警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備
謎とき・大須事件と裁判の表裏 第2部2・資料編
(宮地作成)
〔目次〕
1、共産党にたいする警察・検察のでっち上げ謀略事件例 (別ファイル)
2、大須事件の2面的性質とそれぞれの位置づけ
3、大須事件における警察・検察の騒乱罪でっち上げの計画と準備
4、〔資料1〕名古屋地検・名古屋市警による騒乱罪合同研究会の内容
5、〔資料2〕挑発物=警察放送車、挑発者=清水栄警視、スパイ鵜飼照光の事前配備
6、〔資料3〕名古屋地方裁判所長の予断と偏見―騒擾罪でっち上げ警察への事前激励
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(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」
4、〔資料1〕名古屋地方検察庁・名古屋市警察による騒擾罪合同研究会の内容
〔小目次〕
1、日時・場所、出席者総勢九五名 8月4日 (『真実・写真』P.12)
2、安井検事正挨拶(要旨) (抜粋)
3、宮崎本部長挨拶(要旨) (抜粋)
4、羽中田次席検事挨拶(要旨) (抜粋)
(宮地コメント)
1、会議月日と検察・警察合同研究会という全国初会議の性質
8月4日という月日は大須事件裁判のどういう段階だったのか。事件22日後の7月29日名古屋地検は、第一次45人を騒擾罪等で起訴した。大須事件第1回公判は、9月16日だった。起訴直後で、公判前に検察・警察の完全一体化をさらに強化する目的で開かれた異様な会議だった。
しかも、検察・警察による合同研究会の性質は、安井検事正が繰り返し強調しているように、「全国最初の試み」だった。当然、このような「日本で初めて」の研究会は、検察庁・警察庁トップからの指令・許可がなければ開催できない。メーデー事件・吹田事件に続く、三度目の騒擾罪裁判にたいし、検察庁・警察庁は意気込みをエスカレートさせ、前2事件の不手際・ミスを絶対繰り返さないよう、裁判に向けて、万全の体制を敷いた。
2、安井検事正・宮崎本部長・羽中田次席検事ら3名の挨拶内容の性質
3人ともが、大須事件で「日本一の効果を挙げ得た」ので、有頂天になっている。しかも、公判で被告・弁護団から追求される前なので、剥き出しの本音を吐いている。3人は、いずれも、「検察・警察の和」=違法な事前癒着の実態を告白した。法律では、(1)警察の「独立捜査権」と、(2)検察の「一般指揮権」とを区別し、相互にその権限を侵さないことを定めている。
ところが、安井検事正は「法律がどう言う形にあろうとも」とのべ、その違法性を自認した。
宮崎本部長も、「独立捜査権がどうだの一般指揮権がどうだのこうだのと云う様な理屈」と警察自らが法律を無視した。さらに、検事2人が中署に事前にいた事実を告白した。
羽中田次席検事は、「当時私は検事正の命を受けまして、中署に参って居て割に早い機会に騒擾罪の判断を下した」と検事正命令の存在を自白した。しかも、彼は、大須事件前に、「検事長、検事正両上司とも騒擾罪の経験が御座いまして、前以て色んな場合を想定して、こういう云う場合にはこうだと云う御指示」を受けて、騒擾罪でっち上げの事前計画と準備が出来あがっていたことを告白した。
総勢95人の名古屋地検・名古屋市警幹部は、安井検事正の「大須の騒擾事件を名実共に日本一の事件に仕立で上げたい」との決意と激励を聞き、さらに、3人が検察・警察の違法行為を正当化した発言により、勇気百倍になった。そして、騒擾罪でっち上げという検察・警察が自ら遂行する違法謀略行動に確信を抱き、武装闘争共産党壊滅の情熱を奮い立たせた。
これら違法・異様な会議と3人の挨拶内容は、警察・検察による騒擾罪でっち上げの国家権力犯罪を完全証明する証拠である。それにもかかわらず、名古屋地裁第一審判決、名古屋高裁第二審判決、最高裁の口頭弁論なしの上告却下決定は、いずれも、この検察庁・警察庁の騒擾罪でっち上げ謀略の計画と準備内容にたいして、恣意的に目をつぶっている。
司法は三権分立の一環である。そして、司法内部には、警察、検察、裁判所という3機関が存在し、相互不可侵の権限が定められている。しかし、裁判所が、警察・検察による騒擾罪でっち上げの計画と準備の実態から目を背けたとき、大須事件裁判は、警察・検察・裁判所という司法3機関が共謀する国家権力犯罪という性質を帯びた。
1、日時・場所、出席者(氏名一部省略)
「とき 八月四日、自午前八時三十分〜至午前十時三十分
ところ 名古屋地方検察庁会議室 出席者総勢九五名
検察庁側
検事正安井栄三、次席検事羽中田金一、公安部長検事寺尾撲栄、公安主任検事中嶋友司、検事十二名、副検事十一名、他、計四十名
警察側
本部長宮崎四郎、刑事部長、公安課長、警備課長、捜査課長、鑑識課長、他、計五二名
傍聴者
国警愛知県本部捜査第二課長、他捜査課刑事課員三名」
2、安井検事正挨拶(要旨) (抜粋)
この事件の研究会を灼熱焼くが如き時に開催致しました動機は、七・七騒擾事件の直後偶々宮崎本部長から適当の時期に是非騒擾罪の反省研究会を持ちたいと言う熱心な御申込みがありまして、それで急拠計画致したのでありますが、恐らく全国最初の試みであろうと思います。
私は明日の汽車で検察長官会同に参列の為に上京致しますが、全国の検事長、検事正の前で私はこの研究会の次第を話して、験和の原則(体験と和の原則)と言いますが、血の滲み出る様な体験と検察警察の和と言うものがなければ、今後の日本の治安は維持できないと言う事を大きな声で申上げて来るつもりで居ります。
法律がどう言う形にあろうとも、又他府県に於てどう言う形をとろうとも、少なくとも愛知県名地検に於ては予てから警察と検察庁が緊密に結ばれて居り、それであったからこそ七・七事件に於て日本一の効果をば挙げ得たと申し上げる事が出来ると思います。然しそれはまだまだ実を結んで居らんのであります。今後約二十日の最後の追込み戦によって愈々この大須の騒擾事件を名実共に日本一の事件に仕立で上げたい。
こう云った多勢の研究会を持ちますことは繰返して申上げますが日本で初めての試みであると同時に、又それが単に学究的研究会でなく、今日の又明日の朝から、今日の中嶋検事の話が血となり肉となる事を私は堅く信じまして、体験と検警一体の原則の具現化をばお互に手を取り合って図り度いと思うのであります。
3、宮崎本部長挨拶(要旨) (抜粋)
只今安井検事正から御紹介がありました様に七・七事件がうまく参りましたが、これは愛知県下の警察、検察庁の間柄が非常に密接にいって居ると云う事が一つの重要な原因であると思うのであります。
過日、大阪管区の十二府県の自治体警察長の会議が和歌山で行われました。その際に大阪の管区本部長の中川さんが大阪の吹田事件についてどう云う点を考え落していたか、どう云う点がまづかったかと云う様な点の極めて詳細な御報告があったのであります。私も後で一寸時間があったので、大須事件について話す様にと云うので、大須事件について初頭に極めてうまく之を処理することが出来たこと、爾後騒擾罪の適用が非常に早かったので犯人も比較的多く手に入れることが出来たと簡単に報告したのでありますが、その時、検察庁の検事公安部長、次席検事が現場に出て居られて、生のニュースをパトロールカーから聞き乍ら事態の研究をされ、即座に騒擾罪の法条を適用されることを決定されたのだと云うことを話しましたところ、各県の警察長さん方は異口同音にどうして検察庁はそんなに早く現場に出て来てくれるんだろうかと云うことを疑問に思って居られた様であります。
検察庁と警察との関係や協力等について、余り字句の末に拘泥して独立捜査権がどうだの一般指揮権がどうだのこうだのと云う様な理屈を論議すると云うことは本当は治安維持を根本から紊すことになるのではないかと心配するのであります。
検察庁としても夜に日を継いで御調をしで居られる処でありますのに、私が申出ました為に検事正も之を受けられまして、即刻早くやろう、第一回の起訴が済んだら直ぐにやろうという様な事でした。
4、羽中田次席検事挨拶(要旨) (抜粋)
八月一日に検事総長に比の大須事件の第一次起訴の報告を致して参りました。非常に御賞めに与りまして身に余る光栄と存じ、請君と共に欣びに堪えない次第で御座います。
当時私は検事正の命を受けまして、中署に参って居て割に早い機会に騒擾罪の判断を下した次第でありますが、実は楽屋裏を打ち明けてみますと、之は私はスポークスマンに過ぎなかったのでありました。幸にして検事長、検事正両上司とも騒擾罪の経験が御座いまして、前以て色んな場合を想定して、こういう云う場合にはこうだと云う御指示が御座居まして、それによって幸い適切な判断がし得た事と考えて居ります。
検事総長に事の次第を具さに報告致しました処、誠に適切である騒擾罪の適用の早かった事は非常に宜しい、又こう云う事態は当然騒擾罪として早く認定すべき事態であると云った様な御言葉を頂戴致した次第であります。比の捜査が兎にも角にも御褒めに与りました所以のものは、要するところが警察と検察庁が全く緊密な一体となって居ったと云う以外に何も言葉が無いのでありまして、検挙前に於て極めて緊密な連絡があったと云う事、又検挙後に於ける取調に於ても本当に打って一丸となって検事も苦労する、又警察の諸君も比の炎熱下で苦労した結果非常に歩の廻りのいい起訴と相成ったのであります。
この後で、中嶋検事の集団犯罪事件の捜査に対する具体的、且つ詳細な話があった。
5、〔資料2〕挑発物=警察放送車と、挑発者2人=清水栄警視、警察スパイ鵜飼照光の事前配備
〔小目次〕
1、挑発物=警察放送車・警告隊13名=火炎ビン被投擲のおとり
これら挑発者・挑発物という3つを、名古屋市警が周到に事前配備したことは、先行する騒擾罪でっち上げ2事件にない、第3の騒擾事件の異様な特徴である。〔資料2〕データを検討する上で、再度、メーデー事件・吹田事件と対比した第2部の(表5)を確認する。
(表5) 愛知県4事件における先制挑発と謀略手口
月日 |
事件 |
内部挑発者 |
警察挑発者 |
警察挑発物 |
検察の起訴 |
5・1 |
メーデー事件 |
なし |
なし |
なし |
騒擾罪 |
6・25 |
吹田事件 |
なし |
なし |
(警察輸送車) |
騒擾罪 |
5・7 |
愛大事件 |
教授・課長・講師3人 |
制服警官2人 |
講師のピストル |
公務執行妨害罪 |
5・30 |
金山橋事件 |
/ |
熱田署刑事 |
/ |
公務執行妨害罪 |
7・6 |
広小路事件 |
/ |
(5階の刑事) |
ビル5階窓枠 |
公務執行妨害罪 |
7・7 |
大須事件 |
スパイ鵜飼昭光 |
清水栄警視 |
警察放送車 |
騒擾罪 |
警察放送車に関して、公判で判明した事実は、次である。(1)、デモ隊が大須球場を出ると同時に、警告隊の一人が、清水栄警視・警告隊隊長命令により、春日神社の早川大隊380人に、デモ隊出発を知らせに走った。そして、放送車発火前に5分以内で走り帰った。(2)、警察放送車が挑発予定場所=上前津交叉点に至る中間地点の大須球場から250m地点で停車した。(3)、挑発者清水栄警視が命令し、彼を含め2名以外を下車させた。(4)、放送車に残ったのは、中村署巡査野田衛一郎だった。(5)、消火用濡れむしろ事前積載しており、野田巡査が濡れむしろで消火した。これらの事実に関して、警察・検察のさまざまな偽証があるが、それについては第3、4部で検討する。
1、挑発物=警察放送車・警告隊13名=火炎ビン被投擲のおとり
挑発予定場所で停車・2名以外下車・消火用濡れむしろ事前積載
1、名古屋市警による事前の火炎ビン製造・投擲・消火・薬品の訓練証言 被告・弁護団の控訴趣意書 (P.284)
名古屋市内の警察署に於て、火焔瓶を作成して実験した点について、例えば証人嶋田信彦は次のように証言している。
証人嶋田信彦 公調(公判調書)206号
42、そこで火焔瓶というようをものが投げられるかもしれないというような話はありませんでしたか。
ありました。
44、あなたはその火焔瓶なんて言う話をきいたとして、火焔瓶というものはどういうものだかということは知っておりましたか。
概略的なことは知っていました。
45、それはどうして、あなたにわかったんですか。
以前に空地だつたか、外の空地だつたか知らんがそこで火焔瓶の実験をしたことがあります。それで大体火焔瓶というものはこんなものであるという予備知識を受けたことはあります。
46、そうすると東署で署員に対して、火焔瓶というものはこういうものだということを知らせ教養づけるために火焔瓶を投げて火を出すというようなことを実験したようなことがあるわけですか。
ええ、あります。
47、あなたもそれに立ち合ってみたわけですか。
ええ、みました。
51、それはいくたりぐらいの人を集めてやったんですか。
まあ何回かくり返されたと思いますが、僕のみておったときは四、五十名ぐらいだつたと思いますが。
55、当時すでにあなた方に火焔瓶による被害に対する対策として何らかの薬品が渡されておるということはありませんでしたか。
ええ、ありました。
56、それはいつどんなものが渡されたんですか。
それはその大須の前だと思いましたが、個人に渡ったか、派出所単位に渡ったかそれは記憶ないですが、白い粉でもし火焔瓶が遠くで割れた場合は煙でぱっとなるだけですが、きわであったとか硫酸がはいっておる関係でそういうものが、顔や衣類についた場合にそれを洗浄する薬ですが、洗いとるかぬぐいとるというような薬だったと思います。
220、それから、火焔瓶の実験ですが、大須事件の前どのくらいのことでしようか。
日にち的には記憶ないですね。大体前であるということは、、、、、。
224、どういうことで証人自身は実験を御覧になるようになったんでしょうか。
こういう実験をやるから集まれというから集まったわけです。
225、そいつは勤務時間中にでも本署へ行ったんですか。
勤務中に行ったわけです。集合を命ぜられて。
226、教養訓練という、、、、、。
ええ、教養訓練です。科目でいいますと。
2、被告・弁護団の控訴趣意書 (P.288)
六、更に放送車の当夜の状況についても、(1)放送車の中にぬれむしろが用意されていた事実、(2)火焔瓶投擲前に大部分の警察官が下車している事実、(3)投擲された火焔瓶をぬれむしろで、またたく間に消している事実等があり、これらはいずれも放送車発火が警察によって事前に予定されていたことを明瞭に示してぃる。
(イ)、放送車発火前に殆んど大部分の警察官が下車している点の証拠
原判決の認定では、放送車に当初搭乗していた警察官は十四名であり、放送車発火時放送車に乗っていた警察官は四名であるが(第一章、第四款第三)。デモ隊員が目撃した数は原判決の認定よりやや少ない。
(1)公調(公判調書)211号 証人村上久治
84、中で警察官が二人で消しておったというわけですか。
そうです。
85、二人だけですか。
他に乗務員というのは車の中では二人きりだったと思います。
他3人の証言 (省略)
(ロ)、放送車の中ではぬれむしろでまたたく間に消した点の証拠
6人の証言 (省略)
3、当時中村署巡査野田衛一郎の『回想』 (警察庁警備局『回想』1967年出版、P.201)
警察放送車搭乗警官―むしろ事前積載の証拠とそれによる消火の証言・事件15年後証拠
ふと、車の片隅にある古むしろを思い出し、これで手当り次第、火炎びんを叩き付けた。さすが勢いの強かった火炎びんも下火となり、ガソリンタンクに引火することもなく広報車を火災から守りぬくことができた。待機中に何気なく積み込んだ古むしろが、暴徒から広報車を守り、警察の威信を傷つけることなくすんだ。私には、古むしろが『守り本尊』のように思えてならない。
▲現場写真(10) 手前の大きく写っている警官で、左手に六尺棒をもって
いるのが運転手であった横井巡査。向う側が野田巡査。放送車内で消火
し完全に消し終えてから下車したと、法廷で証言している。デモ隊は進行中
である。路上には一発の火炎ビンも炎上していない。(『真実・写真』P.25)
2、挑発の現場指揮官=清水栄警視=放送車警告隊の隊長
火炎ビン被投擲と同時の拳銃5発発射=警官隊一斉襲撃の合図者
1、被告・弁護団『控訴趣意書』(P.437〜440) (抜粋)
当夜の警官隊の配置は、原判決の認定のとおり、
1、早川大隊 三百六、七十名 春日神社 四ケ中隊と警告隊、中隊長四名は警部
警告隊 隊長清水栄警視(大隊副官を兼ねる)、十三名にて放送車に搭乗
2、村井大隊 二百五十〜八十名 中署
3、富成大隊 二百名 伏見通
4、青柳大隊 四十数名 アメリカ村(但し衝突後に出動)
就中、早川大隊、村井大隊、富成大隊は、直接、現場に出動し、武力を使いて、デモ隊を制圧する部隊として編成されたものである。
これを見て判ることは、上前津交叉点北西の春日神社に配置された早川大隊は、他の大隊に比べ格段に大きい、四ケ中隊で副官をつけ、放送車(警告隊)を配備しているのはこの早川大隊だけであった。この早川大隊の任務は、球場を出発し上前津に向って進行して来るデモ隊を上前津交叉点までにて解散させることにあった。
(証人、早川清春公調二六二、二六三号)
大隊副官清水警視の乗込んだ放送車は、岩井通り路上の大須交叉点東約三〇米の地点で、東に向けて停車して、デモ隊の進行して来るのを待ち受け約三九〇名の四ケ中隊の武装警官隊は春日神社にてデモ隊を待ちち構えていたので、デモ隊を右地点で待ち受けていた放送車はデモ隊が到来すればデモ隊先頭と共に、上前津に進み、上前津に近づくや、四ケ中隊の武装部隊が出動しデモ隊を制圧する。このように手筈が整えられていたものである。
この点につき、宮崎市警本部長は次のように述べている。(公調271号 66項 67頂 72項 75項)
問 そうしますと、大須球場から無届デモがずっと出てくると、まず最初に早川大隊の清水警視を長とする警告隊が.最初に警告をするということになっておったのですか。
答 そうです、それも自動車でゆっくり走りながら、あそこのところを二回位は往復しながら呼びかけようと。それでも聞かないいならばもう出さねばならんと、部隊をですね、こう思っておったんです。
問 そういうところまであなた方の方で会議の時に任務が与えられたのでしようか。
答 問題は警備というよりも、その警告隊を出して、そこで大体解散してやめてもらおうというつもりで清水隊というものに任務を与えたんです。従って清水隊にこういうふうにしてもらおうということは、私が一番重くみて力をそそいだのです。これは早川大隊に入っておるんです。
問 そのようにして、特に市警本部に勤務しておった清水栄警視にそういうことをする隊長にしたということについては、証人は特に人選もなさったでしょうか。
答 そうです、あの人は非常にしっかりしていると思いましたので、あれがよかろうということで、あいうふうにしたんです。それで私は清水君にしようということになったんです。
このように重要視され、本部長みずから人選した清水警視の放送車は、なぜ早川大隊にだけ配備されたか、なぜ早川大隊だけが四ケ中隊の編成とされたか、なぜ放送車はデモ隊が大須交叉点にさしかゝらないうちに、同交叉点の東約三〇米のところで車首を東に向けて待ち受けていたか。
2、『真実・写真』―消えた警官 (P.60) (抜粋)
被告とされた人たちは、「被告団」のタスキをかけて全国をあるいた。ホシ(被告)を上げた警官は、姿をくらました。被告団は、失踪した清水栄の行方を追いつづけた。残念ながら今もわからない。いわば「ホシ」が「デカ」を追うという、捕物ドラマの逆をゆく現象が大須事件ではおこっている。
その経歴は
清水栄は、一九四八年(昭二三)警部に昇進、一九五二年 (昭二七)名古屋市警本部の防犯少年課長になる。このときの階級は警視である。
この地位にあったまま、一九五三年(昭二八)一月一二日、四三才で退職している。大須事件後わずかに六ケ月しかたっていない。その後の経歴で分っているところは、退職後、愛知県公安委員長だった渡辺春彦の経営する渡玉毛織(株)に就職、最初の証言台に立った一九五五年(昭三〇)五月三一日当時は同社の庶務課長だった。その後、一九六二年(昭三七)に小牧自動車学校に校長として迎えられたが翌一九六三年九月に退職し、さらに庄内自動車学校に職を得ている。そして一九六四年(昭三九)一一月一四日、突然家出し、以来その行方はわからない。
この間、清水栄は一九五七年(昭三二)三月二三日まで六回にわたって法廷で証言している。
証言の内容
清水栄の証言は、すでにのべてきた「大須事件の作り変え」に決定的な役割を果した。その証言は、次の四つの点に要約できる。
(1)、放送車の発火地点を甘酒店前とした。
(2)、放送車の火炎ビンは十個以上とした。
(3)、路上の火炎ビンを放送車攻撃と同時一体のものとした。
(4)、警官隊の拳銃発射を空地前付近とした。
大須事件の作りかえは、実に清水栄のいつわりの証言を根拠に展開された。しかし、公判が進行するにしたがって事態の解明がすすむと、清水の証言に大きな疑問が出てきた。どうしても彼を再び証言台に立たせる必要が出てきた。そこで弁護団は、彼の再尋問を請求した。裁判所もこの請求を認めたが、呼出しに対し清水栄の家族から、本人は一九六四年(昭三九)十一月以来家出して所在不明との回答がよせられた。彼の証言後も、公判の進行内容は彼にもたらされていたにちがいない。
同じ騒乱事件であるメーデーの公判廷で、拳銃発射に関する偽証問題がバクロされたのは、一九五九年(昭三四)七月のことであった。大きく報道される新聞をみて、彼は恐怖におそわれたであろう。人ごとではなかった筈である。検察当局にとつても思いは同じであったであろう。
大須公判廷も、拳銃発射をはじめとする警官隊攻撃の真相が、当然中心問題であった。それから逃れる道は「失踪」しかなかった。このとき清水栄は五五才になっていた。
『検察特別資料から見たメーデー事件データ』メーデー事件公判の拳銃発射偽証問題
3、挑発の火炎ビン2本投擲者=警察スパイ鵜飼照光
放送車後部からの投擲者・共産党愛日地区軍事委員・テク担当者
1、『真実・写真』(P.53)の文
スパイ鵜飼昭光
警察放送車に対し、デモ隊に潜入していて、火炎瓶を投げつけて発火させたのは、スパイ鵜飼昭光であって、自殺した全甲徳少年や、その他の被告たちではない。
事件発生十年後、スパイ鵜飼昭光は、検事側証人として法廷に出てきた。一九六二年(昭三七)十月十二日のことである。そして検事の望むままに証言した。「デモの前の方に火炎瓶をもって入っていた」「警察放送車に火炎瓶をなげた」と。
スパイ鵜飼は事件直後姿をくらまし、春日井警察の警備係深尾巡査部長と料亭にて接触を持ち、深尾の世話で長野のパチンコ店にかくまわれていたものである。
被告、弁護団は、「このスパイ鵜飼昭光こそ、騒乱罪のきっかけをつくるために火炎瓶を投げた人物である。」と執物に追及したが判決は云う。
「鵜飼昭光は、デモ隊の先頭から一〇人か一五人位のところにあって岩井通りを行進し、附近にいた数名のデモ隊員と共に放送車に殺到して火炎瓶を投げたこと、右鵜飼は本件後の昭和二十七年九月頃、深尾巡査部長に接触を持ち……情報を提供した事実は認められるけれども……」と、鵜飼がスパイであったことを認めたが、つづいて、「所論の如く、右鵜飼が最初に火炎瓶を投げつけたとか、同人が本件以前から警察のスパイであったとの所論主張の事実を認め得る証拠はない。」
警察のスパイではあるが、大須事件当夜にスパイであったかどうかわからない。デモ隊の一人であったことは間違いない。だから、火炎瓶を投げたのはデモ隊だ。というわけである。
大須事件は、騒乱罪適用の重要なポイントである、放送車に対する最初の攻撃者の特定がないまま、一審から最高裁まで判決を下している。
そして、このスパイ鵜飼昭光は起訴免除となっていることも不可解であり、謀略という他はない。
大須事件のナゾの部分として解明の望みをすててはいない。
2、元被告酒井博の講演―該当個所 (抜粋)
(宮地・注)、講演内容は、共産党愛日地区軍事委員鵜飼はU、愛日地区軍事委員長森錠太郎はMになっているが、この(抜粋)では本名も書く。私(宮地)が、事件当時の共産党愛日地区委員長酒井博にその事実と本名を確認した。3人は愛日地区委員会の表裏を構成する中心メンバーだった。よって、以下の酒井博証言は信憑性がある。
6、酒井博への起訴状 (抜粋)
私が起訴状を見てびっくりしたことは、私がいつのまにか指揮官になっているんですね。その調書ができたのは、U(鵜飼)という男なんですよ。瀬戸の生まれで海員出身なんです。彼は日本共産党の中央委員の田中松次郎の紹介で入党したお墨付きの人間なんです。ですから、もう入党した時からいばってましたけれどね。
彼が党の愛日地区の軍事委員長M(森錠太郎)のテクをやっていた。テクっていうのは技術部のことです、いろんな技術的なこと準備するんですよ。火炎ビンとかいろんなことも含めて準備するんですね。テクって言っとったんです。連絡員もやっておったんですね。この男が実はスパイだったんです。で、彼の調書はこんなにあるんです。春日井、当時は国家警察って言いましたが、国家警察の春日井地区署に自首して出て、そして調書をこれだけ作ったんですよ、毎日のように。調書を書くたびにおいしいのを食べさせてもらったらしいですよね。後にわかったことで、彼はいろんな党の文書や、特に非公然や非合法の文書ありますが、そういうものを高蔵寺の鹿乗亭という料理屋で国警の連中、公安の連中と会ってそこで一枚渡すと二百円ぐらいずつもらっていたというんですね。そういう情報を売っとったんですよ。
それだけならまだいいんですけれども、大須事件の時にですね、実は彼も参加してるんですよ。で、彼の調書によるとこれぐらいの調書があって毎日軍事委員会というのはどういうことやった、って書いてあるんですよ。軍事委員長の、M(森錠太郎)という男がですね、非常に戦闘的で、彼ならばきっと党の方針通りやるだろうというようなことも書いてあるんですね。そういう調書とられているんですよ。Mという男はずっと調書の中に全部出てくるんですよ。軍事委員長ですからね。ところが彼は逮捕されていないんですよ。もちろん彼も逮捕されていないし、自分で自首して出て、そして結局彼はその功労によって起訴されなかったんですよね。彼の親分の軍事委員長も逮捕されていないんです。
それから私を現場での総指揮官に祭りあげたU(鵜飼)という男もね、失踪しているんです。最初の公判で私が彼を徹底的に追及した時、スパイだったことを認めたんです。それで、スパイだということを彼が認めて、つまり私をデッチあげたことを自白したもんですから私は今まで首魁、騒擾指揮官という、非常に高い位だったんですけれども、軍隊で言うなら司令官だったんですが、バーンと落っこっちゃってね、一等兵になっちゃったんですよ。位下がっちゃった。附和随行になっちゃったんです。これは名誉毀損ですよね(笑い)。
7、大須事件現場の状況 (抜粋)
それで後に法廷になってから第一審の法廷で私も不審に思いまして、なぜ私の名前が出てきたか調べてみたら、最後の検察庁でつくった検察官の調書の最後の一枚に私の名前が突然出てくるんですよ。M君に代わってね、私がいきなりトップにきて、私が全部指示して、現場でいろんな武装活動の準備をしたっていうことになっているんですね。で、これはおかしいということで、法廷でU(鵜飼)を、私が徹底的に追及しました。法廷で。その日何をやっていたか、どうだったか。お前は火炎ビンを持っていったか―持っていきました。火炎ビンどうしたか―途中で捨てましたというんだね。どこへ捨てたか―忘れました。そして彼はデモの先頭におったことは事実なんですね。
ですから、これは推理ですがおそらく彼がいちばん最初に、さっきガラスが破れてなかったでしょ。だからあれは外から投げて爆発したんじゃなしに、内部発火説。もう一つは、どっかの窓を一つ開けといてね、そこに放りこんだんじゃないかという説。いろいろあります。とにかくデモ隊が投げた火炎ビンで放送車が燃えたという証拠は何一つないんですよ。ですからたぶんおそらくUがやれやれということで先頭にたってやって、そしておそらく警察側と打ち合わせのうえで程よいところで火炎ビンを放りこんだんじゃないかと。そして清水栄が降りて来て、拳銃を、逃げていく、最初の発射の時には皆びっくりしちゃってね、それでもうワーッと隊列がくずれて、そして逃げていく、空地の方に逃げていこうとするのを、追ってって、撃ったということを、言っているわけです。
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』上記6、7の全文
6、〔資料3〕名古屋地方裁判所長の予断と偏見―騒擾罪でっち上げ中の警察への事前激励
(宮地コメント)
『真実・写真』(P.14)は、「裁判官の予断と偏見」と題し、次のように書いている。
「同じ名古屋市警機関紙『警苑』一九五二年(昭二七)八月号には、村田正雄名古屋地方裁判所所長の巻頭言が掲載されている。八月号といえば事件の翌月号である。おそらく七月七日直後、大須事件の逮捕者のつづく状況の中でかかれたものであろう。
ちなみに大須事件の第一回公判は、その年の九月一六日であった。被告たちがまだ起訴もされていない、ただの一回も法廷で審理もされていない状況の中で、裁判所長がはやくも逮捕をつづける警察には激励をおくっている。」
名古屋市警が、『警苑』8月号を印刷した月日は大須事件裁判のどういう段階だったのか。事件22日後の7月29日名古屋地検は、第一次45人を騒擾罪等で起訴した。名古屋地裁裁判所所長がこの原稿を執筆した月日は、第一次騒擾罪起訴前になる。上記〔資料1〕の検察・警察合同研究会は、起訴直後の8月4日で、公判前に検察・警察の完全一体化・違法な癒着をさらに強化する目的で開かれた異様な会議だった。ところが、検察・警察研究会よりもさらに前に、裁判所所長が、「近くは、名古屋大須事件と云い、小さい市街戦を思わする」「警官は、その尊い本務のために、身を犠牲にして、敢て勇敢に治安に精進しておる」と断定した。
名古屋地裁においても、日常的に裁判官会議が開かれている。そこで、所長がこのような偏向した趣旨や警察を鼓舞激励する見解を、大須事件を担当させることになる裁判官3人の脳裏にインプットしたらどうなるのか。たしかに、検察庁・警察庁の上意下達の軍隊的規律システムとはやや異なり、裁判所においては、個々の裁判官の自主的判断・判決が相対的に認められている。しかし、大須事件は、一般的な刑事事件ではない。それは、国家権力を挙げての騒擾罪でっち上げ謀略によるものだった。よって、この裁判所所長の起訴前言動は、検察・警察合同研究会と合わせると、朝鮮戦争2周年目の日米権力が、第3番目の騒擾罪でっち上げ事件の取扱に関して命令を下し、司法内部3機関の検察庁・警察庁・最高裁の違法な癒着を、9月16日第一回公判以前に完成させていたことを証明する重要証拠となる。さらなる決定的証拠は、第一審判決内容、第二審判決内容、最高裁の口頭弁論なしの却下決定内容である。
名古屋地方裁判所長の名古屋市警機関誌『警苑』巻頭言
巻頭言 村田正雄 (抜粋)
警察の本務の目的とするところが、人間の尊厳を最高度に確保し、個人の権利と自由を保護するために国民に属する民主的権威の組織を、確立することにあることは言うを俟たない。警察職員としては、公僕としてその本務に精進しなければならぬ。その本務遂行のために、色々の権利が与へられ、ピストル警棒の携帯までが許されておる。
遠くは、皇居前広場の事件と云い、近くは、名古屋大須事件と云い、小さい市街戦を思わする。警官は、好んでこの危険に身を晒し度いものは、一人もいない筈だ。警官は、その尊い本務のために、身を犠牲にして、敢て勇敢に治安に精進しておるのである。私は思う、正義に満ちた犠牲的精神ほど、吾々をして襟を正し、感謝の念を起さしめ、その尊さを思はしめるものはない。此尊さこそ警察の本体である。これありてこそ、警察は国民に理解せられ、愛せられ、親しまれ、やがては、信頼せられるのである。警察の権威は、その中から燦然と輝りかがやくのであり、是が、又国礎の堅さを加へる所以でもある。
私は、この意味において、警官の職務が、重且聖であると信じ、常に尊敬と親愛とを感じておるものの一人である。 (名古屋地方裁判所長)
(関連ファイル)
(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」