螺旋の樹の物語 Rail 1 Station 3

ガラスの森


                                              
「来てくれて助かったよ。夜を明かすのに自分でいれたまずいコーヒーなど飲みたくも
ないからなぁ。」

「別に教授のコーヒーを入れにここに来たわけじゃないですよ。」

 そう言いつつも、僕はあの頃と同じように教授の部屋でコーヒーを入れる。黒い砂の
ような粉末と、褐色の濃縮液を混ぜて、あとは熱いお湯を注ぐ。口で言うだけならば簡
単だが、粉末と液体の混ぜ具合で大きく味が変わるので、中々に技術が要るのだ。


「何故、こんな夜更けに研究室にいらっしゃるんです?」
 沸いたお湯をカップに注ぎつつ僕は尋ねた。

「うん。昨日、「樹」が生長活動を再開してなぁ。」

 とんでもない事を当たり前のように言う教授。僕は思わず手に持った二人分のコーヒ
ーを取り落としそうになった。

「せ、生長活動って……きょ、教授っ。」

「ばかもん。何をお前まで上の連中みたいに慌ててんだ。眠っているものがいずれ起き
るのは当たり前だろうが。」


 僕がこの研究室に初めて来た時、すでに「樹」は自らの体を天へと向けて伸ばすのを
やめていた。自分の入れられたガラスの保存室の中で、ただ生命維持の活動のみを静か
に、永い間続けていた。教授が言ったように、確かに「眠っている」という表現が一番
妥当かもしれない。


 同じ様な環境で眠っている「樹」は国内にいくつかある。だが、生長を行う「樹」は
この大学のが25年程前に眠りに就いて以来もう何処にも存在しないはずだ。


「あるいは、還ってきた、と言ったほうが正しいかもしれないな。」
 受け取ったコーヒーを美味しそうに啜りながらモリザワ教授は続けた。

「それで、見張り番をさせられてるというわけだ。ところで、お前は何でまたこんな時
間に。」


 当然と言えば当然の質問に、僕は黙ってバッグから彼女の水色のプレートを出し、教
授に手渡した。


 教授は、黙ってしばらくそのプレートを見つめていた。何事かを考えている時の癖で、
軽く口に手を当てながら。その当てた手から漏れた一言の呟きだけが僕の耳に届いた。


「そういうことだったのか。」
 やがてモリザワ教授は思考の淵から戻ってきた様に、ロマンスグレーの髪を軽くかき
あげて言った。


「実は、このプレートを送ったのは彼女ではなく、僕だ。」

 初老の教授の唐突な言葉に、僕は思わず自分の目が点になるのを感じた。

「いやあ、こんなことになっただろう、人手もうまいコーヒーも欲しいという訳でちょ
っと策を打ってみたわけだ。まさか本当に来るとは思わなかったがなぁ。」

 後ろ頭に手を回してのんきに笑うモリザワ教授。


「……そういう事だったんですか。」

 確かに、この人なら美味しいコーヒーを飲むためならその位のことはやりかねない、
と思いつつ僕が呟くと、とたんにあの悪戯っぽい輝きをその目に浮かべて切りかえした。

「ばかもん、冗談だ。本気にして露骨にがっかりした顔をするんじゃない。」


 僕は教授の手からカップをひったくって、まだ湯気をあげている黒褐色の液体を一気
に飲み干してやった。





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