あの時のように、娘に導かれて、少年は社までやって来た。
幾つかの列車を乗り継ぐ間も、由布子は墨染桜について語ろうとはしなかった。
だから、特に自分から切り出すこともなく、永い石段まで辿り着いてしまった。
月影をうけて寒々しい白に映った石段も、今はうららかな木漏れ日を受けて温んでいる。
春風に護りの常緑樹がさざめく音を聴きながら、ひとつ、ひとつ、石段を上る。
ふと、その護りの樹々のさざめきに、朗々とした歌声が、重なった。
さら、さらと、花びらの音符を散らして歌う、まぎれもない桜のうた。
「……だから、ごめんなさいって、言ったの。」
驚いて振り向いた少年の瞳に、娘は少ししゅんと俯きつつ、それでも微かに微笑みな
がら応えた。
ちょっと待て、と桜護の少年は、小走りで残りの石段を上る。
ようやく頂きに到達し、紅い鳥居をくぐりぬけた少年を、濃い春の空気が、包んだ。
幽雅にその空気へと溶け込んでゆく、桜のうたと一緒に。
「……だましたな、この妖怪桜が。」
軽く息を切らして、膝を押さえて見上げる少年の視界を、一面の桜色に染めて。
力尽きたはずの、由布子の墨染桜が、その枝という枝に花を燈してうたっていた。
あの初冬に燈した、最期の幻の桜など、全てなかったかのように。
「もしかしたら、うちの桜達も共犯だったのかもしれないな。後でとっちめてやる。」
好々爺が笑うかのように、花びらを振り散らせる桜の樹を見やって、ふてくされたよ
うに少年が呟く。
「かもね。」
そんな少年の様子に微笑みながら、由布子が返す。
「あんたも早く気付けよ。よく考えれば、桜が伝えて来た音楽なんだから、桜護の音に
決まってるだろ。」
「私、桜護はみんなヴァイオリンを使うんだと思ってたんだもの。」
ふてくされたままの少年に、さらに悪戯っぽい微笑みを浮かべて、こう付け加える。
「ましてや、おもちゃのピアノで桜をうたわせる桜護がいるなんて。」
「しょうがないだろ、ピアノは姉上が嫁いだ時に持っていっちゃったし、キーボードも
試したけど、トイ・ピアノじゃないと桜達が不機嫌になるんだから。」
「……でも、私もあなたの桜達に、同意するわ。」
そうなだめて、少年を鎮めるように、由布子はそっとその手を握った。
繋がった手のひらから伝わる体温に、自らが抱いていた想いの行く先を、確かめて。
さら、さら、さら。
そんなふたりの桜護を花びらの紗幕で包みながら、墨染の桜は幽雅にうたい続ける。
ささやかな日々を暮らす人々が抱く、届かなかったまま降り積もる想いのかけら。
儚く散る、花びらの音符のひとひら、ひとひらに、その想いを込めて、散らせて。
春という新しい季節に向けて、いつの日か届くようにと、祈りをこめて。
Fin.
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