暖炉の火は生き生きと踊り、橙色の光と揺らめく影とを、この小さな
宿屋の食卓に投げかける。普通の農家とさほど変わらない食堂の空気は
この陽気な炎に暖められ、そしてその空気が、寒さに痺れた詩人の手足
を徐々に優しく溶かしてゆく。


「おまたせしました。どうぞ召し上がれ。」
  台所から、両手で鍋を抱えて、宿の主人である婦人が入ってくる。そ
のお供に、暖炉の影よりも柔らかく揺らめく白い湯気と、先程の温かく
香しい匂いを連れて。


  地味な衣服と日々の質素な生活の雰囲気を纏ってはいるが、こうして
改めて見ると、思ったよりも婦人がまだ若い事に気付く。おそらく歳は
二十歳後半か、行って三十位というところか。そんな詩人の観察も、目
の前に置かれた温かいシチューの鍋の前に、あたかもその湯気と同じ様
にかき消えてしまう。


「いただきます。」
  詩人はしばし、自分の食欲を満たす事に没頭した。シチューには沢山
の種類の野菜がじっくりと煮込まれて、心を和ませる、豊かな味がした。
そう、ちょうど今日この夜に感謝を捧げた、一年間の収穫の実りの味。
そしてそれが、詩人の体を今度は体の内から暖める。
「ご相伴していいかしら?私も夕食がまだなもので。」
  詩人の食べる勢いに、くすっと思わず笑いをこぼしながら、宿の婦人
は自分も席に着いて、シチューを口に運んだ。


「冬至祭には、行かれなかったのですか?」
  ようやく落ち着いた詩人が、婦人の言葉を捉えて尋ねる。
「他にやらなければいけない仕事が多かったもので。明日も朝から、畑
の残りの野菜を取り入れなければなりませんし。」
  宿の婦人は、一瞬寂しげな表情を浮かべ、そしてすぐに笑って付け加
えた。
「でも、感謝の祈りなら、ここにいても捧げられますわ。」
「……失礼ですが、この宿はお独りで?」
  つい、持ち前の好奇心を抑えられずに、詩人は尋ねる。
「ええ。でも、忙しくて張りがありますわ。お客様もいらっしゃいます
し。」
  ほわりとした綿の様な笑みをそのままに、宿の婦人は答える。


  一年で最も永い夜が、緩やかに更けてゆく。いつもより、何処と無く
聖なる雰囲気を纏った、深夜の静寂。

  その静寂を一時の間破って、村はずれの小さな宿の窓から、音楽が溢
れだす。ある時は陽気に、またある時はゆっくりと悲しげに。詩人の爪
弾く弦楽器と、その深い声から、遠い異国の歌物語があたかも一夜の夢
の幻燈の様に奏でられる。

  紡がれる和音の組み合わせによって、小さな宿の食堂は、ある時は暖
かい日差しをたたえた南の国に、ある時は絶え間無いリズムを刻む、広
大な蒼の海原に、ある時は気だるい熱気の残る夕刻の砂漠の天幕にと姿
を変える。


  やがて、北国の夜の静寂が再び小さな宿を包みこんだ。そのもとの静
寂の中、宿の婦人が入れるお茶の香りがほのかに流れる。
「どうもありがとう。ごめんなさいね、疲れていらっしゃるのに無理を
言ってしまって。」

  差し出されたお茶を一口すすると、喉の疲れがほわりと抜けていく気
がする。そのお茶の味わいを楽しみながら、詩人は応えた。
「いいえ、これが私の仕事ですし。」

「私、ここに泊られるお客様から異国の歌やお話を聴くのが楽しみなの。
ここを離れたことがないもので。」
  全く何気なく出されたその一言に、まだ歌の余韻で紅潮した若い詩人
は、驚いて声をあげた。
「こんな寂しい所でずっと独りで?少しはいろんな所へ旅して、もっと
いろいろ楽しむべきですよ。それじゃ、もったいない……。」


  僅かな沈黙の時に、薪のはぜる音が割り込む。やがて、思わず声を詰
まらせた詩人にくすっとまた笑みをこぼして、婦人は言った。
「あなたは、根っからの鳥さんね。」
「えっ……?」
  思わずまくしたててしまった恥ずかしさと、婦人の奇妙な言葉に動揺
しながら詩人は聞き返した。婦人がその先を続ける。


「でもね、鳥さんにも、夜には羽を休めて眠る止まり木が必要でしょう?
そして、大地に根付いて生きる木も、鳥達が訪ねてくれるから、独りの
夜を越えられるの。」
  一息ついて、宿の婦人はお茶を口に運ぶ。今度は先程とは違う、微か
な笑み。
「たとえ、それがどんなに永い永い夜でも……。」
  その笑みの中に、ほんの僅かだが感情の起伏を見た様な気がして、詩人
は何も言葉を出す事ができなかった。再び、静寂が時を刻む。山を越えて
吹く夜風が、丸い窓を揺らす。


「それにね、さっきのシチューの野菜。おいしかったでしょう?」
「えっ……?は、はい。」
  突然、意表をついた質問をされて、戸惑う詩人。
「野菜ってね、本当に手がかかるの。種を植えて、水をやって、虫や日照
り、嵐から守って、毎日毎日世話をして……。」
「…………。」
「でもね、秋になって世話のかいがあって、みずみずしい野菜達が実ると、
本当に愛しくて、楽しくて、幸せな気持ちで実感できるの。」
  今度は、柔らかい、本当に幸せそうな笑みを浮かべて言う。まるで、春
の訪れの様な、周囲を暖める優しい、優しい微笑み。
「……私は、ずっと大地に根付いて暮らしているんだって……。」


  寝室も小さかったが、こぎれいで快適だった。その寝床の柔らかい毛布
に包まれて、詩人は暫くの間、不思議な宿の婦人について想いを巡らせて
いた。永い永い夜、微かな笑み、野菜達に向けた、慈愛に満ちた笑み……。
  やがて、鳥が大樹の懐で眠る様に、詩人も緩やかに安らかな眠りへと落
ちて行った。





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