼の死去(一九五三年。その個人独裁と総計四千万人にのぼるとされる粛正された諸個人や追放された諸民族にたいするその体制のテロルが最初に暴露されたのは、一九五六年のソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフの秘密報告においてであった)の頃までのこの政治体制の特徴を見てみましょう。この政治体制の権力核はスターリン書記長を頂点とする中央集権的に組織されている党機構であり、そのピラミッド型に全国的に張りめぐらされた党組織網は、それに照応する国家官僚制のハイアラーキーをその管理下に置きつつ、全国土と全住民を支配しました。

 

 この党=国家装置の支配を媒介するのが、「伝導ベルト」と呼ばれた、労働組合組織、共産主義青年同盟、文学者同盟その他の諸団体であったのです。そしてソ連共産党とその支配下の経済・社会を組織する原則が、「民主主義的中央集権制」(略して「民主集中制」)と呼ばれる極度に中央集権的な上から下への組織原則でした。このような党=国家の集権的権力機構の頂点に立っていたのが、独裁者スターリンで、彼は少数の政治的側近と秘密警察を駆使して、その恣意的専制支配を貫徹させていったのです。そして一九三〇年代後半だけで、スターリンの粛正裁判で殺され、収容所送りとされた犠牲者数は、(さきの総犠牲者の数字四〇〇〇万人の半分)二〇〇〇万人ともいわれています。

 

 さてこのような時期のソ連社会に、「思想・信条の自由」も、「言論・集会・結社の自由」も、人身保護令も、官憲の不当な逮捕を免れる自由も、原則として事実上ありませんでした。政治的自由、政治に参加する権利を、自らの判断に基いて行使することも認められていませんでした(共産党組織が作成した候補者ないしその名簿に賛成することだけが許されていました。反対することばもちろん、棄権することも実質的には許されなかったのです)。

 

 これには、革命前のロシアが、後進的農民が圧倒的多数を占めるツァーリの専制支配のもとに長い間隷属してきた(そして市民的自由も政治的自由も経験したことのなかった遅れた社会であった)という歴史的事情も大いに影響しているとは思いますが、同時に革命ロシアをとりまく厳しい国際環境、共産党と農民大衆との利害の対立、それに加えて、レーニン、なかんづくスターリンによって強化された共産党の権威主義的強圧的組織体質によって強められたと考えられます。このような党=国家の権威主義的抑圧的支配は、第二次大戦後ソ連の東欧従属国にも伝染していたのであり、その最悪の実例の一つとして、一九八九年のクリスマスの日、蜂起した民衆勢力によってその妻とともに銃殺されたルーマニアのチャウセスクの暴政をあげることができるでありましょう。一九三三年、ヒットラー独裁を支持したドイツの国法学者カール・シュミットは、ナチス体制を、フューラー(ヒットラー)→党(ナチス)→民族という定式で描きました。これにならっていえば、スターリン独裁は、スターリン=党(共産党)→「伝導ベルト」→大衆という図式であらわすことができるかもしれません。

 

 フランスの有名な政治学者、モーリス・デュヴェルジェは、その名著『政党論』(一九五一年)のおしまいのあたりで、ソ連の共産党独裁とヒットラーのファシスト独裁とをなんとか区別しようと理論的に努力しています。つまり、マルクス主義の思想は、近代の啓蒙思想や政治思想の直系の継承者であるのにたいして、ナチスの思想はその人種主義思想など近代思想の反対物であるというのです。そのことは認めてもいいと思うのですが、しかしヒットラーがやったアウシュビッツ等におけるユダヤ人虐殺と、スターリンのおこなった強制収容所等での大量の無実の人々の虐殺や虐待のどちらが悪いのか、どちらが人間性に加えられたより大きな悪であったのか。

 

 どちらも同じような人間性に対する犯罪行為でした。そしてソ連における大量テロは、すでに触れたように、特殊な国際・国内諸条件のもとでの「ロシア的野蛮」の復活という側面もあったのですが、マルクス主義あるいはレーニンの教義(「マルクス・レーニン主義」なるものは、スターリン等がでっちあげた、マルクスやレーニンの思想を極度に湾曲し、単純化した『教義体系』で、一九三〇年頃からスターリンが死ぬまで、世界中の共産主義者がこの『教義』を信奉していました)の中に、そのような蛮行を正当化しかねない「理論」があったのではないか。それはマルクスやレーニンの、国家論、革命論、「プロレタリア独裁論」あたりにあったと思います。マルクス自身の国家論は、疎外国家論、階級国家論など時期によって変化もし、複雑なものですが(『マルクスカテゴリー事典』青木書店、一九九八年に、私自身が「国家」の項目を執筆していますので、ご参照下さい。

 

 同書、一七一〜一七六ページ)、レーニンが、一九一七年の二月革命の後、隠れ家で書いたといわれる未完の『国家と革命』という小冊子は、国家を階級支配の機関、それを軍隊・警察・監獄といった国家の暴力機構と等置する、お粗末極まりない国家論だったのですが、ロシア革命が成功し、レーニンの権威と名声が高まるにつれて、このパンフレットは、全世界の共産主義者の必読文献になりました(共産党、共産主義者の理論的権威主義の一例)。皆さんは中野重治の『むらぎも』という小説を読んだことがありますか。その中で、一九二〇年代後半の新人会の左翼学生たちが、『国家と革命』の独訳本を読んでカンカンガクガクの議論をする状景がでてきますね。

 

 それはともかく、こういう単純な国家論を前提としますと、革命は支配階級の手中に握られている軍隊・警察等の暴力装置を破壊し(解体し)、それに代るたとえばプロレタリアート(労働者階級)の権力を樹立する行為ということになります。支配階級の手中にある暴力装置を破壊=解体するためには、被支配階級指導部の側の組織化された暴力が必要で、後者が前者を打倒しなければなりません。こうして革命は暴力革命の形態をとることは通常不可避的でありましょう。もっともマルクスやエンゲルスの時代には、彼らはイギリスなど支配階級が妥協することによって暴力によらない革命がおこりうるかもしれないという例外を認めていたのですが、レーニンの段階、つまり近代帝国主義の段階においては、革命は暴力による権力奪取の形態をとることは、不可避のことと考えられ、信じられていました。

 

 このような武装蜂起による権力奪取という革命路線が、先進資本主義諸国については否定され、議会などを利用する平和移行方式による多数者革命がそういう国々の共産党によって承認されるのは、一九六〇年前後からのことです(もっとも多数者平和移行というような革命路線が、今日の先進諸国で成功する諸条件と可能性は、まったくないと私は判断しています)。話はここでおわりません。支配階級の権力を打倒した被支配階級(具体的には革命を指導したその権力核、たとえば共産党)の権力は、旧支配階級の革命に対する抵抗、反革命の企てを実力で押さえつけ排除しなければならない。

 

 これがマルクスをして自らの国家=革命学説の真髄であるといわしめた「プロレタリア独裁」ということの意味であり、それを認めるかどうかが、マルクス主義者の試金石であるとされたのでした。そしてこのプロレタリア独裁の権力を媒介として、資本主義から社会主義階級の差異や対立のない、したがって階級支配の機関としての国家も必要がなくなって死滅する体制への移行がおこなわれると考えられました。社会主義はさらに発展して共産主義社会にいたり、人類の前史はここでおわりを告げる、というわけです。

 

 現存した社会主義体制――その実態は惨憺たるものがあり、その大部分は崩壊していったのですが――を、政治学的側面から根拠づけていたのが、以上説明してきましたような「国家と革命」の学説でした。なおここで注的に触れておきたいのは、このようなマルクス主義の国家学説、特にレーニン国家論に対してマルクス主義国家論の創造的展開の先駆者となったのは、イタリア共産党の創始者の一人であり、ファシストの牢獄につながれて四十台の半ばに亡くなったアントニオ・グラムシ(一八九一〜一九三七)という政治家・理論家でした。彼が残した膨大な獄中ノートは、マルクスのマルクス主義の創造的発展の可能性を示しているといってよいでしょう。

 

 

 2、運動としてのマルクス主義

 

 運動としてのマルクス主義の歴史についてはすでに簡単に触れました。くり返しますと(一九世紀の半ばから第一次大戦までは、それは国際(ヨーロッパ)労働運動、一八六四年結成の「国際労働者協会」(第一インターナショナル)(ここでマルクス・エンゲルスは重要な役割を演じました)、一八八九年にはパリで第二インターナショナルが組織され、その中心勢力は、マルクス主義を理論的よりどころにし、議会に大きな勢力をもっていたドイツ社会民主党でした。第一次大戦の勃発をキッカケとして、第二インターが崩壊し、一九一九年結成のコミンテルン派(共産党系)と社会民主主義の潮流にわかれたことについてはすでにお話しました。なお、マルクス以前の近代民主主義とマルクス主義との密接な関連を意識しつつ、一九三七年までのヨーロッパ政治史を描いた古典的名著として、ドイツの歴史家、ドイツ独立社会民主党、ドイツ共産党員(のち離党)であった、アルトゥール・ローゼンベルクの『民主主義と社会主義』(一九三七年)という本があります。私と私の友人だった故西尾孝明氏の共訳(青木書店、一九六八年)とみすず書房から別の訳者による翻訳が出ておりますので、お読みすることをすすめます。

 

 さてコミンテルンは、一九四三年、第二次大戦中に解散し(戦後各コミンテルン支部は各国共産党になります)、第二次大戦後には、ソ連・東欧そして中国等において政権党となった国々を有する世界の八十数ケ国の共産主義の運動(労働運動では世界労連)と、冷戦の激化の中で反共西側陣営へのコミットメントを明確にした社会民主主義政党(労働運動では四九年、世界労連から分裂した国際自由労連)が対立することとなり、もともとマルクス主義の影響の少なかったイギリス労働党、さらに一九四五年に再建され、一九五九年のゴーデスベルク綱領にあって、マルクス主義と訣別し、民主社会主義に立脚する国民政党を標榜することによって党勢を急成長させたドイツ社会民主党など、とくにヨーロッパの社会民主主義勢力は脱マルクス主義化することによって、第二次大戦後、しばしば政権についてきたのであります。

 

 西欧における広義の労働運動において、マルクス主義の政治的思想的影響が低落していったのとは対照的に、第二次大戦中および戦後、いわゆる第三世界における民族解放運動においては、ある時点までは(おそらくは一九七〇年代半ば頃までは)、マルクス主義の影響力は上昇しました。その典型が、一九世紀以降の世界情勢、アジア情勢に巨大な変動をもたらし、あるいはもたらし続けている、一九四九年十月の中華人民共和国の成立であり、また一九七五年に、アメリカの最大時五〇万人の介入軍を撃退して民族統一をなしとげたベトナム社会主義共和国でありましょう。もっともこれらの国のマルクス主義は、同時に民族化されたマルクス主義でもあり、具体的には毛沢東思想であったり、ホーチンミン思想であったりします。

 

 ところで、一九七〇年代八〇年代の頃から、先進資本主義国における社会民主主義政党の脱マルクス主義化がよりいっそう進んだばかりではなく(同時に共産党の脱マルクス=レーニン主義化も進みましたが)、広く労働運動一般においても、マルクス主義イデオロギーの影響は一掃されてしまったといっても過言ではないでしょう。このことをもっとも典型的に示しているのは、日本の場合であって、その全盛期には、「昔陸軍、今総評」とヤユされるほどの強力な組織力・政治力をもっていた「総評」(日本労働組合総評議会)は、一九八八年に解散し、八九年には、同盟、中立労連、新産別とともに「連合」(日本労働組合総連合会)を結成し(組合員数九八年六月現在で七七六万)、連合が現在主として提携している政治勢力は民主党です。

 

 他方、社会党は、九六年一月の第64回党大会で党名を社会民主党と改め、村山富市委員長が首相だった時代と橋本自民政権期に自民党、新党さきがけと連立を続け、その前、九三年九月には、自衛隊、日米安保条約、PKOを認め、党創立以来の路線と訣別しました。

 

 日本の場合はやや極端なケースですが、欧米においても、EU加盟諸国およびEU議会においては、脱マルクス化した社民政党の影響力は必ずしも減ってはいないものの、労働組合の経済的社会的影響力は、後退を示しています。

 

 その原因はどの辺にあるのか? おそらくそれは一九七〇年代中・後半のオイル・ショックいらい、世界的に先進諸国の高度成長の時代がおわり、低成長時代に移行したことによって拍車をかけられた「経済のグローバル化」が密接に関係していると思います。グローバリゼーション――中国の訳語では「球化」――には、いろいろな理解がありまして、イギリスのロンドン経済政治大学の学長、アンソニー・ギデンズは、世界大の社会諸関係の相互の結びつきと相互の影響関係の激化としてそれを定義していますが、経済的グローバル化という場合には、通俗的には、新自由主義経済関係の世界化というような意味合いで用いられることが多いようです。しかし私見では、「経済のグローバル化」という概念は、数年前に亡くなった、京都大学の経済学教授で日本での有数のマルクス経済学史の研究者であった平田清明教授の、「生産資本循環のトランスナショナリゼーション」という概念を中心として理解すべきだと考えます。

 

 よくいわれることですが、グローバル化は、近代資本主義の生成とともにはじまる傾向なのですが、資本のとる形態という点でいえば、商品資本のグローバル化が最初におこる。ついで、これはレーニンが『帝国主義論』(一九一七年)というパンフレットで明らかにしたことですが、資本輸出、いいかえると、貨幣資本循環のグローバル化がおこる。そして第二次大戦後になると、生産資本(これも経済学の専門用語なのですが、簡単にいえば、資本主義的商品生産の初発において、原料、機械、設備など生産手段に投下される資本と労働力商品の購入に投下される資本の合計によって構成されます)循環のグローバル化が以上の二つに加わる。とくに貨幣資本循環のグローバル化と生産資本循環のグローバル化が輻湊するところに、第二次大戦後の資本主義のダイナミズムの根源があるという議論です。これだけではちょっと抽象的でわかりにくいと思いますので、具体的イメージで申しあげますと、その主体をなしているのは、多国籍企業(multinational corporation, transnational enterprise)です。

 

 それは、「多数の国々において子会社を設立し、事業活動を行なうが、たんに各国の子会社や本社ごとに利潤の極大を追求するにとどまらず、すべての子会社を統括して企業全体としての利潤の極大を世界的に追求する企業」と定義されています(宮崎義一、『経済学辞典』第三版、八四七〜八四八ページ)。もっと具体化して申しますと、たとえば、日本の自動車産業(例トヨタ)大電気メーカー(例ソニー)が、有利な産業立地条件を求めて、地価と労働力がやすい東南アジアに子会社を設立するとか、ライバル企業(国内のみならず国外の)との競争に勝つために、先進国に子会社を作るとか――これをバンド・ワーゴン効果といいます――の現象をさします(そして親会社と子会社、子会社相互間で、企業内貿易[管理された貿易]がおこなわれます)。そうすると、もともとの本国における高賃金の労働力需要がへり(労働者数減少)、海外子会社の安価な労働力が増大します。このように傾向が先進諸国における労働運動の戦闘性と左傾化を押え、逆に子会社が立地された国や地域の労働運動の急進化を促進する傾向も見られます(例、南アフリカの労働運動)。

 

 この「経済グローバル化」と関連のあるもう一つの現象、そしてそれについての世界的な学界の研究動向は、一つは一九七〇年代半ばからの、フランスのレギュラシオン学派の登場であり(山田鋭夫『レギュラシオン理論』講談社文庫、一九九三年)、それと密接に関連するフォード主義(国家)からポスト・フォード主義(国家)へという議論であります。レギュラシオン学派は大きくはマルクス学派に属していますが、各国、各時代の資本主義を、特定の蓄積体制と特定の調整様式からなる特定の<発展様式>を構成するものとしてとらえ、発展様式の矛盾や衰退は、<危機>とくに<大危機(構造的危機)>として現出するとします。

 

 そして第二次大戦後の先進資本主義諸国にみられた発展様式は、大量生産=大量消費を中心とする前例のない成長の体制であって、これを二〇世紀初頭のアメリカのフォード自動車会社の名を借りて、「フォード主義」と呼ぶ。このフォード主義は、六〇年代後半ないし七〇年代初頭いらい、生産性上昇の鈍化や労働力再生産業用の上昇のために、構造的危機に陥った。これが二〇世紀末不況と呼ばれるもので、この危機からの脱出のための各種の政策があらそわれているが、その成否は生命力ある新しい発展様式(ポスト・フォード主義)をいかに発見するかにかかっていると論じています。そしてそこにおけるキィ・タームとなっているのが、労働過程、蓄積レジーム、調整様式等における「フレキシビリティ」(「柔軟性」)という言葉です。皆さんは、今日の世界と日本の経済の現状をめぐる経済界、ジャーナリズム、学者の議論の中で、このフレキシビリティという合言葉を一度や二度はきっと聞いているはずです。

 

 ところで、資本主義の調整様式にはいろいろありますが、その中でとくに重要なのは国家です。フォード主義からポストフォード主義への移行が問題となるとすれば、フォード主義に対応したフォード主義国家からポスト・フォード主義に対応するポストフォード主義国家の探究が問題となるはずです。この点についてはイギリスのマルクス政治学者ボブ・ジェソップが先駆的仕事としていると思いますが、それについては以下の二論文を参考にして下さい。(平田清明『市民議会とレギュラシオン』(岩波書店、一九九三年)第三部第三章。田口「ボブ・ジェソップの国家論」、田口著『政治理論・政策科学・制度論』有斐閣、二〇〇一年、所収)

 

 

 3、思想・理論としてのマルクス主義

 

 私はさきに、マルクス主義者、とくに共産主義者のあいだに、マルクスやエンゲルス、そしてある時期までは、スターリン、あるいは毛沢東の書いたものを、いわば絶対的真理としてその片言隻語をありがたがる権威主義的教条主義的傾向があったし、また現にあると指摘しましたが、このことはマルクス主義の理論体系をどう理解するかについても、当然のことながらあてはまります。この点では、レーニンの「カール・マルクス」という論文(一九一四年)、「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」という短い論文(一九一三年)が金科玉条視されてきました。後者を例にとると、三つの源泉とされているのは、ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義であり、三つの構成部分とされているのが、唯物論哲学、剰余価値学説を礎石とする経済学であり、また階級社会に転化した後の世界史の発展の基礎であり推進力である「階級闘争の学説」であるとされています。レーニンがいうには、マルクスの学説は、一九世紀の哲学、経済学、社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説を直接にうけついだものとしてうまれた。それはただしいがゆえに全能であり、「完全で、整然としており、いかなる迷信、いかなる反動、ブルジョア的圧制のいかなる擁護ともあいいれない全一的な世界観を人々にあたえる」といい切っています。

 

 このレーニンの命題を手がかりとして、思想・理論としてのマルクス主義を批判的に分析してみましょう。

 マルクスの思想の源泉と構成部分を、一応三つに分けるという点を認めるとして、その哲学については、十八世紀後半のフランスの唯物論者の影響、そして一九世紀のドイツ観念論哲学、とくにヘーゲルの弁証法哲学の受容という点は、そのとおりでしょう。

 

 若きマルクスが、ヘーゲル左派のグループに属しつつ、かつヘーゲルの『法の哲学』における彼の方法の顛倒を批判して、唯物論と弁論法を結合させていった。その点の彼の独創性は認めていいと思います(もっとも旧ソ連の哲学者オイゼルマンのように、一九四三年、マルクスが「ヘーゲル国法論批判」論文を書いた時点で、彼がヘーゲルを哲学的に超えていたと評価することは、あきらかにひいきのひきたおしで、『法哲学』執筆時のヘーゲルはスチュアート『経済学原理』を読みこなしているのに対して、若きマルクスはまだ古典派経済学の学習に着手しておらず、そのヘーゲル批判は、論理的批判に止まっていたのです)。またマルクスの「史的唯物論」=「唯物史観」の形成においては、具体的には「ドイツ・イデオロギー」の執筆においては、故広松渉のように、マルクスよりもエンゲルスの貢献をより高く評価する研究もあらわれています。

 

 しかし、私の見解では、マルクスの哲学においては、その歴史哲学と価値哲学(の研究)がもっと重視されるべきだと思います。つまり、マルクス等の原始共同体→階級諸社会→人類の前史の終焉としての高次共産主義の復活という歴史観と、西欧に伝統的なキリスト教の時間観との関係(もちろん、このユートピア的シューマには、ヘーゲルの、テーゼ、アンティ・テーゼ、ジン・テーゼの弁証法の定式の影響は顕著ではありますが)などがより深くが研究される必要があります。またこれは初期マルクスの論文ですが、「ユダヤ人問題によせて」(四三年秋)、「ヘーゲル法哲学批判(序説)」(四三年末〜四四年一月筆)におけるルソーの人間哲学、政治哲学、価値哲学との関連、とくにこのうちの前の論文におけるルソーの援用、「人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し組織し、したがって、社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、…人間的解放は完成されたことになる」は、もっともっと重視されるべきだと思うのです。

 

 そしてこの個所は、一八七一年四月〜五月執筆の『フランスにおける内乱』第一草稿のつぎのような、コミューン対国家の把握、マルクスの「疎外国家論」の真髄、すなわち、「コミューンは、人民大衆の抑圧者によって横領され、人民大衆の敵によって人民大衆を抑圧するために行使されてきた社会の人為的な強力(人民大衆に対立させられ、人民大衆に対抗して組織された人民大衆自身の力)の代わりとしての、人民大衆の社会的解放の政治形態である。」(『フランスにおける内乱』、国民文庫、一四五ページ)にストレートにつながっているのであります。そしてそれと前後する「ヘーゲル法哲学序説」における、「人間の完全な喪失であり、したがってまたただ人間の完全な回復によってだけ自分自身をかちとることのできる領域」、つまりプロレタリアートに、全般的解放のにない手をさぐりあてる哲学。私はこの辺のマルクスの哲学思想は、依然高く評価すべきものと考えています。

 

 つぎの構成要素は、経済学です。マルクスの経済学上の主著はいうまでもなく『資本論』(平田清明氏は『資本』と訳すべきだといっていました)ですが、これはすでにのべたように、その構成の面でも、方法論の面でも(分析論理だけでなく、弁証法的論理の見事な適用において)、天才的な著作です。私は古典古代のギリシャいらい人類が生んだ三人の偉大な哲学者、社会科学者として(自然科学者は除きます)、アリストテレス、ヘーゲル、マルクスをあげることができると考えています。あともう一人あげるとすれば、マックス・ウェーバーですね。近代の三人がすべてドイツ人になってしまったのは、なぜでしょう。

 

 マルクスには、『資本論』の準備草稿が何種類かあるのですが、もっとも学問的価値が高いのは、一八五七〜五八年の『経済学批判要綱』(専門家はこの草稿のドイツ語の最初の言葉をとって、“グルントリッセ”と呼んでいます)です。その中には、「資本主義的生産に先行する諸形態」という部分がありまして、これは一九五三年にロシア語訳から日本語に訳されましたが、資本制生産に先行する所有諸形態として、アジア的所有、ローマ=ギリシャ的(古典古代的)所有、ゲルマン的所有という三形態が提起されており、広義経済学における所有論のみならず、日本を含む前近代の所有諸形態をどう理解すべきかの問題をめぐる参考文献として、歴史学者の間でもさかんに論じられました。

 

 もっとも戦前(一九三〇年前後)と戦後の一時期において、日本では経済学といえば、マルクス経済学を意味するほど、マルクス経済学が隆盛でありましたし(私が学生時代に東大法学部の学生として聴講した経済学部の経済学関係の授業は九割方、マル系の講義でした)、また業績としても山田盛太郎の『日本資本主義分析』(一九三四年)という古典的名著があり、戦後はこんどは労農派系の経済学者である大内兵衛や有沢広巳が、戦後日本経済の再建のために政策面で活躍しましたが(有沢の四六年秋の「傾斜生産方式」の立案は有名です)、いまでは、マルクス経済学(者)は傍流中の傍流になっています。

 

 しかしこれはマルクスの責任ではなく、資本論の訓話学に没頭していた日本のマルクス経済学者たちの責任でしょう。しかしマルクス経済学の実践的使い道がまったくなくなってしまったわけではないことは、東京商大(現一橋大)の、「近代経済学とマルクス経済学の切磋琢磨」を提唱した杉本栄一門下生から、故宮崎義一、伊藤光晴(ともに京大名誉教授)のような、いわば「両刀使い」の独創的経済学者を生んでいることからも知ることができるでしょう(さきの平田清明は、社会思想史の水田洋などとともに、高島善哉門下生です)。

 

 マルクス主義の第三の構成要素とされているのは、レーニンの表現では、「階級闘争の理論」であり、レーニンの「カール・マルクス」論文では、階級闘争、社会主義、プロレタリアートの階級闘争の戦術、にあたる部分であります。国家とイデオロギーは、史的唯物論の定式によれば、経済的土台に対する上部構造でありますから、国家と法の理論やイデオロギー論も、この第三の構成要素に入れて考えるべきなのかもしれません。ちなみに、レーニンが、三つの源泉の最後にあげている、「フランス社会主義」、あるいは「一般にフランス革命的諸学説とむすびついたフランス社会主義」(「カール・マルクス」論文)の内容がどうもはっきりしない。バブーフの陰謀事件のバブーフやブォナロッティが入るのか、後にマルクスやエンゲルスが「空想的社会主義」として批判したフーリエやプルードンが入るのか、不鮮明であります。

 

 しかしすでに批判したように、マルクス主義の体系はこの構成部分において、もっとも弱いと思うのです。もう一度くり返してのべますと、革命の形態論、国家論、「プロレタリア独裁論」、「社会主義・共産主義論」など、それぞれに弱点をかかえているように見えます。このうち、国家論についてはマルクスにはまとまった労作がなく、エンゲルスに『家族、私有財産、国家の起源』という、マルクスのモーガン『古代社会論』の抜書等を利用した著述はあるのですが(一八八四年刊)、これは国家の起源から国家の機能を演繹するという論理的に見れば、初歩的間違いを冒しています(この点は、私は丸山眞男教授に教えられました)。

 

 その他、マルクスが『ゴータ綱領批判』でちょっと触れている資本主義経済のグローバルな性格と当面の革命の一国的性格、より一般化していえば、民族問題についての問題提起などありますが(私はかねがね、この問題は商品の価値的側面と素材的側面の矛盾という観点から解くべきだと考えてきましたが、経済史家の川勝平太氏は、「文化・物産複合」という概念を使って問題を解こうとしています)、ここではこれ以上立入ることはいたしません。

 

 

 むすびにかえて

 

 この辺で今日の講演をしめくくっておきましょう。

 第一に、マルクスは、近代資本主義という経済=社会体制の本質や作動法則は、かなり正確に理解し分析しえていたと思うのですが、資本主義の経済体制の延命力、生きのびる力についての判断は大きく間違っていた。同じことは、レーニンを含めた後続世代のマルクス主義者、革命家についてもあてはまります。そして資本主義体制は、レーニンによれば、資本主義の最高の、また最後の段階になるはずだったのに、第二次大戦後もマルクス用語でいえば、国家独占資本主義体制として、あるいはフォード主義として、さらにはグローバル化時代におけるポスト・フォード主義を模索して生き続けているし、おそらくは二一世紀を通じて生き延びそうであります。

 

 これに反して資本主義体制への対抗物として登場してきたはずの現存した社会主義体制は、一番早く成立したソ連体制も、二〇世紀の間に四分の三世紀存続しただけで自壊してしまいました。中国その他の残存した社会主義諸国も急速に商品経済化しております。「社会主義商品経済体制」なるものは、二一世紀の末までには、どうなっているのでしょうか。

 

 第二には、このことを裏返したに過ぎませんが、マルクス主義者の社会主義・共産主義の到来についての予測は、あまりに楽観的であり、それは一種のユートピア思想にすぎなかったといわれても仕方がないでしょう。

 

 第三に、現存した社会主義の体験、とくに政治的社会的体験は、ソ連を見ても、東欧諸国を見ても、一九六五〜七五年の文化大革命の中国の実状を見ても、その掲げた理念――プロレタリア民主主義等々――とはまったく逆に、基本的人権は保障されず、民衆の政治的参加の権利は実質的に保障されない。民主主義(アメリカの政治学者、ダールが、政権への異議申し立てと政治への実効的参与を標識とするポリアーキー)の反対物であったといえます。それはまたソ連、中国、その他の社会主義諸国において、数千万単位のテロや弾圧を伴うものでもありました。そしてそれを可能にしたのは、もともとは前衛政党の集権化を担保する民主集中制という組織原理であり、それを経済・社会の上からの監視と統合に拡大した組織原理でありました。このような非民主的で不自由の体験が歴史的に明らかにされている以上、もはやそのような体制が再復活する展望はまずはないと思われます。

 

 しかしながら、第四に、政治理念(および政治思想)としてのマルクス主義の中には、無産のプロレタリア大衆の経済的社会的解放を通じての全民衆の解放、階級制度、とくに資本主義経済と資本主義的帝国主義権力が、下層勤労大衆、あるいは旧植民地・従属国の民衆に加えた抑圧あるいはその残存物からの解放の大胆な肯定など、これらの政治理念と政治思想はなお今はその輝きと意義を全面的に失ってしまっているとはいえないと思います。もちろん二一世紀を迎えた世界が直面している諸課題――環境問題、性差の撤廃の問題、核と戦争の危険の問題、南北格差の問題、人権抑圧の問題等――について、マルクス主義の理念と思想が、それらすべてに対応できるわけではないでしょう。

 

 しかし、マルクス主義が、その父祖たちがそう信じていたように、人類の科学的、民主主義的、ヒューマニズム的伝統の継承者であり、展開者であるという初心にかえって、自己批判と再生の努力を重ねていくならば、それはこれまでの幾多のマイナス面にもかかわらず、人類の知的−道徳的遺産の一つとして、人類の歴史の上に残る可能性をもっているといえるのではないでしょうか。

 

 参考文献

 

()塩川伸明『現存した社会主義』(勁草書房、一九九九年)

()「計画経済」、「指令経済」、「多国籍企業」等の項目、『経済学辞典』第3版(岩波書店、一九九二年)所収

()『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、一九九八年)所収、「国家」(田口執筆)

()A・ローゼンベルク、田口富久治・西尾孝明訳『民主主義と社会主義』青木書店、一九六八年

()山田鋭夫『レギュラシオン理論』(講談社現代新書、一九九三年)

()平田清明『市民社会とレギュラシオン』(岩波書店、一九九三年)

()田口「ボブ・ジェソップの国家論」、田口著『政治理論・政策科学・制度論』(有斐閣、二〇〇一年)所収。

(8)田口「市民社会の概念と国家と市民社会の弁証法」、日本福祉大学研究紀要「竹村英輔教授追悼号」一九九八年三月、所収。

()石堂清倫『二〇世紀の意味』(平凡社、二〇〇一年七月)

 

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 (関連ファイル) 田口富久治論文の掲載ファイル

 

    『21世紀における資本主義と社会主義』

    『どこへ行く日本共産党』2000年第22回大会

    『丸山先生から教えられたこと』『丸山批判問題』