echo

                                              

  ごうん、ごうんと、灰色の冬の海岸に打ち寄せる波の様な鈍重な音をた
てて、「機械」は規則正しく律動する。

  そうしてその真白い腕によって、行き場を無くした断片達は一滴ずつ静
かな水となって、この矩形の泉で眠りに就く。

  いつか、届くことを夢に待ちながら。


          *


  さらさらと静かに流れる風が、ぼんやり歩く私の髪を撫でてゆく。その微
かな感触だけが、その時の私が外部から意識して受けとめることができた唯
一の刺激だった様に思う。自分にとってもの珍しいはずの、賑やかな街の情
景は、瞳から入って意識されることなく、何処かへと通り抜けてゆく。

  その流れてゆく街並と、反芻されるかの様に私の中で繰り返しめぐってい
る先程までの音楽に身を任せて、切符の半券だけを手に、私は何処というあ
てもなく歩いていた。

  そもそもの発端は、ずいぶん長い間音信不通だった友人から突然届いた水
色の封筒だった。懐かしさと経た時間に比べて奇妙に薄い封筒の中から出て
きたのは、林間ホールでの演奏会の切符がただ一枚。手紙などはどこにもな
く、ただその切符に小さく一言だけ、まぎれもない彼の繊細な筆致で記され
ていた。

「ただいま。」と。

  最初は彼に逢いに行くつもりでいた。なのに、ホールから観客の誰よりも
早く抜け出してきて、今こうして夕暮れの街をさまよっている私が此処にい
る。

  
  先程から周囲を巡っている風が不意に運んできた絹のすれる様な音を耳に
して、私はようやく少しだけ我を取り戻した。夕方の賑やかな街の大気の中
を、今までと違う音がさらさらと流れている。

  そして、気がつくと、私は川のほとりにいた。今までただ左右を流れてい
た人波や店の灯りは、とうに流れ去ってしまい、代わりにただ細い道に沿っ
て、今日最後の日の光を受けた水が静かに流れていた。

  どうやら、帰路につくつもりが無意識のまま長い間歩いているうちに、い
つのまにか街の外れまで出てしまったらしい。私は自分の間抜けさについ苦
笑いをこぼす。

(まあ、いいか。)
  開き直った私は帰途につく代わりに、沈む日の後を追うように、川にそっ
て細い道を下りはじめた。このまま戻ったらますます自分が間抜けに思える、
そんな意識も私の心の奥にはあったのかもしれない。



  夕刻の見知らぬ道。川は寄り添う様に私の左を流れ、右側にはやはり道に
沿って林が続いている。その林が先程までの街の喧騒を切り取ってしまった
かの様に、今はただ絶え間ないせせらぎの音と、生まれたての夜風が樹々を
ゆする幽かな音だけしか聞こえてこない。

  急に訪れた静けさと、その中を歩くという行為によって、ようやく私の心
の火照りもさまされて、考えるゆとりが少しだけ生まれてきた。

  そう、確かに私は彼に逢いにいくつもりだったのだ。演奏会が終わったら、
久しぶりにゆっくり話しでもしようと思っていた。
  でも、できなかった。



  街の中心に残る林をそのまま利用して作られた林間ホール。その舞台の中
心にはやはり木で作られた、四角い箱の様な奇妙な「機械」が佇んでいる。

  私が着いた時には、その広いホールの座席は既にいっぱいで、演奏の直前
の聴衆のひそやかなざわめきに満ちていた。友人の音楽を聴きにくる人間が
こんなにもいるという事実に戸惑いながら、私はホールの一番後ろの壁代わ
りの大樹にもたれかかって、彼が舞台に現れるのを待っていた。

  間もなく彼が舞台に現れ、樹に包まれた繭の様なホールの内部は、聴衆の
喝采とともに非日常の空間へと変移する。私の位置からでは、彼の表情など
はほとんどわからないが、舞台との遠い距離を隔てても、昔と変わらない懐
かしい友人を確かに認めた。


  そして、友人の音楽が始まった。
  友人は不思議な「機械」の前に座り、器用に両手でそれを操作して音を紡
ぐ。そして「機械」の奏でる音に沿わせて、自らは言葉を紡ぐ。

  開演前に耳にした聴衆の話によると、あの「機械」は「オルガン」という
昔の楽器らしい。友人の流れる様な早い指の動きに従って、ずっと昔造られ
た「オルガン」が生み出す音色は、人工の暖かみを持った、何処か懐かしい
響きを生み出す。その響きは彼の言葉と一つになり、ホールは彼の音楽で満
ちてゆく。

  何本もの枝葉が重なりあって編まれた高い天井。繭の中の、意識を持った
静けさと空気。それらは彼の音楽を受けて響き、そして。


  彼の音楽は、私の心に届いた。


  そして、私は響きを返す術を持たなかった。
  だから、私は彼に逢うことができずにホールを去ったのだろうと思う。





続きへ

ノートブックに戻る