騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価

 

謎とき・大須事件と裁判の表裏 第4部2・資料編

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、刑事事件裁判史上最長の26年間公判 (別ファイル)

   2、公判における検察側と共産党側との力点の違い

   3、事実認定問題をめぐる6大争点と双方の攻防

   4、騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価

 

   5、〔資料1〕放送車内の野田衛一郎巡査の偽証

   6、〔資料2〕失踪した清水栄警視の捜索記録

 

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    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 5、〔資料1〕放送車内の野田衛一郎巡査の偽証

 

 (宮地コメント)

 

 これは、『戦後主要左翼事件 回想』(警察庁警備局、1967年、絶版)が掲載した「大須騒擾事件」の現場警官手記4篇の一つ全文(P.200)である。野田衛一郎巡査は、検察側証人として第一審公判で、下記と同一趣旨の証言をした。彼は、武装警官隊いっせい襲撃の第一合図である警察スパイ鵜飼照光が警察放送車内に火炎ビン2本を投入する時点に、運転手と2人で放送車内に残っていた。

 

 彼が、濡れむしろで火炎ビンを消火したことは証言通りの真実である。そして、完全に消火した後で下車したことと、『第3部・資料編』に載せた下車瞬間の2人の写真も真実である。その写真からは、野田巡査に火炎ビンの痕跡も窺えない。

 

 検察側は、警察放送車を証拠申請もしないで、廃棄処分にした。放送車内の火炎ビン証拠も失ったと真っ赤なウソをつき続けた。弁護団側の追求によって、21年後に提出した放送車内火炎ビン証拠は2本だけだった。

 

 裁判所は、放送車内唯一の証人である野田巡査の証言を根拠に、デモ隊による放送車攻撃を真実とする事実認定をした。しかし、21年後に判明した真実は、野田証言が真っ赤なウソであり、検察・警察による偽証犯罪であることを証明した。それにもかかわらず、控訴審・最高裁は、野田証言と清水栄警視証言の偽証を真実とした。

 

 下の手記における赤太字個所は、公判証言と同じ趣旨の偽証内容である。

 

 『全身火だるまになって』 当時中村警察署防犯係巡査野田衛一郎

 

 現在愛知県警察本部防犯部防犯課巡査部長

 

 当時私は、名古屋駅を管内に受持つ中村警察署の防犯係を勤めていたが、七月七日の午後八時ごろ、早川大隊の広報班に編成され、大須球場から程遠からぬ上前津の付近に広報車で待機していた。

 

 午後十時を過ぎたころ、デモ隊が岩井通りを東進して来るという情報がはいった。広報車を移動、大須電停付近でUターンして東進するデモ隊に接近し、左前方を徐行しながら警告を開始した。「皆さんこのデモは無届デモですから、すぐ解散して下さい」。何回も、何回も呼びかけたが、赤旗やムシロ旗などを掲げたデモ隊は警告を無視、“ワアワア”と何事かを叫びながら気勢をあげ、一つの強大なエネルギーの固まりのようになって“道路狭し”とばかり行進を続けていたが、岩井通り四丁目付近に至るや、軌道を越えて「ワァー」と喚声をあげ、広報車めがけて殺到し、石や火炎びんを投げ込んできた。

 

 ガラスの割れる音、車のボデーに石や火炎びんが激突する音、車内で“アッ”という間もなく五、六発の火炎びんが火を吹きだし、班員の幾人かが火傷した。車内で“メラメラ”と燃える火炎びん、あわててみんなで踏み消そうとしたが消えない。指揮官の命令で警備員は車外へ飛び出し警戒にあたる。暴徒は、「血祭りにあげろ」「やっつけろ」と口汚なく罵りながら広報車を目がけて、次々と火炎びんを投げつけてくる。

 

 広報マンである私は、一人、広報車の中で投げ込まれる火炎びんの排除に当たっていたが、運悪く一発が鉄帽に命中した。みるみる服は燃え、帯革は焦げ、全身火だるまになった。むせかえる硫酸の臭い、顔が爛(ただ)れるのがわかる。警備靴で踏み付け懸命の消火に努めたが、火は消えない。ふと、車の片隅にある古むしろを思い出し、これで手当り次第、火炎びんを叩き付けた。さすが勢いの強かった火炎びんも下火となり、ガソリンタンクに引火することもなく広報車を火災から守りぬくことができた。待機中に何気なく積み込んだ古むしろが、暴徒から広報車を守り、警察の威信を傷つけることなくすんだのである。

 

 私には、古むしろが『守り本尊』のように思えてならない。農家の軒先や引越梱包の古むしろを見るたびに大須事件を思い出し、格別な愛着を感じるのである。

 

 

 6、〔資料2〕失踪した清水栄警視の捜索記録

 

 (宮地コメント)

 

 これは、『大須事件50周年記念文集』(記念事業実行委員会・国民救援会愛知県本部、2002年7月、絶版)が載せた「清水警視をさがせ」(P.54〜58)の全文である。元被告・当時名電報細胞シンパ小島進は、デモ隊に参加し、襲撃してきた警官隊に「それでも日本人か」という“罵声”を発したことを唯一の理由として検挙・起訴された。彼は、後に、共産党の中川区選出・名古屋市会議員となり活躍した。私(宮地)は、愛知県選対部員として、彼の精力的な活動を知っていた。また、最後に出てくる国民救援会副会長川村富左吉と私は、名古屋市中北地区常任委員として数年間いっしょで、愛知県指導改善問題では、ともにたたかった。

 

 この捜索記録は、検察・警察側による証人隠滅犯罪の実態を暴露している。控訴審公判は、1971年9月2日から始まった。弁護団側は、第一審における6回の証人尋問に続いて、控訴審でも再度、清水栄警視の証人申請を出した。検察側は、行方不明と強弁し、証人尋問を拒絶した。

 

 彼は、騒擾罪無罪を証明しうる現場指揮官として最高の証人だった。ただ、被告・弁護団側による「清水警視捜索」が始まったのは、控訴審有罪判決が出た3年後の1978年だった。なぜ、控訴審の最中にこの「捜索」ができなかったのか。『第5部』でのべる法廷内外体制の欠陥、宮本顕治・野坂参三の敵前逃亡犯罪言動の影響もあって、清水警視捜査の開始が遅れた。最高裁決定を前にして、追求の時間が足らなかった。しかし、これは、被告・弁護団側による検察側犯罪追求の貴重な記録である。

 

 『清水警視をさがせ』 小島進(元被告・国民救援会愛知本部副会長)

 

 私は一九七七(昭和五十二)年の秋、二十一年間活動してきた民商事務局の仕事に終止符を打ち、被告団の専従オルグになった。七八(昭和五十三)年の正月が明けてから本格的に専従被告団の一員とし活動することになつた。

 

 芝野被告団長は私に最高裁のある東京での活動を望んでいたが、それまで私は革新統一の知事選挙、市長選挙で活動し県下で愛労評や社会党などを含め、多くの労働組合や諸団体の幹部と面識があったので、この経験を運動の発展に生かすほうが良いという考えで、名古屋を拠点とし活動することになった。

 

 事件当夜、デモ隊と並行し走っていた警察の放送単に搭乗していた清水警視が突然デモ隊にむけピストルを水平に発射したことが大須における騒擾のキッカケであった。一審裁判で清水警視をはじめ警官隊のピストル発射が「正当な行為」であったかどうかが最大の争点の一つであった。裁判で検察官は清水警視にたいし、その正当性を主張する証人として証言させた。

 

 彼は自分のピストル発射が正当なものであることを強く証言したが、検察官の尋問に答えたあと、被告、弁護団の本格的な反対尋問を前に突然失踪し、その行方をくらましてしまった。被告、弁護団は清水警視の行方を捜索するように検察官と裁判所に強く要求したが、その行方は不明のままであった。

 

 この証言によって一審判決はデモ隊に対する警官隊によるピストル発射の先制攻撃が正当なものであるとされ、有罪判決の有力な決め手の一つになった。名古屋高裁の二審裁判でも被告、弁護団は清水警視の反対尋問をするため、その行方を追求し、証言させることを検察官、裁判所に要求した。だが二審裁判でも、彼の行方は不明のままで証言させることなく、一審の事実認定を追認し控訴棄却がされた。

 

 私は被告団の専従オルグになって最高裁での勝利を獲得するには清水警視を発見し、証言させることが大きなカギであると思った。最高裁は原則書面審理で判決を出す。最高裁が再審理し原判決を破棄するときは「口頭弁論」を開き、被告、弁護団の弁論を聞くことが前提である。一、二審の最大の争点であった警官隊の先制攻撃のきっかけを作った清水警視のピストル発射は、被告、弁護団の本格的な反対尋問もなく、先制攻撃が正当だったと判断している。

 

 清水警視の存在が判明し「反対尋問」する状況を作ることができれば、再審理のための「口頭弁論」を開く最大の理由ができ、マスコミにも大きく報道され「口頭弁論を開き、公正な裁判」を要求する運動に限りない力になると思った。

 一月の団会議で「清水警視の捜索」が決まり救援会の事務局長と私が担当することになった。

 

 清水警視の本名は栄である。清水栄は奥三河、鳳来町の出身で彼の妻は豊橋市のとなり小坂井町の出身である。まず清水栄の生死を明らかにするため墓が作られているかどうかを調べることにした。作られているならば妻の在所であると見当をつけ、一月下旬、まず小坂井町の町会議員に協力をもとめ探しにでかけた。今の大字は昔の村、江戸時代から村には必ず檀那寺がある。妻の在所の大字にある寺に行って探したが発見することは出来なかった。救援会事務局長と話しあって清水栄の出生地、鳳来町に兄が生きていることがわかり、直接兄を訪れることにした。

 

 二月の中頃、二人で鳳来町に行った。兄の家を訪れたが留守であった。近所の人に「山に行っている」と聞いて、坂の中ごろの石に腰を下ろし、山から下りてくる人を待ち運良くその人に会うことができた。初対面であったが気さくな人であった。彼も弟、清水栄の行方は分からず心配をしていると話した。それがウソで無いことは、その話ぶりで分かった。そして、弟は栄の妻の在所、小坂井町に最近墓を作って法要したことを聞いたと話してくれた。

 

 栄は山深い奥三河の段戸山に住んでいる「山窩(さんか)」に匿われているのではないかとも語ってくれたので、私はその後図書館で「山窩」について調べた。三角寛の「山窩物語」などを借りて読んだ。「山窩」とは日本のジプシーと言われ、山や川のほとりで小屋をつくり住み、移動して暮らし、川魚を捕ったり、煙管のらお直しをしたり、蓑笠などを作ることを生業としている人とあった。もうその時代には居なかったと思う。

 

 その日の午後、その足で小坂井町の妻の実家がある集落の壇那寺墓地にいって調べ直したがなかなか見つからなかった。夕闇が迫ったころ、最後にもういっぺん調べた。あった。新しい墓石で「清水家代々之墓」とある。建立は昭和四十九年十一月と書いてあり、清水栄の戒名は「警宗良栄居士」とあった。

 

 墓があるならばその寺の過去帳に書いてあるはずだが、その寺は無住、住職が住んでいない。時間がないのでその日は墓を発見しただけで帰った。戒名は清水栄が死んでなお警察官であったことに誇りをもっている人物であることが分かる。「雀百まで踊り忘れず」である。

 

 三月に入り地元の町会議員に調べてもらった寺を訪ねたが、その寺の管理でなく、別の寺であった。その足で寺を訪ねたが留守、改めて訪ねることにした。だが運動の広がりで中々時間が取れず調べることが遅くなってしまった。

 

 五月にはいり調査を再開した。豊橋市選出の和出県会議員の紹介で、えん罪事件で無罪になった「豊橋森事件」の守る会会長をしていた住職をたずね協力を頼んだ。快く豊川稲荷の寺と管理している寺に電話して協力の約束を取ってくれた。はじめに豊川稲荷へ行った。東三河の禅宗、曹洞宗の総本山妙厳寺の中にお稲荷さんはある。寺より「豊川稲荷」の方が有名になってしまっている。「庇を貸して母屋を取られた」のだ。

 

 協力を頼んだが迷惑そうに、知らぬ存ぜぬでやんわり断られてしまった。やむをえず、その足で墓のある寺に行った。無住寺であったが年配の女性が寺の本堂を掃除していた。私達は仏様にお参りがしたいといって本堂に上がった。仏様の両脇と後ろに段々重ねで沢山の位牌があり、一つ一つ丹念に調べた。ついにあった。大きな位牌の真に隠れていた。お墓と一緒で戒名は「警宗良栄居士」である。死亡年月日を見るため位牌を手に取った。裏は何も書いてなかつた。死亡年月日のない位牌であつた。

 

 こうなればお墓の中が見たくなる。その足で管理している寺の住職のところを訪れた。弁護士と一緒に行ったので、熱心に大須事件のことや、清水栄のはたした役割を説明し協力を求めた。住職は快く協力してくれた。住職と再び寺を訪れ、墓のなかにお骨があるかを調べることにした。住職は「君達がお墓を開けることは許されないが、私は開けても構わないのだ」と言って納骨室の蓋を開けてくれた。住職が手を中に入れ探したが何もなかった。私達も中を覗いたが、やはり何も無かった。お骨のない墓である。益々彼が生きていることに確信を持った。

 

 私は、大須事件が起きた一九五二(昭和二十七)年六月に九州、大分県で起きた菅生事件を思い出した。この事件は戸高公徳という公安警察官が、市木春秋の偽名で、その村の共産党支部にもぐり込み、村の派出所をダイナマイトで爆破し、姿をくらました事件である。被告、弁護団、新聞記者がその行方を追求。警察に匿われていたところを発見され、裁判に掛けられた。判決は有罪にもかかわらず、三カ月後、警部補で復職、その後警察大学教授、警視まで昇進し、退職後も警察の外郭団体「たいよう共済」の代表取締役に一九九五(平成七)年五月まで就任していた。彼は最高死刑まである「爆発物取締罰則法」違反で有罪にもかかわらず、公安警察官として庇護、擁護され生きつづけた。

 

 清水栄も大須事件の有罪判決に大きな影響を与える証言をし、行方をくらました男である。必ず警察の庇護のもと、生きているに違いないとますます確信した。

 少し前、一九七五(昭和五十)年春衆議院の法務委員会で「清水栄」の行方を質問してもらった。質問直前に彼の「失踪届」が家族によって出され、質問が終わったあと「失踪届」が取り下げられている。こんなことは家族の知恵で出来ることでない。ましてや墓はその前年に造られている。国会での質問に答える側の、警察の指導がなされていることは明白で、このことでも明らかに当時、警察の庇護のもとで生きていたことは間違いないと今も確信している。

 

 私は清水栄が生きているならば必ず東京で暮らしていると思い、東京で調査するよう要請した。彼が依拠するところは警察である。警察庁か警視庁の宿舎の管理人か寮の寮長などをして生活しているに違いない。失踪した時から二、三年間の職員名簿で新しくその部署に付いた人、例え偽名であっても調査すれば戸高公徳のように清水栄を発見できると思った。マスコミの協力を得られるように努力してほしいとも言った。

 

 だが残念なことに時間がなかった。六月ごろから最高裁の判決が近く出されるとの情報がマスコミから伝えられた。「口頭弁論を開き、公正な裁判を」の運動の一層の強化が求められ、清水栄を捜し出す余裕が無くなってしまった。本当に残念であった。

 

 私は今でも清水栄のその後に関心を持っている。彼の生きていた痕跡を明らかにすることは「大須事件の真実を明らかにすること」であると思っている。

 

 二〇〇二年四月十四日午後、救援会の川村副会長と私の二人は、その後の清水栄氏の消息を求めて氏の長男宅を訪れた。長男氏の話によれば「父は家出をしてから一度の連絡もなかった。それからの家族の生活は大変厳しいものだった。家出をした原因は裁判で、被告・弁護団の厳しい証人尋問に耐えられなくなって、逃避したのではないかと思っている。どこで暮らしていたか判らないが、もし、今も生きていたら九十三歳を過ぎているが、恐らく私たち家族のもとを訪れることは出来ないであろう」と語った。そして栄の妻は病気ではあるが健在とのことであった。

 

 私は長男の話を聞いて「清水栄は権力の側にいて権力の犠牲になった最も不幸な犠牲者の一人であったのだ」との思いを強くした。

 

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 (関連ファイル)      

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」