共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備

 

謎とき・大須事件と裁判の表裏 第1部2・資料編

 

(宮地作成)

 

 〔目次〕

   1、事件・裁判において解明すべき特殊性と謎 (表1) (別ファイル)

   2、被告・弁護団側と検察側による大須事件の概要

   3、被告150人の分類と検事調書データ (表2、3、4)

   4、火炎ビン武装デモの計画と準備 (表5、6、7)

   5、私(宮地)の名古屋市民青専従・共産党専従15年間による検証

 

   6、〔資料1〕『大須事件第一審判決』「被告人の計画、準備」全文と(宮地コメント)

   7、〔資料2〕被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』計画と準備

   8、〔資料3〕被告・弁護団『第一審判決の誤りと不正』計画と準備の事実誤認

   9、〔資料4〕元被告山田順造『大須事件までの十日間の記録』計画と準備

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 6、〔資料1〕『大須事件第一審判決』「被告人の計画、準備」全文

 

 〔小目次〕

   (宮地コメント)

   「第2款、被告人等の計画、準備。第1〜第8」の判決文

 

 (宮地コメント)

 

 これは、『大須騒擾等被告事件第一審判決』「被告人の計画、準備」全文(P.84〜110)である。名古屋地方裁判所は、「宣告」を、1969年11月11日、永田末男外115人に行なった。分離公判を合わせた「宣告」の4回合計は、137人だった。それは、起訴150人から、(1)死亡による公訴棄却7人、()行方不明、その他による公訴棄却4人、(3)無罪判決2人という計13人を除いた被告人にたいする宣告である。第1章「第1節、騒擾発生までの経緯」の「第2款、被告人等の計画、準備。第1〜第8」の判決文をそのまま全文転載する。その理由は、名古屋地裁の事実認定記述形式は、『検察研究特別資料』と異なっているからである。

 

 『検察資料』は、共産党と朝鮮人団体の計画・準備を組織系統別に分類した。それにたいして、『第一審判決』は、1952年6月28日から7月7日集会直前までの10日間を、共産党と朝鮮人団体の計画・準備に関して、日付順で時系列的に認定している。別ファイル『検察資料』の検討において、「他〇〇人」と省略した被告人名も、この『第一審判決』転載では、省略しないで載せる。被告・弁護団のパンフ、公判文書、著書『被告』は、〔資料2〕に載せるが、この計画、準備について、ほとんど触れないか、意図的に黙殺している。

 

 ただ、朝鮮人団体といっても、それは、日本共産党との別組織として並列的な位置づけにあるのではない。事件当時において、それらの組織は、独自性を持ちつつも、火炎ビン武装デモの計画と準備においては、日本共産党名古屋ビューロー()の下部組織機構だった。それらは、(1)日本人の共産党地域ブロック・細胞、民青団と並んで、(2)日本共産党員である在日朝鮮人を指導部とした民戦、祖国防衛委員会、祖防隊、民愛青として位置づけられ、活動していた。

 

 日本共産党党籍の在日朝鮮人が日本共産党を離党し、朝鮮労働党員になったのは、1955年民戦が朝鮮総連に変わったのに伴う前衛党組織の国際的分離方針によるものだった。国際的分離方針とは、中国共産党が、ソ中両党への全面隷属状態にあった1955年7月六全協当時の日本共産党にたいして、在日朝鮮人の前衛党員党籍を朝鮮労働党員党籍にして、分離せよと命令したことによる。それ以後、現在にいたるまで、日本においては、日本人の日本共産党員と在日朝鮮人の朝鮮労働党員という2国の前衛党員と前衛党組織が併存してきた。その前後経過は、別ファイルで書いた。

 

    『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と在日朝鮮人、日本共産党

    『「武装闘争責任論」の盲点』ソ中両党命令による朝鮮戦争参戦の統一回復日本共産党

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』ソ中両党命令の実態

 

 火炎ビン武装デモの計画・準備状況について、(1)名古屋地検、(2)名古屋地裁、(3)被告・弁護団=実態としての共産党という3者の異なる分析形式と対応を、比較検討することは、大須事件の真相を立体的に把握する上で必要だと考える。しかも、(4)〔資料4〕は、元被告・日本共産党名電報細胞軍事担当(Y)山田順造『大須事件までの十日間の記録』(1980年)であるが、その内容は、『第一審判決』の「計画と準備」全文を、ひらがな個所や他一部を若干カットしただけで載せている。彼は、共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備における軍事委員たちの中心党員の一人だった。彼の意図は、その記録公表によって、第一審判決が認定した内容を真実であると証言しようとしたと思われる。

 

 なお、文中の各色太字は私(宮地)の判断で付けた。『第一審判決』は、計画・準備の10日間を、8日の時系列で事実認定をした(P.84〜110)。そして、その事実認定をした証拠として、「第二章、証拠の標目」の「第2款、被告人等の計画、準備の証拠。第1〜第8」を別記した(P.207〜224)。この証拠記述は長いので、それに関しては、被告人名前だけのごく一部抜粋のみとし、〔小目次〕第一から第八の各項目末尾に添付する。また、被告人の検事調書だけでなく、文書・指令メモ・火焔瓶製造材料などの物的証拠も記載しているが、それも省略する。被告・弁護団は、〔資料3〕において、自白調書の任意性だけを問題にしているが、警察・検察は、検事調書内容を裏付ける物的証拠も多数押収した。『第一審判決』の事実認定は、その物的証拠も多数挙げている。

 

 「第2款、被告人等の計画、準備。第1〜第8」の判決文

 

 〔小目次〕

   第一 六月二十八日

   第二 六月二十九日

   第三 七月二日

   第四 七月三日

   第五 七月四日

   第六 七月五日

   第七 七月六日

   第八 七月七日

 

 第一 六月二十八日

 

 日本共産党名古屋市ビューロー(以下市Xと略称)は、名古屋市における日本共産党の非合法活動を行なう組織で、市X軍事委員は同党の軍事方針に従い、同市における軍事組織を作り、指導し、軍事行動を準備し、実行するものであったが、市X軍事委員キヤップ被告人芝野一三、同委員被告人渡辺鉱二、同清水清、同金泰杏は、県ビューロー軍事委員福田譲二と共に、昭和二十七年六月二十八日、昭和区塩付通り六丁目十九番地早川潔方名大生中村其の居室で、定例軍事委員会義を開き協議の上、

 

 (1)、七月七日頃、大須球場で、帆足、宮腰両氏の帰国講演会が行なわれるので、その機会を利用してデモ行進をし、軍事行動を行なう、

 (2)、その準備のため、七月二日頃、再び同所で軍事委員が会合して更に打合わせの上、市Xに属する各細胞ブロックの軍事担当者を招集して会議を開き、軍事行動を行なうための決定を打出してゆく、等を決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人清水清の検事調書3通、被告人岩田弘の検事調書1通など4人・6証拠。

 

 

 第二 六月二十九日

 

 市X政治オルグ被告人岩間良雄、千早細胞キャップ小林勝、大橋こと朴秉稷及び名古屋電報局(以下名電報と略称)細胞員被告人石川忠夫外二、三名が、六月二十九日午後七時頃から、中区養老町一丁目一番地三浦義治方で、Bブロック定例細胞代表者会議を開き、被告人岩間良雄が、六月二十五日の広小路通りのいわゆるP・]事件により名古屋における革命は始った、大衆はデモに声援を送るだけでなくそれに参加し、そして武器の足りないことを知った、この活動を労働者の中へ取り入れなければならない、七・七歓迎大会について、共産党は民族解放、経済危機突破、反戦、平和、反ファッショのアジア太平洋大会参加、吉田内閣打倒、日本共産党を守れ等を基本スローガンとして大会後にデモを計画しているから、できる限り労働者を参加させよ、電報労働者はR(軍事部担当者)の指導を受けデモ隊の一つの中核となれ、と説明指示した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩間良雄の検事調書2通、被告人石川忠夫の検事調書3通、被告人山田順造の検事調書1通、被告人片山博の検事調書1通など5人・6証拠。

 

 

 第三 七月二日

 

 一、被告人芝野一三、同渡辺鉱二・同清水清、同金泰杏、前記福田譲二及び高木某は、前記六月二十八日の決定に基づき、七月二日前記早川潔方名大生中村其の居室に集まり、被告人芝野一三が議長となって、先ず中日貿易を実現する方法如何、中日貿易を阻害するものは誰か、大衆は武装を要求しているか等に関し討論した上、

 

 (1)、中日貿易を阻害しているものは吉田政府とその官憲、直接には警察である、中日貿易を実現するためには大衆を動員してデモの形式で警察に抗議しなければならぬ、

 (2)、中警察署(以下中署と略称)に抗議を行なうが、警察の抵抗が予想されるので、これを打破るため手榴弾、火焔瓶を使用する、

 ()手榴弾、火焔瓶は各細胞等に製造させるが、その材料は軍事委員が支給する、等を協議決定した上、軍事委員がそれぞれ下部組織に連絡指令することになり、被告人清水清は市X指導下のA、B、C三地区の内Bブロックへの連絡担当者に決まつた。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人清水清の検事調書3通、被告人岩間良雄の検事調書3通など4人・8証拠

 

 

 二、市X・S部(総務)被告人加藤和夫は、七月二日頃の午後中区東田町前衛書房で、市V・S部員水谷謙治に対し、

 (1)、七・七歓迎大会後に一大デモ行進を行なう予定で、当日は名古屋市内だけでなく、岐阜、尾西・東三河、西三河からも大衆が参加し・朝鮮人も参加するはずである、

 (2)、デモ行進をすれば警察の弾圧が予想され、警察と戦うことになるから、当日までにピケ組織を作って、大須球場を中心に中署・アメリカ村附近の警察の警備状況等を調査して報告せよ、

 (3)、当日のピケ活動のため大須附近に家を借りて拠点とせよ、

 (4)、名古屋市内の各警察署にピケを配置して情勢を報告させるから、被告人水谷謙治が取り纏めて報告せよ、等を指令したので、被告人水谷謙治は明和高校細胞を中心として、日本民主青年団(以下民青団と略称)明和高校班を動員しピケ組織を編成した上、情報の収集に当ることを決意した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人水谷謙治の検事調書2通(加藤和夫確認)、被告人岩原靖幸の検事調書1通など3人・4証拠。

 

 

 三、被告人渡辺鉱二は、七月二日午後三時頃、瑞穂区所在、在日本民主愛国青年同盟(以下民愛育と略称)瑞穂支部附近の三山某方で金億洙に対し、七・七歓迎大会当夜使用する手榴弾二百個分の製造材料として、直径四・五センチ、長さ六センチ位の鉄製パイプ、竹管、ゴムサック各二百個、硝石十キロ、硫黄二キロを用意するよう指示し、更に同月四日氏名不詳者及び同人を介して金億洙に対し手榴弾の製造を命じ、右両名は被告人安旭鏑、同趙大権、同李炳元及び金鶴圭等と共に、同日から同月六日夜までの間、中川区尾頭橋徳利軒外二個所において、鉄パイプ、硝子管、硝石、硫黄、木炭を使用して手榴弾の製造に着手したが、火薬の性能等が悪いためその製造を中止した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人金億洙の公判調書1通・検事調書1通、被告人李炳元の検事調書1通、被告人趙大権の検事調書1通など4人・5証拠。

 

 

 四、被告人石川忠夫は、前示第二記載の定例細胞代表者会議で被告人岩間良雄から受けた指示の内容を、名電報細胞キャップ被告人片山博に報告し、同被告人はこれをレポに記載して、七月二日被告人多田重則外七名の細胞員に配布通達した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人石川忠夫の検事調書1通、被告人片山博の検事調書1通、被告人山田順造の検事調書1通、押収のビラ1通など3人・4証拠。

 

 (宮地・注)

 7枚のレポ中1枚を、警察が、7月6日広小路デモで逮捕した名電報細胞員から見つけた。名古屋市警と名古屋地検は、瞬時に武装警官隊1000人の配備と無届デモ弾圧を決定した。1000人全員を拳銃と6尺棒で武装させた。

 

 

 第四 七月三日

 

 一、民愛育は在日朝鮮統一民主戦戦の傘下団体で、朝鮮民主主義人民共和国による朝鮮の統一と独立を目的とする在日朝鮮青年の全国的組織であったが、民愛育愛知支部は、七月三日夜昭和区天白町大字島田字池場、呉允瑞方で会合を開いて、民愛育県本部員金点竜、同愛知支部員被告人金点守、同沈宜元等十名位が出席し、金点竜が朝鮮戦争による祖国の国民生活の困窮の状態等を説明した上、七・七歓迎大会終了後デモを行なうことになっているからこれに参加すること、デモをやると警察官と衝突するかもしれないから、その時は、石を投げて人混みの中へ逃げること、警察官との衝突で怪我をするものがでるかも知れないから手拭を一本ずつ持って行くこと等を指示した後、協議の上、大会当日午後六時頃大須球場に集合することを決定した。

 

 二、在日本朝鮮人愛知県乙女会(以下乙女会と略称)は、朝鮮人女性の向上と祖国の風俗習慣を学ぶことを目的とする十六才以上の未婚女性の組織であつたが、被告人金静洙並びに李鍾順、「胎今、黄具順、朴玉蓮等十余名の同会会員外数名の婦人が参加して、七月三、四日頃の午後・守山区守山所在の朝鮮人学校で救護の講習会を開いて、医師から骨折、出血多量、拳銃で撃たれた場合等の救護処置について説明を受け、

 

 それに引続いて李鍾順が、七月七日の大会終了後デモがあって、警察との衝突が起こり、怪我人がでるから、その救護のため今日医師から話があった救急用具を各自が用意して集まることを指示した後、被告人金静洙、李鍾順、「胎今、黄具順等約十名が、右大会の夜警察官との衝突が起こることを予想して、救護班の編成について協議した結果、第一班班長を朴玉蓮、第二班班長を被告人金静洙とし、各班の班員を四名位で組織する二班を編成して、各自救急用具を携帯した上、当夜大須球場に集合することを決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 これは、被告人名前や公判調書・検事調書の区別を省略する。一は、8人・8証拠。二は、3人・3証拠

 

 第五 七月四日

 

 一、民青団は反戦反ファシズムと民族解放人民民主主義革命のための労働者階級の指導に基づく労働青年を中心とする青年大衆組織であつたが、民青団愛知県指導部キャップ吉田昭雄と同団明和高校班員被告人安藤宏、同岩原靖幸、同水野雅夫外四名が、午後三時頃から中区裏門前町一丁目岩田信市方で班会議を開き、吉田昭雄が右班員に対し、

 (1)、七日夜はデモをやって警察に押しかけるが、民青団明和班もこれに参加する、

 (2)、デモにはプラカード、武器を用意せねばならないが詳細は追って通知する、等を指示した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人安藤宏の検事調書1通、被告人岩原靖幸の検事調書1通など2人・2証拠。

 

 

 二、被告人岩間良雄に対し、

 (1)、市Xは、七・七歓迎大会に関してBブロック細胞代表者会議を開くことを、

 (2)、同軍事委員は、当日火焔瓶、手拭、包帯を準備することを、各指示したので、被告人岩間良雄は、七月四日午後七時から東区筒井市場附近の穀物屋の二階でBブロック緊急細胞代表者会議を開くことを決め、Bブロック細胞代表者に出席するよう通知した。

 

 被告人岩間良雄、同清水清、同石川忠夫、千種南細胞員朝鮮人林某、名電報細胞軍事担当者被告人山田順造、東邦保育園細胞キャップ同佐藤操、権竜河、小林勝外三名が、同日午後七時頃から前記穀物屋の二階でBブロック緊急細胞代表者会議を開き、林某が議長となって会議を進め、先ず、被告人岩間良雄が市Xの指令に基づき、中日貿易に関する北京協定を実現するには民族解放を成し遂げなければならないが、そのためには中日貿易を阻害している米日反動分子を排除すること、直接には国会解散、吉田政府打倒を目標とすべきであり、そのため七・七歓迎大会後にこれを要求する政治行動を組織することが共産党の任務である、と説明した上、

 

 (1)、大会後デモを行なうが、細胞員は各自中心となり、大衆を両脇にしてスクラムを組みガッチリした隊列を作ること、

 (2)、武器として火焔瓶を使用すること、

 (3)、大会会場内の集合位置は、演壇に向って左側をAとして学生、朝鮮人、中央をBとして経営細胞、右側をCとして居住細胞等未組織労働者とすること、等を指示し、

 

 次いで被告人清水清が、

 (1)、デモには細胞員全員武装して参加すること、

 (2)、武器として火焔瓶、小石、プラカードを使用すること、

 (3)、火焔瓶は各細胞において製造すること、

 (4)、救急用具として手拭、包帯、三角巾、オキシフル等を用意すること、等を指示した外、大衆動員のためポスター、ビラ等数千枚を作り各細胞が分担して配布すること、翌五日午後六時から東区白壁町七番地野村俊造方で、火焔瓶製法講習会を開くことを協議決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩間良雄の検事調書2通、被告人清水清の検事調書1通、被告人山田順造の検事調書2通、被告人石川忠夫の検事調書2通(清水清の確認)など4人・5証拠。

 

 

 三、被告人石川忠夫、同山田順造は、前記第五の二のBブロック緊急細胞代表者会議で被告人岩間良雄、同清水清からなされた各指令の内容を二通のレポに記載して、七月五日に一通を、名古屋中央電報局で被告人片山博に渡して、同局内の細胞員に回覧通知し、他の一通は、名古屋東電報局で被告人百々大吉に渡して伝達した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人石川忠夫の検事調書2通、被告人片山博の検事調書1通、被告人百々大吉の検事調書1通、押収の指令通信文など3人・4証拠。

 

 

 四、被告人渡辺鉱二は、同月四日午前十一時頃、瑞穂区川澄町三丁目十二番地岩田太助方、被告人山田順造の居室で同人に対し、七月七日の行動に関して、

 (1)、中日貿易は労働者が中心となって吸い取らなければならないが、それも共産党でなければ駄目だ、いかなる闘争も武器なくしては発展しない、

 (2)、名電報細胞員は自分以外に少なくとも一人を参加させよ、

 ()、この集会には火焔瓶二千個が持ち込まれる、名電報からの参加者は各人火焔瓶一個を持って参加せよ、瓶とガソリンは各自準備せよ、薬品は市X軍事部が支給し、製法も教える、

 (4)、中核自衛隊には火焔瓶よりもつと高度の武器を持たせる、等を指令して、これを名電報細胞員に伝達することを命じた。

 よって、被告人山田順造はこの指令を七通の紙片に記載し、被告人多田重則に名古屋中央電報局で、被告人杉浦正康、同石川忠夫、同岩月清、同片山博、同百々大吉、玉置鎰夫に配布させた。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人片山博の検事調書2通、被告人山田順造の検事調書3通、被告人多田重則の検事調書2通、被告人杉浦正康の検事調書2通、被告人石川忠夫の検事調書1通など6人・7証拠。

 

 (宮地・注)

 火焔瓶よりもつと高度の武器とは、手榴弾のことだが、この製造は失敗した。指令を七通の紙片に記載し、玉置鎰夫に配布したメモは、前日7月6日広小路デモで逮捕された12人中、警察が玉置鎰夫から押収した。これは、計画・準備の文書上の決定的証拠物件となった。名電報細胞軍事担当()山田順造は、〔資料3〕公表によって、これが真実だと認めた。

 

 

 五、被告人清水清は、前記第五の二のBブロック緊急細胞代表者会議の席上、被告人岩間良雄に火焔瓶製造原料の分配に関するレポを渡し、同被告人はこれを後記第六の四の火焔瓶製法講習会の際三浦義治に交付して、火焔瓶製造原料の受領方を指示し、被告人芝野一三は七月五日の隊長会議の際、民青団代表被告人山田泰吉に右同様火焔瓶製造原料受領のレポを渡して、その受領方を指示し、さらに同被告人は同日中村区泥江町二丁目七番地泥江会館で、小山栄三にその旨指示し、右各指示に基づき、翌六日午前九時頃から、かねて火焔瓶の製造原料である濃硫酸及び塩素酸カリウムを搬入してその分配場所に指定されていた熱田区六番町六丁目百三十二番地被告人丸山真兵方で、三浦義治、権竜河、小山栄三等がそれぞれこれを受取った。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩間良雄の検事調書1通、被告人丸山真兵の検事調書2通、被告人山田泰吉の検事調書3通、三浦義治の検事調書2通など4人・5証拠。

 

 

 六、祖国防衛全国委員会は、朝鮮民主主義人民共和国の防衛を目的とし、日本共産党軍事委員と密接な連携を保って行動する在日朝鮮人の非合法組織の統一指導機関で、祖国防衛愛知県委員会(以下県祖防委と略称)、同名古屋市委員会(以下市祖防委と略称)はいずれもその下部組織であったったが、県祖防委キャップ被告人閔南採は、

 (1)、七月初頃、東三地区祖防委キャップ被告人南相万に対し、同地区の青年を動員して、同月七日正午までに祖防委本部に来ることを指令し、

 (2)、七月四、五日頃、民愛青岡崎支部事務所で、県祖防委部員柳政一を介して西三地区祖防委キャップ被告人姜泰俊に対し、七月七日大須球場で開催される大会に、岡崎の青年三十名を動員し、一人に一個ずつの火焔瓶を持たせて午後四時までに民愛青名中支部へ集合することを指令したので、

 

 被告人姜泰俊は右指令に基づき、宮沢政雄と共に同月六日夜民愛青岡崎支部事務所で、被告人田玉鎮外八名位の同支部員等に対し、七日に大須球場で行なわれる帆足、宮腰両氏の中日貿易に関する演説会に民愛青は皆行ってくれと指示した。又被告人姜泰俊、同河泰文、同宮脇寛は、宮沢政雄、丸根こと李_錫等と共に、翌七日同事務所で、濃硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを使用し、空瓶を利用して火焔瓶二十個を製造した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 これは、17人・18証拠と多いので省略する。黒太字の被告人は、被告人閔南採を除いて、全員の検事調書が証拠となっている。

 

 

 第六 七月五日

 

 一、被告人芝野一三、同渡辺鉱二、同金泰杏、岡清水清、名電報細胞軍事担当者同山田順造、名古屋大学(以下名大と略称)細胞代表同岩田弘・民青団代表同山田泰吉及び福田譲二外一名が、前記第三の一の七月二日の軍事委員の会合の際の決定に基づき、七月五日午後一時頃から六時頃までの間、昭和区塩付通り六丁目十九番地早川潔方名大生中村其の居室に集まって会合を開き(以下隊長会議と略称)、被告人芝野一三が議長となって議事を進め、協議した結果、

 

 (1)、中日貿易の獲得のためには、労働者階級が中心となって主導権を握ることが必要である、この機会に名古屋の労働者階級の力を示すため軍事行動をとる、

 (2)、中日貿易を阻害するものは、アメリカと日本政府及びその手先である警察等の権力機関であるから、七月七日のデモは球場に近い中署及びアメリカ村を攻撃する、

 (3)、デモ隊の編成は学生、朝鮮人、自由労務者、一般の順序とし、学生が先頭で隊列を誘導し、会場内を渦を巻きながら行進して出来るだけ多くの一般聴衆をデモ隊列に参加させることとし、右隊列を組む便宜のため球場内を演壇に向って左からA、B、Cに区分して、それぞれの団体の集合場所を指定する、

 

 (4)、デモは球場より岩井通りに出て東進し、同通りと門前町通りとの交叉点(以下大須交叉点と略称)から左折北上し、本隊は中郵便局の丁字路で右折して中署を攻撃するが、朝鮮人部隊はそのまま北上してアメリカ村を攻撃し、攻撃後は隊列を崩さず後退して大須繁華街で人ごみにまぎれて解散する、

 ()武器は火焔瓶、手榴弾、プラカード、竹槍とし、包帯代用として手拭を携行する、

 

 ()、七・七当日は会場三塁側スタンド上に朝鮮民主主義人民共和国国旗を立て、そこに軍事部(Y部)を置き、連絡の中心とする、

 (7)、警察の警備力を分散させるため、朝鮮人が別動隊を編成して、市内の巡査派出所を攻撃する、

 (8)、警察の動きを探るため、学生の見張りを立てて中署及び球場附近に配置し、負傷者対策として朝鮮人側で救護班を編成する、等を決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩田弘の検事調書4通、被告人清水清の検事調書3通、被告人山田順造の検事調書6通、被告人山田泰吉の検事調書6通など4人・4証拠。

 

 

 二、被告人山田泰吉、同杉浦正康、同杉浦登志彦、吉田昭雄、小山栄三等は同日夜中村区泥江町三丁目七番地泥江会館内の清風寮に集って、民青団の会議を開き、民青団代表として隊長会議に参加してきた被告人山田泰吉が、隊長会議の結果を詳しく報告した上、民青団としての七日夜の武装行動の具体的実行方法を協議し、

 

 (1)、民青団員は会場で青年共産同盟の旗のもとに集合する、

 (2)、デモの際の民青団の総指揮は吉田昭雄がとり、被告人山田泰吉は現場指揮者となる、

 (3)、民青団は火焔瓶を使用するので、小山栄三に火焔瓶約三十個を製造させる、

 (4)、各自手拭を持参する、等を決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人山田泰吉の検事調書4通、被告人杉浦正康の検事調書1通、被告人杉浦登志彦の検事調書1通など4人・4証拠。

 

 

 三、被告人水谷謙治同安藤宏、同竹川登介、同岩原靖幸、同水野雅夫外二名は同日午後二時頃から五時頃までの間、東区神楽町被告人水野雅夫方に集まり、被告人安藤宏が議長となって明和細胞会議を開き、被告人水谷謙治が、国民大衆は現在革命化の気運にあるので、共産党としては七・七歓迎大会後に、革命化の昂揚を図るため無届のデモ行進を行ない、火焔瓶で中署、アメリカ村を襲撃することを計画しているが、犠牲者がでるのを防ぎデモを成功させるためには、球場、中署、アメリカ村を中心とした警察の動きを調査して上級機関に報告する必要があるから、この任務を明和細胞で引受けてもらいたい、と説明指示した上協議の結果、

 (1)、ピケの組織は責任者を被告人安藤宏とし、民青団明和班員の高木庸吉外七名で構成する、

 (2)、ピケ要員は拠点を作り、球場、中署、アメリカ村を中心とした附近一帯における警察の動きを調査して被告人安藤宏に報告する、等を決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人水谷謙治の検事調書2通、被告人安藤宏の検事調書4通、被告人岩原靖幸の検事調書2通、被告人竹川登介の検事調書3通など4人・4証拠。

 

 

 四、被告人岩間良雄、同山田順造同加藤和夫、三浦義治、小林勝、権竜河の外、途中から被告人岩原靖幸も加わって、同日午後六時頃から前示野村俊造方二階で、火焔瓶製法講習会を開き、先ず被告人岩間良堆が、Bブロックは火焔瓶を五十個位製造し、細胞員が各自一個を持って参加して貰いたい、と述べ、次いで権竜河が講師となって、薬瓶にガソリンを一、濃硫酸を三乃至四の割合で入れ、パラフィンで密封した上外側に塩素酸カリウムを付着させた紙片を巻きつけて糊付けする方法を説明して、火焔瓶二個を製造した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩間良雄の検事調書2通、被告人山田順造の検事調書4通、被告人岩原靖幸の検事調書3通など6人・6証拠。

 

 

 五、被告人閔南採、県祖防委員同崔乗作、同李寛承、市祖防委キャップ同金泰杏、柳政一、民愛青県本部委員長李正泰、同委員金在根、同金永哲等が、同日午後七時頃から千種区吹上本町所在の民愛青名中支部事務所に集まり、前記隊長会議に出席して協議に参加した被告人金泰杏が、

 (1)、七日の大会開催場所は大須球場に決定した、

 (2)、球場内での各団体の配置場所について、

 (3)、デモ隊列の要所要所に中核自衛隊を入れる、

 

 (4)、戦略目標は第一に中署、第二にアメリカ村とし、中署には名大生と自由労務者が行き、これを完全に包囲して占領し、アメリカ村には全朝鮮人が行って、ガソリンタンクと駐車場の自動車を攻撃する、等右会議の結果を報告し、同人等はこれを諒承して、市X軍事委員等と共に七・七歓迎大会終了後、中署、アメリカ村を攻撃することを決定し、犠牲者を出さないようにするため、攻撃班はアメリカ村を攻撃した後、隊列に戻って中署とアメリカ村との分岐点まで引返して退避することを協議した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人金永哲の検事調書2通、被告人金億洙の検事調書1通など2人・2証拠。

 

 

 第七 七月六日

 

 一、被告人石川忠夫、同多田重則、同片山博、同山田順造、同百々大吉は、同日午前十時頃から千種区千種通り四丁目十三番地坂野仁一方被告人石川忠夫の居室で、被告人岩間良雄指導の下に名電報細胞指導部会議を開き、労働者階級が主導権を握って現在の政府を打倒しなければ中日貿易への道は開かれないとの結論に達した後、前記七・七歓迎大会終了後の名電報細胞員等の行動について、

 

 (1)、当日の集合場所は球場バックネット前とする、

 (2)、火焔瓶は各自一個ずつ携帯してデモに参加し、被告人片山博の指示に従って投擲する、

 (3)、火焔瓶五十個を被告人石川忠夫方で製造し、当日同被告人と被告人多田重則の両名が球場へ持込む、

 (4)、プラカード二本、包帯、手拭、オキシフル、小石を携行する、等を協議決定し、被告人岩間良雄はデモ隊の攻撃目標が中署、アメリカ村の予定であることを明らかにした。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩間良雄の検事調書3通、被告人片山博の検事調書3通、被告人山田順造の検事調書2通、被告人多田重則の検事調書4通、被告人石川忠夫の検事調書3通、被告人百々大吉の検事調書3通など7人・7証拠。

 

 

 二、(1)、七月六日午後帆足、宮腰両氏を名古屋駅に迎えて広小路通りをデモ行進した後、前記清風寮で被告人山田泰吉被告人杉浦正康に対し、七・七歓迎大会後デモ隊を中署に誘導して攻撃し、火焔瓶や手榴弾を投げる、火焔瓶は各自が持つが、その外に、民青団から手榴弾班六名を出すことになっているので、その班長をやって貰いたいと指示した上、右被告人両名協議の結果、手榴弾班員として被告人池田嘉輝、同水野雅夫、同林学、仲野悟、小島耕之助を選び、別室において被告人池田嘉輝、小島耕之助、仲野悟に手榴弾班員となることを承諾させて、七日は午後四時四十五分までに大須電停東行電車乗場附近に集合するよう指示し、被告人杉浦正康は被告人山田泰吉の指示により、同夜七時頃から瑞穂区名大桜鳴寮で行なわれた名大細胞会議に出席した。

 

 (2)、同日午後八時頃から、更に前記清風寮で、被告人山田泰吉同杉浦登志彦同張哲洙が集まって民青団指導部会議を開き、被告人山田泰吉が中心となって隊長会議の結果を説明した上、右被告人両名に対し、

 ()、七.七歓迎大会後のデモの民青団の総指揮は、同日広小路デモで逮捕された吉田昭雄に代り被告人山田泰吉がとり、デモ隊の現場指揮者は被告人張哲洙とし、同杉浦正康はその補佐となる、

 ()朝鮮人部隊はアメリカ村を攻撃する、

 ()民青団は火焔瓶で中署を攻撃し、手榴弾も使用する、

 ()、火焔瓶は小山栄三が準備するから、被告人張哲洙が水主町でこれを受取り大須球場内に持込む、等を指示した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人山田泰吉の検事調書5通、被告人杉浦正康の検事調書1通、被告人池田嘉輝の検事調書2通、被告人杉浦登志彦の検事調書2通、被告人張哲洙の検事調書4通など6人・7証拠。

 

 

 三、被告人渡辺鉱二、同杉浦正康、渡辺修外二、三名、及び名大細胞統一指導部島崎某から、デモの際の学生の指導者となるよう指示を受けていた被告人岩田弘が、同日午後八時頃から前記桜鳴寮の被告人渡辺鉱二の居室に会合して、先ず被告人渡辺鉱二が、

 ()、七・七歓迎大会後のデモの目的は、七月六日の広小路デモ弾圧に対する中署への抗議デモである、

 ()このデモの軍事的意義は、大衆に自分達の要求を実現するためには警察官を排除しなければならず、それには武器を持たねばならないということを理解させる点にある、

 ()、警察官の棍棒に対してはプラカードで戦い、不利になれば火焔瓶を投げ、警察官がピストルを発射すれば手榴弾数個を投げる、と指示した上、協議に入り、

 

 ()大会後デモを行なうため、被告人岩田弘と渡辺修が聴衆に対してアジ演説を行なう。

 ()、アジ演説をきっかけとして、各中核隊がオタマジャクシ形にスクラムを組んでこれに大衆を結集し、場内を二、三回廻り、隊列を結束してから場外へ出る、

 ()、中署玄関で代表が抗議し、そこで戦闘が行なわれるだろうが、結局は中署到達前に警察官と対峙することになるだろうから、その時は被告人渡辺鉱二の指示した前記方法により戦う、

 ()、各指揮者は手榴弾の投擲を合図にデモ隊の解散を命じ、大須繁華街の群衆の中に入る、等を決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人岩田弘の検事調書4通、被告人山田泰吉の検事調書2通、被告人杉浦正康の検事調書2通など3人・3証拠。

 

 

 四、被告人加藤和夫は、七月六日午後二時頃前記前衛書房で、被告人水谷謙治から、明和細胞を中心とする民青団明和班が大須球場、中署、アメリカ村周辺の情報を収集することになった旨の報告を受けた後、同日午後五時頃レポーターを介して同被告人に対し、中区裏門前町二丁目十六番地伊藤明人方でピケからの情報を収集して、これを後記平松達典方の中間機関に報告すること、中間機関は更にこれを加藤陽之助方の指導部(後に後記千田病院内に変更された)に報告する旨を指令した。一方民青団明和班は同日被告人安藤宏をキャップとするピケ班を編成し、七日のピケの拠点を昼間は中区矢場町河合俊祐方、夜間は同区末広町谷沢光治方と決定した。被告人水谷謙治は翌七日同岩原靖幸を介して同安藤宏に対し、正午からは一時間毎に伊藤明人方に情報を報告するよう指示した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人安藤宏の検事調書3通、被告人水谷謙治の検事調書2通、被告人岩原靖幸の検事調書2通など4人・4証拠。

 

 

 五、被告人永田末男、同加藤和夫、三輪秀清等は、七・七歓迎大会当夜の群衆を煽動して中署、アメリカ村を攻撃させる目的をもって、七月六日夜熱田区中央市場前電停西方の味噌屋で、()、「会場の同志諸君」と題し、「中日貿易をやらせないのはアメ公と吉田だ、敵は警察の暴力だ、中署え行け! 敵の正体はアメ公だ、アメリカ村え行け、武器は石ころだ! 憎しみをこめて敵に力一ぱい投げつけよ、投げたら商店街え散れ」との文言のあるもの、()、「会場の労働者諸君」と題し、赤松勇、寺門博を誹謗した文言のあるもの、()、右両者を表と真に印刷したもの等、アジビラ数千枚を伊藤育夫等に印刷させた。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人水谷謙治の検事調書2通、被告人岩原靖幸の検事調書3通など4人・5証拠。

 

 

 六、被告人金泰杏の指令により、()、民愛青名中支部員青年行動隊長の金鶴圭被告人趙顕好、同金英吾、同崔永権、金茂一は七月六日夜、()、金鶴圭、被告人金英吾同安日秀同趙大権は翌七日午前中、いずれも七・七歓迎大会後のデモ行進の際に使用する目的で、中区千早町愛知陸運株式会社附近の硝子工場において、濃硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを使用し、薬瓶等を利用して、それぞれ火焔瓶約二十個宛を製造して同所附近の崔南雪方に預けた。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人趙顕好の検事調書1通、被告人趙大権の検事調書1通、被告人金英吾の検事調書5通、被告人崔永権の検事調書2通、被告人安日秀の検事調書3通など5人・5証拠。

 

 

 七、同日被告人石川忠夫の居室で行なわれた名電報細胞指導部会会議に引続き、午後二時頃から午後十一時三十分頃までの間、同所において、被告人山田順造、同石川忠夫が中心となって、被告人片山博、同岩月清、同伊藤弘訓、同吉田三治等が順次手伝い、濃硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを使用し、ポケット用ウイスキー、ペニシリン、一合入り清酒等の空瓶を利用して、合計約三十五個の火焔瓶を製造した上、

 

 翌七日夕刻被告人多田重則及び同吉田三治の両名が、内約二十五個を先ず球場近くの中区裏門前町三丁目八番地飲食店都築その方まで運び、更に同所から右両名に被告人岩月清、同中本章を加えた四名が、球場内バックネット附近まで持込み、被告人石川忠夫火焔瓶約十個を前記自宅より直接右バックネット附近まで持込んだ。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人片山博の検事調書3通、被告人山田順造の検事調書5通、被告人石川忠夫の検事調書3通、被告人伊藤弘訓の検事調書2通、被告人吉田三治の検事調書3通、被告人岩月清の検事調書2通、被告人多田重則の検事調書4通、被告人中本章の検事調書2通など14人・16証拠。

 

 

 八、三浦義治及び権竜河は、七月六日午前十一時過ぎ頃から、中区東陽町一丁目四番地三浦すみ子方で、濃硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを使用し、薬瓶、アルコール瓶等を利用して、三浦義治は十一個、権竜河は二十五個乃至三十個位の火焔瓶を製造し、三浦義治は翌七日夕刻、内五、六個を大須球場へ持込んだ。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人中本章の検事調書1通、被告人山田順造の検事調書2通、被告人丸山真兵の検事調書1通など4人・5証拠。

 

 

 第八 七月七日

 

 一、同日午前中、被告人山田泰吉は清見寮で、被告人杉浦正康から前記第七の三の名大桜鳴寮の会合の結果の報告を受け、同人と協議して民青団での手榴弾携行者を北島万次と決定した上、被告人杉浦正康に対して、火焔瓶は球場内で被告人張哲洙と協議して分配することを命じた。次いで小山栄三から火焔瓶二十数個を製造した旨の報告を受けたので、同人に対し、火焔瓶は水主町から手提鞄に入れ女子学生に携行させて場内に持込むことを指示した。被告人張哲洙、同朴昌吉、同呂徳鉉は小山栄三及び仲野悟と共に、小山栄三、仲野悟等が製造して持参した火焔瓶二十数個を、同日午後五時頃中区岩井通り一丁目岩井橋から球場内に持込んだ。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人山田泰吉の検事調書4通、被告人杉浦正康の検事調書1通、被告人張哲洙の検事調書3通、被告人呂徳鉉の検事調書1通、被告人朴昌吉の検事調書1通など6人・6証拠。

 

 

 二、被告人金泰杏は前記隊長会議の協議決定に基づき、七月七日夜の警察警備力の分散を図るため、鶴舞公園内駐留軍駐車場の自動車及び東税務署又は民団事務所を攻撃することを企図し、同日午前名中支部事務所で前記金鶴圭に対し、名中支部員は別動隊にまわって右公園内駐留軍自動車を火焔瓶で攻撃することを指示し、又同日午後一時頃同事務所で民愛青瑞穂支部員被告人金柄根に対し、火焔瓶四個を渡した上、名東支部の被告人安俊鎬に、大須のデモを容易にするため、今夜九時頃民団事務所か東税務署かに火焔瓶を投入れて騒ぎを起こし、大須にいる警官隊を引きつけて警備力を麻痺させるように伝えて、右火焔瓶四個を渡すことを命じた。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人金柄根の検事調書1通、被告人安俊鎬の検事調書1通など4人・4証拠。

 

 

 三、被告人閔南採、同崔秉祚・同李寛承、岡金泰杏、同南相万、同姜泰俊、同崔且甲、同梁一錫・金億洙等県、市祖防委員と各地区祖防委キャップ等が、同日午後三時頃中村区国鉄名古屋駅西辛島パチンコ店二階に集合し、被告人金泰杏が同夜の行動について、

 ()、講演会終了後デモを行ない、中署、アメリカ村を攻撃する、

 ()、デモは学生、朝鮮人、一般労働者の順で行なう、

 ()学生は中署を包囲して火焔瓶を投げつけ、朝鮮人はアメリカ村へ行ってガソリンスタンドに火焔瓶を投げつけて繁華街へ散る、

 

 ()、球場内三塁側スタンド中央の朝鮮民主主義人民共和国国旗の下を連絡場所とし、被告人金泰杏がここに位置する、

 ()、各人は手拭を一本ずつ準備して軽傷は自分で手当し、重傷は医療班の手当てを受ける、

 ()被告人金泰杏は朝鮮人デモ隊全部の指揮をとる、等を説明して全員これを承認した上、さらに被告人金泰杏は、前夜被告人閔南採から指示されたところに基づき、朝鮮人デモ隊の指揮者は第一隊が被告人姜泰俊、第二隊が金億洙、第四隊が被告人崔且甲とし、(第三隊は不明)、被告人南相万は第二隊の副隊長とすることを提案し、集まっていた前記被告人等は討論の結果その通り決定した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人金泰杏の検事調書1通、被告人南相万の検事調書3通、被告人姜泰俊の検事調書3通、被告人梁一錫の検事調書2通、被告人金億洙の検事調書3通など5人・5証拠。

 

 

 四、()被告人閔南採は七月七日午後一、二時頃前記泥江会館で、東三地区から来た被告人南相万、同梁一錫、同林元圭、同朴孝栄、同李永守、同朴正熙等に対し、今夜の講演会終了後、昨日の帆足、宮腰両氏歓迎デモで逮捕された者を救出するためデモを行ない、一隊は中署へ、他の一隊はアメリカ村へ行くが、警官が弾圧するだろうから、こちらは火焔瓶を投げつける、と指示した。

 

 被告人南相万、同梁一錫の両名は前記三の辛島方で行なわれた祖防委員等との会合から泥江会館に帰って、午後四時三十分頃東三地区から来た被告人林元圭、同朴孝栄、同李永守、同朴正熙に対し、今夜の大会終了後のデモに火焔瓶を持って参加し、アメリカ村へ火焔瓶を投げつけること等、辛島方における協議の結果を伝え、右被告人等は同所でいずれも火焔瓶二個を受取って大須球場へ赴いた。

 

 ()被告人姜泰俊及び金億洙は、前記辛島方で行なわれた祖防委員等との会合に出席した後の午後五時頃、名中支部事務所で、

 ()、被告人姜泰俊は西三地区から来た被告人田玉鎮・同河奉文・同朴寧勲、同全炳煥、同金寿顕、同朴文圭、同方甲生、同李圭元・朴魯勲、全甲徳に金億洙を紹介して、今夜は同人の指揮に従って行動することを指示し、

 ()、金億洙は右被告人等に対し、今夜の演説会終了後デモをやる、攻撃目標は中署、アメリカ村で、朝鮮人はアメリカ村へ火焔瓶を投げつけた後繁華街へ逃げよ、と指示を与え、同被告人等は被告人姜泰俊及び金億洙から一個又は二個の火焔瓶を受取って大須球場へ赴いた。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人南相万の検事調書2通、被告人梁一錫の検事調書2通、被告人林元圭の検事調書1通、被告人朴孝栄の検事調書1通、被告人朴正熙の検事調書2通、被告人李永守の検事調書1通など19人・19証拠。

 

 

 五、被告人安藤宏は、七月七日午前十時頃から午後九時三十分頃までの間、中区矢場町河合俊祐方及び同区末広町谷沢光治方を拠点とし、高木庸吉等八名を使って、大須球場、中署、アメリカ村附近一帯の警察官の警備状況を調査し、

 ()、中署前に自動車七、八台あり、同署屋上及び三階に警察官が一杯待機している、

 ()、アメリカ村附近では鉄帽に警棒の二人一組の武装警官がパトロールしていて、その数は十五名位

 ()、大須派出所には警官が三階まで百名位おり、大宝劇場南の小公園に警官が百名位おる、

 ()、上前津の春日神社に二百五十名位の警官がいて、その西側道路に自動車が三台ある、

 ()、伏見通りに沢山の警官がいる、

 ()、午後九時三十分頃東別院、松原小学校、大須小学校、アメリカ村、若宮八幡宮、上前津、前津中学方面には警官はいない

等を探知して、自ら又は高木庸吉に命じて、これを前記伊藤明人方で被告人水谷謙治及び同加藤和夫(但し被告人加藤和夫に対しては() () ()を除く)に報告した。

 

 被告人水谷謙治は、被告人安藤宏から右報告を受けた外、被告人吉田公幸等から北、東各警察署等の状況の報告を受け、右伊藤明人方及び平松達典方で被告人加藤和夫にこれを報告し、午後九時頃被告人吉田公幸に命じて右()()の事項を中間機関、及び地下指導部に報告させ、更に午後九時三十分過頃には右伊藤明人方で被告人安藤宏に命じて、右()の事項を大須球場内三塁側スタンド附近の現地指導部に直接報告させた。

 

 被告人加藤和夫は、平松達典方及び伊藤明人方で、被告人水谷謙治及び同安藤宏等から警察の警備状況並びにアジビラ配布の状況に関する報告を受け、自ら又は被告人岩原靖幸及び同佐藤操を介してこれを地下指導部に報告した。

 

 〔計画、準備の証拠〕

 被告人安藤宏の検事調書6通、被告人水谷謙治の検事調書8通など8人・8証拠。

 

 

 (宮地・注)

 『第一審判決』における「7日夜の指導部等の組織」「第二節、騒擾」については、『謎とき・大須事件と裁判の表裏、第3部』で転載する。

 

 

 7、〔資料2〕被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』 計画と準備事実の自認陳述

 

 〔小目次〕

   (宮地コメント)

   被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』(抜粋)

 

 (宮地コメント)

 

 被告人永田末男は、公然組織の日本共産党名古屋市委員長であり、かつ、非公然組織の名古屋市ビューロー・キャップという共産党機関の表裏任務を兼ね、大須事件における共産党最高指導者だった。彼は、大須事件検挙者400人中、最後に逮捕された。『第一審判決』主文は、「(73)被告人永田末男を懲役三年に処する。未決勾留日数・百日を右本刑に算入する」である。懲役3年・実刑は、実刑5人中の最長である。他の実刑は、懲役2年6カ月3人、1年11カ月1人だった。

 

 大須騒擾事件第一審公判は、1952年9月16日から始まった。裁判闘争過程において、永田末男と共産党愛日地区委員長酒井博ら2人の被告人は、さまざまな問題で、共産党中央委員会、とくに宮本・野坂らの言動、宮本指令に忠実な共産党愛知県常任委員会の路線・方針に批判を抱くようになり、意見が対立した。それに伴って、中心の全員が共産党員である大須事件弁護団が、宮本指令通りの誤った裁判方針を採ることとも見解を異にした。

 

 それらの内容と経過は、別ファイルで詳しく分析したが、そのテーマを再確認する。それは、彼がなぜ、『最終意見陳述八・九』において、火炎ビン武装デモの計画と準備事実を自認する陳述をしたのかが理解されないからである。さらなる詳細分析は、『第4、5、6部』においても行う。

 

 ()1955年7月六全協は、武装闘争路線に関して、「極左冒険主義」とする抽象的なイデオロギー的誤りのみを認めた。しかし、ソ中両党による「武装闘争の具体的総括禁止、公表禁止」命令に服従し、大須事件を含め、具体的な武装闘争事件についてはなんの総括も、公表もしなかった。それどころか、ソ中両党が完全隷属状態にある日本共産党に出した人事指名によって、指導部に復帰できたばかりの宮本顕治は、党中央軍事委員長志田重男の逃亡・除名直後1956年9月から、犯罪的な言動を始めた。邪魔者の軍事委員長が「料亭お竹さん遊興問題」の内部告発によって、逃亡してくれたので、彼は喜んだ。そこで、頭のいい宮本顕治は、「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と真っ赤なウソの発言を大々的に繰り返した。その言動は、火炎ビン武装デモ実行者を「党再建上の邪魔者」とみなし、騒乱罪でっち上げの国家権力犯罪とたたかっている最中の被告人たち多数を見殺しにする敵前逃亡犯罪だった。

 

 それは、また、ソ中両党指名のお陰で、新指導部トップに成り上がった宮本顕治の自己保身作戦でもあった。都合が悪い過去の党史を切り捨て、歪曲・隠蔽することこそが、かつ、それにたいして異論・批判を吐き続ける邪魔者を党内外排除しつくすことこそが、新指導部トップとしての党内権力を占有することができる。永田・酒井被告人らが、被告・弁護団内で、彼の大ウソと犯罪に怒りの声を挙げたのは当然であった。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

 

 (2)、1964年11月21日、愛知県国民救援会にたいして、共産党中央委員会と愛知県常任委員会、国民救援会本部は、分裂工作を仕掛けた。愛知県の会長真下真一名古屋大学名誉教授、藤本事務局長、永田事務局次長、酒井事務局員を含む国民救援会3役は、その策謀が共産党と国民救援会本部による重大な誤りだとし、それにたいして全面的にたたかった。

 

 (3)、1965年6月8日、共産党は、永田・酒井2人を除名した。それは、別ファイルに書いたように、表向き理由、真の理由、裏側理由という3種類の理由が複雑にからまった除名だった。その後にも、宮本顕治は、永田末男の被告団長解任、第一審最終陳述内容への干渉を指令した。

 

 永田末男は、騒乱罪でっち上げの権力犯罪とたたかい、大須事件共産党最高責任者として、騒乱罪無罪を主張した。同時に、このような宮本顕治の数々の犯罪的言動や指令ともたたかわざるをえなかった。彼は、検事調書に応じず、火炎ビン武装デモの計画と準備に関して、一言も供述していない。それは、『第一審判決』〔計画、準備の証拠〕記述において、永田末男の検事調書が一つも挙げられていないことからも証明できる。1969年3月14日、『最終意見陳述八・九』において、火炎ビン武装デモの計画と準備事実を自認する陳述をしたといっても、計画と準備の事実を抽象的に自認するのにとどめた。〔資料3〕の被告・弁護団側文書=実態としての共産党作成文書は、どれも永田末男の自認事実を認めず、意図的に黙殺している。

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』全文

 

 被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』(抜粋)

 

 八、やったことといえば、事実が示すとおり、せいぜい抗議のデモ行進を行い、予想される官憲の弾圧には、貧弱な火炎ビンをもって身を守るという程度のことにすぎなかった。まことにささやかな抵抗行動であった。「騒擾」と呼ばれるのも気恥しいような小規模な行動であった。これが当時、とてつもない大事件のごとき印象を世間に与えたとすれば、それは主としてマスコミの誇大な宣伝と大量検挙による何とはなしの薄気味悪さ、および予想外の「火炎ビン」の出現によるといっても過言ではない。当時「火炎ビン事件」として世間に知られたのも故なきことではない。大須事件から火炎ビンを除いたならば、一体何が残るであろうか。

 

 九、ただし、かく主張する私自身についていえば、下級幹部なりとはいえ、当時の日共の一機関の指導責任者として、前章で責任を追及さるべきものとした政治的指導者の末席を汚した、被告人中唯一人の人間であり、私もその政治的責任を当然もっている。従がって、万が一、当裁判所が弁護人及び被告たちの主張にもかかわらず、どうしても、われわれを有罪にしなければならないという執念を捨てることができないというのなら、その場合には私、即ち被告人永田末男に、その全責任を負わせられんことを要請し、ゆめゆめ他の責任なき被告諸君を有罪にするような、学説、判例に反する誤りを犯さざらんことを、心から切望するものである。

 

 

 8、〔資料3〕被告・弁護団『第一審判決の誤りと不正』

             計画と準備の事実誤認主張

 

 〔小目次〕

   (宮地コメント、その1)

   『大須事件てびき』(大須事件被告団、1972年7月、控訴審中の出版)

   『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(被告・弁護団、1980年7月)

   (宮地コメント、その2)

 

 (宮地コメント、その1)

 

 大須事件被告・弁護団は、()多数のパンフ、()『大須事件てびき』(1972年7月、控訴審中、大須事件被告団)()大須事件被告団・全国守る会・関根庄一編著『被告』(労働旬報社、1978年6月)()『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(1980年7月7日)()『語りつがれる大須事件、50周年記念文集』(2002年7月)を出版し、警察・検察の騒乱罪でっち上げ謀略とのたたかいに取り組んだ。

 

 公判資料は膨大にある。検事論告、被告・弁護団側文書、検事調書、公判調書、『第一審判決』・『第二審判決』・『最高裁決定』などである。私(宮地)は、被告・弁護団側公判文書の資料収集に努めているが、手元にはそのごく一部しか収集できていない。とくに、被告・弁護団が公判において、「共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備」に関して、どのような弁論をしているのかという正式文書が入手できていない。よって、この〔資料2〕は、上記(1)から(5)の記述の引用・転載にとどまる。

 

 5種類の出版物において、「共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備」に関する記述があるかどうかを、検討する。私(宮地)の立場は、別ファイルで書いたように、『検察研究特別資料』と『第一審判決』における「共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備」は、基本的に真実だったとする見解である。一方、それが事実だったとしても、大須・岩井通りの状況は、騒乱罪状況ではなく、仮にその状況が、一定道路250m上・20分前後あったとしても、その原因は武装警官隊1000人による違法な先制攻撃によるものであり、よって騒乱罪は無罪であるという判断である。大須事件裁判において、そのような裁判闘争方針を採るべきだったという意見を持つ。

 

 (1)多数のパンフ 「計画・準備」の記述を完璧なまでにカットし、一言も触れずに黙殺している。それは、警察・検察、『検察研究特別資料』や裁判所『第一審判決』認定の「計画・準備」事実などまったく存在しなかったとする主張と言える。現在、収集したパンフ4種類とも同じ論調である。被告団パンフ『新版・大須事件−つくられた騒乱罪』1967年9月1日、『大須事件・第8集−無罪以外にありえない』1974年10月31日、『学習テキスト−つくられた騒乱罪』1977年、『つくられた騒乱罪−動かせぬ新証拠の取調請求』1977年9月26日は、「計画・準備」の記述を何一つしていない。

 

 (2)『大須事件てびき』(1972年7月、控訴審中) これだけが、下記のように、7行のみの否認をしている。

 

 (3)『被告』(労働旬報社、1978年6月) これも、「計画・準備」実態、その有無について、一言も触れずに黙殺している。検察主張・裁判所『第一審判決』認定の「計画・準備」がでっち上げで、事実無根という主張もしていない。もっぱら、警察・検察の騒乱罪でっち上げ謀略を暴露し、証明することのみに関する記述をしている。

 

 (4)『大須事件の真実』(1980年7月7日) ここでは、「火炎ビン20発位をほおりなげて逃げた」(P.20)(P.29)と、2個所にだけ記述した。それ以外には、他と同じく、検察主張・裁判所認定の「計画・準備」がでっち上げで、事実無根という主張もしていない。

 

 (5)『文集』(2002年7月) ()()と同じで、「計画・準備」実態、その有無について、一言も触れずに黙殺している。

 

 よって、()()の関連個所と該当個所を転載する。

 

 (2)『大須事件てびき(大須事件被告団、1972年7月、控訴審中の出版)

 

 〔小目次〕

   第一部 一審判決の誤りと不正 はじめに (全文)

   第二点 訴訟手続の法令違反 (全文)

   第五点 事実誤認 (計画・準備個所のみ抜粋)

 

 第一部 一審判決の誤りと不正 はじめに (P.1)

 

 名古屋地方裁判所刑事第一部(井上正弘裁判長)が、昭和四四年一月二日くだした、いわゆる「大須騒擾事件」第一審判決は、事実をねじまげ、道理をねじまげ、憲法や刑法の解釈をねじまげてつくりあげられたもので、高等裁判所での控訴審で新しい証拠調をしなくとも、当然うちやぶられなければならないものです。

 

 弁護団が提出した総論だけで五〇五頁におよぶ控訴趣意書は、これを次の五つの論点にまとめて整理しています。

 第一点 理由不備または理由のくいちがい

 第二点 訴訟手続の法令違反

 第三点 審判の請求を受けない事件について判決をした誤り

 第四点 法令適用の誤り

 第五点 事実誤認

 被告団、弁護団の控訴審での闘いの基本ともいうべきこの控訴趣意書の各論点について、簡単に説明してみたいと思います。

 

 第二点 訴訟手続の法令違反 (全文) (P.6〜9)

 

 第一証拠能力について

 一、自白の証拠能力

 

 判決の事実認定の主要な部分は、すべて三百通余の・被告人の検察官にたいする自白調書を証拠として組みたてられています。

 憲法第三八条二項、刑訴法第三一九条一項は、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない」ときめています。

 

 要するに、任意にされたものでないという疑いかあるだけでも、その被告人の自白は証拠としてはならないことになっているのです。それならば、一審裁判所が採用して証拠として取調べた三百余通の被告人調書は、強制も、拷問も、脅迫もいっさいないものだったのでしようか? 不当に長く抑留又は拘禁された後のものはなかったのでしようか? それらはみな、「任意にされたものでない疑い」さえなかったのでしようか?

 

 二、一審裁判所の態度

 

 一番の井上正弘裁判長は、三百余通の被告人の自白調書を採用した理由について、昭和四一年三月三日の公判で次のようにいいました。「被告人たちがいろいろと任意性がないということの主張をしておりますけれども、これらの証拠によっては、そういう主張事実は一切認められない。また、証人の証言が偽証であるということも認める証拠もない。ですから、結局、任意性のないという主張事実が認められない供述調書は、全部証拠能力があるという結論になるわけです。」

 

 これでは話しが逆です。憲法や刑訴法は、「任意にされたものでない疑い」があるだけで、自白を証拠とすることを禁示しているのです。被告人の方で任意性がないことを証明する必要はなく、その自白を証拠として調べることを請求する検察官の方が、「任意にされたものでない疑い」をはらさなければ、証拠として採用することは許されないのです。これは、従来の判例でも、学説でも、広く承認されているところです。判決は、これをひっくり返してしまったのです。

 

 この井上裁判長の説明のなかには、いまひとつ見逃すことのできない問題がふくまれています。というのは、井上裁判長けのことばは、いい直せば、被告人はいろいろ拷問や脅迫かあったといっているが、それを裏付ける証拠はない。一方取調が任意にされたという警察官や検察官の証言が偽証だという証拠もないということです。被告人のいうことは、他にこれを裏付ける証拠がなければ信用できない、警察官や検察官のいうことは、偽証だと証明されないかぎり信用するんだといっているのです。被告人はウソつきだ、警察官や検察官は正直者だと、はじめからきめてかかっているのです。これは、とても憲法第三七条一項で保障されている刑事被告人の、公平な裁判所の裁判を受ける権利どころではありません。

 

 三、血をはく被告の叫び

 

 被告人たちは、一審の公判廷で、自分たちが、どのような状態で取調べを受けたかについて、かわるがわる血をはくような訴えを、裁判所に投げつけました。とても全部をあげきれませんので、四つだけ例を取ってみます。

 A被告(朝鮮人、一審で無罪)

 取調警察官から、強制送還する、朝鮮へつれて行って、落下傘で落して下から機関銃でうち殺してしまう、いうことを聞かなければ死刑にする。絶対に出してやらんなどと脅迫をされた。正座をさせて机の上を竹刀でたたいたり、髪の毛をひっぱったり、両手錠のヒモをひっぱるなどの暴行をされた。

 

 I被告(日本人)

 六法全書を見せられ、爆発物取締罰則違反で死刑にすると脅迫された。黙否していると、「黙っていると肩がこるだろう」といって、肩をたたき、「早くはけはけ」と自白を強要された。四、五人の警官がとりかこんで、被告がツバをのみこむときノドぼとけが動くのを見ると、みんなでノドをのぞきこみ、「のむな、のむな、ノドまで出ているのだから、思い切ってはいちゃえよ」とののしった。

 

 Y被告人 (日本人)

 一人の警官が後から肩をおさえ、他の警官が前にすわって、被告の手が出ている机の上や横を警棒でたたきながら、「もう夜もふけてねむいところを辛抱してやってるんだ。お前のいうことはまだウソがあるから本当のことをいえ。なぐるつもりはなくても、人間のことだから手元が狂うこともある。」とおどされた。

 

 H被告 (日本人)

 二人の警官が両横からだきかかえて被告のマブタを開かせておいて、前にすわった巡査部長が、「お前は精神鑑定の必要がある」といって、懐中電燈を服に近づけ五分くらいの間、つけたり消したりした。H被告は、保釈で釈放された後、拘禁性そううつ症で精神病院に入院しなければならなくなった。

 

 取調のときには、取調官と被疑者しかいません。第三者が同席していることはありえません。取調の状況についての証拠は、取調官と被疑者の述べること(からだにキズがついているとか、被疑者の悲鳴を聞いたものがあるなどというのは、全くの例外で、警察も、戦後は、めったに後に証拠を残すようなへマをやりません)以外にありません。それを、被告のいうことは、他に裏付証拠がなければ信用しない、取調官のいうことは、偽証だと証明されないかぎり信用するというのでは、被告人の立つ瀬がないではありませんか。

 

 四、権力犯罪の産物−自白調書

 

 一審裁判所は、この他にも、長期拘禁後の自白調書、起訴後の自白調書、違法な逮捕、別件逮捕によりえられた自白調書など、刑訴法によって証拠としてはならないとされているものを、おかまいなしに採用しています。事実をねじまげ、道理をねじまげ、みずから認めざるをえなかった「日中貿易の妨害および警察の処置にたいする抗議」を目的としたデモ隊を、「暴徒に仕立てあげるために、一審裁判所は、刑訴法のきめている手続きをことごとく無視してはばからないのです。一審裁判の最終意見の公判において、加藤和夫被告団事務局長が、自分たちは、無罪になることを確信している、しかし被告の血と涙と屈辱の産物、警察、検察の権力犯罪の産物である自白調書が、この裁判から排除されないかぎり、我慢できないと訴えたのも、もっともといわねばなりません。

 

 第五点 事実誤認 (P.12〜13)

 

 第一、デモ隊の目的と性格

 一、いわゆる計画・準備とデモ隊の関係

 判決は、「以上に認定したとおり、本件は、日本共産党名古屋市ビューロー、同軍事委員が中心となり、祖国防衛愛知県委員会、同名古屋市委員会が参画して計画準備したものである。」といっています。しかし判決が認定している計画・準備なるものは、「中署・アメリカ村を攻撃する」という内容でした。しかし、デモ隊が、中署・アメリカ村の方へ足を向けさえしなかったことは、前に述べたとおりです。警察放送車に火焔瓶を投げるなどという内容は、判決の認定している計画・準備のなかには全くありません。それなのに、どうして、本件が、日本共産党名古屋市ビューローなどが計画準備したものだなどといえるのでしようか?

 

 

 ()『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(被告・弁護団、1980年7月7日)

 

 「デモ隊が、こつぜんと姿を消したのは何故か。いうまでもなく警官隊の拳銃発射によって命からがら逃げたからだ。

 デモは瞬時に崩かいした。最初の拳銃は、清水栄警視が発射した。場所は現場写真(19)の放送車の背後の地点からである。春日神社を出発した山口中隊も、これを合図に裏門前町交叉点あたりからデモの先頭へ攻撃をかけ、そのまま拳銃を乱射して突進した。

 デモ隊の中で火炎ビンをもつていた一部の者は銃弾のかすめる中を逃走し、火炎ビン二〇発位をほおりなげて逃げた。」(P.26)

 

 「デモ隊は命からがら逃げた。一部の人が約20個の火炎ビンを路上にほうり投げて逃げた。」(P.29)

 

 

 (宮地コメント、その2)

 

 被告・弁護団が、「デモ隊の一部の人」によるにしても「約20個の火炎ビンを路上にほうり投げて逃げた」事実を認めたことは、多数の出版物と比べても、1980年7月7日の『写真集』が初めてである。それなら、その火炎ビン約20個を、誰かが、なんらかの組織が、具体的な計画と準備で製造したという事実が存在する。『第一審判決』の計画・準備認定内容と〔計画、準備の証拠〕」事実認定内容にたいして、上記〔資料3〕レベルの反論は、説得力を持つのか。そのレベルの反論は、公判内だけでなく、一般国民にたいしても、説得力を持つと言えるのか。

 

 「火炎ビン武装デモの計画・準備」に関する被告・弁護団の主張に問題がないのかを、3つの問題点として検討する。

 第一の問題点

 『第一審判決』の「計画、準備」事実認定内容にたいして、上記出版物は、具体的な反論をしていない、また、それらが事実無根のでっち上げという主張もしていない。なぜそれをしないのか。1969年3月14日、永田末男は、『第一審最終意見陳述八、九』において、「予想される官憲の弾圧には、貧弱な火炎ビンをもって身を守るという程度のことにすぎなかった」と抽象的だが、火炎ビン武装デモの計画と準備を自認した。それにたいしても、被告・弁護団文書=実態としての共産党作成文書は、恣意的に黙殺している。1965年6月8日に除名ずみの反党分子の陳述内容は、大須事件の共産党最高責任者だったにせよ、かつ、1966年4月10日まで、大須事件被告団長だったにせよ、その陳述の真否を検討するに値しないと排斥・全面隠蔽するのか。

 

 第二の問題点

 自白の任意性と、自白内容の信憑性・真実性とを意図的に区別せず、かつ、火炎ビン武装デモの計画・準備の物的証拠を提示している『第一審判決』の証拠個所を黙殺している。警察・検察の脅迫・拷問による検事調書だからとし、よって、その検事調書内容の信憑性・真実性への反論・検討を意図的に無視して、公判闘争をするという裁判方針を採っている。

 

 たしかに、上記4人にたいして行なわれたような脅迫・拷問が、ほとんどの被告人にたいしてあったことは事実である。彼らは、最初、黙秘していたが、他被告人の警察調書・検事調書を目の前にちらつかされて、供述を始めた。警察・検察の騒乱罪でっち上げ謀略による長期の独房勾留自体が、精神的な脅迫・拷問であった。よって、検事調書内容に任意性があったとは言えない。被告・弁護団の任意性否定の主張は正しい。

 

 一方、それだからといって、「火炎ビン武装デモの計画・準備」に関する被告人の検事調書内容が、まるで信憑性・真実性を持たないと断定することはできない。その供述内容が、計画・準備の真実をのべているのかどうかは、別問題として区別する必要がある。「一部の人が約20個の火炎ビンを路上にほうり投げて逃げた」という事実を認めたのにもかかわらず、その前提となる火炎ビン武装デモ指令メモや火炎ビン製造材料という物的証拠の存在も全面否認するのは正しいのかという問題もある。

 

 計画・準備に関係したと『第一審判決』が事実認定した被告人たちは、「まったくありもしない『ウソの自白』をした」のだろうか。話がとぶが、松川事件は、100%警察・検察のでっち上げ謀略だった。そこで、宮本百合子が、『二つの教訓』談話において、「ありもしない『自白』をした」と被告人を批判した。百合子発言は、松川運動に大きな悪影響を与えた。この経過は、別ファイルが詳しく分析している。

 

    志保田行『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』宮本顕治氏の所説について

          宮本百合子と松川事件「二つの教訓」発言問題

 

 なぜ私(宮地)がこの問題点にこだわるのか。大須事件裁判と次元が異なるが、そこには「共産党による私への21日間監禁査問」体験と共通するテーマがあるからである。1967年5月、私は、大須事件第一審裁判中、共産党名古屋中北地区常任委員・ブロック責任者(現時点の地区委員長)だった。そこで、赤旗の一面的な拡大指導実態をめぐって、箕浦一三中北地区委員長・愛知県副委員長・准中央委員にたいする一カ月間におよぶ批判活動が発生し、私は批判運動の中心的常任委員の一人だった。ところが、常任委員の一人が裏切って、批判活動の裏側全貌を、箕浦が自ら組織していた最高指導者私的分派「喫茶店グループ」メンバーに密告した。

 

 批判活動は、瞬時に「宮地ら3人の地区常任委員を中心とする数十人規模の反党分派活動」へと逆転し、全員にたいする査問が始まった。箕浦は、専従7人を愛知県委員会3階会議室8畳間に監禁査問で閉じ込めた。彼は、他6人を数日間で釈放した。その後14日間、私一人だけへの監禁査問を続けた。連日の批判・罵声、自己批判書書き直し命令は、党内批判者にたいして共産党が行なった精神的拷問犯罪だった。

 

 彼と査問委員たちは、批判活動の細目自白を強要した。彼らは、警察・検察による自白強要レベルと同じ手口と脅迫をした。私の20通近くの自己批判書に、当然、任意性はない。裏切り密告者が全経過と批判活動参加者全員のリストを告白したからには、やむなく、自白をした。しかし、批判活動の事実関係については、真実以外にウソ・誇張は書かなかった。箕浦一三は、「宮地、お前が首謀者だ!」と断定して、それを自供させようとしたが、私はそれを21日間拒否し続けた。これは、私の共産党監禁査問における(1)自白の任意性有無問題と、()自白内容の信憑性・真実性とを区別する体験である。

 

    『私の21日間の“監禁”「査問」体験1967年5月、箕浦一三への批判活動問題

 

 監禁査問から2年後、私たちの箕浦准中央委員・地区委員長にたいする批判活動は正しかったとして、査問された全員が名誉回復をした。そこで判明したことは、被査問者の地区常任委員3人、地区ブロック専従4人、地区委員・細胞長約20人という地区委員会中心メンバーにおいて、批判活動の事実経過内容に関し、真実を自供したとしても、ウソや誇張の自白をした共産党幹部は一人もいなかったことである。裏切り密告をした地区常任委員も、事実無根の箕浦批判活動内容を自供していない。

 

 次元が違うにしても、大須事件の火炎ビン武装デモ計画・準備に関与したと『第一審判決』が認定した日本人被告は、ほぼ全員が日本共産党員だった。彼らは、警察・検察による長期の独房勾留の脅迫・拷問による任意性を欠く自白とはいえ、その自白内容はウソ・誇張ではなく、火炎ビン武装デモ計画・準備の真相をのべた、と私は判断する。私は、彼ら火炎ビン武装デモの計画・準備をした共産党員としての誇りと自負を信頼する。宮本顕治、および、彼の命令に服従していた被告・弁護団=共産党員たちは、計画・準備に関する被告人たちの自白内容は真実だったと認めた上で、警察・検察の騒乱罪でっち上げ謀略とたたかうべきではなかったのか。

 

 第三の問題点

 宮本顕治の誤った大須事件裁判方針の押し付けにたいする強烈な異議申立てとして、名電報細胞軍事担当者山田順造は、下記〔資料4〕のように、『第一審判決』の「火炎ビン武装デモ計画・準備」事実認定内容を、真実であるとして、1980年1月、ほとんどその原文のまま公表した。被告・弁護団の『大須事件てびき』は、1972年である。日本共産党員被告人山田順造の真意をどう汲み取るのか。

 

 

 9、〔資料4〕元被告山田順造『大須事件までの十日間の記録』計画と準備

 

 〔小目次〕

   (宮地コメント)

   長谷川浩「解説に代えて」(抜粋)

   山田順造「十日間の記録概要」(『第一審判決』との抜粋・対比3個所)

 

 (宮地コメント)

 

 これは、『労働運動研究、No.123』(労働運動研究所、1980年1月号)に掲載された。冒頭に、長谷川浩の解説がある。『記録』の内容は、『第一審判決』の「火炎ビン武装デモ計画・準備」を、ひらがな個所や他一部を省略しただけで、そのほぼ全文を載せている。その意図は何か。

 

 山田順造は、『検察研究特別資料』と『第一審判決』の火炎ビン武装デモ計画・準備データのリストに何度も出てくるように、名古屋市軍事委員ではないが、日本共産党Bブロック名電報細胞の軍事担当党員として、計画・準備における中心メンバーの一人だった。彼が、この『記録』を公表するまでの経歴を確認する。

 

 彼は、19歳で大須事件被告人となった。その裁判中、日本電信電話公社名古屋中央電報局社員を休職扱いだった。当時、名電報細胞は、名古屋市Bブロックにおける中心の労働者細胞だった。名古屋市軍事委員会は、火炎ビン武装デモ隊を組織するにあたって、(1)労働者の名電報細胞、(2)名古屋大学学生細胞、()朝鮮人祖国防衛隊を基幹部隊と設定した。その結果が、被告150人中、(1)被告12人(2)被告9人、(3)被告70人となった。

 

 多くの被告人が、26年間の裁判中、生活するために、共産党専従、共産党系大衆団体専従、自営業をした。彼は、当初、共産党名古屋市委員会赤旗分局で働いた。夫人の転勤にともなって、彼も東京に移った。そこで、共産党千代田区地区の細胞に転籍した。しかし、長谷川浩、内藤知周、原全吾らの社会主義革新運動に加わり、その東京都委員をした。宮本顕治は、1961年第8回大会当時、綱領路線をめぐる意見の対立で、長谷川浩らとともに、山田順造も除名した。

 

 大須事件は、1978年9月27日、最高裁の却下決定で騒乱罪有罪が確定した。山田順造が『記録』を公表したのは、その1年2カ月後の1980年1月だった。しかも、そのデータは、『第二審判決』ではなく、1969年11月11日という約11年前の『第一審判決』の「火炎ビン武装デモの計画、準備」内容の全文である。『第一審判決』主文は、「(98)被告人山田順造を懲役一年六月に処する。この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する」だった。量刑の重さは、懲役実刑5人以外では、執行猶予つき懲役刑2年6カ月1人、2年5人、1年6カ月8人である。彼の量刑は重く、「騒擾罪における率先助勢」とされた。彼の公表は、彼の執行猶予期間が終わった2カ月後である。

 

 『大須事件までの十日間の記録』は、労働運動研究所代表理事長谷川浩「解説に代えて」(P.55〜56)と山田順造「十日間の記録概要」(P.56〜63)の2つを内容としている。ただ、2人とも、『第一審判決』の「計画・準備」の事実認定個所のほぼ全文を載せる目的や真意を書いていない。2人とも亡くなっているのでそれを聞くことができない。私は、山田順造が、それによって、「計画・準備」事実認定個所が基本的に真実だったという主張をしたと推測する。『第一審判決』とほぼ同文なので、名電報細胞関係個所と名古屋大学学生細胞個所などごく一部を抜粋・対比する。

 

 長谷川浩「解説に代えて」(抜粋)

 

 当時、日本共産党は、徳田球一以下の九幹部が追放処分となり、半非合法状態にあったが、四全協・五全協を通して五一年綱領を決定するとともに軍事方針を確立した。この軍事方針は、一面で労働者の大衆的な闘争、ゼネストを基礎とする武装蜂起を目指し、大衆の武装を準備し指導する方向を示すとともに、他面では、中国革命をまねて農民その他勤労市民・学生などによる反米民族独立のゲリラ闘争を提起して「解放区」の建設を示唆し、高度に発展した日本資本主義の階級関係とはまったくそぐわない革命路線、小ブルジョア民族主義の傾向を色濃くあらわしていた。

 

 とくに、一九五一年一〇月の五全協の後、五二年の早い時期におこなわれた二一中委が「中核自衛隊」を組織してゲリラ活動を具体的に進めることを決定し、その戦術を詳細に示して以後、党各級機関に軍事委員会が設けられ、その活動が急速に活発となっていった。白鳥事件、田口村事件、枚方事件、横川事件、小坂火焔ビン事件など一連の事件が、こうしたなかで起ったが、これらの事件を通して、軍事委員会の活動は、現実に権力の暴力弾圧と対決している大衆と大衆行動から遊離し、少数精鋭による街頭的な行動となっていった。そして軍事委員会が独走する傾向さえ見えはじめた。

 

 共産党の六全協以後、この時期の党活動を総括して「極左冒険主義」と規定し、「誤りであった」としており、今日の日共指導部宮本顕治、野坂参三らは、それを「党の一部の分子のやったことで党として関係はない」と言っている。

 しかし、軍事方針の決定が党の決定であったことは明確であり、五〇年六月、アメリカ帝国主義の朝鮮侵略が現実に火ぶたを切り、その基地となった日本において、大衆闘争、とくに平和と独立、民主主義を要求する政治的集会・デモのいっさいが警官隊の暴力攻撃にさらされているとき、これに対抗して、大衆行動を防衛し反撃する体制が必要とされたことは当然である。そしてその防衛の闘いのなかで、労働者階級を権力と対決し、これを打倒する革命の思想で鍛えることこそ共産主義の党の任務であった。

 

 とくに、祖国を侵略され多くの同胞がアメリカ軍の絨毯爆撃にさらされている在日朝鮮人の立場に立つなら、「戦線の後方における活動」が提起されたのは至当のことであろう。そういうことで「祖国防衛戦線」(祖防)は中核自衛隊の組織が提起される以前に組織され、活動がはじめられていた。

 

 その意味で、当時の「軍事」活動を総括的に否定したり、あるいは大衆行動と警官隊の衝突、そしてそのなかでの共産党員の行動と街頭的な「火焔ビン闘争」とを区別せず、ひっくるめて「極左冒険主義」とレッテルを張ることは正しくないであろう。

 

 この「大須事件までの十日間」の記線は、このような状況のなかで、当時の党指導下の非合法部隊の活動に加わった山田順造君の報告である。当時十九歳、そこにどんなに政治的に未熟なものがあったとしても、青春の情熱を燃やして生涯を革命にかけた年若い青年たちのひたむきの活動は、いまも無条件に人の心を打つものがあるではないか。

 

 山田順造「十日間の記録概要」(『第一審判決』との抜粋・対比3個所)

 

 第1の抜粋・対比個所、七月四日(金)

 

 1、山田順造の「記録概要」

 

 午前九時 瑞穂区川澄町三−一九、岩田太助宅

 市軍事委員渡辺鉱二から名古屋中央電報局細胞軍事委員山田順造(19歳)への指示。

○中日貿易は共産党の指導による労働者階級が中心となって闘いとらねばならない。いかなる闘争も武器なくしては発展しない。

O「七・七大会」には火炎ビン二千個が持ちこまれる。電報局からの参加者はそれぞれ火炎ビン一個を持って参加すること、

○中核自衛隊は火炎ビンよりも強力な武器を持たせる。

 山田順造は、この内容をレポにして全細胞員に通達した。

 

 2、『第一審判決』の該当個所

 

 四、被告人渡辺鉱二は、同月四日午前十一時頃、瑞穂区川澄町三丁目十二番地岩田太助方、被告人山田順造の居室で同人に対し、七月七日の行動に関して、

 (1)、中日貿易は労働者が中心となって吸い取らなければならないが、それも共産党でなければ駄目だ、いかなる闘争も武器なくしては発展しない、

 (2)、名電報細胞員は自分以外に少なくとも一人を参加させよ、

 ()、この集会には火焔瓶二千個が持ち込まれる、名電報からの参加者は各人火焔瓶一個を持って参加せよ、瓶とガソリンは各自準備せよ、薬品は市X軍事部が支給し、製法も教える、

 (4)、中核自衛隊には火焔瓶よりもつと高度の武器を持たせる、等を指令して、これを名電報細胞員に伝達することを命じた。

 よって、被告人山田順造はこの指令を七通の紙片に記載し、被告人多田重則に名古屋中央電報局で、被告人杉浦正康、同石川忠夫、同岩月清、同片山博、同百々大吉、玉置鎰夫に配布させた。

 

 

 第2の抜粋・対比個所、七月六日

 

 1、山田順造の「記録概要」

 

 同日午前十時 千種区千種通り四−三、坂野仁一宅

 名古屋中央電報局細胞指導部会議 片山博、石川忠夫、山田順造、多田重則、青々大吉、岩間良雄

〇七日のデモは中署とアメリカ村を攻撃する。○集合場所は球場バックネット前とし、プラカード、包帯、手拭を持って行くこと。○火炎ビンは一個ずつ持って行く。

細胞関係で使う火炎ビンは五十個とし、今日中に作る。これを球場内に運び込むのは多田と石川とする。

 同日午後二時 名古屋中央電報局細胞会議

 指導部会議にひきつづいて細胞会議を開き、七日夜の行動を決定した。つづいて火炎ビン製造にかかったが、目標の五十個は原料の配分がまずくて三五個しか作れなかった。

 

 2、『第一審判決』の該当個所

 

 一、被告人石川忠夫、同多田重則、同片山博、同山田順造、同百々大吉は、同日午前十時頃から千種区千種通り四丁目十三番地坂野仁一方被告人石川忠夫の居室で、被告人岩間良雄指導の下に名電報細胞指導部会議を開き、労働者階級が主導権を握って現在の政府を打倒しなければ中日貿易への道は開かれないとの結論に達した後、前記七・七歓迎大会終了後の名電報細胞員等の行動について、

 (1)、当日の集合場所は球場バックネット前とする、

 (2)、火焔瓶は各自一個ずつ携帯してデモに参加し、被告人片山博の指示に従って投擲する、

 (3)、火焔瓶五十個を被告人石川忠夫方で製造し、当日同被告人と被告人多田重則の両名が球場へ持込む、

 (4)、プラカード二本、包帯、手拭、オキシフル、小石を携行する、等を協議決定し、被告人岩間良雄はデモ隊の攻撃目標が中署、アメリカ村の予定であることを明らかにした。

 

 七、同日被告人石川忠夫の居室で行なわれた名電報細胞指導部会会議に引続き、午後二時頃から午後十一時三十分頃までの間、同所において、被告人山田順造、同石川忠夫が中心となって、被告人片山博、同岩月清、同伊藤弘訓、同吉田三治等が席次手伝い、濃硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを使用し、ポケット用ウイスキー、ペニシリン、一合入り清酒等の空瓶を利用して、合計約三十五個の火焔瓶を製造した。

 

 第3の抜粋・対比個所、七月六日

 

 1、山田順造の「記録概要」

 

 同日午後六時 瑞穂区桜山町、名古屋大学桜鳴寮渡辺鉱二、岩田弘、渡辺修、杉浦正康他三名

 七・七大会後のデモは、具体的には「広小路デモ」弾圧に対して中署へ抗議の形をとる。

 このデモの軍事的意義は、大衆的要求を貫徹し闘い取るためには警察の弾圧を排除しなければならない、そのためには武装闘争が必要であることを具体的行動で示すことにある。

 警官隊の棍棒に対してはプラカードで闘い、不利な場合は火炎ビンを投げる。ピストルを発射したら手榴弾を投げる。

岩田弘と渡辺修は、大会終了後、ただちに壇上から「デモをやろう」と呼びかける。

○このアジと同時に各中心部隊はスクラムを組み大衆を結集しつつ、場内を二、三周して球場外へ出る。

○中署に到達する以前に警官隊と衝突したら、渡辺鉱二の指揮に従って闘う。

○手榴弾投擲の場合、各指揮者はただちにデモ隊を解散させて繁華街に散る。

 

 2、『第一審判決』の該当個所

 

 三、被告人渡辺鉱二、同杉浦正康、渡辺修外二、三名、及び名大細胞統一指導部島崎某から、デモの際の学生の指導者となるよう指示を受けていた被告人岩田弘が、同日午後八時頃から前記桜鳴寮の被告人渡辺鉱二の居室に会合して、先ず被告人渡辺鉱二が、

 ()、七・七歓迎大会後のデモの目的は、七月六日の広小路デモ弾圧に対する中署への抗議デモである、

 ()このデモの軍事的意義は、大衆に自分達の要求を実現するためには警察官を排除しなければならず、それには武器を持たねばならないということを理解させる点にある、

 ()、警察官の棍棒に対してはプラカードで戦い、不利になれば火焔瓶を投げ、警察官がピストルを発射すれば手榴弾数個を投げる、と指示した上、協議に入り、

 

 ()大会後デモを行なうため、被告人岩田弘と渡辺修が聴衆に対してアジ演説を行なう。

 ()、アジ演説をきっかけとして、各中核隊がオタマジャクシ形にスクラムを組んでこれに大衆を結集し、場内を二、三回廻り、隊列を結束してから場外へ出る、

 ()、中署玄関で代表が抗議し、そこで戦闘が行なわれるだろうが、結局は中署到達前に警察官と対峙することになるだろうから、その時は被告人渡辺鉱二の指示した前記方法により戦う、

 ()、各指揮者は手榴弾の投擲を合図にデモ隊の解散を命じ、大須繁華街の群衆の中に入る、等を決定した。

 

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 (関連ファイル)

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」