六月になると、赤い煉瓦のように乾いたこの星の空気にも、微かに湿った匂いが感じ
られるようになってきます。
初夏の薄く拡散した水色の空が、はじけて音がしそうな真夏の蒼へと移ってゆくその
隙をとらえて、海から生まれた南の風が、移民達の住む地域まで遠く吹き向けてくるの
です。
淡い煙のような、灰色の薄雲に、海から還る途中だった水蒸気たちを乗せて。
そんな曇り空の続く六月の昼下がりに、M氏は毎日娘の店に紅茶を飲みにやってくる
のでした。
相変わらずの不精ひげで、いつも片手に本を持って。
たいてい、M氏のやってくる正午過ぎには、他にお客さんはいなかったので、小さな
店にはいつも同じ音楽と空気が流れました。
まず、からん、ころんと真鍮の鐘がなる音に、娘の、いらっしゃいませ、の高い声。
ケトルにお湯が沸いてゆく音、そうして、過ぎていった初夏のような、ほのかな甘い
香り。
そのまま、ずっと静かな時間。
そうして思いだしたように、からん、ころんと真鍮の鐘の調べに、娘のありがとうご
ざいました、の澄んだ声。
M氏は、店では本を読んだっきりで、何かを話すことはまずありません。
たまに、店を出る時に、今日は少しお湯を沸かしすぎたな、とか、少し蒸らしすぎだ、
とかぼそりと言い残すくらいで。
娘も、何だか邪魔になりそうだし怒られそうな気がしたので、何も話しかけずに、た
だ店中に漂う香りを楽しんでいました。
はじめの頃は、昼下がりのこの奇妙な静かな時間が、少し気まずく感じたのですが、
そのうち慣れてきて。
(どんな本を、読んでるのかしら?)
ふと、気になって、そっとM氏の手元の本を覗きこんだことも、何度かありました。
紅茶をお供にめくられる、かいま見えた頁の奥には、難しそうな文字と一緒に、きま
って見たことのない草花や、植物の絵が載っているのでした。
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