螺旋の樹の物語 Rail 1 Station 1

夜毎、神話が生まれ変わるところ



 僕が彼女に出会ったのは、モリザワ教授の古代博物学の講義中のことだ。
 もともとは、卒業のための単位合わせで取った講義だった。古代博物学、という科目自体
あまり学生に人気のある科目ではなく、教室の席はいつもまばらだった気がする。

 講義中の教授の語り口はえらく淡々としたものだった。あるいはそれがますます学生達を
退屈にさせ、講義を自主休講にするのを促した原因の一つだったかもしれない。だけど、そ
の静かな調子で語られる遥か昔の存在達の話に、僕は不思議と惹きつけられた。

 おそらく、彼女もそうだったのだろう。僕と同じく講義に毎回出席している短い栗色の髪
の娘に、知り合う以前から気が付いてはいたのを憶えている。



 その日は古代の天体についての講義で、教授はいつもの淡々とした語り口で月について話
していた。

「月とは、地球のただ一つの天然の衛星で、直径は地球の約四分の一。約一ヶ月で地球の周
りを公転しており、今では稀にしか見られないが、かつては太陽との位置関係によって『満
ち欠け』をしていたという……。」

 いつもの教授の口調に引き込まれて、知らないうちに僕は月へとぼんやりと憧れに似た想
いを向け始めていた。その姿を変えて、太陽の光を受けて静かに地球を巡る小さな天体。そ
の光で表面を照らしながら、ずっと昔からこの星を眺めてきたのだろうか。


 そんな僕の想いを破る様に、あるいは受けとめる様に、隣の席の彼女は僕に話かけてきた。


「本当は、月って鏡でできた扉なんだって、知ってます?」


 僕は驚いて隣を振り返った。視線の先で、見覚えのある栗色の髪の娘が、何か楽しいいた
ずらでもしたかの様な表情で僕を見ていた。

「……太陽の光を映す鏡、ということ?」
 何だかぼんやりとした想いを見透かされた気がして、少し恥ずかしさを紛らわすように僕
は彼女に聞き返した。その問いに、ううんと軽く首を振って彼女は答えた。

「この私達の世界と、もうひとつの世界を映す鏡。ずっと私達の周りを廻って世界を映しと
ってくれてるの。」

 からかわれているのだろうか、とこの時の僕は思った。でも、僕の反応を面白がってはい
ても、何故か冗談を言っているようには聞こえなかった。

「じゃあ、扉というのは?」
 再び質問を投げた僕に、ぱっと表情を明るくして彼女が答えを言いかけたそのときだった。


「ばかもん。」


 不意に教壇からモリザワ教授の声が飛んできた。後になってこの一言が教授の口癖だと知り、
幾度となく耳にすることになるのだが、はじめて聞いたこの時ばかりはさすがに僕も彼女も肝
を冷やした。

 教授は静まりかえった教室をつかつかと僕達の方へ歩いてきて、肩を落とした彼女の前に立
ちはだかった。
 おもむろに、教授がこっそりと発した次の一言は、何を言われるのだろうとびくびくしてい
た僕達をあっけにとらせるには充分すぎた。

「人がせっかく嘘を教えているのに、勝手に本当の事を教えるんじゃない。」

 講義では見せることの決してない、悪戯っぽい目をしていた。


 それが縁だったのか、卒業後僕と彼女は、モリザワ教授の研究室で何年かを助手として過ご
した。あるいはこの講義があってこそ、古代生物学者としての今の僕がいるのかもしれない。




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