プロレタリア・ヒューマニズムとは何か
−宮本顕治氏の所説について−
労働者文学会議 志保田行
(注)、この評論は、『労働運動研究』(労働運動研究所)の(1)1998年9月号、(2)10月号、(3)11月号に連載された。その内容は、1995年度労働者文学・評論部門入選作品『不実の文学−宮本顕治氏の文学について−』の続編である。とくに、そこで取り上げた「百合子と顕治・大森寿恵子との関係の事実」問題をさらに解明するとともに、その問題との関連から宮本顕治のプロレタリア・ヒューマニズム所説の欺瞞性を分析している。志保田氏は、1923年生れ、1949年から30年間、国鉄労働組合本部書記をやり、国鉄作家集団の会員である。このHPに全文を転載することについては、志保田氏の了解をいただいてある。文中の〔小目次〕と各色太字は、私(宮地)の判断で付けた。
〔目次〕
1、宮本氏に近い人の意見 寺尾五郎氏ら3人の話
2、証言の信頼性 岩田英一氏の話
3、百合子氏「終焉の記録」 医師の記録と違う宮本氏の記録
5、「二つの教訓」について 宮本百合子と松川事件発言
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被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
『「異国の丘」とソ連・日本共産党2』宮本顕治の抑留記批判発言と百合子発言
『労働者文学』(37号、95年6月)に私の評論「不実の文学−宮本顕治氏の文学について」が掲載されてから、三年経った。
『労働者文学』に掲載されたこの評論に対しては、一九九五年七月に東京・中野のNTT中野クラブで行われた合評会で「資料の利用が悪意的である」「こういう不倫は太宰治でも、壇一雄でも誰にでもある」など酷評が多かった。同席された久保田正文氏からは、私のメモによれば、「既成のもっと確かな資料を使うように」との意見はいただいたが、「ここに書かれていることは、大森寿恵子さんが宮本顕治氏の現夫人でもあるし、大体その通りだろう」と言われた。『通信・労働者文学』(一九九五年七月)に記録されているそのときの発言は次のとおり。「久保田 小説の材料にはなるが、評論の材料にはならない。事実としてはこのとおりといえるが、文献的証拠固めがすこし弱い。」
他に、「プロレタリア・ヒューマニズム」が人権抑圧の衝立にされているという私の意見に対して、ブルジョア・ヒューマニズムに対置されるプロレタリア・ヒューマニズムはありえるという批判も受けた。これはその場で簡単に反論できる事柄でないと私はそのとき直感した。
当日、合評会に出席した二、三〇人のなかで、私の提示した事実を否認あるいはその信憑性に疑問を示す人はいなかった。しかし、後日、友人の一人が百合子氏臨終の夜の顕治氏の不在について、遠藤忠夫氏がかねて「その不在は統一委員会の運動のためだ」といっているらしい、と私に伝えた。『宮本顕治半世紀譜』(新日本出版社、一九八三年刊)には「統一委員会」活動も逐一記されているが、一九五一年一月一九、二〇日は空白、二一日は「百合子突然の死去」としかないから、運動のための不在ではありえないと疑ったが、念のため調べを続けることにした。
〔小目次〕
1、宮本顕治初代秘書の寺尾五郎氏(当時75歳)の話
合評会から三カ月後の九五年一〇月、私は寺尾五郎氏(当時75歳)を所沢市小手指に訪ね、次の話を聞いた。
「私は敗戦の年、一九四五年の一一月くらいから一九四七年の二・一ストの直前まで宮本顕治氏の秘書をつとめた。私の後は宮直治君が一九五〇年の分裂ごろまで秘書をした。
私が宮君から宮本百合子さんが死亡したと聞いてかけつけたのは亡くなった日、一九五一年一月二一日の午後だった。そこには宮君の他に関係者が二、三人いただろうか。私が宮君に『宮顕はどうした』と聞くと、『余計なことを聞くな、例のところだ』と答えた。宮顕と大森寿恵子さんとの関係はかねて知っていたが、そのときは地下活動のアジトのことと思っていたので、分かっている顔をしてうなづき、死亡を通知する宛先の相談をしたうえで、私は連絡に出かけた。
ところが、『例のところ』というのは『宮顕のアジトではなく、お寿恵の所に行っていたんだ』ということを宮君から後に私は聞いた。
百合子さんが死んだのは、五〇年分裂の最中だった。だから、政治的な対立がお通夜の席にもちこまれ、喧嘩になると、それを見るのはいやだから、私は連絡に出るといって、その夜は中条邸に帰らなかった。
大森寿恵子さんはお百合さんの秘書で、じつはSという若者と一緒になる話になっていて、私はいいことだと思っていた。Sは私の早稲田の後輩の早稲田細胞の一員だった。寿恵子さんは才媛であり、感性の豊かな、感じのよい人だった。寿恵子さんは、お百合さんの文学関係の秘書で、資料集めや、出版社との連絡で、一日おきくらいに中条邸を訪ね、お百合さんと打合せをしていた。お百合さんも寿恵子さんのことを『いい子ねえ』と賞めていた。
私は一九四七年の二・一ストの前に、四国地方に派遣され、東京から離れたのだが、私の感じでは宮顕と寿恵子はその頃から関係があったように思う。
宮顕とお百合さんは、十余年の苛酷な弾圧をくぐりぬけ、試練を耐えぬいた恋愛である。主義主張をともにし、同志愛から獄中結婚という花の美談だ。しかし解放後は二人とも党の最高指導者同士の模範的夫婦として、理想的な型にはまった夫婦のふるまいを社会に示さねばならぬ破目に置かれたわけで、つねに衆目監視の中でずいぶん窮屈な思いであったろうし、相当な無理もあったろう。しかも双方ともに個性の強い男と女である。宮顕さんは型にはまってさえすれば済むかも知れないが、作家のお百合さんの方はそれでは済まない。双方ともに相手の立場を理解しあっていればこそ、かえって重荷がふえることもある。
宮顕は内心うんざりしていて、そこにお寿恵が現れ、仮に女房の秘書であったにしても、宮顕はホロリと参ったと思う。その限りでこの二人の間は自然なことだった。肩ひじ張らなくてもよい恋愛で、きわめて自然体だったと思う。
しかし、個人レベルの話にすれば私の後輩Sの婚約者を宮顕が取っちゃったんだ。寿恵さんは女としてはよい人だと思うが、私が一番感じたのは彼女の名士病だ。愛することには尊敬も必要だし、寿恵さんはSと宮顕を比較して乗りかえた。Sは細胞の指導部に過ぎない。宮顕は天下の名士だ。男の魅力としても格がちがう。比較して寿恵子さんは乗りかえたと思う。これも無理はないと思う。どっちが先に仕掛けたか、そんなことはどうでもよい。なるようになったのである。二人は世間に隠れた関係であっただけに、その陶酔感も切なるものがあったろう。
宮君も私と同じに感じていたようだ。しようがないじゃないかと。当時は党の五〇年分裂とGHQの弾圧があったとはいえ、もぐらなくてもよいのに、主流派、国際派の幹部は両方とももぐってしまった。政治的要請でもぐった宮顕は、好きな女はお前だけとお寿恵さんを引きずりこんだのだろう。
つまり地下活動を利用したそのやり方が私には気にくわない。指導者が若い娘を引きずりこんだのだ。これ幸いということだったのではないか。往年のハウスキーパーと同じことだ。党活動のためというよりは、人目をしのぶ新しい同棲生活だった。
地下活動に入っている指導者の動静を明らかにはしない、その動きに触れるべきではない、この二人の男女関係を敵に知らせたくない、その秘密を守る、という配慮だけで当時の私たちは動いていた。
宮君が『例のところ』といったとき、私は地下活動のアジトと思った。思った方がよいと思ったわけだ。二、三日して寿恵子のところと分かった。
宮顕、お百合、寿恵子の関係を私たちがうすうす知ったときも、そのままうまくきりぬけることが望ましいと思っていた。宮顕が寿恵子にグラグラッとなびいたのも、寿恵子が宮顕に飛びついたのも自然のことだ。そのことに私は大した反感を覚えなかった。仕方がないと思っていた。当時は、私も宮君も、まだ宮顕を大いに尊敬していた。しかし、いまさらお百合さんを袖にすることは断じてまかりならぬ、と私たちは考えていた。
『私たち』とは、宮君もそう感じていたように私は思ったからだ。とはいっても私と宮はそのことについてとりたてて話をしたことなどはなかったと思う。当時は私も宮も三十歳になるかならぬかそこそこの若年だが、それでも私たちより十余年も二十年も年上の大先輩について、多少の気づかいはしていたわけだ。
だから今でも、宮顕のそのことだけをほじくり出して騒ぎたてるようなことは、あまり賛成できないぞと、君にも言っておくよ。
少し後になって考えたのは、潜行活動をうまく使ったな、少しうま過ぎるじゃないか、ということだった。
共産党の中だけではなく、広く世間的には、当時、お百合さんは大名士で、宮顕は付け足しで、キャリアウーマンの傍の不器用な男みたいなものだった。私生活でも丸抱えだった。監獄から出て半年、一年はそれで通るが、その後は宮顕も辛いことだったろう。
私は四六年二月に『前衛』が創刊されると、そちらを主な仕事にし、宮君がその頃から宮顕の専属の秘書となった。二人とも中条邸に住みついている。それにお百合さんの妹である独身のピアニスト、中条家の弟夫婦、お手伝いさんが二人、これに宮顕とお百合さんを合わせると九人になる。これだけの大人を、あの食糧危機の時代にお百合さん一人で養っていたわけだ。私や宮君だって党本部から一銭も出ることもない全くの居候者である。せいぜいポンプ井戸で風呂の水汲みをやったり、食糧の買い出しに走ったり程度のことはやったよ。
それに数多い訪問客。大部分は党関係者だが、作家百合子の鋭い神経を逆なでするようなタイプの者が多いのだが、お百合さんは機嫌よくつき合ってはいたものの、客が帰ってからは『ああいう人には疲れる、疲れる』とこぼしていた。食い物、衣服、家具などでも趣味にうるさいお百合さんが、ずいぶんと宮顕に合わせていたように思う。
お百合さんの仕事や人の出入りが宮顕の方に負担としてかかることなどは全くなかった。さまざまな負担や重圧は、一方的にお百合さんの方にのしかかっていた。
要するにお百合さんは、全力で献身的に宮顕に尽くしていた。
お百合さんは睡眠薬をときどき使っていたが、ある時、風邪を引いて二、三日寝込んでいたとき、睡眠薬の量を間違えてこじらせ、騒ぎになったことがある。そういう不手際はしない人なのだがと、不思議に思った。だいぶあとに、お百合さんが自殺をはかり未遂に終わったことを誰だったかから噂として聞いたこともあるが、それはこのことではないか。
その頃、お百合さんは秘書を代えたいと言い出した。私はお百合さんのわがままだと思っていた。寿恵子さんははじめは党員ではなかったが、『大丈夫よこの娘は』とかばったように思うし、『すえちゃん、すえちゃん』と呼んで可愛がっていた。それが突然、秘書を代えたいと言い、急に激しく嫌い出した。何かがもつれはじめたのだと感じた。あのカンの良いお百合さんが、感づかないはずはないのだ。事実、寿恵さんはぷっつりと消えた。
今思えばお百合さんは随分苦しんでいたのではないか。お百合さんは人間として堂々としていた。いよいよとなれば、彼女の方から宮顕との縁を切っただろう。きちんとした人だから。すがりついて、別かれるのはいや、というような女ではない。
宮顕の方は、ここでウソをつくべきだと思えばウソをつける人間だ。正論を述べなければならぬという思いで固まっている。『〇〇君、秘書とできているそうじゃないか、立候補は止めなさい』と、自分のことは棚に上げて、いいかねない人だ。
宮顕の思いでは、お百合さんはよい侍女だった、自分は運動の苦しみに耐え獄中十二年を経てきたんだから、仕えてくれて当然、ということではないか。彼は自分は一回も間違ったことはしていないと考えることのできる性格の人間だ。それだけに、人をせめることは一層強い。
寿恵さんも一時は苦しんだろう。今では宮顕の女房として四十数年立派にやっているようだ。
お百合さんが亡くなった日、宮顕は所在不明のまま、全然現れなかった。古いことだから記憶もおぼろだがナ。翌日の昼ごろ、代々木から細川嘉六と岩田英一が弔問に来た時もいなかった。お百合さんの遺体が病院からもどったころ、鈴木市蔵と内野竹千代氏が弔問にきた。その時も宮願はいなかった。夜になって宮君が、『本人がいないんだからどうしようもない。君は泊まらんでもよい』というので、私はお百合さんの柩に別れを告げて中条邸を辞した。ひどく暗いきぶんだった。
それは女房の死にさいして亭主が所在不明ということのいかがわしさだけではなく、国際派の最高幹部がこれではいったい今後どうなるのだろうという思いであった。
翌日の朝だったか、宮君から『ゆんべ君が帰った後の遅い時間に、宮顕が現れたヨ』と、不興げな連絡があったが、私はもう中条邸には行かなかった。それ以後も一回も行ったことはない。
あとから振り返って見て、誰の人生にも色んなことがあるのはあたりまえである。そしてどんな人間でも、終始一貫自分だけが正しかったなどと言えることはあり得ない。宮顕とお百合さんとお寿恵の三人にしてもそうであって、三人のうち誰一人として『自分だけが……』と言える者はいない。どだい、『正しい』とか『正しくない』とか言いあう問題でもない。
党の権威や指導者の名誉や、潜行活動の特殊事情などの口実で、なにごとも内密にし、すべて蔽いかくしてしまうということがあるなら、それは卑しく許しがたいことだ。
だがそれへの批判が、たんなる倫理主義的な批判であるなら、批判そのものも滑稽なものになってしまうこともあるから、注意深くやってくれ。」
この最後の注意を私はおろそかにしないよう気をつけなければならないが、この談話の衝撃的リアリティと深い人間洞察に反論できる人はいまい。
それからさらに三カ月後の九六年一月、私は神田神保町で遠藤忠夫氏(当時71歳)から次の話を聞いた。
「一九五〇年当時、私は日本共産党宮城県委員長を経て中央に呼ばれ、亀山幸三氏を長とする財政部の仕事をしていた。
五〇年六月六日、日本共産党中央委員全員の公職追放を求めるマッカーサーの命令が出ると、徳田球一、野坂参三氏ら党内所感派は公安調査庁に出頭することなく地下にもぐった。取り残された国際派の志賀義雄、春日庄次郎、宮本顕治、蔵原惟人、神山茂夫、亀山幸三、袴田里見の中央委員七名は、追放令と同時に、公安調査庁に出頭した。
国際派中央委員と同候補の最初の会合は赤坂丹後町の亀山幸三邸内で行われたが、その内、宮本顕治氏だけは、前夜一二時過ぎまで説得したが、遂に出席しなかった。この組織の名称について、会合を用意した書記団の一人として私はマスコミが名付けた『国際派』でもよいという意見を持っていたが、志賀氏が、分派はいかなる場合にも悪いと、『統一委員会』をゆずらず、結局そういう名称になった。主流派から分派といわれようと、運動を実践して歴史を刻みたいという当時の春日庄次郎さんの主張が私たちの考えだった。宮本氏は後で『統一委員会』に参加した。
私は『統一委員会』の機関誌『解放戦線』の創刊に当り、その第二号が五一年一月一日付けで発行された。「統一委員会」の会合は茅場町の野村証券の向いのビルの一室その他で転々として行われた。『解放戦線』の編集部は水道橋駅から白山の方に少し行った右側にあった。
国際派の中央委員は志賀氏を除いて、それぞれ個人的に秘密のアジトを作り、女性の秘書を置いた。組織的に承認を得てアジトを持ち、そこに女を近づけなかったのは、蔵原氏についてはよく知らないが、国際派中央委員のなかで春日庄次郎氏だけだった。春日氏はハウス・キイバア制度に絶対に反対し、夫婦の方のところに同居し、その夫婦に世話してもらっていた。人間的にきれいなのは彼だけだった。宮本氏のアジトは目黒にあるという風聞だった。
まあ、いわば妾宅だ。それを思想の一致とかいって、ろくに金も与えないで世話させていたんだ。春日氏を除いてすべてそうだった。彼らは第六回大会で選ばれた中央委員だ。こういう人物を組織として幹部に選出することは間違いだと、私は思っていた。」
遠藤氏は私の「不実の文学」について、宮本顕治氏と大森寿恵子氏の関係をミステリー風に書いているが……と笑い、そんなことは周知のことがらだよ、それでも宮本顕治氏はよい方だ、結局、その人と結婚したから、他の人はもっとひどい、とも語った。
百合子氏が亡くなった日の午まえ、宮本多賀子氏が目黒駅にいたのはこのアジトに顕治氏を探しに行っていたのだろうか。
3、米沢鐵志氏(当時62歳)の話=宮本顕治秘書K氏の話
遠藤氏から話をうかがう二カ月ほど前の九五年一一月、京都市右京区の民宿で、私は米沢鐵志氏(当時62歳)から次の話を聞いた。「いま日本共産党幹部会員のK氏と私とは、彼が広島高等師範学校に在学し、私が中学一年生くらいの時からの知り合いだ。
K氏は一九五〇年の末ころ、共産党中国地方委員会から派遣されて、宮本氏の秘書になった。当時、党内の内紛が始まり、『宮顕がぐらぐらしているから、その監視としてK氏を送った』という人もいた。一九五一年に国際派が解散した後、K氏は広島に帰り、一九五四年ごろ、彼は地区の常任を、私は『アカハタ』広島分局の仕事をしていた。K氏は他に訴えるところがないためか、東京時代の思い出を語るなかで、折にふれて、昔からの知り合いである私にもらしたことがある。
それは百合子さんが死ぬ前に大森寿恵子さんを嫌っていた、ということだ。宮本顕治氏を含めたこの三人の複雑な関係が、当時一七、八歳の私にも感じとれた。一九五五年の第六回全国協議会の後、宮本氏が志田重男氏と組んで中国地方にオルグに来たとき、広島市内の私の実家に一週間近く泊まった。父は医者で、戦前は無産者診療所に勤め、戦後は共産党員であり、家も広かったため、こうした折には、いつも党幹部の宿泊に使われていた。このことについては、『宮本顕治半世紀譜』に、一九五五年『秋広島市・教育会館で開かれた県党再建会議に出席。徳毛宜策宅に立ちより、米沢進広島市議宅に泊まる。』とある。
六全協後、宮本氏が党の最高指導者にたったため、雲の上の人をみるように、尊敬の念をもって彼を見守ったが、太っているため秘書に靴下を履かしてもらっている宮本氏の姿に幻滅を感じた。今思えば、むしろ志田氏の方が感じがよかったが、これを契機に百合子氏の著作への関心を深めた私は、その後、『風知事』を読み、宮本顕治氏をモデルにしたと思われる人物が、女主人公を『後家のがんばり』と評しているのを見て、あらためて顕治氏への幻想がさめるのを覚えた。戦争によって夫を奪われた女が子供をかかえて必死に生きていく姿を『後家のがんばり』と評するような人が共産党の指導者でありうるだろうか、と思った。二〇歳前の若者にとって、それは運動への情熱に冷水を浴びせられる思いだった。」
「後家のがんばり」にそれだけの意味を感じ取った若者の感性はするどい。そして、寺尾氏、遠藤氏、米沢氏など宮本顕治氏に多かれ少なかれ身近に接した人々の証言を通じて、顕治氏が百合子氏急逝の夜に不在であった理由を推定できる。
2、証言の信頼性−岩田英一氏の話
百合子氏が岩田英一氏に打ち明けた前記の話を私が記録したのは、一九九四年六月だった。が、この話を最初に聞いたのはそれより半月か、一カ月くらい前のことだった。東京の小さな事務所で、雑談のついでにこの話が出たとき、私は気にとめなかった。それが大きな内容をもつことに後で気がついた。
宮本百合子著『風知草』に、ひろ子が初めて赤旗編集局を尋ねて行く次の描写がある。
「赤旗編集局。――ひろ子は、その字がよめる距離から入口のドアをあけるまで、くりかえしくりかえし、その五字を心に反覆した。これまで、日本ではただの一遍も通行人に読まれたことのなかった表札であった。……重吉たちはもとより、とりわけその友だちがこうして大きく貼り出されている表札をよんだとき、涙は彼のさりげない笑いのうちにきらめいただろうと、思いやった。……
ひろ子は、これまで開けたことのなかった大きな箱のふたでもとるように、丁寧にそっと入口のガラス戸を押してはいった。はいったばかりの右手に受付のようなところがあって、つき当りは、薄暗いガランとした広土間であった。土間には太い柱が立っている。」
この建物と敷地五〇〇坪を無償で寄付したのが岩田英一氏である。時価数十億円は下るまい。徳田書記長が中国へ密航するとき、「岩田君には世話になった。土地建物は岩田君名義に返しておくように」と言い残したと伝えられるが、その手続きはとられず、のち一九六一年、第二九回総選挙の総括をめぐる意見の相違によって除名されたとき、宮本書記長ら党指導部は何の補償も行わず、彼を無一物で追放した。
私はその後も何度か、岩田氏にこの時の百合子氏の様子を尋ねた。岩田氏が彼女に「あんたの方が一〇歳も年上だから無理もないなあ。生理的にいっても難しいんじゃないの」といったとき、「百合子さんは真っ赤になり、びっくりしたように顔を上げて私を見た。お嬢さん育ちだから分からないんだなあ」と岩田氏。土地、建物の寄付について百合子氏は、「岩田さん平気な顔をしているからえらいわ。お家でもいろいろご意見はあったでしょうに」と語ったそうだ。
岩田氏のこの証言は貴重だ。百合子氏は「全集の著作権は党本部に寄付するつもりです」といっている。それは「明らかに財産を夫へ渡したくない気持ちの現われですよ。一〇年間も、毎月二回、特高の監視下で、刑務所に差入れやら、洗濯ものの引き取りに通ったんでしょう、それは大変だよ。百合子さんが怒るのも無理はないよ」とも、岩田氏は言った。「でも宮顕のことを悪くは言わなかったなあ」とも岩田氏は言う。
百合子氏のこの打ち明け話を捏造と非難する人もいるだろう。百合子氏が打ち明けたのは岩田氏が一人のときであり、こういう内密の話に第三者がいないのは当然だ。傍証人がいないことで、この話を事実無根と否認はできるだろうか。私は打ち明け話は事実と思う。
その理由として、この話は、私の求めに応じて岩田氏が証言したのではなく、私たちの雑談のなかから出てきたのであり、私はこの証言の重大さにしばらく気がつかなかった。岩田氏も後で、「そんなに大切なことなら、もっと百合子さんによく聞いておけばよかった」と述懐している。私が先の「不実の文学」を発想したのは、この話を聞いたためでもあり、エッセイを先に発想して、岩田氏に証言を求めたのではない。
第二に、岩田氏は宮本顕治氏を政敵としているが、捏造によって彼を批判してはいない。一九五〇年三月下旬、神山茂夫氏とともに、徳田球一宅を訪問したとき、「帰り際に『徳田さんの後は誰か』と尋ねると、(徳田は)『宮本だろう』と一言。辞去して外に出ると、神山は私に『徳田はあんなことを考えているのか』と言った。」(『労研』93年12月号)と、宮本氏への賛辞ととれるようなことでもはばからず彼は記している。ほぼ半世紀もまえのことだから、細部で記憶違いはあるかも知れないが、岩田氏は捏造によって人を中傷する人ではない。
〔小目次〕
1、医師・佐藤俊次氏の「終焉の記録」、1月21日
百合子氏を追悼する『宮本百合子』(岩崎書店、一九五一年)に医師・佐藤俊次氏の次で始まる「終焉の記録」がある。一九五一年一月二一日未明に急死した前日の様子が細かに記されている。
「三九度以上の熱があって、あちこちに斑點があらわれ、肝臓部を痛がっていて、心配だから来てみてほしいという電話が、宮本百合子さんのお宅からあったのは、一月二十日の午後六時だった。」
「肝臓部が痛んで高熱がある。斑點があるとは何だろう。ことによると外科的な疾患かもしれない。色々な場合の對策を考えながら本邸へついたのは午後七時半であった。病床で百合子さんは苦しそうに眼を閉じ、しきりに右手で肝臓部をさすって、激しい呼吸をしておられた。私が家族の人たちと話をはじめても私のきていることに気付かないらしかった。
家族の人たちの話によると、一月五日頃風邪気味で、鼻がつまり、手足がだるいといっていたが、熱は測るほどでもなかったらしい」
「(二十日)午後二時には三八度七分。この頃一〇〇ccくらい排尿があった。三時にまた肺炎錠を服用している。午後四時頃、小西先生の来診あり、この頃から肝臓部に張るような痛みを訴え、胸部、下肢に紫斑が現れだした。」
一通り、経過を聞いている間、あの我慢強い百合子さんがうなり聲をあげて転々と右へ左へ身體のおき場所のないように寝返りをうつ。聲をかけられて私の来たことは判ったらしい。……」
「八時頃嘔吐が一回あつたが、吐物は果汁らしいものだけで、出血を思わせるものは認められなかった。午後四時の尿にも肉眼的な血尿はなかった。その後苦しそうな嘔吐がもう一度十時半頃にあり、排尿は最後までなかった。
ペニシリン三〇萬単位を上膊筋肉に注射したとき『痛みますか?』ときいたら、『いいえ』と答えている。八時半過頃である。硫酸マグネシアは、紫斑がますます増強するのと、嘔吐を見たので、外科医の来るまで見合せた。
この頃から先は、何回ヴィタカンファーを注射しても脈は徐々に細く細く、早くなって行った。まだ結滞はない。九時半頃から四肢の末端が冷たくなり始め、湯たんぽを入れた。左頬部から耳殻の紫斑がますます廣がり、四肢の紫斑も不正形に大きくなった。苦痛の訴えも段々にしなくなり非常に憂慮すべき状態になったので、林(順圭)先生に輸血をお願いしたのが九時四十分頃だったろうか?
午後十時三十分、脈摶一三二、結滞はないが極めて細小、呼吸促迫、時々苦しそうに寝返りをうち、パッチリ眼を開いて私たちをみるが、殆んど無表情となる。たゞ一度、眼をつぶったまゝ、目尻に皺をよせて、しばらく笑っていた。何か夢見られたのかもしれない。」
「午前一時四十分、藤森(正雄)先生来診、経過をお話して、藤森先生と二階の廊下を歩いて来た時は、もうのどに痰がからまる例の最後の喘鳴が聞こえていた。先生が右手の脈をとった瞬間、二つ三つ最後の呼吸をかなりの間隔をおいてしたかと思うと、顎はがっくりと落ちた。一月二十一日午前一時五十五分であった。直ちに残りのボスミン半筒を打ち、藤森先生と私と交代で人工呼吸を行ったが、遂に蘇らなかつた。」
佐藤俊次氏のこの記録に、家人の姿はあっても顕治氏の姿はない。人工呼吸を行ったのは、藤森、佐藤両先生である。先にも述べたが、顕治氏は「百合子追悼」を百合子氏逝去から一〇日ばかりあとの一月三〇日に書いている。一万三〇〇〇字以上にのぼるその長い文章のなかで、臨終前後の描写はわずか一行半、「午後三時頃から脇腹の苦痛、四時ころからだのところどころに紫斑を発見、八時頃からの意識不明――午前一時ごろ呼吸とまる」のみだ。
この短い記述が全部違っている。
脇腹に痛みを訴えたのは、「午後三時頃から」ではなく、「午後四時頃、小西先生の来診あり、この頃から肝臓部に張るような痛みを訴え」と前記佐藤先生の記述に見える。
意識不明は「八時頃から」ではない。八時半過頃、ペニシリンを注射したとき「『痛みますか?』と聞いたら『いいえ』と答えている。」
絶命は「午前一時ころ」ではなく、「午前一時四十分」過ぎて、「二つ三つ最後の呼吸をかなりの間隔をおいてした」あと、「午前一時五十五分であった。」
「ころ」でいえば午前二時頃である。逝去の正確な時刻はどんな人にとっても大切だ。午前一時五五分を、「午前一時ごろ」と言う人はいない。この間違いは致命的である。宮本氏がこの文章を書くとき、まだ佐藤俊次医師の記録をまだ見ていないかったのだろう。後に、この文章を何度か著作集に再録するときは、不在がばれても、その理由を、当時半分非合法だった政治活動のためという誤解に期待したのだろう。
顕治氏は「百合子追悼」の最後に近く、「私は、妻である一人の芸術家、社会人、婦人の誠実な善戦を目のあたりにみてきた人間として、百合子の急逝までの近頃の状況(傍点引用者)を語る責任と義務に動かされてこれを書いたのである。」と書いている。確かに夫は、この優れた芸術家の臨終の模様を克明に語る使命があった。しかし、彼はそれを書かず、「急逝までの近頃の状況」でごまかした。
私は人のプライバシーに立入りたくはない。ましてや戦前の野蛮な天皇制権力とたたかい抜いた顕治氏を批判するのは恐ろしいし、測りしれないほどの苦労を重ねた運動の先輩に礼を失するかもしれない。しかし、この優れた作家と著名な政治家の間の実際が、通説とは違っているし、顕治氏の公開の記述に誤りがあるし、さらに顕治氏がモラルやヒューマニズムについて言及しているので、異議を提出せざるをえない。
百合子氏死去よりわずか三、四年前の一九四七年、顕治氏は「共産主義とモラル」という評論を次のように書いている。
「ソヴェトで、コロンタイの恋愛論が一時問題になりました。それによると、たとえばここに夫婦がいる。夫は任務を帯びて、一人でひじょうに遠い地方で働いている、もしその場合、性的衝動があれば抑制する必要はない、ということをいうわけです。これはやはり、そうではなくて、夫婦が互いに相手に対して貞潔を守りあう感情で貫くべきです。そういう問題に対しては、自分は動物ではなく、人間社会におけるいろいろな規準のなかで生きているという立場から、そういった衝動的な感情を抑制する必要があります。」と。
「男女の仲は簡単ではないよ。一〇歳も年が違えば無理もないよ。まして百合子さんは創作に熱中しているんだろう。夜の勤めおろそかになるよ」とも、岩田氏は私に言った。寺尾五郎氏も前記のように「その限りでこの二人の間は自然なことだった」と言った。そうかも知れない。そのことを私は否定しない。しかし宮本氏の行動が自然であれば、彼の説は虚言だ。彼の説が正しいとすれば、彼の行為は背徳だ。だれしも人生に負い目はある。顕治氏はいささかもそれを表に見せず、自分の行為を隠しつづけた。百合子氏あての一通の電報や一枚のハガキまで挙げながら、もっと大きなことを黙しつづけた。
宮本顕治氏は一九九五年に発刊した『日本共産党の党員像』に「党の国際的役割とプロレタリア・ヒューマニズム」を収め、そこに次のように述べている。
「いわゆる一般的に言われているヒューマニズムは、封建制度がたおれて資本主義社会が成立していく時期に、封建制度の桎梏に反対する個々の市民の尊重、市民的自由として強調されました。これは、一定進歩的意義を持ちましたが、しかし、それは人間性の擁護ということを抽象的にうたったものでした。そのため、具体的には資本主義社会の搾取制度のもとで、搾取者、被搾取者という対立関係に不可避的に置かれている事態を解決する手段を持ちえないで、結局は、社会変革の課題から目をそらしています。また、それは、個々の人間の自由という問題、あるいは人間性の変革ということを抽的に主張するが、結局は、搾取的な資本主義体制の現状維持、搾取の自由ということに落ちつく本質と限界を持っていました。」
「それ(共産主義)は、言葉を換えて言えば、資本主義社会の現状のわく内から出られないブルジョア・ヒューマニズムと違って、圧倒的多数である勤労者が社会の主人公となった社会主義社会、および、さらに進んで、先にものべた特徴を持つ共産主義社会における人間性の一層豊かな発展の可能性を保障するという意味で、プロレタリア・ヒューマニズム、社会主義的ヒューマニズムという新しい歴史的な性格のものになるのです。」
たまたま今年はドレフュス事件で、「われ糾弾す!」をゾラが発表して一〇〇周年に当る。作家ゾラの例をみても、「それは人間性の擁護ということを抽象的にうたったもの」ではなかった。それは権力のなかでも最大の権力である国家と、偏見にとらわれた大衆とを相手にした苦しい闘いの連続だった。巨額の罰金の支払いに追われ、生前に彼は自分の闘争の成果を見ることはなかった。彼は「社会変革の課題から目をそらして」はいなかった。ドレフュス支持派が達成した社会の変革は今なお世界中で享受され、讃えられている。
たしかにゾラは「資本主義体制の変革」を考えなかった。しかし、「社会主義社会、および、……共産主義社会における人間性の一層豊な発展の可能性を保障する」ことを約束して出発したはずの例えばソ連の七四年の歴史を終えた後を検証するならば、その人権抑圧の惨状は、「資本主義社会の現状のわく内からでられない」資本主義諸国一般の比ではなかった。宮本氏は77年10月の党大会で、「社会主義生成期」論をうちだし、ソ連などが過去の「歴史的制約」をかかえた過渡期にあるとしているが、当時、一党独裁や人権蹂躙が本質的に廃止あるいは改善されるきざしは見えなかった。その間、フルシチョフ氏や、その後にゴルバチョフ氏が人権の回復に乗り出すたびに、宮本氏はこれを修正主義と激しく非難したのは周知のことだ。
宮本氏がプロレタリア・ヒューマニズムに関するこの論文を発表したのは、一九七二年であるが、東欧革命とソ連崩壊以後の九五年にこれを再録して刊行した鈍い感性に驚かざるをえない。一九八五年に書記長に就任して一年後に、サハロフ博士の国内流刑を解除するなど人権の回復に努めたゴルバチョフ氏は、八七年から八八年にかけて、「全人類的価値が階級的利益に優先する」旨を提起した。その八八年一〇月、宮本氏は「宮本議長の八十歳を祝う会」で、この提起にふれ、「これは、レーニンが死んだ以降の世界の共産主義運動の最大の大きな誤り」と非難した。
ゴルバチョフのいう「全人類的価値」が人権であることは今では明らかだ。
あれから一〇年、昨九七年一一月に、『共産主義黒書』がフランスで発刊されて論議が沸騰し、論争は九八年一月にまでおよんだ。そしてナチズムとコミュニズムには本質的な違いはあるものの、「スターリン主義とナチズムを比較するのは有益であり、当然である」(『ル・モンド』97年12月5日付)ことが指摘された。
スターリン主義の犠牲者は同じ共産党員だけではなかった。歴史の抹殺によって忘れられていた「普通の犠牲者」が、『黒書』によって改めて浮び上がった。そこには、スターリンのイデオロギー的愚行によって、一九三二〜三三年に餓死に追込まれたウクライナ農民六〇〇万人のほかに、大恐怖政治により一九三七〜三八年の二年間に処刑されたもの六八万人余、強制収容所の一九三四〜四一年における収容者が七〇〇万人という想像を超える数字も上げられている。(本誌本年二月号参照)。
『ル・モンド』(97年11月10日付)の書評子はいう。「ソ連からアジアに至る多くの共産党政権が悪名高い階級的遺伝の思想を適用し、結果として刑罰やそれに伴う死亡まで引き起こすことで、(ナチズムの)人種差別主義と何らかの共通性をもっている。」と。これらは「階級」に対する「人権」の優位を説いたゴルバチョフ提起の意義を裏書するものだ。
だからこそ、このゴルバチョフ提起を、「レーニン以降の最大の誤り」とする宮本氏の発言は二重の意味で容認されえない。「レーニン以降」と期限をつけることで、そこに含まれるスターリン主義の蛮行を軽視し、「全人類的価値の優位」を否定することで、階級を人権の上においていることは明らかだ。この宮本氏の発言に弁明の余地はない。フランスの極右政党「国民戦線」のルペン議長が、ユダヤ人を殺したガス室は第二次大戦史における「些事」であると述べて、九七年一二月にフランスの法廷で有罪の判決を受けたが、宮本氏によるスターリンの蛮行の追認は、これに通じるものがある。
〔小目次〕
2、小沢三千雄氏の『万骨のつめあと』−宮本百合子「二つの教訓」批判
1、百合子氏の「二つの教訓」−三鷹、松川事件と自白問題
中村智子氏の『宮本百合子』(筑摩書房、一九七三年)は百合子氏の全体像をとらえた伝記として、私はこれに大変教えられた。しかし、その中の一箇所にだけ、私は異議を提出する。それは百合子氏の「二つの教訓」にかかわるもので、そこには次のように書かれている。
「さらに『人民文学』はひきつづき昭和二十八年三月まで、……松川事件の被告まで動員して……悪罵のかぎりをつくした文章を発表させた。それはのちに松川事件被告・高橋晴雄が自己批判したように、百合子が『二つの教訓』(昭和25・9・談話筆記、日本共産党福島県委員会発行の新聞「流血蛮行の組織者は誰か」に発表されたもの−新日本文学・昭和26・10に再録)にかいた、無実の自白をすべきではないという正当な主張を曲解したもので、百合子の文章の実物は『こんなもの見せるまでもない!』と見せられず、『当時のある潮流をバックにした人々の、反対派抹殺のための、政略上から来たもの』(『宮本百合子の「二つの教訓」をめぐって』多喜二と百合子・昭和31・9)であった。」
中村智子氏は宮本百合子氏の「二つの教訓」に対する批判が、「政略上から来た」不当なものであるとしている。しかし、はたしてそうか。この「二つの教訓」は一二〇〇字ほどの短い文章だから全文紹介しよう。
「三鷹、松川事件、どちらも労働者階級の戦いの歴史にとってきわめて重大な教訓を示していると思います。事件の具体的な内容についてはどちらもすべて明らかになってきています。
私たちが真剣に学びとらなければならないことは、これらの事件がどちらも労働者としての生死にかかわる生存のためのたたかいの欲求に出発していることと、それにたいして労働組合の闘争の方向、テンポが、かならずしもそのひとたちを十分指導しきらない点をもっていて、このさけ目が敵の謀略に乗ぜられたという点、三鷹事件も、松川事件もこの点では共通の動機をもっていたようだし、この点が同時に敵に着目され、全く組織的にちょう発を準備されたと思います。
大衆の要求を正しくみちびくことになにかの不足が生じている場合、または大衆の革命的行動の理論が客観的正当さを欠いている場合、つねに敵のちょう発がその弱点にくいこむということをハッキリ教えています。
私は素直にいって、一つどうしても不思議なことがあります。それは三鷹事件でも松川事件でも、敵が目をつけるぐらいの職場の積極分子である労働者たるものが、どうしてやりもしないことを『自白』したかということです。
世間普通の人間でも、すこししっかりしたものならぬすまないものはぬすまないとがんばります。両事件の『自白』した人たちは、公判にでもでればすべて明らかになると信じて『一応自白』したのかも知れませんが、一般の人々はもっとしっかりしていたたよりになる指導者だとおもっていた労働者が、やりもしないことを『自白』したという態度そのものに疑問を感じたのは当然です。だれがみても階級的によわい態度です。
弾圧というものはどうせデッチあげと、ちょう発、偽証をともないます。密告をともないます。ウソからまことをつくろうとされます。その第一歩から正直な労働者、正直な階級人、正直な市民の権利にたってたたかうべきです。
これから情勢はむずかしくなって、ますますおもいもかねない事件がつくり出される機会がふえます。もしすべての人が『一応自白』しても恥じないという考えをもってしまったら、どこに労働者が自分の階級の正義をまもり、自分の人権をまもるという信念のよりどころが残るでしょうか。
松川事件のごときは、なにもしない人が『自白』しているばかりにあるいは死刑にされるかも知れない。このことについてすべての人は肝に銘じて考えなければならない。真実を真実として主張することはわれわれの基本的態度です。そのつよさがあってはじめてすべてのちょう発と、虚偽をうちやぶることができるのです。」
2、小沢三千雄氏の『万骨のつめあと』−宮本百合子「二つの教訓」批判
広津和郎氏が「日本ばかりでなく世界の歴史にも未曾有」と讃えた松川運動の、比類ない先達であった小沢三千雄氏は、『万骨のつめあと』(自家本、一九七四年)における「共産党の分裂と宮本百合子」の項で、この「二つの教訓」を次のように批判している。
「この百合子の『二つの教訓』なる文書は、松川事件とその裁判の内容を具体的に知ったうえで筆をとったものとは思はれなかった。それは、この文中に、(1)私は素直にいって一つどうしても不思議なことがあります。それは三鷹事件でも松川事件でも敵が目をつけるくらいの職場の積極分子である労働者たるものが、どうしてやりもしないことを『自白』したかということです。
(2)『自白』したひとたちは公判にでもでればすべて明らかになると信じて『一応自白』したのかもしれませんが、一般の人々はもっともしっかりしていた頼りになる指導者だとおもっていた労働者が、やりもしなかったことを『自白』したという態度そのものに疑問を感じたのは当然です。
(3)松川事件のごときはなにもしない人が『自白』しているばかりにあるいは死刑にされるかもしれない、と説示されているからだった。
松川の被告二十人のうち、ウソの自白調書をつくられた八人の労働者は、チンピラ少年であった赤間を筆頭として『職場の積極分子と言える労働者』でもなく、『頼りになる指導者』と言える人たちではなかった。このうち五人までは二十才にみたない少年であり、浜崎はようやく二十才になったばかり、園子は女性であり、ただ太田だけは組合の副委員長をつとめた人であるが、彼は後で明らかになるけれど精神病質者であった。しかも松川自白のおおもと(傍点、原文、以下同じ)をなした赤間は共産党とは緑のない不良少年狩りでとらわれた国鉄の馘首組だった。
また、『自白したひとたちは公判にでもでれば、すべてが明らかになると信じて一応自白したのかもしれません』というが、『自白』する経過などというものは、ウソだろうが、真実だろうが、その責苦に堪えかね、根がつきはて、心がもうろうとなり、殆んど取調官のいうがままになり自白調書がつくられるものである。だから奇想天外な自白調書が作製されることもあるのだ。松川でのその見本は、のぼったり、くだったり自由自在な転覆謝礼金自白である。自白者には、『公判にでもでればすべて明らかになると信じて一応自白』などと考える余裕など全くないのだ。それは後からつけたした文句にすぎない。そして、彼等取調官は取調べる以前から、その者を調査研究し、これはおとすことができる(自白させうる)できないをきめて取調べにあたったことが、松川の取調官の会話のなかからも知ることができた。
つぎに、『なにもしない人が自白しているばかりにあるいは死刑にされるかもしれない』といっているが、これは全く逆であって、死刑を求刑された十人のうち九人までは自白調書のない当時労働組合の指導的立場にいた人たちであり、赤間は自白を公判でひるがえしたために、そのみせしめとして死刑のなかまにいれられたのであった。
こうして、宮本百合子の『私は素直にいって一つどうしても不思議なことがあります』と説きだした『二つの教訓』は、時も時、検事がその論告のなかで『闘魂勃々たる各被告人が一捜査官に拷問又は脅迫されて止むを得ず虚偽の事実を自供すると云う様なことはあり得ない。』『自白を為したる被告人は孰れも良心との戦いに破れ前非を悔い非は非として自から進んで自白を為したるもので、又不利益なる事実の承認を内容とする供述を為したるものは良心の呵責に耐えず事実を進んで自供せんとするも、一面同志との堅い約束を裏切ると云う間違った仁義に責められ、未だ其の決意がつかず一部不利益な事実を任意自供したものであります。』といったことを、言葉の事実において加勢する結果となった。
獄中の被告たちも、一緒に戦っている弁護人も、ウソの自白者を難詰することなくかばい、これを鼓舞激励し、立直らせ、二十人の団結と統一をかためて権力にたちむかっているときに、百合子の『二つの教訓』はそれとはウラハラな役目をはたすものだった。こうして百合子の全小説がどうあろうとも、この『二つの教訓』は当時おかれていた被告人の利益とは対立するものだった。それは畢竟、ひとり雛壇にすわっている高等批判者の文言であった。当時、宮本百合子は松川事件のため、一銭の救援金もよせてはおらなかったし、この『二つの教訓』はこともあろうに、党が分裂し被告たちと反対の立場にあった組織の印刷物に掲載され、しかも、その組織の一部のものが、救援資金を募集し、これを着服した事が明らかになった後であったから、激しい言葉や行き過ぎた言葉を使って宮本百合子を攻撃した被告や弁護人もいた。
ともあれ、宮本百合子の『二つの教訓』問題は、松川の一審判決を前にして党の分裂がもたらした味方の大きな弱点でもあった。宮本百合子は『二つの教訓』を発表した翌年、突然逝ってしまったが、それ以後、党の統一が回復された松川上告審段階の昭和三一年(一九五六年)からその翌年にかけて、この『二つの教訓』に関する論争がむしかえされ、松川運動強化のうえで障害を与えた。」
3、百合子「無実の自白をすべきではない」主張の評価と悪影響
中村智子氏が書いているとおり「無実の自白をすべきではない」という範囲で百合子のこの主張は正当なものだ。しかし、百合子氏が事件について正確な認識を欠いていたことも事実だ。労働組合の指導的幹部はウソの自白調書を作られてはいない。唯一の例外は大田省二氏であるが、彼は後に精神病質者であることが明らかになっている。
他にウソの自白調書をとられたのはチンピラや年少あるいは女性の「職場の積極分子」ではない人たちだ。そして松川運動の先達である小沢さんや被告たちが最も苦心したのは、権力によって「自白」させられた被告と否認をつらぬいた被告との間の団結である。この団結によって、松川裁判闘争は「日本ばかりでなく世界の歴史にも未曾有」の成果をかちとったのだ。その団結を守るための小沢氏や被告団、弁護団の配慮に宮本百合子氏のなにげない言葉は冷水を浴びせた。
被告の高橋晴雄氏が後にどのような自己批判をしたか、無罪判決をかちとったあと国労の書記となった高橋氏と一〇数年、同じ書記として過した私は寡聞にして知らないが、たとえ「二つの教訓」の実物を見せられなかったとしても、被告団の団結にひびを入らせかねない文書について高橋氏が警戒するのは当然だ。
いま振り返ってみて、百合子氏ほどの作家が「二つの教訓」ではさほどのことは言っていない。「無実の人は自白すべきでない」というのは、当然の常識に過ぎない。その不用意な発言が重大な傷を当事者たちに与えた。談話筆記を本人が校正しないまま急逝したという事情があるかも知れない。
顕治氏は「民主的常識の問題−三鷹・松川事件と宮本百合子−」(一九五三年)と、「『民主的常識の問題』によせて」(一九五四年)でこの「二つの教訓」問題を論じているが、いずれも百合子氏の意図は「被告の非難を目的としたものではない」というに尽きる。
前者「民主的常識の問題」は松山映の「宮本百合子の評価」に対する反論として書かれたもので、顕治氏はいう。
「しかしながら、この談話筆記の基本的な前提が権力の挑発政策との闘争、真実を守るための不屈の態度というところにあるのは疑う余地もない」
「ここにこの談話の動機と主題が、これからの複雑な情勢下でますますねらわれるこの種の弾圧や挑発に対する今後の基本的態度−今後の教訓というところにおかれていることは明白である。」
「短い談話筆記をあげ足とりからつつくならばともかく、大局的にその真意をみれば、これが弾圧・でっちあげを目的とする検察の側への闘争の観点から行われていることは明らかだ。」
百合子氏の真意が顕治氏の言うようなものであったことは疑いない。問題はその真意にもかかわらず、彼女に事実誤認があって、それが図らずも検事の論告を加勢したことだ。それについて顕治氏は何も言っていない。
後の論文「『民主的常識の問題』によせて」は同じ松山の再論「民主的な教訓−私の誤りを正して宮本顕治に答う」に対する反論である。
顕治氏は言う。「そこで松山の『私が宮本百合子の基本的態度を疑っているかのような批判を加えている。これでは私の真意はまるで理解されていない。私は宮本百合子の基本的立場を少しも疑ってはいないのである』という言葉も、今の松山の心持ちのこととしてではなく、松山のあの論文の現実に即して言えば」信用できないとして退け、続いて言う。
「松山の今一つの論点は『私の信じるのは〈二つの教訓〉のもつ影響力の与えた客観的事実であり、そこから〈二つの教訓〉の誤りを論ずるのである』というところにある。」そして、顕治氏はいう。「第一、『二つの教訓』は、松川事件の被告の態度について論ずることを主目的としたものではなく、三鷹・松川事件からくみ出すこれからの総括的教訓が目的である。」「第二に、……『二つの教訓』が松川事件の被告を非難することを目的としたとみるような誤解にもとづくものである。」「そういう誤解が何かの事情で一部に起こったときでも、むしろその誤解を正し、宮本百合子は弾圧政策と挑発政策とたたかい、真実を守る側に確固として立っていること、宮本百合子の立場も三鷹・松川事件の被告の立場も弾圧に反対し真実を守る意志において一致する点を明らかにするのが、真実と人民の大きな団結に沿うものと私は信じる。」と。
ここにあるのは身びいき、驚くべき身びいきだ。迷惑をかけながら、詫びることもせず、かえって百合子氏にそのつもりのなかったことを明らかにするのが「大きな団結に沿うものと私は信じる」とは。顕治氏は百合子氏への負い目を明らかにせず、彼女をやみ雲に弁護することで、ひそかに罪ほろぼしをしたかったのか。
「二つの教訓」問題にはさらに後日談がある。
松川事件発生三〇周年を記念して、『前衛』一九七九年九月号に論文「松川事件と裁判批判運動」が「松川事件裁判闘争検討会」名で掲載された。この会は岡林辰雄、鶴見祐策、中田直人、鈴木恩氏ら当時の弁護団六名で構成されている。
この論文が発表された直後、日本共産党中央委員会常任幹部会の名で、これに対する批判が行われ、それは『前衛』の次号に、「党の団結の今日の到達点に立って」という題で掲載されている。「一九五〇年の党の分裂と松川運動との関係にかんする叙述は、……五〇年問題の総括の今日の到達点とは異質の、事実と道理にてらして正しくないものとなっている」が批判の趣旨である。「なお、『松川事件裁判闘争検討会』は、日本共産党の機関や組織ではなく、松川裁判の元弁護団のうちこの論文の執筆にたずさわった人びとが論文発表にさいしてつけた名称である。同論文をもってもちろん党の見解とはなしえないだけでなく、経過としては、このような論文が党指導部の点検をうけることなく、『前衛』編集部の一存で掲載されたものである。」とも常任幹部会は断わっている。
批判の対象になった「検討会」の記述は次の箇所である。それは「一、事件の概況と経過」「二、あばかれた権力犯罪」につづく「三、運動上の困難とその克服」の項であり、そこにはこう書かれている。「一九五〇年六月、マッカーサーによる共産党中央委員会の公職追放の弾圧の中で、事実上党が分裂する事態が起こり、松川運動は最大の試練に直面した。裁判闘争を支える活動への協力を拒み、さらには政治的謀略に対する大衆闘争として発展させようとする立場に、逆に敵対すると見るほかない勢力もこの過程で現われてきた。とりわけ権力の虚偽と不正に対してではなく、被告達の自白に向けられた疑念と論難ほど、被告とその周辺の人びとに手ひどい打撃を与えたものはなかった。検察官の論告は、権力の実態を知らされず、何となく裁判の公正を信じている一般の人びとが『やりもしないのに自白するはずはない』と思いこんでいるところに照準を定めていたが、この非難は、これと同じレベルで受けとめられかねない内容であった。むしろ松川の真実をいかに広範の人びとに知らせ、力を結集して敵のデマを打ち破っていくかが、この時こそもっとも重要な課題だったのである。」とある。
常任幹部会名による批判にあわせて、宮本百合子氏が三鷹事件について書いた論文「それに偽りがないならば」と「二つの教訓」、および宮本顕治氏の「民主的常識の問題」「『民主的常識の問題』によせて」が『前衛』同号に再録されている。このうち「それに偽りがないならば」は、木村という検事が「でっちあげるのはわけはないのだ」といい放った事実をとりあげており、さすがに三鷹事件の本質を見抜く百合子氏の眼力は今なおその価値を失っていない。これは、被告の自白が権力の圧力によるものであることを百合子氏が見逃してはいないことの証拠として、添えられたものであろう。しかし、これもまた「二つの教訓」における百合子氏の意図の正しさを示すものでしかなく、それが松川の運動に与えた障害を弁明できるものではない。
百合子氏の「二つの教訓」が与えた傷は三〇年経っても、なお当事者たちに忘れ難い疼きとなって残っていた。世界史で未曾有の成果をあげたのは、社共両党や労働組合をふくめた国民各界、各層の支持を受けながら、その中心にあって活動をつづけたこれら当事者たちであった。被告の一人武田久氏が保釈後上京してオルグ活動をしていたとき、よく筆者に語っていた。代々木とは喧嘩のしどうおしだ、と。松川の運動があれだけ広範な反響を得たのは、日本共産党のおしつけに従わず、松川運動独自の方針を守り通したからに他ならない。
愛知における松川運動の優れた活動家の一人、国労名古屋地本の書記、川村豊氏は「おれは共産党は嫌いだが、松川運動はやる」とつねづね公言していた。
松川運動の先達、小沢三千雄氏は一九七九年に発行したパンフ『勝利のための統一の心』の「あとがき」でこう述べている。
「私は戦前戦後、共産党を含む、いわゆる無産政党、革新政党は、大衆団体を自らの党派の手足と考え、その分裂を促進し如何に勤労人民の団結を阻害し、敵の攻撃を容易ならしめたかを考えざるをえない。……あの『党派性』という名のもとでのセクトと官僚性、そして『無原則的統一』と称して実質的に排除の論理を駆使し統一を阻害してきた指導者たちにかぎりない悲しみを感ずる」と。
このようなセクト主義を批判し、松川運動を実際におし進めてきた人たちの痛切な体験が、機関の名によって抹殺され、そして党官僚の作文が横行する。血の通った声を抹殺することがソ連におけるプロレタリア・ヒューマニズムであったし、また宮本顕治氏のいうプロレタリア・ヒューマニズムである。
かつて唱えられた「プロレタリア科学」はエセ科学であり、「プロレタリア民主主義」は独裁であった。それと全く同じく、「プロレタリア・ヒューマニズム」は人権蔑視の別名である。
以上 健一MENUに戻る
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