中国密航と50年8月・周恩来との会見

 

中国共産党宛の日本共産党信任状第二号

統一回復・北京機関・武装闘争の3結論を持ち帰り

 

宮島義勇著・山口猛編

 

 ()、これは、宮島義勇著・山口猛編『「天皇」と呼ばれた男―撮影監督宮島義勇の昭和回想録』(愛育社、2002年)からの抜粋です。全体が660ページの大著で、その内、「第3部戦後篇・第1章共産党時代」から、第2節〜4節(P.406〜427)の全文を転載しました。共産党時代に撮った彼の記録映画『血のメーデー』は有名で、撮影監督としての他の映画は多数あります。映画好きの私(宮地)は、彼の大ファンで、この著書末尾の「フィルモグラフィー」データを見ると、20数本を観ています。『若者たち』『人間の条件』『切腹』(下のスチール写真)などは、繰り返し観て、その撮影観点・カメラワークに引き込まれました。

 

 共産党時代における重要な仕事は、人民艦隊で中国に密航して、周恩来と会見し、下記3つの結論を持ち帰って、徳田・野坂に伝えたことです。日本共産党公認党史では、北京機関を準備したのは、「信任状第1号」の安斎庫治となっていますが、実際は、「信任状第2号」の宮島義勇だったことが、彼の証言によって判明しました。50年分裂時期における中国共産党との関係、周恩来の日本情勢判断など、これは貴重な資料です。3つの結論については、私(宮地)の判断で、黒太字にしました。このHPに転載することについては、愛育社の了解をいただいてあります。

 

 〔目次〕

   二、共産党本部へ

      製作再開  共産党本部へ  徳田球一  コミンフォルム批判  対立激化

   三、中国密航と周恩来

      志田重男  天津  北京  周恩来との会見  中国に渡った意味

   四、帰国

      徳田球一への報告  野坂参三との再会

      宮島義勇年譜(共産党時代の抜粋)

      編者山口猛略歴

  

 

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    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」、宮島義勇

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24

    Mun Kunsu『1951年「民戦の武装闘争開始」』経過 『1952年「民戦」の武装闘争』

 

 二、共産党本部へ

 

 製作再開

 

 話はいささか飛躍したが、昭和二三年一○月一九日、最後の闘争委員会を招集、報告して、実質的な東宝争議は終わった。東宝を辞める一七人は全員共産党員だったが、それぞれ身の振り方を考えなければならなかった。一つのグループは伊藤武郎を中心にプロダクションを作っていくことになった。新星映画、あるいは配給を受け持った北星映画であり、もう一つはフリーで違うグループを作り、後にキヌタ・プロとなったものだった。宮森繁と僕は共産党本部に行くことになり、宮森は文化部、僕は日本共産党中央委員会書記局事務に入ることになった。

 

 しかし、共産党本部に行く前に僕は争議で中断していた亀井文夫監督『女の一生』を仕上げなければならず、一一月から撮影を再開した。その撮影の最中、印刷所のセットが原因不明の火事で燃えたという事件が起きた。撮影所全体が再開し、分裂した民同も日映演も一緒に仕事していたから、どうも民同の計画的な放火のようだった。しかし争議の時と同様、消防署で調べても結局、原因は分からず、この作品の仕上げは大幅に遅れることになった。

 

 この撮影を終えると、僕は最後に撮影所でこう話した。「これで争議は一応終わり、二七〇名の馘首は撤回させた。だから、この争議は別の意味で勝利といえるだろう。しかし本当の意味では勝利ではない。これからは、もっと厳しい戦いが始まるだろう。その時のために俺は一時映画の仕事を辞める。共産党に行って党の仕事をして、君たちの仕事をバックアップするような仕事をしたい。俺たちは一度ここを撤退するけれども、必ずもう一度あらゆる映画戦線を集結して、ここをわれわれの撮影所にするだろう」。格好よすぎる演説だったが、皆は泣いて見送ってくれた。そして僕の映画歴は一時中断することとなる。

 

 共産党本部へ

 

 共産党本部に行った昭和二四年は、四月四日にNATO(北大西洋条約機構)が発足、一〇月一日には中華人民共和国が成立した。

 当時、共産党で一番人数が多かったのは出版部で、僕が行くことになった中央委員会書記局事務には部員が四、五人ほどいて、海員組合の田中松次郎がボスのようにしていた。後は東欧の飛行機事故で死んだ梶田茂穂という男がいた。書記局事務の仕事は、書記局の専門部以外の問題で書記局で担当すべきことであり、それぞれが一国一城の主のような顔をして並んでいた。僕には「社会保障並びに失業対策の問題を調べろ」という課題を与えられ、社会保障問題が最初の仕事だった。

 

 当時の共産党の方針は、敗戦後の復興問題が中心であり、経済政策をどうするのかが大きな問題だった。それ以外にも中華人民共和国が成立し、ソビエトとの貿易も細々と回復し始めてきたことで、新たな問題も浮かび上がってきた。それまで日本経済で一番大きな比率を占めていた中国との貿易を今後どうするかが急速浮上し、まず日中友好運動を始め、並行して日中貿易促進の問題を取り上げることになり、僕に白羽の矢がたった。それで調査部で調べ、あるいは市民対策部を集めて、「日中貿易促進会」という組織を作る方針を出した。

 

 これに一番乗ったのが神山茂夫であり、中国帰りの野坂参三の耳にも入って、野坂から、「お前、赤旗で社説を書いてみろ」とまで言われた。それで社説を半分ほど書いたのだが、野坂に見せたらボツになり、書き直された。当時、日中貿易を中心に考えることは、「物取り主義だ」という意見もあったけれども、野坂はそれを肯定し、「物取り主義恐れるに足りず」と言った。それは共産党の中枢にいた野坂だから言えたことであり、野坂の直した文章を見て、僕はなるほどと思ったし、そんなことで、むしろ野坂とは仲良くなった。と同時に、僕は日中貿易だけではなく日ソ貿易、日ソ友好協会、さらに朝連が解散寸前だったので日朝協会、つまり社会主義国家との友好関係を組織化して、統一する方向、いわば国際部の扱う問題にまで広げていった。

 

 しかし、そこまで広げてくると、党全体として扱う部署としては書記局ではなく統制委員会の問題になってくる。当時、統制委員会の議長は宮本顕治で、この国際関係のグループに彼が出てくる。宮本は大衆運動を全然知らず、原則論と基本的なことしか言わないけれども、この問題を通して、一年くらい付き合った。

 

 神山、野坂、宮本と、いわば僕は共産党本部で、戦前からの伝説上の人物と会って仕事をしていたようなものだったが、野坂は以後も僕の撮った映画をずっと見てくれた。小林正樹監督『人間の条件・完結篇』(六一)では、ソ連兵によって中村玉緒が強姦され、殺される件や、仲代達矢が捕虜になったシーンなどに見られるように、ソビエト批判が出てきて、共産党内ではそれが問題になった。

 

 その当時、僕は本部とは離れていたけれども、党の仲間とは会うことがままある。そんな時、彼らは『人間の条件』が反ソ、反共ということで、「おい、あそこのシーンは行き過ぎだぞ」などと言ってきた。僕は、その時は「原作にあったことを、そのまま映画にしただけだ」と答えたが、その後、野坂が「あれは事実に近い。心配するな」という手紙をわざわざ僕にくれたこともあった。

 

 徳田球一

 

 一九四九年は一月、総選挙で社会党が一一一議席から四八議席へと大敗したのに対して、日本共産党は四議席から三五議席に一気に躍進した。だが同じ一月にトルーマンの反共声明、二月にGHQの共産党に対する声明、七月に下山事件、三鷹事件が起きて、そのたびに本部の中が沸き返っていた。

 

 僕が徳田球一を立派な人だと思ったのは、共産党の関与が噂された三鷹事件の時だった。この時は、竹内景助の自白で、共産党は関係ないことがはっきりしたことで赤旗の連中は「号外を出す」と喜んだ。それまで共産党が濡れ衣を着せられ、苦しんでいたからでの反応だったが、徳田球一が凄い勢いで怒鳴り込んできた。「バカ! お前ら、そんなことで号外なんか出すな。あの真犯人も労働者だ。お前ら、そのことを腹の底に入れて、よく考えてやれ」

 

 これには、なるほどと思ったが、占領軍の反共攻撃はやむことがない。それに対し当時の共産党は、進駐軍を解放軍と規定しているから、対応が難しい。「マッカーサー万歳!」を共産党で叫んだのが徳田球一だという話も出たことがあるが、これは違っていた。本当のところ、そう叫んだのは、後に都議会議員になり、少しそそっかしいところがある岩田英一で、それは本人が自分でも言っていた。ただ府中の刑務所に入っていた徳田球一、志賀義雄、西沢隆二などは占領軍によって解放されたので、心理的にはアメリカ軍は解放軍であると感じただろうし、現実にも「赤旗」には、そのような趣旨のことが書いてあった。

 

 ところがGHQの基本的方針の変更後の一九四八年八月一九日に目の前にアメリカ軍が来て対抗せざるをえない時には、たとえ共産党が解放軍であると思っていたとはいえ、当事者の僕にしてみれば、憤りしか感じられなかった。しかも、照明の田畑正一君が池袋で争議をアピールする演説をしていた時には、アメリカ軍を誹謗したという理由で一年実刑になったし、東宝の青年部の行動隊が行く先々で、MPやアメリカ兵にこづき回されて帰ってきたということもあったから、なおのことだった。

 

 共産党内部でも、「占領軍に対して、はっきりした態度をとってもよいのではないか」という意見も出てきたが、「今の権力機構は武力によって占領されている。その武力に立ち向かうだけの力を考えてからやらなければならないだろう」という意見が大勢であり、改めての見直し論議にはならなかった。

 

 アメリカ映画ボイコット運動にしても、僕が言い出して、共産党の正式会議にも出したが、「党の方針とは違う。アメリカ映画のボイコットはやってはいけない」と止められたし、周辺からも色々言われた。

 

 コミンフォルム批判

 

 アメリカ軍の反共政策が露骨になってきた一九五〇年一月六日、コミンフォルム機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」所載の“オブザーバー”執筆の論文、「日本の情勢について」において、日本共産党の最高指導者野坂参三の平和革命論を批判したのがきっかけで、コミンフォルム批判が出されてきた。

 

 本部の一部は混乱し、コミンフォルム批判に対して様々な意見が出された。当初徳田球一は所感という形で、外国の同志が日本共産党の言動に意見を挟むことを批判した。これに対し志賀義雄、宮本顕治、春日庄次郎等は「コミンフォルムの批判だから、そのまま受け入れるべきで、そのために所感に反対」という態度だった。それで徳田等が所感派、志賀、宮本等は国際派と呼ばれることになった。

 

 共産党本部には、受付のテーブルが書記局、政治局の部屋の真ん前にあり、僕はそこで書記局事務をしていた。だから、書記局、政治局の部屋に入る人々の顔色は全部分かる。そこで昼間、ほとんど仕事がない僕は通達を書き、パンフレットを作り、文化部で宮森君などと話をしていた。ようやくマルクス、レーニン全集が出始めた頃でもあり、僕は改めて勉強し直した。

 

 僕が書いた通達には、配る係りがいて、夜になると通達を見た幹部が集まってくる。特にコミンフォルム批判が出たので、連日のように幹部たちの会議が開かれ、会議室の中で意見を戦わせているのが分かる。閉め切っているから僕には内容は分からないけれども、ある時、志賀さんがドアをバーンと開けて出てきたことがあった。それで応接間とは名ばかりの部屋に行ってひっくり返り、医者を呼んで注射を打っていた。

 

 幹部がそんな有様だったから、本部の中でもグループが出来た。主流派と呼ばれた所感派と、反主流派である国際派の対立も激化してきた。しかも、それぞれが自分のところへ引き入れるための活動をしていて、国際派と思われていた僕にも誘いがきた。

 

 対立激化

 

 一月一八日から二〇日まで第十八回拡大中央委員会総会が開かれ、政治局の「所感」は撤回され、志賀義雄は意見書を撤回、野坂参三は自己批判をすることで収拾した。中央委員は大会で決まるために、僕は中央委員にはなれなかったが、総会には各専門部から副部長級まで出ることになっていたし、書記局事務の形で評議員として僕も出席した。そこで皆が討論するが、僕はそこで初めて徳田球一の六時間の演説を聞くことになった。

 

 次いで四月二八日に開かれる第十九拡大中央委員会総会までに本部細胞会議が開かれた。共産党員は必ず細胞に属していて、細胞会議には出席しなければならない規約があり、本部にいる党員は本部細胞に属している。この本部細胞には徳田球一以下全員細胞員で、細胞委員は必ず細胞会議を開くべきものだった。「赤旗」は赤旗細胞が本部細胞とは別にあったが、本部細胞は皆忙しくて全員が集まることは難しい。ただ、それは規約違反なので、一度他の仕事はやめて開いたことがあった。

 

 その時には、徳田の所感を批判し、野坂に自己批判を要求する「志賀意見書」も出回っていた。政治局、書記局全員、当の野坂も出席したが、コミンフォルム批判に関しては細胞会議でも激しい意見が出され、所感派、国際派が激突した。

 僕は国際派の会議に二、三度出たけれども、話が現実的でなかった。これは亀山幸三、袴田里見も書いていたことだが、本部の政治局、書記局員は口では「マルクス、レーニン主義」と言っていたにも拘らず、本当に勉強していたのは少ないのではないかと僕には思えた。刑務所に入っていた党員はマルクス主義、レーニン主義関係の本を獄中では読むことなど出来なかったし、出てからは無茶苦茶に働いていた時代だから、読書の時間があるはずがない。だから理論的なレベルはそれほど高くはない。それに対して本部以外の外部団体には学者もいて、高い水準を持っていたが、彼らにしても実践的な役割を担っていた共産党本部の意見に左右せざるをえなくなる。

 

 僕自身はコミンフォルム批判を正しいと思っていたから、野坂は当然自己批判すべきだと考えていた。結局、野坂は二月六日に「私の自己批判」で自らの平和革命論を自己批判することになった。

 

 

 三、中国密航と周恩来

 

 志田重男

 

 四月二八日、第十九回中央委員会総会が開かれて、新しい綱領草案「五〇年テーゼ」が討議された。また五月一日がメーデーで本部の大半が参加するために出ていったが、僕は用があって本部に残っていた。その時、同じく残っていた志田重男から声を掛けられた。彼の指導の下で、僕は社会保証問題、失業反対闘争を行っていたが、彼とは比較的仲がよく、一度ソビエト大使館に呼ばれた時には、酔った彼を担いで帰ったこともある。

 

 「宮島君、日中貿易はどの程度までいっているのかね。可能性はあるのか」

 実際にはやってみなければ分からないことだが、僕なりの方針はあった。日本の貿易では、かつて中国から輸入していた物資がほとんど足りなくなっている。一つは肥料に使っていた満州の大豆、二つ目は海南島の鉄鉱石、三つ目は山東省の食塩だった。この三つ、つまり重工業のための鉄鉱、重化学工業のための食塩、そして農業のための大豆が日本の復興のためには重要であり、貿易促進会のグループを召集して討論すると、どうしてもこの問題が出てくる。

 

 「なかなかやるじゃないか。それならば中国に行って、そのことを話してくれないか」

 「それはどういう意味ですか」

 「まあ、段取りだけはつけてあるから」

 まさかこうした重要なことが、その場で、しかも志田の独断で決まるはずもないから、きっとどこかで決められていたのだろう。志田は話をつけただけだったが、半ば命令のようなものであり、僕も党員だから引き受けることにした。

 「そうか、行く前に徳球と野坂に会っていけ」

 志田が席をはずし、政治局の部屋に行くと、まるで決められていたかのように野坂参三が待っていた。

 「お前、志田から聞いたか」

 「ええ、聞きました」

 「じゃ、信任状を書いておく」

 

 共産党員たるものはどこに行くにしても、信任状が必要だった。例えば僕が本部から関西委員会に行く時、周りの人々は僕を知らない。そのような時に信任状を見せれば、持参した者がどういう資格で来たのかが分かる。知らないところへ行く時はもちろん、知っているところでも、正式な会議にはこの信任状を持って行かなければならなかった。僕は初めて党発行で中国共産党宛の信任状を受け取り、名前も野坂によって林吉海(リン・チーハイ)と変えさせられた。野坂は書いた後にこう言った。

 「いい名前だな。お前、本名は義勇というんだな。読みは似ているけれど、字が違うから、まあいいだろう」

 

 それで僕は中国共産党に林吉海という名前で行くことになったが、そこまでは貿易問題の話しか聞いてはいなかった。それ以外の任務については何も言われていなかったけれども、志田が「貿易促進の話をしてこい」ということは、その貿易を共産党の管理下に置けば、かなりの資金源になることを意味していただろう。もっともこれは僕の勘だけれども、具体的な指示はなく後はこっちの腕次第というところだっただろう。

 

 「お前、向こうで面倒なことがあったら、周恩来に会うようにしろ。それと行く前に徳球に挨拶していけ」

 周恩来の名前がいきなり出たので、僕はこう言った。

 「相手は国際的な革命家で、こっちは日本共産党中央委員として行くとしても、駆け出しのチンピラですから、どうなるかは分からない。森の石松のようなものでしょう」

 「そう言わずに行って、会ってこいよ」

 

 野坂とは、割に冗談も言えるようになっていたから、こうした軽口も叩けたが、三月に密命を授けられて北京に潜行した安斎庫治が中国の幹部と会えなかったからなのだろう。中国側と具体的にどういう話をしろとは言われなかった。

 

 野坂の話が終わり、表に出ると、西沢隆二が待っていた。僕は彼に連れられて中野区方南町に住んでいた徳球の家に行ったが、そこには既に長谷川浩が来ていた。長谷川はすぐに帰ったが、徳球は僕たちだけになっても具体的なことは何も話さず、「ご苦労さん」とだけ言った。体調を崩していて、具合が悪いということだったらしいが、後で考えると、徳球は僕が中国に行くことにあまり賛成ではなかったのだろう。戦争が終わっても、新たにアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営との冷戦が始まっていたから、その緊迫しつつある国際的事情の中に日本の党が入っていくのは性急過ぎ、もう少し様子を見たほうがよいという考えを徳球は持っていたのではなかったかとも思う。

 

 と同時に、六月六日にマッカーサー元帥が日本政府に対し、二四人の日本共産党前中央委員を公職から追放する指令を出したから、そのことは共産党としても、百も承知だっただろう。この時期、僕は後で八幹部とか、九幹部とか言われる地下に潜った幹部の大半に会っていた。

 

 親父(徳田球一)の家から出ると、僕は西沢に連れられてあるところに行った。そこには岡田文吉と中国人がいて、僕は中国人に紹介されたが、本名ではないことは互いに分かっていた。そこで具体的な話をして床屋に行き、中国人風に頭を刈られて汽車に乗り、神戸から船で中国に渡ることになった。

 

 天津

 

 日本を発ったのは五月二日。出発のわずかな間に、僕は貿易問題、税関、発注や契約についての事務必携の本などをあわてて買って、船の中で読んでいた。だから本来僕の仕事である中国と一緒に映画を作るためにはどうするかなどについては、この時は考える余裕さえなかった。そして僕に同行した中国人の劉君は、後で分かったことだが、中国共産党の要人だった。目的地は天津で、着いたのが五日か六日だった。上陸すると中国共産党天津委員会のメンバ一五、六人が熱烈歓迎をしてくれて、いきなりこう言われた。

 

 「日本の現状について、特に日本の反米闘争についての状況を聞きたい」。僕は貿易のことで来ているのに、話が違うと思ったけれども、書記局事務にいたおかげで色々なことをよく聞いていたから、向こうが聞きたいことの事情は分かる。だから基地反対闘争に関しては、石川県の海岸線に女の人が座り込んで演習をやめさせた話、九十九里浜の闘争などの話をした。しかし、向こうは宮島義勇がどんなことをしてきた男なのかは知らない。それで僕が当事者だった東宝争議で、戦車数台に対して労働者が素手で立ち向かった話などをすると、劉君は東宝争議についても十分知っているから、彼が輪をかけて話を大きくして喋り、大いに受けた。

 

 当時、革命直後の中華人民共和国に日本から行っていたのは安斎庫治だけであり、僕は二人目だった。けれどもアメリカの占領下から脱出した日本人ということで、大歓迎された。

 天津で僕が住んでいた家は、元々は英国租界にあった建物であり、英国人が去った後に中国が接収して管理人を置いていた。僕はその家の一部屋を与えられ、食事は天津委員会から運んでもらっていた。しかし、まだ国内が完全に安定していたとはいえず、外国人も多くないことがあったからだろう。「あまり外には出ないようにしてくれ」と、行動が制限されたために、自由に外に出ることが出来ず、管理人が毎朝持ってくる「人民日報」を一日中読んでいた。新聞の文字は今の簡体文字ではなく、漢字を省略していなかったから、読めば見当がつく。ただしそれを読んで、食事をしてしまえば、後はすることがない。

 

 日本で聞いていた予定では、天津からすぐに北京に行くはずだったのだが、いつまでたっても、北京とは連絡がつかない。後に新聞で知ったことだが、連絡がつかないのも当然だった。というのは、その時北京では第一回の人民代表大会、日本の国会にあたる会議が毎日開かれていて、共産党幹部は僕に会う暇などあるはずがなかった。部屋に閉じ籠もりっぱなしだといっても、戦争中に浜松の陸軍の時とは追って、僕は心理的には解放されているし、軟禁されているわけでもなかった。行動は制限されていたとはいえ、出かけようと思えば、事前に断ればいつでも出ることが出来た。

 

 けれども、一度外に出た時、中に鍵を忘れてひどい目に遭ったことがあった。その日は朝飯の後に新聞を読み、昼飯を食べてから散歩に出たところが、部屋に帰ると、鍵がないことに気がついた。ドアが閉まると自然にロックされる仕組みになっていて、窓越しに見るとテーブルの上に鍵が置いてある。あわてて管理人を呼んだけれども、管理人は満州出身の農民で日本語は分からないし、僕は中国語が話せない。英語で「キー!」と叫んでも駄目で、手振り、足真似でなんとか管理人を理解させて、「合い鍵はないか」と聞いたら、「今はないから夕方まで待て」ということだった。それで、夕食の時にやっと開けてくれた。

 

 この間、劉君は方々を競って案内してくれた。一度は当時流行のプロパガンダの劇で「劉胡蘭」というタイトルの芝居を見せてくれた。内容は、満州の少女が日本軍に抵抗し、首を切られて殺される。彼女は一六歳、まだ共産党には入ることは出来なかったが、少女が死んで東北地方が解放された時に毛沢東が来て碑を建て、改めて彼女を共産党員にしたという話だった。その芝居の中で、日本軍が鉄砲をガンガン撃つ場面があり、その音がやけに響いたのが気になった。そのことを聞いてみると、その芝居を公演した場所が昔の博打場であり、それを共産党が接収して人民会堂に変えただけだから、前の建物の名残りで反響が大きかったのだろう。

 

 芝居ばかりではなく、ソビエト映画も見に行ったし、時折、食事も外ですることがあった。食事の時には向こうはたえず気にしていて、僕が少しでも残すと、どこがまずいかを聞いてくる。それでも、出してくれた中華料理はおいしかったし、あらゆる点で僕は優遇されていた。

 

 天津に滞在していた六月二日か、三日頃だっただろう。いつものように「人民日報」を読んでいたら、東京で五月三〇日に起きた「五・三〇人民広場事件」の記事が出ていた。これは民主民族戦線東京準備会主催の人民決起大会で、臨席中の進駐軍関係者五人に対する暴行事件だった。これに対してアメリカ軍が弾圧し、学生労働者八人が検挙された。その中に「前田稔」という名前が載っていた。前田実は僕が教えたことのあるキャメラマンで、後に山本薩夫監督『箱根風雲録』(五二)、『太陽のない街』(五四)の撮影を担当することになるが、僕の第一回作品から一貫して助手に付いていた。後で別人と分かったが、その時は「前田までもっていかれるなんて、日本もひどいことになった」と思ったものだった。そのことを鮮明に覚えているから、五月一杯は天津にいたということになる。結果として一月近く、六月五日くらいまでは天津にいた。

 

 北京

 

 北京に着いたのは六月一〇日前後だった。北京には地方や他の国から来た者を泊まらせる招待所があり、僕もその一つに泊まることになった。昔の中国の邸宅であり、まず門、中庭があり、正面には主人が住む広間が、両側には房がある。その房には、かつては第二夫人、第三夫人が住んでいたものだった。日本共産党の中央委員クラスならホテルに泊まるのだろうが、僕はそうではない。それでも僕は日本共産党の代表なので、右奥の一番いい房に割り当てられ、食事は共同で中庭が食堂代わりになった。僕と一緒に食事をしていた人は「スイスに講師に行く」と言っていたが、房には実に色々な人がいた。

 

 僕が初めてこの招待所に着いた時、一緒になった人から「林さんは、革命運動にどれくらい参加したのですか」と、聞かれたので、「共産党に入ったのは戦後だけれども、それ以前の学生運動から数えると、二〇年以上は革命運動に参加している」と答えた。半ば法螺を吹いたのだけれど、革命運動歴によって食事も違ってくる。招待所に住んでいる従業員は一番下のテーブル、僕ら海外からの訪問者は二、三番のテーブルだった。これはどういうことなのかといえば、当時、中国共産党では月給は現物支給だった。しかし給料に格差があるように、米の量は一定だとしても、煙草や酒といった嗜好品の配給で多少差をつけていて、それが招待所の食事にも表れていた。

 

 そこでも「人民日報」を読んでいたが、六月六日に、マッカーサーによる共産党前中央委員の公職追放の記事が載っていた。その記事を見て、僕は内心納得するものがあった。つまり日本共産党はそうした政治的に追いつめられた状況になったために、あわてて僕を北京に派遣したのだろう。

 

 僕は日中貿易に関する意見書を五日くらいで書き上げた。原稿用紙がなかったので、便箋一〇校くらいに書いて、僕と日本から一緒に来た劉君が翻訳してどこかに持っていった。この意見書は、今、考えると親日派の廖承志あたりが読んだと思うが、劉君が「向こうに伝えておいた」と言ってくれたから、後は具体的な返事を文書でもらえば、建前上、僕の任務は終わることになる。

 

 ところが返事がなかなかこない。それで天津以上に自由に振る舞い、毎日京劇や、ソビエト映画、中国映画を見て歩いた。僕が暇だと向こうが見せてくれる。だが、戦後の中国を巻き込んだ国際情勢は、朝鮮をめぐって緊迫の度を深めていた。六月二五日、つまり朝鮮戦争が勃発した朝のことだった。僕が寝ている最中から、隣の部屋でガヤガヤ騒いでいる。目が覚めて何事かと思ったら、世話役の劉君が飛んできた。

 「えらいことになった。国境線で、韓国と北朝鮮で戦争を始めた」

 国際情勢を分析しているから、アメリカ軍が参加することは当然と思えたし、日本はアメリカの占領下にあるから、その発進基地になる。それからというもの、毎日が朝鮮戦争のニュース一色で、状況は劉君から色々聞いていた。

 

 僕はある日、劉君にこう言った。

 「周恩来に会いたい」

 朝鮮戦争が拡大する中で、このまま僕が何もせずに北京にいても埒があかないし、「困ったことがあったら周恩来に会え」という野坂の話を思い出して、一度、周恩来に会おうと考えた。というのは周恩来に貿易問題をどうするつもりなのか、直接聞きたい、それでなんらかの結論を出そうと思ったからだった。

 

 「分かった。しかし周恩来に会う前に、日本の党の現状報告を出してくれ」。そのために一週間くらいかかり、コミンフォルム批判後の問題、新しい五〇年テーゼの問題、それに対応する問題について、自分が知っている範囲内で、なるべく主観を交えないで書いて提出した。野坂の平和革命論に対する自己批判に始まり、それ以後の綱領問題についても書き記した。とりわけ五〇年テーゼで起草された日本の権力規定について、つまり「天皇制権力は残存している」、「地主的土地所有はむしろ拡大している」こと、アメリカ軍のトロイカ権力などの情勢分析、それに対する戦いが不十分なことを書いた。さらに所感派の徳田、野坂と、国際派の志賀、宮本の名前を出して、対立があることを書き、持ってきてはいなかったが、所感派を批判した「志賀意見書」などの参考資料を挙げて、「中国共産党として検討してほしい」という意見書を書き上げた。

 

 われながら堂々たる文章で、それを劉君が必死で翻訳して提出した。書き上げてからは、劉君と二人で西太后別荘のある人造湖へ遊びに行ったり、京劇、最新のソビエト映画も見た。ところが全部吹き替えで、スターリンが中国語で喋っている。エイゼンシュテイン監督『イワン雷帝』も見たけれども、どれもこれも中国語で、内容は勘で見当をつけるしかない。もちろん、一人歩きは出来ない状況だったけれども、僕は北京の街はよく知っていた。戦争中『指導物語』(四一)のロケーションで一月ばかりいたし、その前にも来ていて、合わせると北京には一年くらいいたことになる。だから北京の街の変化を見るためにも本当は一人で歩きたかったが、無理をせず、おとなしくしていた。

 

 周恩来との会見

 

 八月の一〇日前後だったが、僕は周恩来と会うことになった。劉君からは「昼間はとても忙しいから、夜の九時過ぎに来てほしい」と言われ、北京城の中にある彼の家を訪れた。出てきた周恩来は写真よりも活気があり、おまけにすごい美人の秘書が付いていた。通訳が一人、そして雛大鵬(ス・タイ・ホー)という男が一緒だった。

 

 早速、討論が始まったが、まず周恩来が口を開いた。

 「君はフランス語を話すことが出来るか」。周恩来はフランスに留学していたし、英語も話せる。日本語にしても一、二年明治大学にいたから、分かるはずだった。

 「いや、日本語だけだ」と僕が答えると、「日本語か、俺は忘れたよ」と笑って、和やかになったが、具体的な話では、いきなり日本の権力問題、日本国内の階級構成の問題から始まった。夜の九時半からで、招待所に戻ったのが午前二時か三時だから、三、四時間討論したことになる。

 

 世界でも有数の革命家と話すわけだから、僕としては大変な背伸びだった。もっとも映画撮影に関しては、僕は世界一流だと思っていたし、そういう精神的な支えがあったからこそ、背伸びも出来たのだろう。しかも日本共産党中央委員を代表して来ているから、周恩来に対しても、そう負けてはいられず、ある意味では言いたいことは言った。それでも間に通訳が入っているから、表現はどうしてもやわらかくなる。

 

 こうして背伸びをした討論の中で、最後にいくつかの結論が出てきた。それは亀山幸三、渡辺義通の聞き書きがあるが、間違ってはいないけれど、見当はずれだった。亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」(現代評論社刊)によると、「一、徳田をすぐ密航させよ、二、非合法組織を作れ、三、軍事方針、武装闘争の準備をせよ」の三つの問題を持ってきたとなっているが、約四時間の討論を三つの短い言葉にまとめられるものではない。ただ報告しやすいように、僕は三つの問題に整理した。

 

 一、今の日本共産党の状況では、まず分裂の状態から、全体の統一を図らなければならない。所感派、国際派ではなく、党の統一をとることが第一だ。

 二、今、党の中心に弾圧が加えられている。この幹部を絶対に守らなければならない。

 三、反米闘争を中心に、農民を軸にして日本人民は立ち上がらなければならない。特に、今の朝鮮における戦争は拡大するだろう。それに対する対応をはっきりさせなければならない。ある場合には武装闘争が必要になるのではないか。争議の場合に根拠地をどこに置くかの問題は十分に考えなければならない。

 

 周恩来は徳田に直接中国に来るようなことは言わなかったが、「幹部を大切にしろ。そのためには中国は出来るだけ援助をする」と言った。このことは「亡命政府を北京に作れ」ということにも理解出来る。また、僕が「武装闘争をする指令を持って帰ってきた」とも言われているが、そうではなく、「ある場合には必要であろう」という意味にすぎない。

 

 日本の階級構成の問題について、周恩来はこう言っていた。「日本の国民の過半数は農民であるから、農民を中心に闘争を組まなければならない。しかしながら、農民の闘争は微弱であるから、農業問題を重視しなければならない。そして農民の間に根拠地を置いて都市を包囲し、都市の労働者の闘いと合流する」

 

 これは中国共産党お得意の戦術で、向こうが提案してきたことだった。ただ、それは日本では既に中央委員会で討議されていることであり、この根拠地論争については、僕はこう述べた。「日本の工業の発達が遅れているのならば、都市を包囲する戦術は成り立つかもしれない。しかし日本の労働者は敗戦があったとしても、工業は急速度で拡大している。その闘いを組まなければならず、簡単に中国方式をあてはめることは出来ないし、納得は出来ない」

 

 「現実問題として、主要都市、軍事基地を包囲出来るのは農村、山岳地帯である。それを君は考えないのか」

 「しかし中国と違って、日本の山岳地帯はケーブルカーですぐ登れるほどのものでしかない」

 周恩来は「全体として、日本の農民運動は遅れている」と、いわゆる毛沢東戦術を主張した。僕は「意見としては聞いて報告はします」と言ったが、背伸びもいいところであり、討論を打ち切って、後は本来の目的である貿易問題について話した。

 

 「それはこれからの問題として考えるけれども、まだ中国は建設が必要な時期である。状況を睨み、中国との友好関係、経済協力、文化交流と併せて、別の形で討論したい」

 「僕は日本に帰って報告する。貿易に関しては専門家を後から送るから、それと相談してほしい」

 この貿易のことを併せて四つの問題を持ち帰ることになり、僕は任務を果たしたことになる。

 

 中国に渡った意味

 

 振り返ってみて、野坂が「困った時には周恩来と会え」ということは、「討論をして、中国共産党の意見を持ち帰れということだ」と、僕は改めて思った。元々、僕の中国行きの信任状は二号で、一号は中国で乞食(こじき)が出来るとまで言われたほど中国語が堪能な安斎庫治だった。そのため徳田球一が使いとして出し、本人も自信を持っていた。彼は満鉄調査部にいた学者だし、論争も出来た。ところが彼は満鉄にいた当時、関東軍との結びつきから内蒙古の徳王の独立運動に参加していて、そのことを中国の政治局は知っていた。だから彼が北京に来ても中国共産党は受けつけず、失敗した。

 

 それを知った徳田は落胆し、代わりとして、中国関係の仕事をしていた僕に対して、「あいつなら、何かをするかもしれない」と思ったのかもしれない。元々は志田重男の案だと思うが、それを野坂が了承した。そのきっかけとして民間貿易の話で共産党の資金を吸い上げる目的で話を進めれば、僕でも出来るだろうという計算があったと思う。しかし本題は中国共産党の意見を知ることだった。僕と一緒だった劉君が中国共産党の中央委員だったことで、少しはパイプがあり、また天津で初期的な形ではあったけれども、僕は日本の反米闘争についての報告を書いた。まだ中国は米軍援助の蒋介石と闘っていた時期で、しかも北京では経済の建て直しを検討している時に、僕の日中貿易の論文があった。内容は、日本の工業、農業は中国に期待している。東北の大豆(肥料、豆腐、味噌、醤油)、山東省の食塩(重化学工業)、鞍山の鉄鉱、海南島の石炭、この四本柱が貿易の基本であり、貿易も可能である。

 

 これは僕の案ではなかったけれども、まとめ方がうまかったのか、中国の利害とも一致する点があると思ったのだろう。それに続く日本共産党の報告にも、中国側が知りたいことが書いてあったし、中国から日本に派遣している人々からの報告とも合致していたから、信任状以外にも、「林吉海を日本共産党中央委員として認め、周恩来も会ってよい」ということになったのだと思う。その間、僕はずっと、試されていたようなものだった。

 

 

 四、帰国

 

 徳田球一への報告

 

 八月一九日、僕は日本の玄関の横浜に上陸した。行く時は東宝争議以来のボロボロの服だったが、北京にいる間に服を作ってもらった。なにしろ共産党本部の月給はベースが五千円で家族手当てがついて、やっと八千円で、東宝にいた時とは大違いだった。

 東宝に在籍していた時、僕は最高の給料を貰っていた。戦争中は二〇〇円だったが、三浦光雄さんでも一八〇円くらいで、二〇〇円は僕以外には三村明さん、唐沢弘光さんだけだった。唐沢さんは主任手当てが二〇円付いて二〇〇円。ところが僕が主任になると、基本給が二〇〇円だったところに二〇円の手当てが付いて、二二〇円。結局唐沢さんより多くなったわけで、給料が高いことは嬉しいとはいえ、恐れ多かった。戦後はインフレで、新円でどのくらいだったのか、ストライキに忙しく、自分の給与は覚えていないが、高かったことは確かだ。

 

 中国で作ってくれた服は山繭から取った立派なものだったが、日本に上陸すると、そんな生地は日本にはないし、怪しまれるので、すぐに売り飛ばしてしまった。

 僕は一銭も持たずに東京を発ったから、中国での滞在費は全て中国共産党持ちだった。帰りも船に乗って、どこの港に着くのかも分からないまま、旅費と生活費を貰って帰った。上陸地は当初清水港の予定だったが、危ないというので、急遽横浜に変更した。横浜は、学生時代三年間過ごしたところだから、焼け跡の様子を見ながら関内、桜木町と歩き、桜木町から国電に乗った時には、改めてホッとした。

 

 それで家に帰ったが、何も言わずに出ていったから、益子や母は驚いた。益子は共産党本部に行って、僕の行方を聞いていたが、本部自体が六月の公職追放以来、「アカハタ」の発行停止、そして新聞界でもレッド・パージと弾圧が広がり、僕が中国に渡ったことなど、皆目分からない。そんな時、大村英之助が「宮島は中国に行っているのではないか」と家族に知らせてくれたが、詳しいことは彼も知るはずがない。知っていたのは、共産党でも、野坂、志田、西沢、徳田、岡田くらいの少数の幹部だけだった。

 

 僕は家に帰っても、本部のことが気になってしかたがなかった。追放されたといっても、中国で聞いた範囲内では、共産党本部はまだあるという。ただ、それ以上は日本共産党の代表として来ているのだから、中国共産党に聞くわけにはいかない。

 

 八月二二日、久しぶりに僕が本部に行くと、すでに椎野悦朗が臨時中央委員会議長になっていた。それで椎野に挨拶していたところに、西沢隆二が飛んできた。

 「よく帰ってきた。だけど、お前は本部には来るな」。そのまま西沢と四谷に出て打ち合わせ、「すぐに徳田球一に会うように」と言われた。徳球はその時岐阜に潜んでいたが、名古屋から車で向かった。まだ夏の暑い日で、徳球は裸で塩鮭とお茶漬けの昼飯を食べていた。

 

 「おい、宮島、一緒に飯を食え!」

 「いや、名古屋で飯は食ったからいいですよ」

 「そうか。それで、どうだった」と、徳球とは一時間くらい話しただろうか。

 「うん、よし! 考えは大体同じだ」

 

 その時徳球はしきりに「平独、平独」と言っていた。「平独」とは「アカハタ」が発行停止になり、「平和と独立」が非合法機関誌になっていたことから、徳球がそれを省略して言ったものだった。

 「おい、こういう状況だ。読んでおけ」

 僕は、「ああ、日本もこういうことになったのか。いよいよ非合法の時代だ」と思いながら、帰り際に「野坂にも、このことを話しておいてくれ」と言われて、徳球と別れた。

 僕は柿羊羹を野坂の土産にして、大垣から汽車に乗って東京に戻った。

 

 野坂参三との再会

 

 野坂とは、買ってきた柿羊羹でお茶を飲みながら、中国での話をした。その時、野坂は非合法時代のための変装として眉毛を剃っていたから、僕は、「正面はよくても、横から揺られる時には気をつけなければならない」と、映画技術者の立場からメーキャップの話をした。それで本題に入り、野坂に話をして、僕の中国の任務は全て終わったが、すぐ後に、もう一度西沢が来た。つまり僕の報告を受けて、中国に誰が行くのかということだった。

 

 今度の任務は後の北京での徳田機関を作り上げるための準備であり、元朝日新聞論説委員の聴涛克巳を送ることになった。僕も聴涛に連絡法などを話したが、その時の彼は何かの事情で断ったため、もう一度、僕に白羽の矢が立った。今度僕が中国に行く目的は、「徳田、野坂に報告して、『基本的には一致する』との返事を持っていくこと。貿易問題に片をつけること。徳田、野坂をどのようにして無事に闘いに参加出来るようにするか」ということだった。

 

 それで亡命政府の意見がまとまり、僕がもう一度日本共産党代表で行くことになり、横浜で準備をしたのだが、便の都合がつかず、機会を逃した。結局、僕は残り、後で聴涛が行くことになった。僕が、中国に再渡航するように言われたのは九月の初めだったが、すでに、徳田、野坂は中国に渡っていた。

 

 「六・六問題」、つまりレッド・パージ以後、日本共産党は二重組織になった。表面に立っているのは椎野議長だが、彼も翌昭和二六年九月四日に公職追放、逮捕令が出たことによって、潜ることとなり、代わりに田中松次郎が出て、各組織も二重組織になる。代々木の本部はごく少数になり、それ以外は非合法的な会合を持ちながら活動をしていた。僕は中国から帰ってからは、中国関係の仕事を手伝っていたが、西沢から「文化部に映画委員会があるから、そこの仕事を手伝ってほしい」と言われた。

 

 僕が中国から持ってきた三つの問題は後から色々類推された。第一の「党の統一と団結」の問題は、宮本顕治系の国際派が愕然とした「九・三論文」に関わってくる。つまり九月三日付けの「北京人民日報」が日本共産党の内部問題に介入し、「今こそ日本人民は団結して敵にあたるべきときである」という社説を掲げ、「一八拡中委いらいの中央委員会の正しい路線の上に統一すること」を要求した論文だったが、これは僕と周恩来が討論したことだった。

 

 二番目の「幹部を大事に守る」という問題は、徳田、野坂を中国に送るということで具体的になった。最後の、その後起きた武装路線、軍事綱領の問題は、その基本問題を持ってきたということで、僕にも責任の一端はある。だから、後で起きた事件から推測して、亀山幸三が「宮島は三つの問題を持ってきた」と記すことになったのだろう。

 

 

 宮島義勇年譜(抜粋) 一九四八〜一九五二年

 

 一九四八(昭和二三)

 四月八日、会社側が一二〇〇名の首切り案を提示。

 四月二〇日、日映演臨時全国大会開催、東宝第三次争議始まる。亀井文夫監督『女の一生』撮影開始されるが、途中で中断。

 七月一八日、分裂派による東宝労働組合連合会設立。

 八月一九日、撮影所にアメリカ軍と官憲が入り、仮処分を受け入れる。

 一〇月、東宝会社幹部と会い、東宝社長渡邊銕蔵と日映演東宝分会連合会議長としての宮島との間で覚書が交わされ、東宝争議終結。東宝退社。代々木の日本共産党本部書記局事務として入る。

 

 一九四九(昭和二四)

 亀井文夫監督『女の一生』(一月二五日封切)。

 党本部で社会保障問題、失業問題調査、次に中国との貿易促進、友好問題に取り組む。

 

 一九五〇(昭和二五)

 一月六日、コミンフォルム批判。

 一月一八日、一八回拡大中央委員会出席。

 四月一八日、一九回中央委員会総会出席。

 五月二日、志田重男の命により、四日に中国へ密航。神戸港より出港し、天津に着く。

 六月一〇日、天津から北京へ。

 六月二五日、朝鮮戦争勃発。

 八月初旬、周恩来と会う。

 八月一九日、横浜港に上陸。

 徳田球一、野坂参三と会い、周恩来の報告を伝える。再度中国に行く予定だったが、中止。

 記録映画『缶詰工業』

 一一、一二月、映画委員会に出席を始める。

 

 一九五一(昭和二六)

 瀧口修造、武満徹等と美術映画『北斎』製作を企画するが、資金的に頓挫。

 前進座と新星映画社の提携作品、今井正監督『どっこい生きてる』をパルボで撮影(三/一二〜五/二七)、戦後独立プロ運動のスタートとなる。

 今井正監督『どっこい生きてる』(七月四日封切)

 山本薩夫監督『箱根風雲録』撮影(一一/一二〜五二/二/七)予定の伊藤武夫キャメラマンが失踪(丸ビル事件)。それに関連し、CICから手配され、地下潜行。

 九月八日、サンフランシスコ講和条約締結で地下から出る。記録映画『屍を越えて』

 

 一九五二(昭和二七)

 党本部に宮島を映画界に戻すことを求める上申書が出される。野坂参三に呼ばれ、年に一本程度映画を撮ることを勧められる。

 記録映画『真実は勝利する』で、松川事件を扱う。

 この年の「血のメーデー事件」を撮影した記録映画『血のメーデー』

 五〜七月、「赤平事件」で前進座の中村翫右衛門に逮捕状が出され、北京に亡命。

 吉村公三郎監督『暴力』(八月二六日封切)

 記録映画『独立と平和の旗の下で』

 映画百科辞典(白揚社刊)の準備を始める。

 

 編者略歴 山口 猛(やまぐちたけし)

 

 一九四九年一二月二九日宮城県生まれ。劇団状況劇場を経て映画を中心に著述活動を続けている。現在東京芸術大学講師。

 著書に『幻のキネマ満映−甘粕正彦と活動屋群像』(平凡社)、『松田優作―炎静かに』(立風書房)、『映画撮影とは何か―キャメラマン四〇人の証言』(平凡社)、『別冊太陽 映画監督溝口健二』(平凡社)、『近代日本と植民地7巻―文化のなかの植民地』(岩波書店、共著)、『別冊太陽 蜷川幸雄の挑戦』(平凡社)、『上海シネマと銀座カライライス物語―波瀾万丈、柳田義兵衛の八十年』(集英社)、『映画美術とは何か−西岡善信と巨匠たちとの仕事』(平凡社)等、最新書に『映画俳優安藤昇』(ワイズ出版)がある。

 

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 (関連ファイル)

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    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』広場の7人が語る〔真相〕

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

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    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

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    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」、宮島義勇

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24

    Mun Kunsu『1951年「民戦の武装闘争開始」』経過 『1952年「民戦」の武装闘争』