螺旋の樹の物語 Rail 1 Station 3

ガラスの森


                                              
 こんな深夜であるにも関わらず、研究室にロックはかかっていなかった。

 「樹」のある保存室は、透き通った外壁こそ太陽光を取り入れるために外に面してい
るものの、慎重に調整された環境を保つため管理されており当然外からは入れない。入
り組んだ研究室のいくつかの見知った通路を抜けて、記憶のままに走ると、ようやくパ
スワードロックのかかった扉に行き当たる。


 一瞬考えて、僕はあの頃のままのパスワードを指で入力した。

『r・a・s・e・n』、と。

 「樹」へと繋がる扉は、昔のまま、音も立てずに開いた。



 開いた扉の隙間から、心なしか少し澄んだ空気が抜けてきて鼻をくすぐる。

 その調整された空気よりもさらに透明なガラスの外壁は、生態のバランスを崩さない
ように控えめに灯る夜間照明を映して、低い表面に点々と橙色の矩形を描いている。そ
の背景には、ほのかな外界の闇が広がる。

 そんな部屋の中心に、「樹」はその外の闇よりもなお濃い黒色の影を落として佇んで
いた。


 この幽かな灯りの中では、この闇に息づく古の生物全体の姿を仰ぎ見ることはできな
い。だが、年老いた幹をこの世界の大地へと繋げるその根は、低い灯の色彩を受けて、
齢と重ねた賢い人の指のようにごつごつとした表面をさらしている。


 そして、その根の生ずるもと、「樹」のもとには、彼女の姿はなかった。

 僕は、軽く息を切らせて、しばらくそのまま時を「樹」にゆだねていた。


 不意に、異質な外の空気の侵入を受けて、高い影がさらさらと音を立てた。

「なんだ、おまえか。」
 振り向いた扉の前には、ゆれる栗色の短い髪ではなく、シルバーグレーの背の高い髪。

「モリザワ教授……。」

「せっかく来たんだ、久しぶりに僕のためにコーヒーをいれていってくれないかね。」





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