遠い音楽
再び、夜の気配に満ちた森の中を歩いてゆく。 家に帰るまでは、ただやみくもに、無我霧中で走っていた。届いてくる師匠の歌声を 道標に、ただ師匠に会いたくて。 さらさらと、枝をかすめる夜風と月明かりが樹々の葉を、森の空気を洗ってゆく。娘 が羽織った彼女の白衣をはためかせながら。 ゆっくり歩を進める今は、不思議と娘の心は落ち着いていた。想いは先程までと同じ まま、なお強まっていたが、それは胸の中で、今は静かに燃えつづけていた。 暫く歩くうちに、前方の樹々の隙間が明るくなってきた。ずっと夜天を覆っていた枝 々もすこし疎らになり、だんだんと月がその完全な形を隙間から見せはじめる。 やがて、森の中にぽっかりと空いた、ちいさな広場に出た。 満ちた月が、枝の檻からようやく解放された様に、煌々と真白い光で広場を照らして いる。その光にさらされて、古びたベンチのようなものが幾つか端に並んでいる。 どうやら、この広場は遥かな昔の公園跡のようだった。 そして、その中央に、娘達の「樹」が根をおろしていた。 幾百年と生きたその幹は太くそびえ、その肌には呼吸をするかのような息づきを内包 していた。 左右に、広場を包み込み護ろうかとばかりにその腕を長く伸ばしている。その腕から 生まれた枝葉は優しい夜影を足元に落としている。 その大きく暖かな影を落とす植物と、どれだけ小人の娘と森の娘が大切な時を共有し たのかは知る術はない。 だけど、それは保存室に生きる樹と同じくらい、かけがえのないものだろうと思う。 その腕に、子供の遊び道具めいたものが吊るされていた。 二本の錆びた鉄のチェーンは、時折群れ集う外の茂みから流れる空気に、重い音を奏 でている。その二本の平行に降りるチェーンを繋ぐ、一枚の木製の板。 その板の上に腰掛けるように、金属製のオルゴオルが、静かに揺れて置いてあった。 その揺れをくずさぬよう、小人の娘は、そっと金属の小箱を手にとった。 あの雨上がりの市場で、森の娘に買ってもらったちいさな「機械」を。 |