桜 / page15


 あの時のように、娘に導かれて、少年は社までやって来た。  幾つかの列車を乗り継ぐ間も、由布子は墨染桜について語ろうとはしなかった。  だから、特に自分から切り出すこともなく、永い石段まで辿り着いてしまった。  月影をうけて寒々しい白に映った石段も、今はうららかな木漏れ日を受けて温んでいる。  春風に護りの常緑樹がさざめく音を聴きながら、ひとつ、ひとつ、石段を上る。  ふと、その護りの樹々のさざめきに、朗々とした歌声が、重なった。  さら、さらと、花びらの音符を散らして歌う、まぎれもない桜のうた。 「……だから、ごめんなさいって、言ったの。」  驚いて振り向いた少年の瞳に、娘は少ししゅんと俯きつつ、それでも微かに微笑みな がら応えた。  ちょっと待て、と桜護の少年は、小走りで残りの石段を上る。  ようやく頂きに到達し、紅い鳥居をくぐりぬけた少年を、濃い春の空気が、包んだ。  幽雅にその空気へと溶け込んでゆく、桜のうたと一緒に。 「……だましたな、この妖怪桜が。」  軽く息を切らして、膝を押さえて見上げる少年の視界を、一面の桜色に染めて。  力尽きたはずの、由布子の墨染桜が、その枝という枝に花を燈してうたっていた。  あの初冬に燈した、最期の幻の桜など、全てなかったかのように。 「もしかしたら、うちの桜達も共犯だったのかもしれないな。後でとっちめてやる。」  好々爺が笑うかのように、花びらを振り散らせる桜の樹を見やって、ふてくされたよ うに少年が呟く。 「かもね。」  そんな少年の様子に微笑みながら、由布子が返す。 「あんたも早く気付けよ。よく考えれば、桜が伝えて来た音楽なんだから、桜護の音に 決まってるだろ。」   「私、桜護はみんなヴァイオリンを使うんだと思ってたんだもの。」  ふてくされたままの少年に、さらに悪戯っぽい微笑みを浮かべて、こう付け加える。 「ましてや、おもちゃのピアノで桜をうたわせる桜護がいるなんて。」 「しょうがないだろ、ピアノは姉上が嫁いだ時に持っていっちゃったし、キーボードも 試したけど、トイ・ピアノじゃないと桜達が不機嫌になるんだから。」 「……でも、私もあなたの桜達に、同意するわ。」  そうなだめて、少年を鎮めるように、由布子はそっとその手を握った。  繋がった手のひらから伝わる体温に、自らが抱いていた想いの行く先を、確かめて。  さら、さら、さら。  そんなふたりの桜護を花びらの紗幕で包みながら、墨染の桜は幽雅にうたい続ける。  ささやかな日々を暮らす人々が抱く、届かなかったまま降り積もる想いのかけら。  儚く散る、花びらの音符のひとひら、ひとひらに、その想いを込めて、散らせて。  春という新しい季節に向けて、いつの日か届くようにと、祈りをこめて。                                    Fin.

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