民主主義と両立する左翼

 

イタリアと日本における左翼の自己刷新

 

名古屋大学 後 房雄

 

 ()これは、『労働運動研究』(2001.1、No.375)に掲載された、後論文の全文です。「20世紀社会主義の検証、ミレニアム・シンポジウム−イタリア、ヨーロッパの経験から−」の集会は、2000年11月、東京グラムシ会・労働運動研究所共催で開かれました。この論文は、会議におけるパネラー4人の報告中、後報告の録音テープを労働運動研究所編集部が要約したものです。このHPに全文を転載することについては、後氏の了解を頂いてあります。

 

 〔目次〕

   はじめに

   転換過程での3つの側面

   現代社会認識の見直し

   党内民主主義と異論の公開

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

   後房雄 『共産党は普通の政党になれるか』

   後房雄・訳 『イタリア左翼民主党規約』全文

   『イタリア左翼民主党規約を読む』(宮地作成)

 

 はじめに

 

 私は一九八九年にイタリア留学の機会を得てローマに二年間滞在しました。当時は東欧革命の真最中でした。イタリアでは共産党が左翼民主党に転換する過程で、賛否両論が闘わされてる渦中でした。イタリア政治や共産党周辺ではいろいろな動向がありましたので、現代政治の動きを密接に体験することになりました。そして、九一年に帰国した直後の日本の政治には余り大きな動きはなかったのですが、九二年に日本新党ができたころから政治にも変化が出始めたので、日本とイタリアの現代政治を比較しながらフォローしてきたのです。この間にイタリアに生まれた政治過程を、『大転換−イタリア共産党から左翼民主党へ』、『「オリーブの木」政権戦略』、ピエトロ・イングラオ自伝『イタリア共産党を変えた男』などの本で紹介しましたので、お読み頂ければ幸いです。

 

 いま日本共産党自体の変化が政治的事実として重要であろうと考えますので、それにつなげる形でイタリアの話をいくつか述べたいと思います。西側の共産党を見た時にある程度の政治勢力になった国はイタリア、フランス、日本、スペインくらいです。この四カ国がいまどうなっているかというと、イタリア左翼民主党は社会主義インターに加盟して社会民主主義政党になっています。フランス共産党は与党になっている多元的左翼の一角を占め、スペインは今年の春の総選挙で一九三〇年代の人民戦線以来初めて社会労働党と共産党が選挙協定を結び、連合して選挙に臨みました。西側先進国の共産党は事実上「民主主義ゲーム」の中に入ったといえます。日本共産党はこの動きに立ち遅れていたのですが、最近になって曲がりなりにも同じ土俵に乗ることになったわけです。

 

 この意味で共産党という政党の一種の総決算が行われているといってもいいのではないでしょうか。イタリア共産党は特異な共産党だったと思います。もともと国際共産主義運動の中では一種の異端として問題提起を続けてきた存在で、一九七〇年代以降には社会主義インター、特にブラントのドイツ社民党とはかなり密接な関係があり、共産主義運動と社会民主主義の流れの境界線あたりに位置していたといえます。党内にかなりはっきりした社会民主主義的グループが存在していました。それが最終的に一九八九年の「ベルリンの壁」の崩壊以降、名前を左翼民主党と改称してほぼ全面的に共産党ではない左翼政党に意識的に転換したわけです。東欧諸国で政権党であった共産党が完全に市民の打倒の対象となり自己破産して名称を社会民主党に変えたのと異なって、イタリアでは内発に転換したという特殊な経過をたどったのです。

 

 スペインやフランス、ある意味では日本共産党も同じような経過をたどっているといってもいいのですが、これらの共産党はどこが間違っていたからどう変えるということを公然と議論をして変わるのではなく、ごまかしながら変わっているわけです。それと比較すると、イタリアは党内民主主義を前提にして内発的に変わっていったという意味では空前絶後の共産党といえます。

 

 

 転換過程での三つの側面

 

 そのイタリア共産党の転換の過程で重要と思われる三つの側面を指摘しますと、第一は先程植村さんが言われた現代社会認識にかかわる部分です。イタリア共産党が最終的に変わっていく契機は社会主義の崩壊から冷戦の終結であったわけですが、八〇年代のベルリンゲル時代の後期からすでに本格的な転換の準備がされていました。むしろ転換する最終的なタイミングを図っていたという感じがあります。八九年六月に踏み切るかという議論もあったようですがそれはやめて「ベルリンの壁」崩壊を待って踏み切ったというのが実情のようです。一九八〇年代に、ユーロコミュニズムが終わって、イタリア共産党のことが日本であまり報道されなくなった時期があります。イタリア共産党は七六年に国民的連帯政府の方針を出して閣外協力までいくのですが、それが挫折してまた左翼路線にいったん戻ります。日本共産党も一時ユーロコミュニズム的になっていたのが、八〇年前後に社会党との関係が決裂して完全な孤立化路線に入っていきます。

 

 私もその間の経緯は良く知らなかったのですが、イタリアに行ってみると、やはり八〇年代にいろんな自己改革のための準備作業がかなり大掛かりになされており、それが八九年前後の転換につながっているということです。

 

 ベルリンゲル時代にエコロジーやフェミニズムなどに対するスタンスがかなり開かれてきて、党内に女性党員のグループが形成されました。原発についても八六年の大会で原発反対の決議が数票差で否決はされましたが、その直後にチェルノヴイリ事故があって原発政策が完全に転換しました。そういう中でマルクス主義に対するスタンスもかなり変わりましたし、同時にグラムシに対するスタンスも変化してきました。

 

 私自身はグラムシ研究から入りました。イタリアでもある時期まではかなりストレートにグラムシの議論からその時代の政治的方針を引き出してくるというタイプの議論が多かったわけです。八七年のグラムシ没後五〇周年の研究集会の時には「グラムシを越えて、グラムシとともに」というスローガンが掲げられたわけですが、グラムシは「フォード主義」「アメリカニズム」という議論をしていますから、ある意味で高度成長期までは予見していたといえます。だが「ポスト・フォード主義」の段階になってきた場合、グラムシから直接に答が出てくるというような議論はほとんど意味がないわけです。当時のイタリアではグラムシの方法論は参考にはするが、グラムシから何か具体的な結論を引き出して政治方針にするということは完全になくなっていたといってよいだろうと思います。その意味で当時のイタリア共産党では「自分たちの理論的根拠自体の根本的な問い直しをする必要がある」という議論がされ始めました。

 

 その転換の過程でいくつか印象的な議論がありました。八九年十一月に当時のオッケット書記長が新しい左翼政党を作るという提案をした時に八〇年代の一〇年間についてこういう言い方をしています。

 

 「我々は最近一〇年間の巨大な変化が諸階級、諸階層のアイデンティティや社会体制を解体し再編成することによって、要求や消費の優先順位を変化させることによって、かってない諸矛盾を成熟させることによって、そして新しい諸主体や諸権力を登場させることによって、現代社会の相貌や輪郭やアイデンティティを作り替えたことを見ないわけには行かない。まさに左翼の基本的理念、実践的経験、文化の大部分が現実の過程から立ち遅れてしまったが故に、左翼はしばしばこの大変化を防衛的な態度で眺めてきたということをみないわけにはいかない」。

 

 こうして八〇年代の急速な変化に対して左翼が完全に立ち遅れたという認識をしたわけです。日本でも八〇年代は中曽根政権時代で国鉄の分割民営化があり、行政改革が行われた時代だったのですが、私たちは最初は直感的に反動的なものだと思っていたのです。しかし、今の時点まで引き伸ばして考えると、もちろん反動的側面はありますが、その中に新しいものを生み出そうとしている部分は明らかにあったのだろうと思います。

 

 だから一九八六年の衆参両院ダブル選挙の結果に見られるように有権者も支持し自民党が大勝したのだと思います。「自民党がうまく有権者をダマしたのだ」という議論が今も昔もありますが、その程度のことではあんなに大きな選挙結果の説明はつきません。

 

 その当時の日本の旧革新勢力はまさに「〇〇反対」「〇〇を守れ」というような防衛的な態度の対応に終始していたわけです。他方、中曽根は終始「改革」を主張し続けていたわけですから、保革の立場が完全に逆転し左翼勢力の方が「守旧派」になっていたのです。これはその後ますますハッキリしてきて、時代や現代社会の変化の方向と左翼の認識がかなり根本的にズレているという認識が多くの人々の間に強まっていったように思います。そういうことをイタリア共産党は理論化し、言葉で表したのです。

 

 新自由主義の「小さな政府」というスローガンがありますが、これについて九五年の左翼民主党の政策大会で当時のダレーマ書記長は次のように述べました。

 

 「サッチャー、レーガン、ベルルスコーニなどが勝利したのはやはり社会的ニーズに応えることができたためである。左翼はそれにただ反対しただけなので単なる『守旧派』と見られている。その新自由主義的改革が求められてきているということを前提にして左翼に求められているのは新しい自由主義的改革のイメージを打ち出すことであり、単に新自由主義的改革に賛成か、反対かということでは左翼は負け続けるだろう。サッチャー型でない新しい自由主義的改革の構想を左翼が打ち出せないと勝てない。」

 

 左翼民主党があえて民主主義革命でなく、自由主義革命というテーゼを掲げたことで、従来の左翼の大きな政府志向のイメージがかなり変わってきたという認識が浸透して、九六年の総選挙で勝利したのです。

 

 

 現代社会認識の見直し

 

 日本でも市場主義、新自由主義という形でいろいろな改革が進んでいる時に福祉国家を守ろうという言い方で政治的提案をする立場があるわけですが、そういう防衛的態度では勝てないと思います。自由主義的改革が支持される根拠を踏まえたうえで新しい提案を行わないで、何かファシズム前夜であるかのように人民戦線とか福祉国家を掲げれば幅が広がるというような発想は時代認識が全く違います。

 

 そういう意味でイタリア共産党の現代社会認識にかなり根本的な見直しがあったというのは印象深かったのです。これを象徴するのがイタリア共産党が小選挙区制の推進の側に転換したことです。イタリアはもともと完全比例代表制できて左翼の側もこの制度を支持してきましたが、それが八六年の党大会の直前の『エスプレッソ』という週刊誌のインタビューでイングラオが「もしイタリア共産党が真剣に政権を取ろうとするならば小選挙区制を考えるべきだ」という発言をしました」その後、オッケット書記長時代になって、それが正式の方針になったわけです。それで最終には九三年の国民投票を経て上院、下院ともに比例制二五%、小選挙区制七五%の選挙制度に転換したのです。

 

 比例代表制を取るかぎり、共産党を排除したキリスト教民主党中心の連合政権が続きますからいつまでたっても政権はとれません。だからイタリア共産党にとっては、小選挙区制で勝負する以外に政権につく方法がないというのが基本的な発想だったと思います。しかも共産党単独では選挙に勝てないとすれば、他の政党との連合能力を高めることが不可欠になります。要するに政権に挑戦するという意識がこの小選挙区制への転換にこめられているのです。つまり選挙制度の問題は民主主義のタイプを変えるものであっても、民主主義そのものを危うくするものではいということでこういう転換をしたのです。

 

 

 党内民主主義と異論の公開

 

 党内民主主義の問題で言えば、私が翻訳したイングラオの自伝にこの経過が当事者自身の口から詳しく語られています。イタリア共産党も民主集中制をとっていたのが最終的に党内民主主義を確立するところまでいったのはそれこそ奇跡的な流れであったわけですが、最後に第一九回大会、第二〇回大会では全国議案が三つ提出されました。これは中央委員が一人でも参画していれば全国議案として認め、それらのグループには同じ広さの部屋でファックスや電話も与えて、各支部の討論にはどの議案グループからも代表者を派遣して説明でき、しかも最終的には各支部大会で比例代表制で各議案に投票して次期指導部と代議員を選ぶようにしました。他の政党でもおそらくここまで党内民主主義を徹底したところはないでしょうから「イタリア共産党には党内民主主義はない」などということは誰も言えなくなったわけです。

 

 ここまで党内民主主義を徹底できた決定的な突破口は異論の公開だろうと思います。これは一九六六年の第一一回党大会でイングラオが直接大会の壇上から発言し、「党内のみんなの意見を聞いて方針を作るというが、何が指導部の中の論点なのか、いかなる意見といかなる意見が対立しているのかということを知ることなしに、一般の党員が発言できるわけがない。自分も指導部の一員としていろいろな異論を出しているが、この異論を外部に公開することを認めるべきだ」と主張したわけです。結果として彼の意見は採用されなかったのですが、イングラオが指導部から排除されなかったために、異論の公開が実現してしまうのです。それに対してアメンドラやナポリターノという右派が形成され、それをベルリンゲルがまとめるような形になり、党内に三つの派が形成されるわけです。そういう経過があるのでイタリア共産党の転換に際しても最終的にはそれぞれの議案を提案して比例代表制で決着をつけるような形になったわけです。

 

 日本共産党の転換については時間がありませんので簡単に述べますが、規約改定といっても規約の原理はまったく変わっていません。新規約第五条には「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」という規定があります。この規定がある限り一般党員には何が論点なのか全くわかりませんから議論のしようがないと思います。今回の大会をめぐる討論をインターネットなどでやっているわけですが、それを見ていると党内民主主義を要求している人たちは左からというか、従来の路線を守れという人たちで、今の路線は良いからこれまでの路線をキチンと自己批判して変えなさいという人たちからは党内民主主義の要求は全くないという非常にいびつな変わり方なわけです。おそらく路線的には社会民主主義的な方向に変わるしかないと思いますが、構想力があるのはどうやら委員長だけであって他の人たちは従来の路線を守ることを要求し、そこが意見を言わせろといっているわけです。そこで委員長が強引に意見を通すというやり方をしているのが日本の共産党の今のやり方です。私自身はそういう変わり方であっても、変わらないよりましと考えていますが、非常に不幸な変わりかただということは否めないと思います。

 

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 (関連ファイル)

   後房雄 『共産党は普通の政党になれるか』

   後房雄・訳 『イタリア左翼民主党規約』全文

   『イタリア左翼民主党規約を読む』(宮地作成)