21世紀における資本主義と社会主義
田口富久治
(注)、これは、田口富久治立命館大学教授著『政治理論・政策科学・制度論』(有斐閣、2001年5月)の終章「21世紀における社会主義と日本国憲法の命運」抜粋です。終章は、2001年1月の退職記念講演(最終講義)です。このHPに転載することについては、田口氏の了解をいただいてあります。第2節全文を載せ、それとの関連ではしがき、第1節を抜粋・転載にしました。
〔目次〕
はしがき (抜粋)
第1節 20世紀の世界と日本 (抜粋)
第2節 21世紀における資本主義と社会主義 (全文)
(田口論文・掲載ファイル) 健一MENUに戻る
はしがき (抜粋)
本日は,立命館大学における私の最終講義ということです。私は大学卒業後,東大法学部における助手という3年間の修業時代を経て,明治大学政経学部で19年間,名古屋大学法学部で19年間,そしてここ立命館大学政策科学部で7年間,計45年間,政治学の教師をしてきたわけです。そして来る4月以降は,一応リタイアメント生活に入ることになりますので,今日の私の講義は,私の45年の政治学教師としての最終講義ということにもなるわけです。若冠25歳の髪の黒々としていた青年教師が,満70歳になる前日に,髪の毛の薄くなったシルバーとして,自分の学問のしめくくりをするということです。
ここでかかげた「社会主義」とはもっとも広い意味のものでありまして,そこには,社会民主主義5)もコミュニズムも,また20世紀はじめまでは,それらを理論的に基礎づけていたマルクス主義,あるいは20世紀共産主義イデオロギーとしてのマルクス=レーニン主義等々も当然その検討の射程に入ります。というよりも,今日の私の話の重点の一つは,コミュニズムの思想,運動等の批判的吟味に置かれることになりましょう。
(注)、5)「社会民主主義」についての私の最新の理解としては,岩波書店『経済学辞典』第3版,1992年,の「社会民主主義」の項(654〜655頁),参照。私はこの論文の末尾で,「1989年12月に採択されたドイツ社会民主党の〈ベルリン綱領〉が示しているように,現代の社会民主主義は,経済成長と環境,女性解放,南北問題の公正な解決,平和と軍縮の問題などグローバルに解決を迫られている諸問題を,民主的社会主義の基本価値をふまえて解決しようとする理論と実践を総称するものである。その方向に向かって,それぞれに自己革新をとげた社会民主主義的潮流と旧共産主義的潮流との収斂ないし再統合が今日的課題になっているように思われる」と書いたが(私はこの原稿を1990年2月6日に書いた),この観点は今日も変っていない。この講義の第2節はこの観点の敷衍であるといってもよい。
第1節 20世紀の世界と日本 (抜粋)
20世紀はいつはじまり,いつ終わったのか。常識的な答えはわかり切っています。そもそも年号(このさいは西暦ですが)というものはかなり便宜的なものですが,しかし同時に人間の思想や行動を規制する象徴としては無視しえない力をもっています。アレキサンドリア生まれでマルクス主義者でイギリスを代表する歴史家エリック・ホブスボームは,その20世紀史に『極端な時代』という表題をつけ,副題に「短い20世紀1914−1991」を選んでいます6)。学生諸君の中でこの本を読んだ人はいますよね。彼は20世紀を1914年,つまり第一次大戦の勃発にはじまり(その3年後その帰結として1917年にロシア革命がおきます),1991年のソ連邦の解体におわった短い世紀と捉えております。ついでに申しますと,ホブスボームには全3部の19世紀史,『長い19世紀』の歴史がありまして,第1巻が1789〜1848年の革命の時代,ついで1845〜75年の資本の時代,1875〜1914年の帝国の時代と続きます。ホブスボームは1917年生まれですが,私は1931年生まれで,私がもの心つくのは,1940年前後ですから,彼とは違って20年代はもちろん30年代の歴史体験はほとんどないのですが,しかし敗戦後から今日にいたるまでの学習を通じて,私はホブスボームのこの世紀区分を支持できると考えます。「1980年代の終わりに粉々に砕けてしまった世界は,1917年のロシア革命の衝撃のもとに形成された世界であった」(上巻8頁)と評価していますが,これにはまったく同感します。
なおホブスボームは,この短い20世紀を3つの時期に小区分しております。第1の小画期は1914年から第二次大戦の終結にかけての「破局の時代」−そこには第一次大戦とロシア革命,ファシズムの台頭と世界恐慌,そして第二次大戦が含まれます−,第2小画期は,第二次大戦後の25年から30年ばかりの「異様なまでの経済成長と社会的変容の時代」,ある意味では「黄金の時代」,そして第3小画期は,1970年代半ばからの「解体と不確実と危機の新しい時代」,アフリカ,旧ソ連,ヨーロッパのかつて社会主義的な地域だった,世界の中のかなり大きな部分にとっては,むしろ破局の時代として捉えられております。
さてこの20世紀史の時期区分に,日本近代史の時期区分と重ねてみるとどういうことがいえるのでしょうか。(以下略)
第2節 21世紀における資本主義と社会主義 (全文)
さて私はさきに,短い20世紀は,1917年のロシア革命にはじまり,1991年のソ連邦の解体におわった,という趣旨のホブスボームの見解を肯定的に引用いたしました。
社会主義とはなにか,なぜ1917年という年に,ヨーロッパで経済的にもっとも後進的なロシアにおいて,いわゆる社会主義革命が勃発したのか,その70余年の歴史については,多くの研究があります。そして1991年の崩壊後,それがなぜおこったのか,という総括的研究も次第に公表されつつあります7)。
しかしこの講義で講じたアントニオ・グラムシ8)が,その若い日にロシア革命を「資本論に反する革命」と評したことはあたっている面はあるとしても,そしてまたソビエト社会主義体制の崩壊が,ロシアの経済的・政治的後進性に遠因することもおそらくは何人も否定できないであろうとしても,しかしマルクス主義の父祖たち(マルクス,エンゲルス)が,人類史における最後の敵対的社会構成ととして捉えた資本主義的生産様式を止揚するものと考えた共産主義さしあたってはその「低次の段階」としての社会主義的生産様式が,資本主義にとってかわるであろうという予言ないし予測は,今日までのところ実現もされず,当ってもいません。逆に,挑戦者であったはずの,「現存社会主義」体制がおおかたこの地上から姿を消してしまったのです。私はこの厳然たる歴史の事実とその含意を率直に認めるべきだと考えております。その場合,社会主義をマルクス・エンゲルスが想定したような古典的な意味で捉えるのか,それともソ連−東欧等のかつての「現存社会主義」の伝統的理解 1)主要な政治的・経済的意志決定が一党制の支配政党に掌握されていること,2)生産手段の所有では国家的所有が優勢であること,3)中央レベルでの計画化=指令経済の3本柱から成り立つという理解)9)の線で考えるのか,ということは,マルクス主義にとって理論的には重要ではありましょうが,実践的にはそれほど大きな意味をもつようには思えません。
ところでこの講義との関連でいえば,第一講で扱ったM.ウェーバーは,社会主義的未来の可能性については,多くを期待していなかった,というよりむしろ否定的だったと評されています。彼の社会主義批判の視角は,二重であって,一つはその官僚制論からの批判であり,社会主義もまた官僚制化の運命を免れず,それは公私の「官僚の独裁」による灰色の「新しい隷属の容器」たらざるをえないだろうと警告しました。もう一つの視角は,社会主義計画経済なるものが,資本主義的流通(市場)経済にくらべて,経済の形式合理性を低下させる,換言すれば,貨幣計算(資本計算)の実物計算にたいする優位という観点からの批判であります。ウェーバーの社会主義論については,濱島朗氏の先駆的研究10)いらい,沢山の研究が出ていますが,一党制のもとでの「国有化」,「計画経済」なるものが,結局,政治と経済の両方を含めた「官僚独裁」(ノーメンクラトゥーラの支配)と,経済の非合理制を免れないという問題をはらむことは,「現存社会主義」が存続していた間中,問題となり,改革の課題となり,論争の的となってきた一つの問題でした。現存した社会主義体制の経済体制をめぐる論争(「社会主義経済計算論争」)およびいわゆる「指令経済」の実態(原型と裏面)については,先に言及した塩川伸明氏の『現存した社会主義』という大著の当該部分が明晰な説明を与えております11)。
さて,ここまで念頭に置いてきたのは,すでに解体してしまったソ連や東欧のいわゆる社会主義体制でありましたが,まだ解体はされつくしてはいない,中国,北朝鮮,ヴェトナム,キューバ等の経済体制は,どう評価したらいいのでしょうか。たとえば,1978年いらい改革開放政策に転じ,1992年春に,ケ小平によって「社会主義市場経済」論なるものが提起された中国経済の現状をどう理解したらいいのでしょうか。この問題については,私はまったくの素人で,手許に信頼の置ける参考文献もないのですが,所有面では国有企業(国営企業)の整理・縮小が進められ,私有経済が憲法上重要な構成要素と位置づけられ,いわゆる「市場経済化」がいちじるしく進んでいるようでありますが,なぜ,それを社会主義的市場経済というのか。その「社会主義性」の実態を構成しているのがなんなのか,よくわかりません。素人目には,その社会主義性なるものの実態をなしているのは,中国が共産党一党支配の政治体制のもとにあり,経済運営についても最終的決定ないし決断主体が,この政権党にあるということに帰着するのではないでしょうか。しかし市場経済に固有の経済的運動を,政治権力(党権力とそれに従属する国家権力)が長期的,全面的にコントロールしうるというようなことが史的唯物論の見地からして,可能なのでしょうか。この両者の間にはつねに矛盾があり,この矛盾が爆発的に顕在化するというようなことがおこりうるのではないのか。この点については中国経済の実際の進展と専門家たちの研究の発展を見守っていきたいと思います。
1990年の前後に,ソ連をはじめとする主として東欧の現存社会主義諸体制が崩壊・解体していくのと並行して,あるいはそれに10年ほど先行して,協同組合の役割やあり方を見直そうとする動きが,国際協同組合同盟(ICA)というNGOを中心におこり,とくに,カナダのレイドロウ博士がICA27回大会(1980年10月,モスクワ)のために準備した「西暦2000年における協同組合」という文書が,日本を含めて世界中の協同組合関係者によって広く読まれ,研究され,討議されてきました。私個人もたまたまその時期に前任校の生協の理事長をしていた関係もあって,若干の関連文献も読み,討議にも参加しました12)。いわゆるレイドロウ報告の,第2章 世界の趨勢と諸問題,と題する情勢認識や,第5章 将来の選択(第1優先分野−世界の飢えを満たす協同組合,第2優先分野−生産的労働のための協同組合,第3優先分野−保全者社会〔conserver society.資源,環境,健康,よりよい生活を守る社会〕,第4優先分野−協同組合地域社会)等はたしかに注目すべきものがあります。
しかし,このような協同組合運動の再活性化の動向の中で,スペインのバスク地方にあるモンドラゴンの生産協同組合これはアリスメンデ・アリエタ神父という人がはじめたもので,会社で働く組合員が個人資本口座(ICA)をもち,資本口座額に関係なく,一人一票で理事会メンバーを選出できる。また組合員は,企業の業績への貢献度に応じて,定期的に給与を受け取るシステムだそうです−がもてはやされまして,私の知人の一人などは,これはマルクスのいう社会主義の中で再建される個人的所有がすでに実現され,「かつて地上に現われたどの社会主義よりも,遥かに社会主義の神髄を体現したもの」とさえ評価しています13)。私はこれはどうも誇大評価ではないかと感じていたのですが,はたせるかな,その神話性を徹底的に批判する,アメリカのシャリン・カスミアという女性人類学者の現地取材をもとにした研究が,『モンドラゴンの神話』という題で邦訳・公刊されています14)。
要するに,私のいいたいことは,今日のさまざまな協同組合運動が,市場経済や私的資本主義企業の活動のもたらすさまざまな弊害にたいするチェック機能をもち,またその改良の手段として有益であることは認めうるとしても,そのある種の形態が,資本主義的経済システムにとって代る一つのモデルを提供できるというふうに考えることは,まったくの幻想におわるだろうということです。
ということになりますと,19世紀・20世紀の歴史的経験を通じて,少なくとも経済体制としては,近代資本主義的経済体制,市場経済にとって代る体制は見出されなかったし,現時点においても(そして今後おそらくかなり長期にわたって)発見されえないであろうという結論を避けることができないと思われます。そしてここでの資本主義経済体制とは,塩川氏の暫定的定義での,「生産手段の私的所有およびこれと対をなす労働力の商品化により,生産過程が商品=市場関係に取り込まれているような経済体制」15)を採用しておきたい。また,社会主義については,「現存した社会主義」の他に,「思想としての社会主義」,「運動としての社会主義」,「社会民主主義」(思想,運動および市場経済を前提とした改良・改革の政治レジームとしての)等がありますが,「現存社会主義」が破産したからといって,とくに「思想としての社会主義」が,近代社会批判,近代資本主義批判の思想としてのその独自の存在意義を失ったことにならないのは当然のことであります。
もう一点確認しておきたいことは,21世紀において,少なくとも先進資本主義国(たとえばEU)諸国,あるいはこれに近接しつつある諸国において,1917年の戦争−革命型のいわゆる暴力革命路線も,第二次大戦後,その不可能性をあらためて悟って,先進諸国の共産党が(日本を含めて)採用した,平和革命路線,議会を通じての多数者革命路線なるものも,それらが成功する確率が限りなくゼロに近くなっているということです。暴力革命路線の成功率ゼロについては,ここで論じるまでもないでしょう。後者,平和移行の多数者革命路線の成功の確率については,1973年のチリ反革命の事例を別としても,グローバル化し,ボーダーレス化している今日の世界において,国際関係の緊密化による根本的変革に対する干渉・介入の可能性はいちじるしく高くなっており(したがって一国革命というようなことは現在ではほとんど考えられません。たとえばEU加盟諸国のケースを想定してみて下さい),またIT革命と都市化の進行する先進諸国の内部においても,人々の生産手段からの分離という意味での人口のプロレタリア化は今後も限りなく進行するでしょうが,社会的職業,職種,技能の有無(たとえば,コンピューター・リテラシーと英語能力)等による利害関係の分化,老齢化の進行に伴う先進諸国の人口減と老齢人口の比重の増大(日本の場合2020年には老齢人口比26.9%,2050年には人口は1億人,老齢人口比32.3%,2100年には人口6,700万人という試算がある),それによる世代間利益の対立(加えて,エスニック間の利害,ジェンダーによる利害の対立)など,人々の利益の多元化と分化,老齢化社会の保守化傾向等のゆえに,多数派の結集,とくに革命的多数派の結集というのが,極度に困難な改革事業になるであろうことは,十分に予測されえます(逆につぎに扱う問題に関連しますが,日本国憲法第9条第2項削除というような右からの多数派結集の諸条件は,日本の場合には,はるかに実現可能性が高いと思います)。
さらにつっこんでいえば,共産主義者が考えていた,公式には「敵対する階級間の政治権力の移動」という意味での「革命」が,21世紀において,いわゆる先進諸国において,そもそも可能であるのか,それが「死語」になってしまうのではないか,という疑問も湧いてきます(ただ,以上のような予測は,極端な後進地域,および現存社会主義の脱社会主義過程において,一定の条件のもとでは〔たとえば,唯一の軍事的覇権国アメリカやNATO等の軍事介入がない場合には〕あたらないことは大いにありうることでしょうが)。
しかしながら,21世紀に向けての本当に重要な問題は,これまでの考察によって,これからも存続を続けていくであろう資本主義経済体制,商品経済の体制,とくに多国籍企業を含む巨大資本の政治的社会的に拘束・制約されることのない自由な活動を鼓吹する新自由主義ないし新保守主義的な蓄積戦略,ヘゲモニー戦略−これらの概念については,この講義のジェソップの部分で説明を加えました16)−の実行によって,このグローバル化の時代におけるグローバルな諸イシュー,その代表的なものをあげれば,(1)環境破壊による地球生態系の危機の深刻化17)−これは種としての人類の絶滅につながる可能性があります−,(2)それとも関連をもつ稀少資源の涸渇の問題,(3)核軍縮の停滞と核保有国の拡大による核戦争の危険を含めた戦争の危険の現存の問題18),(4)南北隔差の拡大−北側でも,アメリカに見られるような貧富の差の拡大が見られますが(日本においても同様な傾向が見られるかどうかについては,社会学者の間の論争があります)19),南側,とくにサハラ以南のアフリカ,西アジア,南アジア等においては数億人単位の飢餓人口が滞留しており20),その飢餓と貧困から脱出する方途が見出されていない−など,問題が山積されているわけです。
これらの人類の生存と未来を脅かすようなグローバルな諸問題−簡単にまとめて,環境,戦争,搾取・隔差と貧困といっておきますが−は,今日のグローバルな資本主義経済の構造によって,個別的・地域的国家や地域連合の制度と政策によって,そして巨大多国籍企業を含む巨大諸企業の行動と方針によって,惹起された諸結果の複合体に他ならないでしょう。
もし,そうだとすれば,21世紀の政治学を含めた社会諸科学の課題は,とくにわれわれがそれにかかわっている政策科学の課題は,この地球と人類の命運をも左右しかねない資本主義的市場経済のもたらす弊害を,どのような主体がいかに抑制し,統制し,除去していくかということです−この点ではこの講義の10回目(テキストでは13章)で触れたD.ヘルドの「コスモポリタン民主主義の理論」における,(1)ローカル・職場・都市レベル,(2)国民的レベル,(3)地域的レベル,(4)グローバル・レベルの4つの統治レベルと,政策諸争点の性格とを適切に組合せ,それらの各レベルの垂直的かつ水平的な結びつきによって,問題の解決を計っていくという構想が参考になりましょう。またこれとかなりよく似た構想として,松下圭一氏の,公共政策の主体は,いわゆる国レベルの政府政策に独占されず,(1)市民活動,(2)団体・企業,政府レベルとしては(3)自治体,(4)国,(5)国際機構に多元化・重層化され,「公共政策」のうち,基本法によって「政府政策」とされたものについても,市民,団体,企業による分担を認めるという構想があります。さらにヘルドの場合には,「コスモポリタン型民主主義法」の観点からの資本主義的市場経済へのコミットメントについて,4つの論点を設定しています。(1)経済への政治的介入によって,有害な外部性(たとえば環境汚染)を克服したり,民主的自律の基本的要請を企業の内外において確実に充たすこと。これは市場システム自体の破棄ではなく,市場の「再構成」をめざすものとされます。(2)経済生活における民主主義の確立,(3)介入形態およびそのレベルとしては,「公共支出と公共投資の公的審議および決定への従属,国際レベルにおいて公共支出と公共投資の調整を行うための新協力機構の設立,一国的・サブナショナル・地方的市場の文脈における市場諸力の力学に直接作用する非市場的要因の重視」,(4)所有形態と私有財産の役割についての公的実験への委任があげられています。より具体的な構想については,テキスト231頁の表13−4「民主主義のコスモポリタン・モデルの諸目標,例示的争点」を見てください21)。
最後に,資本主義的市場経済の弊害を,多元的重層的諸主体の連係プレーによって抑制し,制御していくという場合に想定される,地方,国,国際機関の政府形態(政体,ガヴァナンス)は,ヘルドのモデルでは,現行のそれをかなり抜本的に改革したものをめざすことになりますが,それらは,伝統的用語を用いれば,社会民主主義型のレジーム・経済構想・政策体系ということになるのでありましょうか。
その関連で,興味深かったのは,2000年の政治学会研究会(10月8日,9日,於名古屋大学)の分科会Jで,「第3の道の比較研究」がとりあげられ,3人の報告者がそれぞれに興味ある報告をおこないましたが,とくに住沢博紀氏の「第3の道−21世紀への修正主義論争?−」は,ヨーロッパ諸社民党(英・独・仏等)のスタンスの相違点の他に,イギリス首相ブレアおよびLSE学長ギデンズの『第3の道』の評価22),さらに,「第3の道」の徹底化によって,ヨーロッパ社会民主主義の「自己破壊的な革新」を含めて,アメリカ,日本,アジアを含めての,21世紀の「進歩的なガバナンス」という枠組みの展望にまで及んでいて,たいへん有益な報告でありました。実は,私自身は,ギデンズの近代化論を中心に,『近代の今日的位相』という書き下ろしの本を出版しており(平凡社,1994年),ここで紹介したD.ヘルドは,ケムブリッジにおけるギデンズの弟子の一人であり,またもっとも有力な共同作業者の一人なのです。その意味では,私の1990年代に入ってからの,ギデンズ,ヘルド等の研究は,21世紀に向けての「新たなガバナンス」探究の一環をになってきたということを,自己確認することができたしだいです。
第3節 日本国憲法の命運(略)
(注)
6)邦訳,上下2巻,河合秀和訳(三省堂,1996年)。
7)1840年代からロシア革命にいたる社会主義の歴史については,藤田勇『自由・平等と社会主義1840年代ヨーロッパ〜1917年ロシア革命』(青木書店,1999年)。現存した社会主義およびソ連の総括としては,塩川伸明氏の3冊の本をあげておく。『ソ連とは何だったか』(勁草書房,1994年),『社会主義とは何だったか』(勁草書房,1994年),『現存した社会主義』(勁草書房,1999年)。
8)私見では,マルクス以後,今日においてもなお重要な思想史的意義を有する独創的なマルクス主義思想家はグラムシのみである。このグラムシについての最近の啓発的な研究として,イタリア社会主義の長老であるノルベルト・ボッビオの『グラムシ思想の再検討』(原文1990年刊,小原・松田・黒沢訳,御茶の水書房,2000年)をあげておきたい。
9)前掲『経済学辞典』第3版,「東欧経済」の項(執筆者,佐藤経明)946頁。
10)濱島朗『ウェーバーと社会主義』(有斐閣,1980年)。ウェーバーの「社会主義論」としてはまとまったものとして,1918年ウィーンにおけるオーストリア将校への一般教養講話があり,邦訳はウェーバー著,濱島訳『権力と支配』(みすず書房,1954年)に付録として収録されている。
11)塩川伸明・前掲『現存した社会主義』第2章 社会主義体制の基本的特徴の 1 経済体制(78〜130頁)。
12)日本協同組合学会訳編『西暦2000年における協同組合〔レイドロウ報告〕』(日本経済評論社,1989年),ポール・デリック,P.デリック(高橋・石見訳編)『協同組合の復権レイドロウ報告とP.デリック』(日本経済評論社,1985年),S.A.ベーク『変化する世界協同組合の基本的価値』(JJC第30回ICA東京大会組織委員会,1992年)等参照。
13)H.トーマス他『モンドラゴン』(お茶の水書房,1986年)。岩間一雄「新自由主義批判とモンドラゴン−新社会主義への模索−」『部落問題・調査と研究』2000年2月号,33〜37頁。
14)シャリン・カスミア著,三輪昌男訳『モンドラゴンの神話』(家の光協会,2000年7月)。
15)塩川伸明・前掲『現存した社会主義』27頁。これとの対照において「現存した社会主義」の特徴づけとしては,「特殊なイデオロギーと組織原則によって特徴づけられる共産党の存在,その党による国家権力の掌握,国家主導の社会改造,その要としての生産手段の国家所有を通じた経済体制改造(指令経済)」が採用されている(同書,10〜12頁)。この特徴づけは先に触れた佐藤経明氏の理解とほぼ同一である。
16)グローバル化については,スウェーデン外務省による英文パンフレットがよい。J,Eatwell, E.Jelin, A.MeGrew, and J.Rosenau, Understanding
Globalization -The Nation-State,Democracy and Economic Policies in the New
Epock,1998.本格的なものとしては, D.Held,et al.,Global
Transformations,1999, Polity Press. (本書,第1部第2章,参照)。
17)米本昌平『地球環境問題とは何か』(岩波新書,1994年),ポーター・ブラウン著,信夫訳『地球環境政治』(国際書院,1993年〔原文も同年〕),マコーミック著,石・山口訳『地球環境運動全史』(岩波書店,1998年〔原文,1995年〕)など。
18)坂本義和編『核と人間1 核と対決する20世紀』,『核と人間2 核を超える世界へ』(ともに,岩波書店,1999年)など。
19)盛山和夫,佐藤俊樹「『不平等社会』か日本?」『中央公論』2000年11月号。
20)たとえば,サイツ著,石光訳『地球的諸問題入門』(三嶺書房,1990年〔原本,1988年〕)第2章,第3章など。
21) D.Held, Democracy and Global 0rder, Polity
Press, 1996, pp.279−80.
22)アンソニー・ギデンズ著,佐和訳『第三の道』(東洋経済新報社,1999年〔原本,1998年〕)。
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(田口論文・掲載ファイル)