百年の満月 / page5


 月時計は、一応持ちだす許可を取ってから、こちらからあらためて届けに行く、と『鳥』 は言う。  その場では、ぼうっとしてしまっていてそのまま了解したのだが、後になって、彼女 は僕の居住先も聞かないままでどうやって届ける気なのだろう、ということに気づいた。  身辺が落ち着いたらもう一度骨董屋に行こう、と思ってはみたものの、あの路地の奥 の店、月時計、そして『鳥』と、何だか全てが夢の中の出来事だったような気がして、 もう一度店にたどり着ける自信は、あまりなかった。  数日後、僕は宿を引き払って、大学へと足を運んだ。   研究棟の一角に居住区があって、留学生はそこに部屋を与えられる。その部屋の準備 ができたと、大学から連絡があったのだ。  キャンパスはこじんまりとしていて樹木が多く、感じが良かった。木漏れ日が明かり と影を落とす小さな中庭を、若い学生達が楽しそうに話しながら行き交っている。  その大学としては割と小さな区画に、黄色く色づき始めた樹々に埋もれるように、教 室棟、教務棟、旧図書館棟と、煉瓦造りの旧い建物が点在している。   その中の一つ、研究棟に赴き、教授や研究スタッフに挨拶をした後、居住区の部屋を 教えてもらう。  教えてもらった部屋は、居住区の一番奥だった。ここも煉瓦造りで旧かったが、これ から訪れる冬の冷気には強そうで、過ごしやすそうな建物だ。  そんなことを思いながら、ほっと一息ついて自分の部屋の扉を開ける。  その瞬間、驚きのあまりに、僕は思わず声をあげそうになった。 「こんにちは。月時計、持ってきたよ。」    部屋の椅子に座って、僕が開いた扉にくるりと振り向いたのは、まさしくあの骨董屋 で出逢った、『鳥』だったのだ。 「どうやって、ここを……?」 「この街に大学なんてここしかないから、学生のふりして忍びこんで、助手さんの名前 を頼りに大学内を探し回ってきた。」  僕のうわずった声の問いに、少し首を傾げて『鳥』はそんなことをしれっと言う。す っと立ちあがるのにつられて、長い黒髪がさらりと揺れた。  そんな『鳥』に、僕は何と返せばよいか言葉を見つけることができず、ただその場に 荷物を置いて立ち尽くす。 「……というのは冗談。本当は私、ここの院生なの。しかも、専攻は助手さんとおんな じ鉱石工学。」  困った風で立ち尽くす僕を見て、くすくすと楽しそうに笑って、彼女は本当のことを 明かす。  こういう所まで博士に似ているというべきか、優れた鉱石工学の研究者の素質を持っ ているというべきか。  それにしても、僕だって鉱石工学の研究者なのに、どうして常にだまされる側に回っ てしまうのかと、ちょっと恨めしく思う。 「あ、そう……。」  僕は煙草は吸わない性なのだが、こういう状況では、煙草を吸える人がうらやましい と、よく思う。 「というわけで、よろしくね。」  悪びれる風もなく、彼女はすっと、細い手を差し出す。  完全に彼女のペースに乗せられた僕は、それ以上何も言うことができずに、つられて 右手を差し出す。  人の姿をとった、『鳥』の手は、ほんの少し、暖かかった。     *




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