One/カナリヤ
あれから、まだ月を見ていない。 僕は朝靄ともスモッグともつかない低層の空を身見上げながら、明け方の帰り道をゆ っくり駅へと下って行く。 あの晩、銀の鏡の様に真白く輝いていた月の扉は、今はいつも通りに幾層の幕に覆わ れて全く仰ぐことすらできない。 でも、僕はその月の存在を感じながら、調査で徹夜明けのせいで奇妙に静かに高揚し た気分も手伝って、そっと歌を口ずさむ。 夜明けのバスの窓辺 もたれて瞼閉じてる 流れる匂いだけで景色がわかる あの人のあの場所から初めて一人の旅 優しさに埋もれたら明日が見えなくなる 彼女が「樹」に帰った後、僕はもう一度モリザワ教授の研究室に戻って研究をしてい る。自分の専門である古代生物学だけでなく、彼女の残した古代植物学の研究も引き継 いで。 調べてみると、植物学も中々面白い。例えば草花の種の残し方。綺麗な色彩と蜜で虫 達を惹きつけて、運んでもらったり、細い合成繊維の様な翼で、風に乗って運ばれたり。 スピード上げて走る 消えてく月の真下を 遠くに見える夢を追いかけてゆく 本当は悲しいほど誰でも知ってるけど 研究室にコーヒーを飲みに戻った時、まだ残っていたモリザワ教授に、僕はその旨を 告げて頼み込んだ。 「ばかもん。」 そのありがたい許可の言葉を頂いて、晴れて今僕は研究室付のコーヒーメーカーのお 役目を頂戴している。 人は一人きりで 生まれて来る事を 人は一人きりで 帰ってゆく事を だから淋しくなる だから逢いたくなる とても愛しくなる とても大事になる |