大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否

 

謎とき・大須事件と裁判の表裏 第3部

 

(宮地作成・地図5枚宮地徹作成)

 

 〔目次〕

     はじめに

   1、大須事件当日における2勢力の指揮・連絡体制

   2、中署・アメリカ村火炎ビン攻撃作戦の中止→東進へのデモコース変更

   3、平和デモ東進の250m・5分間の状況

   4、デモ隊250m地点到達からの1分間の状況

   5、崩壊デモ隊員による投石・罵声などの散発的抵抗

   6、大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否

 

   7、〔資料1〕デモの性格・進路変更内容とその誤算 (別ファイル)

   8、〔資料2〕放送車内に投入された火炎ビン本数=2本

   9、〔資料3〕火炎ビン投入者=警察スパイ鵜飼照光

  10、〔資料4〕清水栄警視の拳銃5発連射状況の証言

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 はじめに

 

 1952年4月3日から、モスクワで国際経済会議が開かれた。この会議には、英・米・仏をふくむ49ケ国、471名の代表が参加している。それへの招請を受け、高良とみ(参議院・緑風会)、帆足計(衆議院・左派社会党)、宮腰喜助(同・改進党)の3人は、ソ連向けの旅券を申請した。外務省は、ソ連領内の旅行につき、生命の安全を保障しがたいとの理由で、発行を拒否した。さきにパリでのユネスコの会議に出席していだ高良議員は、ヘルシンキを経てモスクワに入り、第2日目から国際経済会議に日本代表として参加した。帆足・宮腰両議員は、デンマーク行きの旅券でコペンハーゲンに飛び、そこから「地球は丸いからソ連を通って帰る」との手紙を政府あてに出した。

 

 モスクワで雷任民中国貿易次官の招待をうけて、3人は5月末中国の首都北京に行った。そこで、国際経済会議日本代表高良とみ、日中貿易促進協会代表帆足計、同促進連盟理事長宮腰喜助の3議員と、中国貿易促進委員会主席とのあいだで、輸出入総額6千万ポンド(当時の円で6百億円)の日中貿易協定が結ばれた。帆足、宮腰両議員は、7月1日羽田に帰着した。日本に帰れば、警視庁に一晩くらいはとめられるだろうとの2人の予想に反し、彼らを迎えたのは、羽田空港をうめつくす歓迎の人波だった。大須球場での集会は、このような情況の中で行われた。

 

 1952年7月7日・七夕の日、大須電停わきの大須球場(現在のスポーツ・センター)は、一万人の大聴衆の人いきれでむんむんしていた。開会一時間前から、「日中国交回復、日中貿易再開」「平和を守れ、朝鮮戦争即時停止」、「吉田内閣打倒、全面講和による完全独立」などのプラカードをかかげた労働者、市民、学生、朝鮮人が続続とつめかけた。ピッチャース・マウンド近く設けられた演壇を中心に、フィールドはもとより一、三塁側スタンドまでぎっしり満員だった。参加者は、日本人として戦後はじめてソ連、中国へ入った帆足、宮腰両議員の講演のはじまるのを、期待にみちて待っていた。

 

 

 午後6時40分、名古屋青年合唱団がうたう平和の歌を合図に、講演会が始まった。赤松勇(当時左派社会党)、春日一幸(当時右派社会党)、田島ひで(共産党)各議員をはじめ、愛労評、平和委員会、民主商工会、文化人、学生、朝鮮人団体等約10人の各界代表が口々に2人の壮挙をたたえるとともに、日中貿易再開、朝鮮戦争即時停止を訴えるあいさつをした。つづいて、宮腰・帆足議員の順で、講演が始まった。

 

 

 1、大須事件当日における2勢力の指揮・連絡体制

 

 共産党名古屋市軍事委員会は、1952年6月28日から、火炎ビン武装デモの計画と準備を開始した。名古屋市警・名古屋地検は、6月26日から、第3の騒擾罪でっち上げの計画と準備を始めた。その準備期間は、いずれも10日間か、12日間と短い

 

 メーデー事件と吹田・枚方事件において、共産党は、その行動を5月1日メーデーと6月25日朝鮮戦争開戦2周年日とし、既定の月日に向けて早くから、長期にわたる計画と準備をしてきた。3大騒擾事件において、大須事件は、その計画と準備期間が短く、双方とも速成の体制づくりになったことも、第3番目騒擾事件における特徴の一つである。短期準備による問題点や欠陥は双方ともいろいろ現れるが、その内容については、この第3部と次の第4部で触れる。

 

 ただ、2勢力それぞれの目的と行動計画から見て、双方ともかつてないレベルの指揮・連絡体制を創り上げた。

 共産党は、(1)中署・アメリカ村に向けた無届デモの呼びかけを大須球場大会終了の瞬間に行い、そのアピール者を名大党員岩田弘に決定した。(2)大会参加者の多数がデモに加わるよう、デモスタート前に、大会演壇周り3回の渦巻きデモを行う。(3)デモ隊の編成順序を、名古屋大学学生→朝鮮人祖国防衛委員会→自由労務者→一般、などの事前決定をした。

 

 警察・検察は、当日夜9時までに名古屋市内の全市的配備を完了した。()大須球場近辺の東西北3方面道路に4大隊890人、()私服警官隊3班75人、()検挙したデモ隊員の顔写真撮影を中署で一括集中実施するシステム、()検挙者全員を全市の12警察署に分散留置する体制、()全区12警察署待機警官を合わせて、名古屋市警現員3427人の86%、総計で2717人を総動員、()中署に名古屋地検次席検事ら3人の違法な事前出動と「騒擾罪適用! デモ隊員を即座全員検挙!」の騒擾罪発令・即事伝達ルート確立、という史上空前で、かつ、絶後の体制を事前に完成させていた。

 

 これらシステムの事前確立については、最高裁に出した『上告趣意書』(P.90)にある。

 佐藤広市警本部刑事部長の証言によれば、この検挙体制は、次のようであった(三四〇回公判調書六一丁)(四四丁以下)。

 ()、鑑識班を設け、被逮捕者はすべて中署に連行し、鑑識班によって逮捕者と被逮捕者を写真にとる。

 ()、四、五名からなる捜査課警部補を長とする身柄配分係を設け、その指示により被逮捕者を市内各署に分散留置する。

 ()、制服部隊の手をのがれて逃げる者を逮捕するため、約二〇名の私服捜査刑事を大須球場を中心とする歩道上に配置する。

 ()、分散留置された被疑者の取調のため、各署に要員を相当数待機させる。

 『私が記憶している限りでは一番大きな警備体制』(前同、八一、八二丁)『はっきりした(検挙)体制を整えたのは大須事件以外にはない』(佐藤広刑事部長、三四八回公調四丁)。」

 

(表1) 2勢力の指揮・連絡体制と配置

場所

共産党

警察・検察

 

東京

党中央軍事委員長志田重男

党中央軍事委員岩林虎之助

(党員桜井紀弁護士の名古屋アジト)

検事総長と検察長首脳

名古屋高検検事長藤原末作

警察庁首脳

名古屋

地下指導部 永田末男委員長ら5

中間機関 加藤和夫ら2人

名古屋市警本部長宮崎四郎

名古屋地検検事正安井栄三

 

球場近辺

(集会場から離れた八木旅館)

第2地下指導部 軍事委員長芝野一三

県軍事委員福田譲二=球場内への指令

(中署)

名古屋地検次席検事羽中田ら検事3人

名古屋市警中署長=警視正

球場内

現地指導部 名古屋市軍事委員2人

朝鮮人祖防委3人

私服刑事数十人の球場内潜入配備

ビラ攻撃対象の社会党議員・愛労評議長護衛

ピケ

明和高校細胞ら10数人

警官4大隊の配備・人数調査と連絡

私服警官隊375

球場内が見える民家2階に警官3

連絡

明和高校細胞2

中間機関→地下指導部→第2地下指導部

警告隊長清水栄警視=最前線の合図指揮官

警告隊員14人による各大隊への連絡ルート

 

 

 2、中署・アメリカ村火炎ビン攻撃作戦の中止→東進へのデモコース変更

 

 〔小目次〕

   1、共産党名古屋市ビューローの判断と作戦変更

   2、警察・検察による謀略作戦の無変更堅持

 

 1、共産党名古屋市ビューローの判断と作戦変更

 

 1、作戦変更内容と変更時刻

 

 ()、中署・アメリカ村に北進して、火炎ビン攻撃をする作戦を中止する。

 ()、上前津交叉点に向けて東進し、金山まで行って流れ解散をする。

 ()、火炎ビンを使用せず、無届の平和デモを行う。

 

 この変更時刻は、7月7日当日の午後9時頃だった。それは、デモ隊が大須球場をスタートした午後10時00分から5分の1時間前である。

 

 2、火炎ビン攻撃中止判断の根拠

 

 作戦変更の根拠について、『控訴趣意書』『上告趣意書』や被告・弁護団のパンフ・文集とも、なぜか何一つ書いていない。そもそも、被告・弁護団は、共産党の当初作戦が、中署・アメリカ村にたいする火炎ビン武装デモ攻撃だったという事実にたいして意図的に沈黙している。よって、以下は事件の全経過に基づく私(宮地)推定である。

 

 明和高校細胞・民青団ら10数人のピケ=偵察班が、警官隊配備状況の調査と偵察をした。その報告は、ピケ班→中間機関→地下指導部にもたらされた。報告によって、()大須・岩井通りの北方・中署、()東方・上前津交叉点の春日神社、()西方・伏見の南北道路上、()中署北方・アメリカ村の4地点に各200人前後の武装警官隊が配備されていることが判明した。

 

 デモ隊が大須球場を出て、大須・岩井通りをまず東進し、約2分後、大須電停を作戦どおりに北進すれば、中署より南方に出動して、狭い道路の封鎖をしている武装警官隊と正面衝突をする。その場合、中署に到達する前に、デモ隊と警官隊とが大乱闘になる。しかも、北・東・西3方面からの警官隊の一斉包囲襲撃を受けて、中署・アメリカ村よりもはるか手前の道路上でデモ隊が殲滅される危険性が高い。東・西の警官隊は、地理的に見ても、走れば2、3分で大乱闘の現場に駆けつけられる。

 

 6月28日以来、10日間にわたって、火炎ビン武装デモの計画と準備をしてきたが、この状況では、中署に行く前に、武装警官隊数百人によって包囲殲滅される。そのような危険を犯すことはできない。よって、午後9時で、デモ隊スタートの1時間前だが、急遽、作戦を変更する。

 

 なお、『上告趣意書』は、永田末男委員長、芝野一三軍事委員長とも「春日神社に警官隊(370人)が配備されていることを知らなかった」「だから、上前津交叉点に向けた東進に変更した」と証言したと書いている。しかし、私(宮地)の現地調査の体験から考えても、ピケ隊が東方・上前津交叉点の春日神社を未調査だったということは絶対にありえない。私は、『第1部』で書いたように、春日神社や上前津交叉点周辺を数十回歩いている。神社敷地は狭く、警官隊370人となれば、その一部は上前津交叉点道路上にはみ出していた。もし、その証言があったとしたら、それは、2人のウソである。

 

 もっとも、2人の証言内容が「無届の平和デモに切り換えたから、警官隊はデモ隊を襲撃しないだろう」という趣旨なら、その想定は当然だった。警察・検察が、大須・岩井通りにおいて、なにがなんでも第3の騒擾事件をでっち上げる計画と準備をし、その謀略作戦を無変更で遂行しようとしていたなどとは、共産党側の誰も考えつかなかったからである。

 

 3、変更方針の指令・伝達ルート

 

 (1)地下指導部永田末男委員長ら5人が午後9時頃に変更方針の決定→(2)大須球場に近い八木旅館の第2地下指導部芝野一三軍事委員長、愛知県軍事委員福田譲二→(3)大須球場内現地指導部への伝達者福田譲二→(4)現地指導部の数人→(5)デモ隊指揮者、というルートだった。

 

 『上告趣意書』は、個人別『各論』において、被告人芝野一三の「上告趣意」(昭和50年・あ・第787号)を載せている。

 「私に関連するのはその一部のものでその人達に当夜私のなしたことは『デモ行進は、上前津を経て金山へ向い、そこで流れ解散をする』。そのことを永田氏から指示を受け伝えただけのことである。現にデモ行進はその通り上前津に向って直行したのである。

 その夜、警察の大部隊が、デモの向う上前津方向、春日神社でデモ隊を待ち伏せしていることなど全く気づかず、知り得なかったことである、ましてその警官隊がデモ隊に向って水平に拳銃を発射し狂暴な手段で襲いかかることなど予想すらできなかった。

 

 「上前津を経て金山へ向うコースであるなら警官の妨害は避けられ無事金山で解散できるものと思いこんでいたからこそ、前記伝達を終え、私は集会場から離れた八木旅館で、冗談を交えた雑談をする心の余裕と時間があった。」

 「八木旅館で福田氏を介して指示を伝達し、無事任務を終え雑談を交し安堵していた私が、判決によるとその頃私のもう一人が集会場で『警官隊に対して火焔瓶をもって抵抗する』ことを協議決定していたと云うのだからこんなひどい話はない。」

 

 この「八木旅館」=第2地下指導部の存在問題については、1975年にいたるまで、被告・弁護団は完全に沈黙してきた。被告・弁護団は、「芝野一三は現地に行っていない。アリバイがある」と主張しただけだった。警察・検察も「八木旅館」に触れていない。警察・検察がそれを知らなかったはずがない。事件から23年も経ってから、芝野一三軍事委員長が初めて自己の「上告趣意」で証言した。なぜ23年間も黙っていたのか。「八木旅館」問題は、双方にとってそれほど重大な秘密事項=タブーだったのか。これも大須事件の謎の一つである。その推定は、『第4部』でのべる。

 

 2、警察・検察による謀略作戦の無変更堅持

 

 警察・検察は、現場情報収集をする当然の事前措置として、「面が割れていない」私服刑事数十人を大須球場内に潜入配備していた。彼らの幾人かは、現地指導部周辺にいて、聞き耳を立てていた。そこへ県軍事委員福田譲二が来て、指導部の何人かに「北進作戦中止とデモコース東進に変更指示」を口頭で伝達する様子を見聞きした。共産党の変更方針は名古屋市警・中署→4大隊に瞬時に伝達された。しかし、警察・検察は、『第2部』で分析した2つの理由に基づいて、もともと北進絶対阻止方針だったので、謀略作戦を何一つ変更することもなく堅持した。

 

 1、強制解散目標地点と火焔瓶被投擲のおとり使用

 

 大須球場から東250m・デモ5分間進行地点において、東・西・北3大隊850人は、北側車道からデモ隊へのいっせい襲撃を行う。大須繁華街に逃げ込ませないように、意図的に南方を空けておく。包囲殲滅作戦といえども、逃亡口を一箇所空けておくことは、戦争行動のイロハでもある。デモ隊列消滅後に掃討作戦を遂行すればよい。

 

 清水栄警視・警告隊隊長は、デモ隊の大須球場スタートと同時に、警告隊員を使って、3大隊にその情報を疾走口頭連絡する。3大隊隊長は、瞬時に「前進待機」命令を出す。

 

 名古屋市公安条例において、無届デモというだけでは、警察が強制解散の実力行使をすることはできない。よって、警察放送車を火焔瓶被投擲のおとりに使い、警察・検察側が作為的に大須・岩井通りにおける騒擾状況を創作する。

 

 2、いっせい襲撃の合図3つ

 

 デモ5分間・250m進行地点において、放送車を止め、警告隊員は2人を残して下車する。合図は3つである。(1)、共産党愛日地区軍事委員・テク担当の警察スパイ鵜飼照光が、停車した放送車の後部から火焔瓶2本を投入する。(2)、デモ隊は、挑発に乗せられて、放送車にたいし、火焔瓶を大量に投擲するはずである。(3)、清水栄警視は、デモ隊が挑発の罠にかかった瞬間を逃さず、拳銃5発を水平発射する。挑発者・挑発物による罠の効果は、前日7月6日広小路事件の実験で証明されている。

 

 これら3つの合図と同時に、東・西・北3大隊850人は南側車道にいるデモ隊にたいして、いっせいに襲いかかる。春日神社から「前進待機」していた早川大隊370人の最先頭部隊である山口中隊も、4人が拳銃の水平発射をする。山口中隊の任務は、拳銃発射によって、デモ隊を頭部分から壊滅させることである。

 

 3、騒擾罪適用の瞬時発令

 

 名古屋地検羽中田次席検事ら3人は、警察の独立捜査権を犯して違法に中署に事前出動していた。もちろん、これは検察庁・警察庁首脳の了解と命令に基づく行為だった。羽中田次席検事らは、3つの合図を即座に知る体制をとる。彼らは、騒擾状況発生の判定を下し、名古屋地検検事正と東京の検事総長・名古屋地検検事長に緊急連絡をとり、騒擾罪発令の了解を得る。

 

 発令と同時に、全警官隊1000人にたいし、「騒擾罪適用! 騒擾暴徒の全員検挙!」命令を伝達する。

 

宮地徹作成『大須・岩井通り地図―動画5枚』

 

大須・岩井通り事件の地図連続動画5枚を長男徹が作成した。

右下の△△マークをクリックすれば、()()に移動する。

(5)を押せば、(1)に戻る。デモ隊と警官隊の動向を、大須

球場出発からの5分間とその後の1分間で克明に解析した。

 

 

 3、平和デモ東進の250m・5分間の状況

 

 1、デモ隊の状況

 

 名古屋市警は、大須球場内を見られる民家河井宅2階にも山田警官ら4人を配備し、刻々とその情報を受けた。法廷に提出された「山田メモ」は、その時間経過を記している(『真実・写真』P.34)

 「午後9時47分、終了、約9000名→9時48分、閉会の辞→9時50分、学生等の真相報告=広小路事件、警官隊が会場を取り巻いている9時55分、学生等の演説=中署へ行け、中署へ行け9時55分中署へ行こうとのヤジが飛び気勢を上げる→9時55分、赤旗を立て、行動開始→10時00分、2組に分かれて会場を廻っている。一つにかたまり約1000名位。」

 

 デモ隊が大須球場から大須・岩井通りに出たのは、10時00分すぎから10時5分の間である。「中署へ行け」との学生の演説・ヤジがあったが、デモ隊指揮者は、作戦変更の指令どおり、2分後の市電大須停留所を左折・北進せず、上前津交叉点に向けての東進をリードした。

 

 上前津交叉点までは、デモ行進のスピードで8分間の距離である。デモ隊は「わっしょい、わっしょい」の掛け声を挙げ、各団体の旗、プラカードを持ち、市電軌道の南側車道上の無届デモをしていた。メーデー事件のように、あらかじめ準備された乱闘用の角材をほとんど持っていなかった。ただ、当初作戦に基づく火炎ビン37本(検察側の物的証拠)を携帯していた。

 

 デモ隊の人数データは、いろいろある。()被告・弁護団は3000人(パンフ)、または最低でも2000人(『控訴趣意書』『上告趣意書』)()警察は1000人(『回想』P.201)()『検察研究特別資料』は千数百人。()『第一審判決』は1500人としている。

 

 ただ、大須球場の大会は9時50分に終わった。1万人の参加者は、大須電停から名古屋駅行市電に乗るか、上前津交叉点まで8分間歩いて、各方面の市電に乗った。武装警官隊890人によるいっせい襲撃の開始時刻は、10時5分から10分の間である。当然、大須・岩井通りの南側歩道と北側歩道上には、デモ隊に参加しない帰宅途中の人達で溢れていた。ましてや、大会終了の瞬間における学生の訴えがあり、警官隊の姿を見たことで、歩道に留まる人も大勢いた。しかも、当日は7月7日の七夕であり、大須繁華街にも参拝・買物客もまだかなり残っていた。

 

 デモ隊人数は被告・弁護団の最低でも2000人から、警察の1000人までかなり幅がある。私(宮地)は、大須事件ファイル全体で、1500人としておく。それは、実態として、火炎ビン武装デモ隊だったのか、それとも、平和デモ隊だったかという性格規定をする上で、火炎ビン携帯者の比率を計算するのに人数の特定が必要だからである。

 

 重要な事実は、デモ隊東進5分間・250mの時間・距離において、デモ隊は、火炎ビンを一本も使わなかったことである。じぐざく行進もしていなかった。警察・検察・裁判所とも、この事実を完全に認めている。デモ5分間の性格は、物的証拠ととして残された37本の火炎ビンを携帯していた者がいたとしても、まさに平和デモだった。

 

 2、武装警官隊890人の状況

 

 清水栄警視を隊長とした警告隊14人は、警察放送車に乗り、計画と準備どおり、南側車道を行く無届デモ隊先頭のやや斜め前方の北側車道上を、「無届デモなので解散せよ」との警告放送をしつつ、デモ隊と同じスピードで平行に東進した。その中間には、5m幅の市電軌道が走っており、双方の距離は、10m近くあった。『第一審判決』の克明な地図によれば、車道幅は南北とも8.40mである。この数値は、デモ隊が警察放送車に異常接近して、または、市電軌道を北側にはみ出して、火炎ビンの大量投擲をしたのかどうかの事実認定をする上で必要である。

 

 なぜこの距離にこだわるのか。私(宮地)は、他ファイルで書いたように、大須を通る市電を大学通学4年間で数百回使い、大須繁華街や上前津交叉点周辺を数十回歩き廻った体験をもっているからである。言うなれば、私の土地勘という面からも大須・岩井通り事件を検証することになる。

 

 デモ隊1500人が大須球場から大須・岩井通りに出るやいなや、清水栄警視は、警告隊員に命令し、東・西・北3大隊に「デモ隊出発!」の口頭連絡で走らせた。3大隊隊長は、予定通り、即座に「前進待機!」を指示した。ここまでは、事態が謀略作戦通りに進行した。

 

(地図2) デモ開始3分後のデモ隊と警官隊

説明: map2

 

 

 4、デモ隊250m地点到達からの一分間の状況

 

 武装警官隊890人がいっせい襲撃をしたことによるデモ隊列の完全崩壊までの時間をどう認定するのかという問題がある。『控訴趣意書』『上告趣意書』は、「数十秒」と主張している。その主張が真実と考えるが、「数十秒」では、その間の区別をしにくい。よって、このファイルで、私は、便宜的に「一分間」とし、それを3段階に分別し、3枚の地図で検証する。なお、「火炎ビン」と「火焔瓶」という用語を併用する。火炎ビンの数え方は「個」「発」「本」といろいろある。しかし、大須事件ファイルでは、原資料を除いて、「本」に統一する。

 

 以下は、3つの立場からの各原資料に基づく私(宮地)なりの事実認定をのべる。原資料の引用・抜粋を転載する方がいいが、膨大になりすぎるので、認定の根拠は、(別ファイル)『第3部・資料編』に載せる。(1)被告・弁護団『控訴趣意書』『上告趣意書』『真実・写真』『文集』、(2)警察・検察『警察庁の回想』『名古屋高検の控訴趣意書にたいする答弁書』『検察研究特別資料』、(3)裁判所『第一審判決』『最高裁の上告棄却決定』などに基づく。

 

 〔小目次〕

   1、岩井通り全体における火炎ビン携帯・使用本数の事実認定

   2、デモ開始5分後 (10時00分〜5分+5分)

   3、デモ開始5分30秒後 (10時00分〜5分+5分30秒)

   4、デモ開始6分後 (100分〜5分+6分)

 

 1、岩井通り全体における火炎ビン携帯・使用本数の事実認定

 

 デモ隊1500人は、大須電停を左折・北進せず、上前津交叉点に向けて、5分間・250m東進した。それ以後の1分間において騒擾状況が発生したのかどうかの事実認定をめぐる焦点は、火炎ビン携帯・使用本数と2種類の使用形態である。使用形態とは、1)、意図的に投擲したのか、それとも、2)、路上に投げ捨てたのかという事実認定である。

 

 別の焦点は、警官隊とデモ隊との乱闘が発生したのかどうかになるが、メーデー事件と違って、大須・岩井通り事件においては、乱闘はまったく起きていない。ただ、メーデー事件、吹田事件と異なるのは、2つがすでに流れ解散状態にあったデモ隊にたいして、武装警官隊が明らかに違法な拳銃発射などによる先制攻撃をしたのにたいして、大須・岩井通り事件においては、火炎ビン携帯をして行進開始中のデモ隊にたいし、武装警官隊4大隊980人が、挑発者・挑発物を使って、拳銃発射5人11発などによる先制攻撃をしたことである。

 

 『第一審判決』は、火炎ビン携帯を、証拠採用された検事調書に基づき、個人名も特定し、48本33人と認定した(P.368)。その内訳は、(1)5本1人名電報細胞長片山博、(2)3本1人岩月清、(3)2本9人、(4)1本22人である。デモ隊における火炎ビン携帯者の比率は、33÷1500=2.2%である。

 

 さらに、大須・岩井通り全体における火炎ビン投擲行為を24本18人と認定した。内訳は、(1)5本1人名電報細胞長片山博、(2)2本2人梁一錫と朴正熙、(3)1本15人である。2つの使用形態の区別はさておいて、使用者の比率は、18÷1500=1.2%だった。

 

 『検察研究特別資料』が主張する証拠物「現場に遺留されていた火焔瓶は31個(P.230)である。「遺留」とは、使用されず、放置されていた火焔瓶も含む。

 

 『控訴趣意書』『上告趣意書』において被告・弁護団が主張するように、「最低でも2000人のデモ隊」で計算すると、33÷2000=1.65%になる。共産党は、たしかに火炎ビン武装デモと、それによる中署・アメリカ村攻撃の計画と準備をした。実際に、共産党日本人細胞と朝鮮人祖国防衛委員会は、火炎ビンを製造した。しかし、デモ隊員の実態は、2.2%、もしくは、1.65%しか火炎ビンを携帯していなかった。このデータは、大須・岩井通りにおける騒擾状況の成立認否をする上で、決定的な要件の一つになる。

 

 『真実・写真』において、被告・弁護団は、火炎ビン使用本数を、大須・岩井通り全体で約20本と規定した。『上告趣意書』においては、「一部投擲行為があった」ことを認めているが、その大部分は「清水栄警視の拳銃5発発射と警官隊890人のいっせい襲撃に驚いて、岩井通り路上に投げ捨てた」ことによると主張している。

 

 となると、大須・岩井通り全体における火炎ビン使用本数に関しては、『第一審判決』の24本と、被告・弁護団の約20本とは近似値となり、ほぼ合致した。

 もっとも、『第一審判決』は、他のいくつかの場所で、「氏名不詳暴徒」を大量に含め、私(宮地)が数えた総計によると火炎ビン77本が投擲されたとも記述している。それは、「検事調書」による個人名特定の証拠裏付けもなく、憶測による裁判所のでっち上げ断定である。

 

 2、デモ開始5分後 (10時00分〜5分+5分)

 

(地図3) デモ開始5分後のデモ隊と警官隊

 

 清水栄警視・警告隊長は、デモ隊東進5分間・250mという襲撃予定地点で、事前方針通り、警察放送車を停車させた。そして、運転手と火炎ビン消火任務の野田巡査ら2人を残して下車した。

 

 共産党愛日地区軍事委員・テク担当の警察スパイ鵜飼照光は、デモ隊の15、6列目に配備されて、南側車道を行進していた。彼は、事前に警察から渡された火炎ビン2本を携帯していた。郡部・春日井市の愛日地区軍事委員長森錠太郎は、地区内で、火炎ビン製造を指令していなかったからである。もちろん、表側の愛日地区委員長酒井博も、火炎ビン製造の指令など出していない。

 

 鵜飼照光は、放送車停車の合図とともに、北側に10m離れた車道で停止した放送車に向って飛び出し、車輌後部から火炎ビン2本を投入した。放送車は後部ドア開閉式になっていた。投入スタイルが、(1)後部ガラスを割ってなされたのか、それとも、()少し開かれた後部ドアから放り込まれたのかは不明である。なぜなら、警察は、放送車の後部写真を一枚も公表せずに隠蔽し、かつ、警察・検察にとって絶対に有利な物的証拠となるはずの放送車そのものを、早々と廃棄処分にして、証拠隠滅を謀ったからである。彼は、投入後、警察との事前打合せ通り、直ちに現場から逃げ去った。他に投石をした者も一人いた。

 

 野田巡査は、あらかじめ積載していた濡れむしろを使って、事前訓練どおりに、発火した2本の火炎ビンを消しとめた。ちなみに、火炎ビンは発火・炎上するだけで、爆発はしない。最高裁も決定したように、それは、爆発物取締法適用外の物品である。よって、消火時間は、数秒か十数秒だった。上記地図で、分かりやすいように、炎上の図を書いたが、車外にまで炎が出たことはない。運転手による運転、または、警官による押送によって、警告隊は、すぐ放送車を15、6m東進させ、再停車し、2人が下車した。

 

 

▲現場写真(10) 手前の大きく写っている警官で、左手に六尺棒をもって

いるのが運転手であった横井巡査。向う側が野田巡査。放送車内で消火

し完全に消し終えてから下車したと、法廷で証言している。デモ隊は進行中

である。路上には一発の火炎ビンも炎上していない。(『真実・写真』P.25)

 

 証拠写真が証明するように、2人が下車した瞬間において、デモ隊は隊列を崩さず、整然と行進していた。隊列の一部は、南側車道をはみ出て、市電軌道上にいるが、放送車との距離は、まだ5m前後ある。ただ、放送車内の火炎ビン発火を間近で目撃した者のごく一部は、火炎ビン数本を投擲した。

 

 しかし、その事態は、警察・検察の大いなる目論見外れだった。警察・検察官僚の机上作戦・予想では、本来なら、火炎ビン武装デモ隊が、警察放送車とスパイ鵜飼照光という挑発物・挑発者の罠にまんまとひっかかって、放送車に殺到し、2000本製造計画の火炎ビンを大量に投擲するはずだった。火炎ビン内部発火をさせた放送車という警察のおとり物件が絶大な効果を挙げ、挑発にひっかかったデモ隊を一挙に「騒擾罪適用! 暴徒の全員検挙」指令で一網打尽にできる見通しだった。

 

 13日前の6月25日、吹田事件において、共産党大阪府委員会と朝鮮人祖国防衛委員会による1000人の火炎ビン武装デモ隊が、整然と行進していた。そのとき、デモ隊のごく一部が、隊列の横を挑発的に追い越そうとした警察輸送車にたいして、数本の火炎ビンを投擲した。大須・岩井通りにおける挑発=第3の騒擾罪でっち上げの机上作戦は、検察庁・警察庁首脳と名古屋地検・名古屋市警幹部たちが、吹田事件の教訓に基づき、その明晰なエリート頭脳を振り絞って作成したものであり、完璧な成功を収めると期待されていた。

 

 吹田事件だけでなく、そもそも、挑発者・挑発物の実験効果は、前日7月6日の広小路事件においても、再度証明されたはずだった。そこでは、(1)名古屋市警刑事による住友ビル5階からの窓枠落しと、(2)その挑発の罠にまんまとはまったデモ隊の憤激とビル入口への殺到という暴力行為を激発させ、(3)12人を逮捕した上に、「火炎ビン製造2000本計画と準備」を書いた「玉置メモ」という貴重な獲物までも捕獲できたのだった。

 

 清水栄警視は、武装警官隊1000人によるいっせい襲撃を促す第2合図としての拳銃連射予定という重大任務を帯びていた。彼は、思わざるデモ隊の整然とした事態にうろたえた。放送車は、すでに15、6m東進し、再停車した。しかし、彼は、名古屋市警本部長宮崎四郎から「あの人は非常にしっかりしていると思いましたので」と高く評価され、警視21人の中から特別選抜された43歳のエリートだった。警察官僚として拳銃発射任務に忠誠を誓った彼は、事前計画通り、放送車が最初に停車した地点において、拳銃を5発連射した。

 

 清水栄警視は、名古屋市警本部防犯少年課課長だった。少年担当の彼は、水平発射した銃弾で、朝鮮人少年の半田高校生申聖浩の後頭部を打ち抜き、即死させた。拳銃連射と警官隊いっせい襲撃に驚いて、後ろ向きに逃げていた申少年は19歳だった。彼の母は、後に、彼の遺骨を持って、朝鮮民主主義人民共和国に帰国した。

 

 武装警官隊4大隊980人は、(1)放送車内の火炎ビン発火と(2)清水栄警視の拳銃連射という2つの合図を受けて、北側車道から南側車道のデモ隊に向けていっせい襲撃を開始した。

 

 3、デモ開始5分30秒後 (10時00分〜5分+5分30秒)

 

(地図4) デモ開始5分30秒後のデモ隊と警官隊

説明: map4

 

 『第一審判決』は、警察放送車周辺において使用された火炎ビンを17本と認定した。『第二審判決』『最高裁決定』も同じである。大須・岩井通り全体における火炎ビン使用本数は、上記のように、『第一審判決』24本、被告・弁護団の『真実・写真』約20本である。全体の本数から見れば、17本は実態に近い。その地点における使用比率は、17÷24≒71%である。

 

 『上告趣意書』も認めているように、その使用形態と本数は、2つある。第一、放送車内の火炎ビン発火に挑発されて、南側車道上から放送車に向けて投擲した本数と、第二、清水栄警視拳銃連射と同時の武装警官隊980人のいっせい襲撃に驚いて、北側車道上、または、市電軌道上に投げ捨てた本数を含む。

 

 『名古屋高検答弁書』が主張するように、3番目の使用携帯もある。第三、「デモ隊は、警官隊に襲撃されたら、火炎ビン投擲で防御し、抵抗するという方針・認識で一致していた」と推定し、火炎ビン使用者18人の一部が、襲撃してきた警官隊に向けて投擲したと、名古屋高検は主張した。それも一部は事実であろう。『名古屋高検答弁書』とは、『第一審判決』を不服として名古屋高裁に出した『控訴趣意書』にたいする名古屋高検の反論文書である。

 

 『第一審判決』は、放送車周辺における火炎ビン使用者を、13本11人と特定した。その内訳は、第一、放送車に向けた投擲を8本6人とした。第二、放送車付近道路上に投げた火炎ビン5本5人と認定した。デモ隊における使用者比率は、11÷1500≒0.7%になり、1%にも満たない。もっとも、13本11人は、上記の17本と食い違っている。いずれにしても、この実態が、警官隊980人のいっせい襲撃の合法的な理由になりうるのか。また、大須・岩井通りにおける騒擾状況の成立要件になるのか。

 

 デモ隊は一瞬にして崩壊した。拳銃を水平連射しつつ、短い警棒ならぬ「警杖=長い6尺棒」を構えて、北側車道から同時襲撃を開始した武装警官隊980人にたいして、デモ隊が立ち向かい乱闘するような状況はまったく起きなかった。これは、メーデー事件における警官隊とデモ隊との大乱闘発生状況と、大須・岩井通り事件との決定的な違いの一つである。

 

 (地図4)にあるように、デモ隊先頭にいた名大生隊列40人中の2、30人は、放送車の発火と消火にも気付かず、東進を続けた。先頭部分は、崩壊が数秒間遅れた。後部隊列の全面崩壊にもかかわらず進んだ距離は、『上告趣意書』によると、5mから20mだった。この事実は次のことを意味する。()、春日神社から「前進待機」していた早川大隊370人の先頭となった山口中隊は、北側車道を西進し、計画的に、南側車道の名大生隊列と平行交叉した。(2)、山口中隊は、2つの襲撃合図とともに、北側車道側から、名大生の後を進んでいた朝鮮人祖国防衛委員会隊列に向けて総攻撃を開始した。(3)、その作戦目的は、事前計画・準備通りに、大須繁華街に逃げ込ませないで、あくまで、デモ隊を南方に追い散らす行動だった。

 

 4、デモ開始6分後 (10時00分〜5分+6分)

 

(地図5) デモ開始6分後のデモ隊と警官隊

説明: map5

 

 清水栄警視の拳銃5発連射に引き続いて、山口中隊の4人が南方に崩壊したデモ隊目掛けて、拳銃を6発発射した。無差別の水平射撃によって、4人はデモ隊以外の周辺の人3人に命中させた。警官隊5人11発の連射音を聞き、死者・負傷者が出たことによって、先頭残存の名大生隊列を含めて、デモ隊列は跡形もなくなった。警官隊は予定通り、南方に崩壊したデモ隊の掃討作戦段階に移行した。

 

 名古屋地検羽中田次席検事ら3人は、名古屋地検検事正安井栄三の命令によって、名古屋市警中署に違法な事前出動していた。彼らは、騒擾罪発令のタイミングを謀っていた。名古屋市警宮崎四郎本部長が、自慢気な告白をしたように、「検察庁の検事公安部長、次席検事が現場に出て居られて、生のニュースをパトロールカーから聞き乍ら事態の研究をされ、即座に騒擾罪の法条を適用されることを決定された」。検事ら3人は、名古屋地検検事正安井栄三、東京で待機していた検事総長、名古屋高検藤原末作検事長と緊急連絡をしつつ、騒擾罪発令の状況判断を進めた。

 

 (地図5)に書いていないが、「空き地」以外は、歩道南北に商店が並んでいる。警官隊に追いかけられて、崩壊したデモ隊は、「空き地」や南方全域に逃げた。一部は、北方の大須繁華街に逃げ込んだ。

 

 

 5、崩壊デモ隊員による投石・罵声などの散発的抵抗

 

 〔小目次〕

   1、デモ隊崩壊後の抵抗状況と騒擾罪発令

   2、デモ隊列が「数十秒間」から1分間で完全崩壊した原因

   3、朝鮮人祖国防衛委員会・祖防隊員の抵抗行動とその位置づけ

 

 1、デモ隊崩壊後の抵抗状況と騒擾罪発令

 

 デモ隊1500人隊列、もしくは、「最低でも2000人」隊列は、上記のように、1分間または「数十秒間」で崩壊した。15、6m東進して再度停車した警察放送車西方の北側車道上と市電軌道上には、投擲または、投げ捨てられた火炎ビン13本の炎があった。これら炎の写真情景は、火炎ビン13本程度の発火と判定できる。ただ、下記写真(『真実・写真』P.46)以外の写真多数が証明するように、大須・岩井通り路上から、実弾6発装填拳銃と6尺棒を構えた警官隊980人以外の人影は消えていた。これら警察放送車写真2枚を合成したでっち上げ写真問題とマスコミの国家権力犯罪加担責任という問題があるが、それは、『第4部』で分析する。

 

 

 崩壊したとはいえ、警官隊の違法な先制攻撃にたいして、個々のデモ隊員たちが、強烈な憤りを抱いたのは当然だった。彼らは、南方空き地や大須繁華街において、個々人として、分散的に、投石や罵声を浴びせた。ただし、隊列を組み直して、投石などの抵抗する状況はまったく生れなかった。散発的な抵抗行為の存在については、被告・弁護団の全文書とも、当然の正当防衛行動として認めている。

 

 『警察庁回想』が記す負傷者数は、(1)警察官71人、(2)暴徒側17人、(3)一般人18人である(P.201)。警察・検察は、警官の負傷原因・程度などのデータを公表していない。『検察資料』、『第一審判決』、被告・弁護団文書も、なぜか双方の負傷者数値や負傷原因・程度をまるで載せていない。『メーデー事件に関する検察研究特別資料』は、拳銃発射警官名・発射数とともに、双方の負傷者数・程度を克明な(部外秘・表)で示した。警察官71人負傷が事実とすれば、その原因は、デモ隊崩壊後の投石という抵抗行動によると思われる。武装警官隊980人全員が、火炎ビン対策の薬品を携帯していたが、もし火炎ビンのガソリン・硫酸混合液を被った負傷ケースであれば、その数値と割合を公表しそうなものである。

 

 デモ隊列崩壊の中で、日本人デモ隊員や朝鮮人祖国防衛委員会隊員たちは、清水栄警視によって射殺された半田高校生申聖浩の遺体を、祖国防衛委員会のバスに乗せ、警官隊の検問・包囲をかわしつつ、鶴舞の名大医学部病院に運んだ。医学部の学生たちは、遺体を安置し、徹夜で守った。彼らは、警察の尋問にたいして、遺体を運んだ人の名前を明かすことを拒否することで抵抗した。それにたいする報復もあってか、名大学生被告9人のうち、医学部学生関係は4人を占めた。

 

 その状況において、検察庁3者は、緊急連絡を取り合って、午後10時30分、第3の騒擾罪適用を決断した。そして、名古屋市警全体に「騒擾罪適用! 全員検挙!」の指令を発した(『真実・写真』P.17)。3者とは、(1)中署にいた羽中田次席検事ら3人、(2)名古屋地検にいた安井検事正、(3)東京で待機していた検事総長、名古屋高検藤原検事長らである。

 

 警察・検察は、事件現場を保存する現場検証を、デモ隊員が一人もいなくなった大須・岩井通りにおいて、10時35分から開始した(『真実・写真』P.17)。もっとも、名古屋地検は、公判において、「騒擾は11時30分迄続いた」と主張した。

 

 『第一審判決』が認定する罵声とは、「馬鹿野郎」「税金泥棒」「それでも日本人か」などである。警官隊は、「全員検挙! 全員検挙せよ!」の指令がパトカーから流れた中で、その罵声を発したことを理由として、抵抗発言をする者も検挙した。裁判官は、それらの罵声も騒擾罪の成立要因と認定した。

 

 2、デモ隊列が「数十秒間」から1分間で完全崩壊した原因

 

 変な言い方や余計な憶測とも言えるが、この事件経過において、デモ隊列側が、なぜ「数十秒間」から1分間で完全崩壊し、メーデー事件のような、警官隊にたいする大乱闘を起こさなかったのかという疑問も残る。というのも、共産党と朝鮮人祖国防衛委員会は、中署とアメリカ村への火炎ビン武装デモの計画と準備をしてきたからである。その武装行動の計画変更は、デモ開始の1時間前の午後9時頃に決定され、大須球場の現場に指令されたにすぎない。

 となると、デモ隊員1500人側が瞬時に崩壊したことについて、その原因をいくつか検討することも必要かと思われる。

 

 〔第一原因〕、火炎ビン武装デモの計画・準備期間の短さ

 

 火炎ビン武装デモの計画・準備が、共産党日本人細胞段階や朝鮮人祖国防衛委員会末端段階で具体化された期間は、わずか3日間しかなかった。火炎ビン製造を行なったのは、祖国防衛委員会における事前からの製造を除いて、1日前の7月6日だった。その短い期間では、中署・アメリカ村に火炎ビン攻撃をするより前の地点において、武装警官隊と激突し、それを突破し、攻撃目標地点にまで到達するという思想的準備はまるでできていなかった。

 

 デモ隊中心部分の実質は、3日間、または、1日間で組織された「速成の部隊」だった。デモ隊の半分以上は、大須球場大会終了の瞬間に、名大生2人が「デモに参加しよう!」と呼掛けことで、初めて、デモをやることを知り、そのスローガンに賛同し、無届デモに加わった大会参加者だった。メーデー事件、吹田・枚方事件では、共産党が、その月日に向けた準備を、1カ月間以上もしてきた。

 

 〔第二原因〕、火炎ビン携帯者の比率の少なさ

 

 火炎ビン製造目標は2000本だった。祖国防衛委員会は、5、6月から約60本を製造していた。しかし、共産党日本人8細胞は、1日前だけで製造し、約95本だった。合計は155本である。『第一審判決』は、火炎ビン携帯を、48本33人と認定した(P.368)。デモ隊における火炎ビン携帯者の比率は、33÷1500=2.2%である。これらの実態は、中署・アメリカ村火炎ビン攻撃部隊というレベルでなかった。

 

 その33人以外のデモ隊員は、武装警官隊が襲撃してきたら、乱闘で応えるというような武器を何一つ持っていなかった。メーデー事件では、火炎ビンがなかったので、共産党軍事委員会は、人民広場突入方針に当って、警官隊との乱闘用の角材・プラカードを大量に持ち込むよう指令していた。大須事件では、火炎ビンが中心武器だったので、角材はごくわずかだった。また、武装警官隊大隊980人が、デモ隊を北側車道からいっせい襲撃する計画と準備を完成させていたなどとは、想定もしていなかった。

 

 〔第三原因〕、警官隊と乱闘をする思想的組織的中心としての「中核自衛隊」未結成

 

 共産党名古屋市ビューローと軍事委員会は、武装闘争遂行の中軸部隊としての「中核自衛隊」を創っていなかった。以下は、私(宮地)が、元名古屋市軍事委員長千田貞彦に直接聞いた証言である。彼は、5月30日金山橋事件で、6月9日に逮捕されるまで軍事委員長だった。大須事件1カ月前の時点において、名古屋市軍事委員会は非合法のピストルを一丁も持っていなかった。また、党中央軍事委員会から、名古屋市に「中核自衛隊」を創れという指令もきていなかった。武装警官隊と激突し、乱闘するというような思想的組織的準備はなかった。6月9日までの時点で、「球根栽培法」などのパンフを軍事委員みんなが読んではいた。しかし、党中央軍事委員会からも、名古屋市ビューローからも、火炎ビンを製造せよという指令はなかった。7月5日名古屋市軍事委員会の隊長会議以前は、このような武装闘争レベルにあった。

 メーデー事件では、共産党軍事委員会は「中核自衛隊」を数百人規模で結成し、警官隊との激突を想定して、その軍事訓練も行っていた。

 

 3、朝鮮人祖国防衛委員会・祖防隊員の抵抗行動とその位置づけ

 

 ただ、デモ隊列が、「数十秒間」から1分間で完全崩壊した後、日本人と朝鮮人との抵抗行動に若干のレベル差があったのではないかと思われる。祖国防衛委員会の方が、武装警官隊にたいし、日本人よりも勇敢に抵抗したのではないかという推定である。もっとも、大須事件に関する検察・裁判所や被告・弁護団の全文書は、一切そのテーマに触れていない。吹田事件における在日朝鮮人の行動と役割については、下記の2人が高く評価している。しかし、具体的な数字データを載せていない。

 

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』在日朝鮮人の行動とその位置づけ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』在日朝鮮人の行動とその評価

 

 1952年当時、在日朝鮮人の約70%は、北朝鮮系の民戦に参加していた。民戦は、武装闘争共産党の民族対策部の指導下にあった。民戦参加の在日朝鮮人が置かれた状況はどうだったのか。

 (1)、日本敗戦によって、在日朝鮮人の権利意識、差別とのたたかいは一気に高揚し、日本各地で激しい政治・生活要求運動になった。それにたいするマッカーサーと日本警察の弾圧は過酷なものだった。マッカーサーは、1949年9月、「在日本朝鮮人連盟(朝連)」「朝連民主青年同盟」を強制解散させた。「朝鮮人学校」の大部分の閉鎖を命令した。その組織構成比率は、「在日本朝鮮人連盟(朝連)」40万人、「民団」20万人である。

 

 ()、日本敗戦後も、在日朝鮮人にたいする差別待遇・意識は、変わっていなかった。

 

 ()、大須事件3年前の大弾圧に抵抗する在日朝鮮人40万人の闘争は激烈だった。しかし、その闘争は、日本政府・警察によって、徹底的に弾圧された。その9カ月後、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮系在日朝鮮人40万人にとって、それは、まさに「祖国防衛戦争」だった。民戦・祖国防衛委員会の活動家は、日本共産党員になっていた。彼らは、共産党軍事委員会の武装闘争指令を「日本における朝鮮戦争」と受け止めた。そして、メーデー事件・吹田事件・大須事件において、その先頭に立ってたたかい、武装警官隊にたいし、日本人共産党員以上に、勇敢に抵抗した。

 

 (表2)は、北朝鮮系在日朝鮮人が、大須事件において、どのように参加し、抵抗したのかの比率を示すデータである。ただ、デモ隊1500人における日本人と朝鮮人との参加者比率は分かっていない。メーデー事件・吹田事件において、警察・検察やその被告・弁護団は、このような数字データを公表していない。

 

(表2) 大須事件における祖防委・祖防隊員の比率

火焔瓶製造

当夜検挙

検挙総数

起訴者

懲役刑

懲役実刑

全体

155

124

393

150

55

5

朝鮮人

60

73

223

70

26

2

比率

39

59

57

47

47

40

 

 当夜検挙比率は、『警察庁回想』(P.201)のデータである。これが、当夜における在日朝鮮人の抵抗行動の度合いを示す証拠の一つになる。警官隊が、掃討戦段階になって、崩壊したデモ隊員たちに突撃し、大量検挙をするとき、日本人と朝鮮人との区別をつけられないからである。逮捕者全員を中署に連行したら、在日朝鮮人の比率が59だったことが判明した。

 

 

 6、大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否

 

 1、デモ開始5分間・250mの状況の認否

 

 これは、通常の平和的デモだった。かけ声はあったが、じぐざく行進をしていない。武装警官隊は北側車道に姿を現していない。北側車道には、警察放送車1台だけが「無届デモだから解散しなさい」と警告放送をしつつ、デモ隊のやや東前方を平行に東進していた。検察側、裁判所とも、この状況を騒擾罪に該当しないと明確に認めている。

 

 2、放送車への火炎ビン2本投入と清水栄警視拳銃5発連射後における1分間の状況の認否

 

 この時間は、「数十秒」、または、1分間である。武装警官隊4大隊980人は、2つのいっせい襲撃合図と同時に、北側車道の3方面からデモ隊250m隊列に向って突撃した。5人11発の拳銃連射音が鳴り響いた。警官隊全員が、長い「警杖=6尺棒」を振りかざして襲いかかった。

 

 抵抗の武器・火炎ビンを携帯していたのは、わずか33人だった。彼らのうちの数人は、放送車に向けて投擲し、または、道路上に投げ捨てた。何の武器も持たない者は、1500−33=1467人いた。その比率は、1467÷1500≒98%になる。市電軌道を挟んだ距離は10mである。4列から8列で長く伸びたデモ隊列は、真横全面からの襲撃を受けて、その場では抵抗するすべもなかった。大須・岩井通り上の250m隊列は瞬時に崩壊した。

 

 この「数十秒」、または、1分間において、大須・岩井通り250m上に騒擾罪適用といいうる状況など、まったく発生していない。この詳細は、4枚の地図とその事実認定で証明した通りである。

 

 3、崩壊デモ隊員による散発的な投石・罵声などの抵抗状況の認否

 

 デモ隊列は完全に崩れたが、違法な先制攻撃をした警官隊にたいして、投石・罵声などを浴びせる抵抗をした。それは、当然の正当防衛行動となり、その違法性は阻却される。投石といっても、あらかじめ用意した物でなく、空き地や周辺路上にあった石である。罵声だけを理由とし、その場で検挙された者も多い。『第一審判決』なども、ことさらのように罵声内容を書き、騒擾罪適用の認定根拠の一つとした。

 

 これらの散発的な抵抗は、午後10時30分頃まで続いたといえる。検察庁は、午後10時30分「騒擾罪適用! 全員検挙!」を発令した。武装警官隊980人と私服刑事3班75人は、その後も、大須・岩井通りの南北各200mを掃討範囲として、検挙活動を行った。

 

 この時間帯における抵抗は、あくまで正当防衛行動である。よって、騒擾状況など発生していない。

 

(表3) 騒擾状況発生の認否事項

時間

火炎ビン使用

投石

罵声

乱闘

死傷者

開始5分間

なし

なし

なし

なし

なし

1分間

1317

なし

なし

なし

拳銃死者1、負傷3

6分後以降

11〜7本

あり

あり

なし

デモ隊17、警官71

 

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 (関連ファイル)

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」