61年綱領決定時の「アカハタ」編集局員粛清

 

編集局細胞の動向と「アカハタ」記者由井誓の除名

 

平尾要

 

 (注)、これは、『由井誓遺稿・回想』(由井誓追悼集刊行会、1987年、絶版)にある、平尾要『「アカハタ」記者・由井誓―綱領討議の前後の事情から』(P.242〜246)の全文です。このHPに転載するにあたって、その題名を、私(宮地)の判断で、上記のように変更し、また、〔目次〕をつけました。このHPに転載することについては、平尾要氏の了解をいただいてあります。

 

 〔目次〕

     コメント(宮地)

   1、1955年六全協後、由井誓「アカハタ」記者

   2、1958年、第7回大会『綱領と規約の草案』(党章草案)の採択前後

   3、1961年、第8回大会前の異論弾圧と異論者粛清

   4、1961年後、綱領批判記者の“宮本・袴田への屈服”と出世

   5、1962年、『由井誓除名処分通知書』

   6由井誓略歴

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

   由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

   小山弘健『61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀』異論・反対派全員の排除・除名と満場一致大会

   小山弘健『第8回大会・61年綱領の虚像と実像』大会直前の分裂と綱領論争・組織問題

   菱山郁郎『構造改革論の思想的意義と現実的課題』

 

 コメント(宮地)

 

 61年綱領決定において、さまざまな異論・別綱領路線が出され、激烈な討論がなされました。現綱領を満場一致で第8回大会採決するまでの過程で、宮本顕治・袴田里見らが除名・排除を強行した異論派幹部は、中央委員8人、「アカハタ」記者数人、党本部専従10数人、党員文学者20数人、東京都委員8人他都道府県幹部多数にのぼります。その除名・排除大粛清の実態は、“勝てば官軍”側の宮本党史という一方的情報が流されているだけで、ほとんどが、日本共産党史の赤い霧の中に隠されています。この粛清劇は、綱領決定の裏側において、宮本顕治が行なった“綱領異論者・党中央批判者にたいする規律違反でっち上げ”クーデターとも言われています。

 

 1950年、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の衝撃で、日本共産党は、主流派と国際派とに分裂しました。その時、宮本顕治があまりにもスターリン盲従・崇拝であることにたいする党内の反発を受けて、国際派は、中央委員の20%・専従の30%・党員の10%という少数分派に転落していました。彼は、六全協で、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らの命令により、指導部に復帰しました。その後、元軍事委員長志田を料亭「お竹さん」問題で排除・除名するとともに、彼は、党内実権を握り、着々と多数派分派「宮本組」工作を展開し、元主流派幹部を取り込み、かつ、宮本秘書団を中核とする宮本私的分派・側近グループを作り、今度こそは、自らを、少数分派から多数派に転化させる逆転劇に成功しました。宮本顕治の見事な権力掌握術の内容は、「宮本組」分派活動によって多数派になるのと並行して、彼を批判する異論少数派にたいして、規律違反レッテルを多用し、各個撃破戦術で、排除・除名をしていったことです。彼が抱いたスターリン型前衛党建設の理想目標の一つは、「党中央=宮本顕治に批判的意見を持つ専従の存在を許さない。革命党建設目的のためには、でっち上げ規律違反など手段を選ばない」ことでした。

 

 宮本ら中央委員会の党内権力多数派側の綱領草案にたいする批判・別の革命路線異論を主張する側は、中央委員、専従、アカハタ記者、都道府県委員などにも、大勢いました。ただ、分派禁止規定と結合した民主主義的中央集権制に基づく「単独異論の垂直提起(一人だけによる縦型ルートのみ許可)」システムだけでは、多数意見派になりえません。そこから、当然、宮本多数派分派に対抗して、「党内での水平的意見交流(組織横断ルート)」を行います。宮本・袴田らは、党内密告システムにより、喫茶店・居酒屋・各自宅における意見交流を、「2人分派」「3人分派」とでっち上げて、分派活動の規律違反と断定し、綱領草案反対派にたいする査問・除名・専従解任の排除を大展開しました。これら規律違反の摘発は、ほとんどが密告によるものです。

 

 第8回大会代議員選挙においても、各都道府県党会議に提出する代議員機関推薦リストから、綱領批判派を事前排除するよう、周到な秘密工作をしました。大会中、代議員宿舎間の交流を全面禁止しました。これらの宮本・袴田式事前・当日秘密指令なしには、それまでの綱領論争の経緯からみて、1961年第8回大会で、現革命綱領が満場一致で採択されるはずがありませんでした。この資料は、その一端に関する証言です。

 

   『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態、宮本顕治のスターリン盲従度

   『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

   『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)宮本私的分派側近グループリスト

   『ゆううつなる党派』役員・代議員選挙=任命システム

   吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本自己批判書

 

 

 1、1955年六全協後、由井誓「アカハタ」記者

 

 由井誓が日本共産党中央機関紙『アカハタ』編集局報道部に入り、記者生活を始めたのは昭和三十年(一九五五)、二十四歳の時のことである。以後、七年間にわたり、主として政治分野の取材を担当した。安保共闘会議、原水爆禁止協議会をはじめ、国会や各種民主団体関係の報道を続け、時には特報(スクープ)を放った。また、砂川基地反対・警察官職務執行法反対闘争のほか、沖縄問題などの取材に取り組み、一般報道だけでなく、積極的に解説記事や企画記事など、多面的に筆を執った。なかでも、当時、米軍政下の抑圧に抵抗しつつ那覇市長を努めた沖縄人民党代表の瀬長亀次郎氏と共産党の宮本顕治書記長の長距離電話対談を実現させるなど、優れた企画を展開した。

 

 由井誓の記者生活の期間は、あたかも六〇年安保闘争を軸とする国民運動の高揚期と重なっており、これに対応する充実した報道活動を続けた。

 明るい性格、誠実な人格、勤勉で着実な仕事ぶりは、思想的な立場を超えて党外からも厚い信頼を集めた。たえず他人の意見に耳を傾け、自分の考えで相手をしばることなく、いつも控えめで、編集局でも“よきまとめ役”に徹した。

 

 

 2、1958年、第7回大会『綱領と規約の草案』(党章草案)の採択前後

 

 その由井誓が官僚主義的な党運営に失望の色をみせ始めたのは昭和三十三年(一九五八)の夏に開かれた第七回党大会前後のことである。

 

 第七回党大会の中心課題は、前年に発表された「綱領と規約の草案」(党章草案)の採択にあった。また、この党大会は四年前に開かれた第六回全国協議会(六全協)の「党の統一の回復」の決議のあとを受けて、六全協直前までの五年間にわたる党の分裂状態と紛争から脱却し、新たな方針を確立することを目的とした。

 

 党の分裂は、朝鮮戦争の起きた昭和二十五年(一九五〇)にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が突然、日本共産党の「占領下の平和革命論」(野坂理論)を公然と批判したことを契機に発生した不幸な状態であった。コミンフォルム自体は翌年に各国共産党の自主性尊重のため解散するが、この批判は日本共産党に混乱を与えた。

 

 コミンフォルム批判をめぐって日本共産党は、この批判の「積極的な意義」を認めた国際派と、「所感」を発表した主流派とに分裂した。主流派は「五一年綱領」を採択して山村工作隊、火炎びん闘争などの軍事方針を採用し、極左冒険主義に陥った。この「五〇年間題」に終止符をうったのが六全協であった。

 

 由井誓は早稲田大学の学生時代に入党し、党の指示で非公然活動の山村工作隊に参加したが、党内民主主義の欠如が、党組織に、いかにおおきな被害を与えたかを身をもって知っていた。それだけに、上部の命令・決定を絶対視し、一方的に盲従を強制した過去の党の体質に強い拒絶感を持っていた。そこから党大会の綱領討議にあたっては、なによりも党内民主主義の保証を求めてやまなかった。

 

 七回党大会は、日本の現状規定と革命の性格を焦点に論議が進められたが、綱領草案に対しては中央委員会内部に、かなりの反対意見があった。

 綱領草案は、日本の現状を「高度な資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国」と規定し、当面の革命の性格を「人民民主主義革命」と特徴づけた。これに対して綱領反対派は、日本の現状を「基本的に自立した帝国主義国」であり、革命の性格は「反独占社会主義革命」と規定し、国際情勢の有利な発展などから、議会を利用した「平和革命」の可能性を主張した。

 綱領討議は、このあと昭和三十六年(一九六一)の夏に開かれた第八回党大会の直前まで続けられた。

 

 

 3、1961年、第8回大会前の異論弾圧と異論者粛清

 

 『アカハタ』編集局細胞は当初、綱領批判派が多数を占め、細胞責任者も綱領批判派の編集局長が選出された。討議は極めて自由な空気の中で希望を持って開始されたが、それが次第に重苦しい状態に変わるのは、中央委員会書記局の介入で討議が綱領賛成へと誘導されはじめてからである。なかでも、八回党大会が近づくにつれ、袴田里見幹部会員が直接乗り出し、干渉を強めるに至って、討議は軌道を外れ、「綱領批判者不満分子・反党行為」とする規律論が前面に押し出されるようになった。

 

 八回党大会直前に六人の中央委員二人の中央委員候補規律違反に問われて除名処分となり、これと関連して編集局細胞の綱領批判派の中心的存在だった二人の編集局員同様の理由で除名され、綱領論議は窒息状態なった。党大会への編集局の代議員選出は中央委員会書記局決定で延期となった。

 

 編集局内に疑心暗鬼の空気が強まり、動揺は隠しおおせなかった。内心では綱領批判であっても、表面上は「基本的に賛成」という編集局員が増えた。この言葉は党に残留するための“免罪符”となった。綱領討議は規律問題へと変質し、幕が閉じられた。

 由井誓が規律違反で除名されたのは昭和三十六年夏のことであった。

 

 

 4、1961年後、綱領批判記者の“宮本・袴田への屈服”と出世

 

 あれから長い歳月が流れた。昭和四十一年(一九六六)に『アカハタ』は『赤旗』と表示を換えた。由井誓とともに綱領批判派だった当時の同僚記者で、「基本的に賛成」といって残留した多くは現在、常任幹部会員、幹部会員、『赤旗』編集局幹部あるいは国会議員などとして党の要職にある。

 

 また、編集局の討議に直接介入した袴田氏は、その後、昭和五十三年(一九七八)に宮本委員長との対立が表面化し、党から除名となった。その理由もまた、規律違反ということであった。

 

 そして、その後、党は「民主連合政府」綱領を採択し、「日米軍事同盟の解消と平和・中立化、大企業本位から国民本位への経済政策の転換、憲法改悪反対・民主主義確立と教育の民主的発展」の三つの共同目標を掲げ、議会重視の立場をとっている。これは、かつて綱領批判派が主張した「反独占・平和革命」の主張と、本質的に同じものではなかろうか。

 

 由井誓が、党内民主主義の重要性を主張し、熱情をこめて加わった、あの論議は、いかなる足跡をとどめたのであろうか?

 歳月は、時として皮肉な展開を遂げるようである。意外な屈曲をみせて、あの論争も落着くべきところに位置を定めた。綱領批判者の声は現実政治の中で生き続けているように思われる。歴史の検証という状況の中に――。

 

 

 5、1962年、『由井誓除名処分通知書』

 

 一九六二年二月二十七日  日本共産党アカハタ編集局細胞委員会

 由井誓殿

    除名処分通知

 アカハタ編集局細胞は、さる二月二十三日、細胞総会を開き、あなたの党規律違反、反党行動について審議した結果、再三の反省要望と釈明の機会を与えたにもかかわらず、公然と敵対的行動を続けていることは、党にたいする重大な犯罪であり、従ってあなたから提出された離党届認めず、日本共産党規約第五十九条、第六十条によって除名処分にすることを決定したので通知します。なお、この処分は党規約第六十一条による上級の承認をえたものであることを付記しておきます。以上

 

 

 6由井誓略歴

 

 一九三一(昭和六)年 長野県南佐久郡川上村大深山、由井虎夫同志津以の次男として生まれる。

 一九四三年 長野県立野沢中学入学。旧制野沢中学、新制野沢北高校時代は陸上競技部所属、応援団団長。

 一九五〇年 早稲田大学第一政経学部政治学科入学。レッド・パージ反対闘争の中、学生運動と政治活動に入る。日本共産党に入党。

 一九五二年 血のメーデーを契機とする早大事件後、半非合法活動に従事、小河内村山村工作隊に入る。小河内で検挙、釈放後地下活動に入る。三多摩地区、都内、栃木県下等で活動。

 

 一九五五年 『アカハタ』編集局に入る。以後、砂川闘争、警職法闘争、安保闘争等にかかわる。とくに六〇年安保闘争では、記者の立場をこえて他政党、労働団体、学生団体との橋渡し的役割を果たす。

 一九五八年 富原守義の次女晶子と結婚。

 

 一九六一年 党内論争で構造改革路線をとり離党(実際は、共産党が離党届を認めず、除名処分にした)。社会主義革新運動に参加。新聞『新しい路線』編集長となる。

 一九六七年 共産主義労働者党結成に参加、後に新聞『統一』編集長となる。

 一九七〇年 労働運動研究所に参加、以降常任理事。一九八五年より雑誌『労働運動研究』編集長。

 一九八六年十一月十七日 死去。(五五歳)

 

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 (関連ファイル)

   由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

   小山弘健『61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀』異論・反対派全員の排除・除名と満場一致大会

   小山弘健『第8回大会・61年綱領の虚像と実像』大会直前の分裂と綱領論争・組織問題

   菱山郁郎『構造改革論の思想的意義と現実的課題』