五〇年の研究生活を振り返って−いま思うこと
丸山眞男とマルクスのはざまで
田口富久治
(注)、これは、田口富久治『丸山眞男とマルクスとのはざまで』(日本経済評論社、2005年8月)の第3部「五〇年の研究生活を振り返って−いま思うこと」(P.249〜268)の全文である。この内容は、2004年10月1日、全国政治学研究会(札幌学院大学)で報告された。ファイルの副題は、報告内容との関係で、私(宮地)が著書名をそのまま付けた。このHPに転載することについては、田口氏の了解をいただいてある。
〔目次〕
4、簡単なむすび
5、田口富久治略歴
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
2、田口・不破論争の歴史的位置づけに関するファイル5編リンク
1、私の研究の軌道−二つの定点
全国政治学研究会の創立以来の会員――この会の創設は、一九七〇年九月二四日で、創立集会は明治大学で行われ、初代会長は故岡倉古志郎氏でした――という主催者側のご紹介つきで、若い神谷君(北海道教育大学→札幌学院大学)たちとともに報告の機会が与えられたことに感謝しております。テーマとしては、丸山眞男をめぐる最近の研究・論議ということを考えて、そのように主催者側にお伝えしていたのですが――丸山眞男に関わる私の論文一〇点、および本日主として言及する研究や資料については、別紙として配布しております――最近になって報告のテーマを表題のようにふくらまして話をしたいという気持ちになりました。
私が研究者への道の第一歩を踏み出しましたのは、いまから五二年前、一九五三年四月一日、東京大学法学部の助手(新制最初の助手の一人)としてでした。私の指導教授は政治学の堀豊彦先生でしたが、まったく形式的には東洋政治思想史の丸山先生の講座の助手にはりつけられました。それからもう半世紀余たってしまったわけです。私はこの五〇年の自分の研究軌道を、二つの定点をもった楕円軌道として描くことができるのではないかと考えています。一つの定点は、マルクス主義、政治的にはコミュニズムの運動。もう一つの定点は広義の丸山政治学です。
前者への政治的コミットメントは、五二年の秋のことでしたが、イデオロギー的には五一年頃(大学三年次)からマルクス主義文献の研究――これには経済学関係等の講義の影響(教養経済学、大内兵衛。農政学、山田盛太郎。他に社会政策の大河内一男、経済史の高橋幸八郎と松田智雄(大塚久雄教授の代講)、加えて外交史の江口朴郎講師(教養学部教授))もありました――がはじまっていました。丸山政治学との出会いの最初がなんであったか、はっきりした記憶はありませんが、『人文』第二号一九四六年)の「科学としての政治学――その回顧と展望――」は、雑誌論文そのもので、本郷に移ってから読み、「現実科学を志す政治学者にとって」、「理念としての客観性と事実としての存在制約性との二元のたたかいを不断に克服せねばならぬ」という丸山の指摘は、その後の私の政治学研究を貫く、あるいは貫くべきと考え続けた内的規範となりました。
私は、一九五三年度の丸山ゼミ――テーマは「日本のナショナリズムとファシズム」でした――への出席を許され、そこで加藤高明についての報告をしましたが、その報告草稿はなくしてしまいました。そして私は、丸山からマルクス主義の政治論や国家論を相対化する視点を学びました。ある日の東大法学部の政治学研究会で、丸山はエンゲルスの『起源』について、国家の起源の問題と、国家の機能の問題を混同している、ないしは前者から後者を演繹しているという趣旨の批判をおこないました。これはほんの一例にすぎませんが、このような丸山のマルクス主義批判は、私が自分のマルクス主義(そんなものがあったとして)を批判的に内省する重要な契機となりました。
さて私における政治と政治学の矛盾が顕在化したのは、私が『朝日新聞』一九七六年七月一日夕刊に書いた「現代政治における政党の問題」という小論において、フランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェの所説を引いて、共産党の「民主集中制」という組織原則についてひかえめな形で疑義を提起したことを契機としてでした。当時の日本共産党書記局長の不破哲三氏等が、私の議論を組織論上の修正主義と認定し、不破氏は、七九年一月号の『前衛』誌上で「科学的社会主義か『多元主義』か―田口理論の批判的研究」として批判をおこない、私は同誌の同年九月号に反論を書いたのですが、不破氏が八〇年三月号に「前衛党の組織問題と田口理論」と題して再反論をおこない、それで『前衛』誌上の論争は終わりになります。
この論争についての私の側の総括は、私が名古屋大学を退職するにさいしての、退官記念論文集に収められている、中谷義和・小野耕二・後房雄の三氏を聞き手とする「私とマルクス主義と政治学」という聞き書きの、三九八〜四〇二頁のあたりに載せております。一つは私の側の失敗として、レーニンの前衛党組織原則の解釈論の形態――そういう次元では解決できない問題を提起したのに――をとった論争に枠づけられてしまったことです。もう一つは、私が考えていたような方向で先進国革命論の課題と戦略にふさわしいような形での日本における政治主体の形成は、当分期待できないという結論に達したため、私はこの時点で「政論」的なものから一歩退いて、政治学・行政学・国家論などのやや理論的問題に沈潜することにいたしました。現時点、つまり、一九九一年頃からのソ連、東欧等の共産主義体制の崩壊、先進資本主義諸国において、この組織原則を堅持しつつ、かつ生きながらえている共産党は日本共産党とポルトガル共産党の二つになってしまった、というようなコミュニズム運動の現状を考えますと、この論争には歴史的には一つの決着がついていると思います。
* この論争に関わる私側の諸論稿は、『先進革命と多元的社会主義』(大月書店、一九七八年)および多元的社会主義の政治像−多元主義と民主集中制の研究』(青木書店、一九八二年)に収められています。
ところで、私の日本型コミュニズムとの訣別は、一九九四年、日本共産党の第二〇回大会において――この年は、私が名古屋大学を退職し、立命館大学政策科学部に転じた年と重なっていました――同党が、一九五六年に、丸山眞男氏が岩波書店刊の雑誌『思想』同年三月号に、「思想の言葉」として書いた「戦争責任論の盲点」を、二八年も経った時点で「突然」とりあげ、委員長報告、書記局長報告そして大会決議においても、丸山の、共産党が日本でのファシズムとの戦いにおいて敗北した政治的結果責任を負うべきだという議論を、口を極めて非難し、罵倒したことが決定的な契機となりました。共産党が論文発表から二八年も経って丸山のこの発言を口を極めて罵りだした背景としては、当時の政治状況、知識人の動きなどを背景として指摘する「解説」などもあらわれていました(『葦牙』第一八号で、久野収氏が、丸山論文を引用したインタヴュー記事(九三年一月)に応じたことがキッカケとなったという説もあります。
なお『丸山眞男書簡集(5)』の一〇五頁の注3および一七三頁の注1参照)。私は、戦前戦後を通じて、とくに戦後、丸山が日本共産党との関係において、おそらく一貫して「反共」の立場にたつことなく、それをも含めたいわゆる革新の統一を志向する立場をとり続けたことを知っていましたし、また政治責任論の原則から言えば、丸山のこの五六年「思想のことば」の、戦争中の共産党の政治責任を問う立場は当然のことと考えましたから、宮本委員長(当時)をはじめとする当時のこのような日本共産党側の丸山誹謗をみとめることは断じてできないと考え、この党との関係を断ち切りました。
* なお、丸山が一九五六年三月号の「思想のことば」で、共産党の戦争中の政治責任をあえて提起した背景説明としては、九四年頃の時点で、石田雄氏が雑誌「みすず」に書いた論文があります(石田雄「戦争責任論の盲点の一背景」『丸山眞男の世界』みすず書房、一九九七年、一一七〜一二〇頁参照)。
さて、戦後、厳密には一九五二、三年から一九九四年にいたる約四〇年の私の思想軌道の二つの定点のうち、一つは現実政治的意味でも理論的にも、ドロップしたのですが、私が一人の政治学者として、そしてまた政論家として発言を続けてきた以上、どんなに狭い範囲のものであろうと、私が政治的・理論的になんらかの影響を与えてきたかもしれない学生諸君や一般読者諸氏に対する私の知的=政治的責任の問題は残りますし、それを可能な限り果たしていくことは必要であると考えました。またそれを果たしていくもっとも知的に適切なやり方は、私がマルクス主義という思想体系について、そしてまた世界と日本のコミュニズムという運動について、どのような点で認識や判断を誤り、いまそれらの点をいまいかに考えているかを明らかにすることだろう〔自己批判することだろう〕と考えました。私はこの点については、名古屋の中京大学大学院学術講演会で講演する機会を与えられ、二〇〇一年一〇月、それは「マルクス主義とは何であったか?」という題で「中京法学」に発表させていただきました(本書所収二二五〜二四八頁)。
そこでは、マルクス主義を、体制としてのそれ、運動としてのそれ、思想・理論としてのそれに三区分し、結論として、(1)マルクスは近代資本主義という経済=社会体制の本質や作動法則はかなり正確に理解し分析しえていたが、資本主義の延命力についての判断は間違っていた。同様なことはレーニンを含めた後続世代のマルクス主義者、革命家についてもあてはまる。(2)そのことの裏返しですが、マルクス主義者の社会主義・共産主義の到来についての予測は、あまりに楽観的であり、それは一種のユートピア思想にすぎなかった。(3)現存した社会(共産)主義の体験は、その掲げた理念とはまったく逆に、民衆の基本的人権は保障されず、その政治的参加の権利は実質的に保障されない、民主主義の反対物であったということです。それはまた、ソ連、中国、その他の社会主義諸国において、数千万単位のテロや弾圧を伴うものでもあった。そしてそれを可能にした条件の一つは、もともとは「前衛」政党の集権化を担保する民主集中制という組織原理の全体制的拡大であり、それを経済・社会の、上からの監視と統合に拡大したものであったということです。このような非民主的で不自由の体験が歴史的に明らかにされている以上、もはやそのような体制が再復活する展望はまずはない。(4)政治理念および政治思想としてのマルクス主義の中には、いまなおその輝きと意義を全面的に失ってしまってはいない部分もある。それがその初心にかえって、自己批判と再生の努力を重ねていくならば、人類の知的・道徳的遺産の一つとしては、人類の歴史の上に残る可能性をなお持っているのではないか。
もっとも、最近の私は、一九一七年の十月革命そのものの政治的正当性がある意味では、疑問視されうること、そして(スターリン時代は言うに及ばず)レーニンが最高指導者として主導した時期一九一七〜一九二二年)の政治的経験、とくに大規模な民衆(農民、労働者)に対するテロリズム等々は、政治的にはとうてい容認できないというふうに考えるようになっておりますが、これらの点については、また後で触れます。
2、最近の丸山眞男批判について
つぎに、最近の丸山批判――これは管見のかぎりでのについての私のコメントですが、それらに立ち入るまえに、一、二申しあげておきたいことがあります。一つは、これは丸山批判者の人々から、私もその一人である丸山の思想や学問の擁護者に向けられている苦情ですが、後者が丸山の思想や業績をいわば聖眞男のそれとして擁護し、批判に聞く耳をもたないというものですが、それはとんでもない言いがかりです。丸山の業績や立論に、時代的・資料的その他の制約があることは、その評価に当たっての当然の前提であります。たとえば、本日皆さまに配布いたしました「丸山眞男をめぐる最近の研究について」(本書第1部の三)という論文の中で、私は、山口定氏の丸山の歴史の見方についての批判や、平石直昭氏の丸山における「市民社会」の用例の批判的検討を、丸山に対する「内在的批判」の典型的例としてあげています(一二四〜一二五)。日本政治思想研究、あるいはより具体的に、日本思想史における歴史観、政治観、倫理観の研究、あるいは福沢研究が、丸山の到着した地点でストップしてしまうなどということは、学問史の経験上からいってもありえないことです。
ところで、私のみるところでは、丸山思想史ないし政治学の批判の焦点と水準は、私が「丸山眞男プロス・アンド・コンス」論文二九九九年一〇月発表)で検討した頃とはやや変化もしているし、より乱暴になっているという印象があります。九九年の私の論文で、丸山批判の代表的論者として言及しているのは、山之内靖、酒井直樹、姜尚中、中野敏夫、米谷匡史、葛西弘隆等でありますが、彼らの共通の見解を、私はこの論文でつぎのようにまとめておきました。
「丸山を国民的等質性の創出を目指したナショナル・リベラルないしナショナル・デモクラットと見(戦前の日本については大日本帝国に強制的に包摂された朝鮮・台湾あるいは、沖縄などの人々の存在ないし運命に無関心なオリエンタリズムの徒と見)、古層論の展開については、日本の「民族」ないし「国家」の歴史的同質性を強調する人種主義的・特殊主義的偏向に陥っているという。そしてかかる「国民主義」の「物語り」(リオタール)は、もはやその歴史的役割をおえてしまっているのだ」と。
ところでここ両三年で若干の話題になった丸山批判としては、安川寿之輔『福沢諭吉と丸山眞男―「丸山諭吉」神話を解体する』(高文研、二〇〇三年)と今井弘道『丸山眞男研究序説―「弁証法的な全体主義」から「八・一五革命説」へ』(風行社、二〇〇四年)があります。安川の本は、その前著『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、二〇〇〇年)に引き続いて、丸山の福沢理解を全面的に批判し、丸山が福沢について打ち立てた「神話」を解体する、というふれこみの大冊(四八〇頁)でありました。また今井の著書は、安川の丸山批判が福沢批判に限定されている点に批判をもちつつ、そこから大きな励ましと、著者安川に対する感謝の念を抱きつつ、福沢と丸山を「緊急権国家」体制(小林直樹の一九七九年の本の表題)の思想家として批判することを一つの主要目標とする仕事でありました。
安川の仕事については、静岡県立大の平山洋が、早くから批判をおこなっていましたが、平山の『福沢諭吉の真実』(文芸春秋、二〇〇四年)の第三章「検証・石河幹明は誠実な仕事をしたのか」と第四章の四「福沢と石河のアジア認識は全く異なっている」が、平山の安川批判のまとめである、と考えていいわけです。
もちろん、平山のこの書物の画期的意義は、現行の『福沢諭吉全集』(岩波書店、全二一巻)の「時事新報」の論説一五〇〇編の半数近くが、福沢の未関与ないし関与度の低いものであり、また日清戦争や朝鮮問題に関する一八九四、九五年度の論説一〇編―その中には福沢が中国侵略を肯定したという主張の根拠とされてきたものも含まれる―中七編は福沢は無関与とし、そのことを論証しようとしていることです。それではこれらの論説の執筆者は誰で、これらを全集の中にもぐりこませた犯人は誰か。それは福沢の弟子の一人で、時事新報社で主筆などをつとめ、退社後、福沢の全集編纂と伝記(全四巻)執筆に一人であたった石河幹明(一八五九〜一九四三)であるというのが、平山の主張であります。
平山の仕事は、「時事新報」論説執筆者の再検討を進めていた井田進也(『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』光芒社、二〇〇一年)の仕事を継承したものであり、専門家による検証を必要としますが、かなり信頼に値するもののように見えます。安川やその福沢「研究」にかなり依拠した今井が、この石河の詐術にころりとだまされて、福沢を――そして福沢を高く評価する丸山を――近代日本最大の保守主義者と評したり(丸山については、福沢の主体的責任を無視していると批判する――安川の場合)、あるいは福沢と丸山を串刺し的に「緊急権国家体制の思想家」と貶価する(今井の場合)企ては、この一点からも破綻しているのではないのか。それだけではありません。服部之總や遠山茂樹など講座派を代表するマルクス主義近代史家も、このトリックに気がつかなかったと平山はいいます。
石河に騙されなかったのは、かの東京帝国大学の国史学教授平泉澄であった(平山本、一八五〜一八七頁)というのも皮肉なことであります。丸山の場合はどうであったのでしょうか。平山は、丸山も服部や遠山と同じように、石河のごまかしに気づいていないとしていますが、その辺は、専門家の鑑定を待つしかないでありましょう(平山本、二一〇〜二一六頁)。ただし、平山のこの労作は、丸山の「福沢諭吉の『脱亜論』とその周辺」(日本学士院論文報告、一九九〇年九月一二日。『丸山眞男手帖20』に収録)には言及していませんし、東大法学部における岡義武と丸山眞男との位置関係について、事実と逆の記述をしているところがあります。
今井弘道の労作については、私が『象』という名古屋の同人雑誌に、今井の主張の一つの柱である、福沢と丸山は「緊急権国家」体制の思想家であるという命題についての反論をおこなっています(本書第1部の五前半)。また今井の丸山論のいま一つの特徴は、丸山の一九三六年の緑会雑誌懸賞入選論文の末尾のキイワード「弁証法的全体主義」が、京都学派の田辺元の「種の論理」の影響をうけたものではないか、少なくともそれと同型の論理構造をもつものではないか、という問題提起にあります。私はこの問題を『象』に「「弁証法的な全体主義」とは何か? 丸山眞男、田辺元、南原繁のトリアーデ――今井弘道『丸山眞男研究序説』批判(2)」として発表しています(本書第1部の五後半)。結論を申しますと、今井のこの主張を立証するに足る証拠は得られなかったのですが、ただ私としては、田辺の「種の論理」なるものを初めて本格的に勉強することができたことを喜んでおります。
田辺の生誕百年を記念して編まれた、竹内義範・武藤一雄・辻村一編『田辺元 思想と回想』(筑摩書房、一九九一年)を読む機会をえましたし、『田辺元・野上弥生子往復書簡』(岩波書店、二〇〇二年)という同年生まれ(一八八五年、五八六頁)の両巨匠の、老いらくの恋と思想的・芸術的交流の記録を昩読することもできました(この本については長文の書評を書きました。『もくの会通信』四六号、二〇〇四年)。「美しい老年、美しい恋」という加賀乙彦の解説(五七三〜五八三頁)は、これまた見事な文章であります。加賀が五三年二月一七日の元の書簡の、漱石『虞美人草』批判において、元が作中人物の卑しさを作家自身の卑しさと見なしている点に、彼の小説読解力の限界を見、また元の弥生子論には反対だ、といい切っています(五八〇頁)。
最近出たもう一つの丸山論、すなわち水谷三公『丸山眞男―ある時代の肖像』(ちくま新書、二〇〇四年)は、「進歩」が輝いた戦後の一時代を、丸山眞男の時代としてとらえる一試論であります。副題の「ある時代の肖像」とはそういう意味でしょう。本書のカヴァーのとびらに要約があります。「『日本政治思想史研究』によって気鋭の思想史研究者として注目された丸山は、また時論の人ともなった。「超国家主義(者)」「日本ファシズム」批判に始まる論考と発言は、進歩的論壇の流れをつくり、今も広く読者を集める。講和問題や朝鮮戦争ベトナム反戦や憲法九条、天皇問題などに現れる軌跡をたどり、丸山に「持続する気分」をとおして、戦後日本の夢と悔恨をふりかえる」と。著者は丸山の直弟子ではないが(丸山の親友辻清明の弟子)、丸山ゼミに参加し、東大紛争時には、法学部助手として丸山とともに明治新聞雑誌文庫に寝泊まりした経験をもっています。そのような著者が、研究者としての丸山というよりも、「啓蒙家」ないし「思想家」としての丸山に、聞いてみたかった疑問のいくつか――水谷はこの面での丸山の言動については、全体として懐疑的である――を、自問自答した産物が、この本なのであります。
水谷の政治的スタンスは保守的でありますが、彼が丸山の言説に批判的に迫っているテーマの第一は、戦争と平和の問題――朝鮮戦争から憲法九条まで――であり、第二は、リベラルと反共という問題、より具体的には丸山の「反・反共主義」の政治的スタンスの批判的検討であり、第三は、天皇と美学の問題であります。換言すれば、もっとも深いところで丸山を支えた、彼の持続する気分や美学の問題であります。私は、水谷の丸山についての以上三点の懐疑には無視し得ない一定の妥当性を感じます。ただ水谷が、ラスキにおける爵位問題についてのヴァニティに触れながら、ラスキを戦前、戦後を通して、その実力以上に高く評価していた丸山には、そのようなモラール的・世俗的な疑点がまったくなかった点に一言触れるべきであったでしょう。
この項の最後に、二〇〇四年の第五回「復初の集い」において、大学三年のときの丸山が、国法学の受講ノートの余白に書きつけた「現状維持と現状打破」と題する対話体のメモが夫人の了解を得て公にされました(『丸山眞男手帖31』二七〜三二頁)。このメモは、八月一七日の朝日のオピニオン欄、早野透による「ポリティカルにっぽん」によって広く紹介されました。丸山のこの発言をよむとき、それから四年後、一九四〇年の「或日の会話」(『公論』同年九月号)のBの発言を、中野敏夫や今井のように、近衛とその新体制に好感を示している証拠と受けとめ、そう断定することは、丸山が三六年から四〇年までの間に「別人となった」(「大転向」した)という立証のないかぎり、まったく無理な議論であることが証明されたと私は考えます(なお、私はこの報告の直後に、植村和秀『丸山眞男と平泉澄』(柏書房、二〇〇一年)という問題作を恵贈されて、興味深く読んだ)。
3、最近のコミュニズム研究について
一九九一年八月のソ連共産党の解散、同年一二月二六日のソ連邦消滅(その半年前にEUが創設されています)は、ソ連共産党の極秘文書の大量解禁をもたらします(一部の文書の解禁はゴルバチョフ政権によって行われていたのですが)。これによってコミンテルン研究、レーニン時代を含めたソ連共産党研究は、日・ソ両共産党関係にかかわる研究を含めて画期的に進展することになり、さまざまな歴史の「真実」が明らかにされてきました。わが国では、中谷義和さんとともに、本日の研究会の暫定世話人である加藤哲郎さんが、早くから国崎定洞とベルリン日本人左翼グループの研究を始めていたのですが、その後、スターリン主義と日本人粛清、在外日本人国際ネットワークとその研究を拡大し、そのHPは、学術研究に有用な「定番」サイトに選ばれています。
加藤の学位論文は、私もその審査にかかわった『コミンテルンの世界像』ですが、その後『モスクワで粛清された日本人―三〇年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店、一九九四年)、『二〇世紀を超えて―再審される社会主義』(花伝社、二〇〇一年)――この本は、第一部 民主主義の永続革命へ、第二部 社会主義=共産党神話の再審、付論 階級政党から国民政党へ――共産主義崩壊の中で生き残る日本共産党、です。とくに第二部と付論が、当面の問題との関連で重要です――、最近では、島崎爽助氏との共編で、『島崎蓊助自伝』(平凡社、二〇〇二年)が公刊されています。なお加藤の旧ソ連秘密文書の解読には、トロッキー『ロシア革命史』全五巻(岩波文庫)の訳者でロシア文学研究者である藤井一行さんが、積極的に協力されてきたようです。
外国人の仕事としては、一九四七年生まれで現在オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレツジ・フェローで英国学士院会員であるロバート・サーヴィスの『レーニン、一つの伝記』(二〇〇〇年)という大著(彼はそれ以前に、レーニンの政治理論形成過程についての大部の三部作〔レーニン・政治的生涯、八五、九一、九五年〕を書いているようですが、私は読んでいません)が、河合秀和氏の訳で、上・下二巻(総頁七〇〇余)に分けられて、二〇〇二年三月と八月、岩波書店から公刊されました。この著者は、ソ連共産党中央委員会所管のレーニン文庫が、一九九一年に公開された時点にモスクワに居合わせ、それを自由に利用できた最初の歴史家となったとのことです(下巻訳者あとがき、三一九頁)。
上巻には、序章、第一部 叛徒の誕生、第二部 レーニンと党が収められています。第一部では、ロシア革命以前の、レーニンの家系や家族関係およびレーニンが逮捕されてシベリアで送った流刑生活までが描かれ、第二部では、チューリヒ、ミュンヘン、ロンドンなどでのレーニンの亡命時代の党活動が描かれています。下巻の第三部は、「権力奪取」と題され、一九一七年二月革命から十月革命、一七年から一八年の冬における「包囲下の独裁」、そして一八年一月〜五月のブレスト―リトフスク講和から、同年八月くらいまでのレーニンの言動が描かれ、第四部 革命の防衛では、一九一八〜一九年以降のコミンテルンの創設とその第一〜第三回大会への出席、西方(ドイツ、ハンガリー等)における革命の失敗(一九二〇年)、一九二一年における新経済政策への転換、二二年五月最初の発作、一二月二度目の発作、二三年三月三度目の発作、政治活動不能、二四年一月の死までがたどられています。
たまたま私の手許にあったロシア革命とレーニンについての、一九五六年のスターリン批判以降の、ソ連を含めた外国と日本左翼の研究文献一〇点くらいとくらべてみますと、スターリン評価の下落と反比例して、レーニンの理論と行動を持ち上げる傾向が、ソ連共産党や日本共産党関連の文献でも圧倒的に多くなってきます。しかも、共産党主流には一線を画していたと思われているような論者、故石堂清倫氏の解説(同氏訳、ユ・ア・クラシン『レーニンと現代革命』勁草書房、一九七一年〔原本六七年〕「あとがき」四五三〜四六○頁)や、中野・高岡共著『革命家レーニン』(清水書院、一九七〇年)――もっとも中野は『社会主義像の転回』(三一書房、一九九五年)では、そのようなレーニン像は撤回していますが――などにも、このような傾向があらわれております。サーヴィスのこの本は、レーニンを「神話化」する志向性とは完全に無縁でありますが、「レーニンがいなければ、一九一七年一〇月には革命はなかったのであろう。レーニンがいなければ、ロシア共産党は一九二一年末以降、あまり長くは存続しなかったであろう」(下巻第二十五章末尾、二四二頁)という彼の政治家レーニンの評価は、大体妥当なのではないでしょうか。
さて、サーヴィスも認めているように、レーニンは、自らが指導して成功させ革命権力を擁護するためには、あらゆる政治的敵手、旧体制派(擁護)の知識人・聖職者、さらにそれに脅威を与えると認定した勤労大衆(とくに農民大衆)、革命の成功に寄与したが、後にレーニン政権に対抗した労働者、軍人、水兵に対しても、大量のテロルを行使することを辞さなかったのです。
この問題について、管見の限りでもっとも充実したホームページを立ち上げているのは、愛知県岩倉市在住の宮地健一氏です。氏のHPで比較的最近のものとしては、「ザミャーチン『われら』と一九二〇、二一年のレーニン−チェーカー・大量殺人犯罪告発のレーニン批判SF小説」(これは同人誌『象』の四九号(二〇〇四年)に上が、五〇号、五一号に中・下が発表された大作です。ザミャーチンと『われら』の紹介、ドストエフスキーとザミャーチンとの関係、一九二〇、二一年のレーニン批判文学作品としての『われら』の分析で、同氏の子息徹氏が作成した三DCG(三次元コンピューターグラフィックス)の画像もすばらしいものです)、そこでは、「レーニンの大量殺人総合データと殺人指令二七通−一九一八年五月一三日の食糧独裁令から二二年一二月一六日第二回発作まで―」――ここではレーニンの大量殺人総合データ、推計の根拠と殺人指令文書二七通がしめされ、ソ連崩壊後の発掘データによるレーニン像の大逆転が示されています。そして、クロンシュタット水兵とペトログラード労働者に対する対応、とくにクロンシュタット水兵の平和的要請と(これに対する)レーニンの皆殺し対応が描かれています(これはプリント・アウトでは三四枚の大部のものです)。
なおこれらのファイルには、ソ連共産党崩壊後から入手可能になった秘密文書、それに依拠した外国人の研究・日本人の研究が参照されていますが、日本人の研究としては、大薮龍介『国家と民主主義』(社会評論社、一九九二年)、中野徹三前掲『社会主義像の転回』、梶川伸一『飢餓の革命』(名古屋大学出版会、一九九七年)、同『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、一九九八年)などがあります。なおここでは、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書―犯罪・テロル・抑圧(ソ連篇)』(恵雅堂出版、一九九七年フランスで出版、二〇〇一年翻訳出版)が活用されています。
これらの宮地のファイル、さらに彼が依拠した内外の資料や研究が明らかにしたことは、ロシア十月革命の正当性への疑問の高まり(それはプロレタリア社会主義大革命ではなく、レーニン派の単独武装蜂起、単独権力奪取クーデタであったという説が強くなっています)、またレーニンによる制憲議会の解散についても、クーデタ説もあるようです。そして十月武装蜂起のなかに、制憲議会の受容を不可能にする論理が内包されていて、内戦の不可避性、他党派への弾圧、一党独裁への道を切り開いたという解釈(中野徹三)もあります。
また宮地の別のファイル(クロンシュタット水兵とペトログラード労働者)では、一九〇五年の第一次ロシア革命、一七年二月革命において中心的役割をになったペトログラード・ソヴィエト、同様に五年革命と一七年革命の革命軍最大の拠点となったクロンシュタット労兵ソヴィエト、とくに後者が、二一年二月末から三月にかけて、「自由で平等な新選挙」「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というスローガンを掲げ、レーニン政権に対して一五項目の綱領に基づく平和的要請行動に総決起しなければならなかった理由は何であったのかが問われています。
その理由は、一言でいえば、二つの革命拠点ソヴィエトは、形式名とシステムは残っていたが、その実質では、二つともその執行委員会は共産党に独占されていた。つまり、彼等の作り出したソヴィエトが、労働者・水兵支配の弾圧機関に変質していったことが、ペトログラードそしてモスクワの労働者のデモ・ストライキの激発、全市的な山猫ストをひきおこし、クロンシュタットではソヴィエト水兵の反乱をひきおこすことになる。これに対するレーニン政権の対応は、ペトログラードでは、一万人の逮捕者(内五百人即時殺害、その他銃殺・強制収容所送り・流刑などは今日でも実数なお不明)、クロンシュタットに対しては、レーニン、トロッキーが二一年三月二日「弾圧命令」をだし、ストライキの全面鎮圧、蜂起労働者二千人の逮捕。そして三月七日両者の戦闘がはじまり、三月一七日には、クロンシュタット臨時革命委員会にたいしてトハチェフスキ(後年、スターリンによって粛清される)指揮の赤軍五万人が水兵一万人、基地労働者四千人に対して総攻撃をかけ、反乱を鎮圧しました。
権力の正統性にかかわる問題というのは、労働者、農民、兵士の総反乱――それを集約するペトログラード労働者とクロンシュタット水兵の政治的・経済的要求、とくに共産党によって剥奪されているソヴィエト民主主義を復活させよとする要求は、労働者民主主義という点でまったく正当なものではなかったのか。逆に、これらの「反乱者」のレーニン指令による大量殺害、「皆殺し対応」(クロンシュタットだけで二一年四〜六月、二一〇三人死刑、六四五九人強制収容所へ収監)は政治的に正統化されうるのか。それらのことがいま問われている。共産党の権力維持の目的のための大量殺害が、歴史的・政治的に正統化されうるのか。
4、簡単なむすび
さて、戦後の私の研究軌道の二定点のうち、マルクス主義、政治的にはコミュニズムの方は、スターリンからさらにレーニン、いわゆるロシア革命にまでさかのぼって、定点としての意味は、私にとって喪失してしまいました。もっともご先祖のマルクスの思想と学問はなお意味をもっていると私は思うし、二〇世紀のマルクス主義者の中では、アントニオ・グラムシの思想のみが、いまなお、歴史的有為性をもっていると、私は考えております。日本のいわゆる左翼の現状について言えば、昨年一〇月二日の日本政治学会の共通論題一が「日本の左翼―過去・現在・未来」でしたが、その報告者の一人山口二郎教授は、その報告要旨の冒頭部分で「現在の社会民主党は、護憲を掲げるシングル・イシュー政党であり、むしろ日本人に社会民主主義に対する誤解を生み出す元凶でしかない。また、西欧の政党政治における左右の対立との比較という観点から、政権の担い手としての現実的可能性を持たない共産党は、本報告における議論の対象からはずれることも、了解していただきたい」といいきっておりました。
さて、私の戦後軌道のもう一つの定点であった丸山眞男についていえば、私は二〇〇一年一月一〇日(七〇歳の誕生日の前日)、立命館大学政策科学部でおこなった最終講義(それは『政策科学』第八巻第三号、二〇〇一年二月刊、後に拙著『政治理論・政策科学・制度論』有斐閣、二〇〇一年刊に収録)の第三節日本国憲法の命運、でも論じたように、丸山の「憲法第九条をめぐる若干の考察」等は、憲法第九条は、二一世紀の国際秩序のあり方についての全世界に向かっての日本人民の根本的な問題提起なのです(『丸山眞男集』第九巻所収)。それは松下圭一氏のパラフレースによれば、戦後日本のナショナリズムの中核にある原理なのであって、「国家的安全の確保には、外交による国際平和の環境醸成さらに平和国民という威信形成こそが課題となる」というものであります(松下『現代政治学』東京大学出版会、一九六八年、二〇四〜二〇五頁)。
さて、これからの三年(〇五年から〇七年)の間に、憲法改正問題、より端的には憲法前文と第九条第二項の改廃が日本政治の中心論点として浮上してくることが、現下の情勢において確実であります(前述の憲法第九条をめぐる醸成については、『世界』第七三二号(〇四年一〇月)「もしも憲法九条が変えられてしまったら」、とくに奥平康弘の「『憲法物語』を紡ぎつづけるために」参照)。丸山のこの論文やこれと関連する諸論文、そして「戦後民主主義の虚妄に賭ける」といいきった丸山の決意をわれわれがどう継承して、戦後民主主義の核心をどう擁護していくのか、これがわれわれの今日的課題であると考えます。私個人としては自分の残された知と力のすべてをこのたたかいに献げたいと決意しております。ご静聴に感謝します。
補遺
最近、故永原慶二『二〇世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、二〇〇三年)の二二七頁に、田辺元について次のような評価を見いだした。
「京都哲学の西田とならぶ巨匠田辺元も、『歴史的現実』一九四〇年、岩波書店、田口未見)で、「歴史に於て個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生命を越える事である」などといい、「一死報国」と結局同じような死生観を提示した。若者たちの死をそのまま肯定するような論である」。これは『国家と宗教』の最終章「ナチス世界観と宗教の問題」における南原の田辺批判の妥当性を裏付けるものである。晩年の田辺は、その「死の哲学」の構想において、このことの学問的・倫理的責任をどう果たそうとしていたのか。この点については、福田歓一「京都学派の復権について」(『図書』二〇〇三年八月号)参照。
5、田口富久治略歴 (たぐちふくじ)
1931年秋田市生まれ.1953年東京大学法学部卒業.現在名古屋大学名誉教授.主著に『社会集団の政治機能』未来社,1969年.『戦後日本政治学史』東京大学出版会,2001年.現住所 〒470−0134 愛知県日進市香久山3−804
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〔関連ファイル〕
1、田口富久治論文の転載ファイル6編リンク
2、田口・不破論争の歴史的位置づけに関するファイル5編リンク
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
田口・不破論争とは、4連続粛清事件トップのネオ・マル粛清シリーズの冒頭事件となる。
上田・不破自己批判書問題も石堂清倫批判がらみのネオ・マル粛清の一環と位置づけられる。
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派
石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評
3、共産党の丸山眞男批判に関するファイル12編リンク
宮本顕治
『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男
『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』
武藤功 『丸山眞男と日本共産党』
H・田中
『市民のための丸山眞男ホームページ』
Google検索『丸山眞男』