螺旋の樹の物語 Rail 1 Station 3

ガラスの森


                                              

 娘は、通り道での公園で遭った時よりさらに痛々しく見えた。そのか細い腕で自らの
身をかき抱き、月の雫のようにこぼれ落ちる涙を押さえることもなく、硝子の壁を透過
するような高い、高い声で言葉を紡ぐ。


 しばらくは動けずにその光景を見つめていた僕の胸に、急に言いようのない想いが溶
け込んできた。

 深い、深い何処かから届いてくる「樹」の想い。それが、月灯りの下に息づく幹に持
たれかかる娘の歌を通して、震える様に僕へと響き渡る。

 助手として研究の対象にしていた時には全く聴こえてこなかった、その想いの響きに
僕は圧倒されそうになる。

 奏で続けられる、永い永い哀しみの響き。思わず胸が熱くなるのを感じる。


 歌の聴こえない世界で、人の作ったガラスの森の中でずっとずっとひとりで生きてき
た。そして、これからもひとりで玻璃の空へと歩いていかなくてはいけなくて。

 自分がひとりであるごとが、哀しいほどわかっているから。

 
 だから、せめて会いたくて。


 「樹」と僕の想いが共に響いたその時、突然手に持ったままの鞄から、ぱさぱさぱさ
と新たな音が加わった。

 驚いて鞄を開けた僕の目の前から、無数の色彩があふれ出た。


 月の真白い光を受けて、漆黒や翠色、黄橙の薄布がひらひらと舞い上がる。

 その色達が何であるかを認識するのに暫くの時間がかかった。そして、認識が終了し
た直後に僕の思考は停止し、ただ目前の光景を受けとめることしかできなくなった。

 調節された空気の中を泳ぐ色彩たち、それは僕がここに来る時に一緒に連れてきた、
標本に収められたはずの蝶だった。


 「樹」のあまりの想いに眠りから醒めたのか、それとも娘の歌声に過去の記憶を思い
出したのか、その標本の蝶たちが幾百の時を越えて、保存室の中を舞い上がる。

 娘がそんな彼らを見上げて、光と同じ位白くて細い手をそっと差し出す。すると、蝶
たちはそれに応えて、その薄い羽ばたきにずっとずっと昔の色彩をたたえて、娘の周囲
を優しく包みこむように泳ぎ舞う。

 まるで娘を、そして「樹」を慰めるように。


  時間より遠くから 哀しみだけ見つめてる
  記憶より遠くから 哀しみだけ見つめてる
  宇宙より遠くから 哀しみだけ見つめてる


 娘の歌声と蝶が降らせる色、そして「樹」の想いがあふれて絵の様に流れるこのガラ
スの森の中で、僕は多分また夢を見ているのだろうと、ただぼんやり考えていた。





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