遠い音楽
「師匠……?」 呼びかけながら、小さな手がそっと木戸を押す。木戸はその力に逆らわず、夜の森と 帰ってきた家を繋ぐ扉を静かに開く。 その隙間から、流れた空気にのってふんわりと暖かな香りがわずかに鼻をくすぐった。 呼びかけに応える森の娘は居なかった。家の中は、小人の娘が師匠と共に旅に出る前 と殆ど変わっておらず、さっぱりと片付いたままだった。 二人で眠ったであろう大きな木製のベッド、土でできた、火を点す炉と、緩やかな曲 線を描く背もたれの椅子達、それらは小人の娘が還るまでずっと時を封じられたかの様 に、変わらずそこに在った。 明かりが灯されたテーブルの上、そこだけが僅かに封じられた時から逃れて、僅かな 変化を刻んでいた。 テーブルの上に厚手の布で覆われた何か、小人の娘はその僅かな変化の覆いをそっと 取った。 芳しい香りが解き放たれた様にほわりと広がった。 夜の空気にさらされた、二人分の硝子のポット。香りはその細い注ぎ口から生まれて いた。 野の草を蒸らして、柔らかな薄黄色に染まった飲み物がポットに半分、残してあった。 まだ作りたてらしく、時間と外気から護る様に覆われていた布地の力もあって、時折ふわ りと白い湯気の線を空気に描く。 そしてその傍らに、一片の書き置きがあった。 鞦韆の樹の前で、待っています。 見慣れた綺麗な文字で綴られた、ひとつの言葉。 「ひとりで帰ってくること、知ってたんだ……。」 ポットからいつも使っていた自分のカップに野草の飲み物を注ぎ、ひとりでそっと飲 み込む。 娘の小さな胸の中に、飲み物の暖かさと、もうひとつの、別の何かがこみあげてくる。 |