ウクライナの闘争−マフノ運動

 

1918年〜21年

 

ヴォーリン

 

 ()、これは、ヴォーリン『知られざる革命−第2部・マフノ運動』(現代思潮社、1966年、絶版、原著1945年)からの抜粋である。全体は、21章・163頁(P.109〜272)からなる。そこから、下記〔目次〕にある8章の全文、または、一部抜粋をした。抜粋の基準は、マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係に関するテーマとした。省略した章の題名は、それらの間に記入した。

 

 ただ、各章が長く、さまざまなテーマを含んでいる。インターネット画面では読みづらい。絶版なので、私(宮地)の判断により、各章に小見出し・各色太字・(番号)を付けた。なお、ヴォーリンの『第1部』は、「クロンシュタット−1921年」(P.11〜106)である。その抜粋も、このHP〔関連ファイル〕に載せた。

 

 〔目次〕

     宮地コメント−マフノ運動の位置づけ

   1、序章 (抜粋)

   5、一九一八年末におけるウクライナの情勢 (全文)

   6、マフノ反乱軍 (全文)

  10、マフノヴィストに対するボリシェヴィキの敵意の増大第1次攻撃 (全文)

  14、ボリシェヴィキのウクライナへの帰還第2次攻撃 (全文)

  15、ヴランゲリ・ツァーリスト派遣軍の敗北 (全文)

  16、ウクライナの反乱地区における建設活動の新しい試み (全文)

  17、ボリシェヴィキのマフノヴィストに対する最後の攻撃第3次攻撃 (全文)

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回とボリシェヴィキ政権側からの攻撃3回

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     HP・20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

     ヴォーリン『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

 

 宮地コメント−マフノ運動の位置づけ

 

 マフノ運動にたいする私の位置づけをのべる。1917年二月革命に始まるロシア革命は、3つのソヴィエト革命運動の複合だった。それらは、()大都市の労働者・兵士ソヴィエト革命、()80%・9000万農民の土地革命、()ロシア民族以外の少数民族による民族解放独立革命である。ソ連崩壊後に出版された研究は、ほとんどが、ロシア革命をこれら3つの運動の複合と規定している。ウクライナにおけるマフノ運動は、()()の性格を帯びた。レーニンとボリシェヴィキは、これら()()にほとんど関与していない。

 

 公認ロシア革命史は、ウクライナ民族によるマフノ運動を完璧に消去・隠蔽してきた。よって、この運動は、アナキストによる特殊な少数民族反乱、「反革命」として、ロシア革命史から恣意的に抹殺されてきた。もちろん、マフノ、アルシーノフ、ヴォーリンらは、有名なアナキストである。しかし、この運動を、それらに矮小化する公認党史のからくりを、ソ連崩壊後に再検証する必要がある。2つの関係とボリシェヴィキ側からの攻撃3回については、別ファイルで検証した。

 

    『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回とボリシェヴィキ政権側からの攻撃3回

    TAMO『ソ連邦共産党史2』1917年〜41年 公認党史

 

 レーニンが1917年10月25日(新暦11月7日)にしたことは、それら3つのロシア革命運動の情勢・高揚を利用して、単独武装蜂起・単独権力奪取をしたクーデターだった。そのクーデターは、二重の性格を持つ。第一、カウツキー臨時政府にたいする権力奪取クーデターである。第二、もう一つの側面は、二月革命以来のソヴィエト権力からの権力簒奪クーデターだった。マフノ運動にたいするレーニン・トロツキーの3次にわたる攻撃も、()少数民族ソヴィエト権力からの権力簒奪クーデターと位置づけられる。

 

 1921年3月、ロシア革命=ソヴィエト革命は、レーニンによる7連続クーデターによって終焉を迎えた。これらの詳細は、別ファイルにおいて分析した。

 

    『レーニンによるソヴィエト簒奪7連続クーデター』『第1〜10部』

 

 

 1、序章 (抜粋)

 

 ウクライナ(または小ロシア)は、面積四十五平方キロメートル(およそフランスの五分の四)、人口約三百万をもつ、ロシア西南部の広大な土地である。キーエフ、チェルニゴア、ポルタヴァ、ハリコフ、エカテリノスラフ、へルソン、タヴリーダなどの県または「政府」から成っている。タヴリーダはクリミヤ半島への入口にあり、そこから黒海の一部とペレコープ地峡とアゾフ海の海峡とに分かれている。

 

 ウクライナについての詳細な記述はひとまずおいて、一九一七年から一九二一年の間にそこで起こった事件を理解するために知っておいた方がよいと思われるこの国のいくつかの特色を簡単に述べておこう。

 

 ウクライナは世界でももっとも豊穣な農業地帯である。豊かに肥えた黒土は絶大な収穫をもたらした。かつてウクライナは「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれた。ヨーロッパ諸国にとってウクライナは小麦その他の生産物の非常に重要な資源だったからである。穀類だけでなく、豊穣なステップでは野菜や果物、または森林地帯や水路では放牧、そして東部では、ドン盆地の石炭に恵まれている。

 

説明: http://ja.wikipedia.org/upload/thumb/5/57/Ukraina.JPG/500px-Ukraina.JPG

マフノ運動解放区の中心地グーリャイ=ポーリャは、ドニエプル河

の東で、地図のサボリジジャとベルジャンスクの中間に位置する

 

 この稀な豊かさと地理的位置のおかげでウクライナはいつも、隣国だけでなく遠い国からも誘惑的な獲得物としてねらわれてきたのだった。民族的に混合してはいるが、ウクライナの自由と独立を守ろうとする堅い決意で団結しているウクライナ人は、数世紀にわたってトルコ人やポーランド人やドイツ人や、または特に権力をもった隣国のツァーの大ロシアとの戦闘を経験してきた。ついにウクライナは、半ばは征服によって、半ばは自発的に(ウクライナをねらういろいろな侵略者に対して、一個の強力な隣国から保護されることがどうしても必要であると考えられたので)巨大なロシア帝国に併合した。

 

 しかしながら、ウクライナ人の民族的気質や、性格、感情、精神の特色や、西欧人との昔からの接触−戦争や商業その他を通じて−は、この地方の地理的、地勢的特徴とともに、同じツァーの下で、大ロシアの状況とウクライナの状況との間にかなりの相異をもたらした。

 

 ウクライナのあるところでは、大ロシアのように完全に征服されてしまうことを認めなかった。彼らはいつも、独立と抵抗と反逆の精神を持ちつづけた。比較的教育もゆきとどき、自我にも目覚め、ひるまずにイニシャティヴをとって、独立を渇望し、昔から戦争好きで自分自身を守る用意を怠らず、数世紀にわたって自由に考え、自分自身を主人とすることに慣れてきたウクライナ人は、全般的に他のロシアの民衆を性格づけている完全な奴隷状態−肉体のみならず精神までの−に決して服従することはなかった。

 

 これは特にウクライナのある地域の人びとについて言えることだった。彼らは不文律の人身保護条例までも獲得し、自由に生活していたのである。ウクライナは、ツァーの軍隊にとって、コルシカの地下運動団のように近づきがたかったからである。

 

 

 2、革命のなかのウクライナ (省略)

 3、ネストル・マフノ (省略)

 4、マフノの反乱活動のはじまり (省略)

 

 

 5、一九一八年末におけるウクライナの情勢 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、マフノと革命的パルチザン部隊

   2、ウクライナにおける3つの勢力とペトルリスト運動

   3、ウクライナにおけるボリシェヴィキの行動と展開

 

 1、マフノと革命的パルチザン部隊

 

 まもなくマフノは、彼の地方におけるすべての反乱の糾合点となった。あらゆる村々において農民は秘密地方グループを作った。彼らはマフノのもとに集まり、彼のあらゆる活動を支持し、彼の助言と示唆に従った。多数のパルチザン部隊−すでにできていたのも新しく組織されたのも−彼のグループに加わってともに活動した。すべての革命的パルチザンが全般的な規模で統一と活動を行なう必要かあると認めた。そしてすべての者かこの統一はマフノの指揮の下で行なわれるのが一番よいという意見だった。そのときまで互いに独立していた反乱軍のいくつかの大きな組織も同じ意見だった。

 

 これらのなかで有名なのは、キリレンコ(ベルディヤンスク地方で行動していた)に率いられた大きな一団と、ショウス(ディブリフカ地方)に率いられた一団と、ペトレンコ−プラトノフ(グリチノ地方)の一団とだった。彼らは自発的にマフノに加わった。このようにしてマフノの最高指揮権の下にウクライナ南部のパルチザン部隊が単一の反乱軍に統一される過程は、自然に現実の成り行きの力と大衆の意志によって速められた。

 

 広大で抑えがたい農民反乱軍は、ついに占領軍ヘトマン警察を完全に解体することができた。外国の銃剣に支持された反革命はしだいに領土を失っていった。戦争の終了につづいてドイツとオーストリアに起こった政治的騒乱において反乱は大成功をおさめた。一九一八年の終わりにドイツとオーストリア軍はこの国を撤去した。へトマンと地主は再び逃げて二度と戻ってこなかった。

 

 2、ウクライナにおける3つの勢力とペトルリスト運動

 

 このときから、三つのまったく異る基盤に立った勢力がウクライナで活躍することになった。()ペトルリズムと、()ボリシェヴィズムと、()マフノヴィズムである。われわれはボリシェヴィズムについては、そのウクライナにおける目的と戦術を読者にそれ以上説明するまでもなく、容易にわかっていただけるだけ十分に説明してきた。そしてマフノヴィズムと呼ばれる自立した農民の運動についても今まで相当説明してきた。

 

 そこで簡単に()ペトルリスト運動の本質と活動を述べておこう。一九一七年二月革命の最初からウクライナの自由ブルジョアジーは「ロシア人」の革命の「急進性」を恐れ、自分たちの国ではそれを避けたいと考えてウクライナの民族独立に賛成した。ひとたびツァーリズムが転覆すると、彼らはいくらか成功の望みをもって独立達成を試みることができた。というのはすべて左翼的なロシアの政党が、人民の望むどんなことでも自由に行なえる人民の権利を宣言したからである。

 

 富農(クラーク)や自由知識人などのようなウクライナ人のいくつかの社会層に支持されて、ブルジョアジーは「汎ロシア」帝国の完全な分離を意図した自治的、民族主義的、分離主義的運動をくりひろげた。しかしながら、必要な場合に頼ることのできる人民の武装勢力を発展させておかなければ、この運動は長く確実に成功を勝ち取っておくことは望めないということを知って、その運動の指導者であるシモン・ペトルーラたちは、前線と後衛のウクライナ兵士に注意を向けた。彼らは民族的基盤に立って彼らをウクライナ特別連隊に編制した。

 

 一九一七年五月、この運動の指導者は運動方針を立てるための軍事委員会を選出すべく軍事会議を開いた。のちにこの委員会は拡大され、ラーダ(ウクライナ議会)と呼ばれるようになる。一九一七年十一月、汎ウクライナ会議で、これが新ウクライナ民主共和国の一種の議会である中央ラーダとなった。そしてそれから一か月して中央ラーダはおごそかに共和国の独立を宣言したのである。

 

 この事件は、大ロシアの権力をとったばかりで、「人民の権利」とその標語にもかかわらず、ウクライナに自分たちの政権をうちたてようと考えていたボリシェヴィキには深刻な打撃だった。そこでボリシェヴィキは大至急ウクライナへ軍隊を送った。ウクライナの首都キーエフの周囲で彼らとペトルーラ部隊の間に恐ろしい戦闘がはじまった。一九一八年二月二十五日ボリシェヴィキは都市を占領し、彼らの政府をうちたて、ウクライナ中に彼らの権力を伸ばしはじめた。

 

 だが彼らは部分的に成功しただけだった。ペトルーラ政府と分離運動の政治家とその軍隊は、彼らが深く根をおいているこの国の西部に後退し、ボリシェヴィキによるウクライナ占領抵抗した。じきに、ボリシェヴィキはこの自治運動を全滅させてしまいそうだったが、突然情勢が一変してそうはならなかった。一九一八年三月と四月、ボリシェヴィキはブレスト=リトヴスク条約の各項によって、オーストリア・ドイツ占領軍に譲って大ロシアへ後退した。

 

 まもなく、ペトルリストたちは、オーストリア・ドイツに先だって再びキーエフにはいった。彼らの政府は新民族ウクライナ共和国を宣言した。これもほんの一、二週間つづいただけで終わった。オーストリア・ドイツにとっては、ペトルリストと結ぶよりウクライナの旧地主、支配者と親密にした方が有利だった。彼らの軍事力の助けでドイツ人は無遠慮に共和政府を廃し、彼らの傀儡ヘトマン・スコロパツキー独裁政治を敷いた。ペトルーラはしばらく獄中にいて政治の舞台から消えていた。

 

 しかし、ヘトマン制度の崩壊もそう遠いことではなかった。まもなく膨大な農民反乱がはじまり、彼に猛烈な打撃を与えた。スコロパツキーが弱いのをみて、ペトルロヴィチが活発に動きはじめた。状況はペトルロヴィチに有利だった。農民が反乱を起こし、数千数百の反徒がヘトマン政府に向かって行進するアピールをひたすら待っていた。ペトルロヴィチはこの反徒の一部を集合させ、組織し、武装するだけの手段をもっていたのでどんどん進軍し、ほとんど抵抗なくいくつかの大きな都市や地区を手に入れた。

 

 彼らはこのようにして征服した地方を新しい権力、ペトルーラを頭にする「指導者たち」に服従させた。このようにして彼らは急速にウクライナの相当の部分に権力を拡げ、ほかに権力の志望者、とくにボリシェヴィキがいなかったので非常に有利だった。一九一八年十二月、スコロパツキーは逃げ、ペトルーラの「指導者たち」がおごそかにキーエフに入城した。この事件は国中を熱狂させたが、一方ペトルロヴィチは彼らの成功をますます大きなものにするためには、どんなことでもして民族英雄気どりでいた。

 

 短期間のうちに彼らの権力はウクライナの大部分に拡がった。彼らが手痛い抵抗にあったのは、マフノヴィスト農民運動の地方である南部だけだった。そこでは彼らはまったく勝ち目がなく、それどころか数回のはげしい反撃にあった。

 

 それにもかかわらず、国のすべての都市でペトルリストは勝利し、このころ自治主義的ブルジョアジーの支配は確実なもののようにみえた。それが崩壊しはじめるやいなや、ときを移さず新権力が座を占めた。へトマン転覆のときにペトルロヴィチについた幾万の農民労働者はまもなく真実を知り、ペトルーラの戦列からぞくぞく抜けはじめた。

 

 3、ウクライナにおけるボリシェヴィキの行動と展開

 

 「彼らは彼らの関心と熱望をみたす媒介物をほかにさがした。大部分の者は都市や村へ散ってそこで新権力に敵対的な態度をとった。他の者はマフノヴィストの反乱軍に加わった。ペトルロヴィチはこのようにして偶然の成行きで武装できたのも束の間、じきに武装を解かれてしまった。ブルジョア自治、ブルジョア民族統一の思想は、革命的な人びとの間では数時間しかつづかなかった。人民革命の炎のような息がこの誤った思想を灰と化してしまい、彼らの後援者をすっかり無力化してしまった。同じころ、ボリシェヴィキ軍隊は急速に北から接近してきた。彼らは階級アジテーションのやり方がうまく、ウクライナの権力をとろうとかたく決意していた。ペトルーラの『指導者たち』がキーエフにはいってちょうど一か月目、今度はボリシェヴィキ軍がはいってきた。ここから共産主義権力はウクライナ中へと拡がっていった。」*

 * P・アルキノフ『マフノ叛乱軍史−ロシア革命と農民戦争』、一〇六頁。

 

 このようにしてへトマンが陥落し、オーストリア・ドイツが撤去して、じきにモスクワ政府がその権威、官僚、軍事とくに軍隊と警察の幹部をウクライナに復職させることを急いだ。

 

 しかし西部や南部では、ひとつにはいま一度さらにそこまで後退したペトルーラの民族主義分子によって、またもうひとつにはマフノに率いられた農民大衆の真の自立運動によって、ボリシェヴィキは進むことを阻まれた。国の中心から追われたペトルーラは敗れたとは思っていなかった。彼はもっともボリシェヴィキから遠い地方に後退し、ボリシェヴィキとマフノ「農民軍」の両方に抵抗した。彼のできるところではどこでも。県民の自立運動に関しては、すぐにペトルーラ軍のブルジョアジー(デニキンとヴランゲリの専制主義の試みに対する行動をはじめる前に)のみならず、ボリシェヴィキの侵害にも対面しなければならなかった。

 

 このようにウクライナの情勢はかってよりさらに複雑になった。三つの勢力のそれぞれが他のふたつとたたかわねばならなかった。すなわち、()ボリシェヴィキはペトルーラと。()ペトルーラはボリシェヴィキおよびマフノと。()マフノはペトルーラおよびボリシェヴィキと。のちにはこの混乱は、四つ目の要素、すなわち歴史的に崩壊したが完全にその基礎に立った旧ロシア帝国を再建しようとする()国家主義的専制的ロシアの将軍の出現によって、もっとこんがらかったものとなった。その時(一九一九年夏)から、四つの勢力のそれぞれが他の三つに対してはげしいたたかいを開始した。

 

 この錯綜した状況の中でウクライナは戦争と革命の余波によって混乱に陥り、山賊行為によって生活する分子たちの武装した盗賊団の陰謀と大胆な突撃が縦横に行なわれるようになった。国中のあらゆる所に蔓延していたこのような盗賊があちこちに潜んでいた。彼らはほとんど何の障害もなしに中央ウクライナを舞台にしていた*。

 

 * 少し後になってボリシェヴィキは中傷の常套手段を用いて、農民自立運動とマフノ個人をこれらの反革命山賊と同じものであると主張しようとした。ボリシェヴィキの言っていることから、読者はどれが事実であり、実在の人間と神話の間には大きな開きのあることを、先刻御承知のことと思う。

 

 この国の陥っている異様な混乱と、ボリシェヴィキがついに他の勢力を平定するまでの三年間(一九一八年末から一九二一年まで)に形成され、破壊され、また形成されたほんとうとは思われないような種々の結合を想像することはたやすいことである。

 

 われわれは、アルキノフとともに次のことをつけ加え、強調しておかねばならない。つまりウクライナにおけるボリシェヴィキの全活動は武力による強制的な侵害、統制することさえしない侵害であるということである。ボリシェヴィキの政府が最初ハリコフに、そしてつぎにキーエフに設置されると、彼らはヘトマン権力からすでに解放された地方へ軍隊を送り、軍事力によって共産主義権力機関を創設した。

 

 「ボリシェヴィキが全力を傾けて土地を占領し、ペトルーラ・パルチザンを追放すると、労働者が自分自身の主人であるような解放区におけると同じように、軍事命令によって共産党権力が打ち樹てられた。共産党権力をつくりあげてきたと想像される労働者農民評議会(ソヴィエト)がそのあとから出現したが、その活動はすっかりできあがってしまっており、その権力はすでに強化されていた。()ソヴィエトの前には、()『革命委員会』があり、『委員会』の前には、()単なる軍の師団があったにすぎなかった。」*

 * P.アルキノフ、前掲書、一二九頁。

 

 

 6、マフノ反乱軍 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、マフノ運動の性格

   2、運動のプラス面

   3、運動のマイナス面

   4、マフノ部隊とへトマン・スコロパツキー軍との戦闘

   5、マフノ部隊とペトルーラ軍との会戦

 

 1、マフノ運動の性格

 

 数々の特殊な状況のために極左政党により、権力把握によってではなく、権力の問題とは無関係に新しい支配者に対する農民の巨大な自然発生的反逆によって、社会革命がウクライナではじまったことは今まで述べてきたところである。

 

 はじめのうち、この反逆は台風のようだった。怒りに燃え狂った農民大衆は彼らの憎むあらゆるものを暴力的に破壊することに夢中だった。このころは破壊の仕事になんの積極的なものもみられなかった。だがほんの少しずつ事態は発展し、革命的農民の運動が組織され、統一され、かつてよりもっとはっきりとその基本的建設の任務を自覚するようになった。

 

 われわれは事件をかいつまんで話し、多くの細かいことは、はぶかねばならないから、すぐにマフノの本質的性格、つまりへトマン制度の崩壊とドイツ占領の終了につづいて起こった諸事件を通じてしだいに現われてきた性格に話を進めよう。

 

 運動の性格は二つに分類できる。すなわち一方では美徳と功績、他方では弱点と誤り。というのは、マフノ運動は非難の余地のないものではなかった。そうした欠点のいくつかをボリシェヴィキはとりたてて、中傷や侮りのネタにするのである。

 

 2、運動のプラス面

 

 1、すべての保護者、あらゆる党、どのような形の政治、どのような筋からも完全に独立していること−運動の真のリバータリアン精神。この基本的な非常に重要な性質は次のことによる。()、農民反乱が自然発生的に始まっていること。()、リバータリアンであるマフノの個人的影響。()、その地方における他のリバータリアン分子の活動(マフノは戦闘に熱中していたから、自由に活動できる他のリバータリアンを集めるためにもっとも努力した)。

 

 ()、政党との日々の接触において反徒の経験によって教えられる教訓。運動のこのリバータリアンの傾向は非労働者あるいは特権分子の根深い挑戦の中に、またどのような組織によるものであっても人びとの上に独裁を拒否することの中に、彼らの地方的な諸事については労働者の自由で完全な自治制をとる思想の中に、はっきりと見られる。

 

 2、広く自由に組織され、訓練された社会的運動への全勢力の自由な連合(このときからさらに結束が強められた)。

 

 3、運動が国の広い地域にふりまいた健全な進歩的思想の影響。

 

 4、武器や弾薬がたえず不足しているにもかかわらず、裏切りを受けているにもかかわらず、また他のおそろしい困難にもかかわらず、ウクライナで活動しているすべての侵略者とすべての抑圧勢力に、ほとんど四年間抵抗することのできた革命的農民軍の絶無の戦闘的勇気

 

 5、運動における闘争の中核であるネストル・マフノの組織的、戦略的、軍事的才能とその他のずばぬけた特性。

 

 6、非常に不利な状況にもかかわらず、農民大衆と反乱者たちがリバータリアン思想を学び、それを実行しようとするその速さ

 

 7、状況の許す限り、経済において、また社会的革命的闘志において、その運動がなした積極的成果

 

 3、運動のマイナス面

 

 1、平和的で、ほんとうに積極的な仕事に集中することができず、あらゆる種類の敵に対してほとんど休む間もなく戦い、自衛しなければならなかったこと。

 

 2、運動内部で、常に軍隊が存在したこと。というのは、それがどのような種類のものであっても、軍隊というものはいつも必ず、深刻な誤りや一種の特別な反道徳的な精神を広めるものであるからである。

 

 3、運動内部におけるリバータリアンの知識人層が不足していたこと。

 

 4、マフノの個人的欠点。マフノの組織的、軍事的才能、リバータリアン的熱情と他の目立つ軍事的特質以外に、彼は人格と教育の点で相当の弱点をもっていた。ある点からみると彼はそのなした仕事に値しなかったともいえる。これらの弱点−われわれはそれについてはまた触れるが−は運動の範囲と道徳的な意義を少くした。

 

 5、共産主義著に対する注意の不足。当然もつべき不信の念の不足。

 

 6、農民反乱運動を支持できるだけの組織された活発な労働者の運動がなかったこと。

 

 7、武器と弾薬がたえず不足していたこと。マフノヴィストは、ほとんどいつも敵から奪いとった武器で武装しなければならなかった。

 

 4、マフノ部隊とへトマン・スコロパツキー軍との戦闘

 

 だがここで事件の方に戻ろう。というのは、次の説明からわれわれは運動のプラス面とマイナス面の両方を観察し、運動を全体として十分検討できるからである。

 

 一九一八年十月、統一されてパルチザンの革命軍となったマフノ部隊は、へトマン・スコロパツキー軍全面攻撃を開始した。十一月ドイツとオーストリア軍は、西部戦線でのできごとと、彼らの占鎖した国内でのできごととですっかり動揺していた。マフノはこのときとばかり攻撃した。あるところで、彼はドイツ・オーストリア軍と戦い、彼らの中立を勝ち取り、また難なく彼らを武装解胎させることもあった。こうして彼は武器と弾薬を手に入れたのだった。ほかのところでも彼らを敗った。たとえば三日間のはげしい戦闘ののち、彼はグーリャイ=ポーリャの全村を占領した。

 

 いたるところで、へトマン制度が終わりを告げるだろうと予想された。ウクライナ軍とヘトマン衛兵(ヴァルタ)は反乱運動が大きく成長する前にほとんどばらばらに四散していた。若い農民たちはマフノ軍へ大量に流れ込んだが、マフノ軍は志願者の全員を武装することはできなかったので大部分をことわらねばならなかった。それにもかかわらずマフノ反乱軍は、数個の歩兵、騎兵連隊をすでにもつことができたし、小さな一個の砲兵隊と多くの機関銃をもっていた。

 

 やがて、マフノ軍はすべての権力から解放した非常に広い地域の主人となった。だがヘトマンは依然としてまだキーエフを保持していた。そこでマフノは北へ向かった。彼はチャプリノやグリチノやシネルニコヴァやパヴログラード市の主要な鉄道の駅を占領した。そこから彼は西へとエカテリノスラフの方向へ向かった。

 

 5、マフノ部隊とペトルーラ軍との会戦

 

 そこで彼は整然とよく武装されたペトルーラ軍と会戦した。この時期、ペトルロヴィチ(ペトルーラ主義者)は、マフノ運動がウクライナ革命のひとつの重要なエピソードくらいに考えていた。マフノ運動をよく知らずに彼らはこれらの「反乱者の集団」を自分たちの影響下にひきつけ、自分たちの統治下におこうと望んだ。彼らはマフノに対し非常に友好的に一連の政治的質問を行なった。すなわち−()、ペトルリスト運動とペトルーラ政府についてどう考えているのか? ()、ウクライナの将来の政治機構はどのようなものと考えるのか? ()、独立ウクライナを創立するために共同で働くことは有意義だとか、あるいは有効だとは考えないだろうか?

 

 マフノヴィストたちの答えのあらましはつぎのようである。自分たちの意見としては、ペトルロヴィチナは革命的農民と全く異った道を目ざすブルジョア民族主義運動であり、ウクライナは自由な労働と農民、労働者の独立の基盤の上に組織されるべきであり、どんなものとの同盟も認めない、また労働者の運動であるマフノヴィチナとブルジョアジーの運動であるペトルロヴィチナの間には、闘争以外の何ものもありえない旨を宣言した。

 

 この「意見の交換」につづいて起こった事件はウクライナ闘争に共通のこみいった複雑さを反映している。マフノ軍は、エカテリノスラフ郊外にあるニジニ=ドニエプロフスクで止まり、その町を攻撃する準備をした。そこには行動するには足りないが二、三の軍をもったボリシェヴィキ委員会もあった。マフノは勇気ある革命家で非常に軍事的才能に恵まれていることがその地方に知られていたから、「委員会」は彼に党の労働者部隊の指導者となるよう依頼した。マフノはそれをひきうけた。

 

 このときもマフノは、非常に危険ではあるが成功すれば莫大な成果の得られる戦術をとった。彼は自分の軍隊を汽車でニジニ=ドニエプロフスクからエカテリノスラフ駅へ送った。このような汽車は労働者たちを郊外からエカテリノスラフへ運び、いつもなんの障害も取り調べもなしに通過することを彼は知っていたのである。もし汽車が着くまでにこの戦術が暴露していたら、全軍が捕虜となっていただろう。だがそれは秘密裏に無事、目ざす駅に到着した。一瞬にしてたちまち、マフノヴィストは駅とその周囲を占領した。エカテリノスラフ市にはおそろしい戦闘が勃発した。ペトルリストたちは敗れた。彼らは後退し、エカテリノスラフを放棄したが、追跡されはしなかった。というのは、マフノがしばらくの間、町を占領し、彼の軍を再編制することに主力をそそいだからだった。

 

 二、三日して、援軍とともに反攻勢にでたペトルリストは、マフノ軍を敗り、再び市を手に入れた。しかし今度は彼らの方がマフノを追跡するほどの力がなかった。反乱軍は再びシネルニコフ地方に後退し、そこを拠点とし、自分たちとペトルリストとの間に反乱地区の北西戦線を確立した。

 

 主に反乱に加わった農民や衛兵からなるペトルーラの軍は、マフノヴィストとの接触によって急速に崩壊し、まもなくこの前線は自然に消失してしまった。のちに、エカテリノスラフはしばらくの間、ボリシェヴィキに占領されたが、ボリシェヴィキはそれ以上危険を冒して進もうとしなかった。マフノは自分の軍隊がエカテリノスラフ市と広大な解放地区を維持するのに十分強力であるとは思っていなかった。彼はこの市をボリシェヴィキに渡し、彼の地区境界線の守りをかたくすることだけに力を入れようと決心した。このようにして、エカテリノスラフの南と北の数千平方キロの広大な面積の土地が、あらゆる権威とあらゆる軍隊から解放されたのである。エカテリノスラフではボリシェヴィキが支配し、西方ではペトルリストが治めていた。

 

 

 7、自由ウクライナにおける積極的活動 (省略)

 8、デニキン軍の攻撃 (省略)

 9、デニキンに対するマフノヴィストと赤軍との同盟 (省略)

 

 

 10、マフノヴィストに対するボリシェヴィキの敵意の増大第1次攻撃 (全文)

 

 〔小目次〕

    1、ウクライナにおける農民と都市労働者との連帯

    2、ボリシェヴィキはマフノヴィズムへの組織的計画的なたたかいを開始

    3、第三回地方大会と、ボリシェヴィキ軍司令官ドゥイベンコからの宣戦布告電報

    4、第二回地方大会 1919年2月12日

    5、第一回地方大会 1919年1月23日

    6、地方評議会と第三回大会、ボリシェヴィキへの評議会の返答 1919年4月10日

    7、ボリシェヴィキの激怒とウクライナにたいする武装攻撃計画

    8、ボリシェヴィキによるマフノ殺害計画とデニキン軍を利用する企み

    9、革命軍事評議会のウクライナ労働者にたいする呼びか

   10、トロツキーによるグーリャイ=ポーリャ地方への攻撃命令 1919年6月4日

   11、トロツキー命令内容への反論

 

 1、ウクライナにおける農民と都市労働者との連帯

 

 一九一九年二月、地方ソヴィエトが創立して以来、マフノヴィスト地方の労働者は。分たち自身を、よく結束し組織化されていると考えており、この連帯感によって農民たちも非常に緊急を要する他の具体的問題を処理した。

 

 彼らは、まずいたるところで自由な地方的なソヴィエトを組織することからはじめた。このような時代だったから、この仕事は少しずつゆっくりと行なわれていったが、農民たちは執拗に思想を堅く持ちつづけ、この仕事を真の自由な社会が建設される唯一の健全な基礎であると考えた。

 

 まもなく、農民と都市労働者の間の直接的な堅い連帯の問題が起こってきた。農民たちの考えでは、このような連帯は、政党とも国家の機関ともあるいは仲介者とも無関係に、労働者の主催と組織とともに直接的に確立されるべきだというのだった。彼らはこのことが革命の強化と今後の発展にとって欠くことのできないものであることを直観的にさとっていた。同時に彼らはこの仕事を行なうということは、戦わずに大衆を統治しようとする望みを諦めた国家や政府や共産党との戦いを必然的に呼び起こさざるをえないということをよく承知していた。

 

 しかし、この危険がそれほど深刻なものになるとは考えていなかった。というのは、ひとたび彼らと労働者が連合すれば、彼らを征服しようとするいかなる政治的権力をも簡単にうちまかすことができると考えたからだった。どんな場合にも農民と労働者の自由で直接的な連合は、真実の解放の革命をなしとげ、革命を踏みにじったり、歪めたり、あるいは圧殺しようとするすべての分子を排除する唯一の自然の実り豊かな道のように見えた。このようなわけで都市労働者との連帯の問題が生まれ、討議され、そしてついに全反乱地区の課題ともなったのである。

 

 いうまでもなく、このような人びとの態度とこのような計画のために、政党とくに共産党は、マフノヴィスト地方では少しも成功を勝ち取れなかった。こうした政党が国家主義的政策や組織の計画をもってあらわれても、彼らは無関心に冷淡に、あるときには敵意さえもってあしらわれるのだった。これらの政党の闘士や使節は、他人の事柄に干渉するために招かれもしないのにやってきた者として公然と批判されることもしばしばあった。その地方のあらゆるところに踏み込んできて、主人顔をする共産党幹部は、自分たちが侵入者であり、追害者であると思われていることをはっきりと理解させられた。

 

 2、ボリシェヴィキはマフノヴィズムへの組織的計画的なたたかいを開始

 

 最初、ボリシェヴィキは、マフノヴィスト軍を赤軍の戦列に吸収し、自由に人びとを服従させることによって、このさかんな抵抗を抑えようと望んだ。彼らはやがてこの希望も空しいことを知った。その地方の農民はボリシェヴィキ政府の役人と少しも関係をつくろうとしなかった。

 

 彼らは役人を無視し、ボイコットした。ときには虐待することさえあった。あるところでは武装した農民が村から「非常委員会」(チェカ)追放した。グーリャイ=ポーリャでは、共産主義者はそのような機関を設けることさえしなかった。他のところでは共産党行政をおしつけようとして、そこの住民と共産党との間に流血の衝突まで生じ、共産党の立場は非常に困難なものになった。マフノヴィスト軍はどうかといえば、とても手に負えないほど強情だった。

 

 状況のほんとうの姿を知るや、ボリシェヴィキは思想と社会運動の両面からマフノヴィズムに対する組織的、計画的なたたかいを開始した。いつものように新聞がキャンペーンをはじめた。命令が出されると新聞は反乱運動を批判しはじめ、しだいにその運動を富有農民(クラーク)の運動であるかのように書くようになり、その思想とスローガンは反革命的であるとし、その活動を革命にとって有害なものであると非難した。運動の指導者に向けた直接的なおどし文句が新聞に、演説に、中央幹部の命令の中にあらわれた。

 

 まもなくその地方は実際に包囲された。あるところでは共産党幹部が道に関門を設け、しばらくするとグーリャイ=ポーリャへいこうとしたり、戻ってきたりする革命的闘士はすべて途上で逮捕され、しばしば彼らはそのまま消された。そのうえ反乱軍の武器弾薬類が大分不足してきた。

 

 3、第三回地方大会と、ボリシェヴィキ軍司令官ドゥイベンコからの宣戦布告電報

 

 一九一九年四月十日、こうした新しい複雑な情勢と脅威の下で、グーリャイ=ポーリャで、農民・労働者・パルチザンの第三回地方大会が開かれた。

 

 この大会の目的は緊急の任務を定め、この地方における革命的生活の見通しをたてることだった。二百万の住民を代表する七十二地区の代議員が大会に望んだ。私はこの議事録の写しをもたないのを残念に思っている。というのは、それをみればいかなる熱意とまた知恵と透徹した目とをもって、人びとが革命における彼ら自身の道と新しい生活のための彼ら自身の形体を見いだしたかということがはっきりわかるからである。

 

 この第三回大会が終わりに近づいたとき、しばらく前から予想されていたドラマがはじまった。ボリシェヴィキ軍の司令官ドゥイベンコからの電報が会場にとどいたのである。それは大会を「反革命」とか、大会の組織者を「不法者」と乱暴にきめつけていた。これはボリシェヴィキが地方の自由を直接非難したその最初だった。そしてそれとともにこの電報は、反乱軍に対する宣戦布告でもあった。

 

 大会はこの電報のもつ意味の重大性をよく理解した。大会はすぐに電報に対する怒りのこもった抗議文を作成し、ただちに印刷して農民と労働者に配った。

 

 数日して革命軍事評議会が行なわれ、革命においてその地方の演じた真実の役割を強調し、革命を反革命の方向へ導こうとする真の責任者を暴露した詳細な返答を、ドゥイベンコという共産党幹部あてに送った。この返答は長文ではあるがふたつの党の今後の立場を見事に示唆しているのでここに全文を掲載しよう。

 

 「『同志』ドゥイベンコは、四月十日からグーリャイ=ポーリャで開かれている大会が反革命的であり、大会の組織者法の外にある者と宣言している。彼によると、彼らを厳しくしく弾圧すべきだという。彼からの電文をそのまま載せよう。『ノヴォ=アレクセイフカ、s八三、四月十日、二時四十五分。アレクサンドロフスク師団参謀本部、同志バッコ・マフノへ*。……現在私の命令で解散されている革命軍参謀本部の名で招集された大会は、明らかに反革命と考えられる。その組織者はきびしく弾圧されねばならないし、不法者と呼ばれてしかるべきである。私は今後そのような手段をとらずにすむためにただちにしかるべき手段をとるよう命ずる。

        師団司令官ドゥイベンコ

 

 * 『バッコ・マフノ』という=ニックネームは運動の統一後につけられたものである。『バッコ』(父)ということばは、年取った尊敬すべき人物にウクライナでしばしばつけられる名である。

 

 大会を反革命であると宣言する前に、『同志』ドゥイベンコはその大会がどのような人によって、またなんの目的で招集されたのか知るだけの労もとらなかった。実際には、軍事革命評議会の執行委員会によって招集されたのに、彼はグーリャイ=ポーリャの『解散された』革命本部によって招集されたと言っている。

 

 それゆえ、評議会のメンバーは大会を招集したが、彼らが不法者と呼ばれようと、『同志』ドゥイベンコによって反革命と考えられようと、そんなことは知ったことではない。もしこれが事実なら、この大会−貴殿の考えでは反革命だという−がだれによって、なんの目的で招集されたのかを閣下に御説明申そう。そうすれば、それが貴殿の考えられているほど恐ろしいものにはみえないであろう。

 

 すでに述べたことではあるが、これはグーリャイ=ポーリャの軍事革命評議会の執行委員会によってグーリャイ=ポーリャで開催された。それは軍事革命評議会の今後の自由な行動を決定しようという目的で招集された第三回地方大会なのである(『同志』ドゥイベンコよ、貴殿によれば、三回も『反革命』大会が行なわれたのですぞ)。

 

 ひとつの問題が提起されている−軍事革命評議会は、どこでつくられ、なんの目的で設立されたのか。『同志』ドゥイベンコよ、貴殿がまだ御存じないなら、説明しておこう。地方軍事革命評議会は今年の一月十二日、グーリャイ=ポーリャで開かれた第二回大会の決定に従ってつくられたものである(貴殿にとっては大昔のことであろう−貴殿はまだ当地におられなかったのだから)。評議会は兵士を編制し、志願制による総動員を行なうために創設された。なぜなら、この地方は白軍に包囲され、第一次志願兵からなる反乱軍部隊は非常に延長された戦線を維持するのに足りなかったからである。

 

 その当時われわれの地区にはソヴィエト軍はいなかった。それ以上に人びとはソヴィエト軍の介入に頼る気は全然なく、自分たちの地方の守りは自分たち自身の任務であると考えていた。これが革命評議会のできた目的である。これは、第二回大会の決定に従って各地区の代表者から成り、全部でエカテリノスラフ県とタヴリーダ県の地区を代表する三十二人である。

 

 4、第二回地方大会 1919年2月12日

 

 革命軍事委員会については、あとからさらにくわしく説明しよう。まず疑問が生じてくる。()、第二回地方大会は、どのようにして開かれたのか? ()、だれがそれを招集したのか? ()、だれがそれを認可したのか? ()、それを招集したものは不法者なのか? ()、そうでないとしたらそれはなぜか? ()、第二回大会は、第二回大会で選出された五人の指導グループによって、実際グーリャイ=ポーリャに招集された。この第二回大会は、二月十二日に開かれた。そして非常に驚くことには、それを招集した人びとは不法者でもなんでもなかったのである。というのは御承知のように、この地方には人びとの権利、自分たち自身の血で勝ち取った権利を踏みにじるようなそうした『英雄』はどこにもいなかったからである。

 

 そうすると、また新しい疑問が出てくる。第二回大会は、どのようにして開かれたのか? だれが招集したのか、等々? 『同志』ドゥイベンコよ、あなたはウクライナの革命ではどうも新米のように見受けられる。そこでわれわれはあなたに、そもそものはじまりから話さなくてはならない。それはわれわれがこれからしようとしていることでもある。これらの事実を知ったらおそらくあなたの視野も少しは変わるであろう。

 

 5、第一回地方大会 1919年1月23日

 

 第一回地方大会は、大ミハイロフカの反乱軍キャンプで今年の一月二十三日に行なわれた。この大会はデニキン戦線に近い地区からの代表の集まりだった。ソヴィエト軍はこのときまだ、はるかに離れた遠い地方にいた。われわれの地方は、()一方の側はデニキニストにより、()もう一方の側はペトルリストによってまったく孤立させられていたのである。バッコ・マフノとショウスを先頭にした反乱軍部隊がいるだけで、両方の敵と交互に襲撃し合っていた。いろいろな町や村の組織や機関や団体はいつも同じ名前とは限らなかった。ある村ではソヴィエトといい、ある村では人民事務局、ある村では革命軍事本部、また別の村では地方事務局などだった。しかしその精神はどこでも等しく革命的だった。

 

 第一回大会は戦線を堅固にし、全地区における組織と活動の統一をはかるために行なわれた。だれが招集したのでもない−人びとの希望と賛成によって自然発生的に開かれたのである。大会で強制的に動員されたわれわれの兄弟をペトルリスト軍から救おうという提案がなされた。この大会の終わりに五人からなる代表委員が選ばれた。この代表委員は、バッコ・マフノの幕僚に、もし必要な場合には他の幕僚にも加わって、『ウクライナの指導者たち』(ペトルリスト)の軍にはいりこみ、われわれの兄弟たちに、君たちはだまされているのだからペトルーラ軍を脱退すべきだと説く任務が与えられた。それに加えて、そこから戻ったら反革命勢力から解放された全地区を組織し、さらに強力な防衛線をつくるために第二回大会を招集することを指示されていた。

 

 そこで代表委員たちは、自分たちの使命を終えて帰ってくると、どのような『党』とも『権力』とも『法律』とも無関係に第二回地方大会を招集した。『同志』ドゥイベンコよ、あなたやあなたのような法律の崇拝者は、そのころはるか遠方にいたのだ! そして反乱運動の英雄的指導者は奴隷の鎖を自らの手でうちこわしたばかりの人びとの上に権力をかざそうとはしなかったから、大会は反革命であると宣言されることもなかったし、それを招集した人びとが不法者であると呼ばれることもなかった。

 

 6、地方評議会と第三回大会、ボリシェヴィキへの評議会の返答

 

 地方評議会のことに戻ろう。グーリャイ=ポーリャ地方に革命軍事評議会が創設されたころ、ソヴィエト権力がこの地方に出現した。第二回大会で通過した決定に従って、ソヴィエト権力者が出現したときにも、地方評議会はその任務をつづけていた。それは大会の指示した仕事を遂行しなければならなかった。評議会は命令する機関ではなくて、実行する機関だった。それゆえ、評議会は能力の限りをつくして働きつづけ、いつもその仕事は革命のコースに従っていた。

 

 少しずつ、じわじわと、ソヴィエト権力者(幹部)が評議会の活動邪魔を入れはじめた。ソヴィエト政府の人民委員や他の高級官吏は評議会を『反革命』として遇しはじめた。こうしたときに評議会の今後の方針を決定し、大会が必要と認めるなら評議会を解散するために評議会のメンバーは、四月十日にグーリャイ=ポーリャで第三回地方大会の開催を決定したのである。こうして第三回大会が開かれた。

 

 そこに出席した人びとは、反革命ではなく、最初に反乱と社会革命の旗を掲げた人びとだった。彼らはすべての抑圧者に対するこの地方の全般的な戦いに協力するためにやってきた。七十二地区の代議員と反乱軍の数部隊の代議員が大会に参加した。参加者のすべてがマフノ軍を欠くことのできない存在であることを認めていたから、彼らは執行部を拡大し、その地方の志願制による平等な兵力動員を行なうことを執行部に指示した。

 

 この地方は反乱の旗を掲げた最初の地方だったから、大会を『反革命』と宣言した『同志』ドゥイベンコの電報を受け取って、大会はいささか驚いた。だから大会はこの電報に対するはげしい抗議文を決議した。

 

 『同志』ドゥイベンコよ、事実はこのようなものであることがわかって、少しは啓発されたであろう。考えてもみよ。自分たち自身のふしくれだった手で奴隷の鎖をかなぐり捨て、自分たち自身の意志で自分自身の生活を建設しつつある何万という労働者を、反革命と宣言する権利をあなたが−あなた一人だけが−持っているというのか。否! もしあなたがほんとうに革命家であるなら、あなたは抑圧者に対する闘争と新しい自由な生活を建設する仕事に協力しに来るだろう。

 

 革命家と自称する人びとが、自分たちよりもっと革命的な人びとを一括して不法者とするような法律をつくることができるだろうか? なぜならば評議会の執行委員会はすべての人民大衆を代表するものであるからだ。

 

 すべての法の作成者とすべての法とを葬り去ったばかりの人間を服従させるための暴力的法律を成立させにやってくるということが許されることか、認められることなのか。

 

 革命的大衆の防衛者だと自称する人が、彼の許可をまたずに革命家の約束した自由と平等というよいものをこの大衆が享受しているという単なるそれだけの理由から、『革命家』がもつとも厳しい刑罰を革命的大衆に押しつける権利を認めるような法律が存在するだろうか?

 

 革命的大衆が勝ち取ったばかりの自由を『革命家』が奪っていった場合、革命的大衆は黙っているだろうか? 一人の代議員が彼を選出した革命的大衆の与えた任務を逐行しなければならないと考えているからといって、革命の法律はその代議員を銃殺するよう命令するだろうか?

 

 革命はだれの利益を守らねばならないのか? 党の利益か、それとも自分の血で革命を行なった人びとの利益か?

 

 グーリャイ=ポーリャ地方の革命軍事評議会は、あらゆる圧力とあらゆる党の影響とはまったく無関係である。評議会を選出した人びとの意見を認めるだけである。その任務は、人びとが評議会に命じた事柄を完遂し、どんな左翼社会主義政党がその思想宣伝をするのも妨げないことである。それゆえ、ひとたびボリシェヴィキ思想が労働者の間に浸透するのに成功した場合には、革命軍事評議会−『あきらかな反革命的』組織−は『さらに革命的』となり、ボリシェヴィキ的となるであろう。だがしばらくの間、われわれに干渉しないでくれ給え。われわれをを窒息させないでもらいたい

 

 『同志』ドゥイベンコよ、もしあなたとあなたの仲間が、前と同様の政策をつづけるなら、もしあなたがそれを正しい良心的なことと考えるなら、あなたの小ぎたない、つまらない手続きを終わるまで続けたらいいだろう。あなたとあなたの党がかつてクールスクにいたときに招集された地方評議会の組織者を不法者と宣言したらよいのだ。反乱のウクライナ社会革命の旗を最初に掲げ、あなたの許しを待たずにあなたの電報に文字どおり従わなかったすべての人びとを反革命呼ばわりすればよいのだ。

 

 また『反革命』大会に代表を送ったあらゆる人びとを不法者と呼べばよいのだ。そしてまた、あなたの許しなくして労働者解放の反乱運動に参加した、いまはなき人びとすべてを法の外に出せばよいのだ。あなたの許しなくして招集されたどんな大会をも永久に不法の反革命であると宣言したらよいのだ。だが真実が勝つことを忘れるな。貴殿のおどしにもかかわらず、評議会はその任務を途中で投げ出すことはしなかった。なぜならそうする権利はないし、人びとの権利を侵害する権利をもたないからである。

 

 グーリャイ=ポーリャ地方革命軍事評議会

       議長チェルノフニニイ

       副議長カードベット

       書記コヴァル、ペトレンコ、ドットッェンコ、他」

 

 7、ボリシェヴィキの激怒とウクライナにたいする武装攻撃計画

 

 評議会の返答は、ボリシェヴィキ幹部を激怒させた。それは、彼らが平和的にウクライナを彼らの独裁に服従させる希望をまったく捨てねばならないことを示していた。ボリシェヴィキについては、このことをきっかけにして、この地方への武装攻撃が計画された。

 

 マフノヴィチナに対する新聞の敵対的キャンペーンは倍加した。非常に非道徳的なことや、ひどい罪がみなマフノ運動のせいにされた。赤軍や共産主義青年団や一般のソヴィエトの人びとは、「アナルコ盗賊団」や反乱クラークに対して計画的に煽動された。最初モスクワで、それからクロンシュタット反乱において、トロツキーは自ら自由地区に対する暴力的キャンペーンを指導した。彼は来たるべき攻撃のために、ウクライナに到着するや「マフノヴィチナ」という題で彼の新聞『路上』の五十一号に、一連のはげしい攻撃記事を書いた。トロツキーのいうには、反乱軍はその地方に権力をうちたてようとしている富有農民(クラーク)の陰蔽された反乱にすぎない。自由な労働者のコンミューンに関して、マフノヴィストとアナキストの語っていることはすべて、トロツキーにいわせれば単なる戦術にすぎないというのである。実際に、マフノヴィストとアナキストは、最後まで推していけば「富有農民の権力」と等しい彼ら自身の「アナキスト権力」をウクライナにうちたてようと望んでいたというのである。

 

 これが、すぐあとに、マフノヴィストを追放するためには何をおいても必要だった彼の有名な宣言を出した同じトロツキーなのである。彼は次のように説明した。「階級的プロパガンダの方法であとから簡単に妥協させることができるからには、あきらかな反革命デニキンに全ウクライナを譲った方がましだ。ところがマフノヴィチナは深く大衆に食い込んで大衆自身をわれわれに敵対させているのだから。」

 

 彼は指揮官と軍事指導者の会議でこの提案をした。だから彼は、一方ではマフノヴィスト運動の大衆的革命的性格をよく知っていることを示しているのに、他方ではデニキン運動の其の性格を少しも知らなかったともいえる。

 

 同じころ、ボリシェヴィキはこの地方の内部の探険と調査を行なった。高級官僚と兵卒−カーメネフ、アントーノフ=オフセエンコその他−がマフノをたずね、明らかに友好的な態度で質問と批判をした。しかし彼らはそれとなく当てこすったり、露骨におどしたりもした。ボリシェヴィキと協力したマフノ軍によって潰滅されたツァーの元将軍グリゴリエフの小さな反乱−いささか興味のあることではあるが詳しく立ち入らないでおこう−は、しばらくそうした動きを停止していた。しかし、じきに挽回してかかってきたのである。

 

 8、ボリシェヴィキによるマフノ殺害計画とデニキン軍を利用する企み

 

 一九一九年五月ボリシェヴィキマフノ殺害を試みた。彼のいつもの伝である策略とまた幸運のおかげで、マフノ自身がその計略をくつがえした。新たな事件と彼の迅速な反撃によって、その計略を実行しようとした人びとは逆に彼に捕えられることになった。彼らは処刑された。

 

 さらにマフノは、招請されても、エカテリノスラフやハリコフなどにいってはならないということを、ボリシェヴィキ機関に雇われていた同志から一度ならず警告されていた。どんな公的な招喚でも彼を殺そうとする罠がしかけられているだろうというのだった。

 

 だがもっとも悪いことには、「白軍反革命の危機」が深刻になり、デニキンはコーカサス大隊の到着によってマフノ戦線に相当の援軍を受けることになったちょうどそのとき、ボリシェヴィキ反乱軍への援助物資を完全に断ち切ってしまったのだった。どんなに頼んでも、どんなに警告しても、どんなに抗議しても無駄だった。ボリシェヴィキは早急にその地方の武装力を破壊するために、マフノ戦線を包囲する決意をかためていた。彼らの計画は非常に簡単なものだった。すなわちマフノ軍が自分たちの力でデニキン軍を追い出そうと準備している間に、デニキン軍にマフノ軍を一掃させようというものだった。

 

 まもなくわかるように、彼らの予想は誤っていた。というのも、彼らはデニキンの本当の力、あるいは彼の長距離作戦にまったく気づいていなかったからである。彼はコーカサスやドン地方やクバンで反革命の全面攻撃をもくろんで、主要な分遣隊を決起させていたのである。二、三か月前にはマフノ反乱軍によって黒海と反対の方向へ追いやられたデニキン軍は、精力的に用心深く軍の再編制と武装化と準備にとりかかっていた。彼はグーリャイ=ポーリャの反乱軍が彼の戦線の左翼に危険を与えつづけているので、何をおいてもマフノ軍を打倒してしまわねばならなかった。ボリシェヴィキはこのことを何も知らなかった−というよりむしろ彼らはマフノヴィストとの戦いにすっかり心を奪われてデニキンのことについては知ろうとしなかったのである。

 

 一九一九年五月末、準備を完了したデニキンは、その規模と覇気においてボリシェヴィキのみならずマフノヴィストをさえ驚かすような全面攻撃の第二波を開始した。こうして六月の初め、解放地区と全ウクライナが同時に二方から襲われることになった。()一方はデニキンの強力な攻撃によって南西部から、()またボリシェヴィキの敵対的態度によって北から。ボリシェヴィキデニキン軍にマフノヴィストを一掃させ、ボリシェヴィキの仕事を楽にしようとたくらんでいることは一点の疑いもなかった。

 

 9、革命軍事評議会のウクライナ労働者にたいする呼びかけ

 

 この困難な状況下にあって、情勢の緊迫しているのをみたグーリャイ=ポーリャの革命軍事評議会は、エカテリノスラフ、ハリコフ、へルソン、タヴリーダ、ドネツ盆地の各地方にある数多くの地方の農民・労働者・パルチザン・赤軍兵士の臨時大会を開くよう呼びかけることを決定した。

 

 この第四回大会−大会の準備だけでもドラマティックだった−は六月十五日に開かれた。()デニキンの進軍と、何に対して起ち上がってよいのかさとることもできない()ソヴィエト当局の無能ぶりとのふたつの理由から、この国にかかっている致命的な危機を避けるために、全般的情勢と戦略とを討議することが先決問題だった。

 

 大会は、またその地方の人びとの食料配給問題と全般的な地方の自治の問題も論議しなければならなかった。

 ここに革命軍事評議会がウクライナ労働者に向けて出したこの大会への呼びかけの写しがある。

 

 「労働者、農民および職人代表第四回臨時大会の招集(電報第四一六番)エカテリノスラフ県、タヴリーダ県およびその近隣の地方、地区、コンミューン、村の全執行委員会に告ぐ。

 バッコ・マフノ軍として知られているウクライナの第一反乱軍分隊の全部隊に告ぐ。同地方に駐屯している全赤軍部隊に告ぐ!

 

 五月三十日、革命軍事評議会は執行委員会を開き、白軍の攻撃によって拡大した戦線における情勢とソヴィエト権力の一般情勢−政治的経済的−を論議したのち、解決を見いだすことのできるのは労働者大衆自ら以外にないという結論に達した。これが、グーリャイ=ポーリャ地方の革命軍事評議会の執行委員会がグーリャイ=ポーリャで六月十五日に臨時大会を招集しようと決定した理由である。

 

 選出方法=1、農民と労働者は三千人につき一人の代議員を送る。2、反乱軍と赤軍兵士は各部隊から一人の代表を選出する。3、幕僚・マフノの分隊の幕僚からは二人。各旅団の幕僚から一人。4、地方の執行委員会−ソヴィエトを基盤として認める委員会−は各組織につき一人。

 

 注意a、労働者の代議員の選出は各村、各地区、各工場、各仕事場の総会で行なわれる。b、ソヴィエトの特別集会あるいは種々の部隊の委員会は代議員を送らない。c、革命軍事評議会は便宜を講じられないので各代議員は食料と金を用意してほしい。

 

 会議事項a、革命軍事評議会執行委員会の報告および代議員の報告。b、現情勢。c、グーリャイ=ポーリャ地方の役割と任務と目的。d、グーリャイ=ポーリャ地方の革命軍事評議会の再組織。e、グーリャイ=ポーリャ地方の車事組織。f、食料供給問題。g、農業問題。h、財政問題。i、農民・労働者の連帯。j、公共の安全。k、グーリャイ=ポーリャ地方における裁判。l、新しい仕事。

      一九一九年五月三十一日、グーリャイ=ポーリャにて開催す」

 

 10、トロツキーによるグーリャイ=ポーリャ地方への攻撃命令

 

 この招集状が送られるやいなや、ボリシェヴィキはグーリャイ=ポーリャ地方を攻撃することを決定した。反乱軍が、()デニキンのコサックの猛烈な襲撃に抵抗して死を覚悟で行軍していたが、()一方でボリシェヴィキ連隊は北から反乱地方を侵略し、マフノヴィストの後衛に攻撃をかけてきた。村に侵入したボリシェヴィキは兵士を捕え、その場で処刑した。彼らは自由コンミューンとその他の地方組織を破壊した。

 

 この攻撃を命じたのは、トロツキーその人だった。彼は、()、自立した地方を「彼の帝国」から二、三歩離れたところで許すことはできなかったのだろうか? ()、彼は自由に生活し、彼について恐れも尊敬の念もなしにその新聞の中で単なる国家の一官僚と彼のことを呼んでいる人びとの卒直な言葉をきいて怒りと憎しみを抑えることができなかったのだろうか? ()、フランスその他でいまだに彼の追随者が「偉大なるトロツキー」と呼んでいるが、本当にそうなのだろうか?

 

 このあまり豊かな才能をもっているとはいえないが、数え切れないほどのプライドと敵意をもち、雄弁で論争好きの男は−革命の流産のおかげで−大国の「絶対的な」軍事独裁者になったが、()この「神人」は、彼が個人的な敵と考え、そのように扱っている「アナルコ山賊」に影響され、援助された自由な人びとを隣人として寛恕することができないのだろうか?

 

 だがそれほどうぬぼれが強くなく、悪意のない政治家であってもやはり彼と同じように行動したことであろう。レーニンと完全に一致して行動したということをわれわれは忘れることはできない。

 

 マフノヴィチナに対して彼が発した多くの命令のどの文章にも限りない誇りと湧き立つような怒りが見られた。まず第一に、グーリャイ=ポーリャの革命軍事評議会の招集に応えて出されたトロツキーの有名な法令第一八二四をここに載せよう。

 

 「共和国の革命軍事評議会の法令第一八二四。一九一九年六月四日、ハリコフ。

 すべての軍事人民委員に告げる。すべての行政人民委員に告げる。アレクサンドロフスク、マリウポリ、ベルディヤンスク、バフムト、パヴログラード、へルソン地方のすべての執行委員会に告げる。

 

 マフノ旅団の幕僚と協同して、グーリャイ=ポーリャの執行委員会は、今月の十五日、ソヴィエトおよびアレクサンドロフスク、マリウポリ、バフムト、ベルディヤンスク、メリトポリ、パヴログラード地方の反乱者の大会を呼びかけようとしている。この大会は、あきらかに、ウクライナにおけるソヴィエト権力への反対と、マフノ旅団が駐屯している南部戦線の組織への反対を目ざしているものである。この大会はグリゴリエフの反乱と同様、新たな恥ずべき反乱の高揚と白軍への道を開くこと以外のどんな結果もまねくことはありえないだろう。そして白軍の指導者の執拗な奸計と裏切りのためにマフノ旅団は絶え間なく後退しなければならなくなるであろう。

 

 1、法令によりこの大会は禁止される。どのような場合にも開催することはできない。

 

 2、すべての農民と労働者に、この大会への参加はソヴィエト共和国と戦線への重大な裏切り行為であることを、口頭であるいは印刷物で警告しなければならない。

 

 3、この大会のすべての代議員はただちに逮捕され、ウクライナの第十四軍(前第二)の革命軍事裁判にひきだされるであろう。

 

 4、マフノとグーリャイ=ポーリャの執行委員会の招集を宣伝した者は、同様に逮捕される。

 

 5、本法令は電報で打たれると同時に法の力をもつであろう。これは広くあらゆる公的な場所に配布され、はりだされ、またソヴィエト当局の代表や軍隊の指揮官や人民委員に送られる。

 

     共和国革命軍事評議会議長トロツキー

     最高司令官ヴァツェティス

     共和国革命軍事評議会委員アラロフ

     ハリコフ地方握事人民委員コチカレフ」

 

 アルキノフは言っている。「この文書は真に階級的なものである。ロシア革命を研究しようとする人はだれでも記憶しておくべきである。それは労働者の権利のはなはだしい侵害をあらわしているから、この問題についてこれ以上説明する必要はないくらいである。」

 

 「彼ら自身よりももっと革命的な人びとすべて法の外にほうりだすような法令が、革命家と自称する人びとによってつくられるなどということがあり得るだろうか?」 これはドゥイベンコへの有名な返答の中で二か月ほど前に革命的農民が出した質問のひとつである。トロツキーの法令第二項は、そのような法令があり得ること、また法令第一八二四はそのよい例であることを示している。

 

 同じ文書の中でグーリャイ=ポーリャの革命家たちは質問している。「『革命家』の約束したもの、すなわち自由と平等を『革命家』の許しなしに革命的大衆たちが手に入れたという理由だけから、革命的大衆の保護者だと自称する『革命家』に、その革命的大衆をもつとも厳しく罰する権利を与えるような命令があるだろうか?」 同じ第二項はこの問いに対し、しかりと答えている。純粋な農民や労働者が彼ら自身の大会に参加した場合にも、ひどい裏切りを犯したものと宣言されているのである。

 

 「彼を選出した革命的大衆から与えられた命令を遂行しなければならないと信じているという理由で、代議員を銃殺するという革命の法令があるだろうか?」 トロツキーの法令(第三項と四項)は選出者の命令を実行しようとする代議員ばかりでなく、まだ実行していない代議員をさえ逮捕し、「革命軍事法廷」にひきだすと宣言している。この軍事法廷にひきだされるということは死刑の判決を受けたに等しいということを強調しておかねばならない。数人の若い革命的農民、コスティンとポローニンとドブロルボフその他は、グーリャイ=ポーリャの革命軍事評議会の招集について討議した科で、軍事法廷にひきだされ、銃殺された。

 

 ドゥイベンコへの質問状の中で反逆者たちは、トロツキーの法令第一八二四を予見したといえる。たとえこうした事態にならないとしてもやはりその質問状は彼らの偉大な眼識を示しているといえよう。

 

 11、トロツキー命令内容への反論

 

 トロツキーは、グーリャイ=ポーリャで起こっていることが、すべてマフノ個人の責任であると考えた。彼はその大会を招集したのは「マフノ旅団」の幕僚でもなく、グーリャイ=ポーリャの執行委員会でもなく、このふたつとは完全に独立した機関、すなわち地方革命軍事評議会であることを知るだけの努力もしようとしなかった。

 

 この法令の中で、トロツキー白軍の前でたえず後退しつづけるマフノヴィスト指導者の裏切り」とくどくどしく非難をあびせていることは意味深いことである。彼はデニキン軍進撃のまさにその前夜に、マフノ旅団への武器弾薬の援助を停止するよう、自ら指令したことをつけ加えておくのをすっかり忘れている。これは戦略だった。これはまたひとつの信号でもあった。二、三日するとトロツキーと全コミュニスト紙は、デニキン軍への開戦はみせかけのものであると述べたてた。

 

 そして、法令第一八二四につづいてたくさんの法令が出され、その中で、トロツキーは軍と赤軍当局へ、あらゆる手段を講じてマフノヴィズムを撲滅するよう命じた。さらに彼は秘密命令を出して、マフノと彼の幕僚たちだけでなく、純粋に教育的活動のみにたずさわっている平和的闘士までも捕えるよう命じた。全員を軍事委員会にひきだし、死刑にするよう指示されていた。

 

 トロツキーは、デニキンに対する戦線反乱農民自身の努力と犠牲によってはじめてできたことを承知していた。

 

 この戦線は彼らの反乱の特に激動的な時期につくられた−その地方があらゆる形の権力から解放されたときに。それは彼らが勝ち取った自由の見張り役として南西部につくられた。六か月以上革命的反乱者たちは専制的反革命のもっとも活発な攻撃に対する不落の防壁を維持した。彼らは数千の人間をそのために失った。彼らはそのためにすべての財を投じて最後まで彼らの自由の守りに備えたのだった。

 

 しかし、トロツキーはすべてを知っていたのだ。だが彼はウクライナの革命的な人びとに対するたたかいを正当化しなければならなかった。そして大仰な皮肉と想像を絶するような不遜と偽善をもってこの戦線を崩壊させた。反乱者たちを、デニキン軍に道を開いた裏切り者と非難することができるために、武器と弾薬を奪い、あらゆる手段をとりあげた*。

 

 * のちにスペインで(一九三六〜三九年)共産主義者は同様の戦略をとった。私が詳細に知っているひとつの例がある。テルエルに率いられたコミュニスト旅団は、約千五百人のアナキスト旅団の横に反フランコ戦線をしいていた。アナキスト旅団を破壊するために共産主義者はひそかに故意に夜のうちに後退してしまった。翌朝、ファシストはその隙間に侵入してアナキスト旅団を包囲した。千五百人のうちたった五百人だけが手榴弾と連発銃を使って突破し、抜け出すことができた。残りの千人の兵士は殺された。次の日、共産主義者はアナキストに対し、フランコに戦線を渡した裏切り者という非難をあびせた!

 

 六月十五日に予定されていた第四回地方大会は開催することができなかった。それ以前すでに、ボリシェヴィキデニキンがその地方で動いていたからだった。

 

 彼らがすでに権力を確立した地域、あるいは彼らが侵入している近隣の地域で、ボリシェヴィキはトロツキーの法令を実施しはじめた。たとえばアレクサンドロフスクでは、評議会の出した招集状と大会の討議事項を討論するために計画された労働者の集会は、すべて死刑を宣告されて禁止された。この法令を知らずに集まってきた人びとは武力で追い散らされた。他の市や町でもボリシェヴィキは同様のことをした。村の農民たちはもっと乱暴に扱われた。あちこちで闘士やまた「反乱者と大会に好意的な行動をする疑いのある」農民までが捕えられ、ほんのおざなりの裁判の後に死刑された。大会の呼びかけを行なった多くの農民は法令第二八二四が出されたのを知るより先に逮捕され、「裁判され」、銃殺された。

 

 マフノ自身も彼の幕僚も、この法令については何の情報も受け取っていなかった。ボリシェヴィキはいきなり彼らを捕えようと考えていたので、あまりすぐに彼らに警告しようとしなかったのである。彼らはそれが公布されて三日ほどしたとき、ほんの偶然にこの法令のことを耳にしたのだった。マフノはただちに反撃に出た。彼は現状からして指揮官としての自分の地位を辞退したいと決意した旨を電報でボリシェヴィキ当局に知らせた。彼らからの返事はなかった。

 

 

 11、ボリシェヴィキのデニキン軍への開戦 (省略)

 12、デニキンに対するマフノヴィストの孤軍奮闘 (省略)

 13、解放地区におけるマフノヴィスト (省略)

 

 

 14、ボリシェヴィキのウクライナへの帰還第2次攻撃 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、伝染病と赤軍兵士との関係

   2、ポーランド戦線への移動指令とその狙い

   3、ドラマの第三幕−共産党権力とのはげしい闘争

 

 1、伝染病と赤軍兵士との関係

 

 十一月の終わり、ロシア中に拡がった恐しい伝染病が反乱軍をも襲った。半数がそれにかかり、死亡率は高かった。そのため、十一月の末にボリシェヴィキに追われてクリミヤへ後退していたデニキン軍の主力にエカテリノスラフ市を攻撃されたとき、マフノヴィストはやむを得ずエカテリノスラフを放棄しなければならなかった。

 

 反乱軍はエカテリノスラフを発ってメリトポリとニコポリとアレクサンドロフスク市にまたがる地方で編制し直した。アレクサンドロフスクで、マフノヴィスト幕僚は、一九一九年十二月末、デニキンを追跡してきた赤軍の数個師団の高級指揮官に追い付かれた。すでにしばらく前からマフノヴィストはこうしたことを予期して、その新しい事態の中では衝突より、むしろ友好的な集会をもつベきであると考え、何の警戒もしていなかった。

 

 その大会は前に行なわれたいくつかの大会と少しも変わりなかった。嵐や奇襲−われわれはそれの起こるのを待っていた−を内に隠して、外見上は友好的で心のこもったものだった。ボリシェヴィキは、赤軍を離れ、数個の赤軍連隊を連れてマフノヴィスト投降したつい先ごろの打撃を恨めしい苦々しさで思い出しているにちがいなかった。また彼らが、権力を認めない自由軍や全地域の自立した運動の味方でいることに長く耐えられるはずもなかった。遅かれ早かれ、衝突は避けがたいであろうし、ボリシェヴィキが最初の好機を見つければ、たちまち攻撃をかけてくるだろうことは確実だった。マフノヴィストの方ではこの状況をいくらか承知していたから、彼らは一方で平和的に友好的に双方の相異を和解させようとしながら、他方で不信の念を決して捨てようとしなかった。

 

 しかしながら、両軍の兵士は互に友好的なあいさつをとりかわし、戦士たちは握手をかわして大会が開かれた。彼らは共通の敵−資本主義と反革命−に対してともに戦おうと宣言した。赤軍の数部隊はマフノヴィスト戦列に加わりたいという意向さえ示した。

 

 2、ポーランド戦線への移動指令とその狙い

 

 八日ほどのちに、嵐が勃発した。「反乱軍の指揮官」−マフノ−は、赤軍の第十四軍の革命軍事評議会から、反乱軍ポーランド戦線へ移動させよ、との指令を受けた。

 

 これはマフノヴィストに対する新たな攻撃の第一弾であることにだれもがすぐに気づいた。ポーランド戦線へ行け、という指令だけで多くの説明を要しなかった。まず第一に、反乱軍は第十四軍の統率下にあるものでもなく、赤軍の他軍の統率下にあるのでもなかった。赤軍司令官は、デニキン軍との戦いを独力でになった反乱軍に指令を出す権限などもっていなかった。そのうえ、この指令を友好的に受けとってポーランド戦線へ出発するとしても、隊の半数と指揮官や幕僚やマフノ自身も病気にかかっていたので実際的に無理だった。

 

 そしてまた、反乱軍の戦闘力や革命的有効性は、ポーランド戦線におけるより彼ら自身の土地でウクライナにおいて明らかにずっと大きかったのである。ポーランド戦線では、地方色の強い人びとにとって親しみにくい未知の環境では、この軍は何かわからぬ目的のために戦わなくてはならない。こうした趣旨でマフノヴィストは赤軍司令官の指揮に答え、はっきりそれを拒絶したのだった。

 

 だが両者とも提案が、そしてそれへの返答も、純粋な外交手段であることをよく承知していた。その中に何が隠されているか、だれもが知っていた。反乱軍をポーランド戦線に送るということは、ウクライナにおける革命運動の神経中枢を切り落とすことを意味していた。それはまさにボリシェヴィキの望むところだった。彼らはその地方の絶対的な主人となることを望んでいた。もし反乱軍が従順だったとしても、彼らはもくろみを実行しただろう。拒否した場合にも、彼らはやはり同じ結果を招くような(彼らはそう望んでいた)脅迫をあらかじめ用意していたのだった。マフノヴィストはこのことを知って、その一撃をかわす準備をした。

 

 マフノヴィストの拒否に対する返答はまもなくやってきた。が、反乱軍は先制攻撃をし、目前の流血を避けることができた。彼らが赤軍本部に返答を送ると同時に、彼らは赤軍の兵士に向けてアピールを行ない、赤軍指導者の挑発的な計略にだまされないよう呼びかけた。これだけのことをすると、彼らはキャンプをたたみ、白軍が撤退していったばかりでどんな権力も存在しないグーリャイ=ポーリャへ向けて出発した。彼らは無事に到着し、しばらくの間、赤軍は彼らの行動に反対しなかった。主力軍の後衛にのこって二、三のあまり重要でない分隊とばらばらになっていた幾人かが、ボリシェヴィキによって投獄されただけだった。だが二、三週間後の一九二〇年六月半ばには、ボリシェヴィキ軍はマフノとマフノ軍の兵士に対し、ポーランド戦線へ行くことを拒否した不法者と宜言した。

 

 3、ドラマの第三幕−共産党権力とのはげしい闘争

 

 ドラマの第三幕がはじまった。それは九か月つづくマフノヴィストと共産党権力とのはげしい闘争だった。詳しく述べることはやめて、双方ともに無残な戦いだったというだけにとどめておこう。赤軍兵士とマフノヴィストの間に、あるいは生じたかもしれない友好的な関係をつくらないために、ラトヴィア人の狙撃師団と中国人の数分隊を送った。つまりこれらの隊の兵士はロシア革命の真の意味を少しも知らず、ひたすら彼らの指導者の命令に従うことにのみ汲々としている人びとだった。ボリシェヴィキの側では信じがたいような欺瞞と残酷さで戦いが行なわれたのだった。

 

 赤軍が十倍の数に増加したので、マフノ分隊とマフノ自身は、巧みな策戦と人びとの助けによって、たえず彼らの攻撃圏内にはいらぬよう注意していた。それと同時にボリシェヴィキ高級指揮官も、反乱軍に戦闘を開始することを慎重に避けていた。多数の斥侯を使ってボリシェヴィキは、マフノヴィスト分隊が弱いかあるいはいない村や地域をさぐりだした。彼らはこうした無防備の村落を攻撃し、ほとんど戦わずに占領した。こうしてボリシェヴィキは数か所を確保し、その地方の自由の発展を阻止することができた。

 

 彼らが確保した所はどこでも、反乱軍とではなく、一般の農民と戦いを交えなければならなかった。大量逮捕と死刑がすぐにはじまり、デニキニストの抑圧も、ボリシェヴィキの前では影が薄かった。反乱民との戦いについて言及すると、当時の共産党紙は、敗北し捕えられ銃殺されたマフノヴィストの数をあげていた。だが共産党紙はいつも反乱軍兵士の問題だけではなく、マフノヴィストを応援したと確証された。あるいは嫌疑のある村人たちの問題を載せようとしなかった。

 

 赤軍が村に到着するとたちまち多くの農民逮捕され、マフノヴィスト反乱民ないし「人質」として投獄され、その多くは銃殺された。グーリャイ=ポーリャの村は何度も端から端へ通り抜けられた。当然そのたびにくりかえしボリシェヴィキに侵略され、村に生き残った人はすべて恐ろしいコミュニストの抑圧行為について語ることができた。もっとも穏やかに見積って、二万の農民と労働者が、当時のウクライナにあったソヴィエト当局によって銃殺されたりあるいは傷めつけられた。またそれと同じくらいの人数の人間が投獄されたり、シベリアその他へ追放された。

 

 マフノ自身も病気で、ときには意識を失いながら彼を追跡する敵の手にあやうく陥るのをまぬがれたことが一度ならずあった。ボリシェヴィキのテロ行為に対して、彼らはそれに劣らぬはげしい攻撃で応えた。敵に対して彼らが前にヘトマン・スコロパツキーとの戦いにつかっていたゲリラ作戦を用いた。赤軍捕虜を捕えるとその兵士の武装を解き、自由にしてやった。その兵士が強制的に戦場へ送れてきたのを知っていたからだった。マフノヴィストとともに戦うことを希望するこうした兵士たちは喜んで迎えられた。だが指揮官や人民委員や党の幹部は、ひらの兵士たちが武力を用いないでくれととくに訴えるだけの理由のあるときは別として、ほとんど助かることはできなかった。マフノヴィストのだれであろうとボリシェヴィキの手中に落ちたら、まちがいなくその場で殺されたということを思い出してみる必要があろう。

 

 ソヴィエト当局とその手先はいつもマフノヴィストが非情な殺し屋だとか信念を持たぬ無頼の盗賊であるようにしばしば書いた。彼らはこれらの「犯罪」の犠牲になって殺された赤軍兵士と共産党員の長いリストを発表した。だが彼らはこれらの犠牲者は、共産党員自身が開始し促進した戦いの中で倒れたのだという根本的事実についてはいつも黙して語らなかった。

 

 ボリシェヴィキ政府にとってもっとも厄介なことのひとつは、マフノが生きておりまだ捕えることもできないという情報だった。彼をおさえるのはその運動を鎮圧したに等しいと彼らは信じていた。だから、一九二〇年の夏中彼らはマフノを殺そうと無駄な努力をつづけた。

 

 アルキノフは述べている。「一九二〇年以来、ソヴィエト当局はマフノヴィストを山賊とみなして戦いつづけた。彼らは国民を説得しようと新聞やすべてのプロパガンダの方法を用いて、ロシアの内外にまで中傷をおしつけようと強力なアジテーションを行なった。

 

 それと同時に、狙撃兵と騎兵の多数の師団を反乱軍に送り、運動を破壊し、運動している人たちをほんとうの山賊であるかのように断末魔に追いやろうとした。投獄されているマフノヴィスト無慈悲に殺され、その家族−父親、母親、妻、親戚−は拷問されたり、殺されたり、財産を奪われたり、没収されたり、また家を壊されたりした。こうしたことが大規模に行なわれた。

 

 当局によって毎日のようになされるこれらのテロ行為に面し、反乱民の厳しい革命的な立場をそのまま持ちつづけ、絶望して山賊の境遇に落ちぬようにするためには、反乱民大衆の超人問的な意志と英雄的な努力を要した。だが大衆は勇気を失わず、彼らの革命旗はうなだれることなく、最後まで彼らの仕事に対する信念を持ちつづけた。

 

 この困難でも苦しい時代にそうした人びとの態度を見た人にとって、この光景はひとつの純粋な奇跡であり、これらの労働者大衆の革命に対する信念がいかに深いものであり、彼らが抱き、勝ち取ろうとする目的への憧憬がいかに強いものであるかを如実に示していた。」(前掲書、二七三〜二七四頁)

 

 一九二〇年夏の終わり、マフノヴィストは赤軍に対してでなく、ボリシェヴィキの全制度に対して、ロシアとウクライナの政治権力すべてに対して戦わねばならなくなった。日に日にこの戦いははげしくなり、拡大されていった。こうした状況の中で反乱軍は、しばしば彼らの陣地を離れ、三キロ以上も強行軍しなければならなかった。あまりに数において圧倒的な敵との会戦を避けるために、またときには、ドネツ盆地に後退したり、ときにはハリコフやポルタヴァまで後退しなければならないこともあった。こうしたやむを得ない放浪の旅はプロパガンダの目的のためにはかなり役に立った。彼らが一日か二日とどまった村は必ずマフノヴィストの広い傍聴席となった。

 

 とくに反乱軍の困難な立場のために、自身の組織を完全に作り上げることができなかったということをつけ加えておかねばならない。デニキンが敗北し、反乱軍が故郷に帰還したのち、革命的(マフノヴィスト)反乱民の評議会がつくられた。それは軍の各部隊からの代表によって構成され、かなり整然と活動した。それは厳密に軍事行動に関する問題だけを取り扱った。

 

 一九二〇年の夏中、軍は今までになく不安定な苦しい状況に追い込まれ、そのような機関はわずらわしいものになってしまい、満足に機能を発揮することができなかった。そこで反乱民大衆によって選ばれ承認された七人で構成されたもっとも小さな評議会におきかえられることになった。この評議会は三つに区分された−軍事的な諸事および作戦、組織および一般的管理、教育・宣伝および文化

 

 

 15、ヴランゲリ・ツァーリスト派遣軍の敗北 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、ドラマの第四幕−ヴランゲリの遠征とボリシェヴィキの術策

   2、ウクライナのソヴィエト政府とマフノ軍との政治・軍事協定

   3、マフノヴィスト反乱軍司令官は、ソヴィエト政府に第四条の特別項目を提出

   4、マフノヴィスト軍によるヴランゲリへの攻撃開始とヴランゲリの敗北

 

 1、ドラマの第四幕−ヴランゲリの遠征とボリシェヴィキの術策

 

 いまやわれわれのドラマの第四幕であるヴランゲリの遠征がはじまった。ツァーリストの元将校であるヴランゲリ男爵が白色革命運動の先頭に立って、デニキンと入れ替わった。同じ地域で−クリミヤ、コーカサス、ドン、クバン地方−彼はデニキン軍の残党を再び糾合し、再編制した。彼は成功し、人民を数回にわたってかりだし、彼の基本部隊を援軍させた。ボリシェヴィキの残虐な警察力は、しだいにボリシェヴィキに反対する社会の広い区域に向けられていたので、ついにヴランゲリはよく組織された完全な帝国軍をつくるのに成功した。

 

 一九二〇年の春から、ヴランゲリは真剣にボリシェヴィキ絶滅にとりかかった。ヴランゲリは彼の前任者であるデニキンより賢く巧妙だったから、じきに危険な存在となった。真夏までに彼が上方の方面の獲得に手をつけるであろうことは確実だった。彼はゆっくりではあるが、確実に押してきて、まもなく彼の進軍はドネツ盆地全体に深刻な脅威を与えるようになった。ボリシェヴィキは困難に陥り、ポーランド戦線では敗北をこうむり、革命全体が再び危険に落ち込んだ。

 

 デニキンによる攻撃のときのように、マフノヴィストは彼らの能力の限りをつくして、ヴランゲリと戦おうと決定した。だがそのたびに赤軍が背後から彼らをおどしたので、彼らは戦線を放棄して後退しなければならなかった。こうしてたとえば、()彼らを「山賊」とか「クラークの味方」とか呼びつづける一方で、()マフノとヴランゲリとの間に同盟が結ばれたというでっち上げを流布し、()ハリコフ政府の代表は、エカテリノスラフ・ソヴィエトの総会で、当局はこの同盟の証拠をもっていると宣言した。これらの手続きはすべてボリシェヴィキらにとって、()「政治闘争における術策」だった。

 

 マフノヴィストは、ますます脅威的になったヴランゲリの進軍を黙って見ていることはできなかった。彼らは彼の勝利を確実にし拡大する時間を与えないために、猶予せずに彼と戦うことが重要なことであると考えた。だが共産主義者に対しては何かする必要があるだろうか。第一に、彼らはマフノヴィストの行動を阻んだ。第二に、彼らの独裁は労働者にとってヴランゲリのそれと同じくらい悪い敵である。

 

 あらゆる点からの問題を検討した結果、反乱軍評議会と軍の幕僚は、なかでも、ヴランゲリは革命という見地から第一の敵であるということ、またボリシェヴィキとは理解しあうよう努力する必要があることを決めた。そうしてから、その問題は反乱民大衆の前に出された。反乱民たちは大会でヴランゲリを完全に潰滅させることが大切な課題であることをとりきめた。集会は評議会および幕僚の意見と一致した。共産主義者に対しては、彼らとマフノヴィストとの間の敵対を、ともにヴランゲリを絶滅するために慎むべきであることを提案するよう決定した。

 

 七月と八月、評議会と反乱軍司令官の名でこの要旨をまとめた急報がモスクワとハリコフに送られた。返事はなかった。共産主義者はマフノヴィストに対して戦いを続け、戦争をしかけようとし、彼らを中傷した。

 

 九月、共産主義者はエカテリノスラフをあきらめねばならなかった。ほとんど抵抗を受けずにヴランゲリはベルディヤンスクとアレクサンドロフスクとグーリャイ=ポーリャとシネルニコフをとった。イヴァノフという男を団長とする全権使節団共産党中央委員会から、マフノヴィストが当時駐留していたスタロベルスクへやってきたのは、ちょうどそのときだった。彼らはヴランゲリに対する共闘の問題を交渉するためにやってきた。さっそく交渉が行なわれた。マフノヴィストとソヴィエト当局の間に予備的な軍事、政治上の一致をみた。この目的と、つづいてボリシェヴィキ幹部との接触を持つために、ブダノフとポポフがハリコフにきた。

 

 2、ウクライナのソヴィエト政府とマフノ軍との政治・軍事協定

 

 一九二〇年十二月十日から十五日までの間に、一致をみた条項が決定され、当事者である二つの党によって採用された。簡潔にしたいと思うがその内容が非常に明確であり、この契約の結びからひきつづく諸事件を理解し、その真価を認めるためにはこの協定の全文を読む必要があるのでこの歴史的文書の全文を掲げておこう。

 

 「ウクライナのソヴィエト政府および革命的反乱(マフノヴィスト)軍との間にとりかわされた政治および軍事に関する予備的協定

 第一部−政治協定

 

 1、投獄ないし、ソヴィエト共和国の辺境地帯へ追放されているマフノヴィストアナキストを全員、ただちに釈放すること。(ただし、ソヴィエト政府と武力衝突を行なう者はこの項に該当しない。)

 

 2、ソヴィエト権力の暴力的転覆を要求するような者は例外として、また軍事的検閲の要求を尊重することを条件に、マフノヴィストやアナキストが思想や主義を言論、出版によってあらゆる形式で公けに表現し、宣伝することのできる完全な自由。あらゆる種類の発表についてはマフノヴィストアナキストは、ソヴィエト政府によって認められた革命的組織のようなソヴィエト国家の技術的機関を使用することができる。ただし、発表方法の規則は守らねばならない。

 

 3、ソヴィエト選挙への自由参加とマフノヴィストとアナキストの被選挙権十二月に行なわれることになっている第五回全ウクライナ・ソヴィエト大会への参加

 

  (ウクライナ社会主義共和国のソヴィエト政府の委任により) ヤコレフ

  評議会全権委員およびウクライナ革命的反乱(マフノヴィスト)軍司令官 クリレンコ、ポポフ

 

 第二部−軍事協定

 

 1、ウクライナの革命的反乱(マフノヴィスト)軍は、車事行動に関して赤軍の最高司令の下にパルチザン軍として共和国の軍隊に参加するであろう。マフノヴィスト軍はその内部構造を保持するが、赤軍正規軍の基本原則を採用しなければならない。

 

 2、前線において、あるいは前線間を通過する際に、ソヴィエト領を横断する場合、反乱軍は、赤軍の部隊もあるいは脱走兵も戦列に加えないであろう。

 注意

 a、赤軍部隊もまた、ヴランゲリ戦線の後衛で反乱軍と会い、それに参加した孤立した赤軍兵士も、赤軍に再会した場合には再び赤軍の戦列に戻ること。

 b、ヴランゲリ戦線の後衛にいるマフノヴィスト・パルチザンも反乱軍内のすべての人びとも、赤軍から動員命令を受けていたとしてもそのままそこにとどまること。

 

 3、共通の敵−白軍を打倒するためにウクライナの革命的反乱(マフノヴィスト)軍は、成立した同意書に協力する労働者大衆に、その同意書はソヴィエト権力に対するあらゆる敵対行動をやめるよう呼びかけていることを知らせる。そのため、ソヴィエト当局はすぐに同意書の条項を印刷する。

 

 4、ソヴィエト共和国領に住んでいる革命的反乱(マフノヴィスト)軍戦士の家族は、赤軍兵士の家族と同等の権利を持つ。このために、ウクライナのソヴィエト政府は必要な文書を発表する。

 

    南部戦線司令官 フルンゼ

    南部戦線革命評議会委員 ベラ・クン、グーセフ

    評議会全権委員およびウクライナ革命的反乱(マフノヴィスト)軍司令官 クリレンコ、ポポフ

 

 3、マフノヴィスト反乱軍司令官は、ソヴィエト政府に第四条の特別項目を提出

 

 右に述べた政治協定の三項目につけ加えて、評議会全権委員とマフノヴィスト反乱軍の司令官は、ソヴィエト政府に次のような第四条の特別項目を提出した。

 

 「マフノヴィスト運動の根本的原則は労働者の自治のための戦いである、ということは、次の第四番目の点が示す通りであると反乱軍は考える。『マフノヴィスト軍が行動している地域では、労働者と農民は経済的、政治的自治のために彼ら自身の自由な機関を創設する。これらの機関は自主的なものであり、連合によって−同意の方法によって−ソヴィエト共和国の政治組織に参加するものである。』」

 

 実際問題としては、それはウクライナ共和国と連合関係を保ちながら、完全に自由に社会的実験を遂行していくことのできるウクライナの二、三の地区をマフノヴィスト反乱民の手に維持しておくという問題でもあった。この特別項目は、署名された協定の一部をなしてはいなかったが、マフノヴィストは当然、それに非常な重要性をおいていた*。

 

 * マフノヴィストとの契約を終わってから、ボリシェヴィキは中央軍事人民委員部を通じて、()マフノはヴランゲリと会戦しなかったこと、()流布された声明は誤報にもとづいた誤りだったと、あえて発表したことを見落してはならない。これらの宣言は、一九二〇年十月二十日、『プロレタリアン』およびその他のハリコフの新聞に「マフノとヴランゲリ」という題で中央軍事人民委員部から出された。

 

 さっそく、この協定を詳細に検討してみる必要があろう。それはふたつの対立する傾向を明瞭に示している。ひとつは国家主義的で権威者の特典や特権を擁護するものであり、もうひとつは大衆的・革命的で、抑圧された大衆の要求を擁護するものである。協定の第一部−政治的条項を含み、労働者の当然の権利を要求している−はマフノヴィスト側の同意のみから成っている。このことについてソヴィエト当局は専制時代そのままの古典的態度をつづけている。つまり彼らはマフノヴィストによって正式にきめられた要求を制限しようとし、すべての党に協定をもうけ、労働者農民の権利、すなわち彼らの真の自由にとってゆずることのできない、必須の権利をできるかぎり、制限しようとした。

 

 種々の口実をもうけて、ソヴィエト当局はこの協定の印刷を延ばした。マフノヴィストは、どうも、さいさきがよくないらしいのを感じ、ソヴィエト当局の誠意が欠けていることに気づいたので、この協定が発行されないかぎり、反乱軍はその頃に沿った行動をとることはできない旨、厳重に伝えた。ソヴィエト政府はこのような直接的な圧力がかけられたのちに、ようやく協定を印刷することに決定した。だが彼らは全文を一度に印刷しなかった。最初第二部(軍事協定)を、そしてしばらくおいて第一部(政治協定)を公表した。協定の真の意図はこのたあいまいになった。

 

 4、マフノヴィスト軍によるヴランゲリへの攻撃開始とヴランゲリの敗北

 

 読んだ者の、大部分はそれを正確に理解しなかった。これはボリシェヴィキの望むところだった。政治についての特別項目(第四の)に関して、ウクライナ当局は、この問題についてはモスクワと相談しなくてはならないという口実の下にその協定から切り離した。十月十五日と二十日の間、マフノヴィスト軍はヴランゲリ攻撃を開始した。戦場はシネルニコフから、アレクサンドロフスク−ポログァイ−ベルディヤンスクまで拡大された。攻撃の鉾先はペレコープだった*。

 

 * ペレコープは、クリミヤに近い島と本土とを結ぶ非常に狭い小山の多い地峡である。

 

 第一戦で、ペレコープとオレコフ市の間にボロツドフ将軍に指揮されたヴランゲリ軍の重要な友軍敗北させ、四千人の兵士捕虜にした*。三週間のうちにこの地方はヴランゲリ軍から解放された。ヴランゲリ軍はクリミヤ半島後退し、十一月のはじめに、マフノヴィスト赤軍とともに、すでにペレコープを前にしていた。

 

 * このとき、マフノは電報で、チューペンコと私を即時釈放するよう要求した−私は一九一九年十二月末投獄されていた。このとき、ボリシェヴィキはマフノヴィスト軍の戦闘的人間として私を賞賛した。

 

 二、三日後に、赤軍とともにペレコープを封鎖したマフノヴィスト軍の一部は、幕僚の命令に従ってペレコープ地峡の左翼へ三十キロメートル進み、凍結しているシヴァチ海峡の氷上を渡った。マルトチェンコ(グーリャイ=ポーリャ生まれの農民アナキスト)の率いる騎兵隊が先頭に立ち、それにつづいてコジン(革命的農民であり非常に勇敢な指揮者)の率いる機関銃連隊が進んだ。海峡を横断する間、敵は絶え間なくはげしい砲火をあびせてきてたくさんの犠牲者が出た。また、シモン・カレトニク(これもグーリャイ=ポーリャ出身のアナキスト農民)の指揮の下に、クリミアンというマフノヴィスト軍部隊は、十一月十三、十四日にはげしい攻撃を受けたシムフェロポリへむけて右翼へ移動した。その間、赤軍はペレコープを降服させた。シヴァチ海峡を渡ってクリミヤにはいり、ヴランゲリの包囲をペレコープの山峡から除去するためにクリミヤの奥地へ退却させた。それによって、マフノヴィストはこれまで難攻不落といわれていたペレコープ地峡を占領するのに多大の貢献をしたことは、動かすことのできない事実だった。ヴランゲリの冒険的試みは終わった。ヴランゲリの残党は大急ぎでクリミヤの南岸から海を渡って外国へ逃げた

 

 

 16、ウクライナの反乱地区における建設活動の新しい試み (全文)

 

 〔小目次〕

   1、グーリャイ=ポーリャの位置づけ

   2、ソヴィエトの組織づくりと学問指導や公共教育

 

 1、グーリャイ=ポーリャの位置づけ

 

 エカテリノスラフを放棄し、ボリシェヴィキと二度目の接触をし、つづくヴランゲリの遠征にともなう軍事的事件によって、再び反乱地区の労働者大衆側のあらゆる創造活動が妨害されたということは今までに述べた。しかしながらグーリャイ=ポーリャ村だけは例外だった。

 

 ここでグーリャイ=ポーリャという一村が実際にはひとつの市であり、市といってもかなり大きい市であるということに注意しておく必要がある。たしかにそのことを考えれば、構成人口がほとんど農民ではあったが、二万から三万の住民をもっていた。村にはいくつかの小学校とふたつの高校もあった。村の生活は活気があり、人びとの精神は非常に進歩していた。いく人かの知識人たち−教師や教授その他−もしばらく前から村に就任していた。

 

 デニキンに対するはげしい戦いの間、ボリシェヴィキヴランゲリは何回も何回もグーリャイ=ポーリャを占領し合ったにもかかわらず、また協定を無視してソヴィエト政府がその地方を半分包囲しつづけ、労働者の自由な活動を妨げるためあらゆる工作をしたにもかかわらず、グーリャイ=ポーリャに定住しているマフノヴィストの活動的中核は、村中の援助と熱狂的な支持によってエネルギッシュな建設活動をつづけた。

 

 

 2、ソヴィエトの組織づくりと学問指導や公共教育

 

 まず第一に、彼らは自由地方労働者ソヴィエトの組織づくりを行なった。このソヴィエトは、この地方の新しい経済的生活、あらゆる政治権力から独立した自由と平等の原則にもとづいた生活の基礎となるものだった。この目的のためにグーリャイ=ポーリャの住民はいくつかの予備集会を組織し、ソヴィエトを創設した。このソヴィエトは二、三週間機能を発揮したのち、ボリシェヴィキによって壊された。同時に、反乱民評議会は「自由ソヴィエトの基本法」を起草し公布した。

 

 彼らは、また学問の指導や公共教育も熱心に活発に行なった。この仕事はたびたびの軍事的侵略のために教育の分野がすっかり反動化していたので、急を要するものだった。教師たちは長い間、報酬ももらえなかったので四散してしまっており、学校の建物はすっかり荒れ放題になっていた。このような悪状況の中でマフノヴィストとグーリャイ=ポーリャの全村民は教育制度の再建の仕事にとりくんだ。

 

 とくに注意しなければならないことは、この仕事をするうえで率先者たちが基本とした指導的思想である。それらは次のようなものである。

 

 1、労働者自身が労働者青年層の教育課程を監督する。

 

 2、学校はたんに必要な知識の源泉であるだけでなく、真の人間社会を目ざして戦うことのできる、またそれに従って生活し、活動することのできる自覚した自由な人間を延ばす手段でもある。

 

 3、これらのふたつの条件を満たすために、学校は自立したものでなければならず、それゆえ教会と国家から切り離す

 

 4、青年教育はこの目的に必要な能力と態度と知識その他をもった人びとの仕事である。これも当然、労働者の実際的なゆるぎない管理の下におかれる。

 

 グーリャイ=ポーリャには、フランシスコ・フェレル*の近代学校の教義の支持者であるいく人かの知識人がいた。彼らの指導の下に活発な運動が発展し、広範な教育事業の計画がすぐにはじめられた。農民と労働者は、村やその周囲全部の学校のために必要な教職員を確保することをくわだて、農民と労働者と教師などから成る混合委員会をつくり、教育上、学問上の生活と同時に教師の経済生活の必要を満たす仕事にたずさわった。この委員会は記録的な速さで自由教育の計画案を起草した。それはフランシスコ;フェレルの思想に鼓舞されたものだった。それと同時に成人のための特別コースがつくられ、「政治」学科というより、むしろ社会とか思想学科といってもよいようなクラスが開講された。

 

 以前、教師としての活動をあきらめてグーリャイ=ポーリャを去っていった多くの人びとがまもなく返り咲き、元の位置についた。一方、他所に暮らしていた多くの専門家がその運動に参加するために村にやってきた。このようにして教育の仕事は新しい基礎の上に再開された。新しい思想に鼓舞された演劇の公演も復活したということもつけ加えておこう。

 

 大衆のこの創造的精神は、すべて一九二〇年十一月二十六日に、全ウクライナに勃発した新たなすさまじいボリシェヴィキの攻撃によって無残に破壊された。

 

 * フランシスコ・フェレル(一八五九〜一九〇九)。スペインのアナキスト革命家、教育者。一八八五年カタロニア反乱に参加。一九〇二年に自由思想的教育を行なう「近代学校」を設立。無政府主義者のスペイン国王暗殺計画に参加の嫌疑をうけ、一九〇九年処刑された。政府は全世界から抗議をうけ、内閣も倒れた。−訳者

 

 

 17、ボリシェヴィキのマフノヴィストに対する最後の攻撃第3次攻撃 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、ボリシェヴィキの真意と対応

   2、レーニン指令によるマフノヴィスト・アナキスト・労働者への三度目で最後の戦争

   3、ボリシェヴィキによる第3次攻撃の真相

   4、赤軍総司令部によるマフノ軍への命令

   5、ウクライナにおけるマフノヴィスト攻撃とアナキスト闘士の大量逮捕

   6、逮捕者ヴォーリンにたいするチェカ秘密作戦部長の本音露呈

 

 1、ボリシェヴィキの真意と対応

 

 これらのことが起こったのちには、マフノヴィストの中でボリシェヴィキの革命的誠実さ信じる者は一人もいなくなった。彼らは、ボリシェヴィキがあえてマフノ優遇したのは、ヴランゲリの攻撃が危険だったというただひとつの理由によるものだったことを知っていた。それゆえ、彼らはあきらかにマフノヴィチナに対する新たな戦いの口実を見つけているのだった。協定が堅固なものだとか、持続的なものだとか、信じる者はだれもいなかった。だが総じてマフノヴィストはその同盟が三、四か月はつづくものとみて、マフノヴィストリバータリアンの思想と運動のためのプロパガンダを、エネルギッシュに行なうことのできる時間を利用しようと望んでいた。この望みは空しかった。

 

 ボリシェヴィキ政府がこの協定の条項を採用した方法が、そもそも見落すことのできないあやしいものだった。彼らがこの契約をまじめに、有効的に実施しようという考えをもっていなかったことは明瞭だった。彼らは投獄されていたマフノヴィストとアナキストのうちのほんのわずかな人間を釈放しただけで、あらゆる手段を使ってリバータリアン闘士の思想的活動を妨げつづけた。

 

 マフノヴィストは彼らの軍事的仕事に没頭していたので、しばらくの間、この変則的な状況にとりくむことができなかった。それにもかかわらず、いくばくかのアナキスト活動がウクライナに再び登場した。プロパガンダが復活し、二、三の新聞が再刊された。

 

 リバータリアン思想と運動に対する労働者の興味と傾向は、期待以上のものだった。モスクワの牢獄を出て、ウクライナに戻った私は、毎夜、講義のために行なわれるハリコフのわれわれの集会が満員になるのにびっくりした。そのたび数百人の人が溢れ、ことわらねばならなかった。ちょうど寒さの非常にきびしい季節だったが、多数の人びとが外で半分開かれたドアから聞こえてくる声に一言も聞きのがすまいと耳を傾けていた。

 

 まもなくウクライナ・アナキストの戦列は、大ロシアではボリシェヴィキがマフノと結んだ協定にほとんど注意を向けなかったにもかかわらず、大ロシアからきた多くの兵士によって増大された。そして運動は日増しに強力になった。この成り行きはアナキストのこのような成功に怒ったボリシェヴィキの反動化を急速に促しただけだった。

 

 マフノヴィストは政治についての協定の有名な第四項の効果を重くみていた。彼らはそれを緊急によく検討し、結論を出すことを主張していた。というのは労働者と農民による経済的、社会的自治の権利に対するボリシェヴィキの承認を確保しようと切に望んでいたからである。彼らは、ソヴィエト当局がふたつの可能性のどちらかをとることを要求した。すなわち、件の項目にサインするか、そうでない場合は、彼らがなぜ反対するかを明確に説明すること。

 

 少しずつアナキストのプロパガンダはこの問題に集約されてきた。十一月中旬までにこの第四項は、いたるところで人びとの注意をひき、今後非常な重大性をおびることが考えられた。だがボリシェヴィキの目にはこの項はまったく認めがたいものであることは確かだった。

 

 2、レーニン指令によるマフノヴィスト・アナキスト・労働者への三度目で最後の戦争

 

 このころ、新しい状況の中で実現していくアナキストの活動の模範を確立するために、ハリコフでアナキスト大会を行なうことが計画された。またヴランゲリの冒険の潰減によって確信を強めたレーニンが、マフノヴィストとアナキストに対する新たな攻撃をこっそり準備していたのもこのころだった。そしてそれは彼の有名な秘密電報を次から次へ送ることになった。アナキストがその情報を得たのはあまりに遅かった。

 

 「シモン・カレトニク−彼はクリミヤの反乱軍とともにシムフェロポリへ行軍した−が、グーリャイ=ポーリャへ特派されるやいなや、マフノの副官グレゴリ・ヴァシレフスキーは叫んだ。『これで協定はおじゃんだ。私は一週間のうちにボリシェヴィキが私たちの背後にまわることを賭けよう』。これは十一月十六日に言われたが、同月二十六日ボリシェヴィキは、ずるがしこくクリミヤにいるマフノヴィスト某僚と軍隊攻撃した。彼らは同時にグーリャイ=ポーリャへも攻め入り、ハリコフでマフノヴィストの代表を逮捕し、ハリコフに最近つくられたアナキスト組織をことごとく破壊し、すべてのアナキストを投獄した。その中には大会のためにきていた者もいた。彼らはウクライナ中で同じことを行なった。」(P・アルキノフ、前掲書、二九七〜二九八頁)

 

 このようにして、マフノヴィストとアナキストとウクライナの労働者大衆に対するボリシェヴィキの三度目のそして最後の戦争がはじまった。不公平で執拗な戦い−自由な運動の武力による破壊をともなった−は九か月間つづいた。再び欺瞞とペテンにもとづく野蛮な力が勝利した。

 

 当然、ボリシェヴィキ政府は、さっそくその背信行為の弁解をはじめた。政府は、()アナキストがソヴィエト政府に対する陰謀と大規模な反乱をくわだてていたと弁明し、()マフノはコーカサス戦線へいくのを拒否し、()ソヴィエト当局に反対する軍隊をつくるため、農民の中から軍隊を徴募しはじめていたといって非難した。()、またマフノヴィストはクリミヤでヴランゲリと戦わずに赤軍の後衛を狙い撃ちしていたと宣言した。

 

 これらの弁明はすべてまったく虚偽であることはいうまでもない。だがマフノヴィストとアナキストをだまらせておいて、こうしたことを繰り返すことによって、ボリシェヴィキは外国やロシア国内の多くの人びとにそのことをなんとか信じさせた。

 

 3、ボリシェヴィキによる第3次攻撃の真相

 

 この状況について真実であると確証できるいくつかの状態をあげておこう。

 1、一九二〇年十一月二十三日、マフノヴィストはポログァイとグーリャイ=ポーリャで、赤軍の第四十二狙撃師団に属している九人のボリシェヴィキを逮捕した。彼らはマフノや彼の幕僚や反乱軍の指揮官や評議会メンバーの家のあたりに関する情報をさぐりに、スパイ組織取り締まり機関からグーリャイ=ポーリャへ送られてきたと白状した。この後、彼らは赤軍が到着するまでグーリャイ=ポーリャにいて、彼らが来たらたずねる人間たちがどこにいるかを教えようとしたものと思われた。赤軍が突然到着し、これらの人びとが隠れ家に避難する場合にはこれらのスパイが尾行し、彼らを見失わないようにするものと考えられた。このスパイたちは、十二月二十四日か二十五日までに、グーリャイ=ポーリャが攻撃されるはずだと言った。

 

 革命的反乱民評議会と反乱軍の指揮官は、当時のウクライナの人民委員会議長だったラコフスキーとハリコフの革命軍事評議会にこの陰謀についての詳しい報告を送り、次のことを要求した。()、この陰謀に加わった第四十二師団長とその他の人びとを逮捕し、軍事会議の前で訊問すること。()、不愉快な事件を起こさぬために、グーリャイ=ポーリャ−ポログァイ−マライア=トクマチカ−トルケノフカを赤軍か通過するのを禁じること。

 

 ハリコフ政府からの返事は次のようなものだった。「『陰謀』とみなされるものは単なる誤解にすぎない。それにもかかわらずなおその事件を明らかにすることを望むソヴィエト当局は、特別委員会の手にそれを委ねて調べているので、マフノヴィスト軍の幕僚もこの委員会に参加するために二人の代表を選ぶことを提案する」。この返事は、十一月二十五日に直通電話でハリコフからグーリャイ=ポーリャに送られた。

 

 翌朝、革命的反乱民評議会の書記であるR・リビンはこの問題および異議のある点をすべて直通電話で議論した。ハリコフのボリシェヴィキ当局は、第四十二師団の件はマフノヴィストの満足のいくように確かに解決されるであろうと保証し、政治協定の第四項も満足のいくようなやり方で平和的にとりきめられようとしていることをつけ加えた。

 

 リビンとのこの談話は、十一月二十六日の午前九時に行なわれた。だがそれより六時間ほど早い夜中、ハリコフのマフノヴィスト代表は、ハリコフやウクライナのその他の場所にいたすべてのアナキストとともに逮捕されていたのだった。そして直通電話によるリビンとの話し合いがあってからちようど二時間後、グーリャイ=ポーリャは四方から赤軍にかこまれ猛烈な砲撃を受けた。同日の同じ時刻、クリミヤのマフノヴィスト軍も攻撃された。そこではボリシェヴィキは策略によって、クリミヤのマフノヴィスト軍の司令官であるシモン・カレトニクとともにその全幕僚をうまく捕虜にし、一人残らず殺した

 

 2、私はマフノヴィスト軍の代表とともに、ハリコフにいて、われわれに対して何がたくらまれているのか少しも知らなかったので、私は十一月二十五日、代表としてラコフスキーに会って彼らから直接、協定の第四項について何がなされているのか正確なところを問い質した。ラコフスキーは私を非常に丁重に迎え、彼の事務所に招き入れた。彼は小ぎれいなソファにすわり、何気なく、精巧な紙切りナイフをもてあそびながら、第四項の問題についてのハリコフとモスクワの間での討議は、ほとんど終わったこと、満足な解決を期待できるだけの理由が十分あること、それはほんの二、三日待つだけだろうということを、にこやかに私に確証してみせた。だが彼が私にこのように語っているとき、私たちのすわっている前の机の引き出しには、アナキストとマフノヴィストへの攻撃開始令がはいっていたのである。

 

 その晩、私はハリコフの農業会でアナキズムの講義をした。会場は満員で、講義は非常に遅く午前一時ごろに終わった。私は家に帰って私たちの新聞の記事を少し書き、二時半ごろ床についた。眠りについたかと思うころ突然、無気味な騒音によって起こされた。銃声や武器の鳴り合う音や階段を昇ってくる騒々しい足音がし、ドアをノックしながら叫んだりののしったりした。私には何が起こったのかわかった。私はやっと服を者替えるだけの余裕があった。だれかが猛り狂ったように私の部屋のドアをたたいていた。「開けろ、開けないとドアをたたき壊すぞ」。錠をはずすやいなや私は乱暴につかまれ、ひきずりだされ、すでに何十人もの人が入れられている房へ投げ込まれた。第四項はこのようにして、満足のいく解答を見つけたのである。

 

 3、グーリャイ=ポーリャの攻撃された翌日、十一月二十七日、マフノヴィストは彼らの捕えた赤軍捕虜が、第四軍の政治部の出したマフノに向かって進め!」とか、マフノヴィズムに死を!」とかいう日付のない声明を持っているのを知った。これらの声明はその月の十五日と十六日に受け取ったものだと捕虜たちは言った。それにはマフノに対する行動への呼びかけが含まれ、マフノを、政治および軍事協定の条項を破りコーカサス戦線へ行くことを拒否し、ソヴィエト権力に対する反逆をくわだてた科で非難していた。こうした非難がすべて捏造され、一方で、()反乱軍がいまだクリミヤを横切る道をうちやぶりつつ、切り開きながらシムフェロポリを占領しているときに、また一方では、()マフノヴィストの代表がハリコフその他でソヴィエト当局とともに平和に仕事をしているときに、それが印刷されていたのだった。

 

 4、一九二〇年十月と十一月、すなわちマフノヴィストとボリシェヴィキとの間に軍事および政治協定が締結され、すっかり完成したあと、マフノを殺害しようというふたつのボリシェヴィキのたくらみが、マフノヴィストによって暴かれた。

 

 私がこれまで述べてきたすべての事実から、マフノ攻撃のこの大規模な行動は用心深く準備され、それを完了するためには少くとも二週間を要しているはずであることはたしかである。それはたんにマフノヴィストに対する陰険な攻撃であるだけでなく、微細な点まで巧妙に細心の注意をもってとりくまれた計画だった。()ボリシェヴィキは偽って安全であることを主張したり、()約束などをし、()マフノヴィストの寝ず番を眠らせようとたくらんだりさえした。

 

 マフノヴィストとソヴィエト権力との間の協定は、このようにして破れた。この事実はソヴィエト発行のいくつかの文書、たとえば当時南部戦線の指揮官だったフルンゼにより発行された命令などによって確実になった。この文書はボリシェヴィキの裏切りをよく示しており、彼らのすべての虚偽と口実を無に帰した。

 

 4、赤軍総司令部によるマフノ軍への命令

 

 「反乱軍の司令官マフノ同志への命令。南部戦線の諸軍の司令官へのコピー。一九二〇年十二月二十三日、メリトポリ、総司令部発行。

 

 ヴランゲリの完敗と彼に対する敵対関係が終わったことにより、南部戦線の革命軍事評議会は、パルチザンの任務が完了したと考える。それゆえ南部戦線の革命軍事委員会は、反乱軍の革命軍事評議会に対し、反乱軍パルチザン部隊を、ただちに赤軍の正規軍部隊に編入するよう提案する。

 

 反乱軍がいつまでも現状をつづけている理由はないはずである。逆にこれらの部隊が赤軍の側に立っていながら、特別な組織をもって特別な仕事を行なうことは、まったく認めがたい結果をひきおこすであろう*。

 

 * フルンゼは、赤軍兵士がマフノヴィストによって武装を解除され、殺されたいくつかの例をあげている。だが、彼の言っているすべての用例は彼自身およびラコフスキーおよびハリコフのマフノヴィスト代表によってよく調べられ、次のようなことが結論として成立した。()、マフノヴィストはこれらの誤った行為とはなんの関係もないこと。()、もし軍に対する敵対行為がマフノヴィストに属さないある軍隊によってなされたとしても、それはひとえにソヴィエト当局が適当な時期にはっきりと反乱民とソヴィエト当局との協定を公布しなかったことによるものである。実際、マフノヴィストに編入しなかった多くの孤立した部隊(この問題については他の関係から再び戻って少し後に述べようと思う)がウクライナのあちこちで作戦を行なっていた。これらの部隊の大部分は彼ら自身のやり方に従って行動していたが、反乱軍の意見や態度を尊敬していた。

 

 彼らがもしボリシェヴィキとマフノヴィストとの間に協定が結ばれたことを知っていたら、ソヴィエト当局と軍隊に対するあらゆる敵意を捨てていたにちがいない。

 

 フルンゼは一見もっともらしくみえるが、実はまつ赤な嘘の論議でもって、ジェスイットのやり方で彼の命令を正当化しようとしている。というのは、ボリシェヴィキ権力がこれ以上反乱軍を必要としなくなった以上、ボリシェヴィキはマフノヴィスト軍と運動を除去したいと考えていたが、そのただひとつの真実の論理を彼は認めることができなかったからだった。彼がこの事実を認めていたら、彼はいいわけを必要としたであろう。だがそんなことをしたら、政府の嘘と実際の態度が労働者大衆に暴露されてしまっていただろう。

 

 以上が、なぜ南部戦線革命軍事委員会が反乱軍革命軍事委員会に次のように命じたか、その理由である。

 1、クリミヤにある反乱軍の全部隊は、ただちに第四ソヴィエト軍に編入すべし。革命軍事評議会がこの編入の手続きの労をとるべし。

 

 2、グーリャイ=ポーリャにおける軍事組織解散すべし。兵士は軍の指揮官の指図にもとづいて予備隊に分散されるであろう。

 

 3、反乱軍革命軍事評議会はあらゆる手段を用いてこの変化の必要性を兵士に説明するであろう。

 

    南部戦線司令官 M・フルンゼ

    革命軍事評議会委員 スミルガ

    参謀長 カラティギン」

 

 ソヴィエト政府とマフノヴィストの間にとりかわされた協定の歴史を読者諸君は思い出してほしい。この契約の署名はマフノヴィスト全権とこの目的のためにわざわざスタロベルスクにあるマフノヴィスト・キャンプへやってきた共産党員イヴァノフのひきいるボリシェヴィキ代表団との間の交渉によってすすめられたものだった。これらの交渉はハリコフで行なわれた。マフノヴィストの代表は、この協定を満足のいくようにとり結ぶために三週間もハリコフでボリシェヴィキといろいろ談合したのだった。各項とも双方で注意深く検討し、討議された。この協定の最終的な各項目が両党、つまりソヴィエト政府と、ウクライナ革命的反乱民評議会という革命的反乱地方とによって承認された。それにはそれぞれが調印した。

 

 この協定の性格からいって、この協定に優先する協定がない場合、どの条項も中止したり付加したりすることはできなかった。だがフルンゼの命令は軍事協定の最初の項を抑圧しただけでなく、全協定をうちすてておいた。これは、()ボリシェヴィキがこの協定を真剣に扱っていないこと、()この協定を起草するについてボリシェヴィキは破廉恥な喜劇を演じていたのだということ、()またこの契約はマフノヴストをヴランゲリ目ざして行軍するよう説得し、()マフノ軍自身を絶滅させるための途方もない欺瞞であり術策であり、であることを示していた。

 

 フルンゼの、一見粗野で単純そうな命令でさえ、次に事実をあげるように術策としてもくろまれたものだった。

 

 1、マフノが指令〇〇一四九番を受け取ったちょうど同じころ、クリミヤの第四軍はあらゆる手段を駆使してマフノヴィストに攻撃をかけ、それでも反乱民が従うことを拒否した場合には、あらゆる勢力を総動員すべしという命令を受け取った。

 

 2、グーリャイ=ポーリャに駐屯していた反乱軍の幕僚も、ハリコフにいたマフノヴィスト代表団もこの命令については一言もきいていなかった。マフノヴィストは偶然に手にはいったいくつかの新聞を通じて、ボリシェヴィキの侵略の三、四週間のちにはじめてそのことを知ったのだった。そのわけは簡単だった。秘かにマフノヴィスト急撃を準備していたボリシェヴィキは、前もってこの種の文書をマフノヴィストに送ることによって彼らが守りを堅くすることを好まなかったからだった。もしそうしていたら、必ずこの計画的攻撃は反撃されていたであろう。

 

 3、それと同時に、彼らは侵略を正当化する口実を見つけねばならなかった。そのためにフルンゼの命令は、急襲およびマフノヴィストとの破約のすぐ後に新聞に発表されたのである。それは一九二〇年十二月十五日、ハリコフの新聞『コミュニスト』紙に掲載された。これらの陰謀はすべて、マフノヴィストの襲撃と破壊を目ざし、かつその行動が非のうちどころのない名誉あるものであることをそれとなく示す「正当な証拠」を使った弁明を目的とするものだった。

 

 5、ウクライナにおけるマフノヴィスト攻撃とアナキスト闘士の大量逮捕

 

 ほかでも述べたように、マフノヴィスト攻撃につづいて、アナキスト闘士が大量に逮捕された。こうした逮捕はウクライナ中で行なわれ、その目的とするところは、全アナキストの思想と活動を完全に破壊することだけでなく、少しでも抵抗する可能性を圧殺し、事件の表の意味を人びとに説明する試みを停止することだった。

 

 アナキストのみならず、アナキストの友人とか知り合いと見なされた人びと文献に興味をもった人びとまでもが逮捕された。エリザベスグラードでは十五歳から十八歳までの十五人の少年まで投獄された。ニコライエフ(県庁所在地)の上級の役所がこの捕縛を不満として子供ではなくほんとうのアナキストを捕えたいと言ったが、これらの子供たちはすぐには釈放されなかった。

 

 ハリコフでのアナキスト追跡は、前代未聞の規模で行なわれた。町中のすべてのアナキスト捕えるために罠と伏兵がはりめぐらされた。このような罠は自由兄弟書店にまではられた。本を買いにくる者はだれでも捕えられ、チェカに送られた。彼らは、それまで定期的に刊行されており、その書店の壁に張り出されていた『ナバト』新聞を読もうと立ち止まった人びとまでも投獄した。

 

 ハリコフのアナキストの一人であるグレゴール・ツェスニクは逮捕をのがれたが、ボリシェヴィキは少しも政治に興味を持たない彼の妻を投獄した。彼女はすぐにハンガー・ストライキを開始し、即時釈放を要求した。ボリシェヴィキは、もしツェスニクが彼女の釈放を望むなら、チェカに彼自ら出頭しなければならないと彼女に言った。ツェスニクは重病をおして出頭し、投獄された。

 

 司令官であるシモン・カレトニクとともにクリミヤのマフノヴィスト軍の幕僚が術策にかかって捕えられ、その場で処刑されたことはすでに語った。騎兵隊を指揮していたマルトチェンコは、ボリシェヴィキの多数の部隊に包囲され、猛烈な攻撃を受けていたが何とか逃げ出し、要塞堅固なペレコープ地峡の自然の障害とバリケードを通って脱出することができた。部下を率いて、というよりむしろ残党を率いて、夜を日について強行軍をつづけ、クレメンチュクという小村で(これから述べるように再びボリシェヴィキからのがれた)マフノにうまく合流することができた。

 

 すでにマフノヴィストがクリミヤから脱出に成功したという噂が流れていたので、クリミヤからの軍の帰還はいまかいまかと待たれていた。やっと十二月七日に、一人の騎兵が、マルトチェンコの軍か二、三時間で到着するという知らせをもって全速力で馬を走らせてきた。彼らが待ちに待ってやっと小人数の騎兵たちがゆっくり近づいてくる姿を遠くに見たときの、がっかりした絶望的な気特は想像に難くない。千五百騎にのぼる強い騎兵が、たった二百五十騎になって焦熱地獄から戻ってきたのである。彼らの先頭にはマルトチェンコとタラノフスキー(反乱軍の勇敢な司令官)がいた。

 

 「私は光栄にもクリミヤ軍の帰還を諸君にお知らせします」とマルトチェンコは皮肉たっぷりに言った。二、三の反乱軍兵が笑った。がマフノは憂鬱そうに黙って表情を変えなかった。マルトチェンコはつづけて言った。「そうだ。兄弟。いまやわれわれは共産主義者がどういうものかわかったのだ。」

 

 すぐに総会が開かれた。クリミヤでの出来事が話された。あくまで軍事会議に参加するということでボリシェヴィキ幹部からグーリャイ=ポーリャに送り込まれた反乱軍の指揮官カレトニクは、途中奸計に落ちて逮捕されたことがこうしてわかった。またクリミヤの軍の参謀長であるガヴクレンコと彼の側近と数人の部隊長も同じようなやり方でだまされたことがわかった。全員即座に銃殺されたのだった。シムフェロポリの文化宣伝委員会は、なんの軍事的策略も用いずに逮捕された。こうしてかつて戦勝したクリミヤの反乱軍は、前日までの同盟軍だったボリシェヴィキのために裏切られ全滅させられた

 

 6、逮捕者ヴォーリンにたいするチェカ秘密作戦部長の本音露呈

 

 私自身の経験もこうした事実にさらに光をあてるものだった。ハリコフで逮捕されたのちモスクワのチェカの牢獄に入れられた私は、ある日、チェカの秘密作戦の部長をしていたサムソノフに呼ばれた。彼は私に訊問するかわりに原則についての討論にひきこんだ。こうしてわれわれはウクライナでの事件について語り合うこととなった。私は彼に、マフノヴィスト運動に対するボリシェヴィキの行動は陰険であると思うと語った。

 

 「ああ」と彼は元気に答えて言った。「君はそれを陰険だというのだね? それは君の根深い天真爛漫さを示しているだけだね。われわれボリシェヴィキにとって、それは革命の初期から多くのことを学び、いまや実際巧みな政治家になったことの証拠だと言えるね。もうわれわれは自分たち自身を犠牲にすることはなくなった。

 

 われわれがマフノを必要としたとき、われわれはを利用した。そして、彼の役目がこれ以上必要なくなりが邪魔物となりはじめたので、われわれはを完全に追い出したわけだ。」

 

 サムソノフの言葉は、ボリシェヴィキの行為とそのあらゆる陰謀の真の理由をすっかり認めたものだった。国家主義的共産主義の真の性格を理解しようとする者は、この言葉をよく頭に刻み込んでおく必要があろう。

 

 

 18、マフノの最後の奮闘 (省略)

 19、マフノ運動の評価 (省略)

 <付録>

  1、マフノの中間たちの運命 (省略)

  2、マフノヴィズムと反ユダヤ主義 (省略)

 

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 〔関連ファイル〕

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