不実の文学 −宮本顕治氏の文学について

 

1995年度労働者文学賞の評論部門・入選作品

 

志保田行

 〔目次〕

     宮地コメント

     まえがき

   1、広津和郎と宮本顕治

   2、松川運動と日本共産党

   3、宮本百合子と宮本顕治

     むすび

 

 (関連ファイル)      健一MENUに戻る

    志保田行『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』宮本顕治氏の所説について

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党2』宮本顕治の抑留記批判発言と百合子発言

 

 宮地コメント

 

 この評論は、労働者文学会議における、労働者文学賞入選作品である。文学会議は、機関誌『労働者文学』を年2回発行している。志保田氏は、1923年生れ、1949年から30年間、国鉄労働組合本部書記をやり、国鉄作家集団の会員である。そして、松川事件には、国鉄労働者として取り組み、仙台裁判に立会い、無罪要求大行進に参加し、被告とも交流してきた。このHPに全文を転載することについては、志保田氏の了解をいただいてある。文中の各色太字は、私(宮地)の判断で付けた。

 

 このファイル〔目次〕2「松川運動と日本共産党」は、1961年から66年にかけての愛知県国民救援会問題を詳しく分析している。それは、松川運動を含めて、国民救援会運動の路線・方針をめぐる国民救援会本部=共産党中央宮本顕治らと愛知県国民救援会との対立だった。愛知県の事務局次長は、大須事件被告人・事件当時の共産党名古屋市委員長永田末男だった。宮本顕治は、この運動方針対立も真因の一つとして、1965年6月8日、永田末男と大須事件被告人・共産党愛日地区委員長酒井博を除名した。

 

 宮本顕治は、「宮本は分派」という1951年4月のスターリン裁定に屈服し、1951年10月初旬五全協直前に、宮本分派=全国統一会議を解散し、志田重男宛の自己批判書提出で主流派に復帰した。よって、大須事件という火炎ビン武装デモ決行を命令したのは、1951年10月16日五全協で統一を回復していた共産党中央委員会・軍事委員会である。永田末男は、『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』において、宮本顕治が「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と、うそぶいて、恬として恥じない姿勢を、敵前逃亡犯罪者以外の何者でもないという怒りから強烈に批判した。永田末男は、宮本・野坂らの大ウソ、および、火炎ビン武装デモ実行者を「党再建上の邪魔者」と見なし、見殺しにする自己保身姿勢を「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」と規定し、批判している。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治・野坂参三批判

 

 次に〔目次〕3「宮本百合子と宮本顕治」における、晩年の百合子と、顕治・大森寿恵子との関係の事実は、多くの共産党員、文学者たちが直接・間接に知っていたのに、全員が口を閉ざして沈黙してきた問題である。志保田氏が初めてこの事実を具体的に明記したことにたいして、「宮本顕治批判に当たって、女のことを持ち出すなんて」という批判も一部に出た。しかし、彼は「宮本顕治が言ったことと、やってきたたことは違う。それを証明する具体的な行為の一つとして書いた」と反論している。宮本顕治は、百合子死後、「多喜二・百合子賞」を創設し、その大宣伝をすることによって、彼が自ら創り出した百合子晩年の悲劇を日本共産党史のタブーの一つにし、党内外からも完璧に隠蔽することに成功した。よって、直接の証言者が居なくなって行く前に、誰かが「宮本顕治の不実さ」の証明となる事実を書き残す意義があると言えよう。

 

 『異国の丘』ファイルにおいて、私(宮地)は、宮本顕治の抑留記批判発言と百合子発言の違いを書いた。シベリア抑留記『極光のかげに』著者高杉一郎は、百合子の旧友であるとともに、百合子秘書大森寿恵子の義兄である。彼女は、高杉夫人の妹である。彼が、シベリア抑留からの帰国後、百合子を訪問し、事前に贈ってあった抑留記内容について話し合っていたのは、1950年12月末だった。その最中に、宮本顕治が突然2階から降りて来て、高杉一郎を批判した。「すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり『あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ』と言い、間をおいて『こんどだけは見のがしてやるが』とつけ加えた。私は唖然とした。返すことばを知らなかった。やがて彼は戸を閉めると、立ち去ってゆき、壁の向うの階段を上ってゆく足音が聞こえた。私は宮本百合子の方へ向きなおったが、あのせりふを聞いたときの彼女の表情はもうたしかめることができなかった」(高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年、P.188)。それは、百合子が51歳の若さで急死した1951年1月21日の1カ月前だった。

 

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党2』宮本顕治の抑留記批判発言と百合子発言

 

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 まえがき

 

 一九八九年一一月、ベルリンの壁崩壊に始まる自称社会主義諸国の解体は、これまでにおける闘争経験と理論のすべての見直しを迫る。その見直しの中で、かえって一層の光芒を放つのは松川裁判闘争である。この運動に大きな貢献をした広津和郎氏と、歴史の見直しに関心を示さない現日本共産党議長・宮本顕治氏の対比は興味あるテーマだ。

 

 宮本氏は戦前、文芸評論家として広津和郎氏をとりあげ、「同伴者作家」論を展開した。書かれてから六〇有余年後にこの論文を検討してみたい。「同伴者作家」を動揺常ならぬものとし、その車軸を転回するよう求めたこの論文は現在、検証に耐えられるか。批評したものが卑少で、批判されたものの方が偉大であることにならないか。

 

 『日本共産党の七十年』は松川裁判の勝利にほんの数行しか紙面を割いていない。同党はこの偉大な運動をどう評価しているのか。この党はむしろこの運動の内実をゆがめ、その経験を局限し、自党の栄光を飾る道具にしていないか。この傾向は宮本顕治氏が共産党内で実験を握るにつれて強化されていないか。

 

 宮本氏は階級的世界観をヒューマニズムに対立させた。その世界観は宮本氏の行動にどのように現われているか。宮本百合子氏が急逝した際における顕治氏の行動がそれを示していないか。これらの検証を通じて、宮本顕治氏の文学が不実の文学であることが分かるのではないか。

 

 

 1、広津和郎と宮本顕治

 

 東欧とソ連における自称社会主義諸国の崩壊は、われわれのこれまでの闘争経験のすべての見直しを迫る。私は一九四九年六月から一九八四年六月まで三〇余年を国鉄労働組合の書記として働いたが、あらゆる闘いの見直しのなかで、その価値を失わず、かえって、光芒を増やすのは松川裁判の闘争ただ一つのように思われる。

 

 黒沢明の作品『隠し砦の三悪人』で、包囲された城から姫を脱出させる際、考えられる限りの困難な条件をシナリオに設定したと読んだ記憶がある。松川事件の被告たちはおよそ考えられる最悪の条件下に置かれた。

 事件の発生は、一九四九年八月一七日、東北本線松川駅付近で列車が脱線転覆、乗務員三名が死亡した。この事件の犯人として国鉄労働者一〇名、東芝労働者一〇名の計二〇名が、九月一〇日から一〇月二一日までの間に、逮捕された。

 

 第一審の裁判は同年一二月五日に福島地裁で始まり、判決は翌五〇年一二月六日で、死刑五名を含む全員有罪。

 第二審判決は五三年一二月二二日、仙台高裁、死刑三名を含む有罪一七名、無罪三名。

 第三審判決は五九年八月一〇日、最高裁大法廷、原審破棄、仙台高裁へ差戻し。

 第四審判決は六一年八月八日、仙台高裁、全員無罪。

 第五審判決は六三年九月一二日、最高裁小法廷、全員無罪確定。

 

 事件発生のすぐ後に共産党東北地方委員会から福島へ派遣された松川運動の比類なき先達であるとともに、人に威張ることがなく、普通の人として通した小沢三千雄氏(84)に自伝『万骨のつめあと』(自家本、一九七四年刊)がある。

 

 この本に第一審公判当時のマスコミの様子が次のように書かれている。

 「当時の新聞は殊の外、捜査当局に密着協力し、デマ宣伝の最大の武器となっていた。それは、無罪が確定した後で、事件当時の福島民報永沢編集局長が『事件がおきると共産党がやったように書けと米軍から圧力がかかっていた』と弁護団に話したことからしても、占領軍−捜査当局−商業新聞が一体となって捜査方針即デマ宣伝がくりひろげられたことが裏付けできる。」

 

 小沢氏がその大半を執筆した『松川運動全史』(労働旬報社、一九六五年刊)にはまた、第一審判決直前の様子が次のように書かれている。判決をまえにして、「あまりにもはっきり七法廷で被告の無実が証明されたことや、三鷹の勝利のこともあって、被告、家族も弁護団や活動家も、本当に有罪判決が行われようとは、実感として信じられなかった。」

 判決はこの期待を真っ向から裏切った。

 

 この頃、共産党はどうゆう状況にあったか。一九五〇年六月、中央委員会全員に公職追放指令がマッカーサーから出され、同党は主流派と国際派に分裂、翌年は武装闘争に突入、五二年一〇月の衆議院総選挙ではそれまでの三五議席が一挙にゼロに転落、松川裁判にかかわるどころではなかった。第六回全国協議会で一応、統一が回復されるのは五五年七月になってからである。

 

 被告たちが所属していた国鉄労組、東芝労組も、一九四九年の首切り反対闘争に敗北、新しい指導部は被告たちをむしろ敵視した。被告たちはいったい誰に、どこに頼ったらよいのか。これこそ、考えられる最悪の条件であった。一九五三年の第二審判決が近づく時期の模様を、『万骨のつめあと』は次のように伝える。「さて、判決をまえにして公正裁判要請の運動がたかまるにつれ、ジャーナリズムは、また松川事件を報道しだした。なかでも『週刊朝日』は松川事件特集号をだし、決定的に無罪であるという証拠はないのであるから、無実であり、無罪であるという運動は事実に反している。広津、宇野などがどのような調査と確信にもとづいて被告の無罪を叫ぶのであろうか。国民はおとなしく判決を信用しているにかぎる、と運動に水をかけてきた。」

 

 この記述は続く。『読売新聞』の山本昇記者はよく事実を調べ、彼自身は無実の立場をとっていたが、判決がどうでるかを探って執拗に取材していた。彼は鈴木裁判長と対談して判決文が有罪の立場から書かれているにちがいないと判断した。そのことを小沢氏たちは二審判決の半月ほど前に知る。「吾々は一審判決まえのジャーナリズムをも思いあわせ、また諸般のうごきをみて判決は有罪の立場でかかれていることを確信するにいたった。」

 

 そこで国民救援会本部に有罪判決の場合の準備と指示をあおいだところ、同本部の共産党グループから「松川被告団の一部、ならびに国救宮城県にあらわれた右翼的偏向について」という書簡が送られてきた。

 

 「それにしても『動揺せず勝利の確信をもって対処せよ』だけのこの書簡は、ものごとを具体的に把握し対処しようとせず、ただ『右翼的偏向』というレッテルをはりつけ……ているものだった。これは私どもの組織の中に以前からへばりついておる抽象的『レッテル屋』の病気だった。」

 

 この二審判決の六カ月前、国労は鬼怒川大会で初めて公正裁判要請と調査団派遣を決定した。私は大会決定にそい、国労から派遣されて第二審の判決に立合い、その夜はぼたん雪が舞うなか仙台市公会堂までのデモと抗議集会にも参加した。しかし、東京に帰ってからつくづく、どれほど法廷外の運動が高まろうと、権力に守られた裁判官にはとどかず、その判断を変えることはできないと、権力の壁の厚さに一時絶望した。そのようなどん底のなかから、茨の道を切り開き、被告たちを勝利させる大きな力になったのは、広津和郎氏である。

 

 第五審の最高裁判決で全員無罪の判決を勝ち取ってから満一年後の一九六四年九月、事件現場近くに建てられた松川記念塔には広津氏起草の碑文が次のよう刻まれている。

 「……人民は……階層を超え、思想を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立ち上がったのである。この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史にも味曾有のことであった。……人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である」。

 

 「人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史にも未曾有のことであった」と広津氏は記した。それは例えば、昨九四年、事件発生一〇〇周年が世界で記念されたフランスのドレヒュス事件の救援運動さえも上回っていたことを意味する。

 

 これほど大きな日本人民の成果を、昨年に発行された『日本共産党の七十年』は「第七章 第八回党大会後、一九六〇年代の闘争」のなかで、数行しか記述していない。日本共産党はときに松川闘争を評価するが、それは共産党に指導された運動としての功績である。もし松川運動の経験に共産党が学べきことを提起し、これを固執すれば、党員の場合には除名、党外のものは反党修正主義の烙印を押されることを覚悟しなければならない。松川運動の栄光が共産党の権威を上回ることは、このわがままな組織には耐えられない。その逆鱗に触れるのである。

 

 自称社会主義諸国崩壊の後、松川運動の光芒が私の心中で大きくなるにしたがい、この闘争の勝利に大きく貢献した広津和郎氏を、現共産党の指導者宮本顕治氏がどのように評価しているかに興味を覚えた。『宮本顕治文芸評論集』(第一巻)をみると、「同伴者作家」が、広津和郎氏を扱っている。そこには次のように書かれている。

 

 「しかし、いずれにせよ、前記広津和郎には何等生活情熱が一定の方向に蓄積されることもなく……淡い絶望か憂愁か感激……自由主義者の幾種類かの触覚を転回しながらも、生活の根軸は堂々巡りから出なかった。これらの平凡な悲劇喜劇の繰り返しから出て、真の出窓を打ち開くためには、まずこの世界観の階級性の批判から出発しなければならなかったのだ。」

 

 「ブルジョワ・イデオローグのうち少数の者は……旧ブルジョワ文学の伝統に生きて来たのではあったが、彼らは資本主義最後の現実を、史的必然の方向に容認することをなし得たのである。」

 「広津和郎の新しい作品は、彼が感想において示した同伴者的過渡性を十分に裏付けている。自由主義世界観への決別の方向を意図していること、しかしながら、その進歩性が明確な階級的形貌を帯びるに至らないこと、この二つにおいてそうである。」

 

 「ブルジョワ生活・観念形態の自己批判から出発した新しい転向は、すべて直ちに、未来階級の戦士たり得るのではない。むしろ、これらインテリゲンチアの多くは、理論上プロレタリア階級の勝利の必然性を漠然と信じながらも、彼らを取り巻く旧時代の環境や、昨日の心理イデオロギーのために、実践においては不安な動揺を繰り返している。かくて彼らは、プロレタリアートの戦闘的同盟者ではないが、反動的なブルジョワ・イデオローグと自己を区別する意味において、プロレタリアートの同伴者である。」

 

 「批評は、同伴者作家の進歩性の限度や、誤謬を指摘しても、そのことによって直ちに、彼らに埋葬の十字架を立てるのではなく、彼らのために成長の道標を打ち立てるものでなくてはならぬ。『これはプロレタリア文学ではない、断じて。だからブルジョワ文学だ……』硬化したこの掛け声に、批評家があらゆる場合に終始するならば、彼らは全く過渡時代の問題の複雑性を安易に単純化することによって、結局批判を破棄しているのである。」

 

 「しかし同伴者地点は、そのままが安住を許さるべき屯所ではない。それは、進歩と保守性の間を反転する動揺そのものを合理化すべき地点となってはいけない。同伴者作家は、彼が更に、揺るがない進歩の担い手となるためには、当然に、より苛烈な道程を踏まねばならないだろう。……彼が新しい転向を遂げようとするならば、それは車軸そのものを転回すること以外にはない。」

 

 「同伴者作家」は、一九二九年に宮本氏が「『敗北』の文学」を発表した後、岩波書店『思想』の求めで書かれ、一九三一年三月に同誌に発表された。

 当時としては、マルクス主義理論を応用した整然とした展開で、「過渡時代の問題の複雑性を、安易に単純化することによって」批判を破棄してはならないと、同伴者への寛容を説いて、おそらく口をはさむところがないほどであったろう。

 

 宮本氏は前記『選集』(第一巻)の「あとがき」(一九八〇年発表)で、「広津和郎氏とは、……戦後面識を得て、その死にあたって、熱海のお宅にうかがっておくやみをした」とさらりと書き流し、その時点で「同伴者作家」論への自信を示している。

 

 しかし時代は変った。「同伴者作家」発表当時、マルクス主義は旭日の勢いによって人々の目を暗ました。しかし昔時の力を失った今、その後光を消し、自然の平明さのなかで宮本氏の所論を見直すのは当然の成行きである。

 

 宮本氏は、進歩と反動との間で同伴者作家は動揺しているとして、「そこには安住すべき屯所はない」「同伴者作家は……更に、揺るがない進歩の担い手になる」必要を説いている。もし広津和郎氏をはじめとする「同伴者作家」が、宮本氏の説くところの「揺るがない進歩の担い手」に移っていたら、どうなったろう。宮本氏は当時、史上最も残虐な独裁者スターリンに心酔し、多くの論文に彼の言葉を引用している。「同伴者作家」がスターリンの熱狂的ファンに一度なっていたら、そこから回帰するためにどれほどの徒労が必要とされただろう。

 

 皮肉なことに、宮本氏が、その所論をこの論文の支柱にしているブハーリンとトロツキーが、その後、ソ連共産党から除名され、反党分子にされた。「念のために『同伴者』という名称……を最初に文芸批評の領域に播布したのは、レオン・トロツキーである」と、文中で高らかにうたわれている。一国一前衛党の強固な支持者である宮本氏が、トロツキー所論の引用をどう考えているか、「あとがき」に何の言及もない。

 

 「あとがき」を書く前の一九七一年と七八年に、宮本氏はルーマニアを訪れ、チャウシェスク大統領と共同声明を発表した。七一年の共同コミュニケには「日本共産党代表団は、ルーマニア共産党がその自主路線のまわりにルーマニア人民をかたく団結させていること、多面的に発展した社会主義を建設するうえで注目すべき成果をあげていること、人民を国の政治生活に広範に参加させる社会主義的民主主義を拡大していることを……心から喜んだ」と記され、七八年の共同宣言には「宮本顕治委員長は、ルーマニアの社会主義建設においてかちとられた大きな成果、社会主義の魅力の高まりに対して……心のこもった祝意を伝えた」と書かれている。

 

 「あとがき」を書いた七年後の一九八七年宮本氏はチャウシェスク大統領と共同宣言を発表し、「事態の推移は、……一九七一年九月三日の共同コミュニケと一九七八年七月十日の共同宣言で提起された分析と評価の正しいさ、諸命題の完全な有効性と今日的意義を証明した」と明記している。

 

 ところが、昨年発行された『日本共産党の七十年』は、八七年の宣言が「ルーマニアの路線全体への支持や内政問題への肯定を意味するものでないことは当然であった」とわざわざ断っている。党路線のまわりへのかたい団結、多面的に発展した社会主義建設、人民の広範な政治参加を喜ぶことが、内政への肯定的評価でないのか。「心から喜」び、「心のこもった祝意を伝えた」のは、チャウシェスクによる一党独裁路線へのほとんど全面的賛美である。

 

 宮本氏は「進歩の担い手」になることを求め、車軸をその方向に転回せよという。そして今、嘘までついて体裁を整える。これが彼のいう進歩の行く先だ。

 彼の主張に安易に従わなかった「同伴者作家」は、自分の判断を喜ぶべきだ。広津和郎氏は、「情熱が一定の方向に蓄積されることもなく」といわれ、「不安と動揺の繰り返し」といわれ、「安住の屯所はない」といわれようと、そのような生半可な批判を受け入れず、慎重に忍耐強く真偽を判別することによって、松川裁判に対する批判を展開し、世界の歴史に未曾有の勝利に貢献した。文学者として人間として、この両者のどちらが優れているかは明らかではないか。

 

 ちなみに、当時のプロレタリアート文学運動の作家と広津和郎氏との見識の相違を示す興味ある資料がある。宮本顕治氏の夫人百合子氏は一九五一年一月二一日に急逝した。同年五月に、彼女を追悼する『宮本百合子』という本が岩崎書店から刊行され、そのなかに広津和郎氏が「菊富士時代」という題で、本郷の菊富士ホテルに同じ時期に寄宿した思い出を次のように書いている。

 

 「時々食事の後で食堂で話し合った事があった。一度などは他の客が食事が済んでみんな立去ってしまった後、百合子さんから左翼の理論を聞かされた事があった。論理は明晰であり、表現は直接法で端的であり、そしてこっちが迂闊な事でも云はうものなら、容赦なくぴしぴし急所を突っ込んで来る。ちょいとタジタジとさせられる感じである。

 

 その頃私は左翼的な思想に相当の関心を持っていた。つまり、それがわれわれのヒューマニズムを刺激して来る点で、それの魅力を感じ、且つ多少の影響を受けたのである。併し実行的な政治運動になると、私は幾多の疑惑を感じていた。それはわれわれのヒューマニズムでは割切れないものであり、或場合にはわれわれのヒューマニズムを圧殺し兼ねないものであるようにさへ感じられたからである。当時はトハチェフスキーの粛清などという出来事もあった。そういふ事が当然是認されるべきであるといふ考え方(それを当然と明らかに云ったのは、或は百合子さんではなく、湯浅芳子さんであったかも知れない)が納得が行かなかったし、それは今日になっても尚納得が行かない。

 

 そんなこんなで、百合子さんの鋭鋒を右に避け左に避けしていると、百合子さんは最後に、『あなたは脈がないわね。どうぞ好い文芸評論をせいぜいお書き下さい』と云って立上り、笑ひながら階段を上って行ってしまった。食堂は一階から階段で下りるやうな位置にあったのである。

 その『あなたには脈がないわね』をその後もよく私は思い出した。」

 

 広津氏は百合子氏をけなす意味で書いたのではない。追悼号であればなおさら、彼女によかれと思って記したに相違ないが、今になれば、広津氏と百合子氏のどちらが政治を深く見ていたかは明かだ。もちろんこれは結果論だし、実践に参加した人と参加しなかった人とを同一視しているとの苦情もあるだろう。しかし文学者として、人間として、どちらに洞察力があるかは明かだ。プロレタリア文学運動のなかで知性と感性に秀でた百合子氏にしてこうである。

 

 歴史が証明する皮肉は、この追悼号にさらにみられる。尾崎ふさという女性が「百合子さん」という題で次のように書いている。

 「百合子さんが疲れた時の甘い一切のお菓子に歓声をあげおいしくでたお茶に『あゝおいしッ!』とまゆと眼をッーと離し口をとんがらかして吸う表情は、無邪気で可愛いい顔だった。年とった殊に女の人の顔に無邪気な表情を見つけるのは何によりもむづかしいことなのに、たくさんの波乱の多い人生を突き抜けて来た百合子さんの顔は世界一無邪気な顔だ。いつかガンヂーが暗殺された時百合子さんが、『ガンヂーとスターリンの笑い顔は実に実に無邪気な笑い顔だそうだよ』と言ったがガンヂーやスターリンの笑い顔を知らない私には世界一の無邪気な笑い顔は百合子さんの顔だ」

 

 これも百合子氏を讃えるための文だったが、スターリン批判が公になれば別の意味をもつ。前記『選集』(第一巻)の「あとがき」で宮本顕治氏は、一九三二年に発表した「政治と芸術・政治の優位性に関する問題」という一三〇ページを超える大論文の要約として、「政治の優位性ということの根本の内容は、…社会の先進部隊である労働者階級の前衛党がなし得る、客観的真理の能動的把握としての正しい展望と実践が、社会発展の中で先進的役割をもち得るということを意味するものである」と書いているが、スターリンの笑顔にだまされた百合子さんのエピソード一つが、顕治氏の長い論文の空疎を明かす。

 

 2、松川運動と日本共産党

 

 第二審公判中の一九五一年一一月、仙台で労農救援会の第六回全国大会が開かれ、無罪釈放署名の運動にかえて、正しい裁判を求めるという形式の署名運動にしたらどうかという意見がだされたが、「公正裁判要請」の署名は階級裁判の本質をぼかし、裁判は公正なものという幻想を助長するおそれがあるとして、この提案はとりあげられなかった。

 

 たしかに、資本主義社会が階級に分裂していること、裁判が支配階級をまもる手段の一つであることはマルクス主義のイロハだ。公正裁判の要請は、階級裁判の本質をごまかすという意見に一理ある。ところが現実には、福島県職の執行委員会や日教組東北ブロック会議などがこの時期、公正裁判要請の決議を行い、これはやがて全国の労働組合に波及した。この評価について小沢三千雄氏は『松川運動全史』に次のように書いている。

 

 「このように現実の運動は、公正裁判要請と無罪釈放の署名が並行してすすめられた。裁判の内容を十分に知らないから、無罪釈放の決議はむつかしいという労働組合でも、また、すこしでも裁判に関心なり疑問をもつ人びとにも、運動に参加してもらえば、運動のはばがひろがる、そのなかで無罪の内容を十分に訴えもし、知ってもらうことができる。……こうして、公正裁判か、無罪要求かの二者択一ではなく、また、対立するものでもなく、相補って運動が発展するものだということが、次第に理解されるようになった。」

 

 この経過は私にとって松川運動における最大の教訓であった。机上の空論では絶対に踏み込んではならない「公正裁判要請」の運動が、実際には広がって行くなかで被告たちの無実は明かになっていった。私たちは、先頃の言葉でいえば「マルクスにおける生けるものと死せるもの」の検討に、もっと早期に取り組むべきであった。今では、マルクス主義崩壊の予震をもっと敏感に感じるべきであった、といえるかもしれない。

 

 松川裁判勝利の感動は、一九五九年八月の仙台高裁差戻し、六一年八月の仙台高裁における無罪判決、六三年九月の最高裁における無罪確定があって、そのいずれかはっきりしないが、これで本当に終ったという気持が強かったし、秋の明るい日差しがあったから、六三年九月の最高裁における全員無罪確定の直後かもしれない。東京の共産党千代田地区委員会が、松川活動家の党員を集めた。

 

 招集者はそれまで平凡社の社員で、共産党の専従者に変ったばかりのペンネーム青山という人で、共産党専従者よりも出版社の社員の方がはるかに似合う大人しい繊細な人だった。数人集まったこの会議の内容が何であったか忘れたが、変な気がしたのは、松川闘争が勝利した直後のこの時期、これから取り組む革命は松川闘争よりも百倍も千倍も困難な仕事だと、これも松川活動家だった青山氏が述べたことだった。

 

 私は松川運動の経験を共産党は学ばなければならないと考えていたから、変なことを言うものだと思って聞いた。ところがこの二、三年来、ついでがあって名古屋に寄り、当時の松川活動家に次のことを聞いて驚いた。

 名古屋で当時ヒューマニズムを乗り越えよ、と共産党が盛んにいっていたという。その資料を見せてもらった。『あいち松川通信』(一九六一年一〇月二〇日付)に当時愛知県松川事件対策協議会の事務局長であった藤本功氏が「いくつかの問題について―総括の一視点―」を書いており、その中に次の一節がある。

 

 「いままでは『ヒューマニズム論者』にやむなく同調してきたが、これからの段階では絶対に階級闘争に移らなければならない―こういう主張があると同時に、愛知の運動は階級闘争としてやらないから弱いのだ―という声もあります。ところで、『(松川)守る会』の報告では『松川を階級闘争だと主張していた活動家が守る会の活動から去っており、ヒューマニズムを主張していた人がずっと地道な活動をつづけているという傾向がみられ』、松川の運動を一種の手段として見る活動(政党の活動の手段化、職場活動のテコ化)について『考えてみるべき課題』とされています。どちらがどうなのでしょうか。」

 

 発行が一九六一年一〇月ということは、仙台高裁差戻し審勝利の直後である。この頃から共産党はヒューマニズム批判を始めていたのだ。東京でも愛知でも、ということは全国的に。青山氏の発言はその活動の一環でしかなかった。私は三〇年後に始めてそのことを知り、大きく納得するところがあった。

 

 共産党の干渉は生半可なことでは済まなかった。仙台の差戻し審で全員無罪の判決がくだされた一九六一年八月から一年後の六二年七月に、日本国民救援会は第一七回総会を開いた。この総会に提案された運動方針は「労働運動、大衆運動の中で弾圧された犠牲者とその家族を……救援することを中心目的とする。……えん罪事件や人権じゅうりん等の問題は、日本国民救援会の運動としては中心的な任務ではないが、われわれの経験や教訓を生かして必要な援助を行う。」と弾圧事件とえん罪をはっきり区別していた。それまでそのような区別にほとんど関心なく活動していた参加者に、この方針は違和感を与え、愛知や東京の代議員から強い異論が出された。

 

 私は当時、東京・国鉄労働会館救援会支部の代議員としてこの総会に参加していたが、「無実の人が一人死刑にされれば、それだけ民主主義と人権は狭められる。中心目的から外された活動は、しないままでも済まされる。弾圧犠牲者かえん罪犠牲者かの区別をせず、事件の軽重緩急に応じて救援すべきだ」の旨を述べた記憶がある。この総会では異論が相次ぎ、方針は一部修正されたが、二年後の六四年六月における第一九回総会では、提案どおり弾圧事件と冤罪事件を区別する綱領が決められた。

 

 つづいて六四年一一月に開催された国民救援会・愛知県本部第八回総会では、「愛知県本部は、政治的なデッチ上げ事件である松川事件や白鳥事件と、いわゆる誤判事件ともいうべき冤罪事件『松山』『牟礼』事件を同一視して取組んでいるだけではありません」と、新しい綱領に基づいた強い批判が救援会中央本部から行われ、地元愛知の共産党系代議員がこれに同調し、この総会は混乱のあげく休会となった。

 

 休会総会は六六年三月に再開され、共産党系の四団体と個人二名の除名を確認した。被除名者はその直後、それまで公然と準備を進めていた別組織、愛知県本部「再建総会」を開催した。この実態の真意を最近に至るまで私は十分に理解していなかった。しかし、この二、三年来、愛知の経験と私のそれとをつき合わせてみたとき、これがヒューマニズムと階級闘争の相克、つまり松川運動の経験の総括をめぐっての対立であることを理解した。

 

 国民救援会・愛知県本部に対する共産党からの攻撃のすさまじさは並大抵ではなかった。『世界』一九六六年六月号に、新村猛氏による論文「人権と平和」が掲載されている。これは愛知県における同党からの攻撃を目の当たりにした新村氏が、直接の名指しを避けながら、自らの見解を述べたものである。文中の次の一節を読めばおおよその見当はつこう。「かつて松川事件対策協議会の有力な役員であり働き手であった最左翼の人びとが…人権連合に支持の方針を採らず、…なぜ、…支持しないのか、…くわしくは承知していないけれども、人権思想の理解、人権という概念の把握について聞き捨てにすることのできない、ゆゆしい挿話を伝え聞いたので、その挿話にはしなくもあらわれた考え方を……問題にしないわけにはゆかないのである。

 聞き捨てならない挿話というのは、上記の最左翼の人びとの誰かが、ふと、<人権などという思想は気に喰わぬ、それはブルジョワ思想なのだ>という言葉を或る大学人に洩した事実なのである。」

 

 人権連合というのは、松川闘争勝利の後に、愛知県松川対策協議会を改組して作った組織である。松川闘争を最もよく闘い、またその教訓を学ぼうとした国民救援会・愛知県本部がこの改組をリードした。

 

 新村氏の論文よりも一年前、一九六五年九月九日の「アカハタ』に、「弾圧犠牲者救援運動を破壊する反党修正主義者との闘争について」という題で、日本共産党愛知県委員会常任委員の田中邦雄氏が、はっきりと攻撃の狙いを示している。すなわち、

 「かれらの路線の特徴は、

 (1)、米日反動の人民にたいする弾圧からその犠牲者を救うという救援会の中心任務を、超階級的ブルジョア的『人権運動』にすりかえるところにあります。

 (2)、こうしてかれらは、ブルジョア的人権運動の立場から、……階級的政治的弾圧事件の救援を妨害させています。」

 

 田中邦雄氏は階級闘争をヒューマニズムの上におくことで、宮本顕治氏をよく代弁している。では、彼らが「ブルジョア的人権運動」を批判するとき、対極としてあるプロレタリア・ヒューマニズムとは何なのだろう。ベルリンの壁が崩壊した今ではすべてが明らかだ。プロレタリア・ヒューマニズムは自称社会主義国最大の欠陥の一つ、人権抑圧をかくす衝立に他ならなかった。オーウェルの名著『一九八四年』がよく自称社会主義国のこうした特徴をとらえている。

 

 日本共産党愛知県委員会は藤本功氏が事務局長をつとめる愛知県松川事件対策協議会あて書簡「『人権連合』討議資料についての意見」(一九六四年八月一二日付)のなかで次のようにも言う。

 

 「松川事件は単なるえん罪事件・人権侵害事件ではありません。権力が犯罪をおかし、或いはたすけ、或いはかくして、労働運動・民主運動とその組織の指導者・活動家を逮捕したこの事件は、労働運動と民主運動の破壊をねらったものでした。」「松川事件・松川裁判はそもそものはじめから政治的階級的な弾圧事件であり弾圧裁判でした。これが松川の真実の核心でした。」

 

 たしかに、小沢三千雄氏もその著書『勝利のための統一の心―松川運動から学ぶ―』というパンフ(自家本、一九七九年刊)の巻頭で「今年は松川事件から三〇年目にあたる。この事件は明かに捜査官憲が無実と知りつつ、悪意をもって仕組んだ政治的弾圧事件であった」と述べている。

 

 しかし、同時にこのパンフに次の一節がある。「無実の者が殺されようとしているとすれば、誰でも、どうにかしてそれを救う方法はなかろうかと考えるのが人の常であると思う。その考えからいろいろな行動が経験によって生まれてくると思う。これは、お互いに人間の心の中には、ヒューマニズムから発する怒りと悲しみ、助け合いの心があるからだと思う。これから行動がはじまるのだ。何も松川のことだけでなく、共産党員は広い意味の素直な理屈なしの救援運動から始め、それが慣性とならなければ、共産党は大衆のものにならないのではなかろうか。」

 このパンフは「松川運動は、日本人民の偉大な民主主義運動であった。」と本文を締めくくっている。

 

 松川事件が政治的弾圧事件であったのは事実だったが共産党にとって、その運動がなぜヒューマニズムの運動であり、民主主義運動であってはならないのか。事実、松川運動家たちは冤罪事件の関係者に対して、「一緒に闘ってください。松川が勝てば、次はあなた方の番です」と訴えてきた。人権と民主主義の立場に立てば、弾圧事件と冤罪事件の区別はほとんどない。階級闘争になるとその間に冷酷な区別が必要なのか。

 

 ちなみに、前期パンフ『勝利のための統一の心』を発行した小沢三千雄氏は、このパンフの配布などを理由に、共産党から除名された。夜郎国に住む小竜の逆鱗に触れたのだ。このパンフの「あとがき」は、共産党の統一原則である対等・平等を次のように批判している。

 「松川運動では『守る会』は中核部隊であり、前衛部隊であったが、陣営の中で自らの『対等・平等』や地位を主張せず、常に『縁の下の力もち』をひきうけていた。なぜなれば、それは陣営を拡大し強固にし進軍するうえに必要だったからだ。

 『対等・平等』などあえて主張せず、つねに『縁の下の力もち』になってはたらき、家の中をまとめている嫁を、私の田舎では、みんなが、『あの嫁はかしこい嫁だ』とよんでいる。(中略)

 

 敵にうちかつため、あらゆる力を結集せねばならぬ。そのためには『核』となる『集団』は『縁の下の力もち』とならねばならぬ。そして、たたかいの中で人民は誰が最も信頼できる指導者であるかを判断することであろう。」

 これを私は日本語で書かれた最も美しい文章の一つであると思う。ことある度に何度「かしこい嫁」のあり方をわが胸に問うただろう。日本の「かしこい嫁」に見習うべきことを何度心のうちに誓っただろう。

 

 小沢氏には他にも美しい文章がある。最高裁で披告全員の無罪が確定した日のことを、小沢氏は次のように『松川運動全史』に書いている。

 「こうして、一九六三年(昭三八)九月一二日、勝利の日は暮れて行ったが、この勝利の日をみることなく、たたかいの中で、たおれていった多くの人びとがいたことを忘れることはできない。その中には、病める者も、賢い人も、貧しい人も、富める人も、勇気ある人も、臆病な者もいた。しかしこの人びとは、みな善意をつくし、いきどおり、悲しみ、たたかいでたおれていった人たちである。この人びとは正義と人道と真実を求める日本人民の宝であった。松川のたたかいはこれらの人びとをはじめとして、国内外の多くの人びとの思想、信条をこえた統一と団結に支えられ、ついに勝利をかちとったのであった。」

 

 日本人民は、国際的な支援も受けつつ、「正義と人道と真実」を求めて闘った。それも共産党にとっては動揺常ないブルジョア思想に過ぎないのだろうか。ユーゴ映画で、故チトー大統領のネレトバの闘いを描いたものがある。邦題は『風雪の太陽』だったか。左手を包帯で巻いたチトーがナチスの包囲を突破したパルチザン部隊の先頭を歩いているとき、畑の農夫が彼に祝意をささげる。感動の場面だ。

 

 それに似た情景を小沢氏は『松川運動全史』に描写している。一九五八年一〇月、最高裁公判の勝利をめざして行われた仙台―東京間四四三キロの大行進についてだ。

 「いままで運動のあまりおよばなかった農村の人びとにも事件への関心を呼びおこし、かつ、激励をうけた。田畑の中で鍬を捨てて行進団めがけて走り寄ってきて頑張ってくださいと手をしっかりにぎりしめ、部落のビラ配布を心よくひきうけてくれる人、手を合わせておがみながら、涙だらけで『しっかりやってきなさい』といって送ってくれる老婆! 野良で仕事中の農民が、腰をのばして手をふって送ってくれる、など、沿道における数かぎりない激励が全コース踏破の代表団を支え、雨にぬれ風にうたれ、足にマメをつくりながら、一人の落伍者もなく一一月五日、東京にはいった。」

 

 これらの老婆、これらの農夫は無実を明らかにするために闘っている人々に人間として共感した。それらの人々の心を合わせることによって、死刑を宣告された被告たちは絞首台から救われた。かつてはサッコ・ヴァンセッチ、大逆事件、近くは松川第二審公判中の五三年六月に処刑されたローゼンバーク夫妻、権力によって死刑を宣告され、生きて帰ったものはそれまで先ずなかった。

 

 喉元過ぎれば熱さを忘れる。死刑台から被告が救い出され始めた途端に、ヒューマニズムを軽蔑し、階級闘争をもちだす共産党に運動の評価を語る資格があるだろうか。

 

 

 3、宮本百合子と宮本顕治

 

 宮本百合子氏は一九五一年一月二一日午前一時五五分に急死した。臨終の場に宮本顕治氏がいなかったことは確かだ。これには証言がある。一九二一年からの共産党員で、かつて党中央選挙対策の責任者を務めていた岩田英一氏(90歳)は私に昨年七月、こう語った。

 

 「宮本百合子さんが死んだ日は、いつも本部へ朝九時には出勤していたので、この日も同時刻に出勤してすぐにそのことを聞いた。

 細川嘉六が一〇時ころ出勤してきたので、彼と相談して弔問に行くことにした。指導部から、『分派に対してそんなことをする必要はない』という抗議がきたが、『何をいうんだ、ついこの間までの同志じゃないか』といい返して、代々木を出て、途中で花を買い、お午までに文京区駒込林町の宮本宅へ着いた。

 

 そこには、蔵原惟人、神山茂夫、亀山幸三などがいた。宮本顕治の姿はなく、『また例のところに行っているんだろう』と、この三人が話し合っていた。例のところというのは、宮本と関係のある女のところという意味だった。それ以上に聞きだす興味は私にはなく、しばらくして、宮本宅を辞したが、その間に宮本は帰ってこなかった。

 私と細川が帰ったあと、宮本顕治が帰宅したことを、後に党本部で亀山幸三から聞いた。」

 

 これについては他にも証言がある。愛知人権連合事務局長の藤本功氏(78歳)は、昨年九月、私にこう語った。

 「百合子さんが死んだとき、その場に宮本顕治がいなかったことは誰でも知っている。死んだあと、大森寿恵子の家から駆けつけてきたのだ。百合子の近辺にいる文学者たち、中野重治、佐多稲子など皆このことを知っているんじゃないか。誰から聞いたというんではなく、何となく耳に入っている。」

 

 百合子氏の死んだ一月二一日の正午まえ、東京山手線の目黒駅で顕治氏のいとこの宮本多賀子氏にばったり出会った人がいる。多賀子氏は不在の顕治氏を探して、目黒にある統一委員会のアジトに行く途中ということだった。この人はその正午過ぎにラジオで百合子氏の死亡を聞き驚いてすぐに宮本宅に弔問に行ったと言っているから、日付に間違いはない。

 

 顕治氏は一月二〇日の夜から二一日の朝にかけて、どこに居たのか。岩田英一氏はこう述べている。「例のところというのは、百合子さんの秘書の大森寿恵子さんのところという意味だった。そのことについては当時の私の周辺では噂になっていたし、百合子さん自身から直接聞いてもいた。」

 

 『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、一九八三年刊)を見ると、この一月一九、二〇日は空白、二一日は「百合子突然の死去。」とだけある。この前後には、「全国統一委員会」活動が逐一記されているから、もしその仕事で目黒の事務所にその夜を過していれば、記録されているはずだ。行く先が書けないとすれば、大森寿恵子氏のところにいた確率は極めて高い。

 

 『宮本顕治文芸評論選集』(第二巻)に「百合子追想」がある。これは百合子氏死去の一〇日後に発表され、次のように始まっている。

 「百合子が死んだ翌日、一月二二日の午後、私は伝染病研究所の片隅の病理解剖教室の入り口の前の石ころまじりの雑草のあき地をぶらつきながら『自然の不意打ち』について思いめぐらしていた。百合子は生前から、死んだら解剖してほしいといっていたし、ことに私も今度の急病死についてもっとはっきり科学的にたしかめたい思いで…解剖の終わるのを待つことにしていた。…午後四時ごろ…三時間にわたる解剖の報告を、ぬいあわされた遺骸を前にして聞いた。…この病気に似た症状は、外国の報告例では『脳脊髄膜炎菌』が血液にはいって最急性の敗血症状をおこし、副腎を襲うものとされているそうだった。そして、副腎が出血したら、もう現代の医学では救いようがないことも説明された。

 

 …閉じた瞳と語らぬ唇、内出血を語る紫のまじる光沢を失った頬の色―数十時間前まで、あの活力にみちた精神を宿していた肉体の急激な死への変貌に、私は人びとを前にしてなお、涙のあふれるのを禁じることができなかった」。一九ページにわたるこの追想のなかで、二〇日の病状急変から死亡までの記述はわずかに三行半、そこに「午後一時ごろ呼吸がとまる」とある以外に臨終の描写はない。前記『半世紀譜』には五〇年三月一一日に「百合子宛に帰京を知らせる電報を打つ。」、同年五月七日には「上島田から百合子宛にハガキを送る。」とまで書かれているのに、なぜ臨終の席にいたか、いなかったか、どこにいたかを書けないのか。明らかになにかを隠している。

 

 岩田英一氏は昨年六月、私に次のように述べた。

 「それは、一九五〇年一月のコミンフォルムによる日本共産党批判の後、同年六月のマッカーサーによる共産党中央委員全員に対する公職追放の前だと思うので、たしか同年四、五月ごろだったのではないか、共産党本部での立ち話だった。

 当時、私は党本部内で選挙闘争関係の仕事をしており、宮本百合子はまだたしか党の婦人部長をしていて、党本部内で顔を合わせる機会はおおかった。

 

 そのとき、宮本百合子は私にこういう趣旨のことを言った。

 『顕治さんは困ったものです。うちの秘書とできているみたいです。未決拘留の一〇年間は毎月のように面会に行き、食べ物や本の差し入れをし、汚れた衣類の交換をして尽くしてきたのに、それがこのように冷たくされるとは予想もしなかった』。涙を目に溜め、溢れんばかりだった。

 

 私は同情して、『百合子さんも大変だなあ。今になってそういう仕打ちをするのはひどい。しかし、あんたの方が一〇歳も年上だから無理もないなあ。生理的にいっても難しいんじゃないの』と意見をいい、『考えた方がいいですよ』と暗に離婚も考慮のうちに入ることを示唆した。

 

 そのとき彼女は私に、『岩田さんはこの本部の敷地建物全部を無償で寄付したんでしょう。えらいわ。私も全集の著作権を党本部に寄付するつもりです』とも言っていた。」

 

 これと同趣旨のことを藤本功氏も昨年九月、私に語った。

 「百合子さんが亡くなる直前、神山茂夫氏が訪ねたとき、彼女は髪の毛を振り乱し、むしった髪の毛がテーブルの上に落ちていた。怒って気が動転していた。それは顕治氏と意見が合わぬことのようだった。私は神山氏に多くは聞かなかったが、女の問題だけでなく、政治方針にも反対だったのではないだろうか。これは百合子さんが死んだ後、神山茂夫氏と東京のどこかで会ったとき聞いた。神山氏は百合子さんと親しく、人間に思いやりがあったから、ちょいちょい彼女を家に訪ねたらしい。」

 

 百合子氏の佳品『風知草』には、抑制された筆致で顕治氏との対立が反映されている。あらためてこの小説を読み直して、亀裂の拡大を予感しない読者はいないだろう。

 

 前記『選集』(第二巻)に「共産主義とモラル」(一九四七年発表)がある。ここで宮本顕治氏は映画「シベリア物語」をあげ、「こうゆう作品がスターリン賞をうけ、国際コンクールで一等になっているのです。そこで出てくる恋愛のモラルは、三角関係とか姦通を当然とは考えていない。ブルジョワ社会では古典的なともいえる貞節の感情。これは恋愛にあらわれるソビエト社会の一つの相であります。ソビエトの人がすべてこういう健康な恋愛をしているのだとはいえませんが、しかし、そういうものが基調的に肯定されて、それが一つの美しい物語として展開されるのであります。」と書いている。

 

 厳しい批評家である宮本氏の推賞するものが「シベリア物語」では底が割れるが、宮本氏はその後で次のようにも書いている。

 「ソビエトで、コロンタイの恋愛論が一時問題になりました。それによると、たとえばここに夫婦がいる、夫は任務を帯びて、一人でひじょうに遠い地方で働いている、もしその場合、性的衝動があれば抑制する必要はない、ということをいうわけです。これはやはり、そうではなくて、夫婦が互いに自分の相手に対して貞潔を守りあう感情で貫くべきです。そういう問題に対しては、自分は動物ではなく、人間社会におけるいろいろな基準のなかで生きているという立場から、そういった衝動的な感情を抑制する必要があります。

 

 「生理的」な問題もあり、綺麗ごとだけで済まぬこともあるだろうが、宮本氏がこう書いている以上、百合子氏臨終の夜、宮本氏がどこにいたか明らかにすべきだろう。大森寿恵子氏のところにいたかどうかはまだ確認されていないが、その確率は非常に高い。宮本氏は小畑達夫氏殺害の場合のように、意味の分からない弁解をしてはならないだろう。

 

 ちなみに、今宮本顕治氏夫人になっている大森寿恵子氏の人柄を物語るエピソードがある。寿恵子氏は党員の娘ということで、戦後、百合子氏の秘書になったが、百合子氏は非常に嫌っていたという。顕治氏が公職を追放され、非公然活動に入らねばならぬ頃、「もし何かのことで捕まって、警察に連れていかれて、顕治さんに引会わされたとき、あなたは最後までこの人を知らないといいなさいよ」、百合子氏がまさかの折りに備えて教えたところ、寿恵子氏は「おほゝ」と笑い、「まあ、そんな馬鹿なこと」と答えたという。

 

 フランスでは政治家の私生活は問われないそうだ。しかし、身近な人の臨終は大きな衝撃であり、何年経ってもそのときの様子は忘れられない。その様子がなぜ一言も語れないのか。文学者として人間としてそれは問われるだろう。

 

 宮本顕治氏は「百合子追想」の最後に「何が彼女をこの世から奪い去った根底的条件をなしているかを考えざるをえなかった。」と問い、「この刑務所に象徴された日本の野蛮な軍国主義と専制主義が百合子の死を早めた。」と書いている。彼は「石ころまじりの雑草のあき地をぶらつきながら」、あれほど世話になった人の臨終に立合えなかったことについて何も考えなかったのか。おそらくさまざまに考えたろう。しかし、それを何も書かなかった。そして「軍国主義と専制主義」でごまかしている。これがプロレタリア・ヒューマニズムの実例だ。

 

 

 むすび

 

 宮本顕治氏は一九九二年の赤旗まつりで「仲間の人が困っているときにこそ世話するのが、人間を大切にする第一歩であり、同志愛のある党生活であります。プロレタリア・ヒューマニズムが大事だといわれているのもそのことです。」とあいさつしている。

 

 以上述べてきた数々の宮本顕治氏の言動はヒューマニズムでは許されない。しかし、プロレタリア・ヒューマニズムでは許される。党の権威を守るため、党幹部を擁護する口実で平然と虚偽、ごまかし、人権無視が可能だ。九二年になってなお宮本氏がこの言葉をつかうゆえんである。その栄光を守るためにドレヒュス大尉に罪を負わせたフランス陸軍と選ぶところがあろうか。

 

 以上見てきたように、宮本顕治氏の文学には誠意がなく、内容がない。これは不実の文学といえる。文学の大地であるヒューマニズムに歯向かうことで、その野蛮な情熱は、意図において不毛、結果において自滅した。この敗北した文学の土壌のうえに犠牲者の恥はそそがれるだろう。

 

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 (関連ファイル)

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