61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀
異論・反対派全員の排除・除名と満場一致大会
小山弘健(宮地編集)
(注)、これは、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)からの一部抜粋である。それは、61年綱領採択めぐる第7回大会前後の綱領路線論争と第8回大会までの論争実態、および宮本顕治による異論・反対派全員の排除・除名実態と、彼の満場一致大会演出の裏工作というテーマのみを、抜粋・転載した。
全体は6章49節・431ページあるが、抜粋の章・節は、〔目次〕にあるように、限定した。このファイル題名は、私が付けた。(宮地編集)という意味は、私が綱領路線論争という面のみから、抜粋の章・節を取捨選択しており、かつ、各節内に私の判断による青太字「小見出し」を付けたことによる。
〔目次〕
第4章7節、第七回大会と綱領のもちこし (P.230〜239より抜粋)
第5章1節、新中央の反対派工作 (P.243〜249より抜粋)
第5章2節、党勢拡大と党内統制 (P.249〜256全文)
第5章4節、構造改革派とモスクワ声明 (P.265〜270全文)
第5章5節、綱領論争と党の分裂 (P.270〜283全文)
第5章6節、第八回大会のしめすもの (P.283〜288全文)
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第4章7節、第七回大会と綱領のもちこし (P.230〜239より抜粋)
第七回党大会一一日間と大会代議員構成
第七回党大会は、一九五八年七月二一日から中一日を休んで八月一日まで、まる一一日間、東京中野公会堂その他一カ所でひらかれた。第六回大会から、じつに一一年ぶりであった。出席者は約五万の党員を代表して四四五名、もちろん非公開で、中央は会期中各代議員を分宿させて罐づめ状態におき、よこの連絡を不可能にした。(中略)所属階層別の構成では、経営細胞選出の労働者代議員が全体の四・七%しか占めないのに、党活動専従者(常任活動家)が七二%と圧倒的に多かった。高年齢層と常任活動家の比率がたかいことは、戦後一三年にして党がはやくも革命の党として老化現象を呈しつつあること、職場や経営の生きた状況が十分に反映されがたくなっていること、を証明するものであった。
だがそうであるにせよ、この大会は、六全協後混乱・苦汁・再編成の三年をへたのち、自己をふたたび革命の党、前衛の党としてどのように回生させようとするのか、綱領・組織・戦術の各方針のなかにそれをどのていど具休化しうるのか――そのことを大衆のまえに公然と提示するための最上の機会であった。日本の共産主義の運動と思想は、ある意味でこの大会に、過去からの脱皮とあたらしい前途への発足の成否を賭けていた。
中央主流の大会「予備会議」と役員選考委員から二名排除
大会の中心議題は、すでにみたように党章草案における綱領と規約の部分、五〇年問題、役員人事などであった。はじめの二日間は、中央主流の「予備会議」として、ここであらかじめ大会の運営と役員についての腹案がきめられた。大会の日程から議題の討議の方法までも、すべてここできめられた。この予備会議では、それでまず大会幹部間・役員選考委員会・資格審査委員会・選挙管理委員会などの大会役員についての腹案をきめたが、それらは各地方ごとの被すいせん者と若干の中央委員とによって構成された。党中央としては、大会幹部団と役員選考委員会を大会の運命を左右するかなめとして、まず完全におさえておく必要があった。
それで開幕早々、東京都党から大会幹部団や役員選考委としてすいせんされてきた革新派の有力分子・芝寛(都委員会書記)と武井昭夫(都委員)のふたりを、「悪質な旧転向者」「党にたいして不誠実なもの」という理由で、強引にしりぞけてしまった。予備会議初幕から、中央の官僚的よく圧と先制攻げきをうけて、革新派の戦闘意欲は大きくそがれてしまった。
党章草案における現状規定と二段階革命の戦略方針
議題の最大は、党章草案であり、大会では党章派と反党章派(社会主義革命派)にはっきり色わけされた。これは、前年からの綱領論争の展開で、すでに予想されていたところだった。五一年綱領がわが国を「植民地・従属国」としてあつかったのにたいし、党章草案は、「高度に党達した資本主義国」とあらためた。アメリカとの関係では、「アメリカの全般的占領支配の下にある」というのをかえて、半占領状態にあるとし、結局日本を「高度の資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定した。
日本を基本的に支配するものは、アメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独占資本勢力との、二つであるとされた。それで、当面の革命は、民族の完全独立と民主主義ようごのための「人民民主主義革命」であるとし、これを「社会主義革命に急速に」発展させるべきだとした。いわゆる二段階革命の戦略方針をとったのである。
反党章派の主張と勢力、それによる綱領部分の不採決
予想されていたように、討議は、日本の現状と権力の規定、対米従属のていどとその意義、きたるべき革命の性質などをめぐって、集中的に展開された。党章に反対するひとたちは、国家権力はアメリカ帝国主義によってにぎられているのでなくて、主権に多くの制限をうけているにせよ日本の独占勢力がこれをにぎっている、だから当面の革命の性質は、日本の独占権力を対象とし、そのなかに反米独立闘争をもふくむところの反独占社会主義革命であるべきだ――と主張した。
中央の少数意見を代表する春日庄次郎や鈴木市蔵、関西や中国に多い一段階階革命の支持者たち(内藤知周ほか)、日本の独占権力にたいする構造改革のコースをつうずる社会主義革命を主張する東京都委員会の革新派、独占の重視によって党章の従属性重視を批判する中西功、その他多くの代議員が、対米従属・民族独立を第一義とし二段階革命の戦略をとる党章に反対する点で、一致した。
論争は本会議で決着がつかないために、綱領小委員会をもうけて検討された。反対派は多数を占めえなかったが、その論鋒は主流支持派を十分圧倒した。宮本はここでさいごの圧力をかけたが、それでも全代議員の三分の二以上の多数をうるみとおしがつかなかった。宮本らはついに断念せざるをえなくなった。それで党章中の規約部分だけをきりはなして決定し、綱領部分は採決に問わないことにして、つぎの大会まで「ひきつづき討議すべき草案」としてのこすことにした。この点は中央主流にとって大きな打げきだった。
組織問題としては、常任幹部会を廃して常任委員会をもうけ、同時にそれを中央委員会の「指導機関」から「執行機関」に格下げした。第一書記制にかえて、あらたに中央委員会議長・書記長をもうけることにした。党の基本組織としては、地方委員会が廃されて、都道府県委員会が中央委員会の下につくことになった。
五〇年問題討議内容とその不徹底
五〇年問題の討議では、主として「中央を分裂させた責任はだれにあるか」に集中して、五〇年分裂全体を決定的に左右した国際組織の責任や、それに無条件に服従して主体性を喪失した党自体の責任の問題は、回避されてしまった。分裂を主導した責任者は一おう追及されたが、戦後の党再建以来一貫して党内を支配した派閥指導や家父長的体制、国外の圧力による形式上の統一回復とその後の極左冒険主義の実相、その総括と責任の所在などは、具体的にほとんどふれられなかった。これらをてってい的にほりさげ明確にして、その結論を明示するのでないかぎり、この大会を真の再出党の契機とすることは不可能であった。
ソ連共産党・中国共産党・コミンフォルムなどとの関係や、極左冒険主義についての具体的・実証的な追求をさけようとする中央主流の態度
(中略)国際組織(ソ連共産党・中国共産党・コミンフォルムなど)との関係や、極左冒険主義についての具体的・実証的な追求をさけようとする中央主流の態度は、中央委員会の「政治報告」にはっきりあらわれていた。ここでは、四全協の軍事方針も五全協の武装闘争方針も、ばく然としかのべられず、五二年春の労闘ゼネストは大きくとりあげながら、同じときのメーデー衝突事件・火炎ビン闘争については、全くふれてはいなかった。一九五一〜五四年にわたる非合法主義への没入と冒険主義戦術への偏向の全時期にかんして、「党は極左ひよりみ主義とセクト主義の方針と戦術をとるというあやまりをおかした」と、わずか一行あまりでかたづけていた。
要するに、軍事方針とか火炎ビンについて、その文字一つ出てこないふかしぎな文書であり、ちがった国の共産党の活動報告かとうたがわれかねなかったのだ。国民から疎外される最大の原因となり、党と大衆のあいだに大きなさけ口をつくらすもととなったこの重大問題を、ホオかむりでとおろうとする中央のまちがった態度は、党の全活動、その全存在すらが本来人民に責任を負うているのだという根本原則を無視するものであった。
野坂・志田は「この問題は中国共産党にも関係があって、われわれだけで総括することができないのだ」と回避
これよりまえ、六全協以後の中央委員会で、この軍事方針の政治総括の問題がだされると、野坂や志田は、「この問題は中国共産党にも関係があって、われわれだけで総括することができないのだ」と、いつも回避した。中国共産党とどのような「関係」があったにせよ、日本の党としては、これをてってい的に究明し、総括をあたえ、その責任をあきらかにすべきであった。
ところがまだ、国際権威によわい中央の多数は、そうしたことは敵に重大なひみつを知らせることになって不利であり、またそんな重大問題は一〇年、二〇年もかけてやらないとダメだからとして、これを不問に付してしまったのである。それによって、かれらは日本の国民にたいする当然の責務をなげすてたのだった。このため大会においても、六全協以前の問題については、旧主流派を代表して野坂と紺野、旧国際派ないし反対派を代表して宮本と志賀の四名が、一括して、しかも時間がないからとしてホンの御座なりの「自己批判」ですませてしまった。
新人事の問題
さいごに新人事の問題では、まず役員選考委員会に、中央と地方の代議員からすいせんされてきた一六六名が審査にかけられた。(中略)このあとも大もめにもめたすえ、選考委員がようやく大会に提出した候補者リストでは、一六六名の大半がふるいにかけられて、中委二七名・中委侯補二〇名・統制監査委員五名があげられたにすぎなかった。
だがこれでは、定員に中委が四名、統制監査委員が二名不足するので、大会幹部団は、中委侯補のリストから一〇名を中委のリストにうつし、中委の選出で落ちた六名をあらためて中委候補のリストにくわえるという苦肉の方策をとった。選出の方法は、これもさんざん紛糾したすえに、中委は上位から得票の順でとり、中委候補のほうは過半数の信任票をとったものだけをとる、ということになった。
大会代議員の過半数の支持もえられない中央委員が全体の四五%も占める
こうしてまず中央委員の選出がおこなわれ、蔵原以下三一名の定員がえらばれたが、一八位以下の一四名の票数は代議員の過半数に足らないものだった。結局、大会代議員の過半数の支持もえられない中央委員が全体の四五%も占めることになったわけである。中委侯補一六名の信任投票は、これも規定の過半数にたっしないのが一〇名も出て、六名だけが通過するというさんざんのありきまだった。
反中央の中心である東京都からは、一万一〇〇〇名の党員を代表する百数十名の代議員をおくりながら、中央支持の中野重治と金子健太の二名が中委に入ったほかは、ひとりも中央役員に選出されなかった。反中央の大沢久明を地方委書記とする東北地方委員会からも、やはりひとりも選出されなかった。三一名の中央委員に、農民運動の経験者が全然入っていないことも、大きな特徴だった。
中央委員の顔ぶれ
中央委員の顔ぶれでは、旧国際派の進出以外に、鈴木・伊井・金子・岩間・きくなみ・西川・松島らの組合運動出身者の進出が目だった。神山・亀山も復活した。このほかには、内野(竹)・内藤・西館・砂間・波多・山田(六)など、地方の党幹部があたらしく中委となった。旧主流派では、中委にのこったのは、野坂・春日(正)・岡田(文)の三名だけだった。中委・同候補・統制監査委を合わせて四四名の幹部の年齢構成をみると、三九歳以下はひとりもおらず、四〇歳台一三名で三〇%、五〇歳以上三一名で七〇%という割合だった。
この事実は、おおいがたい党の老朽化を印象づけた。中央の平均年齢は五三歳で、この現実は、大会が露呈したさまざまの弱点とむすびついて、日本の変革と未来をになう組織主体の自己回生が、絶望的でないにせよ容易なことではないという深刻な思いを、党内外の人びとにいだかせた。
党の老化現象
党の老化現象は、大会の討議の内容にも反映していた。第一に綱領草案も政治報告も、通読にも困難な概念的用語にみたされ、国民一般の現実に立脚し、かれらの要求を反映し、切実に大衆にうったえるという発想や表現を全然欠いていた。全体として討議も決定も、抽象的な国家権力の規定とか革命の性格論争にかたよりすぎて、戦略の基本が人民の運命とどうかかわりあうのかという根本的な説得性がきわめてうすかった。大衆の生きた生活感情や要求に密着する姿勢がないため、綱領や戦略の提起に大衆の血がかよわず、報告も討議も死んだ抽象語のられつにおわったかの感がふかかった。
そもそも討議の対象が、組織問題としては規約改正や五〇年分裂の責任問題に限定されたから、党の組織と活動をおおういなみがたい動脈硬化をうちやぶる大胆率直な内部改革の提案が、なにひとつなされなかった。理論問題としても、綱領の正否が人民民主主義革命にあるか社会主義革命にあるかといった原則論に集中されたから、それをこえて発想自体のスターリン的病弊を一掃しきる清新な理論上の提起が、ほとんどおしつぶされてしまった。
大会運営の依然として古くさい形式的方式もあったにせよ、この大会は、国民の当面するなやみと不安、その希望と期待を集約し、かれらの要求を理論的に総括し、大衆的現実に即して今後の運動を正しく推進しうるような方針を、ついにうちだせずにおわった。
党章草案の綱領部分は、採択せず、継続審議
(中略)こうして大会は、つよい反対をうけた綱領について、前述のように「党章草案の綱領部分は、この大会では最終決定をおこなわず、今後も新中央委員会の指導のもとにひきつづき討議すべき草案として承認すること」にきめた。また五〇年問題のほか、戦後労働運動の総括と党活動の教訓などの提案も、これを継続審議とした。政治報告については、大会での修正と補足によって、党章草案の民族民主革命の路線と反対派の反独占民主革新の路線との妥協的な混合物となって、ようやく最終日に採択された。中央主流は無傷ではなかったが、反対派・革新派の力よわさと不てっていに乗じて、最小限の打撃で大会をきりぬけることに成功した。反対派が、全国的によこの連絡と組織化を阻止されたことは、大会で予想以下の力しか発揮できなかった大きな原因だった。
あたらしい主流派閥の形成
つづく八月一〜二日の第一回中委総会で、中委議長野坂・書記長宮本・統制監査委議長春日(庄)らの中央機構がさだまり、幹部会は野坂・宮本・志賀・袴田・蔵原・春日(正)・きくなみ克巳・鈴木市蔵・松島治重の九名、書記局は宮本・袴田・春日(正)・伊井弥四郎・米原・安斎庫治・西川彦義の七名となった。旧主流派は、中央の専門部長として長谷川浩(青年学生対策)・松本三益(市民対策)・竹中恒三郎(アカハタ経営局)の三名がのこされた(いずれも中央委員でも中委候補でもない)ほかは、一さい役員からはずされてしまった。
要するに、過去の責任を死亡・除名・離党などの大ものにおしつけ、野坂・春日(正)以外の徳田派を一おう総退陣させ、六全協の中央主流をそのまま居すわらせ、あたらしい主流派閥の形成と官僚主義の台頭とにみちをひらいた大会であった。旧国際派主流の「勝利」の大会であり、革新派や新反対派の分裂の芽をうえつけた大会であり、革新派(旧国際派の中堅を中心とする)をきりすてた宮本が、袴田・蔵原らと組み、野坂・春日(正)らと連けいして党の主導権を確保した大会であった。内容的には、この大会は六全協いらいの課題である党の政治的・思想的統一を達成することができず、すべてをあとにもちこしたのである。
第5章1節、新中央の反対派工作 (P.243〜249より抜粋)
政治綱領部分に約四〇%の大会代議員が反対。中央役員中で党章草案反対派は、ほぼ四分の一の比重
第七回大会で党章草案の政治綱領部分にたいして、約四〇%の大会代議員が反対した事実は、五五年の六全協からしだいに表面化してきた「五〇年分裂時の旧反対派」の内部対立が、党内において決定的なすがたをとりだしたこと意味した。いまや、旧反対派は二つにわれ、徳田直系(志田・椎野、その他)の放逐または無力化のあとに残った野坂・春日(正)らとむすんで中央の実権をにぎった宮本・袴田の線が、蔵原・松島・米原・きくなみ、その他の党章支持者を周辺に結集して中央主流派を形成し、おなじ旧国際派でも春日(庄)・山田・亀山らは、党章草案反対派として中央少数派のたちばにたつこととなった。
中央役員中において、かれら党章草案反対派は、ほぼ四分の一の比重をしめていた。かれらには、旧国際派の中堅分子やインテリ分子の多くがささえとなっていた。かれらは大なり小なり、六全協で徳田主流派と安易に妥協した宮本らが、かつての革命戦略の方式をなんらの自己批判もなしに修正して、新中央として党章草案を全党におしつけようとするその態度に、いかりや不満を感じていた。
党章反対派勢力の排除と抑圧の工作
だがそれだけに、あたらしい中央主流派にとってこれらの反対派分子への工作は、大会後の重大課題となった。八月一八〜二○日の第二回中央委員会総会で、綱領問題小委員会、党の歴史に関する小委員会、戦後労働運動の総括のための小委員会の三つを中央委員会内にもうけることを決定、各委員がえらばれたが、ここには野坂・宮本・袴田・蔵原・春日(正)・松島らが、神山・春日(庄)・亀山・西川らをおさえるかたちではいっていた(八月二三日付『アカハタ』)。ただしこのあと、党の歴史と戦後労働運動の二つの小委員会は、その作業が完全にサボられて有名無実の存在と化した。
つづいて、九月上旬の福岡県を皮きりに、翌五九年二月上旬の青森県にいたるまで、五カ月間にわたって四六都道府県の党会議がひらかれた。会議の目的は、大会決定のうえにたつ党活動の総括と、大会決定を具体化した活動方針の採択、新規約による指導部の選出などであったが、中央はこれらに主流系幹部を派遣して、地方にたいする統制の強化をはかり、とくに党章反対派勢力の排除と抑圧の工作にのりだした。大会反対派は前述のように、東京・大阪・京都・神奈川・広島・愛知など大都市をかかえた地方の党組織につよかったから、中央主流はこれらの府県にその工作を集中した。
反対派最強地盤・東京都委員会にたいする排除と抑圧の大粛清
反対派の最強の地盤となった東京都委員会が、当然第一の攻撃目標とされた。宮本・袴田らの中央主流は、すでに八月一〇日ごろ都委員会の革新グループの追い落としを決定し、そのため中委幹部会のなかに、春日(正)・松島・鈴木らをメンバーとする都委員会特別対策部といったものを極秘につくっていた。
さきの八月中旬の二中総で、この幹部会としての都委対策の基本態度が発表されたが、出席者三五名中、内藤知周ひとりが反対意見をのべただけで、それが確認された。まず八月一七、二三両日の文京区党会議において、中央の工作により中央支持派が中央批判の学生党員を一せいにたたきおとして、区委員会を独占した。つづく九月二一、二八日の第四回東京都党会議では、大会決定をふりかざし、都委員会の「自由主義的分散主義的偏向」を非難する『アカハタ』の連日のコーラスのもとに、中央は、都委員会が中央の方針に反対し、決定を積極的にまもり実行しなかったことを自己批判せよ、とせまった。こうしたなかで、中央は突然、野田弥三郎と山本正美の二委員を都委員として確認できないと通告し、強引にその資格をはくだつした。
会議は一○月五日にのび、革新派の増淵や安東は動揺して、中央支持にかたむいた。一〇月四日の『アカハタ』は二ページをつぶして、武井・野田・片山らの規律違反なるものを攻撃する宮本の長論文をのせた(「党建設の問題によせて」、『アカハタ』第二七〇五号)。中央に異論をもつものは都委員の資格がないという不当なけん制工作のもとに、芝・武井・片山・西尾・増田らの革新分子は、いずれも都委員立候補を断念させられた。それでも中央勧告の自己批判を発表することにたいして、四〇%の代議員が反対または保留した。一〇月五日、幹部会員の春日正一が都委員長に天下り、中央主流の官僚的支配をかため、同時に旧所感派系の機関再進出のためにみちをひらいた。一〇月二二日付『アカハタ』は、旧都委員会の反中央態度とそれにもとづくかずかずの罪状をあげ、中央による都委員会刷新の総決算をおこなった。
反対派地盤の大阪・神奈川・京都・千葉にたいする排除と抑圧の大粛清
東京都のあと、一〇月の第二回大阪府党会議には、宮本の意をうけた松島が中央からのりこみ、「独立闘争」の意義を強調して府委員会の報告草案を批判した。その結果、独立問題の過小評価について自己批判をおこなわせられた。おなじころの第一〇回神奈川県党会議でも、中央は事前に報告草案の「独立の課題の過小評価」を指摘して、反対派分子の進出をけん制した。
京都府党会議では、府委員大屋史朗にたいする罷免カンパニアが上から組織され、旧所感派の河田賢治が府委員長にすえつけられた。大屋(西京司)はその後、鶴嶋らとともに革命的共産主義者同盟関西派の中心となった。千葉県党会議でも、おなじように報告草案のあやまりが追及された。この一方で、年末へかけて学生党員の除名も続行されていた。
こうして大会反対派、社会主義革命派、トロツキストの系流、その他の反中央勢力にたいして、中央主流は、その拠点組織に集中攻撃をかけ、戦闘的分子を機関から追い、その指導権をうばいとることに全力をあげた。かれらは理論闘争を一さいぬきにして、もっぱら「行政」権をふりまわして組織的処分に力をそそいだ。そのばあい、反対派の先鋭分子には正面から攻げきをくわえ、さまざまの口実で党内指導力を失わせるとともに、動揺分子・中立分子・温和分子には威かくや懐柔で統制下にひきいれていくという、たくみな両刀・分断政策をとった。反対派勢力は、これに有効に対抗することができず、中央への寝がえりの続出もあってつぎつぎに拠点と基盤をうしなっていった。
警職法改悪反対闘争
この一九五八年秋には、岸体制が「帝国主義」的自立化にみあう国内政治の反動化の大きな布石として、いわゆる警職法改悪を国会に上程してきた。これにたいして一〇月一三日、社会党・総評・全労・全日農など六五団体が警職法改悪反対国民会議を結成、共産党はオブザーバーとしてこれに参加した。各地に共闘組織がぞくぞくとつくられたが、ここには中央のワクをこえて、神奈川県など四県をのぞいて共産党がすべての組織に加入することに成功した。警職法闘争は、大衆闘争の予想以上のもりあがりによって、岸政府を逆に危機においこんだ。しかし、社会党の安易な妥協と共産党のそれへの追ずいのため、それ以上の政府危機にまで転化させることはできなかった。それでも法案自体は.政府の手によって撤回され、戦後の反体制運動としては、一九五二年春の破防法案反対闘争をのりらえる画期的成果をおさめた。
大衆闘争の実践ときりはなし、「党勢拡大」と「中央への団結の維持」とに熱中させる宮本独特の「党建設」方式が発足
この闘争直後の二月二〇〜二三日、党は三中総をひらいたが、席上はたして岸内閣への追撃のよわさが批判された。それで、三中総として「党首会談についての声明」を発し、はじめて公然と岸内閣の退陣を要求した。この三中総で、中央は「党生活の確立と党勢拡大の運動」の決議をおこない、一般の党員にたいして「細胞会議を定期的にひらく、全党員が『アカハタ』を読む、党章と党機関紙代を完納する」――という三つの目標をかかげた。
大衆闘争で中央の指導が失敗したり破綻したりすると、その原因を「党の組織的なよわき」に帰し、ここから大衆闘争の実践とまったくきりはなして「党勢拡大」と「中央への団結の維持」とに熱中していくという宮本独特の「党建設」方式が、この三中総において確定され、組織的に発足したのである。(中略)
第5章2節、党勢拡大と党内統制 (P.249〜256全文)
参議院議員選挙における得票数・得票率の減少
一九五九年二月一〇日の中委書記局による『党報』の創刊は、中央の下部への指導の機能をつよめるのにやくだち、三月一日の『アカハタ』日曜版の発刊は、党の政策や宣伝を一般大衆におしひろげ理解させるのに大いにやくだった。
このあと、四月二三日と三〇日に二次にわたる地方選挙がおこなわれ、さらに五月三〇日には参議院議員の選挙がおこなわれた。この両選挙は、党中央にとって党内対策との関連のうえで、さきの警職法闘争にもまして大きな試練となった。前回の五五年四月のそれとくらべて、地方選挙の成績は、都道府県議で約一二万票(得票率で〇・二%)の増、市町村議で約二〇万票(得票率で〇・五%)の増、知事で三〇万余票(得票率で一・四%)の増、市町村長で一〇万余票(得票率で〇・六%)の増と、みんな僅かながらもふえていた。
これらは、地方や地域の利害のワク内での党下部の日常活動の成果であったが、党の政策やスローガンをつうじて意識的な支持票をかくとくすべき参議院議員のほうは、これとは反対にいずれも減少していた。すなわち前回の五六年七月にくらべて、全国区で四万七三三九票(得票率で〇・二%)の減、地方区で一四万九七五四票(得票率で〇・六%)の減、という成績だった。六全協以来このころも、党勢はまだ減少をつづけていた。
幹部会党章派による官僚主義的な党運営のやりかたにたいして、主流直系以外のほとんどの中央委員たちが批判
六月二九日から選挙の総括と当面の闘争方針を議題としてひらかれた六中総は、果然、選挙闘争の評価をめぐって大論争となった。中央主流がこれを成功とするのにたいして、春日中央統制監査委議長はじめ中央少数派は、これを失敗とし、その原因が党章草案路線にもとづく政策上の欠陥にあるとする意見をだしてくいさがった。論議は選挙問題から、安保改定の評価、綱領の問題やつぎの第八回大会の問題にまでとんで、双方がわたりあった。党章支持の主流派によるさまざまの不公明な工作にたいする反党章派のうつぷんがばく発した。とくに幹部会党章派による官僚主義的な党運営のやりかたにたいして、主流直系以外のほとんどの中央委員たちが、批判のこえをあげた。
春日中央統制監査委議長への抑圧と論文発表機会の剥奪
このため、六中総は六月二九日から七月九日までつづいたあと、さらに七月三一日から八月一日にかけて継続され、異例ともいうべき一〇余日間をついやし、六〇数回の討論をくりひろげた。ここで春日は、主流の圧力のもとに、ついに『前衛』八月号にのせた選挙闘争を総括して党の自己批判の必要をのべた論文について、全文のとりけしを強要された。かれは七月九日付『アカハタ』紙上に、発表手つづきのあやまりについての自己批判と論文の取り消しとを発表したが、それはあくまで手つづき上の問題にとどまって、内容についてはかれは、すこしもゆずらなかった。これ以後、かれの論文は、形式的な追悼文などのほかは、党の機関紙誌から完全にすがたをけした。
雑誌『現代の理論』刊行を、規律違反として摘発
中央多数派はこの総会で、さらに大月書店から党員によって編集・執筆されて刊行中の雑誌『現代の理論』を、規律違反として摘発した。四月に創刊されたこの雑誌には、「現マル派」(現代マルクス主義派の略)といわれる社会主義革命論の系統の党員理論家たちが結集しており、中央への批判的態度は表面にださなかったが、進歩的な党外思想や非マルクス主義者との相互討論によってマルクス主義の創造的発展をはかることを、公然とかかげていた。
しかし、これを反中央分子の理論的拠点となるものとにらんだ中央主流は、六中総決議として、「理論と実践の統一に反するだけでなく、マルクス・レーニン主義党の組織原則――規律に反している。この誤まりの本質は、組織原則にたいする修正主義的なわい曲である。こういうことを放置しておいては、分散主義・自由主義をいっそうはびこらす結果になり、党の統一と団結はさまたげられる」と断定した(「選挙戦の結果と当面の中心任務――第六回中委員会の決議」、『アカハタ』、五九年八月七日第二九八七号)。
つづいて八月一七日『アカハタ』主張において、みぎの決議にもとづき、「このような性質の刊行物を党員がだしたり、また党員がこれに参加すること」を「即座に中止すべきである」と、指示するにいたった(「主張−雑誌『現代の理論』について」、『アカハタ』、五九年八月三日)。
『党内における「討論グループの小集団」は、「客観的には分派組織」にひとしい』
要するに、中央の見解にしたがえば、党内における「討論グループの小集団」は、「客観的には分派組織」にひとしいのであり、こうした「分派」の拡張解釈によって中央主流は、みずからのスターリン主義的本質をばくろしたのである。党内からは公然とこれにたいする批判があらわれず、外部の『週刊読書人』(小山・小田切)・『日本読書新聞』(日高)・『世界』(篠原一)などにおいて、この不当な言論よく圧にたいする非難のこえがあげられたが、けっきょく発行者の無抵抗と編集陣の力よわさによって、同誌は九月第五号をさいごに廃刊となった。
主張『マルクス・レーニン主義理論の発展は、今日では党の央委員会と別個におこなえるものではない』
これにいれかわるかのように、九月二二日、中央から『議会と共産党』という月刊誌が創刊された。この月に出た『前衛』一〇月号は、中央から追いうちかけたかたちで、この問題でイニシアをとったひとりといわれた志賀の「日本の現代修正主義」という論文をのせていた。井汲・長洲・杉田らが修正主義者として攻げきされただけでなく、ここでは、党外の丸山・久野・鶴見らの人びともアメリカ思想の名で批判されていた。さらに九月二六日付『アカハタ』は、マルクス・レーニン主義理論の発展は、今日では党の央委員会と別個におこなえるものではない、という正気ともおもえない「主張」をのせた(「マルクス・レーニン主義党の破りがたい原則−雑誌『現代の理論』をめぐって」、『アカハタ』、九月二六日第三〇三六)。
これで日本では、党中央委員会からはなれてマルクス主義理論の発展をはかることができないのだから、中央の決定はすべて真理とみなして党員も一さいのマルクス主義者もこれにしたがうだけでよろしいという、バカバカしいことになってしまった。さいわい『アカハタ』主張にとどまったからよかったが、若しこれが中央委員会によって決定されでもしたら、スターリン批判の問題すらなにひとつあつかえず、なんらの理論的成果もだしえないのになにをいうかと、お笑いぐさにされたことであろう。いずれにせよ、この『現代の理論』の事件によって、戦後の党の歴史に、またも不当で奇怪な一ページが書きくわえられたのである。
第八回大会をめざし党員倍加運動の展開を決定→党中央に「手紙の返事をだすカンパニア」
六中総は、選挙の不成績の原因が、政策のあやまりでなくて、党員数が絶対的にすくないところにあるとする宮本流(幹部会党章派)の発想にもとづいて、第八回大会をめざして党員倍加運動を展開することを決定した。それでとりあえず、中央から全党にむけて手紙をおくり、全細胞が党勢力の拡大強化の計画をたててそれを中委あての返信としてだすように、指示することにした。こうして、「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」なるものが、八月七日付『アカハタ』に発表され、これのあと、全細胞をこの手紙に「返事をだすカンパニア」に追いこんだ。
六中総では、手紙への返事をだすことや党員倍加の目標などは中委の「希望」とされていたが、これがいつのまにか「決定」とされて全党員に義務づけられた。下部の党員たちは、手紙への返事を書くことが党活動の基本とされ、党勢拡大の道具にすぎないかのようになった。同時に下級の機関は、返事を督促するための中央の出張所となってしまった。この手紙への返事は、質でなくて量だけが問題とされた。何パーセントの細胞が返事をだしたかが問題とされ、『アカハタ』は連日そのためにハッパをかけた。党勢拡大そのものも量だけが問題で、『アカハタ』紙上の数字の増大がイコール党勢拡大とみなされ、「中身」はすこしも問題にされなかった。
各級党会議の主要議題は、この返事をあつめることに集中
しかし、このような保険の勧誘まがいの運動が順調にすすむはずがなく、九月中には返事が中央に集中する予定だったのが、九月の末になってもさっぱりあつまってこず、中央はあわてだした。だが六中総後からの各級党会議の主要議題は、この返事をあつめることに集中されたから、まじめな批判的党員でいや気がさして機関をはなれたり、また無活動におちいっていくものがふえていったのである。党に創意的な活動や創造的な理論をのぞんで入ってきた若い純粋な党員たちが、このバカバカしい上からのおしつけに意欲をうしなったとしても、ふしぎではなかった。
主流幹部が各党会議に参加し、報告草案の点検や反中央分子の排除工作
第七回大会後第二回目の都道府県党会議が、六中総のあと、八月中旬の栃木県を反きりに、五九年年末へかけて、四一の都道府県委員会の手で順次にひらかれていった。いずれも中心の議題は、過去一年間の党活動の総括と六中総決定の具体化、党員倍加運動の具体策の決定と新役員の選出、などであった。中央は例によって、中央指導の強化につとめた。前述のように、手紙への返事を督促する一方で、大阪府党会議に宮本書記長が出席したのをはじめ、主流幹部が各党会議に参加し、報告草案の点検や反中央分子の排除工作をはかった。
東京都党会議
前年来の官僚主義的しめつけや六中総での中央の力関係が作用して、九月にひらかれた第五回東京都党会議のごときは、革新派・反対派の勢力が、全体の二〇%ていどに衰退していた。それでも、六中総決議のおしつけや中央の圧力にがん強に抵抗して、『現代の理論』編集者として反対派にまわっていた安東仁兵衛はじめ、棚橋泰助・小川太郎などを都委員会におくりこんだ。
このときの反対派の中心は、港地区からでた代議員だった。この港地区には、国鉄品川・全電通、その他の公労協や民間大企業の拠点経営細胞が多く、そこには第七回大会後の中央の指導ぶりにたいする労働者の不満が、集積されていた。これがまた地区委員会に反映したのである。
港地区党会議、港地区委員会への弾圧と除名
九月下旬の第四回港地区党会議において、中央批判ぐみが新地区委員会と都党会議代議員の多数を制したから、かれらは中央への批判を公然とおしだした(『港地区党報』、五九年一〇月一六日第四六号以下)。おどろいた都委員会は、地区党会議の無効と山崎・田川・冬木の三地区委員の資格はくだつを決定し、べつに地区委員長をさだめた。この中央のお手もりの地区委員会と反対派の地区委員会との二つの対立がつづき、ついに山崎らは港地区委員会の名でもって、党中央のひよりみ主義・民族主義・官僚主義とたたかうために、全精力をかたむけて党内闘争を開始するというアピールを、全国におくった(港地区委員会「プロレタリア革命の勝利のために公然たる党内闘争を展開せよ!」一九五九年一二月一三日、『港地区党報』、一二月一三日第五〇号)。
党はただちに、山崎・田川の両地区委員の除名を発表した(『アカハタ』、一二月一六日)。除名されたかれらは、その後も港地区委員会として中央攻撃をつづけていったが、翌六〇年四月、共産主義者同盟第四回大会がひらかれたのを契機に、それへの参加の話しあいをつけ、同四月第五回臨時港地区党会議をひらいて、ブンドとの合同を正式に決定、地区委員会を解散した。
手紙への返事を出した細胞が全細胞数の二〇%以下という都道府県二七
ところで、一九五九年一二月になって、前記の中央からの手紙にたいする返事の成績が、あきらかになってきた。この返事を出した細胞が全細胞数の二〇%以下という都道府県が、二七もあることがわかり、中央にたいする下部の支持の意外にうすいことを知った党中央主流は、一そうやっきとなった。暮れもちかい一二月二六日、この二七都道府県の組織部長を中央に集めて、急いで対策を協議した。さらに翌六〇年一月二二〜二六日の八中総において、これについての決議を採択したが、そこではようやく五〇%ちかくの党組織が返事をおくってきているとし、この返事をかく活動は党員としてやってもやらなくてもよい性質のものではないへと強調した。
松島が『前衛』にのせた論文では、こうした上からの強制に異論をとなえたり、「文句がましいこと」をいってきた手紙があるとして、「ゆるしがたいふまじめな返事」だと攻げきをくわえていた(「手紙にたいし返事をかくことについて」、『前衛』、一九六〇年二月号)。「返事をかくこと」は、本来上からの一方的な指令や通達による指導のありかたを克服するのが目的だったが、それが絶対の義務とされて全党員が強制的に中央に返事をだす活動にかりたてられるようになって、いまや完全に反対物に転化したのである。
中央主流にとって、狂気じみた党勢拡大運動がもつ二つの意味
いま第七回大会から一年半のあとをふりかえってみると、狂気じみた党勢拡大運動が、中央主流にとって二つの意味をもっていたことが、明白であった。第七回大会以前の主要支持分子をほとんどうしなってしまったかれらは、急速にあたらしい支持層を党内につくる必要があった。党勢拡大の促進によって、六全協以前の党内事情はもちろん七回大会の論争も知らない無知の新入党者をドシドシふやしていくことは、うしなった旧支持層の穴うめとして、自分らの党内基盤をきずきあげるのにたしかに役だったのである。
みぎと同時に、党勢拡大運動は中央主流にとって、大会反対派やその後の中央批判分子にたいするけん制・排除・しめつけの工作のためにも、必要なのであった。最初にこの運動をきめた三中総には、警職法反対闘争が先行し、つぎの六中総には選挙闘争が先行し、さらに八中総の直前には、後述するような一一月の国会突八事件や一月の羽田デモ事件がおこっている。これらの大衆闘争はいずれも党指導の適否を実践的に検証する機会をあたえ、中央にたいする大衆の不満や党内の批判をたかめる原因となった。
一貫した反対派勢力の排除と抑圧の工作と併行する中央の強制的な党勢拡大運動
だからそれらの各時期にタイミングをあわせて中央がうちだした党勢拡大運動なるものは、当然、中央への下からの批判をわきみちへそらすための格好の手段となった。中央の方針や指導のありかたを再検討しようとする下部からの要求は、これによって、なにより組織の拡大強化が第一だというあらぬ実践活動の問題にスリかえられてしまった。
中央では、一一月の七中総ごろまで、旧主流派の批判分子から党章反対派にいたるまで、一致して宮本への批判的空気を強めていたが、このあと旧主流派の後退で次第に反対派が孤立していった。いずれにせよ、一貫した反対派勢力の排除と抑圧の工作と併行する中央の強制的な党勢拡大運動は、中央の権威をその方針と指導のただしさによって確立するのでなく、上からの組織的統制の強化と中央にたいする下部の絶対服従と無条件忠誠の強要によって確保しようとするもっとも非マルクス主義的な方法であった。
第5章4節、構造改革派とモスクワ声明 (P.265〜270全文)
構造改革派とその理論的進出
安保闘争のあと、党内外からの中央批判や集団離党の現象とならんで、重大な党内問題として登場してきたのが、構造改革派とその理論的進出の事実であった。さきにのべた雑誌『現代の理論』の発行禁止ののち、現マル派の理論家たちは、おもに経済分析研究会に拠り、『季刊・日本経済分析』などによってその影響をつよめていた。前者の編集者安東仁兵衛は、五八年の第四回東京都党会議のさいには革新派のおいだしに加担して都委員のイスを確保したのだが、こんどは逆に反宮本のたちばから、現マル派のオルグとして活動しだした。
佐藤昇・長洲一二・石堂清倫・井汲卓一・前野良・大橋周治・杉田正夫、その他の論客たちが、安保闘争の前後から、国家独占資本主義や日本帝国主義の復活の問題を積極的にとりあげ、労働運動の転換の必要を提起し、またイタリアのグラムシの思想やトリアッティの理論を紹介した。イタリア共産党の構造改革の路線を吸収するうちに、しだいに日本の反独占社会主義革命の戦略をイタリア構造改革方式の適用によって具体化しようとする志向に、統一されていった。
それは、日本の権力を独占資本の権力として規定し、平和・民主・独立・生活向上のための闘争を反独占の基調においてとらえつつ、反独占社会主義革命のための諸闘争の現実的・具体的な展開を「構造改革」の政治路線として確定しようというのである。とにかくこうして、現マル派は、いまや「構造改革派」として左翼ジャーナリズムのうえに大きく進出し、日本での構造改革理論をもって、党主流の二段階革命の戦略方針と対決する姿勢となってきた。
総選挙結果と東京都での敗北
党が大会を延期するまでに重視した衆議院議員の総選挙は、池田新内閣のもとで一一月二〇日におこなわれた。共産党は、前回の一名にたいし三名を当選させ、得票数も前回の一〇一万を一四万ふやして二五万六七三三票をかくとくした。しかし安保闘争の中心地東京では、前回より一万票もすくなく、得票率も前回より〇・六%へっていた。前回は社共あわせて一六七名だったが、こんどは社共あわせて一四八名、前年に社会党から分裂した西尾派の民社党をこれにあわせても、一六五名で前回にたらなかった。
歴史的な大安保闘争を経験しながら、共産党が東京で大きく票をうしない、社共とも解散前とくらべて議員数・得票数ともにふえながら、両党だけでは改憲阻止議席数にたっしないということは、安保闘争の政治指導を大衆がどううけとめているかをかたるものであった。ことに党としては、選挙の結果が八月の全国活動者会議できめた目標にはるかにおよばず、とくに安保闘争の主戦場である東京都で敗北したことは、大衆の真正な批判とみなして深刻に反省すべきであった。
中央主流の総選挙総括にたいする中央委員4人の保留
六〇年一二月の一四中総は、この選挙結果をどう評価するかで意見が分裂した。中央主流は、一定の貴重な成果をおきめたとみなし、この成果は、安保闘争で党がただしい方針をかかげて先頭にたってたたかった結果だと断じた。安保闘争いらいの自分らの指導にたいする責任追及のおこるのを、避けようとの意図からであった。少数派がこんな一方的な自賛をうけいれず、なぜもっと大きな成果をかくとくできなかったかという問題こそを検討すべきだ、としたのは当然だった。
多数派の力で「総選挙の結果と当面の任務」の決議がつくられたが、その採決では中野・西川・亀山・神山の四人の中委が保留を表明、ここに満場一致で議決という一三中総までの中央での先例がはじめてやぶられた。だが、翌六一年一月に発表された『議会と共産党』二月号において、亀山は同誌一月にのせた総選挙を論じた論文「総選挙の結果と地方議員の任務」を、一四中総の決定にてらしてあやまりがあるとして、そのとりけしと自己批判を表明させられた。一二月の一四中総は、党員倍加運動と併行して、全党に『アカハタ』拡大運動をおこす方針をきめた。そのため、一四中総後は、これまでの党員増加率にくわえて『アカハタ』購読の増加率が党活動の指標として指示されだした。
八一カ国共産党・労働者党会議の「声明」と宮本派閥だけによる代表決定
これよりさき六〇年一二月七日には、モスクワにおける八一カ国共産党・労働者党会議の「声明」が発表された。これには日本からも、宮本と袴田が参加していた。かれら幹部会主流は、このモスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、たんに全員でない幹部会をもっただけで、かってにきめてしまった。結局自分らの派閥だけで代表を決定したのである。
予備会議がすでに九月の末からひらかれて、これには宮本が出席した。かれはモスクワの起草委員会による「声明」の中間草案を持参して、一〇月中旬に帰国し、中間報告を形式的に行なった。ついで袴田の報告なるものも、ごく表面的にすぎず、成文の徹底的討議を求めた蔵原・神山らの意向は無視されて、質問だけで採択されてしまった。
「声明」の受け止めめぐる中央主流、反党章派、構造改革派の対立
この前の一九五七年秋にだされた「モスクワ宣言」をうけついだ今度の新声明は、世界の共産主義運動の綱領的文書たる意図をもち、全世界の民主主義・社会主義の勢力に共通の方向と方針をあたえようとするものだった。ある意味で、その内容は、すでにいろいな基本問題でするどく対立しつつある中ソ双方の意見をともにとりいれ、きらにイタリアの構造改革コースをめぐる西欧での対立的見解をも適宜にとりいれ折衷的産物だった。
とくに日本にとって問題となるのは、そのなかの、「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配下にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義諸国」のために、民族独立民主主義革命と社会主義革命との二段階の戦略的任務が指示されている部分であった。中央主流は、ここにしてきされている国のなかに日本もはいるとみなして、旧党章草案の基本路線が支持されているのだと主張した。
しかし反党章派や構造改革派は、反対に声明全体の構成からみて、むしろ日本には構造改革コースにもとづく社会主義革命の方針のただしさがここに立証されているのだと主張した。だが問題は、日本における革命とそれへの接近の方式をなんらかの国際的基準によって権威づけようとする双方の態度そのものに存在するのであり、ここでは国際的「綱領」といえども、自由かつ公明に論議し批判しほりさげていくことによってこそマルクス主義のいっそうの発展が保証されるのだという正しい姿勢が、欠けていたのである。いずれにせよ声明をめぐる理論的対立は、つぎの第八回大会をまえにした綱領論争で、全面的に展開することになる。
一四中総「決議保留事件」への反応
さて、一四中総の「決議保留事件」は、中委の外部にはださないという申しあわせがされていたにもかかわらず、ひそかに党内にながされ、下部につよい反応をよびおこした(これが東京都の千代田地区にながされたことはのちに査問の対象とされ、中委総会でだれがもらしたかが問題になった)。とくに構造改革派のえいきょうのつよい東京都では、一四中総決議にたいする批判がたかまりだした。文化団体や出版関係の知識人党員の多い東京都千代田地区の委員会では、一四中総決議にたいして、賛成七委員にたいして中西地区委員長以下九名の多数委員が、規約三条によって意見を保留した。
その理由は、決議における選挙闘争総括が安保闘争中心地たる東京で得票率が前回の一九五八年の五・四%から四・八%にへっている事実を無視して、自己満足的評価におちいっている、というにあった。それで二月の第七回千代田地区党会議では、中央と都委員会の主流派が圧力をかけ、地区委員会多数派の保留意見をあやまりとして自己批判を決定させようとしたが、三分の一以上の代議員がこれに同意しなかった。しかし保留委員たちは、改選のための立候補をみずからとりやめた。さきに港地区の「トロツキスト狩り」で「功績」をあげた浜武司を委員長とする中央主流支持の新地区委員会が成立した。
中央主流による反対派の排除工作開始
二月末の第六回東京都党会議でも、中央主流は強引に反対派の排除工作にのりだした。春日(正)都委員長はその報告の中で、都党の一部に八中総・一一中総・一四中総の決定や決議にたいして反対の立場から意見を保留しているものがいる事実を非難し、都委員会少数派(構造改革派)の排除を指示した。
このため少数意見は黙殺され、安保とその後の選挙闘争にたいする中央の指導ぶりを民族主義的反米闘争の一面的強調その他によって批判した安東・棚橋・小林・小川らの少数派は、委員として立候補する余地すら与えられなかった。
やはり二月末にひらかれた第一四回大阪府党会議でも、中央主流の圧力で、府委員の改選で反党章派や春日(庄)論文支持者たちが排除された。こうした排除工作は、ちかづきつつある新綱領草案の発表と第八回大会にそなえるあきらかな下準備でもあった。他方で党内での活動を制約された構造改革派の理論家たちは、外部で積極的に理論活動を展開していた。
構造改革派の影きょうが学生運動のなかにも浸透
構造改革派の影きょうは、学生運動のなかにも浸透しつつあった。全学連指導部がいわゆる反代々木の「トロツキスト」によって完全におさえられたため、その反対派は安保闘争後に全学連に対抗する全国学生自治会連絡会議(全自連)をつくっていた。党はこれを指導し、党員の学生がほぼその指導部を制していた。ところが全自連に加入する各大学のうち、東京教育大・早大・神戸大・大阪大などの指導分子がしだいに構造改革理論の影きょうをうけ、執行部もはっきりした構造改革論者でしめられるにいたった。
一月末にだした文書で東京都委員会は、学生運動に大きな比重をしめる若干の学生細胞が「たちおくれ」ているとし、中央の決定を自由に論議批判し、はてはそれと反対の方針を決議する規律違反の学生細胞すらがあると、つよい警告を発した。あきらかに、教育大細胞や黒羽議長以下の全自連幹部党員が目ざされていた。
構造改革派ににぎられた全自連指導部にたいする対策
黒羽・田村・等々力らは学生運動研究会を組織し、三月に『現代の学生運動』なる書を公刊した。ここでかれらは、自分らの「思想と行動」を総括しつつ、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構革路線にもとづく独自の政治方針を展開した。党主流は、さきに「トロツキスト学生」をようやくおいだしたあと、こんどは、構造改革派学生からの「反乱」をうけることとなり、ふたたび学生運動の「刷新」にのりださねばならない羽目になった。
それで二月六日に、旧所感派で中央主流に批判的な長谷川浩を学生対策部長からひきさげ、幹部会の袴田がそれにかわった。ついで二月一五日付で、『アカハタ』の学生版ともいうべき『学生新聞』を創刊(四月から旬刊)、構造改革派ににぎられた全自連指導部に対抗して、中央からの直接の指導の強化をはかりだした。また袴田直系のおもに中国がえりの党員を学生細胞へのオルグとして配置し、中央批判分子の監視と党勢拡大運動のノルマの督戦とにあたらせた。
第5章5節、綱領論争と党の分裂 (P.270〜283全文)
綱領草案の中央委員会討議
前年からこの春へかけて、しだいに全党をおおういんうつな危機的様相のなかで、六一年三月、綱領草案が中央の討議と採択にかけられた。さきに五八年の二中総で設置された綱領問題小委員会は、五九年六月一三日から六〇年四月二日のあいだに二一回の会議をひらき、六〇年四月の一〇中総に中間報告をして、一おう討議をへていたが、このあと八回の会議(合計二九回)で審議した結果を、この六一年三月の一六中総に報告、最終的な討議と採択をもとめたわけである。一六中総は、三月一日から一三日までと、同二五日から二八日までとの二回にわたってひらかれた。
中央役員の一〇名が反対または保留→多数決決定と異論発表制限
前後一七日間におよぶ大論議にもかかわらず、綱領草案は満場一致の賛成をえられず、中央役員四四名中、四分の一にちかい一〇名が反対または保留の態度をかえなかった。その内容は、中委三一名中、亀山・西川・山田・内藤・波多(然)の五名が反対、神山・中野の二名が保留、決議権をもたない中委侯補六名中、内野・原の二名が反対、また中央統制監査委員七名中、議長の春日(庄)が反対、というのだった。
また中委の政治報告草案については、亀山・西川・山田・内藤・波多・中野の六中央委員が反対し、内野・原の二中委侯補が保留した。このため、綱領草案はさいご的な補足修正をくわえられたのち、多数の力でもっておしきられ、三月二八日に決定された。このとき、大会議案に反対と保留の中央委員は、みずからの意見を下部の機関や組織でのべてはならず、四〇〇字詰原稿紙二五枚以内にまとめた意見書を、希望によって『党報』に発表することができる、ときめられた。
中央委員会34対10の意見分裂と中央主流の予備工作開始
中央における意見の分裂を明確にした綱領草案は、なぜか中央での決定後一カ月以上も、党に提示されなかった。そしてそのあいだ、あきらかに中央主流の予備工作とおもわれるものが進行した。四月三日の『アカハタ』は、阿部泰の署名で、労働者教育協会の機関誌『学習の友』四月号が「構造改革とはなにか」を特集したのをとらえ、これを反労働者的内容としてきびしく非難した。同誌編集部の党員の細胞会議には中央から伊井がのりこんで追及、圧力に屈した細胞は、ペンネームの党員理論家の本名をばらすという非道義的立場においこまれた。党中央は、その後対抗誌として月刊『学習』を創刊し、官許マルクス主義による党教育を開始した。
関根弘(除名)と武井昭夫(一年間党員権停止)、新日本文学会5人の規律違反処分
四月一二日の『アカハタ』は、前述の「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責をとわれた関根弘(除名)と武井昭夫(一年間党員権停止)の処分をページ全面に発表し(中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反にかんする決定の発表にあたって」)、さらに同紙四月一七日号は、このアピールに賛成して中央の説得にしたがわなかった「数名の同志」が、規律違反の処分をうけたてんまつを報じた。数名の同志とは、おもに新日本文学会にぞくする小林(勝)・柾木・岡本・大西・小林(祥)らの作家・評論家たちであった。このような大々的発表は、インテリ党員にたいするみせしめとしか理解されなかった。
中央主流が、構造改革論を修正主義、改良主義ときめつける批判キャンペーンを大展開
四月二二日の『アカハタ』は、構造改革論を修正主義、改良主義ときめつけて、はげしく批判した。構造改革論にたいする一方的攻げきは、しだいにはげしさをまして、中央主流は『アカハタ』以外にもあらゆる手段動員した(たとえば、志賀義雄「日本共産党と『構造改革』論」、『月刊労働問題』、六一年四月号)。そして中委から、はじめて第八回大会の期日と議題が正式に発表されたあと、四月二七日の『アカハタ』は、大会までの三カ間を「党内討議」だけに終始すべきで、第七回大会直前の状態をくりかえしてはならぬと強調した。なんのことはない、「かつてない理論的エネルギーの発出がみられた」と第七回大会前のありかたを自賛した同じ指導分子が、こんどはそれが悪いことであったかのように強調するのだ。
念いりな反対派排除・批判の予備工作をへて、綱領草案三カ月前発表
こうした念いりの予備工作をへて、綱領草案は四月三〇日付『アカハタ』特別付録として、中委政治報告草案は五月三日付『アカハタ』特別付録として、また規約一部の改正草案は五月三日『アカハタ』に、それぞれ発表された。七月下旬に予定され大会まで、あと三カ月にたらなかった。
第七回大会のときは、党章草案が五七年九月に発表されて、翌五八年七月に大会がひらかれたのだから、一〇ヵ月にあまる討議期間があった。こんどのように、たった三カ月では、下部の細胞にまでわたって十分の討議をすることはとうてい不可能で、もっぱら大会議案の内容を解説したり理解したりするていどにとどまらざるをえないのである。
五八年党章草案と綱領草案との同一性と性格
綱領草案は、五一年綱領・五五年六全協決議・五八年党章草案などをうけついで、日本の現状を「事実上の従属国」と規定する立場から、「アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本」との二つの敵にたいする人民民主主義革命を戦略の中心課題にすえた。この「二つの敵」を対象とする人民の民主主義革命(民族解放民主主義革命)から社会主義革命へ――という二段階革命の戦略をとる点で、基本的に旧党章草案とおなじであった。草案は、いままでの「平和・民主・独立」とちがう「独立・民主・平和・中立」なる新順位のスローガンをかかげた。このことと、草案が、「帝国主義の侵略的本質はかわらず、帝国主義のたくらむ戦争の危険はいぜんとして人類をおびやかしている」として中共の強調する基本命題をそのままかかげていることとは、草案の性格を中ソ論争における中共がわの立場にいっそう近づけていた。
中央主流は、構造改革論・社会主義革命論を「決定違反」と断罪・批判
政治報告草案のほうは、奇怪にも構造改革論者を「党の政治路線への意識的な批判と攻撃」として断罪し、社会主義革命論・構造改革論をまるで党の基本方針への背反であるかのようにあつかっていた。
構革論にたいする中央主流の公然たる否定的態度についてはまえにものべたが、社会主義革命論にたいしても、中央主流はすでにはやくから党決定への違反かのようにあつかっていた。たとえば、前年六〇年の秋に発表された主流支持の土岐強の一論文は、日本の独占資本に「二つの敵」のなかの主敵をみとめようとする見解を、「決定違反」として批判していた(「なぜ二つの敵を明確にしなければならないか」、『前衛』、一九六〇年一〇月号)。これにたいして反党章派の内藤知周は、この論文についての意見書を幹部会と『前衛』編集委員会とに提出し、『前衛』に反論を執筆させるよう要求した。ところが、これは拒否された。
中央主流は、「決議保留事件」をさして、自由主義的・分散主義的傾向のあらわれと非難
中央主流はこのあと政治報告草案にいたるまで、社会主義革命を主張するのはまちがいで、党章草案の基本路線が正レいかのような主張を、一貫しておしだしたのである。これでは、戦略について公平に討議する余地がないのも同様だった。さらに政治報告草案は、一そう奇怪にも、「若干の中央委員のなかには、自由主義的・分散主義的傾向があらわれた」として、あきらかに前年末の一四中総の「決議保留事件」をさして非難をくわえていた。これでは、少数意見や反対意見をもつこと自体があやまりだ、ということになりかねない。反対に、中央多数派がさんざんに発揮した官僚主義と派閥支配にかんしては、草案はなにひとつふれていなかった。
草案討議にたいする官僚主義的指示を発令
だがもっと奇怪なのは、草案討議にたいする中央主流の方針だった。中央は、全党員が各草案にしめされた「中央委員会の正式の見解」をよく理解するように努めること、全党機関が「中央の正式見解」をよく理解するよう細胞を指導すること――を要求した(『アカハタ』、六一年五月七日)。要するに「中央の正式見解」なるものをふりまわして、まだけっして党の正式決定でないものを官僚的におしつけ、下部における当然の討議をいちはやく封殺しようというのである。
五月六〜八日の都道府県委員長会議において、中央から、「討議内容は各級機関がまとめて中央に提出する」「反対意見を地方党組織の刊行物に発表してはならない」「党外での草案討議・個人的またはグループ的な行動はゆるされない」「草案反対意見の幹部が、下部の指導において自分の意見をのべたり、またそれにもとづいて下部指導をおこなうことは厳禁する」等々、おどろくべき官僚主義的指示が発せられた。これでは、一般党員からも、「ゆきすぎ統制だ」「党内民主主義の破壊だ」との不平や非難がおこったのも、ふしぎではなかった。
大阪中電細胞の三名を除名
おりしも五月七、八日の『アカハタ』は、前田ら大阪中電細胞の三名を除名した大阪府委員会の声明をのせた(「トロツキストを摘発・処分」)。これは、中委と府委員会の指導に不満をもった大阪中電細胞の大部分のメンバーが、脱党または処分された事件だった。処分された細胞の有志は、ただちに全党にむけて、これへの反撃のアピールを発した(大阪中電細胞有志「全党の同志諸君に訴える」)。そこには、上部の官僚主義とひよりみ主義的指導にたいする若い活動家たちのいきどおりが、率直にぶちまけられていた。党指導の官僚化と硬直化にたいする不満と反発は、近代的企業経営のなかにはたらきつつ階級闘争を熱烈にささえている若い労働者や活動分子のあいだに、ふたたびたかまりつつあった。
『アカハタ』『前衛』『党報』などを、大会準備の官僚的統制のために総動員
だが、中央主流は、あくまでも党内民主主義への要請をおさえつけようと決意していた。五月はじめ、現状分析研究会の津田は党員権停止六カ月の処分をうけ、学生運動研究会の黒羽や構革派理論家たちは、中央からよびつけられてその処分がすすめられだした。五月九〜一一日に全国活動者会議がひらかれたが、中央の「指導」と統制のもとに政策討議は一さいタナあげされ、『アカハタ』拡大の手がらばなしだけに終始した。いまや大会の接近にともない、『アカハタ』『前衛』『党報』など、まるで中央主流一派の私有物かのようになり、大会準備の官僚的統制のために総動員された。
反対意見を反党的とみなすかのような宣伝、反中央分子を代議員からしめだすことの奨励
大会議案のまじめな討論を自由主義・分散主義とか無原則的とかする非難、反対意見を反党的とみなすかのような宣伝、反中央分子を代議員からしめだすことの奨励、構革論者にたいする反綱領的策動云々の攻げきなど、ありとあらゆる手段がとられた。五月一五日に書記局は、反中央分子の大会代議員選出排除を指示する「通達」(甲第八号)を発し、五月発売の『前衛』六月号には、構革論者を草案反対のカンパニアをおこなっているものと一方的に非難した袴田の論文がのせられた。はては『アカハタ』は、公然と、大会での討議は議案への賛否をあらわすことでなくて、議案の「正しい理解」によって各自のあやまりをただすことであると、指示するしまつだった(六月一二日付)。かたるにおちる党官僚の放言であった。
中央主流とその支持分子のろこつな「策動」にたいする、反対派のうごき
こうした中央主流とその支持分子のろこつな「策動」にたいして、反対派のうごきははなはだ力よわく、不十分であった。すでに三月の一六中総で、対立点が基本的なところで決定的になっていることが明白となり、思想的にももはやあいいれがたくなっているのがうきぼりにされたにもかかわらず、反対派の人びとは、大会までの準備期間が民主的な全党討議として運営されるものとあまくかんがえていた。この全党討議で発言封殺のような手段がとられることを、予想していなかったのだ。そのあいだ、反対派の分子の多い東京・大阪・京都・兵庫・広島・島根などでも、かれらは意見の交流を十分におこなわず、横の連絡もろくにとっていなかった。主流派が規約違反のかってな専断ぶりをしめしているのに、かれらはまだ機関同士の連絡を禁じた組織原則をまもって、十分な対抗行動に出なかったのである。
「党内左翼反対派」を自称する中共路線支持のレーニン主義者集団
反対派のなかで特殊な立場をしめしたのは、「党内左翼反対派」を自称する中共路線支持のレーニン主義者集団であった。かれらは、宮本ら中央主流の官僚主義指導と統制をはげしく非難しつつ、同時に構造改革論者を現代修正主義者として批判した。ここから、中央のひよりみ主義者と反中央の構革派との双方にたいして理論闘争を準備せよと、「革命的党員」にうったえた(村崎泉美「第八回党大会と最近の党内情勢」、『団結』第一七号)。かれらの組織力は問題でないとしても、党内の一定部分のイデオロギーを代弁していることはたしかであった。
中央主流は、草案反対者は機関としてすいせんできない、代議員候補のリストからはずすといった規約じゅうりんの工作を全国的に展開
このあと七月初旬へかけて、一せいに全国の地方組織の党会議がひらかれ、大会議案の討議と大会代議員の選出、中央委員のすいせんをおこなうことになった。中央主流としては、こんどはなんとしても綱領をとおさねばならず、もしも再度流産させられることにでもなれば、最高指導部としての政治生命にかかわりかねなかった。それで、事前に反対勢力を極力おさえつけ、自分らの派閥で大会を圧倒的に支配しようと決意した。中央主流は、反対分子の多いとみられる地方組織に主流系幹部を派遣して、党会議を統制し、しめつけようとはかった。都道府県党会議の段階で、反対意見を封じ反対分子を排除してしまえば、党大会はかれらの意のままになる道理だった。ここに、草案反対者は機関としてすいせんできないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約じゅうりんの工作が、中央主流によって全国的に展開されていくことになった。とりわけ、東京と大阪が集中的な目標とされた。
北大阪地区への弾圧・排除
大阪府党では、北大阪地区が、松葉地区委員長のもとに、関西構革派の理論家トリオ、小野・勝部・山本らの影きょうをうけた地区委員が多数をしめ、わずかにのこされた反対派の地盤をなしていた。かれらは大阪府委員会にのこる反対派委員たちと提携して、大会にむけて反げきの機会をねらっていた。第一二回地区党会議が、綱領草案発表前の四月一五、一六日にいちはやくひらかれたが、中央から志賀・松島がこれにのりこんできて、地区委員会の「根本的欠陥」なるものを指摘し、あやまりを自己批判せよとはげしく追及した。
東京都千代田地区への弾圧・排除
東京都の千代田地区でも、都党会議への代議員をえらぶ第八回地区党会議において、立侯補した草案反対の一一名は、地区選考委員会によって全部被選挙人名簿からのぞかれた。さすがに、三分の一弱におよぶ六〇余名の細胞代表が、この官僚的処置に保留または反対の意思を表明したが、それは無視されてしまった。おなじ選考委員会は、本来都党会議が決定すべき大会代議員を、規約を無視してかってにすいせんしてしまった。
各府県党会議の段階における反対意見を封じこめ工作
府県党会議の段階においては、内藤が地方局代表である中国地方の各県の党会議に、中央からきくなみと土岐がのりこんで、草案討議の指導をおこなった。波多が地方局代表である九州地方では、中央からやってきた袴田・松島が、五月三一日〜六月一日の全九州活動者会議や六月三〜四日の第一二回佐賀県党会議などに出席して、草案の説明と討議の統制にあたった。こうして地方では、実さい上で、反対意見を封じこんだのである。
構革派の影きょうのつよい東京都党会議・大阪府党会議・神奈川県党会議への弾圧・排除
構革派の影きょうのつよい東京都は、七月一〜二日に第七回東京都党会議をひらいたが、野坂・宮本・袴田がズラリと顔をならべた。それでもわずかに、全自連グループが草案に反対の意見をのべたが、都立大・東大などの中央支持の代議員に反げきされて、孤立してしまった。
山田が委員長をしている大阪府では、第一五回大阪府党会議が七月一日からひらかれ、志賀・川上・松島が顔をならべた。七月二日の大阪府委員会総会において、大阪にわりあてられた第八回大会代議員のうち中央委員のすいせん問題をめぐって、おもに春日(庄)をいれるかいれないかで紛糾した。中央主流支持の下司府副委員長らと、山田以下の反対派とが衝突し、ついに松葉・大森・村田・坂本の四名の府委員が退場した。これは拡大して、府党会議の第三日目には七名の代議員が退場するにいたった。府委員会から反対派は一掃され、七月五日の北大阪地区委員会総会では、松葉にかわって主流の大西がえらばれた。
神奈川県党会議では、委員長の中西が草案を支持して中央主流に屈服したため、すべて草案支持の代議員がえらばれた。
中央委員会における綱領草案への反対、保留意見者にたいする言語道断な反民主的処置
こうした地方組織への工作と併行して、中央主流は、中央委員会における綱領草案への反対、保留意見者にたいして、言語道断な反民主的処置をとった。すなわち六月九〜一〇日の一七中総において、さきの一六中総の申しあわせをくつがえし、春日(庄)以下一〇名から提出された意見書の内容は、一六中総の決定をゆがめてつたえるおそれがあるという理由で、『党報』への掲載を中止することを決定したのである。
その後半月以上もたって、大会まで一カ月もなくなり、もはや代議員選出に.何の影きょうもあたえなくなった六月二七日の『アカハタ』特別号外に、春日ら一〇名の一六中総での発言「要旨」なるものを、それも編集がわでかってにまとめて、さらに大々的な反論をつけくわえたうえで、発表した。
大会直前に発行された『前衛』八月号には、志賀・袴田・松島・米原らの草案支持の論文をズラリとそろえたうえで、内藤・内野(壮)・波多の反対意見書を投稿あつかいでのせた。六月二二日付で片山さとしは、「大会事前討論のすすめ方に反対する質問ならびに意見書を」中央委員会と中央統制監査委員会に提出したが、もちろん一顧だにされなかった。
マルクス・レーニン主義党の組織原則の完全な無視と破かい
春日以下の反対意見は、綱領草案がアメリカ帝国主義の支配を重視しすぎ、日本独占の発展とその権力支配を過小評価し、当面の革命を、完全独立を重要課題としてふくむ反独占社会主義革命と規定していないのは正しくない、とする点でほぼ一致していた。
しかし、いずれにせよ、さきの綱領草案の討議について中央が指示した厳重な制限といい、この中央少数派の反対と保留意見にたいする反民主的処置といい、すべてマルクス・レーニン主義党の組織原則の完全な無視であり破かいであった。
「党大会前の討論のさいには、各支部の内部ばかりでなく、さらに党機関紙誌の紙上でもあい争う見解が自由に発表されなければならないということ、党大会前の討論には、われわれの機関紙誌はこれまでよりもずっと大きな紙面をさく必要があるということを、疑問の余地のないこととして承認し、明瞭に言明しなければならない」「大会前の討論の時期には、可能なかぎり広範な討論がひらかれ、党機関紙誌はすべての見解と提案に目だった場所をあたえる義務があり、各支部は、大会日程にかんする決議のなかで、自分の政治的見解をのべる権利がある……」。これは、イギリス共産党が、一九五八年の第二五回大会で発した「党内民主主義について」という文書の一節であり、各国共産党でも当然とされている一原則にすぎない。日本の党主流は、この「疑問の余地のない」原則をあたまからふみにじったわけである。
反対意見の機関メンバーは、一〇〇%機関から放逐
こうして第八回大会の準備過程は、全体としておどろくべき原則の破かいと、おそるべき時代逆行ぶりとをばくろした。綱領草案以下主要議案の発表から大会まで三カ月にみたず、討論の期間そのものが最初から限定された。そのうえ下部の討論には、中央から原則違背の制限と拘束がつけられ、反対意見の発表は極力おさえられた。下級機関の会議には中央の監視がついて、討議のための草案をまるで決定ずみかのようにあつかい、反対意見者は発言すると反党分子として処分されかねない状況をつくりあげた。それが機関メンバーのばあいは、一〇〇%機関からの放逐をかくごせねばならなかった。
大会代議員選出で、綱領反対派または反中央分子とみられるものは、完全にちかく排除
府県から地区にいたる党会議や委員会総会は、すべて草案をふみ絵として党員を「点検」する検察の場と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によってすいせん名簿の段階でげん重にふるいにかけられ、批判意見をもつ代議員候補者は、ほとんど故意におとされた。
この間、党の機関紙誌は中央主流の私物かのように、ありとあらゆる一方的工作をおこなった。だれがみても、これらは明白な党規約の違反であり、じゅうりんであった。これでは活動家たちがいつのまにか一〇〇%中央依存の姿勢におちいり、大衆に責任をもつ指導の理念がうしなわれるのも、当然であった。「中央は絶対に正しい」「中央に忠実な機関はまた正しい」――このような非自主的体制がふたたび党の組織体質として定着化していったのである。この結果、七月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派または反中央分子とみられるものは、完全にちかく排除されていた。七九九名のうちわずか一〇数名がそれではないか、とみられたにすぎない。
反対派はついに、党の内外に公然とアピール
このような状態のもとで、党内の反対派はついに、党の内外に公然とアピールを発し、党中央主流にたいする批判を大衆のまえにおしださざるをえなくなった。盛田・栗原・津田・池山・深沢らの千代田地区歴青細胞が、「綱領問題にかんする意見」を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて、七月一日付で発表した。
七月八日、春日圧次郎は七日付離党届をだし、同日夜記者団に、綱領草案の基本的あやまりだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの反対派への弾圧によって、党内民主主義がふみにじられ、原則的な党内論争による改善のみこみはなくなったとする離党声明を公表した。
七月一五日、山田・西川・亀山・内藤・内野・原の中央少数派が連名で、一四日付の「党の危機にさいして全党の同志に訴う」声明を発表した。それは、幹部会が草案を固執し派閥的・官僚的指導によって党の民主集中制をふみにじっているとし、大会の延期、綱領討議のやりなおし、代議員選出のやりなおし等を要求していた。大会をまえに現職の統制監査委議長が離党し、現任の中央委員グループが公然と中央を批判したことは、前代未聞であった。
新日本文学会の党員作家・評論家グループが意見書を提出
七月一九日、新日本文学会の党員作家・評論家のグループが、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議をさまたげたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。これには、安部・大西・岡本・栗原・国分・小林(祥)・小林(勝)・佐多・竹内・菅原・野間・針生・檜山・花田の一四名が連署していた。
中野は意見書をすすめながら、自分は脱けて裏ぎったといわれた。ところがこの意見書は中央によって無視されたから、かれらはさらに七月二二日、あらたに泉・旦原・黒田・武井・玉井・中野(秀人)・浜田・広末・柾木の九名を加え、国分・佐多の二名をのぞいた二一名連署でもつて、党の内外にアピールを発した。
このアピールは、「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本・袴田・松島らの派閥による党の私物化がもたらしたものである」として、かれら「派閥指導部」による数かずの指導のあやまりと独裁的支配、規約のじゅうりんと党組織の破かいの事実をあげ、ことばはげしくそれを非難した。そして、「われわれは党内民主主義を回復した真に革命的な日本共産党をつくりあげねばならない」と訴えたのである。
各地の反主流分子は、ぞくぞくと離党または公然たる中央攻撃にふみきる
七月二三日には、野田・増田・山本・芝・西尾・武井ら六名の旧東京都委員グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊にたいする抗議」と題する声明を発表し、宮本・袴田・松島ら派閥的官僚主義者の専断を攻げきしつつ、春日・西川らの行動を支持した。
七月二四日には、増田・片山が連署で離党声明を公表した。春日の離党、山田らの声明と前後して、大阪その他各地の反主流分子は、七月二六日前大阪府委員村田らの離党声明以下ぞくぞくと離党または公然たる中央攻撃にふみきった。大会を目前にして、党主流の派閥支配にたいするいかりとふんまんはばくはつし、党の分裂は必至となった。
「反党的行為」「分派主義者」「党破壊の策謀」「修正主義者」の大々的な非難攻撃キャンペーンを展開
中央主流は、春日の離党と同時に、七月八日付幹部会声明と同日の野坂談話を発表し(『アカハタ』、七月九日)、つづけて七月九日の野坂「春日庄次郎の反党的裏切り行為について」を発表して、春日を攻撃した(『アカハタ』、七月一〇日)。つづいて幹部会は、「党破壊分子の新たな挑発について」を発表し、山田・西川ら春日分派の形成と活動なるものをしめして、これを非難した(『アカハタ』、七月一七日)。
その後は、春日および声明連署者にたいして、全国各級機関にわたって、例のような「反党的行為」「うらぎり分子」「分派主義者」「党破壊の策謀」「修正主義者」「悪質ひよりみ主義者」等々の大々的な非難攻撃のキャンペーンが展開された。『アカハタ』は、連日、中央におうむがえしのお茶坊主式声明・決議・報告の波でうずまった。
除名二八名・党員権制限九名。府県委員以下の大量の離党または処分
七月二〇日、一八中総がひらかれて、中央は春日ら七名の除名を規約を無視して決定した。このとき、波多は綱領草案にたいするさきの反対意見を、神山は保留の態度を、それぞれ撤回した。
大会までに発表された被処分者は、除名二八名・党員権制限九名で、被除名者には中央役員七名・中央部員二名・元都委員八名・県委員一名・理論家および編集者グループ一〇名が、ふくまれていた。
そのほかに、東京・大阪・京都・兵庫(とくに尼崎市)・広島、その他の地方組織において、府県委員以下の大量の離党または処分がみられたことは、いうまでもない。党内の反綱領派・構造改革派・中央派閥批判派・革新派などの諸分子は、ほとんど実質的にここに分裂した。しかし、まだあとには、中央派閥に批判をもちながら面従腹背の態度をとったもの、一時的に中央支持にまわったもの、まだ十分に発言権をもたず中央も注目しないままに組織にとどまったもの、などかなりの非中央分子がのこされていた。
第5章6節、第八回大会のしめすもの (P.283〜288全文)
七九八名の代議員とその構成。神山・中野を代議員に選ばせず、評議員とし、二中央委員の大会決議権を剥奪
第八回大会は、一九六一年七月二五日から三一日まで東京都世田谷区民会館において、審査を通過した七九八名の代議員でひらかれた。規約にある二年に一回という規定に反して、前大会から三年目であった。神山・中野の二中央委員と統制監査委員の松本(惣)は、病気の中委候補間瀬場とともに、ついにどこからも代議員に選出されなかったため、決議権をもたない評議員の資格で出席をゆるされた。
代議員の年齢構成をみると、三〇歳代が五八%、四〇歳以上が三二%で、これを第七回大会とくらべると、四〇歳以上の比重が約一五%へって逆に三〇歳代が一七%ふえていた。このことは党員の若がえりの反映だったが、二九歳以下が前回の一二%よりもさらに少なく、一〇%しかしめていない事実は、三年間にわたる強行的な党勢拡大・党員倍加運動にもかかわらず、まだ青年幹部を十分養成してつかんでいない弱点をばくろした。
出身別では、党専従者が五五%で前大会より一七%へり、経営細胞所属の労働者代議員は二三%で前大会より一八%ふえ、この点では改善されていた。大会中の報告によると、党員数は七回大会当時の二倍で一〇万未満、『アカハタ』は本紙発行部数が二万五〇〇〇、日曜版が二五万五〇〇〇であった。民主青年同盟の成員は六万人にたっしたとされた。
派閥による独裁的な党支配にとって絶好の基盤となる新入党員
これらの数字面では、党は量的にたしかに発展していた。だが質的にみると、はたしてどうか。中央派閥のまちがった指導のありかたと官僚的独裁支配のため、前述のように安保闘争以来多数のすぐれた党員がみずから去るか放逐されるかした一方、無原則な入党政策でなんの思想的基準もなしに、新規党員がふやされていったから、いまや党活動は実質的に六割から七割までの新入党者に依存するようになっていた。党員倍増といっても、党歴三年未満が半分を占めたにすぎない。
大会はそれを忠実に反映して、代議員中五年以内の党歴者は、前大会でわずか〇・九%だったのが、今度は一きょに八倍余もふえて七・七%をしめるにいたった。かれらには、党史の知識もなければ活動経験の蓄積もなく、党員倍加運動による新入党者にレーニンの写真をみせたら「ユル・ブリンナーか」といわれたという詰もあるほどだった。こうした新規党員は、当然、自主的な思考や判断で党政策の作成に寄与することも、それを創意的に実践することもできない。大衆に責任を負う実行能力に、まったく欠けているのである。かれらには、幹部絶対・機関第一であって、派閥による独裁的な党支配にとって絶好の基盤となるだけだった。
六万にたっした民青同
六万にたっした民青同も、党員とおなじく質の低下はいちじるしく、幹部支配の地盤としては有利であっても、その反面、「選挙戦において同盟が党を支持することが理解できず、同盟内の政党支持の自由を主張し、なかには『だまされた』という意見もとびだした」(『東京党報』、一九六一年二月三日第六三号)と、党機関自体がなげくしまつであった。
ヤミクモの入党運動を進めた結果
この実態は、第一章にすでにのべた戦後の「ハガキ入党運動」とその結果の再現にほかならない。あの無原則な党勢拡大で、無から出発した党は三、四年のあいだに二〇万の大衆党になりはしたが、それは一片のコミンフォルム論評でアッというまに分裂し、その後の派閥指導のタイハイで空中分解の一歩手まえにまでおちこんだのだ。派閥支配に都合よい党内基盤をつくるため、ヤミクモの入党運動を進めた結果は、思想的・人間的な無資格者から警察分子にいたるまで、大量のインチキ党員をかかえさせて、党自壊の要因をみずからつくりあげたのだった。
真の前衛党にとっては、党員の数の増大だけが問題ではなく、党の内面の質的向上こそが問題なのであることは、常識である。この意味から、七回大会後の党員倍加運動でえた一〇人の新党員は、党から去っていった有能な中堅党員ひとりにおよばなかった。ただ二年前とくらべて、党員の年齢構成からみて、二五歳以下の比重が一〇%以上もふえ、職業別にも、工場細胞の比重が約一〇%ふえたことは、プラスであった。
大会の主要議題と中央主流支持分子だけのあつまり
さて、大会の主要議題は、綱領の決定、中委政治報告の討議と採択、中央統制監査委の報告、規約の一部改正、中央委員と統制監査委員の選出であった。中央少数派以下反対派は、すでにほとんど排除されていたから、中央主流支持分子だけのあつまりで、討議なども無意味にひとしかった。
第七回大会にはほとんど党章反対の代議員ばかりをおくりこんだ東京都・富山・長野など、こんどは綱領賛成の代議員でかためていた。前回二名のほかは全員反対派だった神奈川県も、前記のようにこんどは全員が賛成ぐみだった。それでも、万一綱領反対者が発言しないかとおそれた中央は、大会運営のげん重な統制をはかり、大会発言者にはすべて事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿みつに審査したのち大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。これで自由な発言ができるとしたら、奇跡みたいなものだった。
野坂・宮本の報告に拍手また拍手
野坂(政治報告)・宮本(綱領草案)の報告は、拍手また拍手のなかでむかえられ、それらの討論は中央に忠誠をちかう儀式とかわりなかった。その後の大会討議をつうじて、中央の見解と対立したり批判的であるような意見はついにひとつもだされず、綱領草案についても、あたまからこれの実践的検証をちかう没理論的発言か、中央指示の忠実な実行による草案反対派との闘争を手がら顔にほこる茶坊主的発言が、圧倒的であった。
神山・中野・波多らは綱領草案支持を表明し、かつて反独占社会主義革命を主張した鈴木・中西らも、自己批判して草案支持をあきらかにした。志賀は一週間の会期中、発言らしい発言を一度もしなかった。こうして議案は、綱領以下すべて全員一致で採択された。綱領採択にあたっても、中央は大事をとり、代議員の挙手によって反対者・保留者・賛成者という順番で意思表示をもとめたから、実さい上反対・保留など封じられ、最初から全員一致の賛成が予想されていたのも同然だった。例外的に反対二・留保一の代議員をだした島根の五名も、全部賛成にかわっていた。
規約改正の中身は、時代逆行の標本
大会で採択された規約の改正の中身は、中央のありかたを如実にかたる時代逆行の標本だった。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の組織にたいする中委指導に必要な措置――これらすべてが、あらたに中央委員会でかってにできるようになった。
中央の権限が拡大強化されただけでなく、「幹部会は必要なばあい常任幹部会をおくことができ」「幹部会は中央統制監査委員会に出席することができる」ようになって、いまや中委−幹部会−常任幹部会と、集団指導に背反する少数独裁制への移行の保証があたえられるにいたった。しかも他方で、規律違反で審議中のものは六カ月のワクで党員権を停止されうることとなり、党員の権利がそれだけせばめられた。
中央の権限がつよまり、党内民主主義がいっそう制限
いわば、悪評たかい五一年の四全協規約へのまいもどりといえたのだ。民主集中制の原則は、最大限の党内民主主義と必要限度内での集中制という運用のしかたが正しいのだが、ここでは逆に、以前の非公然体制と軍事方針の異常な時代をおもわせるかのように、中央の権限がつよまり党内民主主義がいっそう制限されているのである。非合法状態を想起させるような規約の改悪は、中央の思考を支配する「鉄の規律」や「一枚岩の団結」の硬化した観念にもとづくものといえた。こうした固定観念のもとに、大衆の民主主義意識の発展に対応するような集団指導の体制、党内民主主義の拡大、党組織の近代化と開放化などは、すべてどこかへうちやられてしまったのである。
中央役員の選出
中央役員の選出も、波乱もなしに進行した。中委から総員一〇五名に上る侯補者リストが選考委員会に提出され、選考委はこの名簿と代議員すいせんの役員候補四〇名について審議をおこない、ほとんど中委原案どおりの顔ぶれを決定した。七月三一日の役員選挙は、無記名連記でおこなわれた。新中央は規約改正で大はばに増員、中委は三一名から六〇名に、中委侯補は六名から三五名に、統制監査委は七名から八名にふえた。
ふえた新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長・委員クラスが大量に登用された。前大会で責をとわれて中委の候補者リストからはずされた旧所感派の紺野・西沢・竹中・松本三益・田代・竹内・塚田など、すべて中央委員に復活した。神山・中野はかろうじて中委にいれられ、波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは、中央に入れられなかった。
中央委員の平均年齢五五歳、中委侯補の平均年齢四四歳、統制監査委の平均年齢五三歳、第七回大会とくらべてみて、中委候補の年齢だけがわずか若くなっただけで、中委などは逆に高年齢となり、党の老化現象は依然たるものがあった。
新指導部の構成と性格
大会最終日の七月三一日と八月二日の二日間、第一回中央委員会総会をひらいて、中委議長野坂・書記長宮本、中委幹部会員として野坂・宮本・袴田・志賀・春日(正)・蔵原・きくなみ・松島・鈴木の九名、書記局員として宮本・袴田・松島・伊井・安斎・米原・紺野・土岐・平葦・高原の一〇名をえらんだ。
野坂・志賀は実質上タナあげされ、宮本・袴田という戦前の党の最終中央コンビが指導権をにぎり、いまや旧国際派や反主流派がほとんど根こそぎ党外に去ったあと、かれらの周辺にあたらしく松島・きくなみ・鈴木・伊井・高原らの戦後組合運動の指導者が結集され、安斎・土岐などの旧満鉄グループとともに中央主流を形成することとなった。
中央役員は綱領の積極的支持者でかためられ、中委候補は府県委員長クラスでかためられ、全党の「統一と団結」がかつてないほど実現したかにみえたから、第七回大会とちがって、宮本・袴田ラインの指導権の強固さを前例にないほど提示し、その確立をだれにも証明してみせてくれたかのようだった。だが、その指導体制の内面の強固さという視角からみれば、むしろより大きな弱点と矛盾がそのなかに形成されていた。
「封建的」官僚主義にたいする「近代的」官僚主義
宮本書記長は、徳田前書記長の家父長的な指導にくらべてより合理主義的であり、いわば「封建的」官僚主義にたいする「近代的」官僚主義ともいうべき新体制を確立させた。官僚主義の特徴は、上から下へ、上級から下級へ、中央から地方へ、党から大衆へ、の一方的交通があるだけで、その逆の方向のパイプが欠如しているところにある。
宮本は徳田とくらべてより「民主主義的」だといわれたが、それは中央段階でより合理主義的態度であるにとどまり、中央の権威を過度にふくれあがらせ、「鉄の規律」「一枚岩の団結」を乱用して党内言論を抑制し、反対者や批判者を行政的にしめつけようとすることでは、なんらかわりはなかった。
理論・政策・組織のあらゆる面に、硬化現象発生の予測
党内をおさえていくうえで、徳田のラフなやりかたにくらべて、宮本が周到で慎重であることはたしかだった。かれを中心とする新中央主流は、本質的に戦後の内外の共産主義運動がふくむあたらしい点や多くの成果を、吸収してはいなかった。日本の戦後の大衆の民主主義意識の進歩やその水準のたかまりを、正しく評価できず、したがってそれに対応する前むきの態度も志向も欠いていた。先進的分子には通用しなくなったとはいえ、まだ戦前から大衆のイメージにある「革命党」の伝統、いわば前衛党伝説ともいうべき心象にあぐらをかき、国外の「権威」へのかぎりのない跪拝の姿勢をしっかと維持していた。そうであるかぎり、理論・政策・組織のあらゆる面に、硬化現象がおこるのは当然であった。
一九一二年六月大阪生。大阪天王寺商業学校卒。戦前・唯研会員、戦後・民科会員。
著書 (戦前)近代兵学(三笠全書)、その他。
(戦後)日本労働運動・社会運動研究史。日本マルクス主義史。戦後の日本共産党。片山潜・二巻(岸本・渡辺との共著)。日本の非共産党マルクス主義者(岸本との共編)。日本近代社会思想史(右と同じ)。日本民主革命論争史。日本資本主義論争史・三巻(編著)。日本資本主義論争の現段階。日本帝国主義史・三巻(浅田との共著)。その他。
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