マフノ運動とボリシェヴィキ政権との関係

 

共闘2回とボリシェヴィキ政権側からの攻撃3回

 

(宮地作成・資料編)

 〔目次〕

   1、宮地コメント−ウクライナの悲劇とマフノ運動の位置づけ

   2、梶川伸一『ウクライナの悲劇』『レーニン体制の評価について』(抜粋)

   3、HP・20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』(抜粋)

   4、長尾久『少数民族地域・ウクライナにおける十月革命』『ロシヤ十月革命』(抜粋)

   5、中井和夫『ネストル・マフノ』『ロシヤを知る事典』(全文)

   6、郡山堂前『1917〜1921年のウクライナ・年表』『マフノ運動史』(抜粋)

   7、和田春樹『マフノ、ロシヤ革命における農民の運命』『農民革命の世界』(抜粋)

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

    梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉から見えるもの

    HP・20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』(ウクライナの歴史、全文)

    ウィキペディア『ウクライナの歴史』

    大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

 

 1、宮地コメント−ウクライナの悲劇とマフノ運動の位置づけ

 

 〔小目次〕

   1、ウクライナの悲劇とマフノ運動に関する研究文献

   2、マフノ運動の性質と位置づけ

 

 1、ウクライナの悲劇とマフノ運動に関する研究文献

 

 私(宮地)は、以前から、マフノ運動に深い関心を抱いてきた。これは、レーニンが、最高権力者5年2カ月間でしたことの中でも、かなり重要なテーマの一つだからである。しかし、ソ連崩壊後に出版された多くの文献をかなり調べたが、マフノ運動に関する新しいデータを発掘・公表したものは出てこなかった。

 

 2006年7月、梶川伸一教授が、論文『レーニン体制の評価について』を発表した。彼は、その第4章において、「ウクライナの悲劇」に関し、ソ連崩壊後に発掘・公表されたアルヒーフ(公文書)に基づき、詳細なデータを載せた。ただ、その内容は、マフノ運動そのものを分析していない。それは、ボリシェヴィキ一党独裁下におけるウクライナにたいし、レーニン・トロツキーが遂行した食糧独裁令=軍事割当徴発強行手口の検証である。その必然的結果としての1921年〜22年飢饉の実態解明を行った。

 

    梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉から見えるもの

 

 そこで、とりあえず、ウクライナの悲劇とマフノ運動に関する〔資料編〕を作成することにした。ソ連崩壊前におけるマフノ運動研究としては、3人の著書が有名である。()、アルシーノフの訳書は2つある。『マフノ叛乱軍史−ロシア革命と農民戦争』(鹿砦社、1973年、原著1923年、絶版)と、『マフノ運動史、1918〜1921、ウクライナの反乱・革命の死と希望』(社会評論社、2003年)である。()、ヴォーリン『知られざる革命−クロンシュタット反乱とマフノ運動』の第2部「ウクライナの闘争、マフノ運動、1918〜21」(現代思潮社、1966年、絶版、原著1945年)()P・アヴリッチ『ロシア・アナキズム全史』の第8章「マフノ運動−ロシア・アナキズムの滅亡」(合同出版、1971年、絶版、原著1967年)である。これらは、いずれも、マフノ運動の本格的な研究で、かつ、長文である。よって、このファイルには載せない。別ファイルとしてHPに載せる。

 

 日本では、大杉栄が、1923年、いち早く、『無政府主義将軍ネストル・マフノ』を書いた。和田春樹は、『農民革命の世界−エセーニンとマフノ』(東京大学出版会、1978年、絶版)を、東大助教授時代・40歳で出版した。このファイルには、大杉栄論文リンクと、和田春樹『農民革命の世界−エセーニンとマフノ』から、マフノ運動だけの章を抜粋・転載した。なお、〔資料編〕の各文献において、固有名詞の訳語がいろいろ異なる。それらの違いは、そのままにして載せた。

 

    大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

 

説明: ネストル・マフノ

ネストル・マフノ

 

 2、マフノ運動の性質と位置づけ

 

 この運動は、複雑で、多様な側面を孕んでいる。一つのパターンで分析したり、位置づけをすることができない。それらのいくつかを簡潔に確認する。

 

 〔性質1〕、これは、二月革命の一カ月後、1917年3月から、ロシア全土で勃発した80%・9000万農民の土地革命の一環である。地主・貴族・富農から土地を没収し、ミール共同体内の総割り替え制によって、農民が土地を社会的所有にした。土地革命の規模・実態は、別ファイルで検証した。

 

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

 

 〔性質2〕、少数民族地域における民族解放・独立革命戦争の性質を帯びた。それを妨げる勢力とたたかうために、マフノという形態になった。()ドイツ・オーストリア占領軍とのパルチザン戦争、()白衛軍、デニキン軍との戦闘、後退→総突撃、()ボリシェヴィキ赤軍との2回の共闘とボリシェヴィキ側からの3回の攻撃との戦闘である。これら3つの勢力と複雑で、臨機応変な戦闘をした。マフノ軍は、マフノがアナキストでありながら、主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因だった。

 

説明: http://ja.wikipedia.org/upload/thumb/5/57/Ukraina.JPG/500px-Ukraina.JPG

 

 〔性質3〕アナキズム運動の側面も含む。マフノ、アルシーノフ、ヴォーリンらは有名なアナキストだった。ただ、マフノ運動全体におけるアナキズムの位置づけは、文献によって、微妙な差を持つ。マフノ運動におけるその思想的影響度の評価は、高い位置づけをする順で見ると、P・アヴリッチ→ヴォーリン→アルシーノフである。

 

 〔性質4〕、レーニンの誤った食糧独裁令・軍事割当徴発に抵抗・反乱したソ連全土における農民反乱において、3大農民反乱の一つに位置づけられる。西シベリアの反乱、タムボフ県におけるアントーノフの反乱などの規模と並ぶ反乱スケールだった。3つの勢力との戦争で、マフノ軍は最大時5万人以上にもなった。西シベリア反乱、タムボフ反乱については、梶川伸一がソ連崩壊後に発掘・公表された膨大なアルヒーフ(公文書)に基づいて検証した。

 

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』西シベリア反乱、タムボフ反乱の実態

 

 〔性質5〕、内戦終結後、1921年〜22年の大飢饉で約500万人が餓死・病死した。その内、ウクライナの餓死者は、ソ連全土の約20%・100万人を占めたと言われている。なぜ、ウクライナだけがそのような悲劇に陥ったのか。その理由はいくつかある。第一は、ウクライナが、タムボフ・ペンザ県、西シベリアと並ぶ3大穀倉地帯であり、都市の飢餓を解決する上で、レーニン・トロツキーは、軍事割当徴発による過酷な穀物収奪を、それらの地方にたいして行った。第二、ウクライナにおける飢餓が深刻化しても、飢餓地方と認めないで、住民の大量餓死に至るまで都市への穀物収奪を続けた。

 

 第三、軍事人民委員トロツキー・ウクライナ赤軍司令官フルンゼは、マフノ軍との2回の共闘時に意図的に武器・弾薬の供給を怠った。その不足にもかかわらず、マフノ軍は、ボリシェヴィキ側からの3回の攻撃と戦闘で果敢にたたかい、赤軍に3万人の死者という損害を与えた。それにたいする報復として、レーニンは「ネップ」後も、マフノ軍の掃討作戦を行った。ボリシェヴィキ政権・赤軍は、マフノ運動賛同者を、最終的に老若男女ほぼ皆殺しにした。

 それとともに、飢餓の救援をしないという意図的な餓死政策を採った。餓死500万人中、レーニンによる意図的な政策的餓死数は、250万人という研究文献もある。ウクライナにたいするレーニンらの政策については、梶川伸一が、2006年7月、ソ連崩壊後のアルヒーフ(公文書)に基づき、初めて検証した。

 

 

 2、梶川伸一『ウクライナの悲劇』−『レーニン体制の評価について』(抜粋)

 

 ()、これは、梶川伸一論文『レーニン体制の評価について』第4章の全文を転載したものである。そのテーマは、ウクライナにおける食糧独裁令とそこでの飢饉であり、マフノ運動を直接分析していない。しかし、マフノ運動の背景に何があったのかを知る上で、ソ連崩壊後に発掘・公表されたアルヒーフ(公文書)に基づくデータとして、きわめて貴重である。

 

    梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉から見えるもの

 

 このような最大の悲劇をウクライナで見ることができる。そもそもウクライナは二重の意味で革命後はロシヤに比べていっそう厳しい運命に晒された。第一に、何度も繰り返される政変によって農民経営はきわめて不安定な状態に置かれた。二月革命以後はケレンスキー政府、次いで十月革命から18年3月まではボリシェヴィキが支配していたが、ブレスト講和に準じてドイツ軍が侵攻し、19年1月まではその傀儡政権であるスコロパーツキィが支配し、ドイツ軍の撤収にともなって19年3月までは民族主義的ブルジョワ体制がペトリューラによって採られた。

 

 この時期から特に内戦が激化し、パルチザン軍を率いたネストル・マフノーが、ボリシェヴィキと共闘し、再三裏切られる舞台が整えられる時期である。こうして19年3月から8月までボリシェヴィキの支配下にあったが、その後フランス、ギリシア、イタリア軍に支持されたヂェニーキンの占領から、ボリシェヴィキによってウクライナが解放されたのが20年1月であった。だがこれは悲劇の始まりでしかなかった。

 

 第二に、マフノーの運命が象徴するように、ボリシェヴィキ政府の支配はウクライナ農民にとって厳しいものであった。ウクライナの解放以前に反革命政権の支配下に置かれていたことにも関連し、ウクライナでの穀物調達はクラークが支配的と想定された農村での階級闘争が特に強調され、そのためロシヤ共和国では早々に挫折した貧農委員会の指揮の下に調達が実行され、ロシヤ以上にそれは暴力的であった。

 

 ウクライナ史研究者、中井和夫はこの時期の飢饉について、「これまでの研究者は旱魃を直接の原因とする。しかし、21〜22年の飢饉は全ウクライナに及んだのに対して、ステップ地域だけが飢餓状態を味わった。また、ステップ地域は従来体験した旱魃でこのような結果を招かなかった。疑いもなく、旱魃はその年の不作の原因であったが、それは飢饉の原因ではなかった」と、適切に指摘する。

 

 ウクライナの解放は、ボリシェヴィキ権力にとって、食糧危機が深刻化するロシヤ共和国のための穀物獲得源以上を意味しなかった。19年初めにウクライナ食糧人民委員に任命されたシリーフチェルとともに、総勢2500人の87個の食糧部隊がウクライナに出発し、別の部隊もそれに続いた。そしてこのウクライナ食糧人民委員部の設立は、ウクライナ食糧人民委員部のロシヤ食糧人民委員部への完全な従属の下に行われた。ウクライナ人民委員会議議長ラコーフスキィとシリーフチェルの署名になる19年2月2日づけ命令書第1号は、ロシヤへの供給をウクライナ・ソヴェート政府の最大の任務と宣告した。

 

 その宣言は、第3回全ウクライナ共産党大会で承認され、その決議では、できるだけ多くの食糧をロシヤに発送するよう命じられた(ロシヤとウクライナの関係を象徴するエピソードを一つだけ挙げよう。同年3月に開催された第3回全ウクライナ・ソヴェート大会で、ある代議員がウクライナ語で話し始めるたびに、大部分をロシヤ人が占めるホールはざわめき「おれたちには分からないぞ」と叫びはじめ、登壇者はロシヤ語に替えるのを余儀なくされた。ラコーフスキィは両語の平等を宣言していたが、大会のすべての公式文書はロシヤ語で作成され公表され、逓信人民委員部によって、電報で打たれるすべての公式通信はロシヤ語で伝えられなければならない旨の指令が出された)。

 

 ロシヤの殆どの諸県で21年2月割当徴発は停止されたが、ウクライナでの穀物調達は継続された。しかしながら、燃料不足で穀物貨物列車は至る所で立ち往生し、マフノー運動の主要な攻撃対象となった食糧活動家と食糧機関は崩壊し、実質的にウクライナでの割当徴発も停止した。そして3月末に自由取引の認可に関するロシヤ政府の布告が公表されるや、担ぎ屋の群れや労働者組織が堰を切ったようにウクライナを含む穀物生産地方に溢れた。

 

 4月には「最近ウクライナの運輸を根本から解体し、未曾有の大量の担ぎ屋が溢れている。特にウクライナに隣接するヴォロネジ、クルスク、ゴメリ、さらにはトゥーラ県から、多くの個々の担ぎ屋、様々な組織は、ロシヤの食糧組織と県執行委の通行許可証を持っている」、「緊急措置が執られないなら、担ぎ屋の波は、ウクライナの主要な穀物諸県での調達活動と、軍隊とドンバスへの供給を最終的に崩壊させる」など、ウクライナ共産党中央委から再三このような非組織的穀物獲得を停止させるようにとの要請が出されたが、5月末にはゲー・ペー・ウー議長によって、ウクライナでの穀物調達活動がこれらの組織によって完全に解体されたことが確認された。ロシヤの飢餓民によって、ウクライナにある余剰はこうして、すっかり汲み出されたのであった。

 

 これに追い打ちをかけたのが、ウクライナの特にステップ諸県に忍び寄る異常気象であった。20年の夏は早霜で、は積雪が少なく突風が雪と大地とともに秋蒔き穀物の根も吹き飛ばし、21年の凶作を予想させるのに充分であった。春が訪れても降水量は異常に少なく、4月末以後2ヶ月以上も一滴の雨も降らなかった。それに猛暑が続いた。すべての穀物は干上がり、通常の丈にまで成長せず、多くの場所で春蒔き穀物から実も藁も収穫できなかった。播種面積が大きく減退する中で、秋蒔きライ麦の収穫率は、例えば、ザポロジエ県では1デシャチーナ[約1ヘクタール]当たり1914年の平均75プードが21年には6プードになった。

 

 ウクライナ全体で1人当たりの食糧用穀物量は戦前に18プードであったとしても、21年には10プードしかなく、飢饉地区では5プードを超えなかった。ここでもロシヤの飢饉と同様な光景が見られた。戦前時の凶作年は前年までの穀物備蓄で賄われていたが、この時には家畜と備荒用穀物が清算された。ザポロジエ県では16年に66万頭以上数えた馬は21年には18万頭に満たず、22年には12万頭にまで激減した。

 

 飢饉の問題で難しいのは、平均的数値が余り意味を持たないことである。当時の様々な条件によって穀物は偏在し、輸送手段の欠如も相まって、同じ県内や郡内でもたとえ平均収量が平年並みであったとしても、飢餓地区が存在したからである。クバーニンの『マフノー運動』(1927年)には、革命以来樹皮を噛んで飢えをしのぐほどの飢餓に喘ぐウクライナ民衆の姿が描かれている。それでも権力は現物税の実施を強行した。その結果、例えば、1人当たりの穀物と馬鈴薯の平均収量が5.7プードしかないドネツ県で、税の支払いと播種の後では0.12プードしか残らなかった。

 

 未曾有の大凶作の下でも、ボリシェヴィキ権力は農民からの現物税の徴収に躊躇しなかったが、そこでの徴収は二重の負担を農民に強いることになる。第一に、もちろん、飢餓民から最後の食糧源を奪うことはいうまでもないが、それだけではない。第二に、この時の現物税は殆ど根拠のない収穫予想に基づいたために実際よりはるかに高い税率が設定されたことである。戦前のウクライナの穀物総収穫は11億2500万プードであった。21年の収穫を政府は7億5000万プードと見積もったが、実際には4億5000万プードの収穫であった。後に飢餓県と認定されるステップ5県は、戦前の平均収穫量4億プードに対し8200万プードの収穫しかなかった。こうして設定された現物税はきわめて重い負担としてウクライナ農民に降りかかったのである。ロシヤ農村でも同様である。大凶作は自然災害であったとしても、大飢饉は人為的である。

 

 21年夏からウクライナでの飢饉は顕著になった。それまでは都市部では非常に高価であったとしてもパンを手に入れることができ、郡部よりもましな生活であったが、8月からおもに馬鈴薯の不作による食糧の困窮が始まった。郡部は都市に何も提供しなくなった。パン価格の上昇とともに飢餓民の数も増え、彼らは襤褸を纏い通行人に施しを請うていた。寒さの到来とともに、凍てつく大地に横たわる彼らは骸に変わり果て、誰もそれを取り除こうとせず、犬がそれを食いちぎるに任せた。

 

 農村も同様な惨状にあった。すでに山羊、羊、豚などは屠畜され食い尽くされた。彼らの何人かはキエフやポドリスク、さらにはその先のどこかを目指して、家を捨て離村した。殆ど何も食べず、飢えが強まり、彼らは途上で病に倒れ、その多くが約束の地に辿り着くことなく列車内で死んだ。そもそも約束の地などどこにも存在していなかった。鉄道駅、特に乗換駅では、このような死から逃れようとする大勢の飢餓民の群れを見ることができた。

 

 飢餓は村落内で急速に広まり、荒廃した農村には何も残されず、猫や犬、それに油粕やトウモロコシの芯などの代用食が通常の食事となった。粘土や雑草も食べた。これら食糧がなくなったとき、飢饉の最終局面が訪れる。人々は農家の屋根に葺かれた藁、長靴、馬具の革を食べ始める。彼らが耐えている非人間的苦痛は彼らを非人間的にし、そのように野獣になった人々は屍肉を食用にし、カニバリズムに至る。民衆の悲劇は常に至る所で同じ光景で幕が閉じられる。

 

 飢饉は人為的=政策的段階から、次いで犯罪的段階へと移る21年8月に飢餓民援助のためにロシヤ政府とARAとの間で行われたリガ交渉で、そこは相対的に豊作であるとの理由で、援助対象地域にウクライナは含まれなかった21年6月に開かれた第3回全ロシヤ食糧会議で、21〜22年度穀物調達の以下の方針が確認された。ヴォルガ流域の凶作は6000万プード以上の食糧税収入の減退を意味し、そのため政府はほかの地域での徴収を強化しなければならない、という。すなわち、ボリシェヴィキ政府の構想とは、ヴォルガ流域諸県の飢饉だけを認め、その援助はARAを含む外国組織に任せ、ほかの地域での穀物徴収を強化するというものである。その際に当該地域が飢餓地区であるか否かは斟酌されなかった、正確にいえば飢餓地区であったとしても容赦はしなかった

 

 こうして、飢饉に喘ぐキルギス共和国のうちアクモリンスクとセミパラチンスク県は調達対象県になったために飢餓地区に認定されなかったように、ウクライナもそこがシベリアと並んで21〜22年度の主要な穀物調達対象地域に設定されたため、リガ協定には含まれなかった。ARA代表は、21年11月23日づけ飢餓民援助中央特別委議長宛の書簡で、ロシヤ政府のARAへの統制を強めようとする様々なリガ協定違反を指摘した後、ウクライナでの飢饉を調査しようとのARAの提案に対してロシヤ側は(具体的に誰かは言及なし)、ウクライナには飢饉は存在しないとの理由でそれを拒否した事実を挙げてロシヤ政府の対応を非難した。11月29日にハリコフを訪れたARA代表団は、ウクライナ当局からウクライナは独立国であり、ロシヤと締結されたリガ協定にウクライナは含まれていないとの説明に驚きを隠さなかった。ロシヤ政府はそこでの飢饉の存在を認識しながらも、ウクライナ民衆への飢饉援助を妨害し続けたのであった。

 

 ウクライナのステップ諸県、ザポロジエ、ドネツ、ニコラーエフ、オデッサ、エカチェリノスラフ県が飢餓地区に認定されたのは、22年1月1日のことである。22年8月に出されたARAの報告書はニコラーエフ県の飢饉の惨状に触れた後、次のように指摘する。「ニコラーエフ地区で飢饉を引き起こした原因を以下に纏めることができる。21年の凶作、前年までの収穫からの貯蔵の欠如、ニコラーエフ地区自体が飢饉であることが判明する以前に、ヴォルガ流域に引き渡すため割当徴発が実施されたことであり、中央ウクライナ政府は22年1月1日までニコラーエフ地区を飢饉地区に認定しなかった」。

 

 また、22年に発行された飢饉に関する公式資料集では、「ウクライナ全土で[21年の]主要穀物の総収穫は平年(16年)の30%しかなかった。個々の凶作県では、オデッサは16.5%、ドネツは12.3%、エカチェリノスラフは5.1%、ザポロジエは5.1%、ニコラーエフ県は3.9%しかなかった」とその厳しい現状を示すが、飢餓の認定が遅れたことは「12月まで情報が入らず、飢餓民の数に関する正確な情報はなかった。そのような情報はようやく12月に多少なりとも正確に入るようになった」と説明するが説得的ではない。なぜなら、この同じ資料集ですでに21年秋から始まる農業の崩壊が指摘されているからである。21年秋には飢えた農民の殆どが播種することができなかった

 

 「冬の訪れまでにエカチェリノスラフ、ザポロジエ、ドネツ県では家畜の半数以上が失われた。20年秋と21年秋の家畜総頭数を比較するなら、ザポロジエ県が最大で58%を失い、ドネツは56%減少した。農民によって豚が真っ先に清算され、初秋で70〜80%が屠畜された。家禽も同様であった」。要するに、ウクライナでの飢饉は政策的に隠蔽され、飢餓にもかかわらず穀物は強制的に供出させられ、さらに飢餓民援助の遅れはウクライナでの飢饉の被害をきわめて甚大にした。

 

 ソヴェート政府の公式資料集によれば、22年5月にはザポロジエ県では飢餓民は74.5%に達した。「ヘルソン[飢饉地区に認定されていない]では7万人の人口のうち3万人しか残らず、後は死につつあるか四散した。時には村全体が死滅した。オデッサ県統計局の資料によれば、22年4月で生誕69人に対し死亡は3749人であった」。

 

 大凶作であることを知悉しながらも、現物税を徴収し、飢餓民援助を拒絶し続けた結果がこれであった。

 

 

 3、HP・20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』(抜粋)

 

 ()、これは、HP・20世紀の歴史における『試練の大地−ウクライナ』からの一部抜粋である。マフノ運動の前後時期だけを抜粋・転載した。ウクライナにおける勢力の複雑な関係を簡潔にまとめている。

 

    HP・20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』(ウクライナの歴史、全文)

 

 第一次世界大戦が始まり、戦争への不満からロシヤでは1917年に革命が起こり、ついに皇帝が退位した。この機運に乗じてキエフにおいては中央ラーダ(*)が結成された。中央ラーダは、ロシヤの革命後の臨時政府軍を破り、11月に「ウクライナ人民共和国」の独立宣言を発する。

 (*)ラーダとは「評議会」の意。ロシヤ語の「ソヴィエト」にあたる。

 

 しかし次に中央ラーダは、ボルシェヴィキ(*)と対決しなければならなかった。キエフから東に位置する地方都市ハリコフに終結したウクライナ国内のボルシェヴィキは、ロシヤからの強力な援軍と共に、キエフに向かって進撃を開始する。激戦の末、1918年1月には、中央ラーダ政府はキエフから追い出されてしまった。しかし西に逃れた中央ラーダ政府は、第一次大戦でロシヤと戦争していたドイツと、いわゆる「パン条約」を締結し、莫大な穀物と引き換えにウクライナを独立国家として承認させ、3月までにドイツの大軍の援護と共にキエフへの帰還に成功した。

 (*)レーニンが組織した、共産主義をかかげる戦闘的政治集団。ロシヤで10月革命を起こして「ソヴィエト・ロシヤ」(後のソ連)を創った。ソヴィエト共産党の母体。

 

 だが今度は、中央ラーダ政府ドイツ軍と対立した。ウクライナの大地主たちは中央ラーダ政府の革命的な土地改革を危険視していて、またドイツ軍もウクライナを確実な自分たちの支配下に置きたいと考えていた。そのため両者は結託してクーデターを起こし、1918年4月に総裁政府を樹立した。中央ラーダ政府は解散させられてしまった。しかし総裁政府による反動的な土地政策や、ドイツ軍による強引な作物の収奪は、ウクライナ全土の貧農(ウクライナ人のほとんどが貧農だった)の反発を買い、各地で農民蜂起が勃発。ウクライナ南部では、無政府主義者のネストル・マフノが登場して農民ゲリラを率い、広大な地域を支配した。そのような状況の中でドイツ軍は甚大な被害を受け、ドイツ本国が不安定な社会情勢になったこともあり、1918年11月から撤退を開始した。

 

 ドイツ軍がいなくなったら、1918年12月に総裁政府は簡単に崩壊した。だが中央ラーダにも、もはやウクライナの独立を維持する力は無くなっていた。こうしてウクライナは内戦状態になってしまった。1919年2月に再びボルシェヴィキがキエフ占領。ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させる。南部ではマフノの農民軍が広大な地域を支配しており、キエフ近郊ではゼリョーヌイ率いる農民反乱が起こった。黒海沿岸のオデッサには、フランスの援助を受けたデニキン将軍による反革命派の「ロシヤ義勇軍」が上陸1920年5月にはポーランドのピウスツキ将軍がキエフを一時占領した。

 

 だがやがて、キエフのボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いていき、1922年、ウクライナはソヴィエト・ロシヤやベラルーシなどと連合したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に組み込まれることになった。名目上はウクライナはロシヤと対等な共和国であったが、実質的にウクライナは再びロシヤの支配下に入ることになった。この内戦で国土は荒廃、飢饉で100万人近くが餓死した。しかしウクライナ人にとっての試練はむしろこれからである。

 

 一方、ハプスブルク帝国支配下のガリツィア地方も、1918年11月に独立して「西ウクライナ人民共和国」を成立させる。しかしガリツィア地方にはウクライナ人だけでなくポーランド人やユダヤ人も住んでいた。ポーランド人は戦後に復興したポーランド国家への併合を主張し、ウクライナ人との間に熾烈な民族紛争を展開。しかし結局、ポーランド側には本国からピウスツキ将軍率いる援軍がやってきて、ガリツィアはポーランド領となってしまう(1921年のリガ条約で正式に確定)。内戦で混乱しているウクライナからは援軍は来なかった。

 

 内戦終結後、ウクライナではウクライナ共産党(ウクライナ国内のボルシェヴィキ)の指導下において、「ウクライナ化」政策が行われた。これはウクライナ一般人民とソヴィエト・ウクライナ政府を一体化させようとするもので、具体的にはウクライナ語による教育、公務員へのウクライナ人の採用などである。それまでウクライナ社会の上層階級のほとんど、および都市部はロシヤ人が多数派であり、ウクライナ人のほとんどは貧しい農民で、政治面では局外者だったのである。

 

 しかしウクライナ化政策が功を奏しはじめる一方で、そのころソ連の首都モスクワでは、ソ連の中央集権国家化を目指す独裁者、スターリンが登場する。彼はウクライナ化政策を推進してきたウクライナ共産党を、民族主義的偏向を犯したとして強く非難した。そして1930年代のスターリンの「大粛清」の時代には、彼はソビエト連邦の全土において、自分に反対する者(潜在的なものも含めて)を容赦なく虐殺していった。ウクライナ化政策を進めていたウクライナ共産党員も指導者、一般党員も含めて全体の37%が1930年代末までに処刑され、粛清の対象は、富裕農民(クラーク)、知識人、牧師、そしてやがては一般人にまで及んだ。密告が密告を呼び、政治警察である内務人民委員部(NKVD)によって罪のない人々が処刑されたり、強制収容所に送られたりした。この時期、ソ連全土で1000万人以上がスターリンの粛清の犠牲者となった。(このときにウクライナで粛清を指揮していたのは、後のソ連共産党書記長フルシチョフであった)

 

 

 4、長尾久『少数民族地域・ウクライナにおける十月革命』−『ロシヤ十月革命』(抜粋)

 

 ()、長尾久は、ペトログラードにおける「十月革命」とともに、少数民族地域における「十月革命」も精密なデータで検証した。これは、『ロシヤ十月革命』(亜紀書房、1972年、絶版)から関連箇所を抜粋したものである(P.298〜303)。ウクライナにおける「十月革命」の例外的事態と複雑な勢力関係が読み取られる。マフノ運動が発生した前提情勢の分析である。

 

 ウクライナにおける十月革命は、ドンバスの革命拠点を先頭として展開された。ルガンスク、ゴルロフカ=シチェルビノフカ地区、ドルシコフカ、クラマトルスク、グコフカ、マケーエフカなどでは、ソヴェートはすでに革命派の手中にあり、首都革命にすぐ続いてソヴェート権力が樹立された。だがウクライナでは、これは例外的事態だった。

 

 ウクライナの中心都市キーエフでは、ウクライナ中央ラーダソヴェート軍管区司令部の三者の間で権力闘争が起った。まず一〇月二九日夕刻〜三一日夕刻に、ソヴェートと軍管区司令部の間で市街戦がおこなわれ、ソヴェートが勝った一〇月二七日のキーエフ労兵両ソヴェート拡大合同総会は、首都革命支持、革命委設置、市権力の革命委への移行を、四八九対一八七対一七で決議しており、ソヴェートの闘いはこれにもとづいておこなわれたのだった。

 

 だが、キーエフにおける市街戦での勝利も、ソヴェートに全権力をもたらさなかった。市街戦で中立の立場をとったウクライナ中央ラーダがあったからである。中央ラーダは、一一月一日、自己をウクライナの最高権力であり、この権力を臨時に中央ラーダ総書記局に委ねると宣言し、新しい総書記局を選出した。新総書記局は、ウクライナ社民党、ウクライナ・エスエル党、ウクライナ社会連邦党の三大ウクライナ大政党を中心に、ボリシェヴィキを除く非ウクライナ人諸党派を加えた。その中心人物は、ヴィンニチェンコ議長兼内務担当総書記とペトリューラ軍事担当総書記であり、二人はどちらもウクライナ社民党員だった。総書記局には、外務を除いて独立国政府の持つすべてのポスト(軍事を含む)が置かれており、事実上のウクライナ臨時政府だった。

 

 実際、二月七日、中央ラーダは「第三次宣言」を出して、「ウクライナ人民共和国」樹立を宣言したのである。但しこれは「平等で自由な諸民族の連邦」であるロシヤの一員としての「国」であることが、宣言された。宣言によると、ウクライナとは、キーエフ、ポドリスク、ヴォルイニ、ポルタヴァ、チェルニーゴフ、ハリコフ、へルソン、エカチェリノスラフ、タヴリーダの九県を意味した。宣言はさらに、地主・皇室・修道院・教会の土地私有権即時廃止、八時間労働日即時実施、「生産に対する国家統制」の即時実施、大赦、裁判所改革、地方自治強化などの改革の実施を宣言した。宣言はまた、「和平交渉即時開始」を中央政府を通じて敵味方に迫り、ウクライナ居住諸民族の自由を保証し、国内外でウクライナ民族の権利を擁護することを約束した。宣言は最後に、二月二七日にウクライナ憲法制定会議選挙をおこない、同会議を一八年一月九日に召集する、と宣言した。

 

 ウクライナ中央ラーダによるウクライナ権力の掌握は、ウクライナ各地のソヴェートの大多数によって承認されたようである。キーエフ、ハリコフ、エカチェリノスラフ、ニコラーエフ、オデッサというウクライナ五大都市のソヴェートの動向を見ても、キーエフ・ソヴェートが全ウクライナ・ソヴェート大会による中央ラーダの改組を条件として中央ララーダの権力を承認した以外は、特別の条件なしに中央ラーダの権力を承認している。各地の権力については、キーエフとニコラーエフのソヴェートが、すっきりと市ソヴェート権力樹立の方針をとった以外は、市会や中央ラーダ地方機関などとソヴェートの連立権力樹立の方針をとった。

 

 ソヴェート自体の内部にも中央ラーダの勢力があった。例えば、二月中旬のキーエフ・ソヴェート執行委改選の結果、兵士選出委員の構成は、ウクライナ・エスエルおよびウクライナ社民党一六、エスエル六、メンシェヴィキ三、ボリシェヴィキ五となった。キーエフ・ソヴェート兵士部会は、中央ラーダ派に掌擾されたのである。ハリコフ・ソヴェートでも、二月五−九日の部分的改選の後、中央ラーダ派は代議員の一割を占めた。

 

 都市は比較的大ロシヤ人の多い所だった。もっとウクライナ人の多い農村をも含めれば、中央ラーダの勢力の大きさがもっとよくわかる。一一月の全ロシヤ憲法制定会議選挙の結果はウクライナでは次の通りだった。

 

(表1) 全ロシヤ憲法制定会議選挙の県別結果

県名

ボリシェヴィキ

エスエル

メンシェヴィキ

自由主義諸派

ウクライナ人諸派

その他民族諸派

キーエフ

.

.

.

.

77.

.

ヴォルイニ

.

.

.

.

70.

.

ポドリスク

.

.

.

.

79.

14.

ヘルソン

11.

51.

.

12.

10.

.

チェルニーゴフ

28.

10.

.

.

49.

.

ポルタヴァ

.

17.

.

.

66.

.

ハリコフ

11.

70.

.

.

.

エカチェリノスラフ

17.

19.

.

.

46.

.

タヴリーダ

.

57.

.

.

11.

11.

  註、ポルタヴァ・ハリコフ・エカチェリノスラフのエスエルは、ウクライナ・エスエルとロシヤ・エスエルのブロック

 

 キーエフ、ヴォルイニ、ポドリスク、ポルタヴァの四県でウクライナ人諸派が過半数。チェルニーゴフ、エカチェリノスラフ両県でもほぼ半数。ハリコフ県では、ウクライナ・エスエルとロシヤ・エスエルのブロックが過半数。へルソン、クヴリーダ両県だけでエスエルが過半数をとっている。キーエフ、ヴォルイニ、ポドリスク、ポルタヴァ、タヴリーダの五県では、ボリシェヴィキの得票はとるに足りない。ウクライナ人諸派の強い県では、概してボリシェヴィキは弱い

 

 これに対して都市では、ウクライナ人諸派はより弱く、ボリシェヴィキははるかに強くなる

 

(表2) 全ロシヤ憲法制定会議選挙の都市別結果

都市名

ボリシェヴィキ

エスエル

メンシェヴィキ

カデット

民族諸派

その他

キーエフ

16.

.

.

10.

43.

21.

オデッサ

28.

.

.

16.

37.

.

ニコラーエフ

25.

21.

.

13.

24.

.

ハリコフ

27.

16.

.

25.

.

14.

エカチェリノスラフ

26.

.

.

11.

40.

.

  註、ハリコフ市のエスエルは、ウクライナ・エスエルとロシヤ・エスエルのブロック

 

 ソ連の歴史学者スピーリンの表に依拠したこの表では、民族諸派全体(ウクライナ人以外にポーランド人、ユダヤ人などを含む)の数字しかわからない。だがウクライナ都市の人口構成から言って、ウクライナ人諸派の票は民族諸派全体の票の中で大きな比重を占めていると見ていい。とすると、キーエフ、オデッサ、エカチェリノスラフではかなりの票をとったと言える。だがボリシェヴィキもこれらの都市では四分の一くらいの票はとっている。

 

 ウクライナ中央ラーダは、二月の段階でウクライナ人の大多数の支持を得ていたばかりではない。詳細は不明だが、中央ラーダは、軍事的にもウクライナで最強だった。七月から始まったウクライナ大部隊の編成によって、中央ラーダはかなりの武力を握っていた。キーエフでソヴェートが全権力を握れないのも一つにはこのためだった。

 

 こうして、一一月初めに、ウクライナでは、中央ラーダを主権力とし、革命派ソヴェートを第二権力とする、独特の二重権力状態が生まれた。中央ラーダは主要な権力となったが、自己の宣言通りの全権力になれなかった。革命派ソヴェートが権力の一部を握り、市・県レベルでは全権力をめざし、あるものは、中央ラーダの全ウクライナ・ソヴェート大会による改組(ソヴェートの機関への転化)をもくろんでいた。しかし革命派ソヴェートの中央ラーダとの関係は微妙で、全ウクライナ・レベルでは中央ラーダの権力を認めるものが多かった。中央ラーダとソヴェートとの関係は言葉の上からも微妙で複雑だった。そもそも、ウクライナ語で「ラーダ」とは、ロシヤ語の「ソヴェート」のことなのであり、「キーエフ労兵ソヴェート」も、ウクライナ語では「キーエフ労兵ラーダ」なのだった。「全権力をソヴェートへ!」は、ウクライナ語では「全権力をラーダヘ!」なのだった。したがって、中央ラーダとソヴェート(各地の労兵農の選挙制代表者会議をウクライナについてもこう訳す、まぎらわしいのでラーダとは訳さない)とは、ウクライナ人大衆にとってそう簡単には判別できなかったのではなかろうか。

 

 

 5、中井和夫『ネストル・マフノ』−『ロシヤを知る事典』(全文)

 

 ()、中井和夫は、ウクライナ問題の研究者・東大教授として、多くの著書・研究論文を公表している。アルシーノフ『マフノ叛乱軍史−ロシア革命と農民戦争』(鹿砦社、1973年、原著1923年、絶版)に、詳細な解説を書いている。これは、『新版・ロシヤを知る事典』(平凡社、2004年、P.713)における「マフノ」項目の全文である。マフノの略歴として転載した。

 

 マフノ Nestor Ivanovich Makhno l889〜1934

 ウクライナの農民運動の指導者。アナキスト。エカチェリノスラフ県グリャイ・ポーレ村(現在サポロージェ州)に農民の子として生まれた。1905年革命のころからアナキスト・グループの一員として警察や商人、富豪への襲撃に加わり、08年逮捕された。17年の二月革命後釈放されて故郷に帰り、農民運動の指導者となった。

 

 18年、ドイツ軍占領下でマフノは農民パルチザン部隊を組織し、しだいに軍事指導者として知られるようになった。18〜21年の内戦のなかで、マフノ軍は常に農民に支持され、食糧や隠れ家を提供されながら戦闘を続けた。ときには農民家族とともに1000kmにおよぶ移動を行った。

 

 マフノ農民軍は、ドイツ軍撤退の後、ウクライナ農民の代表としての立場を堅持し、ウクライナ民族派のペトリューラ(1879〜1926)の軍、白衛軍のデニキン、ヴランゲリの軍との戦闘においては、ボリシェヴィキと協力したが、のちに1919年から20年にかけてはソヴィエト政権の穀物徴発政策をめぐってボリシェヴィキと厳しく対立するようになった。この点、()タンボフ県のアントーノフの反乱や、()同じウクライナのゼリョーヌイ(縁)の反乱と同じ性格をもっている。

 

 1919年後半の最盛期には5万人以上の勢力を擁し、マフノはウクライナ農民の強い支持を受け、<パチコ(父)>の愛称で呼ばれた。20〜21年マフノ軍とソヴィエト軍の戦闘は凄惨をきわめ、双方に数万の犠牲者を出した。21年夏、マフノはソヴィエト軍に追われてルーマニア国境を越え、パリに亡命。34年病死するまでパリで妻と娘とともに亡命生活を送り、ペール・ラシューズ墓地に葬られた。3巻の回想録(1929−36)をはじめとしていくつかの著作がある。マフノを題材にした小説、歴史書などもある。日本では大杉栄による紹介(《無政府主義将軍ネストル・マフノ》1923)以来知られている。

 

    大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

 

 

 6、郡山堂前『1917〜21年のウクライナ・年表』−『マフノ運動史』(抜粋)

 

 ()、郡山堂前は、ピョートル・アルシノフ『マフノ運動史、1918〜1921、ウクライナの反乱・革命の死と希望』(社会評論社、2003年)の訳者である。これは、訳者解説から、その年表部分だけを抜粋(P.301〜303)したものである。

 

 内戦期のウクライナがどんな様相を示していたかを見てみよう。

 グリャイポーレはこの間、誰に支配されていたか。

 

 1、一九一七年三月 ロシヤ軍セルビア人部隊(傾向がはっきりしない「社会委員会」が権威機関だった)

 2、一九一七年九月 地区ソヴィエト権力(エスエル系)が確立

 3、一九一七年十月 ソヴィエト議長マフノとグリャイポーレ無政府主義グループによって地主のすべての土地が没収される

 4、一九一八年四月 民族主義者・オーストリア軍の攻撃によって地区ソヴィエトが崩壊、オーストリア軍の支配

 5、一九一八年九月下旬 マフノ軍支配

 6、一九一八年九月未 オーストリア軍支配

 7、一九一八年十月中旬 マフノ軍支配

 8、一九一八年十月中旬 オーストリア軍支配

 9、一九一八年十一月二十七日 オーストリア軍撤退マフノ軍支配

 10、一九一九年六月六日 白衛軍支配

 11、一九一九年一一月 マフノ軍支配赤軍構成部隊として

 12、一九二〇年一月 赤軍支配。この後、九か月の間、マフノ軍が短期的断続的に支配

 13、一九二〇年九月 白衛軍 (ヴランゲリ軍)支配

 14、一九二〇年十月 マフノ軍支配赤軍構成部隊として

 15、一九二〇年十一月二十六日 赤軍の突然の攻撃

 16、一九二〇年十二月六日 マフノ軍支配

 17、一九二〇年十二月中旬 赤軍支配

 

 次にキエフでの支配者の交替を見てみよう(P.302。省略)。(ブルガーコフ『白衛軍』中田甫・浅川彰三訳、群像社、一九九三年の訳注より)。

 

 マフノ反乱の首都、マフノグラートと呼ばれたグリャイポーレは四年の間に十七回、一方、「ウクライナ人民共和国」の首都キエフは三年の間に十四回支配者が変わっている(「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」の首都はハリコフ)。しかし、この「両首都」の記録は本質的に何を意味しているのか?

 

 無理を承知であえていえば、二つの記録はお互いがお互いの影絵になっており、本来一つに組み合わされるべき割符の双片であり、一つの記録の裏と表にすぎない、というのが私の考えである。キエフの代りに、マフノ反乱支配地区の首都(マフノ反乱の首都ではない)とも言うべきエカチェリノスラフの記録を持ってくればこのことは、ある程度、実際に確かめられるかもしれない。グリャイポーレは外部からの絶え間ない攻撃にさらされ掠奪を受けていたが、一方、エカチェリノスラフも外部からの絶え間ない攻撃と略奪にさらされている。

 

 そしてグリャイポーレにとって、侵略者がそこからやってくるところの外部とは、エカチェリノスラフに代表される都市であり、逆にエカチェリノスラフにとっての同じく侵略者としての外部とはグリャイポーレに代表される農村だったのではないだろうか。ある意味でウクライナ内戦とは、都市−究極的にはモスクワ−と地域農村の戦いだったのではないだろうか。あるいは、首都=国家と農村の戦いといったほうがよいかもしれない。もちろん、だからといってこの内戦が、一面で、()赤と白との戦い、()革命と反革命の戦い、あるいは、()ロシヤとウクライナの戦い等々であったことを否定するわけではない。ウクライナ内戦をただ一つの物差しで計ることには無理があるのはもちろんである。

 

 

 7、和田春樹『マフノ、ロシヤ革命における農民の運命』−『農民革命の世界』(抜粋)

 

 ()、和田春樹は、『農民革命の世界−エセーニンとマフノ』(東京大学出版会、1978年、絶版)を、東大助教授時代・40歳で出版した。エセーニンはウクライナの農民詩人である。以下には、第3部「人間、エセーニンとマフノ−ロシア革命における農民の運命」における全14章から、マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係過程を検証した第6・8・11章の全文を抜粋・転載した。14章の記述は、エセーニンとマフノとを交互に書く形式で、エセーニンの詩も多数載せている。ここでは、第11章のみに、一九二一年一月、国中にひびきわたる反乱の叫びを代弁し、エセーニン農民の苦しみをリアルに歌った詩「穀物の歌」を載せた。

 

 〔小目次〕

   6、マフノ−帰ってきた義賊

   8、マフノ軍と赤軍−協力・敵対・協力・敵対−

  11、革命の惨勝―匪徒になった農民− エセーニンの詩「穀物の歌」

 

 6、マフノ−帰ってきた義賊

 

 二月革命によって、マフノは自由の身になった。一九一七年三月一日、民衆はモスクワ最大のトゥイルキ監獄におしよせ、政治囚を解放した。足伽をたたきこわしてもらった囚人たちは、獄衣をぬぎすて、下着だけになって、正門から自由の中へ、おぼつかない足どりを踏み出した。その人々の中に、八年八カ月この監獄に閉じ込められていたマフノもいた。彼は獄中で親しくしていた、同じエカチェリノスラフ県出身の労働者アナーキスト、ピョートル・アルシーノフと別れて、ただちに、故郷のグリャイ=ポーレへ向かった。

 

 ロシヤの民衆は、農民戦争の指導者スチェンカ・ラージンとプガチョーフについて数々の伝承を語り伝えてきた。この他にも、富者から奪い、貧乏人を助ける多くの義賊(ブラゴロードヌイエ・ラズボーイニキ、ホブズボームのいうノーブル・バンディット)が愛されてきた。一九〇五年革命のさい、金持を略奪した革命家の中からも、フォークロアの世界の主人公、義賊とされた者があったことが知られている。現代ソ連の民族学者ソコローヴアによれば、一九〇五年に「土地と自由」と書いた赤旗をかかげてウラルの村や町に出没したエスエルのルボーフとその「森の兄弟」にかんする伝承が一九六三年にウラルのヴィシーム地区で採集されたとのことである。

 

 とすれば、ほぼ一〇年前、三年間にわたってグリャイ=ポーレの商人たちを戦慄させたあの大胆不敵な盗賊たちの記憶が、この地方の農民たちの間に、時とともに純化される「義賊」の形象として抱きつづけられていたということは、大いにありうることである。マフノは、帰ってきた義賊としてグリャイ=ポーレの農民に迎えられたといったら、いいすぎであろうか。

 

 マフノは、火花となって、この地域の民衆の運動を燃え上らせた。彼はエスエル系の農民同盟の地区委員会をつくり、この議長となり、また頼まれてグリャイ=ポーレ金属工・木工組合の責任者ともなった。当然ながら、アナーキスト・グループも再建した。彼は農民同盟の代表として、地域の権力主体であった社会委員会に入っていたが、八月初めの県ソヴェート大会の決定で、農民同盟を農民ソヴェートに改組することとなって生まれたグリャイ=ポーレ農民・労働者ソヴェートの議長になった。彼は農民の武装部隊を組織し、臨時政府の郡コミッサールの権威に挑戦することによって、グリャイ=ポーレを「自由郷」と化した。

 

 ひきつづいてコルニーロフ反乱の前後八月末、マフノの主宰するグリャイ=ポーレ地区土地委員会は、農民に均等に分配するために、すべての地主の土地と役畜・蔑具を記帳することを決定した。郡コミッサールはこれを妨害しようとしたが、空しかった。熱狂した農民の手によって、地主地は清算され、彼らの間で分配された。ペンザ県、カザン児などの先進地域につづいて、ここでも早々と農民は、自立的に土地を闘いとったのであった。これ以後、農民たちは、マフノを新しいスチェンカ・ラージン、プガチョーフとみるようになったという。たんなる義賊ではない、「土地と自由」という農民の昔からの夢を実現する闘いを導いてくれる人だということになったのであろう。

 

 だから、グリャイ=ポーレの農民にとっても、臨時政府を打倒した一九一七年一〇月は、この農民革命の到達した現実の確認を意味したにすぎなかった。ウクライナでは、こののち、民族革命を体現する中央ラーダが、キーエフでウクライナ人民共和国の樹立を宣言したのに対して、全ロシヤ労兵革命がペテルブルクに生み出したソヴェート政権が、これに挑戦していくのであるが、農民は、さしあたり、この両者の抗争からは「自立」していた。マフノもはじめは同じ態度であったようである。

 

 一九一八年はじめ、グリャイ=ポーレではマフノの指導で、旧地主領に四つの農業コミューンがつくられていた。ほぼ一〇家族、成員は一〇〇〜三〇〇人程度のものであった。マフノは、そのうちでもっとも大きなコミューンで、週のうち二日は働き、のこり四日はアナーキスト・グループの活動と地区革命委員会での仕事にあてるという生活をしていた。コミューンに入らぬ一般農民とコミューンとの関係は良好であったという。

 

 だが、ウクライナ・ラーダが支配を広げようとしてグリャイ=ポーレを抑えにかかると、マフノたちは、「社会主義」の名において、一八年一月ウクライナに攻めこむボリシェヴィキ軍支援にまわった。さらにウクライナ・ラーダは、一月二七日、ブレストでドイツ、オーストリアと講和条約を結び、二月には、両国軍が、ウクライナに兵を進め、条約で約束された穀物の確保をはかろうとした。束の間の農民共和国は、侵入したこのドイツ・オーストリア軍に占領されてしまった。

 

 マフノは農民と労働者からなる小部隊を率いて、闘いに立ち上った。しかし、圧倒的に優勢な敵に押しまくられ、タガンローク、ロストフ、そしてヴォルガのほとりのツァリーツィンへと撤退をよぎなくされた。グリャイ=ポーレでは、彼の母親の家が焼かれ、廃兵の長兄エメリヤンが銃殺されていた。

 

 一九一八年六月、マフノは、ウクライナでの活動の方針を立てるため、モスクワのアナーキストの同志に会いに上京した。マフノは、このときクロポトキンとレーニンに会っている。レーニンは、マフノがウクライナに帰るのを援助することを約束した。

 

 マフノは、七月に、グリャイ=ポーレに潜入し、パルチザン部隊の組織にとりかかった。ウクライナの穀物を奮いにきたドイツ、オーストリア軍とそれがもり立てた傀儡スコロバツキー軍に対する民衆の怒りは高まっていた。騎馬隊を中心にし、神出鬼没、広い行動範囲をもって、電撃的に敵を攻撃するマフノ軍はウクライナ農民の抵抗戦の牽引車となった。マフノは、ありふれた馬車に機関銃をのせるという新戦術を編み出した。荷馬車に乾し草をつめば、機関銃車は畑から帰る農民の馬車と区別がつかなくなるのであった。また、マフノは、婚礼の行列や葬式の行列を装って、敵の部隊の本拠に接近するという戦術もしばしば用いた。これらの戦術は古典的に農民的なものであった。

 

 マフノは初期のアピールの中で次のように訴えている。

 「死ぬか、それがいやなら勝利するかだ−これこそ現在の歴史的時点においてウクライナ農民の前に提起されている二者択一である。だが、われわれがみな死んでしまうことはありえない。われわれはあまりに多い。われわれは人類なのだ。それゆえわれわれは勝利する。しかしながら、われわれが勝利するのは、過ぎ去った数年間の例にならって、自らの運命を新しいお上(ナチャーリストヴォ)に委ねるためではない。われわれは、自らの運命をわれわれの手中ににぎり、自らの生活を自らのヴォーリャ(意志)によって、自らのプラウダ(正義、真理)によって築くために勝利するのである。」

 

 マフノ軍には労働者も参加しており、マフノのアナーキストとしての思想的な立場もある。しかし、農民革命の最初の成果を防衛し、さらに深化させるための農民軍としての性格がマフノ軍の基本をなしていたといってよいであろう。すでに農民王国は武装した、馬上の王国としてのみ存在しえたのであった。

 

 8、マフノ軍と赤軍−協力・敵対・協力・敵対−

 

 内戦の過程で、ウクライナほど政権と軍事的支配者の交替がはげしかったところはない。一九一八年末には、ドイツ・オーストリア軍は、自国の革命のために撤退し、この軍に擁立されたゲトマン・スコロバッキー政権は没落し、ウクライナ民族主義者ペトリューラがウクライナ人民共和国の復興をはかる。ソヴェート政権と赤軍は、いわば外側からペトリューラを攻撃し、マフノ軍は内側からペトリューラをゆさぶった。

 

 一九一八年一二月末ペトリューラ軍が占領していたエカチェリノスラフをマフノ軍が解放し、市内にボリシェヴィキ、エスエル、マフノ派各五人ずつのメンバーからなる革命委員会が設けられた。マフノはエカチェリノスラフの全武装勢力の司令官となった。

 

 この協力関係は、翌年一月二七日、赤軍がエカチェリノスラフに入城したあともつづき、マフノ軍はバルト海艦隊水兵出身のドゥイベンコを師団長とするソヴェート・ザドニエプル師団に編入され、その第三旅団となった。そして、折からウクライナに迫る強敵ヂェニーキン軍を迎え撃つ第一線についたのであった。

 

 しかし、ともにヂェニーキン軍と闘いながら、ソヴェート政権・赤軍マフノ軍との関係は急激に悪化した。その基礎には、ウクライナ・ソヴェート政府の農民政策に対するウクライナ農民の根底的な批判があった。

 

 のちに、この年一二月にひらかれたロシヤ共産党第八回協議会で、ウクライナのボリシェヴィキを代表したヤーコヴレフは、ウクライナの農民について、次のように述べた。

 「ウクライナの農民には、個人的意識考強固なアナーキスト的傾向がきわめてはっきりと結晶している。‥…彼らは、実際には、いかなる専門の〔アナーキストの〕学校も出ていない。しかし、無権力の理論は、自立的な経営団体としての自分の村にくらし、事実ほとんど都市なしでやっていけ、都市をほとんど必要としていない、あのウクライナの余裕ある農民に本当にピッタリなのだ。彼らは本当に都市を必要としていない。しかるに、都市は、彼らに無数の不愉快事をもたらすのである。都市からは数十もの権力が彼らに襲いかかって、それぞれがなんらかの要求をもち出し、それぞれが彼らから穀物を取り上げていくのである。だから、アナーキストのイデオロギーが…‥マフノや他の匪徒にあれほどピッタリしたのは驚くべきことではない。」

 

 このようなウクライナ農民に対して、帰ってきたウクライナのソヴェート政権は、一九一九年二月一一日付法令を出し、甜菜プランテーション、酒造工場用プランテーションの土地を農民に分配することを禁じた。地主や資本家的富農の土地をすべて農民に均等に分配するのではなく、そのかなりの部分を集団農場組織のためにあてることにし、地主や富農の農場から持ち去られた馬や牛、機械などを取り戻すことさえ定められた。要するに、農民が自主的にすすめた農民革命の成果に介入し、それを取り上げようとしたのである。

 

 さらに、一九一八年夏にロシヤ中央部で行なわれたと同じ穀物徴発のやり方がとられた。法外な割当額が定められ、暴力的に穀物が徴発されていった。抵抗するものは、「クラーク」だとされた。先の演説の中で、ヤーコヴレフは、農民の多くが、かつてのドイツ軍と同じように農民を略奪に来たものと、ソヴェート政権の食糧軍をみたとみとめている。同じ会議でブブノーフは、「食糧部隊を派遣するためには、そのあとからかならず装甲列車を運行させなければならない」状態にあると指摘している。

 

 解放された農村都市から装甲列車が食糧を徴発する部隊とともにおしよせてくる…農民はこのやり方に烈しく反発した。それは、マフノ軍にも反映している。一九一九年二月にひらかれた第二回グリャイ=ポーレ地区兵士・労働者・農民大会は、土地問題の解決は、エスエルが「土地社会化」と定式化した方式でやれる、すべての土地を勤労農民の手中に移せ、と主張した。一般決議は、「ロシヤとウクライナのソヴェート政権が、自らの命令や法令によって、なにがなんでも地元の労働者・農民ソヴェートから自由と自主活動を取り上げようとしている」と指摘し、共産党が左派エスエル、アナーキストを弾圧するのに抗議している。「自分たちで、地元に、暴力的な命令を無視して……新しい自由な社会をつくる」−めざす方向は、そのように明らかにされた。

 

 ソヴェート政府と赤軍側には、このような決議、このような志向は気に入らない。そこで、四月にー第三国大会がグリャイ=ポーレで開かれたとき、師団長ドゥイベンコはこれを「反革命」とよび、大会組織者を「法の保護の外におく」と宣言した。マフノ軍側が激しくこれに反発したことはいうまでもない。

 

 五月に、赤軍に加わっていたフリホリエフ〔グリゴーリエフ〕の部隊が反乱をおこしたさい、マフノ軍がこれに加担することをおそれた赤軍司令部は、フリホリエフに宣戦布告しなければ、赤軍に宣戦布告したものとみなすとの通告をおこなった。この通告に反発したマフノ側は、独自の調査の上で、「フリホリエフとはなにものか」というビラを出し、その中でフリホリエフを敵と宣言したが、同時に、「ポリシエゲイキ=共産党」もまた「まさるとも劣らぬ労働の敵」であるといい切るにいたったのであった。

 

 五月一九日よりヂェニーキン軍が攻撃に出て、主要打撃をうけたマフノ軍は、四日後には、一〇〇キロ後方に退却した。このきわめて優勢な敵とたたかうために、マフノ軍は赤軍から自立することを考えた。これに対し、赤軍南部方面軍はマフノを逮捕し、軍法会議にかけるとの命令を発した。

 

 マフノのこの行動はヂェニーキン軍の侵攻に道を開いた裏切りとして、たえずソヴェート政権側から非難されるが、農民パルチザン軍として、攻められればしりぞき、機をみて急襲するというスタイルをとるのは自然であったといえる。以後四カ月マフノ軍は、グリャイ=ポーレも捨てて、全行程六〇〇ヴエルスタの退却行をつづける。ヂェニーキン軍をおそれる農民たちが家財道具と家畜をつれて、このマフノ軍につきしたがった。その荷馬車の群をふくめ、マフノ軍は延々とつづく列をなしたという。アルシーノフは、これを「民族移動」とよんでいる。

 

 この間、ソヴェート政権・赤軍との関係は、引きつづき敵対的であった。七月二七日、マフノらは、提携を求めてきたフリホリエフをヂェニーキンの同盟者として、射殺したが、そのあとでも、八月三日のウクライナ共産党中央委員会総会は、「クラーク反革命」の二つの中心の一つに、(ルソン県のマフノ=フリホリエフ軍をあげ、クラーク反乱ヂェニーキン軍との近い将来における共同行動がありうるので、全力をあげて、クラーク反乱の根城をたたきつぶせ、と指示していた。

 

 この方針には、マフノが八月五日、へルソン県ドプロヴェチコフカで発した「命令第一号」が対応する。マフノは、「われわれ革命軍と各反乱者の任務は一切の隷属からウクライナの勤労者を完全に解放するために誠実に闘うことである」と述べ、農民からの一切の略奪、没収、ユダヤ人に対する暴行、略奪をかたくいましめた。隊内での不正は許されない。同志的規律を維持せよ。「泥酔は犯罪である。」「われわれは偉大な勤労人民の子であり、一人一人の勤労者はわれわれの兄弟であり、姉妹であることを記憶せよ。」「その人々のために闘っている勤労人民の息子や娘のどの一人もわれわれの方からはずかしめることがあってはならない。」

 

 この「命令第一号」に、敵の規定がある。民族の別なくすべての「富裕なブルジョワ階級の人間」とともに、「ブルジョワ的不正秩序を守護する者、すなわち、都市や村を巡回し、彼らの恣意的独裁に服従することをのぞまぬ勤労人民を苦しめるソヴェートのコミッサール、懲罰隊、チエカーの隊員」も「勤労人民の敵」と宣言されている。反乱者、すなわちマフノ軍の兵士は、この後者をみつけ次第、「逮捕して、軍司令部に連行し、抵抗すれば、その場で射殺しなければならない」。

 

 九月半ば、マフノ軍は、キーエフ県ウマーニの町の近くにたどりついた。月末、彼らは四方からヂェニーキン軍に包囲された。いまやヂェニーキン軍は、東はヴォルガ川、カスピ海から、西はドニエストル川にいたる南ロシヤ全域を支配しており、最短距離のコースを通って、モスクワへ進撃することに全力をあげていた。マフノ軍をここでひねりつぶせば、後方は完全にかためられるはずであった。

 

 だが、このとき、マフノは、これまでの退却は戦略的なものであったと宣言し、九月二六日払暁より攻撃に移るとの命令を発した。向きを変えたマフノ軍は、この日、ペレゴノフカの敵主力を死闘の未にやぶり、以後ヂェニーキン軍の後方破竹の勢いで突き破っていった。四カ月間の退却行の血と涙のしみ込んだウクライナの地を西から東へ、一カ月でかけぬけたマフノ軍は、一〇月二三日、カスピ海のほとりマリウポリを解放した。ヂェニーキンのいる大本営まで、八〇ヴエルスタの地に迫ったのである。

 

 このマフノ軍の電撃戦が、一〇月一三日オリョールを占領して、モスクワにもっとも近づいたヂェニーキン軍背中を鋭く突きさした刃となったのは明らかであり、ヂェニーキン軍、一〇月二〇日、オリョールから撤退し、以後、敗北、没落の一途をたどるのである。

 

 マフノ軍は、マリウポリを一日しか維持できなかったが、二八日にはエカチェリノスラフを解放し、四〇日間ここにとどまった。エカチェリノスラフを中心として、マフノのアナーキスト的農民共和国が生まれることになった。一九一九年の終りの二カ月間つづいたこのマフノと農民の世界は、一九二〇年一月赤軍を迎えることになる。赤軍は、一月一日、エカチェリノスラフを占領し、六日、アレクサンドロフスクを占領した。アレクサンドロフスクをあけわたしたマフノ軍とここを占領した第一四軍第四五師団は友好的に話しあった。マフノ軍側は、自分たちは共通の敵との闘争のために一定の地域を占拠することに同意する、政治問題については別個に交渉をもちたいと表明した。

 

 東から迫ったコルチャークと南からのヂェニーキンというブルジョワ=地主的反革命の二つの中心をようやくにして打ちたおした、この時点で、革命派の和解と協力は、人々の願いであったといえよう。だが、事態はそのように進まなかった。共産党の側では、一九年末、一二月二〜四日、モスクワでひらかれたロシヤ共産党第八回協議会で、ウクライナにおけるソヴェート権力の再建にあたっての新方針をつくり上げていた。すなわち、マフノを農民が支持した理由を分析し、土地政策を根本的にあらためることを決めている。地主地を農民に分配し、集団農場は、条件に応じてつくることにし、いかなる強制も加えてはならないとしたのである。食糧政策については、基本原則は不変としたが、徴発量を、さしあたり、「ウクライナの農民、労働者、赤軍」の必要とするだけに限定する、と提示している。そのような新政策により農民の支持をえて、「すべての武器を引き出して、労農赤軍の手中に集中すること」−これがウクライナにおけるソヴェート建設の第一の任務である、と宣言された。つまり、「農村の武装解除」である。

 

 これに対して、マフノ軍側の姿勢は、一九二〇年一月七日という日付をもつウクライナ革命反乱軍(マフノヴィスト)軍事革命評議会・総司令部の宣言によって示される。この宣言は、マフノ軍が「ブルジョワ=地主権力」「ボリシェヴィキ=共産党的独裁」の双方からウクライナの勤労者を完全に解放し、「真の社会主義的秩序」を創出することを目標としていると明らかにしている。もっとも、ヂェニーキン軍のすべての法令はただちに撤廃されるとしながら、ソヴェート政権の法令については、「農民と労働者の利益に反する」ものを撤廃すると区別していた。どの法令がそのようなものだということになるかを決めるのは、村会や工場の勤労者自身でなければならないと宣言されていた。

 

 地主地の没収や工場・鉱山を労働者階級全体の所有に移すこと、政党代表をのぞいて労働者と農民だけの自由ソヴェートをつくること、言論、出版、集会、団結の自由を保障すること、とならんで、「チェカー、党委員会や類似の強制的、権威主義的、規律保持制度は農民・労働者の間においては許されない」という一項目がある。

 

 ブルジョワ・地主的反革命、ヂェニーキン軍を打ちやぶる闘いにおける実質的協力は、和解をつくり出す方向にすすまなかったのである。一九二〇年一月八日、第一四軍司令官ウボレーヴィチは、マフノに対し、ポーランド軍とたたかうため、アレクサンドリヤから北上し、チェルニーゴフを通って白ロシヤのゴメリへ移動し、第一二軍の指揮下に入れとの命令を発した。この命令を受けとり、それに従って発した指示を翌九日一二時までに報告せよと書かれていた。この命令は、ウボレーヴィチが第四五師団長ヤキールに語ったように、むしろマフノが拒否することを予期した「一定の政治的マヌーヴアー」にすぎなかった。

 

 農民パルチザンをその根城、根拠地から切りはなすこの命令にマフノは答えなかった。翌九日、全ウクライナ革命委員会議長ペトロフスキー他の名で、マフノを「脱走兵、裏切者として法の外におく」と宣言する決定が下された。「マフノは赤軍の意志に従わず、ポーランド軍と闘うことを拒み、われわれの解放者−労農赤軍に宣戦布告した。かくして、マフノとそのグループは、フリホリエフ、ペトリューラ、その他のウクライナ人民の裏切者と同じく、ウクライナ人民をポーランドのパンに売ったのだ」。南部方面革命軍事評議会のメンバー、スターリンがこの決定をすべての部隊が遵守するよう添書きしている。

 

 こうしてマフノ軍に対する赤軍の攻撃がはじまった。一九二〇年二月、マフノ軍の隊員の中にはチフスが猖獗し、マフノもまたたおれて、グリャイ=ポーレ近くの村々に病いの身をひそめた。二月はじめ、グリャイ=ポーレにあったマフノの本陣は、赤軍の騎兵にけちらされ、本陣黒旗が奪われた。アルシーノフは、マフノ軍兵士と赤軍兵士の問に交歓がおこるのをおそれた赤軍司令部は、レット人狙撃兵と中国人部隊をマフノ軍との闘いに投入した、と書いている。

 

 一九二〇年春から夏へかけて、マフノは文字通り狩り立てられていた

 

 11、革命の惨勝―匪徒になった農民− エセーニンの詩「穀物の歌」

 

 惨敗に対して惨勝という言葉もあっていい。一九二〇年、ロシヤ革命は反革命軍、自衛軍との闘いに勝ちつつあったが、それが内部にはらんでいる深刻な矛盾を考えれば、辛勝というよりも、もっと傷だらけの勝利であったといわねばならない。二年余の共同闘争にもかかわらず、労働者と農民の関係は激しい対立の様相を呈しつつあった。

 

 すでに述べたように、ウクライナでは、一九二〇年春から夏にかけて、マフノ軍と赤軍は激突していた。マフノは狩り立てられていたのである。しかしながら、秋になると、ふたたび、ヴランゲリ将軍のひきいる反革命軍がクリミア半島よりウクライナに侵入し、九月一九日には、アレクサンドロフスクをおとし、二八日にはマリウポリを占領した。マフノ軍の本拠地はいまや地主的反革命の軍事支配のもとにおかれたのである。この事情が三度マフノ軍と赤軍との協力への歩みよりを可能にした。

 

 このころ赤軍第一二軍革命軍事評議会が出した「政治的指示」(九月二四日付)をみてもわかるが、赤軍側は、「ヴランゲリこそロシヤ反革命の最後の支柱であり」、これをたおせばマフノフシチーナの一掃に有利な条件が出来ると考えていた。

 

 「匪徒活動とマフノフシチーナは、うちつづく内乱によびおこされ、ヴランゲリの白衛軍によって意図的に利用されている現象である。ヴランゲリが消えればマフノも消えるのである」。であればこそ、ヴランゲリをたおすのに、マフノの力も利用できれば、それにこしたことはなかったのであろう。

 

 九月末には、マフノ軍側と赤軍側の間で交渉がはじまり、一〇月上旬のハリコフでの会談で、話がまとまって、ウクライナ共和国政府代表ヤーコヴレフ、赤軍南部方面軍司令官フルンゼとマフノ軍代表クリレンコ、ポポーフとが一〇月一五日、政治協定と軍事協定に調印した。政治協定は、()ソヴェート共和国全域でのマフノ軍兵士・アナーキストへの大赦()ソヴェート政府の暴力的転覆をよびかけるものをのぞき、マフノ軍兵士とアナーキストの煽動宣伝の自由()ソヴェート選挙への自由参加を定め、軍事協定は、()その内部編成を従来通りにしたままでのマフノ軍の赤軍への合流()マフノ軍に赤軍部隊や脱走兵を吸収しないこと、を定めていた。

 

 これまで深刻な対立があったからこそ、このようなととのった協定がとり結ばれなければ、一切の共同行動は考えられなかったのである。そして、この協定の内容は、赤軍側、ソヴェート権力側からの明らかなる譲歩であった。その意味では、マフノ軍の側でも、永続的な協定、協力がありえないことを、もはや十分承知していたであろう。

 

 ともあれ、この協定のもと、マフノ軍と赤軍の共同反攻がはじまった。一一月のはじめには、両軍は、ヴランゲリ軍をペレコープ地峡にまで追い込んだ。そこからマフノ軍は凍った海をわたり、ヴランゲリ軍の背後をついた。ヴランゲリ軍は総くずれとなり、赤軍はクリミア半島に進出した。一一月一六日赤軍はケルチを解放して、南部戦線は消滅した。

 

 束の間の協力もこれで終りであった。翌一七日の命令の中で、フルンゼは、マフノ軍を第四軍の指揮下に入れ、カフカースに転戦させるとの方針を示した。これは、農民軍をその本拠から切りはなす考えに発するもので、一九二〇年一月の手口がくりかえされようとしていた。一一月二三日付でマフノに出されたフルンゼの指令というものがある。これは、対ヴランゲリ戦終了にかんがみ、マフノ軍を正規軍に完全編入するように提案している。マフノ軍を第四軍に編入し、解体再編は第四軍の革命軍事評議会に委ねるとの内容である。マフノ軍側の史書は、この指令はついに伝達されず、のちに発表されたものだと主張している。二六日付のフルンゼの決定的な命令には、二三日の要求の内容として、暴行を働いたパルチザン部隊の解体再編の要求のみがあげられているにすぎない。

 

 ともあれ、マフノ軍は先の協定にはない、フルンゼの要求に従うはずはなかった。フルンゼは、二六日、マフノ軍がソヴェート権力と赤軍に対抗し、グリャイ=ポーレで農民の動員を行なっており、赤軍部隊を攻撃しているとの理由で、マフノとその全軍を「ソヴェート共和国と革命の敵」と宣言し、マフノ軍を武装解除すること、抵抗する場合は全滅させることを全軍に指示した。対ヴランゲリ勝利ののち、まだ一〇日もたっていなかったときに、である。

 

 こうして、赤軍とマフノ軍の戦闘が再開された。赤軍はかつてない有利な立場に立っていたが、なお、マフノ軍は、ソヴェート権力の穀物徴発策に対してウクライナ農民の抱く不満を背後にもちつつ、闘いつづけたのである。

 

 その同じ不満が、一九二〇年の夏以降、中央部ロシヤでも、伝統的農民革命の中心地タムボフ県で、一大農民反乱を顕在化させていた。八月、カメンカ村でおこった勤労農民同盟の反乱は、一九〇五年革命当時、略奪行動に加わっていたテロリストで、エスエルに入ったアントーノフを指導者として急速に拡大し、年末には、タムボフ全県の農村部から、ソヴェート権力と共産党組織を完全に一掃するにいたっていた。反革命との闘いに勝つまでは、と抑えに抑えてきた、穀物徴発政策に対する農民の不満が一時に爆発した。「平等、友愛、自由の名における人馬の解放」をスローガンにかかげる、この農民戦争を前にして、ソヴェート権力は、さしあたり施すすべがない状態であった。この他、農民反乱は、ヴォルガ沿岸地方から西シベリアにもおこっていた。

 

 至るところで穀物の割当徴発制に農民の不満は向けられていた。一九二一年一月エセーニンがその農民の苦しみをリアルに歌った詩、「穀物の歌」を書いたとき、彼は国中にひびきわたる反乱の叫びを代弁していたのである。

 

   これこそ厳しい残酷な仕打

   その意味は人々の苦しみにつきる

   鎌が重たげな穂を切る

   白鳥の喉元をかき切るように

 

     われわれの畑は昔から知っている

     八月の朝の戦慄を

     藁は束ねられ

     一つ一つ死体のように横たわる

 

       霊柩車のように馬車で

       墓穴−乾燥場に運ばれる

       馭者は牝馬をどやしつけ

       補祭のように埋葬式をやる

 

   それから注意深く 悪意はもたずに

   頭をそろえて地面にひろげ

   やせこけた身体から からさおで

   小さな骨を叩き出す

 

     藁が肉体でもあるということは

     誰も思いつかないのだ

     人食鬼の粉引機は 歯をむき出して

     小骨を口の中にほうばり 噛みくだく

 

         ・・・・・・・・・・・・・・・

 

       国中にひゅうひゅうと鳴る 秋のように

       ペテン師 人殺し 悪党

       鎌が穂を切るせいだ

       白鳥の喉元をかき切るように

 

 麦藁は肉体あるもののごとく、生命あるもののごとく書かれているが、そのようなものとして穀物は農民そのものであった。農民が人間であることを誰も思いつかないのか。

 

 この深刻な危機に、レーニンは、ついに、政策の転換を決意した。彼は、エセーニンの「穀物の歌」が発表された一九二一年二月、穀物の割当徴発制より食糧税制への移行を求める人々の声同調することに踏み切った。翌月、クロンシュタット要塞の水兵の反乱と同時にひらかれた第一〇回共産党大会は、この政策転換を決定した。

 

 その決定を大義名分として、その決定を力として、反乱する農民への総攻撃が開始された。ウクライナでも、タムボフ県でも、西シベリアでも、ドラスティックな鎮圧作戦が進められていった。

 

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 〔関連ファイル〕

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

    梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉から見えるもの

    HP・20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』(ウクライナの歴史、全文)

    ウィキペディア『ウクライナの歴史』

    大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年