『丸山眞男と日本共産党』
民主集中制と「常任幹部会政治」
武藤功
(注)、これは、「葦牙、23号」(1996.12)に掲載された、『葦牙』同人、武藤功氏の論文『丸山眞男と日本共産党』の一部である。その論文最後の章、「6」の全文である。「6」の題名は、こちらで付けた。私のホームページに、この論文を転載することについては、武藤氏のご了解をいただいてある。
「葦牙、23号」は、丸山眞男追悼特集になっている。
丸山眞男追悼特集号の内容
1、丸山先生から教えられたこと 田口富久治
2、丸山眞男と日本共産党 武藤功
3、丸山眞男の近代日本文学批判 山根献
4、「寛容」についての覚え書 小倉武史
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宮本顕治 『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクスとのはざまで
H・田中 『市民のための丸山眞男ホームページ』
Google検索『丸山眞男』
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最後にそうした愚行の土台となる政治的な党システムについて一言しておこう。日本共産党には周知のように民主集中制と呼ばれる組織原則があり、これは組織的な実践の局面においてのみならず、理論的な局面においても貫徹される仕組みになっている。今回の綱領レベルでの丸山批判といった事態もこうしたシステムなしには理解することができない。たとえば、共産党員の政治学者を集めて党員会議を開き、自由な討議のなかで丸山眞男の党批判論理を検討させたならば、おそらくこうした綱領や決議にあるような結論は出なかったであろう。
ところが党機関のなかで丸山批判が問題になると、事態はほとんど一直線に進んでいく。党機関は民主集中制の要にある組織であり、常任幹部会のもとに一元化された組織であるから、たとえば常任幹部会のだれかが丸山批判を口にし、それが常任幹部会の方針として採用されると、その方針はただちに実践化されていく。ここには、フランス共産党の民主集中制が問題になった七〇年代の議論にあったように、たとえば党員哲学者のアルチュセールが、「中央委員会は立法機関であるよりは執行機関であるにすぎず、すべての決定権は書記局と政治局の一部と中央委員会直属の『専門家』の掌中にある」と批判したと同じ構造の問題がある。ここでいう書記局と政治局は、日本の党でいうと常任幹部会と書記局にあたる。そこで決定されたことは、思想と認識の深浅を問わず、つまり一旦決定された事柄はたとえば愚行に類するようなことであれ、いかなる理屈でも可能にするような理論的な粉飾が施され、実行されることになる。中央委員会はこうした決定については審議に参加したり追認したりはするが、決定権そのものについては実質無力である。共産党の場合、「常任幹部会政治」というべきものが権力の根源にあり、真理の判定はすべてその規定された権力に一元化されているからである。
こうした党の一元性こそがコミンテルン型政治を化石化したスターリン主義の名残であって、ソ連の場合にはこうしたシステムだからこそ、スターリン機関による何十万、何百万という人命殺傷の粛清すらも可能になったのである。その恐るべき殺人粛清がほとんど何の障害もなく行われたのは、民主集中制によってきわめて容易に意志決定ができたからである。スターリンの例をみても判るように、この組織原則のなかではトップの方針を覆すことはほとんど不可能である。そこにアルチュセールのいうように、「権力の連帯性によってつなぎとめられた集団指導体制」があって、民主主義的な決定機関であるような擬制が取られているときにはなおさらである。それはつまりその体制から脱落する覚悟なくしてそれに反対できないシステムだからである。その反対は党内での政治生命の終わりを意味する。スターリソ時代なら人命そのものの終わりも意味した。日本の場合には、おそらく幹部であるとか国会議員であるとかという政治的な権限の終わりを意味することになるだろう。
そしてその実態は、最高機関の決定に反対する幹部がいるどころか、その決定に意欲を燃やして応えるというのが民主集中制のなかでの機関党員たちの精神的傾向である。その結果、受験生なみの頑張りで、丸山眞男批判論文を書くということになる。一時、「赤旗評論特集版」などに溢れた丸山批判論文はその類のものである。この意味では、さきにあげた加藤周一がその小論で、「興味深いのは、『左』からの批判が『右』からの批判に移った」と丸山にかかわる日本政治の右傾化を指摘しているのは必ずしも正しくない。もっとも、日本共産党がすでに『右』に移ってしまっているというのならまた別であるが。いずれにしろ、日本の知識人たちが日本共産党に残存するこうしたスターリン主義的対応を無視するのは、日本の民主主義にとって正当なことではない。丸山は日本共産党がほとんど国会などに議席を持たない時代にも、日本の民主主義のために共産党に対しても正しく眼を向けていたのである。
日本共産党の民主集中制によって象徴される政治は、丸山の言葉でいえば「である政治観」の典型的なものであり、「政治と文化とをいわば空間的=領域的に区別する論理」(『日本の思想』)に発するものである。また、丸山の安保闘争時期の言葉でいえば「院内主義」の政治ともいえる。この「院内主義」という言葉は、国民の「声なき声」といわれた草の根の声を抑圧して安保条約批准を強行した自民党の密室政治に対する丸山の命名であったが,外側とのチャンネルを閉ざしてしまうという点では、この「党内政治」もまた「院内主義」と本質を同じくしているといえる。いわば、共産党の「院内主義」としての「常任幹部会主義」である。
民主集中制のもとでの「常任幹部会主義」の政治では、それに反する政治は抑圧の対象になり、排除される。反対の意志があっても、そうした排除を回避するためには沈黙するか面従腹背の態度を取るしかない。共産党はこれについて常に反対の自由があると弁明するが、それは文字通り党内の閉ざされたなかでの自由であり、多数への訴えができないということでは政治的に敗れるしかない自由であって、ブルジョア民主主義以下である。なぜなら、表現方法をあらかじめ奪われたところでは自由に思想を表現できないからである。ここでは近代の原理としての言論の自由等が党理論として貫徹されていない。したがって、この制約のなかに生み出されるのは批判へのタブーであって、政治の「非政治化」というべき現象である。内部的な活性化は著しく阻害されざるをえない。いわば民主集中制という政治的な結集の論理が、政治的な「非政治化」を生むという逆説がなりたつのである。しかもこの「常任幹部会主義」のなかでは、個人責任と集団責任の関係があいまいであり、とくに個人責任は集団のなかに埋没して事実上あらわれない仕組みになっている。この丸山批判についても、だれの責任で提起されたのかは不明確であり、そうした不明確さが無責任な論を加速させる役割をはたしている。この無人格ゆえの無責任という問題は政党にとって大きな矛盾である。
丸山はその種の「非政治化」の問題を天皇制国家の政治として分析し、「国家という一つの権力体系を、家族という私的な結合の延長として考えることによって天皇制の非政治化というものが、ますます促進される」(「思想と政治」)として、その政治的権力の「無責任体制」を抉りだしたが、「常任幹部会主義」というべきものによって共産党のなかに生まれる「非政治化」は、家族ならぬその少数幹部への権力の露骨な集中によって、つまりその極端な政治化によって、下部の非政治化が促進されるという、いわば逆転した「無責任体制」の現出を意味した。共産党はそれを思想的な団結の強固さの現われとしてきたのである。大会などに見られる全員一致の光景はその典型である。しかしこれらの全員一致の賛成者たちは、かつてのスターリン提案に賛成した代議員たちがそのスターリン政治に何の責任もとらなかったと同じように、この丸山批判の将来にも何らの責任も取らないことは明白である。そうした「無責任体制」が丸山批判に関する綱領改正を決定したわけである。共産党の二十回大会に現われたこうした丸山批判にたいする「無責任体制」こそ、共産党的な政治の「非政治化」とその思想の閉鎖性を現わす具体的な指標となったといえる。
七〇年代の終わりに、日本でも「民主集中制」をめぐって論争(田口富久治・不破哲三論争)が行われたとき、不破は「単一の中央指導機関のもとにおける全党の統一が共産党の主要な組織原理とされている」のは、党が「階級闘争のさなかにおける戦闘的意志の統一性が要求される『労働者階級の前衛部隊』」だからだと胸を張った。そして、「私は田口氏の主張に対して、少数意見、反対意見の問題は、わが党の現行の民主集中制のもとで、その尊重と解決の具体的形態が明確にされており、そこに特別の党改革を必要とするような不明確な問題はないことを、わが党の規約と党運営に照らして、明らかにした」(『現代前衛党論』)としたのだったが、その後の党的な展開はこれがいかに暢気な一人よがりな議論だったかをそれこそ「明らかにした」といえる。その後に発生した原水爆禁止運動や文学運動、あるいは「スパイ査問事件」などをめぐって党内に意見の違いが生じ、その少数意見の排除(除名ないし除籍)が行われたのは記憶に新しいことだからである。
共産主義運動の歴史はその「戦闘的意志の統一」のなかにも、矛盾と対立が起こることを教えており、それゆえに「党内矛盾」の問題や「批判と自己批判」の問題がマルクスやレーニン以来、革命運動のなかでの最重要課題として認識されてきたのである。そのマルクスやレーニンの時代からみたら、共産党をとりまくイデオロギー状況が一変し、共産党というイデオロギー装置自体の革新が要求されているときに、「改革を必要とするような不明確な問題はない」などとして澄ましているのは、あまりにも現実からかけ離れた認識態度といえる。この不破的な論法から出てくるのは、ただ「自己意識のあり方や形成」と「党綱領・規約」とが矛盾するような党員は真の党員ではないということだけである。「党綱領・規約」が過去の意識の産物になりうるというようなこと、進んだ意識にとっては新しい「綱領・規約」がありうるというようなことはどうでもよいことなのである。
共産党は少数意見者が党規約に違反したことをもって、それらの排除を正当化するが、その規約そのものが党内民主主義を十分に保証していないことには眼を向けない。彼らは少数者のイデオロギー機能を制限することが多数者原理の党内民主主義にかなうとしているが、それは民主集中制という党システムのなかで、その多数・少数を争う原理としての自由がもともと制限されている以上(たとえば党内でも横断的な意見の公表はできないし、まして党外への公表もできないから、少数意見者はその意見を物質化〔多数化〕できない仕組みになっている)、その民主主義は半ば死滅したものでしかない。イデオロギーはそもそも個人的な主体から構成されて機能するものであり、この構成原理たる主体に制限を加えてしまうことはイデオロギー機能にとって文字通り自殺行為である。彼らはこの主体的なイデオロギー機能に制限を加え、党内論争や討論を回避することが党的闘争に有利だと判断しているが、そうした批判や否定の契機を封殺する非弁証法的な思考に陥っているのはレーニン的な階級闘争の原理(前衛原理)から一歩も出ようとしないからである。
レーニン的な前衛党論は、大衆的な武装革命を前提とし、そのプロレタリアートの国家権力の樹立のためには前衛党の指導が不可欠であるということを基本にしている。しかし現在、そうした武力革命やプロレタリアートの独裁が否定されたなかにあって、ひとり共産党だけが前衛を名乗ってその指導の根拠とするのはまったくおかしなことである。マルクスも労働者の支配をうちたてるためには、「一時的に強力にうったえるほかない」としながらも、その「目的に到達するための手段はどこでも同一だと主張したことはない」とし、「労働者が平和な手段によってその目標に到達できる国があることを、われわれは否定しない」(「ハーグ大会についての演説」)と述べた。つまり、このマルクスの論理は、革命の方式の違いとその政治プロセスにおける党のあり方や役割の違いの可能性を百年以上もまえに予告していたことを意味し、レーニン的な党組織が唯一正統なものだというような議論をすでに乗り越えていたのである。このマルクスの言葉でいえば、「平和な手段によってその目標に到達できる国」に、当然のことながら現在の日本も入るであろう。
さらに、グラムシが早くも一九三〇年代に論じたように、階級闘争の主戦場がプロレタリアートから、そのプロレタリアートを包摂した「市民社会」へ移行したことを考えると、そしてその条件がますます成熟しつつある現代日本において考えると、そうした社会的条件のなかでの共産党のあり方が革新されることは当然であって、それを否定することの方が異常なことであろう。まして、自らは選挙闘争(国会および地方議会)と「赤旗」拡大という文字通りの「市民社会」的な活動に終始し、「前衛党」指導のプロレタリアート的「前衛闘争」などほとんど皆無な状況を考えるとなおさらである。こうした現実にありながら、第一次世界大戦前後の特殊な歴史的条件のなかで形成されたレーニン的党原則に安住していること自体、非歴史的であり非科学的なことである。彼らが「科学的社会主義」を語りながら、そうした旧来のイデオロギー装置たる党に安住していられるのは、理論的にも実践的にも主体不在の科学的論述に終始していられるからである。
日本共産党の戦争責任論にも、そうした主体不在の論理態度が著しい。この丸山批判の根底にあるのも、同じものである。共産党はかつての戦争について国民総被害者論の立場をとり、その侵略戦争についての加害と被害にかかわる戦争責任を明確にすることができなかったため、当時の国家指導者たちが仕掛けた「一億総懺悔」論と有効にたたかうことができず、天皇の戦争責任についても、また戦争指導者たちの追放とその後の解除についても主導的な取組みができなかった。戦争犯罪については、結局のところ、戦勝者たちが自己の指名によって戦争犯罪者を裁き、天皇の責任を免罪した「東京裁判」に主要な舞台を譲ってしまったことで、国民的な自己責任において戦争犯罪と責任を追求する思想的、政治的なエネルギーを形成することはできないでしまった。このことはその後、侵略戦争に関する日本人としての国民的責任についてアジア諸国に大きな不信を抱かせる原因になった。歴代の大臣たちがアジア諸国への侵略を認めず、むしろその合理化を計る発言を繰り返して不信を招いた根底にはこうした国民的な戦争責任についての意識状況があったことは言うまでもない。
共産党は天皇の戦争責任を追及し、その天皇制の打倒を訴えはしたが、また戦争犯罪者追放大会などを開いて糾弾することはできたが、そうした民主主義の課題を民衆的な広がりのなかで政治化し、民衆の持続的で批判的な意識形成を促進することはできなかった。むしろ、支配者の側の方がいち速く天皇の「人間宣言」を出し、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族」としたことを「架空ナル観念」として否定した。こうした天皇が「象徴天皇」として憲法に位置をしめると、すでに勝負はついた感じで、天皇の戦争犯罪と戦争責任問題は決着したかの状況になり、戦争犯罪者を首相にまで復活させる道が築かれていった。こうした過程において丸山が発した天皇と共産党に対する戦争責任論には、当時のそぅした状況を打破するために、民主主義陣営の新たな政治的結集への可能性を探る意図がこめられていたとみることができるのである。
もちろん戦争責任の問題はひとり共産党だけのものではないが、戦争に最も手を汚していなかった党としての主導性を十分に発揮できなかったことについては、単に党問題にとどまらず戦後の民主主義の新たな発展のために解明が必要であった。国民に政治的主権がなかったというような意味で政治体制の違いがあったにしろ、侵略戦争大国日本の戦争責任の追及では同盟国ドイツと比較してもその落差があまりにも大きかったことについて、真理の旗を掲げる政党としては厳しい反省が必要であったはずだからである。こうした点があいまいにされてきたところに、共産党の戦後的な民主主義の理論と実践について極めて深刻な認識の不徹底があったといえる。
現在でも大きな政治問題になっている「従軍慰安婦」問題や強制連行外国人の戦後補償の問題等々について、共産党が政治的なイニシャティブを取れなかったのも故なしとしないのである。ここに、丸山眞男が自分が戦争に十分に抵抗できなかったリベラルの立場を反省して「悔悟共同体の一員」としたことにさえもはるかに及ばないような党的認識の事態(共産党にはかつての陸軍や海軍の将校や幹部侯補出の幹部党員がいて、国会議員にもなった彼らの戦争責任については公には何らの弁明もされていないといった事態)が介在していなければ幸いである。この意味では、今回の共産党の丸山批判は、逆に共産党の側に戦争責任という範疇での政治責任について長い思想的な停滞と空白があったことを改めて立証することにもなり、それが現在の党の思想と実践的活動にも深く関係していることも明らかにしたということでは、四十年前の丸山の指摘は文字通り共産党の盲点をついていたことを告知したともいえるのである。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
宮本顕治 『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクスとのはざまで
H・田中 『市民のための丸山眞男ホームページ』
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